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4月12日(日)からは在宅オンライン礼拝

★4月12日(日)からは、礼拝堂での礼拝は中止、在宅オンライン礼拝です(教会学校や祈祷会他、教会での全集会を中止)。
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詩篇23:3「主は私の羊飼い、魂をいきかえらせる」

2020年5月24日、詩篇23:3「主は私の羊飼い、魂をいきかえらせる」
羊飼いは、迷い出た羊を連れ戻したり、傷つき病んだ羊を介抱したりして「いきかえらせ」ます。神のもとから「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)私たちも、自分の力だけを頼りに頑張り、傷つき悩んでいましたが、恵みによってイエスを信じて神のもとに立ち返り、「いきかえらせ」ていただきました。
イエスは「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう(休耕田とする、の意)」(マタイ11:28)と言われました。この招きに応えた人の人生は変わりました(マタイもその一人。マタイ9:9~13)。作物を収穫し続けて弱った田畑の地力を回復させるため、耕作を一時中止して休耕田とします。私たちの人生にも、罪や人生の重荷のため疲れを覚え、魂がやせ衰え、実を結ぶ力を失ってしまうことがあります。そのようにやせ衰えた魂が休耕田となってエネルギーを蓄えると、再び実を結ぶようになります。
「主のおしえは完全で たましいを生き返らせ 主の証しは確かで 浅はかな者を賢くする」(詩篇19:7、新改訳2017)。「主のおしえ」、御言葉こそ、私たちの「たましいを生き返らせ」る原動力です。すぐにはそうならないことがあるかもしれませんが、「不信仰だからだ。神から見離されたからだ」などと考えてはなりません。回復には時間がかかる場合がありますが、時が来れば、御言葉の約束どおり「主はわたしの魂をいきかえらせ」てくださると信じ続けましょう。この世の何かを頼り追い求めるのではなく、主ご自身のもとに行き、主の御言葉を聞き続けることにより、魂をリフレッシュしていただきましょう。

詩篇23:3「主は私の羊飼い、魂をいきかえらせる」

2020年5月24日、詩篇23:3「主は私の羊飼い、魂をいきかえらせる」
羊飼いは、迷い出た羊を連れ戻したり、傷つき病んだ羊を介抱したりして「いきかえらせ」ます。神のもとから「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)私たちも、自分の力だけを頼りに頑張り、傷つき悩んでいましたが、恵みによってイエスを信じて神のもとに立ち返り、「いきかえらせ」ていただきました。
イエスは「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう(休耕田とする、の意)」(マタイ11:28)と言われました。この招きに応えた人の人生は変わりました(マタイもその一人。マタイ9:9~13)。作物を収穫し続けて弱った田畑の地力を回復させるため、耕作を一時中止して休耕田とします。私たちの人生にも、罪や人生の重荷のため疲れを覚え、魂がやせ衰え、実を結ぶ力を失ってしまうことがあります。そのようにやせ衰えた魂が休耕田となってエネルギーを蓄えると、再び実を結ぶようになります。
「主のおしえは完全で たましいを生き返らせ 主の証しは確かで 浅はかな者を賢くする」(詩篇19:7、新改訳2017)。「主のおしえ」、御言葉こそ、私たちの「たましいを生き返らせ」る原動力です。すぐにはそうならないことがあるかもしれませんが、「不信仰だからだ。神から見離されたからだ」などと考えてはなりません。回復には時間がかかる場合がありますが、時が来れば、御言葉の約束どおり「主はわたしの魂をいきかえらせ」てくださると信じ続けましょう。この世の何かを頼り追い求めるのではなく、主ご自身のもとに行き、主の御言葉を聞き続けることにより、魂をリフレッシュしていただきましょう。

詩篇23:2「主は私の羊飼い、牧場と汀に憩う」

2020年5月17日、詩篇23:2「主は私の羊飼い、牧場と汀に憩う」
羊飼いは羊たちを「緑の牧場」や「いこいのみぎわ」に導いて養い育てます。「牧場」という語には、神の住まい、喜びの場所、という意味もあります(詩篇83:13「神の住まいを我らのものにしよう」新共同訳)。神に造られ、神に生かされている私たち人間にとって、神が共におられる場所こそ「緑の牧場」、喜びの場所だ、ということを示しています。
主は「緑の牧場に伏させ」られます。「人はパンだけでは生きず…主の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記8:3)。神のかたちに造られた私たち人間は、パンだけでは真に人間らしく生きることができません。霊的いのちを養う神のパン、主の御言葉がどうしても必要です。「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」(ヨハネ6:35)。主は「いこいのみぎわに伴われ」ます。主を信じる者に与えられる聖霊は、渇いた魂を潤し、喜びと希望に満たしてくださいます。
サマリヤの女性は、罪を認めてイエスを信じたとき、心の空洞が埋められ、「その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがる」ようになりました(ヨハネ第4章)。喜びの泉(ローマ14:17)、希望の泉(ローマ15:13)、愛の泉(ローマ5:5)が絶えず湧き出るようになりました。
本篇は、私たち人間が果たすべき責任については全く言及せず、最初から最後まで一方的な主の恵みで貫かれています。私たちがなすべきことは、ただ主を信じ、主に信頼して歩むことだけです。毎週の礼拝こそ、最大最高の「緑の牧場…いこいのみぎわ」です。御言葉と御霊の中に伏し憩い、健全に成長する羊とされたいものです。

詩篇23:2「主は私の羊飼い、牧場と汀に憩う」

2020年5月17日、詩篇23:2「主は私の羊飼い、牧場と汀に憩う」
羊飼いは羊たちを「緑の牧場」や「いこいのみぎわ」に導いて養い育てます。「牧場」という語には、神の住まい、喜びの場所、という意味もあります(詩篇83:13「神の住まいを我らのものにしよう」新共同訳)。神に造られ、神に生かされている私たち人間にとって、神が共におられる場所こそ「緑の牧場」、喜びの場所だ、ということを示しています。
主は「緑の牧場に伏させ」られます。「人はパンだけでは生きず…主の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記8:3)。神のかたちに造られた私たち人間は、パンだけでは真に人間らしく生きることができません。霊的いのちを養う神のパン、主の御言葉がどうしても必要です。「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」(ヨハネ6:35)。主は「いこいのみぎわに伴われ」ます。主を信じる者に与えられる聖霊は、渇いた魂を潤し、喜びと希望に満たしてくださいます。
サマリヤの女性は、罪を認めてイエスを信じたとき、心の空洞が埋められ、「その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがる」ようになりました(ヨハネ第4章)。喜びの泉(ローマ14:17)、希望の泉(ローマ15:13)、愛の泉(ローマ5:5)が絶えず湧き出るようになりました。
本篇は、私たち人間が果たすべき責任については全く言及せず、最初から最後まで一方的な主の恵みで貫かれています。私たちがなすべきことは、ただ主を信じ、主に信頼して歩むことだけです。毎週の礼拝こそ、最大最高の「緑の牧場…いこいのみぎわ」です。御言葉と御霊の中に伏し憩い、健全に成長する羊とされたいものです。

詩篇23:1「主は私の羊飼い、乏しいことなし」

2020年5月10日、詩篇23:1「主は私の羊飼い、乏しいことなし」
弱く愚かで迷いやすい羊が、羊飼いなしには生きていけないように、神に造られた私たち人間も、神なしには到底生きていけない存在です。ところが神のもとから「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)私たちに、真の神を教え、本来あるべきところに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。イエスは、十字架上で身代わりの死を遂げることにとって、神のもとに立ち帰る救いの一本道を開いてくださいました(ヨハネ10:10~11)。
イエスを救い主と信じて「主はわたしの牧者」と告白できるようになると、すべてのものがしかるべき位置にしっくり収まるようになり、「乏しいことがない」生涯となります。ちょうど親のもとで安心しきっている子どものようです。親が一緒だから大丈夫、必要なものを与えて養ってくれるという信頼と安心感がいつも信仰者にはあります。このように神に造られた人間は、真の羊飼いである主のもとに身を寄せてはじめて真の心の満足を得ることができるのです。
ヤコブには多くの失敗があり、後悔することも悔し涙を流すことも山ほど味わいました。しかしそれでもなお自分の人生を思い返すときに込み上げてくるのは、「今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」(創世記48:15、新改訳2017)ということでした。羊飼いなる主が私の生涯を支え導き守ってくださっていたからこそ、今の私がある、わが人生に悔いなし、という思いが込められた呼びかけです。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」「ずっと私の羊飼いであられた神」と感謝にあふれる羊でありたいものです。

詩篇23:1「主は私の羊飼い、乏しいことなし」

2020年5月10日、詩篇23:1「主は私の羊飼い、乏しいことなし」
弱く愚かで迷いやすい羊が、羊飼いなしには生きていけないように、神に造られた私たち人間も、神なしには到底生きていけない存在です。ところが神のもとから「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)私たちに、真の神を教え、本来あるべきところに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。イエスは、十字架上で身代わりの死を遂げることにとって、神のもとに立ち帰る救いの一本道を開いてくださいました(ヨハネ10:10~11)。
イエスを救い主と信じて「主はわたしの牧者」と告白できるようになると、すべてのものがしかるべき位置にしっくり収まるようになり、「乏しいことがない」生涯となります。ちょうど親のもとで安心しきっている子どものようです。親が一緒だから大丈夫、必要なものを与えて養ってくれるという信頼と安心感がいつも信仰者にはあります。このように神に造られた人間は、真の羊飼いである主のもとに身を寄せてはじめて真の心の満足を得ることができるのです。
ヤコブには多くの失敗があり、後悔することも悔し涙を流すことも山ほど味わいました。しかしそれでもなお自分の人生を思い返すときに込み上げてくるのは、「今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」(創世記48:15、新改訳2017)ということでした。羊飼いなる主が私の生涯を支え導き守ってくださっていたからこそ、今の私がある、わが人生に悔いなし、という思いが込められた呼びかけです。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」「ずっと私の羊飼いであられた神」と感謝にあふれる羊でありたいものです。

詩篇84:1~12「なんと幸いなことでしょう」

2020年5月3日、詩篇84:1~12「なんと幸いなことでしょう」
①主を恋い慕う幸い(1~4節)
詩人は、神殿に臨在される主を「わが魂…わが心…わが身」、全身全霊をもって「恋い慕って絶え入るばかりです」(新改訳2017)。神殿に巣を作る「すずめ…つばめ」、「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる」レビ人を羨ましがりました。私たちを罪と滅びから救うために十字架上で死んでくださったイエスに片思いばかりさせてはいないでしょうか。「初めの愛から離れて」はいないでしょうか(黙示録2:4)。
②主を力とする幸い(5~9節)
ときに私たちは「バカの谷(新改訳2017「涙の谷」、新共同訳「嘆きの谷」)」を通されることがありますが、主を力としている人は、「われらの避け所また力…悩める時のいと近き助けである」(詩篇46:1)主のもとに逃げ込むことができます。そうすると「涙の谷」の真っ只中であっても、そこが「泉のある所」へと変わるのです。「神様から力をいただき、神様に従って歩むことを最優先したいと願う人は幸いです。そんな人には、涙の谷も、祝福のわき出る泉となるでしょう」(リビングバイブル)。
③主と共にいる幸い(10~12節)
主の「大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさる」充実したものとなります。なぜなら、人生に立ちはだかる試練や困難の氷山を、主は「日(新改訳2017「太陽」)」のように溶かし、実を結ばせてくださるからです。また主は「盾」となって守り抜き(創世記15:1、ローマ8:31)、「恵みと誉」を与え続けてくださるからです(詩篇23:6)。「主の大庭の一日は、大庭の外で過ごした千日をやり直すことができる」(L.B.カウマン)。

詩篇84:1~12「なんと幸いなことでしょう」

2020年5月3日、詩篇84:1~12「なんと幸いなことでしょう」
①主を恋い慕う幸い(1~4節)
詩人は、神殿に臨在される主を「わが魂…わが心…わが身」、全身全霊をもって「恋い慕って絶え入るばかりです」(新改訳2017)。神殿に巣を作る「すずめ…つばめ」、「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる」レビ人を羨ましがりました。私たちを罪と滅びから救うために十字架上で死んでくださったイエスに片思いばかりさせてはいないでしょうか。「初めの愛から離れて」はいないでしょうか(黙示録2:4)。
②主を力とする幸い(5~9節)
ときに私たちは「バカの谷(新改訳2017「涙の谷」、新共同訳「嘆きの谷」)」を通されることがありますが、主を力としている人は、「われらの避け所また力…悩める時のいと近き助けである」(詩篇46:1)主のもとに逃げ込むことができます。そうすると「涙の谷」の真っ只中であっても、そこが「泉のある所」へと変わるのです。「神様から力をいただき、神様に従って歩むことを最優先したいと願う人は幸いです。そんな人には、涙の谷も、祝福のわき出る泉となるでしょう」(リビングバイブル)。
③主と共にいる幸い(10~12節)
主の「大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさる」充実したものとなります。なぜなら、人生に立ちはだかる試練や困難の氷山を、主は「日(新改訳2017「太陽」)」のように溶かし、実を結ばせてくださるからです。また主は「盾」となって守り抜き(創世記15:1、ローマ8:31)、「恵みと誉」を与え続けてくださるからです(詩篇23:6)。「主の大庭の一日は、大庭の外で過ごした千日をやり直すことができる」(L.B.カウマン)。

マタイによる福音書28:16~20「世の終わりまで共にいる」

2020年4月26日、マタイによる福音書28:16~20「世の終わりまで共にいる」
「天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」復活のイエスは、「すべての国民を弟子と」せよ、とお命じになりました。
弟子とするとは第一に、「父と子と聖霊との名によって(中へ、の意)…バプテスマ(洗礼)を施し」ということです。「バプテスマ」とは、イエスを信じて救われた者が、三位一体の神の中に結合されて一体化することです。だからこそ、「わたしは世の終りまで、いつも(直訳「すべての日々に」)あなたがたと共にいる」という約束が実現し、イエスが人生の道連れとしていつも共に歩み、守ってくださるようになるのです。新型コロナウイルスであろうと何であろうと、「神の愛から、わたしたちを引き離す」(ローマ8:38~39)ものなど一つもありません。おまけの一羽のすずめさえも「神のみまえで忘れられてはいない」(ルカ12:6)ように、神の主権は全世界・全宇宙の隅々にまでも及んでいるのですから、必要以上に恐れたり心配したりすることなどないのです。
弟子とするとは第二に、「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」ということです。イエスの弟子になるということは、信じてバプテスマを受けたらおしまいではないのです。その後も引き続きイエスとくびきを共にして学び続けること、御言葉に従ってイエスと歩調を合わせて歩み続けることです(11:29、12:50)。
いざというとき本当に頼りになるのは、「世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われる三位一体の神だけです。「人の歩みは主によって確かにされる…その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ」(詩篇37:23~24)。

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