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「死にたい」と思い悩んでいる方へ

★「死にたい」「もう自分は死ぬしかない」「自分は死んだほうがいいんだ」と思い悩んでいる方、
誰にも相談できず、ひとりで悩んでいる方へ★

あなたは決してひとりではありません。
あなたの周りにはあなたの助けになる人がきっといます。
ためらわないで助けを求めてください。
まずは電話かメールでご連絡ください。

今から数年前にホームレスのおじさんたちが先生役になって、小学生に教えるというセミナーを開きました。(中略)最後の授業は、元野宿のおじさんが「子どもたちに語る」というコーナーでした。(中略)子どもたちに、そのおじさんはこう語りかけました。「おじさんはさぁ、自分で頑張るしかないって60年生きてきたけど、この世の中には助けてくれる人がいたんだ。『助けて』と言えた日が助かった日だったよ」と言ったのです。そうしたら、聞いていた子どもたちの何人かが涙を流しているのです。私は司会だったので、「きみたちも学校でつらいことがある。家でつらいことがある、そんなときは『助けて!』と叫んだらいいんだ。たしかに世の中には、『助けて』と言ったら、『何を甘えているんだ』と言う人もいるよ。でも、『うちにおいで』と言ってくれる人が必ずいるから、『助けて!』って言いなさい」と言ったら、涙をバーっと流している子どもたちが何人もいました。…奥田知志他著『灯を輝かし、闇を照らす』より


マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復①」

2021年6月13日、マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復①」
「ベツサイダに着いた」イエスのもとに「人々が目の見えない人を連れて来て、彼にさわってやってくださいと…懇願した」ので、「イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれ…彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当て」られました。まだぼんやりとしか見えなかったので、「再び両手を彼の両目に両手を当てられ」ると、「目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようにな」りました。
「見えるようになって(見上げて、の意)」という語は、五千人の給食(6:41)や「耳が聞こえず口のきけない人」の癒し(7:34)にも出てきます。預言者エリシャの召使いはアラムの大軍に包囲されて狼狽しますが、エリシャが「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください」と祈ると、「主がその若者の目を開かれたので…火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」のを見ました(Ⅱ列王記6:15~17)。
厳しい現実に直面すると、意気消沈したり、目に見える何かに依り頼んだりしがちです。しかし真に目が開かれるならば、私は「火の馬と戦車が…取り巻いて…満ちて」守られているというもう一つの現実が見えてくるはずです。私の霊の目が閉ざされているから、信仰の目を上げて見ることができずにいるから、神の恵みや守りがわからないのではありませんか。私も「目の見えない人」で、イエスに「すべてのものがはっきりと見えるように」されなければならない者であることを正直に認め、私にも「さわってくださいとイエスに懇願し」ましょう。「イエスは…手を取って」親身に寄り添い、「はっきりと見えるようにな」るまで、辛抱強く関わり続けてくださいます。

マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復①」

2021年6月13日、マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復①」
「ベツサイダに着いた」イエスのもとに「人々が目の見えない人を連れて来て、彼にさわってやってくださいと…懇願した」ので、「イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれ…彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当て」られました。まだぼんやりとしか見えなかったので、「再び両手を彼の両目に両手を当てられ」ると、「目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようにな」りました。
「見えるようになって(見上げて、の意)」という語は、五千人の給食(6:41)や「耳が聞こえず口のきけない人」の癒し(7:34)にも出てきます。預言者エリシャの召使いはアラムの大軍に包囲されて狼狽しますが、エリシャが「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください」と祈ると、「主がその若者の目を開かれたので…火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」のを見ました(Ⅱ列王記6:15~17)。
厳しい現実に直面すると、意気消沈したり、目に見える何かに依り頼んだりしがちです。しかし真に目が開かれるならば、私は「火の馬と戦車が…取り巻いて…満ちて」守られているというもう一つの現実が見えてくるはずです。私の霊の目が閉ざされているから、信仰の目を上げて見ることができずにいるから、神の恵みや守りがわからないのではありませんか。私も「目の見えない人」で、イエスに「すべてのものがはっきりと見えるように」されなければならない者であることを正直に認め、私にも「さわってくださいとイエスに懇願し」ましょう。「イエスは…手を取って」親身に寄り添い、「はっきりと見えるようにな」るまで、辛抱強く関わり続けてくださいます。

ヨシュア記1:1~9「強くあれ、雄々しくあれ」

2021年6月6日、ヨシュア記1:1~9「強くあれ、雄々しくあれ」
「主のしもべモーセの死後」、後継者ヨシュアは恐れと不安でいっぱいだったことでしょう。あの偉大な指導者モーセでさえ苦労した、頑ななイスラエルの民を率いるのですから。恐れおののくヨシュアに対して主は、「強くあれ。雄々しくあれ」と三度も励まされました。それは単なる気休めではなく、確かな保証があっての励ましでした。それは、主は「モーセとともにいたように、あなたとともにいる…あなたを見放さず、あなたを見捨てない」から、「あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられる」からです。
私たちも、罪の悔い改めとイエスの十字架を信じる信仰によって、主はこの私を愛し、私と共にいてくださるから恐れる必要など全くないという約束が自分のものになります。モーセやヨシュアと共にいてくださった主が、「このわたしが共にいるではないか」「強くあれ。雄々しくあれ」と励ましてくださいます。しかしこの語りかけをどれだけ本気で信じているでしょうか。重い荷物を主に委ねようとせず、自分で背負い込んだまま頑張ろうとして思い煩ってはいないでしょうか。「神は われらの避け所 また力。苦しむとき そこにある強き助け」(詩篇46:1)なる主が、「私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたともにいます」(マタイ28:20)という主の臨在こそ、何ものにも勝る力です。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだね」(Ⅰペテロ5:7)、臨在の主に信頼するなら、どんな試練や困難に直面しても「強く…雄々しく」、主と共に乗り越えていくことができるのです。

イザヤ書63:7~10「共に苦しみ、背負う主」

2021年5月30日、イザヤ書63:7~10「共に苦しみ、背負う主」
①主は苦しまれた
「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ」とあるように、主は常にイスラエルの苦悩を共有しておられました。エジプトの奴隷状態にあった「イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ…彼らの叫びは神に届」き、主は「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている」と言われました(出エジプト記2:23、3:7)。ラザロの死に「イエスは涙を流され」ました(ヨハネ11:35)。人となられた御子イエスは、私たちと同様に様々な試練にあわれたので、私たちの苦悩を知り、深く同情されるのです(ヘブル2:18、4:15)。
②主は贖われた
「主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い」とあるように、主は共に悩まれただけでなく、エジプトの奴隷状態のイスラエルを贖い出されました。やがてバビロン捕囚となりますが、そこからも贖い出して帰還させられます。さらに全人類を罪と滅びから贖い出すために、御子イエスに全人類の罪を背負わせて十字架の死に渡すことによって救いを完成されました。
③主は背負い担われた
共に苦しみ、贖われた主は、イスラエルを「昔からずっと…背負い、担って」こられました。主は「あなたがたが年をとっても…白髪になっても…背負う(「担って」と同語)」(46:4)、「おんぶに抱っこ」してくださるお方です。「思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」(Ⅰペテロ5:7)。

エゼキエル書36:22~32「新しい心、新しい霊」

2021年5月23日、エゼキエル書36:22~32「新しい心、新しい霊」
①偶像からの清め(24~25節)
神に背き続けてきたイスラエルであってもなお見捨てることができない、愛さずにはいられない神は、「わたしはあなたがたを諸国の間から導き出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く」と、捕囚からの解放を約束されました。イスラエルにとっての罪の結果はバビロン捕囚でしたが、私たちにとっての「罪の報酬は死(永遠の滅び)です」(ローマ6:23)。神以外のものを頼みとする的外れ、「すべての偶像の汚れから…きよめ」るために、イエスは来臨されたのです。
②石の心の除去(26節)
神の御言葉や忠告に耳をふさぐ頑固で傲慢な「石の心」、神と人に対する愛の冷えた「石の心」がないでしょうか。神はそうした「石の心を取り除き」たいと願われますが、私たちの同意なくしては何もなさいません。私たちが同意するのを待っておられ、同意するや否や、「石の心を取り除き」、柔らかく温かい「肉の心を与え」てくださいます。
③聖霊の内住(27節)
偶像から清め、石の心を取り除いた後、聖霊がその人の内に王の王として内住し、満ちてくださいます。聖霊は、罪の性質を持って生まれた弱い私たちが「掟に従って歩み…定めを守り行うように」、「みこころを行うことを喜びと」(詩篇40:8)するように助け、「わたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」という、より深い神との交わりへと導きます。そのような一人ひとりを通して、「廃墟であった町々を人の群れで満たす」(38節)というリバイバルが実現するのです。

エゼキエル書36:22~32「新しい心、新しい霊」

2021年5月23日、エゼキエル書36:22~32「新しい心、新しい霊」
①偶像からの清め(24~25節)
神に背き続けてきたイスラエルであってもなお見捨てることができない、愛さずにはいられない神は、「わたしはあなたがたを諸国の間から導き出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く」と、捕囚からの解放を約束されました。イスラエルにとっての罪の結果はバビロン捕囚でしたが、私たちにとっての「罪の報酬は死(永遠の滅び)です」(ローマ6:23)。神以外のものを頼みとする的外れ、「すべての偶像の汚れから…きよめ」るために、イエスは来臨されたのです。
②石の心の除去(26節)
神の御言葉や忠告に耳をふさぐ頑固で傲慢な「石の心」、神と人に対する愛の冷えた「石の心」がないでしょうか。神はそうした「石の心を取り除き」たいと願われますが、私たちの同意なくしては何もなさいません。私たちが同意するのを待っておられ、同意するや否や、「石の心を取り除き」、柔らかく温かい「肉の心を与え」てくださいます。
③聖霊の内住(27節)
偶像から清め、石の心を取り除いた後、聖霊がその人の内に王の王として内住し、満ちてくださいます。聖霊は、罪の性質を持って生まれた弱い私たちが「掟に従って歩み…定めを守り行うように」、「みこころを行うことを喜びと」(詩篇40:8)するように助け、「わたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」という、より深い神との交わりへと導きます。そのような一人ひとりを通して、「廃墟であった町々を人の群れで満たす」(38節)というリバイバルが実現するのです。

ローマ人への手紙9:1~5「万物の上にいます、ほむべき神」

2021年5月16日、ローマ人への手紙9:1~5「万物の上にいます、ほむべき神」
前章で勝利の凱歌を上げたパウロが、ここでは一転して「大きな悲しみ…絶えず痛み」に襲われます。それは、「自分の兄弟たち、肉による自分の同胞」がイエスを拒絶したままだからです。そんな同胞に与えられた神の恵みをパウロは数え上げます。同胞は、神の救いのご計画実現のために選ばれた「イスラエル人」で、神の「子とされる(=聖書協会共同訳「子としての身分」)」恵みにあずかりました(出エジプト記4:22)。神の「栄光」を拝し、神と「契約」を結び、「律法の授与」があり、神を「礼拝」し、神の「約束」が与えられ、約束の救い実現のために「キリストも、肉によれば彼らから出ました」。ところが同胞はイエスを信じようとしなかったばかりか、イエスを十字架につけて処刑したのです。
以前のパウロもそうでしたから、なおさら「大きな悲しみ」を覚えました。ところが突然、「キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン」と、神への賛美・頌栄で結びます。確かに目に見える現実は厳しく、同胞はイエスの救いを拒んだままです。しかしそれはあくまでも人間の側から見た現実であって、神の側の視点は違います。パウロは、同胞の頑なな現実を見て失望するのではなく、同胞と契約を結ばれた神のご真実に目を注いで希望を抱きました。そうすると思わず神を賛美せずにはいられなかったのです。
家族等の救いを祈り続けてきても、少しも祈りが聞かれる気配がなくて失望しているかもしれません。しかし「キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神」、勝利はすでに確定済みです。信仰の眼差しを高く上げ、諦めないで福音を宣べ伝え、祈り続けましょう。

ローマ人への手紙9:1~5「万物の上にいます、ほむべき神」

2021年5月16日、ローマ人への手紙9:1~5「万物の上にいます、ほむべき神」
前章で勝利の凱歌を上げたパウロが、ここでは一転して「大きな悲しみ…絶えず痛み」に襲われます。それは、「自分の兄弟たち、肉による自分の同胞」がイエスを拒絶したままだからです。そんな同胞に与えられた神の恵みをパウロは数え上げます。同胞は、神の救いのご計画実現のために選ばれた「イスラエル人」で、神の「子とされる(=聖書協会共同訳「子としての身分」)」恵みにあずかりました(出エジプト記4:22)。神の「栄光」を拝し、神と「契約」を結び、「律法の授与」があり、神を「礼拝」し、神の「約束」が与えられ、約束の救い実現のために「キリストも、肉によれば彼らから出ました」。ところが同胞はイエスを信じようとしなかったばかりか、イエスを十字架につけて処刑したのです。
以前のパウロもそうでしたから、なおさら「大きな悲しみ」を覚えました。ところが突然、「キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン」と、神への賛美・頌栄で結びます。確かに目に見える現実は厳しく、同胞はイエスの救いを拒んだままです。しかしそれはあくまでも人間の側から見た現実であって、神の側の視点は違います。パウロは、同胞の頑なな現実を見て失望するのではなく、同胞と契約を結ばれた神のご真実に目を注いで希望を抱きました。そうすると思わず神を賛美せずにはいられなかったのです。
家族等の救いを祈り続けてきても、少しも祈りが聞かれる気配がなくて失望しているかもしれません。しかし「キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神」、勝利はすでに確定済みです。信仰の眼差しを高く上げ、諦めないで福音を宣べ伝え、祈り続けましょう。


創世記17:1~2「わたしは全能の神である」

2021年5月9日、創世記17:1~2「わたしは全能の神である」
子孫の誕生と繁栄の約束が少しも実現する気配がないので、アブラムと妻サライは女奴隷ハガルによって子イシマエルを得ました(第15~16章)。ところが、もはや人間的小細工をしようにもできなくなった「九十九歳のとき、主はアブラムに現れ」、「わたしは全能の神である…わたしは、あなたを大いに増やす」と再度約束されました。やがて「サラは身ごもり…年老いたアブラハムに男の子を産んだ」のです。
神の全能は、天地の創造と保持に(創世記1:1、詩篇96:10)、出エジプトや紅海渡渉他、イスラエルの歴史に現されてきました。御子イエスの聖霊による受肉降誕に現されました(ルカ1:37)。イエスは十字架上で死なれましたが、「大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ」(エペソ1:20)、救いを完成されました。それは、私たち罪人を神の栄光を現す者に造り変えるためです。それこそ世界中で最も至難のわざで、「人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます」(マタイ19:26)。「キリストを…よみがえらせ」た「神の大能の力」は、「私たち信じる者に」も働いていて、病を癒すことも、困難の大山を動かすことも朝飯前です(マタイ17:20)。ただし、何でもできるということではなく、ご自身にふさわしいことは必ずできるということです。私たちの信じる神は、絶対失敗しない全能の神、人知を超えたすばらしいご計画をお持ちの神です。「神にとって不可能なことは何もありません」(ルカ1:37)、「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできる」(ピリピ4:13)と信じ期待して祈ると同時に、神の御心を受け入れる謙虚さも大切です。

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