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11月ジョイジョイクラブ

★11月ジョイジョイクラブ★

日時:11月11日(日)午前11時半教会集合~午後4時頃解散

皆さん元気ですか?
11月は、お弁当を持って六甲山ハイキングです。
誰でも参加できます。
皆で行きましょう!

服 装:長ズボン、運動靴、帽子
持ち物:弁当、水筒、おやつ、敷物

※中高生も奮ってご参加下さい。
※雨天の場合は、11月18日(日)に順延します。
18日(日)も雨天の場合は、教会で餃子パーティーです。

出エジプト記3:1~12「すべては感謝に変わる」

2018年10月28日、出エジプト記3:1~12「すべては感謝に変わる」
エジプトの迫害下、赤子モーセは神の守りによって生き延び、両親のもとで信仰によって育まれ、成長するとパロ王の娘の養子として宮廷で最高の教育を受けました。成功の階段を順調に駆け上っていたある日、大きな挫折を味わいます。同胞イスラエル人がエジプト人に虐待されるのを見たモーセは、怒りのあまりエジプト人を殺害したため、ミデヤンの荒野に逃亡しなければならなくなったのです。そこで羊飼いとなったモーセは、エジプトの華やかな宮廷生活とは比較にならない、来る日も来る日も羊を飼うという単調な生活を約40年も送ることになります(使徒行伝7:23~30)。80歳頃のある日、モーセは羊の群れを導いて「神の山ホレブ(シナイ山)」に来たとき、しばが燃えても燃えてもなくならない、実に不思議な光景を見ました。主ご自身が燃えるしばの中に臨在されていたのです。枯れたしばのような人生を送ってきたモーセですが、主に出会って人生が大きく変わり、出エジプトの指導者という新しい使命に立ち上がりました。
両親と過ごした数年も、エジプトの宮廷での40年弱も、ミデヤンの荒野での40年も、実にこの日のためだったのです。荒野の40年間は、モーセにとっては失敗、挫折、後悔以外の何ものでもなかったかもしれませんが、神はそれすらも恵みに逆転され、モーセの生涯にとってなくてはならぬ期間とされました。神のご計画には一つの無駄も失敗もありません。「測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た」(詩篇16:6)。愛なる神に信頼して生きる人生は、必ずすべては感謝に変わる人生なのです。

エズラ記10:1~44「今なお望みがある」

2018年10月21日、エズラ記10:1~44「今なお望みがある」
民の罪を嘆き悲しむエズラの祈りは、やがて民全体に波及していきました。シカニヤは「われわれは神にむかって罪を犯し」と正直に認めた上で、異邦の「妻ならびにその子供たちを、ことごとく追い出す」なら、「今なお望みがあります」と主張しました。新約時代の今は、宗教が違うなら即離婚すべきだと解釈すべきではありません。ここで学び取るべき霊的真理は、罪を犯しても大失敗をしても、神の前に真実に悔い改めるなら「今なお望みがあります」ということです。
せっかくの「望み」をふいにしたのがサウル王でした(サムエル記上 第15章)。不従順の罪を指摘されても、責任転嫁したり言い訳したり面目を重んじたりで、悔い改めなかったために神に捨てられました。「神と人の前に真実に生きること」(鈴木一郎師)が何よりも大切です。
ペテロも大失敗しました。「みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26:33)と大言壮語した舌の根も乾かぬうちにイエスを三度否認すると、「主は振りむいてペテロを見つめられた…ペテロは…外へ出て、激しく泣いた」(ルカ22:61~62)。大失敗をも包み込んで赦す愛のまなざしに触れて号泣したペテロは、自分の弱さを正直に認めて悔い改めたので、回復されました(ヨハネ21:16)。四福音書すべてにペテロの大失敗が包み隠さず記されているのは、イエスを信じる人生はいつでもやり直し可能であるということを強調したいからです。「神の前でまことの悔い改めがなされるなら、神はそれを決して拒まれません。放蕩息子を迎えて抱きしめてくださる神は、いつでもやり直しの機会を備えてくださいます。どのような中にあっても、私たちにはなお希望があります」(リジョイス)。

エズラ記10:1~44「今なお望みがある」

2018年10月21日、エズラ記10:1~44「今なお望みがある」
民の罪を嘆き悲しむエズラの祈りは、やがて民全体に波及していきました。シカニヤは「われわれは神にむかって罪を犯し」と正直に認めた上で、異邦の「妻ならびにその子供たちを、ことごとく追い出す」なら、「今なお望みがあります」と主張しました。新約時代の今は、宗教が違うなら即離婚すべきだと解釈すべきではありません。ここで学び取るべき霊的真理は、罪を犯しても大失敗をしても、神の前に真実に悔い改めるなら「今なお望みがあります」ということです。
せっかくの「望み」をふいにしたのがサウル王でした(サムエル記上 第15章)。不従順の罪を指摘されても、責任転嫁したり言い訳したり面目を重んじたりで、悔い改めなかったために神に捨てられました。「神と人の前に真実に生きること」(鈴木一郎師)が何よりも大切です。
ペテロも大失敗しました。「みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26:33)と大言壮語した舌の根も乾かぬうちにイエスを三度否認すると、「主は振りむいてペテロを見つめられた…ペテロは…外へ出て、激しく泣いた」(ルカ22:61~62)。大失敗をも包み込んで赦す愛のまなざしに触れて号泣したペテロは、自分の弱さを正直に認めて悔い改めたので、回復されました(ヨハネ21:16)。四福音書すべてにペテロの大失敗が包み隠さず記されているのは、イエスを信じる人生はいつでもやり直し可能であるということを強調したいからです。「神の前でまことの悔い改めがなされるなら、神はそれを決して拒まれません。放蕩息子を迎えて抱きしめてくださる神は、いつでもやり直しの機会を備えてくださいます。どのような中にあっても、私たちにはなお希望があります」(リジョイス)。

エズラ記9:3~15「天に達する罪であっても」

2018年10月14日、エズラ記9:3~15「天に達する罪であっても」
指導者も民も律法に反して異民族と結婚していることを知ったエズラは、民の罪を自分の罪と捉えて心を痛め、断食して祈りました。先祖の時代から今日まで、律法破りの罪は「頭よりも高く」積もり、今や「天に達し」ています。エズラにできることは、「正しくいらせられ」る神の前に心底嘆き悲しみ、あわれみにすがることだけでした。
これこそ神のあわれみや赦しを願い求める際に必要不可欠な態度です。パリサイ人と取税人の譬え(ルカ18:9~14)の中で、パリサイ人は祈りの中で他人を見下し、自分の義しさを誇りました。取税人は自分の罪を心底悲しみ、砕けきった心で「神様、罪人のわたしをおゆるしください(=新改訳「こんな罪人の私をあわれんでください」)」と祈りました。神に受け入れられたのは、丸裸になって神の前に出た取税人でした。
エズラ同様、パウロも「大きな悲しみ…絶えざる痛み」に襲われました。同胞ユダヤ人がイエスを信じようとしないからです(ローマ9:1~3)。かつてのパウロもそうでしたが、ダマスコ途上で復活のイエスと出会い、迫害者から伝道者へと造り変えられました(使徒行伝 第9章)。そのようなパウロだからこそ、自分だけ救われて喜ぶことなどとてもできませんでした。「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(8:39)と言ったパウロが、「同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」と叫び、滅びの破れ口に仁王立ちになって同胞のために祈るのです。このようにとりなし祈る人が求められています(イザヤ書59:16)。「同胞に対するあわれみに欠けているなら、私たちの正統信仰は堅苦しいだけで終わってしまいます」(F.A.シェーファー)。

エズラ記9:3~15「天に達する罪であっても」

2018年10月14日、エズラ記9:3~15「天に達する罪であっても」
指導者も民も律法に反して異民族と結婚していることを知ったエズラは、民の罪を自分の罪と捉えて心を痛め、断食して祈りました。先祖の時代から今日まで、律法破りの罪は「頭よりも高く」積もり、今や「天に達し」ています。エズラにできることは、「正しくいらせられ」る神の前に心底嘆き悲しみ、あわれみにすがることだけでした。
これこそ神のあわれみや赦しを願い求める際に必要不可欠な態度です。パリサイ人と取税人の譬え(ルカ18:9~14)の中で、パリサイ人は祈りの中で他人を見下し、自分の義しさを誇りました。取税人は自分の罪を心底悲しみ、砕けきった心で「神様、罪人のわたしをおゆるしください(=新改訳「こんな罪人の私をあわれんでください」)」と祈りました。神に受け入れられたのは、丸裸になって神の前に出た取税人でした。
エズラ同様、パウロも「大きな悲しみ…絶えざる痛み」に襲われました。同胞ユダヤ人がイエスを信じようとしないからです(ローマ9:1~3)。かつてのパウロもそうでしたが、ダマスコ途上で復活のイエスと出会い、迫害者から伝道者へと造り変えられました(使徒行伝 第9章)。そのようなパウロだからこそ、自分だけ救われて喜ぶことなどとてもできませんでした。「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(8:39)と言ったパウロが、「同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」と叫び、滅びの破れ口に仁王立ちになって同胞のために祈るのです。このようにとりなし祈る人が求められています(イザヤ書59:16)。「同胞に対するあわれみに欠けているなら、私たちの正統信仰は堅苦しいだけで終わってしまいます」(F.A.シェーファー)。

ペテロの第一の手紙1:3~9「復活の希望」

2018年10月7日、ペテロの第一の手紙1:3~9「復活の希望」
①新しく生まれる希望(3節)
人生で最強の敵は何でしょうか。それは死です。死を前にしたとき、どのような権力者も有名人もなすすべがありません。人は皆例外なく死に飲み込まれ、墓に葬られて人生を閉じます。程度の差こそあれ、人は皆、死を恐れています。それは、死んだ後に神のさばきを受けてすべてが明らかにされること、そして罪を持ったままでは永遠の滅びであることを本能的に知っているからでしょう(ヘブル9:27、ロ-マ6:23)。しかしキリストの十字架と復活は、人生最大の敵である罪と死に対しても輝かしい勝利を約束しています。キリストを信じるならば、罪赦され、「新たに生れさせて生ける望みをいだかせ」、死んでも終わりでない永遠のいのちに生まれ変わらせて下さいます。
②資産を受け継ぐ希望(4~5節)
キリストを信じて新しく生まれた者には、「資産を受け継ぐ」希望があります。ここで言う「資産」とは、天のふるさと、天国のことです。十字架前夜、弟子たちに「場所を用意しに行く」と言われたキリストは(ヨハネ14:2~3)、天国の住まいを用意するために十字架上で死に、三日目に復活されました。死後行く場所がない、どこへ行くのかわからない人は、真の希望と喜び、感謝と平安に満ちた生活を送ることはできません。それゆえ天国にすまいがあるということは、世のいかなる資産を得るよりもはるかに勝る最大の祝福と言えるでしょう。天国の住まいは「朽ちず」、目減りしません。人間の罪によって「汚れず」、永遠に「しぼむことのない資産」です。この資産を受け継ぎ損なうことがないように、絶えず「神の御力に守られ」続けているのです。

使徒行伝4:23~31「万物の造り主なる神よ」

2018年9月30日、使徒行伝4:23~31「万物の造り主なる神よ」
①身についた祈り(23~24節)
神殿で説教中に捕えられ、今後説教することを禁じられた上で釈放されたペテロとヨハネは、真っ先に「仲間の者たちのところに帰っ」て行きました。二人が「いっさいのことを報告した」後、皆で「口をそろえて、神にむかい声をあげて」祈りました。初代教会は、特別な時だけでなく普段から共に集まって祈る教会、祈りに忙しい教会でした(2:42、46)。しかもそれは、心を合わせた祈りでした(24、31、33節「一同」。24節「口をそろえて」。32節「心を一つにし思いを一つにして」)。彼らにとって教会生活や祈りは、三度の食事のように欠かせないもの、身にしみついていたものでした。私たちも礼拝や祈祷会で共に祈りましょう。
②主権者に信頼した祈り(24~29節)
「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主(奴隷に対する絶対的権力をもった主人、の意)よ」とは、私たちの信じる神は万物の造り主、全宇宙の主権者であるという信仰による呼びかけです。この神が共におられ、神による救いを宣教しているのに、なぜ今回の迫害が起こったのか疑問に感じた彼らに、詩篇2:1~2が開かれました(25~26節)。反逆者たちはこぞってイエスを十字架につけるが、かえって「あらかじめ定められていた」救いのご計画が成就するとの預言です。今回の迫害も「むなしい…図り」ごとに終わることを確信した彼らは、「迫害に目をとめ…て下さい」とだけ祈りました。「御子の血であがない取られた」(20:28)私たちを神は決して見捨てず、私たちが神の側にいる限り、どんな問題であっても必ず最終的には勝利を取って下さいます(ローマ8:37)。主権者なる神に全く信頼して祈りましょう。

テサロニケ人への第一の手紙4:13~18「再会の希望がある」

2018年9月23日、テサロニケ人への第一の手紙4:13~18「再会の希望がある」
「主ご自身が…天から下ってこられる」とありますが、約2000年前、神の御子イエス・キリストは人の子として降誕されました。全人類の罪を背負って十字架上で死に、ただキリストを信じるだけで罪赦される救いの道を開くためでした。そのキリストがもう一度「天から下ってこられる」と(再臨)、「キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり」、すなわちキリストを信じて召され、パラダイスで安息している人々が、栄光のからだを与えられてよみがえります。ですからキリストを信じて召された兄弟姉妹には、「永眠した」という表現はふさわしくありません。再臨時に復活し、天国で永遠に神と共に生きるまで「眠っている」、仮眠しているに過ぎないからです。
「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ…いつも主と共にいる」ということは、先に召された兄弟姉妹たちと天国で再会する希望があるということです。ただしそれには条件があります。「キリストにあって」とあるように、キリストを信じて罪赦されていることが条件です。「立派に死ぬことは、立派に生きることです。立派に死ぬということは、自分の罪が処理されることです。死後、神の御前でさばかれる存在である私たちにとって、この罪は大事な問題です。人間が死を避けるのは、死が怖いからではなく、そこに罪があるからなのです。その問題の解決の鍵こそがキリストなのです」(森有正、ヘブル9:27、ローマ6:23)。いつまでも「望みを持たない外の人々」であってはなりません。死によって一時的に離れ離れになっても、キリストを信じて救われた者には天国での再会の希望があるので、「互に慰め合」うことが真に可能なのです。

伝道の書12:1~14「すべての人の本分」

2018年9月16日、伝道の書12:1~14「すべての人の本分」
本書は「空(息、の意)の空、空の空、いっさいは空である」(1:2)で始まり、12:8にも「空の空、いっさいは空である」とあり、それらの間に、知恵や知識、快楽や富、権力等をいくら得ても息のようにはかなく空しい体験が満ち満ちています。しかし忘れてならないのは、「日の下で」という語です(1:3他)。「日の下」、すなわち地上のことのみ追求する人生は、結局「空の空」だということです。そして12:1~8は老年についての記述です。老年は冬のように陰鬱で(2節)、腕や足が衰え、背骨は曲がり、歯は抜け、目は遠くなります(3節)。耳は遠くなり、話し声は小さくなり、朝早く目覚め、声に張りがなくなります(4節)。道を歩くのも困難になり、白髪になり、性欲は衰え、遂には死んで墓に葬られます(5~6節)。このような老年になり、「『わたしにはなんの楽しみもない』と言うように」なるなら、地上でいかに多くのものを得たとしても、それこそ「空の空、空の空、いっさいは空」です。
だからこそ著者は、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と声高に叫ぶのです。神のかたちに造られた「すべての人の本分」、人間が人間としてなすべき第一のことは、「神を恐れ、その命令を守」って生きることです。ところが人はこの本分から逸脱して、神に背を向けて生きています。この的外れの状態を聖書は「罪」と呼び、これこそが「空の空」の根源なのです。この罪の問題を解決するために御子イエスは来臨され、十字架上で身代わりの死を遂げられました。「先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは…キリストの尊い血によったのである」(Ⅰペテロ1:18~19)。十字架の血は、私たちを「空疎な生活から」救い出し、意義ある人生へと導き入れて下さるのです。

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