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「学校行きたくない」「死にたい」と思い悩んでいる方へ

★「学校行きたくない」「死にたい」「もう自分は死ぬしかない」「自分は死んだほうがいいんだ」と思い悩んでいる方、
誰にも相談できず、ひとりで悩んでいる方へ★

あなたは決してひとりではありません。
あなたの周りにはあなたの助けになる人がきっといます。
ためらわないで助けを求めてください。
まずは電話かメールでご連絡ください。

今から数年前にホームレスのおじさんたちが先生役になって、小学生に教えるというセミナーを開きました。(中略)最後の授業は、元野宿のおじさんが「子どもたちに語る」というコーナーでした。(中略)子どもたちに、そのおじさんはこう語りかけました。「おじさんはさぁ、自分で頑張るしかないって60年生きてきたけど、この世の中には助けてくれる人がいたんだ。『助けて』と言えた日が助かった日だったよ」と言ったのです。そうしたら、聞いていた子どもたちの何人かが涙を流しているのです。私は司会だったので、「きみたちも学校でつらいことがある。家でつらいことがある、そんなときは『助けて!』と叫んだらいいんだ。たしかに世の中には、『助けて』と言ったら、『何を甘えているんだ』と言う人もいるよ。でも、『うちにおいで』と言ってくれる人が必ずいるから、『助けて!』って言いなさい」と言ったら、涙をバーっと流している子どもたちが何人もいました。…奥田知志他著『灯を輝かし、闇を照らす』より


マタイの福音書6:9~13「日ごとの糧を今日もお与えください」

2021年10月17日、マタイの福音書6:9~13「日ごとの糧を今日もお与えください」
①神に信頼して生きる祈り
「日ごとの糧」とは、「肉体の栄養や、生活になくてはならないすべてのものです。たとえば、食物と飲み物、着物と履物、家と屋敷、畑と家畜、金と財産…平和、健康、教育、名誉、またよい友だち、信頼できる隣人などです」(ルター)。切実に祈らなくても有り余る糧に事欠かない日本では、すべて当たり前、自分の努力の結果であるかのように錯覚しがちです。しかし私たちは神の御手の中で生かされている者で、すべての良きものの源泉である神なしには一切は「むなしい」ことを覚え、祈りに答えて必要を満たしてくださる神に感謝し、より一層信頼するために不可欠な祈りです(詩篇127:1~2、マタイ6:31~33)。
②人を愛して生きる祈り
「私たちの日ごとの糧」他、「主の祈り」は常に複数形であることに意義があります。近頃、苦しむ人を見て「他人事とは思えない心」が乏しくなった、と言われます。神がこよなく愛しておられる隣人が苦しんでいても他人事と思い、見て見ぬふりをする自己中心。これでは「聖書読みの聖書知らず」です。飢餓で苦しむ隣人に日ごとの糧が与えられるように祈るだけでなく、富を分かち合って隣人愛に生きる決意をするために不可欠な祈りです。「少なくとも一日一回、いや多ければ多いほどよいが、私たちの時間、健康、存在自体が神の御手の中にあることを思い起こすことは有益である。私たちの食物を始め、その他必要なものすべては神からくる。私たちは神の恵みとあわれみに依存して、それらのものを得るのである」(ロイドジョンズ師)。

マタイの福音書6:9~13「日ごとの糧を今日もお与えください」

2021年10月17日、マタイの福音書6:9~13「日ごとの糧を今日もお与えください」
①神に信頼して生きる祈り
「日ごとの糧」とは、「肉体の栄養や、生活になくてはならないすべてのものです。たとえば、食物と飲み物、着物と履物、家と屋敷、畑と家畜、金と財産…平和、健康、教育、名誉、またよい友だち、信頼できる隣人などです」(ルター)。切実に祈らなくても有り余る糧に事欠かない日本では、すべて当たり前、自分の努力の結果であるかのように錯覚しがちです。しかし私たちは神の御手の中で生かされている者で、すべての良きものの源泉である神なしには一切は「むなしい」ことを覚え、祈りに答えて必要を満たしてくださる神に感謝し、より一層信頼するために不可欠な祈りです(詩篇127:1~2、マタイ6:31~33)。
②人を愛して生きる祈り
「私たちの日ごとの糧」他、「主の祈り」は常に複数形であることに意義があります。近頃、苦しむ人を見て「他人事とは思えない心」が乏しくなった、と言われます。神がこよなく愛しておられる隣人が苦しんでいても他人事と思い、見て見ぬふりをする自己中心。これでは「聖書読みの聖書知らず」です。飢餓で苦しむ隣人に日ごとの糧が与えられるように祈るだけでなく、富を分かち合って隣人愛に生きる決意をするために不可欠な祈りです。「少なくとも一日一回、いや多ければ多いほどよいが、私たちの時間、健康、存在自体が神の御手の中にあることを思い起こすことは有益である。私たちの食物を始め、その他必要なものすべては神からくる。私たちは神の恵みとあわれみに依存して、それらのものを得るのである」(ロイドジョンズ師)。

マルコの福音書9:2~8「御姿が変わったイエスは何者か」

2021年10月10日、マルコの福音書9:2~8「御姿が変わったイエスは何者か」
受難予告に動揺する弟子たちの目が開かれるよう「イエスは…祈るために山に登られ」(ルカ9:28)、「彼らの目の前でその御姿が変わ」りました。「世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光」(ヨハネ17:5)が一時的に回復されたもので、イエスは子なる神であることを示す変貌ですが、実は受肉降誕こそが最大最高の変貌です(ピリピ2:6~7)。
そこに「エリヤ(預言者の代表)がモーセ(律法の代表)とともに…現れ、イエスと語り合っていた」のは、イエスは旧約の律法と預言を成就するために来られた約束の救い主であることを示しています(マタイ5:17)。
三人が語り合っていたのは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(直訳「成就しようとしている出発」)について」(ルカ9:31)でした。イエスは、過越の小羊の血によってイスラエルがエジプトの奴隷から解放されたように、十字架の血によって全人類を罪の奴隷から救うために来臨された受難の救い主であることを示しています。
「彼らの目の前でその御姿が変わった」主が特に臨在されるところが主日礼拝です。礼拝での御言葉や賛美を通して、主はご自身を鮮やかに現されます。何かあるとすぐに思い煩ったり、変に白けたり諦めたりするのは、結局この栄光の主を見る目が曇っているからではないでしょうか。主は、全世界・全宇宙の王として今も天地万物を統べ治め、歴史を支配しておられます。そんな超越した主が、信じる私たちといつも共にいて味方となり、折にかなった助けを与えてくださり、やがて再臨して私たちの救いを完成してくださいます。この栄光の主をはっきり認める信仰の目を開いていただきましょう。

マルコの福音書9:2~8「御姿が変わったイエスは何者か」

2021年10月10日、マルコの福音書9:2~8「御姿が変わったイエスは何者か」
受難予告に動揺する弟子たちの目が開かれるよう「イエスは…祈るために山に登られ」(ルカ9:28)、「彼らの目の前でその御姿が変わ」りました。「世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光」(ヨハネ17:5)が一時的に回復されたもので、イエスは子なる神であることを示す変貌ですが、実は受肉降誕こそが最大最高の変貌です(ピリピ2:6~7)。
そこに「エリヤ(預言者の代表)がモーセ(律法の代表)とともに…現れ、イエスと語り合っていた」のは、イエスは旧約の律法と預言を成就するために来られた約束の救い主であることを示しています(マタイ5:17)。
三人が語り合っていたのは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(直訳「成就しようとしている出発」)について」(ルカ9:31)でした。イエスは、過越の小羊の血によってイスラエルがエジプトの奴隷から解放されたように、十字架の血によって全人類を罪の奴隷から救うために来臨された受難の救い主であることを示しています。
「彼らの目の前でその御姿が変わった」主が特に臨在されるところが主日礼拝です。礼拝での御言葉や賛美を通して、主はご自身を鮮やかに現されます。何かあるとすぐに思い煩ったり、変に白けたり諦めたりするのは、結局この栄光の主を見る目が曇っているからではないでしょうか。主は、全世界・全宇宙の王として今も天地万物を統べ治め、歴史を支配しておられます。そんな超越した主が、信じる私たちといつも共にいて味方となり、折にかなった助けを与えてくださり、やがて再臨して私たちの救いを完成してくださいます。この栄光の主をはっきり認める信仰の目を開いていただきましょう。

ペテロの手紙第一5:6~7「思い煩いをいっさい神に委ねよ」

2021年10月3日、ペテロの手紙第一5:6~7「思い煩いをいっさい神に委ねよ」
真の「謙遜」は、神の前に自分自身がどういう存在であるかを正しく認識するところからしか生まれてきません。「みな互いに謙遜を身に着け」るのは、「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」からで、「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい」と命じます。神の前に真にへりくだるならば、「ちょうど良い時に…高く上げてくださいます」。神の計算に狂いはありません。すべてが「ちょうど良い時」なのです(伝道者の書3:11)。
「思い煩い」とは、神に信頼する心と信頼しきれない心という二つの間に心が引き裂かれて揺れ動いている状態のことです。その「思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい(投げかける、の意。ルカ19:35「上着を掛けて」と同語)」とは、上着を投げかけるように、思い煩いを「いっさい」合切、神に投げかけることです。「神があなたがたのことを心配してくださるからです」と聖書が明言しているのに、神にゆだねきることができずに、堂々巡りを繰り返していませんか。神にゆだねることを躊躇してはなりません。全能の神、愛なる神は、私たちが投げかける心配事を喜んで受け止め、顧みてくださるお方、全責任をもって最後まで面倒見てくださるお方なのですから。「すべての被造物の中で、人間だけが先の出来事を予想することができる。この能力は恵みではあるが、使い方をあやまるたびに災いとなる。もしもその無類の心を明日のことを心配するために使うと、あなたは自分自身を暗い不信仰の衣で覆うことになる。先々のことを心配して心を乱されないように。それはわたしに預けてしまいなさい」(サラ・ヤング師)。

ルカの福音書16:1~13「永遠の住まいのために賢く行動せよ」

2021年9月26日、ルカの福音書16:1~13「永遠の住まいのために賢く行動せよ」
「管理人が主人の財産を無駄遣いしている」と知らされた主人は、彼を首にすることにしました。そこで管理人は、「債務者たちを一人ひとり呼んで」証文を書き替えさせ、負債を減らしてやりました。恩を売っておき、免職後、彼らの世話になろうとしたのです。「主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた」とありますが、不正を推奨しているのではありません。管理人が絶体絶命の危機に陥ったとき、何とか危機を乗り越えようとした、死に物狂いの真剣さを「ほめた」のです。それに比べて「光の子ら」は、神の国に関してあまりにも無頓着・無造作ではないか。「永遠の住まいに迎え」入れられるために、これほど真剣な態度を取っているか。「この世の子ら」の抜け目のなさ、真剣さに倣うべきではないか、と注意を促しておられるのです。
進学や就職・転職、結婚等に関しては、損をしないように一生懸命調べた上で慎重に決断します。わずか数十年の地上生涯のために時間や金や知恵や人脈を駆使するのなら、「永遠の住まい」のためには、もっと一途になって全精力を注ぎ出すはずではないでしょうか。それなのに、いざ神のこと、永遠のこととなると、あまりにも無頓着・無造作なのではありませんか。神に会う備えもしないまま、まだまだ死なないと変に確信して、漫然と時間を浪費してはいませんか。いずれ私たちも人生の決算「報告を出しなさい」と神に言われます。今の決算報告書のままで後悔や恐れなく神に提出できるでしょうか。今後どう生きていくべきでしょうか。罪の記録を塗り消してくださるのは、イエスの十字架の血潮だけです(コロサイ2:13~14、Ⅰヨハネ1:7)。

申命記34:1~8「自分の使命を全うしたモーセ」

2021年9月19日、申命記34:1~8「自分の使命を全うしたモーセ」
モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルは、不従順のために荒野を40年間も放浪した末、遂に約束の地の手前まで到達しました。主はピスガの頂からモーセに約束の地を見せられた上で、「あなたがそこへ渡って行くことはできない」と改めて言われました。荒野放浪中に飲み水がないことで民がつぶやくと、「岩に命じれば、水を出す」と主が言われたのに、「モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打っ」て水を出したため、モーセは約束の地に入れないことを宣告されていました(民数記20:2~13)。考え直してくださるようモーセが主に懇願すると、主は「もう十分だ。このことについて二度とわたしに語ってはならない」と言われていました(申命記3:23~28)。これは、「もう二度と聞きたくない」というよりも、「お前は強情な民を導くことでこれまで十分苦労してきたのだから、もうゆっくり休むがよい」という意味ではないでしょうか。モーセが約束の地に入れなかったのは、さばきによるよりも、むしろ主の愛の配慮によるものでしょう。
地上での使命が終わったので、「主のしもべモーセは主の命により(直訳「主の口により」)モアブの地で死んだ」。モーセの場合、それが約束の地の手前であったということです。ラビは「主の口づけにより」と訳しました。地上最期の瞬間、主が身をかがめて口づけし、ご自身のもとに迎え入れてくださる、というイメージでしょうか。私たちも、自分に与えられた時まで、自分に与えられた使命に精一杯励みたいものです。使命を終えると、「よくやった」と主ご自身に口づけされ、天国に迎え入れていただける、何にもまさる報いと慰めです。

マルコの福音書9:1「神の国の力ある到来」

2021年9月12日、マルコの福音書9:1「神の国の力ある到来」
①神の国の到来
「神の国」とは、神の恵みによる支配、ということです。エゴとエゴとがぶつかり合う世界、家庭や職場、学校は悲惨です。イエスは、そんな地上に神の国を実現するために来られました。イエスが「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:20~21)と言われたように、神の国はイエス来臨によってすでに地上に到来しているのです。
②神の国の力ある到来
「神の国が力をもって到来しているのを見る」とは、すでに到来している神の国が、これまで以上に力強く現れるということで、十字架を指しているのでしょう。暗黒の支配者サタンは、御子イエスを抹殺しさえすれば自分の思い通りになると考え、サタンの国の総力をあげて神の国に戦いを挑んできたのが、あの十字架です。「彼(キリスト)はおまえ(サタン)の頭を打ち、おまえ(サタン)は彼(キリスト)のかかとを打つ」(創世記3:15)とあるように、キリストの死によってサタンが勝利したかに見えましたが、キリストは三日目に復活してサタンの「頭を打ち」、救いを完成されました。以前は神に背いて歩む「悪魔の子ども」(Ⅰヨハネ3:103)、「御怒りを受けるべき子ら」(エペソ2:3)でしたが、十字架を信じて救われた私たちの心の「ただ中に」も神の国が実現しています。そして完全な神の国が再臨後に実現します(黙示録21:1~4)。そのときまで「自分を捨て、自分の十字架を負って」イエスに従い続けましょう。「生涯が終わり、天国で兄弟姉妹たちと一緒に記念撮影をするとしたら、あなたはどんな姿で写りたいですか?」(チェイ師)。

マルコの福音書9:1「神の国の力ある到来」

2021年9月12日、マルコの福音書9:1「神の国の力ある到来」
①神の国の到来
「神の国」とは、神の恵みによる支配、ということです。エゴとエゴとがぶつかり合う世界、家庭や職場、学校は悲惨です。イエスは、そんな地上に神の国を実現するために来られました。イエスが「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:20~21)と言われたように、神の国はイエス来臨によってすでに地上に到来しているのです。
②神の国の力ある到来
「神の国が力をもって到来しているのを見る」とは、すでに到来している神の国が、これまで以上に力強く現れるということで、十字架を指しているのでしょう。暗黒の支配者サタンは、御子イエスを抹殺しさえすれば自分の思い通りになると考え、サタンの国の総力をあげて神の国に戦いを挑んできたのが、あの十字架です。「彼(キリスト)はおまえ(サタン)の頭を打ち、おまえ(サタン)は彼(キリスト)のかかとを打つ」(創世記3:15)とあるように、キリストの死によってサタンが勝利したかに見えましたが、キリストは三日目に復活してサタンの「頭を打ち」、救いを完成されました。以前は神に背いて歩む「悪魔の子ども」(Ⅰヨハネ3:103)、「御怒りを受けるべき子ら」(エペソ2:3)でしたが、十字架を信じて救われた私たちの心の「ただ中に」も神の国が実現しています。そして完全な神の国が再臨後に実現します(黙示録21:1~4)。そのときまで「自分を捨て、自分の十字架を負って」イエスに従い続けましょう。「生涯が終わり、天国で兄弟姉妹たちと一緒に記念撮影をするとしたら、あなたはどんな姿で写りたいですか?」(チェイ師)。

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