記事一覧

「死にたい」と思い悩んでいる方へ

★「死にたい」「もう自分は死ぬしかない」「自分は死んだほうがいいんだ」と思い悩んでいる方、
誰にも相談できず、ひとりで悩んでいる方へ★

あなたは決してひとりではありません。
あなたの周りにはあなたの助けになる人がきっといます。
ためらわないで助けを求めてください。
まずは電話かメールでご連絡ください。

今から数年前にホームレスのおじさんたちが先生役になって、小学生に教えるというセミナーを開きました。(中略)最後の授業は、元野宿のおじさんが「子どもたちに語る」というコーナーでした。(中略)子どもたちに、そのおじさんはこう語りかけました。「おじさんはさぁ、自分で頑張るしかないって60年生きてきたけど、この世の中には助けてくれる人がいたんだ。『助けて』と言えた日が助かった日だったよ」と言ったのです。そうしたら、聞いていた子どもたちの何人かが涙を流しているのです。私は司会だったので、「きみたちも学校でつらいことがある。家でつらいことがある、そんなときは『助けて!』と叫んだらいいんだ。たしかに世の中には、『助けて』と言ったら、『何を甘えているんだ』と言う人もいるよ。でも、『うちにおいで』と言ってくれる人が必ずいるから、『助けて!』って言いなさい」と言ったら、涙をバーっと流している子どもたちが何人もいました。…奥田知志他著『灯を輝かし、闇を照らす』より

礼拝堂での礼拝・教会学校を再開

★6月21日(日)から、礼拝堂での礼拝と教会学校を再開しています。

礼拝は午前10時15分から、教会学校は午前11時からです。

これまでどおりライブ配信もしますので、在宅オンライン礼拝も可能です。
https://zoom.us/j/をクリックしてください。
ミーティングIDとパスコードの入力が必要ですので、メール等でご連絡くださればお教えいたします。

マルコによる福音書7:24~30「食卓の下の子犬でも」

2020年10月18日、マルコによる福音書7:24~30「食卓の下の子犬でも」
①すぐ聞きつけてきて(25節)
「けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏し」ました。何としても癒していただきたいという真剣・切実な信仰がありました。長血の女性もそうでした(5:25~34)。「きょう」という日(ヘブル4:7)、「今」という時(Ⅱコリント6:2)は、神が与えてくださった絶好の機会、見逃してはなりません。
②ひれ伏し…願い続けた(26~29節)
彼女はイエスに相手にされなくても執拗に願い続けたため、弟子たちが「この女を追い払ってください」と困り果てるほどでした(マタイ15:22~23)。イエスが「まず子供たち(ユダヤ人)に十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬(異邦人)に投げてやるのは、よろしくない」と言われても、イエスの柔和な様子や「小犬」という表現から、拒絶の言葉とは捉えず、「でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」と迫ると、「あなたの願いどおりになるように」(マタイ15:28)とイエスは言われました。パリサイ人や律法学者との論争では負け知らずのイエスが、ここでは何か喜んで負けておられるように見えます。いくら祈っても答えがないのは、神が私たちの「信仰を見て」(2:5)、試しておられるのかもしれません(マタイ7:7)。
③家に帰ってみると(30節)
彼女は「お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」とのイエスの言葉を信じて、「家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまってい」ました。御言葉は必ず実現するのです(ヘブル11:1)。

マルコによる福音書7:24~30「食卓の下の子犬でも」

2020年10月18日、マルコによる福音書7:24~30「食卓の下の子犬でも」
①すぐ聞きつけてきて(25節)
「けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏し」ました。何としても癒していただきたいという真剣・切実な信仰がありました。長血の女性もそうでした(5:25~34)。「きょう」という日(ヘブル4:7)、「今」という時(Ⅱコリント6:2)は、神が与えてくださった絶好の機会、見逃してはなりません。
②ひれ伏し…願い続けた(26~29節)
彼女はイエスに相手にされなくても執拗に願い続けたため、弟子たちが「この女を追い払ってください」と困り果てるほどでした(マタイ15:22~23)。イエスが「まず子供たち(ユダヤ人)に十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬(異邦人)に投げてやるのは、よろしくない」と言われても、イエスの柔和な様子や「小犬」という表現から、拒絶の言葉とは捉えず、「でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」と迫ると、「あなたの願いどおりになるように」(マタイ15:28)とイエスは言われました。パリサイ人や律法学者との論争では負け知らずのイエスが、ここでは何か喜んで負けておられるように見えます。いくら祈っても答えがないのは、神が私たちの「信仰を見て」(2:5)、試しておられるのかもしれません(マタイ7:7)。
③家に帰ってみると(30節)
彼女は「お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」とのイエスの言葉を信じて、「家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまってい」ました。御言葉は必ず実現するのです(ヘブル11:1)。

詩篇19:1~14「大空と御言葉と良心」

2020年10月11日、詩篇19:1~14「大空と御言葉と良心」
①自然による啓示(1~6節)
「もろもろの天…大空」も、「この日」をもたらす太陽も、「この夜」を照らす月・星も、ある日偶然にできたのではなく、永遠のはじめから永遠の終わりまでおられる唯一絶対の神が創造されました(創世記1:1)。これら被造物は「話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに」、その存在自体が「神の栄光をあらわし…み手のわざをしめ」しています。それゆえ魂を研ぎ澄まして素直な心で自然界を見るならば、天地万物は神によって創造されたことがわかるのです(ローマ1:20)。
②言葉による啓示(7~11節)
自然による啓示だけでは不十分なので、神は御言葉によってご自身を啓示されました。御言葉は、創造主なる神がいかなるお方であるかを明らかにし、私たちの「魂を生きかえらせ」ます。人間の有限な知恵や力など所詮知れていますが、御言葉は「無学な者を賢く」し、人生の荒波を力強く乗り越えさせます。私たちの心に喜びと希望を与え、「心を喜ばせ…眼を明らかに(新改訳「人の目を明るくする」)」します。
③良心への啓示(12~14節)
このように「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった」(使徒行伝17:27)神は、私たちの良心を照らして罪を示すだけでなく、十字架と復活による救いを示し、「わが岩、わがあがないぬしなる主よ」という信仰告白へと導きます。さらに、「どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように」と、常に主に喜ばれる者でありたいという願いを起こさせます。

詩篇19:1~14「大空と御言葉と良心」

2020年10月11日、詩篇19:1~14「大空と御言葉と良心」
①自然による啓示(1~6節)
「もろもろの天…大空」も、「この日」をもたらす太陽も、「この夜」を照らす月・星も、ある日偶然にできたのではなく、永遠のはじめから永遠の終わりまでおられる唯一絶対の神が創造されました(創世記1:1)。これら被造物は「話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに」、その存在自体が「神の栄光をあらわし…み手のわざをしめ」しています。それゆえ魂を研ぎ澄まして素直な心で自然界を見るならば、天地万物は神によって創造されたことがわかるのです(ローマ1:20)。
②言葉による啓示(7~11節)
自然による啓示だけでは不十分なので、神は御言葉によってご自身を啓示されました。御言葉は、創造主なる神がいかなるお方であるかを明らかにし、私たちの「魂を生きかえらせ」ます。人間の有限な知恵や力など所詮知れていますが、御言葉は「無学な者を賢く」し、人生の荒波を力強く乗り越えさせます。私たちの心に喜びと希望を与え、「心を喜ばせ…眼を明らかに(新改訳「人の目を明るくする」)」します。
③良心への啓示(12~14節)
このように「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった」(使徒行伝17:27)神は、私たちの良心を照らして罪を示すだけでなく、十字架と復活による救いを示し、「わが岩、わがあがないぬしなる主よ」という信仰告白へと導きます。さらに、「どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように」と、常に主に喜ばれる者でありたいという願いを起こさせます。

マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス②」

2020年10月4日、マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス②」
「人の心の中」に「悪い思い」があるので、「欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴(いずれも単数形で、悪い態度を表す)」が出てきます。真っ赤な「欺き」はなくても、自分をよく見せるため、保身や弁解のためのピンク色の「欺き」がないでしょうか(マタイ12:36)。「好色」、性的放縦はないでしょうか。「妬み(直訳「邪悪な目」)」と「高慢」は正反対のように見えますが、実はその根っこは同じです。多くの場合、高慢は劣等感の裏返しです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43:4)、神は私たち一人ひとりをかけがえのない最高傑作として愛し、喜んでおられます。この神によって劣等感を埋めていただくことこそ、最高最善の対処法です。しかしそのためには、まず自分の惨めな姿を正直に認めることです。「あなたの名はなんと言いますか」と主から問いかけられたヤコブは、「ヤコブ(押し退けるもの、の意)です。名前のとおり神と人を押し退け、自我を突っ張って生きてきた者です」と正直に認めたところ、豊かな祝福が注がれました(創世記 第32章)。「誹り」とは、単なる悪口や中傷ではなく、聖なる神を冒瀆する罪のことです。「愚痴(新改訳2017「愚かさ」)」とは、罪を冗談半分に取り扱うこと、軽視することです。そのような生き方をしていると、「腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない」(詩篇14:1)ということになります。
正面切って聞かれたら、困り果て、途方に暮れるしかないことが、私たちにはたくさんあるはずです。心の中にある良い思いも「悪い思い」もすべてご存じの上で私たちを愛していてくださる神は、御子イエスによって「悪い思い」から救われる道を開いてくださったのです。

マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス②」

2020年10月4日、マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス②」
「人の心の中」に「悪い思い」があるので、「欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴(いずれも単数形で、悪い態度を表す)」が出てきます。真っ赤な「欺き」はなくても、自分をよく見せるため、保身や弁解のためのピンク色の「欺き」がないでしょうか(マタイ12:36)。「好色」、性的放縦はないでしょうか。「妬み(直訳「邪悪な目」)」と「高慢」は正反対のように見えますが、実はその根っこは同じです。多くの場合、高慢は劣等感の裏返しです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43:4)、神は私たち一人ひとりをかけがえのない最高傑作として愛し、喜んでおられます。この神によって劣等感を埋めていただくことこそ、最高最善の対処法です。しかしそのためには、まず自分の惨めな姿を正直に認めることです。「あなたの名はなんと言いますか」と主から問いかけられたヤコブは、「ヤコブ(押し退けるもの、の意)です。名前のとおり神と人を押し退け、自我を突っ張って生きてきた者です」と正直に認めたところ、豊かな祝福が注がれました(創世記 第32章)。「誹り」とは、単なる悪口や中傷ではなく、聖なる神を冒瀆する罪のことです。「愚痴(新改訳2017「愚かさ」)」とは、罪を冗談半分に取り扱うこと、軽視することです。そのような生き方をしていると、「腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない」(詩篇14:1)ということになります。
正面切って聞かれたら、困り果て、途方に暮れるしかないことが、私たちにはたくさんあるはずです。心の中にある良い思いも「悪い思い」もすべてご存じの上で私たちを愛していてくださる神は、御子イエスによって「悪い思い」から救われる道を開いてくださったのです。

マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス①」

2020年9月27日、マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス①」
「人の心の中」に「悪い思い」があるので、「不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪(いずれも複数形で、悪い行為を表す)」が出てきます。「姦淫」は結婚関係がある中での性的不道徳、「不品行」は結婚関係の有無に関係なくすべての性的不道徳のことです。律法学者たちは、「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)との律法を、実際の姦淫行為のみの問題に限定しましたが、イエスは「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」と言われました(マタイ5:27~32)。万引や不正乗車だけが「盗み」ではありません。悪意に満ちた噂話や陰口等で他人の評判を落とすなら、人の信用を盗む罪であり、地位や権力を利用して他人を支配するなら、人の自由・権利を盗む罪です。律法学者たちは、「殺す者は裁判を受けねばならない」という規定を付加することで、「殺してはならない」(出エジプト記20:13)との律法を、実際の殺人行為のみの問題に限定しましたが、イエスは「兄弟に対して怒る…兄弟にむかって愚か者と言う…ばか者と言う」のも殺人と本質的に同じだ、と言われました(マタイ5:21~26)。神以外の何かで心の渇きを満たそうとするから、「もっと、もっと」という「貪欲」に陥るのです。「邪悪」とは、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)とは正反対の意地悪な心のことです。
「悪い思い」があるのを認めない限り、「口さきではわたし(神)を敬うが、その心はわたし(神)から遠く離れ」たままです。しかしサマリヤの女性(ヨハネ4:1~42)やザアカイ(ルカ19:1~10)他は、「悪い思い」があることを正直に認めてイエスを信じたので、その人生が一変しました。

マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス①」

2020年9月27日、マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス①」
「人の心の中」に「悪い思い」があるので、「不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪(いずれも複数形で、悪い行為を表す)」が出てきます。「姦淫」は結婚関係がある中での性的不道徳、「不品行」は結婚関係の有無に関係なくすべての性的不道徳のことです。律法学者たちは、「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)との律法を、実際の姦淫行為のみの問題に限定しましたが、イエスは「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」と言われました(マタイ5:27~32)。万引や不正乗車だけが「盗み」ではありません。悪意に満ちた噂話や陰口等で他人の評判を落とすなら、人の信用を盗む罪であり、地位や権力を利用して他人を支配するなら、人の自由・権利を盗む罪です。律法学者たちは、「殺す者は裁判を受けねばならない」という規定を付加することで、「殺してはならない」(出エジプト記20:13)との律法を、実際の殺人行為のみの問題に限定しましたが、イエスは「兄弟に対して怒る…兄弟にむかって愚か者と言う…ばか者と言う」のも殺人と本質的に同じだ、と言われました(マタイ5:21~26)。神以外の何かで心の渇きを満たそうとするから、「もっと、もっと」という「貪欲」に陥るのです。「邪悪」とは、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)とは正反対の意地悪な心のことです。
「悪い思い」があるのを認めない限り、「口さきではわたし(神)を敬うが、その心はわたし(神)から遠く離れ」たままです。しかしサマリヤの女性(ヨハネ4:1~42)やザアカイ(ルカ19:1~10)他は、「悪い思い」があることを正直に認めてイエスを信じたので、その人生が一変しました。

ページ移動