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ルカによる福音書16:19~31「アブラハムの懐か、それとも黄泉か」

2019年3月17日、ルカによる福音書16:19~31「アブラハムの懐か、それとも黄泉か」
豪邸に住んで「紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた」金持ちと、「金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた」ラザロ。ところが死後、金持ちは「黄泉にいて苦しみ」、ラザロは「御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られ」ました。この逆転劇の原因は何だったのでしょうか。
金持ちが黄泉に落ちたのは、「毎日ぜいたくに遊び暮らし」、貧しいラザロに何のあわれみも示さず、神を度外視して生きてきたからです。神に造られ愛されている人間が、神を無視して生きる的外れの生き方こそ最大の「罪」であり、永遠の滅びを刈り取る原因なのです。一方のラザロの生き方は、その名前の意味に暗示されているようです。イエスは彼に「ラザロ(神は助け、の意)」と名づけることによって、神を畏れて生きる人であったことを言おうとしておられるのでしょう。ラザロは自分の身の不幸を少しも嘆かず、神を呪わず、その名前のとおり、日々神の助けを仰ぎながら歩んでいたのでしょう。その結果、アブラハムのふところ(パラダイス)に迎え入れられたのです。
イエスが「聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)と言われたように、聖書はイエスについて証言する書です。この聖書に謙虚に聴くならば、自らの罪深さと、その罪を赦すための十字架であることを悟り、悔い改めと信仰へと導かれ、パラダイスが約束されます(ルカ23:43)。地上での神に対する態度によって永遠が決まり、一度決まってしまえば二度と逆転劇は起こりません。「また、よい機会を得たら」(使徒行伝24:25)と先延ばしせず、今決断しましょう。

マタイによる福音書12:9~14「手を伸ばしなさい」

2019年3月10日、マタイによる福音書12:9~14「手を伸ばしなさい」
安息日の会堂にイエスが入られると、そこに「右手のなえた人」(ルカ6:6)がいました。「イエスはその人に、『手を伸ばしなさい』と言われ」ると、彼の手は完全に萎えていて伸ばそうにも伸ばせない状態であったはずですが、イエスの言葉に応えて恐る恐る手を伸ばしてみると、何と伸ばすことができ、「ほかの手のように良く」なりました。
「わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる」(イザヤ書46:10)。神の言葉は真実で必ず実現するという確かな保証があるので、目に見える現実がどうであろうとも信じることができるのです(ヘブル11:1)。環境が整ってから等とイエスを信じ受け入れることを先延ばしにしていないでしょうか。治ったから信じたのではなく、まず信じたから治ったのです。祈りの手が萎えて、失望の黒雲に覆われていないでしょうか(Ⅰテモテ2:8「きよい手をあげて祈ってほしい」)。神のために奉仕や財を献げる手が萎えていないでしょうか(14:16「あなたがたの手で食物をやりなさい」)。率先して愛する交わりの手が萎えていないでしょうか(ガラテヤ2:9「交わりの手を差し伸べた」)。そんなあなたに、信仰の「手を伸ばしなさい」とイエスは呼びかけておられます。
いつまでも堂々巡りしていないで、勇気を出して前進すべきではないでしょうか。「どうせ自分は駄目だ」と諦めていないで、イエスに大いに期待して信仰の手を伸ばすべきではないでしょうか。「このわたしを信じて、あなたの萎えた○○の手を伸ばしなさい」と語りかけられているのではありませんか。イエスを信じて信仰の手を伸ばすなら、あなたにも驚くべき神のみわざが始まるに違いありません。

マルコによる福音書1:14~15「悔い改めて福音を信ぜよ」

2019年3月3日、マルコによる福音書1:14~15「悔い改めて福音を信ぜよ」
「時は満ち…神の国は近づいた」今、神の国に入るための条件は、「悔い改めて(心の向きを変える、の意)福音を信」じることです。生まれながらの人間は皆、神に背を向けて生きている罪人です。罪を犯すから罪人なのではなく、生まれながらの罪人だから罪を犯してしまうのです。神に背を向けたまま歩き続けると、神から遠ざかる一方です(マルコ7:21~22)。そうした歩みがいかに人を傷つけ、自分を汚し、神を悲しませてきたかに気づいて、今後は自分中心から神中心に生きようと心の向きを180度変えるのが「悔い改め」です。そのように神に向かって歩み続けると、神にますます近づき、神と共に歩むようになります。これこそ神に造られた人間の本来あるべき姿ですが、実は悔い改めだけでは救われません。罪を悔い改めた上で、「福音」そのものであるイエスを信じるから救われるのです(使徒行伝20:21)。
これは、救われるために必ずしなければならないことですが、その後は必要ないということではありません。地上的な価値観や生き方に支配され、引き戻されてしまいがちな私たちは、神の国完成の時が近いことを覚え、その意識を神の国に合わせて軌道修正する悔い改めの時がどうしても必要なのです。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(Ⅱコリント6:2)。「また、よい機会を得たら」(使徒行伝24:25)と言って、「今」という恵みの「時」を無駄にしてはなりません。「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4:7)、「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」(イザヤ書55:6)。

マルコによる福音書1:14~15「悔い改めて福音を信ぜよ」

2019年3月3日、マルコによる福音書1:14~15「悔い改めて福音を信ぜよ」
「時は満ち…神の国は近づいた」今、神の国に入るための条件は、「悔い改めて(心の向きを変える、の意)福音を信」じることです。生まれながらの人間は皆、神に背を向けて生きている罪人です。罪を犯すから罪人なのではなく、生まれながらの罪人だから罪を犯してしまうのです。神に背を向けたまま歩き続けると、神から遠ざかる一方です(マルコ7:21~22)。そうした歩みがいかに人を傷つけ、自分を汚し、神を悲しませてきたかに気づいて、今後は自分中心から神中心に生きようと心の向きを180度変えるのが「悔い改め」です。そのように神に向かって歩み続けると、神にますます近づき、神と共に歩むようになります。これこそ神に造られた人間の本来あるべき姿ですが、実は悔い改めだけでは救われません。罪を悔い改めた上で、「福音」そのものであるイエスを信じるから救われるのです(使徒行伝20:21)。
これは、救われるために必ずしなければならないことですが、その後は必要ないということではありません。地上的な価値観や生き方に支配され、引き戻されてしまいがちな私たちは、神の国完成の時が近いことを覚え、その意識を神の国に合わせて軌道修正する悔い改めの時がどうしても必要なのです。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(Ⅱコリント6:2)。「また、よい機会を得たら」(使徒行伝24:25)と言って、「今」という恵みの「時」を無駄にしてはなりません。「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4:7)、「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」(イザヤ書55:6)。

ジョイジョイクラブ

★3月ジョイジョイクラブ★

日時:3月24日(日)午後1時~2時半

皆さん元気ですか?
3月は、クレープ・パーティー&公園と教会でゲーム大会です。
皆で楽しく作って食べ、遊びましょう。

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マルコによる福音書1:14~15「神の国は近づいた」

2019年2月24日、マルコによる福音書1:14~15「神の国は近づいた」
①神の国の到来と完成
「神の国」とは、神の恵みによる支配、という意味です(「御国」「天国」も同意)。エゴとエゴとがぶつかり合う世界、家庭や職場、学校は悲惨です。イエスは、そんな地上に神の国を実現するために来られました。イエスが「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:20~21)、「神の国が力をもって来る(=十字架)」(マルコ9:1)と言われたように、神の国はイエス来臨によって、さらには十字架と復活によって地上に実現し、特にイエスの説教や奇跡、愛と謙遜の中に現れています。またイエスを信じる者の心の「ただ中に」、信仰者の集まりである教会の「ただ中に」も実現しています。しかしいまだ不完全で、その完成はキリスト再臨後のことです(黙示録20:1~21:4)。私たちは、この「すでに」と「いまだ」の間の緊張状態に生かされているのです。
②神の国の完成のために
神の国は信じる者の心の内にすでに実現してはいますが、神の恵みによる支配を心から喜べない自己中心・自我がしばしばトラブルの一因となっています。主の祈りの中の「御国を来たらせたまえ」という祈りは、まず祈る者自身の醜い自我がキリストと共に十字架につけられて死に、キリストが内住されることにより(ガラテヤ2:19~20)、喜んで神に服従できるように、という祈りです。また、福音が全世界に宣べ伝えられた後に再臨があるということは、私たちの怠慢が再臨を遅らせているとも言えます(マタイ24:14)。それゆえ、福音を宣ベ伝えようと決意し、そのために自らを献げる祈りでもあるのです。

マルコによる福音書1:14~15「神の国は近づいた」

2019年2月24日、マルコによる福音書1:14~15「神の国は近づいた」
①神の国の到来と完成
「神の国」とは、神の恵みによる支配、という意味です(「御国」「天国」も同意)。エゴとエゴとがぶつかり合う世界、家庭や職場、学校は悲惨です。イエスは、そんな地上に神の国を実現するために来られました。イエスが「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:20~21)、「神の国が力をもって来る(=十字架)」(マルコ9:1)と言われたように、神の国はイエス来臨によって、さらには十字架と復活によって地上に実現し、特にイエスの説教や奇跡、愛と謙遜の中に現れています。またイエスを信じる者の心の「ただ中に」、信仰者の集まりである教会の「ただ中に」も実現しています。しかしいまだ不完全で、その完成はキリスト再臨後のことです(黙示録20:1~21:4)。私たちは、この「すでに」と「いまだ」の間の緊張状態に生かされているのです。
②神の国の完成のために
神の国は信じる者の心の内にすでに実現してはいますが、神の恵みによる支配を心から喜べない自己中心・自我がしばしばトラブルの一因となっています。主の祈りの中の「御国を来たらせたまえ」という祈りは、まず祈る者自身の醜い自我がキリストと共に十字架につけられて死に、キリストが内住されることにより(ガラテヤ2:19~20)、喜んで神に服従できるように、という祈りです。また、福音が全世界に宣べ伝えられた後に再臨があるということは、私たちの怠慢が再臨を遅らせているとも言えます(マタイ24:14)。それゆえ、福音を宣ベ伝えようと決意し、そのために自らを献げる祈りでもあるのです。

マルコによる福音書1:14~15「時は満ちた」

2019年2月17日、マルコによる福音書1:14~15「時は満ちた」
ヘロデ王によってバプテスマの「ヨハネが捕えられた後」(6:14~29)、遂にイエスによる新しい時代が始まりました。14・15節は、イエスの働き・説教の総括です。「時(ちょうどよい時、の意)は満ちた」とは、最初の人アダム堕罪時から計画され(創世記3:15)、度々預言されてきた神の救いは、それを待ち望む期間が終わり、イエスによってちょうどよい時に実現した、ということです。パウロは「時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった」(ガラテヤ4:4)と表現しました。さらにイエスご自身にとっても準備の「時は満ちた」と言えるでしょう。公生涯に立ち上がられるまでの30年間、家計を支えるために大工として朝から晩まで働かれる中で、生きる苦しみや悩みをまざまざと味わわれたイエスにとって(ヘブル2:18、4:15)、私たち罪人に寄り添い、罪や苦しみを引き受ける救い主となるために必要不可欠な準備の「時は満ちた」と言えましょう。
「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」(哀歌3:22)、「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない」(ルカ21:33)。神の愛も御言葉も永遠に変わらないばかりか、「わが口から出る言葉(事件、出来事、の意)も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:11)。神の「言葉」は、私たちの不信仰を突き破って、時が来れば必ず「出来事」になります。絶望と思えるような状況下でも希望が与えられ、道が開かれるのです。聖書はそうした実例で満ちています。神の時はまさにちょうどよい時なのです。

マルコによる福音書1:14~15「時は満ちた」

2019年2月17日、マルコによる福音書1:14~15「時は満ちた」
ヘロデ王によってバプテスマの「ヨハネが捕えられた後」(6:14~29)、遂にイエスによる新しい時代が始まりました。14・15節は、イエスの働き・説教の総括です。「時(ちょうどよい時、の意)は満ちた」とは、最初の人アダム堕罪時から計画され(創世記3:15)、度々預言されてきた神の救いは、それを待ち望む期間が終わり、イエスによってちょうどよい時に実現した、ということです。パウロは「時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった」(ガラテヤ4:4)と表現しました。さらにイエスご自身にとっても準備の「時は満ちた」と言えるでしょう。公生涯に立ち上がられるまでの30年間、家計を支えるために大工として朝から晩まで働かれる中で、生きる苦しみや悩みをまざまざと味わわれたイエスにとって(ヘブル2:18、4:15)、私たち罪人に寄り添い、罪や苦しみを引き受ける救い主となるために必要不可欠な準備の「時は満ちた」と言えましょう。
「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」(哀歌3:22)、「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない」(ルカ21:33)。神の愛も御言葉も永遠に変わらないばかりか、「わが口から出る言葉(事件、出来事、の意)も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:11)。神の「言葉」は、私たちの不信仰を突き破って、時が来れば必ず「出来事」になります。絶望と思えるような状況下でも希望が与えられ、道が開かれるのです。聖書はそうした実例で満ちています。神の時はまさにちょうどよい時なのです。

マルコによる福音書1:12~13「イエスも誘惑にあわれた」

2019年2月10日、マルコによる福音書1:12~13「イエスも誘惑にあわれた」
①誘惑の時期
イエスの受洗のときに注がれた御霊が、今度は強制的に「イエスを荒野に追いや」りました。するとそこにサタンの誘惑が待っていました。天から聖霊が下り、神の御声が臨んだ直後、いわば霊的に高められ引き上げられた直後のことでした。順境のときこそ要注意です。
②誘惑の本質
十字架による救いを何とか阻止しようと、サタンはイエスを三度誘惑しました。本質は同じで、自分を第一に考えて、神を隅っこに追いやることです(マタイ4:1~11)。そして今もサタンは、イエスを信じて生きようとする者に対して、あの手この手を使って戦いを挑み、御言葉の約束を疑わせ、神を隅っこに追いやらせようとしています。
③誘惑の撃退
イエスは、サタンの誘惑を神の御言葉によって退けられましたが(申命記8:3、6:16、13)、ただ一人で戦われたのではありません。「天使たち」と父なる神の守りがあったからこそ、獣に襲われることなく「四十日のあいだ荒野にいて」、誘惑に勝利できたのです。サタンは一時的に離れ去りましたが、十字架による救いを台無しにしようと、最後の最後まで執拗に誘惑してきました。このサタンの手ごわさを誰よりもよくご存じのイエスは、「わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい」(ヨハネ17:11)と今も祈っておられます。誘惑にあわれ、誘惑に勝利されたイエスだからこそ、私たちの弱さや苦悩に共感でき、的確な助けの手を差し伸べることができるのです(ヘブル4:15、2:18)。

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