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ハガイ書1:12~15「奮い立って仕事に取りかかる」

2018年5月13日、ハガイ書1:12~15「奮い立って仕事に取りかかる」
①民は恐れかしこんだ(12節)
信仰はまず御言葉を聞くことから始まります(ローマ10:17)。御言葉を聞かなければ何も始まらないので、毎週の礼拝・祈祷会、毎日の静思の時を大切にしましょう。「民は、その神、主の声と、その神、主のつかわされた預言者ハガイの言葉とに聞きしたがい」ました(サムエル記上3:9)。「あなたがたの歩みをよく考えよ」と迫られた民は、空回り人生の根本原因は優先順位の狂いにあることを素直に認め、今後は御言葉に聞き従っていく決断をし、「主の前に恐れかしこ」みました。
②主は共にいると言われた(13節)
御言葉に「聞きしたがい…主の前に恐れかしこんだ」民に対して、主は「わたしはあなたがたと共にいる」と言われました。この臨在の約束は、民にとって、どんな大国の援助や協力よりもはるかに頼もしいものでした。私たちにも「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)という約束があります。
③主は振り動かされた(14~15節)
臨在の約束をもって励まされた「主は…総督ゼルバベルの心と…大祭司ヨシュアの心…すべての民の心を、振り動かされ(エズラ記1:1、5「感動された」と同語)」、約16年も中断していた神殿再建工事を再開させられました。厳しい事情は少しも変わっていませんが、民の心が変わったのです。御言葉から離れ、優先順位を誤って目先の現象だけを追っていると、私たちは間違いなく失望落胆します。しかし御言葉に耳を傾けるならば、主が共におられることを確信でき、「心を、振り動かされ」、信仰と希望に再び立ち上がることができるのです。

ハガイ書1:12~15「奮い立って仕事に取りかかる」

2018年5月13日、ハガイ書1:12~15「奮い立って仕事に取りかかる」
①民は恐れかしこんだ(12節)
信仰はまず御言葉を聞くことから始まります(ローマ10:17)。御言葉を聞かなければ何も始まらないので、毎週の礼拝・祈祷会、毎日の静思の時を大切にしましょう。「民は、その神、主の声と、その神、主のつかわされた預言者ハガイの言葉とに聞きしたがい」ました(サムエル記上3:9)。「あなたがたの歩みをよく考えよ」と迫られた民は、空回り人生の根本原因は優先順位の狂いにあることを素直に認め、今後は御言葉に聞き従っていく決断をし、「主の前に恐れかしこ」みました。
②主は共にいると言われた(13節)
御言葉に「聞きしたがい…主の前に恐れかしこんだ」民に対して、主は「わたしはあなたがたと共にいる」と言われました。この臨在の約束は、民にとって、どんな大国の援助や協力よりもはるかに頼もしいものでした。私たちにも「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)という約束があります。
③主は振り動かされた(14~15節)
臨在の約束をもって励まされた「主は…総督ゼルバベルの心と…大祭司ヨシュアの心…すべての民の心を、振り動かされ(エズラ記1:1、5「感動された」と同語)」、約16年も中断していた神殿再建工事を再開させられました。厳しい事情は少しも変わっていませんが、民の心が変わったのです。御言葉から離れ、優先順位を誤って目先の現象だけを追っていると、私たちは間違いなく失望落胆します。しかし御言葉に耳を傾けるならば、主が共におられることを確信でき、「心を、振り動かされ」、信仰と希望に再び立ち上がることができるのです。

ハガイ書1:1~11「あなたがたの歩みをよく考えよ」

2018年5月6日、ハガイ書1:1~11「あなたがたの歩みをよく考えよ」
「主の言葉」が預言者ハガイに臨み、「総督ゼルバベル…大祭司ヨシュア」に伝えられました。自分たちは屋根のある家に住みながら、「主の家を再び建てる時は、まだこないと言って」、約16年も工事を中断したままの民に、「自分のなすべきこと(新改訳「あなたがたの歩み」)をよく考えるがよい」(1:5、7、2:15、18)と語りかけられました。これまでの信仰姿勢と、その結果もたらされた現状とを照らし合わせて、「よく考えるがよい」と促されたのです。「多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているような」空回り人生の根本原因は、優先順位が狂っていることにあったのです。
「まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない」空の鳥を養っておられる神、「働きもせず、紡ぎもしない…きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる」野の草花をも「栄華をきわめた時のソロモン」以上に美しく飾られる神が、どうして私たちに「それ以上よくしてくださらないはずがあろうか」。それゆえ「まず神の国(神の恵みによる支配)と神の義(神との正しい関係)とを求めなさい」。罪を悔い改めてイエスの十字架を信じ、神と共に歩むならば、必要なものは「すべて添えて与えられ」ます。「あすのことを思いわずらう」ことからも解放され、今日一日を神の御手に委ねて精一杯生きることができるようになります(マタイ6:25~34)。「人生、物事がうまく行かないのは、人が神に求めず、自分、自分と自分のことだけに没頭し、自力一つで切り抜けようとするからです。(中略)神の国を第一にして、穴あき袋の徒労人生におさらばしようではありませんか」(吉持章師)。

ハガイ書1:1~11「あなたがたの歩みをよく考えよ」

2018年5月6日、ハガイ書1:1~11「あなたがたの歩みをよく考えよ」
「主の言葉」が預言者ハガイに臨み、「総督ゼルバベル…大祭司ヨシュア」に伝えられました。自分たちは屋根のある家に住みながら、「主の家を再び建てる時は、まだこないと言って」、約16年も工事を中断したままの民に、「自分のなすべきこと(新改訳「あなたがたの歩み」)をよく考えるがよい」(1:5、7、2:15、18)と語りかけられました。これまでの信仰姿勢と、その結果もたらされた現状とを照らし合わせて、「よく考えるがよい」と促されたのです。「多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているような」空回り人生の根本原因は、優先順位が狂っていることにあったのです。
「まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない」空の鳥を養っておられる神、「働きもせず、紡ぎもしない…きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる」野の草花をも「栄華をきわめた時のソロモン」以上に美しく飾られる神が、どうして私たちに「それ以上よくしてくださらないはずがあろうか」。それゆえ「まず神の国(神の恵みによる支配)と神の義(神との正しい関係)とを求めなさい」。罪を悔い改めてイエスの十字架を信じ、神と共に歩むならば、必要なものは「すべて添えて与えられ」ます。「あすのことを思いわずらう」ことからも解放され、今日一日を神の御手に委ねて精一杯生きることができるようになります(マタイ6:25~34)。「人生、物事がうまく行かないのは、人が神に求めず、自分、自分と自分のことだけに没頭し、自力一つで切り抜けようとするからです。(中略)神の国を第一にして、穴あき袋のスーパーコピー時計徒労人生におさらばしようではありませんか」(吉持章師)。

5月ジョイジョイクラブ

★5月ジョイジョイクラブ★

日時:5月27日(日)午後1時~3時頃

みなさん元気ですか?
今月は、誰でも簡単においしくできるクッキー作り&ゲーム大会です。
皆で楽しく作り、遊びましょう!

エズラ記5:1~2「御言葉により再び立ち上がる」

2018年4月29日、エズラ記5:1~2「御言葉により再び立ち上がる」
16年間も中断していた神殿再建工事を再開させた二つの要因とは
①預言者の派遣
エレミヤの預言活動から約60年ぶりに預言者ハガイとゼカリヤがエルサレムに現れ、「ゼルバベル(総督、政治的指導者)および…エシュア(大祭司、宗教的指導者)は立ちあがって、エルサレムにある神の宮を(再び)建て始め」ました。かつて神は、エジプトの奴隷であった民の「うめき…叫び」を「聞き…覚え…顧み」、モーセを指導者としてエジプトを脱出させられました。その後も神は士師や預言者を遣わして民を導いてこられました。「神は天使(良い協力者)をお送り下さる」(鄭弼祷師)。私たちは一人孤独で戦っているのではありません。神が共に戦っていて下さいます。そればかりか、「神の預言者たちも、彼らと共にいて彼らを助けた」、良い協力者・理解者を送って助けて下さるのです。
②御言葉の激励
神殿再建を半ば諦め失望していた民を再び立ち上がらせたのは、預言者であり、預言者によって語られた神の言葉でした。バアルの神との戦いの後、燃え尽き症候群のような状態に陥ったエリヤを再び立ち上がらせたのは、休息と食事、そして神の「静かな細い声」でした(列王紀下 第19章)。イエスが処刑されて絶望するエマオ途上の弟子たちを再び立ち上がらせたのは、復活のイエスによる御言葉の解き明かしでした(ルカ 第24章)。人の慰めの言葉等も確かに重要ですが、それらに勝って神の言葉ほど私たちを力づけ励ますものはありません。しかし何と私たちは、御言葉とは真逆のメッセージを世から受け取っていることでしょうか。神の御言葉にこそ耳を傾けましょう。

エズラ記5:1~2「御言葉により再び立ち上がる」

2018年4月29日、エズラ記5:1~2「御言葉により再び立ち上がる」
16年間も中断していた神殿再建工事を再開させた二つの要因とは
①預言者の派遣
エレミヤの預言活動から約60年ぶりに預言者ハガイとゼカリヤがエルサレムに現れ、「ゼルバベル(総督、政治的指導者)および…エシュア(大祭司、宗教的指導者)は立ちあがって、エルサレムにある神の宮を(再び)建て始め」ました。かつて神は、エジプトの奴隷であった民の「うめき…叫び」を「聞き…覚え…顧み」、モーセを指導者としてエジプトを脱出させられました。その後も神は士師や預言者を遣わして民を導いてこられました。「神は天使(良い協力者)をお送り下さる」(鄭弼祷師)。私たちは一人孤独で戦っているのではありません。神が共に戦っていて下さいます。そればかりか、「神の預言者たちも、彼らと共にいて彼らを助けた」、良い協力者・理解者を送って助けて下さるのです。
②御言葉の激励
神殿再建を半ば諦め失望していた民を再び立ち上がらせたのは、預言者であり、預言者によって語られた神の言葉でした。バアルの神との戦いの後、燃え尽き症候群のような状態に陥ったエリヤを再び立ち上がらせたのは、休息と食事、そして神の「静かな細い声」でした(列王紀下 第19章)。イエスが処刑されて絶望するエマオ途上の弟子たちを再び立ち上がらせたのは、復活のイエスによる御言葉の解き明かしでした(ルカ 第24章)。人の慰めの言葉等も確かに重要ですが、それらに勝って神の言葉ほど私たちを力づけ励ますものはありません。しかし何と私たちは、御言葉とは真逆のメッセージを世から受け取っていることでしょうか。神の御言葉にこそ耳を傾けましょう。

エズラ記4:1~24「親切そうに見えて実は」

2018年4月22日、エズラ記4:1~24「親切そうに見えて実は」
「ユダとベニヤミンの敵(サマリヤ人)」が「われわれも、あなたがたと一緒にこれを建てさせてください。われわれはあなたがたと同じく、あなたがたの神を礼拝します…」と神殿再建工事への協力を申し出ました。猫の手も借りたいのが実情でしたが、断固拒絶しました。先祖たちが犯した偶像崇拝の道に再び陥る危険性が大であったからです。すると敵は本性を現し、脅迫や嫌がらせ、役人買収によって妨害したため、16年間も工事を中断せざるを得なくなりました。
このときの敵の手口は、悪魔がよく使う手口でもあります。「光の天使に擬装」して忍び寄り、言葉巧みにささやくかと思えば、「ほえたけるししのように」牙をむいて襲いかかることもあります(Ⅱコリント11:14、Ⅰペテロ5:8)。この悪魔の餌食にならないためにも、イエスにつながり続け、御言葉を聞き続けることにより、正しく判別する力を与えられる必要があります(ヨハネ10:2~5)。また私たちは、真に頼り得る神に頼らないで、目先の人間的な知恵や方策に飛びつきやすく、せっかくの神の出番を奪ってしまいやすいのではないでしょうか。「あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ」(イザヤ2:22)。さらに悪魔は、私たちに失望の火矢を打ち込んできます。今の時代、目の前の現実だけ見つめると、それこそ失望の連続です。しかしだからこそ、神に期待し、諦めないで祈り続けたいものです。
私たちは常に選択と決断を迫られています。自分の欲や一時の感情に従って選択すると、やがて問題が生じるものです。このときのユダヤ人のように、神とその御言葉に堅く立った選択をしたいものです。たとえ遠回りしたように見えても、それが祝福の道なのです。

エズラ記4:1~24「親切そうに見えて実は」

2018年4月22日、エズラ記4:1~24「親切そうに見えて実は」
「ユダとベニヤミンの敵(サマリヤ人)」が「われわれも、あなたがたと一緒にこれを建てさせてください。われわれはあなたがたと同じく、あなたがたの神を礼拝します…」と神殿再建工事への協力を申し出ました。猫の手も借りたいのが実情でしたが、断固拒絶しました。先祖たちが犯した偶像崇拝の道に再び陥る危険性が大であったからです。すると敵は本性を現し、脅迫や嫌がらせ、役人買収によって妨害したため、16年間も工事を中断せざるを得なくなりました。
このときの敵の手口は、悪魔がよく使う手口でもあります。「光の天使に擬装」して忍び寄り、言葉巧みにささやくかと思えば、「ほえたけるししのように」牙をむいて襲いかかることもあります(Ⅱコリント11:14、Ⅰペテロ5:8)。この悪魔の餌食にならないためにも、イエスにつながり続け、御言葉を聞き続けることにより、正しく判別する力を与えられる必要があります(ヨハネ10:2~5)。また私たちは、真に頼り得る神に頼らないで、目先の人間的な知恵や方策に飛びつきやすく、せっかくの神の出番を奪ってしまいやすいのではないでしょうか。「あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ」(イザヤ2:22)。さらに悪魔は、私たちに失望の火矢を打ち込んできます。今の時代、目の前の現実だけ見つめると、それこそ失望の連続です。しかしだからこそ、神に期待し、諦めないで祈り続けたいものです。
私たちは常に選択と決断を迫られています。自分の欲や一時の感情に従って選択すると、やがて問題が生じるものです。このときのユダヤ人のように、神とその御言葉に堅く立った選択をしたいものです。たとえ遠回りしたように見えても、それが祝福の道なのです。

ヨハネの第一の手紙3:14~18「十字架の愛に応えて」

2018年4月15日、ヨハネの第一の手紙3:14~18「十字架の愛に応えて」
イエスは「兄弟に対して怒る者(新改訳「腹を立てる者」)…愚か者(新改訳「能なし」)…ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれる」と言われ(マタイ5:22)、ヨハネは「すべて兄弟を憎む者は人殺しであり」と記します。心の中で抱く怒り・憎悪・敵意・悪口・軽蔑・罵り等も、殺人と本質的に同じです。あなたはこれまで何人の人を心の中で、また言葉で殺してきたでしょうか。「わたしたちがまだ弱かったころ…まだ罪人であった時…敵であった時」(ローマ5:6、8、10)、私たちの側には神の恵みを受け得る良いものなど何一つないのに、私たちを永遠の滅びから救うべく「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった」のです。
十字架によって「愛ということを知った」者は、「兄弟(複数形)のためにいのちを捨てる」ほど愛するはずですが、「いのちを捨てる」ことは普段そうそう要求されることではありません。しかし「兄弟(単数形)が困っているのを見」ることは日常茶飯事です。そのとき「あわれみの心を閉じる者」、見て見ぬふりをして助けようとしない者が、いざというとき、どうして「兄弟のためにいのちを捨てる」ことができるでしょうか。「愛しています。祈っています」と、「言葉や口先」で言うだけで何もしないのは偽善です。「愛」は、単なる言葉遊びや概念であっては無意味です。具体的な行動を伴ってこその「愛」です。「年をとれば、きみは二本の手を持っていることに気づくだろう。自分自身を助ける手と、他人を助ける手と」(オードリー・ヘプバーンが死の間際、息子たちに読み聞かせた詩)。十字架の愛に応えて、あなたはどう生きるべきでしょうか。「他人を助ける手」をどう使うべきでしょうか。祈る「手」、「世の富」を献げる「手」、身近な人々を気にかけ配慮する「手」でしょうか。

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