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3月ジョイジョイクラブ

★3月ジョイジョイクラブ★

日時:3月11日(日)午後1時~3時頃

今月は、クレープ・パーティーです。
皆で楽しく作って食べましょう。

2月ジョイジョイクラブはお休みです。

エズラ記1:5~11「主は民の心を感動されたので」

2018年2月11日、エズラ記1:5~11「主は民の心を感動されたので」
主はクロス王の心を感動されましたが、同時にイスラエルの心をも感動されたからこそ、祖国帰還の約束が実現したのです。繁栄を謳歌していたときには、イスラエルは心をかたくなにして、預言者たちの声に耳を傾けようともしませんでした。しかし頼みとしていた城壁や神殿がなくなり、もはや頼るべきものは主の御言葉以外になくなったそのとき、民の間で生じたのが悔い改めであり、捕囚から解放される日が来るという御言葉の約束実現を待ち望む信仰でした(詩篇 第137篇他)。神は民の側の応答を待っておられるのです。「時が来れば成就する」(ルカ1:20)約束の御言葉を信じて待ち望む信仰を。
捕囚の地から祖国までは3~5か月の長旅であり、祖国の現状が不明のまま帰還するには、大変な勇気と決断、信仰と犠牲を必要としました。様々な事情からペルシャに留まる者もいましたが、彼らもやはり「神にその心を感動され…銀の器、金、貨財、家畜および宝物…もろもろの物を惜しげなくささげ」て協力しました。民の悔い改めと協同があったからこそ、神殿再建の大事業が現実となったのです。
イエスを三度否んだペテロも回復されました(ルカ22:54~62)。あなたが過去どんな失敗をしたとしても、イスラエルやペテロ同様、神はあなたにも挽回のチャンス、再出発のチャンスを与えて下さいます。イエスを信じて生きる人生は、いつでもやり直し可能な人生です(Ⅱコリント5:17)。失敗のない人生などありません。問題は、失敗した後どうするかです。ユダのように自分に絶望して投げ出してしまうか、それともペテロのように神のあわれみにすがるか。神のあわれみに感動して立ち上がり、「惜しげなくささげ」る心を神は喜ばれます。

エズラ記1:5~11「主は民の心を感動されたので」

2018年2月11日、エズラ記1:5~11「主は民の心を感動されたので」
主はクロス王の心を感動されましたが、同時にイスラエルの心をも感動されたからこそ、祖国帰還の約束が実現したのです。繁栄を謳歌していたときには、イスラエルは心をかたくなにして、預言者たちの声に耳を傾けようともしませんでした。しかし頼みとしていた城壁や神殿がなくなり、もはや頼るべきものは主の御言葉以外になくなったそのとき、民の間で生じたのが悔い改めであり、捕囚から解放される日が来るという御言葉の約束実現を待ち望む信仰でした(詩篇 第137篇他)。神は民の側の応答を待っておられるのです。「時が来れば成就する」(ルカ1:20)約束の御言葉を信じて待ち望む信仰を。
捕囚の地から祖国までは3~5か月の長旅であり、祖国の現状が不明のまま帰還するには、大変な勇気と決断、信仰と犠牲を必要としました。様々な事情からペルシャに留まる者もいましたが、彼らもやはり「神にその心を感動され…銀の器、金、貨財、家畜および宝物…もろもろの物を惜しげなくささげ」て協力しました。民の悔い改めと協同があったからこそ、神殿再建の大事業が現実となったのです。
イエスを三度否んだペテロも回復されました(ルカ22:54~62)。あなたが過去どんな失敗をしたとしても、イスラエルやペテロ同様、神はあなたにも挽回のチャンス、再出発のチャンスを与えて下さいます。イエスを信じて生きる人生は、いつでもやり直し可能な人生です(Ⅱコリント5:17)。失敗のない人生などありません。問題は、失敗した後どうするかです。ユダのように自分に絶望して投げ出してしまうか、それともペテロのように神のあわれみにすがるか。神のあわれみに感動して立ち上がり、「惜しげなくささげ」る心を神は喜ばれます。

エズラ記1:1~4「主はクロスの心を感動されたので」

2018年2月4日、エズラ記1:1~4「主はクロスの心を感動されたので」
罪に罪を重ねたイスラエルはバビロン捕囚となりましたが(歴代志下36:15~16)、バビロンは「ペルシャ王クロス」に滅ぼされ、イスラエル帰還を許されます。ここでの主語は「クロス」ではなく「主」です。万物の創造者・支配者なる主こそ、バビロン捕囚からの解放の真の主人公なのです。捕囚の地で民が「主はもはや私たちを見捨てられたのではないか」と絶望していたとき、主は「バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る」(エレミヤ書25:11~12、29:10)という「エレミヤの口によって伝えられた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの心を感動された」のです。「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:11)、主は約束の御言葉を必ず実現されます。
バプテスマのヨハネ誕生を告知されザカリヤは、「時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたは口がきけなくなり」と宣告され、イエスの処女降誕を告知されたマリヤは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と主に信頼し、「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」とその信仰を称賛されました(ルカ1:5~45)。
サタンは、私たちが御言葉を信じて待ち望むことを阻止するため、あらゆる方法を駆使して御言葉を疑わせ、失望させ、悲観させます。厳しい現実と約束の御言葉と、あなたはどちらを重視していますか。「やがて、イエス・キリストが再び来られるその日まで、判断をいつも留保しながら、しかし期待しながら歩んでいくのです」(大嶋重徳師)。

エズラ記1:1~4「主はクロスの心を感動されたので」

2018年2月4日、エズラ記1:1~4「主はクロスの心を感動されたので」
罪に罪を重ねたイスラエルはバビロン捕囚となりましたが(歴代志下36:15~16)、バビロンは「ペルシャ王クロス」に滅ぼされ、イスラエル帰還を許されます。ここでの主語は「クロス」ではなく「主」です。万物の創造者・支配者なる主こそ、バビロン捕囚からの解放の真の主人公なのです。捕囚の地で民が「主はもはや私たちを見捨てられたのではないか」と絶望していたとき、主は「バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る」(エレミヤ書25:11~12、29:10)という「エレミヤの口によって伝えられた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの心を感動された」のです。「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:11)、主は約束の御言葉を必ず実現されます。
バプテスマのヨハネ誕生を告知されザカリヤは、「時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたは口がきけなくなり」と宣告され、イエスの処女降誕を告知されたマリヤは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と主に信頼し、「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」とその信仰を称賛されました(ルカ1:5~45)。
サタンは、私たちが御言葉を信じて待ち望むことを阻止するため、あらゆる方法を駆使して御言葉を疑わせ、失望させ、悲観させます。厳しい現実と約束の御言葉と、あなたはどちらを重視していますか。「やがて、イエス・キリストが再び来られるその日まで、判断をいつも留保しながら、しかし期待しながら歩んでいくのです」(大嶋重徳師)。

ローマ人への手紙8:18~25「共にうめき、共に苦しみ」

2018年1月14日、ローマ人への手紙8:18~25「共にうめき、共に苦しみ」
最初の人アダムの堕罪により、全人類に罪が入り込んで死ぬべき存在となっただけでなく(5:12)、「地は…いばらとあざみとを生じ」(創世記3:18)、天地創造当初の栄光を失い、「虚無に服し」ました。それは、「自分の意思によるのではなく」人間の罪のためであり、「服従させたかた(神)」によるさばきの結果です。被造物は罪に汚染されてから「今に至るまで」、「実に、切なる思いで神の子たちの出現」、すなわちキリスト者が神の子として完全な栄光を受ける日、「滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る」キリスト再臨の日を待ち望みながら、「共にうめき共に産みの苦しみを続けている」のです。
うめいているのは自然界だけではありません。私たち人間もうめいています。現在の肉体は疲れや弱さを覚えたり、病気をしたり、罪を犯したりする不完全な肉体ですが、再臨後には「子たる身分を授けられる…からだのあがなわれる」、すなわちキリストと同じ栄光のからだに変えられ、天国で永遠に神と共に生きます。「御霊の最初の実(新改訳「御霊の初穂」)を持っている」私たちは、この救いの完成を「心の内でうめきながら…待ち望んでいる」のです。初穂を収穫したということは、それに続く豊かな収穫があることを示しているように、キリストを信じて内に御霊を宿したということは、やがて完全な救いが実現するということの保証なのです(エペソ1:14、Ⅰコリント15:20)。 「今のこの時の苦しみ」は、「やがてわたしたちに現されようとする栄光」と比べるなら「言うに足りない(新改訳「取るに足りない」)」のですから、「今のこの時の苦しみ」に押しつぶされそうになっているなら、十字架を仰ぎ、「やがて…現されようとする栄光」に目を注ぎましょう。

コリント人への第二の手紙5:16~21「見よ、すべてが新しく」

2018年1月7日、コリント人への第二の手紙5:16~21「見よ、すべてが新しく」
本書の著者パウロは以前、律法を守り行うことによって神に義と認められようと考え、「かつてはキリストを肉によって(新改訳「人間的な標準で」)知っていた」だけでした。イエスは罪の全くない神の御子でありながら、全人類の罪を背負って十字架につけられ、神にさばかれて死なれたこと、しかし三日目に復活されたこと、このイエスこそ約束の救い主で、イエスを信じるだけで義と認められることを宣ベ伝えるイエスの弟子たちに我慢ならず、教会を迫害していました。
そんなパウロがダマスコにある教会を迫害しようと道を急いでいると、突然天からの光に打ちのめされ、復活のキリストに出会いました。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」ことに目が開かれ、罪を悔い改めてイエスを信じたパウロは、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」という救いを明確に体験し、キリストの弟子となったのです(使徒9:1~22)。
これはパウロだけのことではありません。「だれでもキリストにあるならば」、「だれでもキリストに」信頼しさえするならば、部分的な修理や補修、改造などではなく、全面的な新創造、全く新しく造り変えられるのです。「まず心の一新が必要です。新年に一新すべきはカレンダーや手帳ばかりではなく、まさに『心の一新』です。どんなに外側を変えてみても、中身が変わらなければ真の新年とはなりません」(吉持章師)。いつからでもやり直し可能なのがキリストにある人生です。そしてそのような人生には手後れなど絶対にないのです。

コロサイ人への手紙3:15~17「感謝にあふれて賛美しよう」

2017年12月31日、コロサイ人への手紙3:15~17「感謝にあふれて賛美しよう」
「感謝し」という語がここに3回出てきます。神に自分の願いを訴えることには一生懸命でも、神に感謝することには不熱心な上、つぶやきや愚痴、不平不満でいっぱい、ということはないでしょうか。
「キリストの平和」が感謝の源泉です。「わたしたちがまだ弱かったころ…まだ罪人であった時…敵であった時」(ローマ5:6、8、10)とあるように、私たちは以前「平和」とは正反対の存在でした。造り主なる神との不和・敵対関係こそ、あらゆる不幸の根源です。そんな私たちの的外れの罪を赦し、神と和解する道を開くために来られたのが御子イエスでした。イエスは全人類の罪を背負って十字架につけられ、神にさばかれて死なれましたが、三日目によみがえり、ただイエスを信じるだけで救われる道を完成して下さいました。私たちは、神が用意して下さったこの救いを、ただ感謝して受け取ることしかできない存在です。否、受け取るだけでよいのです。「あなたがたの救われたのは、恵みによる」(エペソ2:5)、救いは神の一方的な恵みであって、人間側の功績など微塵もありません。イエスを信じて「キリストの平和」を得た者は、「いつも感謝してい」るようになるでしょう。すべては神の恵みであることが本当にわかれば、自然と感謝にあふれてくることでしょう。神の恵みと神への感謝はセットなのです。
神の恵みは、奇跡的な出来事の中だけでなく、平凡な日常生活の中にも満ち満ちています。すべては神の恵みであるのに、何もかも当たり前のように思って生活していませんでしたか。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103:2)。大晦日、神の恵みを思い返しつつ賛美しましょう。

マタイによる福音書2:1~12「喜びあふれるクリスマス」

2017年12月24日、マタイによる福音書2:1~12「喜びあふれるクリスマス」
今までにない星が夜空に輝くのを見た「博士たち(新共同訳「占星術の学者たち」)」は、救い主誕生のしるしと確信し、千㎞以上もの長旅を続けてユダヤに到着し、遂に救い主に「会い、ひれ伏して拝み…黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげ」ました。神はやがて救い主が到来するということを度々約束してこられ、博士たちは神の約束は時が来ると必ず実現するということを今回まざまざと体験し、神とその御言葉に従っていけば間違いないと確信したので「非常な喜びにあふれ」、高価な贈物を惜しみなく献げずにはいられなかったのです。
人が真に幸いな人生を送ることができない最大の原因は、「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)、この造り主なる神を第一としない的外れの罪にあり、この罪の問題を解決するために御子イエスは降誕され、十字架と復活によって救いを完成されたのです。イエスを救い主と信じ受け入れるなら、聖書に記されている神の約束が自分のものとなります。たとえば、「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」(イザヤ書41:10)。万事休すと思えるようなときにも、神は「あなたと共にい」て、「あなたを強くし…助け…ささえ」て下さいます。また、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」(ローマ8:28)。すべてのことの背後には神の愛のご計画があり、マイナスと思える体験も必ず感謝と喜びに変えて下さいます。イエスを信じて「非常な喜びにあふれ」る人生に入れていただきましょう。

マタイによる福音書2:1~12「喜びあふれるクリスマス」

2017年12月24日、マタイによる福音書2:1~12「喜びあふれるクリスマス」
今までにない星が夜空に輝くのを見た「博士たち(新共同訳「占星術の学者たち」)」は、救い主誕生のしるしと確信し、千㎞以上もの長旅を続けてユダヤに到着し、遂に救い主に「会い、ひれ伏して拝み…黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげ」ました。神はやがて救い主が到来するということを度々約束してこられ、博士たちは神の約束は時が来ると必ず実現するということを今回まざまざと体験し、神とその御言葉に従っていけば間違いないと確信したので「非常な喜びにあふれ」、高価な贈物を惜しみなく献げずにはいられなかったのです。
人が真に幸いな人生を送ることができない最大の原因は、「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)、この造り主なる神を第一としない的外れの罪にあり、この罪の問題を解決するために御子イエスは降誕され、十字架と復活によって救いを完成されたのです。イエスを救い主と信じ受け入れるなら、聖書に記されている神の約束が自分のものとなります。たとえば、「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」(イザヤ書41:10)。万事休すと思えるようなときにも、神は「あなたと共にい」て、「あなたを強くし…助け…ささえ」て下さいます。また、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」(ローマ8:28)。すべてのことの背後には神の愛のご計画があり、マイナスと思える体験も必ず感謝と喜びに変えて下さいます。イエスを信じて「非常な喜びにあふれ」る人生に入れていただきましょう。

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