記事一覧

「学校行きたくない」「死にたい」と思い悩んでいる方へ

★「学校行きたくない」「死にたい」「もう自分は死ぬしかない」「自分は死んだほうがいいんだ」と思い悩んでいる方、
誰にも相談できず、ひとりで悩んでいる方へ★

あなたは決してひとりではありません。
あなたの周りにはあなたの助けになる人がきっといます。
ためらわないで助けを求めてください。
まずは電話かメールでご連絡ください。

今から数年前にホームレスのおじさんたちが先生役になって、小学生に教えるというセミナーを開きました。(中略)最後の授業は、元野宿のおじさんが「子どもたちに語る」というコーナーでした。(中略)子どもたちに、そのおじさんはこう語りかけました。「おじさんはさぁ、自分で頑張るしかないって60年生きてきたけど、この世の中には助けてくれる人がいたんだ。『助けて』と言えた日が助かった日だったよ」と言ったのです。そうしたら、聞いていた子どもたちの何人かが涙を流しているのです。私は司会だったので、「きみたちも学校でつらいことがある。家でつらいことがある、そんなときは『助けて!』と叫んだらいいんだ。たしかに世の中には、『助けて』と言ったら、『何を甘えているんだ』と言う人もいるよ。でも、『うちにおいで』と言ってくれる人が必ずいるから、『助けて!』って言いなさい」と言ったら、涙をバーっと流している子どもたちが何人もいました。…奥田知志他著『灯を輝かし、闇を照らす』より


イザヤ書8:22~9:2「しかし、苦しみのあったところに光が」

2021年11月28日、イザヤ書8:22~9:2「しかし、苦しみのあったところに光が」
「ガリラヤ」地方は当時、「苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者…苦しみ…闇…辱め…闇…死の陰」と言葉を重ねるように、まるで希望のない暗黒の時代でした。しかしそうした暗黒時代の真っ只中にあって預言者イザヤは、「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる…栄誉を受ける…大きな光を見る…光が輝く」と語ります。厳しい現実をたった一言でひっくり返す「しかし」です。目に見えるところは確かに「苦難と暗闇」ばかりかもしれない、「しかし」必ず「大きな光を見る…光が輝く」時が来る、とイザヤは希望を語るのです。
それは、イザヤの目には暗黒の中に差し込む一条の光がはっきりと見えていたからです。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる」(9:6)とあるように、やがて約束の救い主が来臨することを神から啓示されていたからです。約750年後ではありますが、この預言はイエス・キリストにおいて成就しました。クリスマスの出来事です。
神に造られ生かされている私たち人間にとって、神に背を向けて生きているという神との断絶ほど「闇」の状態はありません。神の御子イエスが来臨されたのは、神と人との断絶状態を十字架と復活によって解消するためでした。イエスを私の罪のための救い主として信じ受け入れると、神との関係が回復され、神が味方となってくださる人生が始まります。目の前の現実は確かに厳しいかもしれない、「しかし」、「アドナイ・イルエ…主の山には備えがある」(創世記22:14)、「インマヌエル…神が私たちとともにおられる」(マタイ1:23)、「エベン・エゼル…ここまで主が私たちを助けてくださった」(Ⅰサムエル7:12)。

イザヤ書8:22~9:2「しかし、苦しみのあったところに光が」

2021年11月28日、イザヤ書8:22~9:2「しかし、苦しみのあったところに光が」
「ガリラヤ」地方は当時、「苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者…苦しみ…闇…辱め…闇…死の陰」と言葉を重ねるように、まるで希望のない暗黒の時代でした。しかしそうした暗黒時代の真っ只中にあって預言者イザヤは、「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる…栄誉を受ける…大きな光を見る…光が輝く」と語ります。厳しい現実をたった一言でひっくり返す「しかし」です。目に見えるところは確かに「苦難と暗闇」ばかりかもしれない、「しかし」必ず「大きな光を見る…光が輝く」時が来る、とイザヤは希望を語るのです。
それは、イザヤの目には暗黒の中に差し込む一条の光がはっきりと見えていたからです。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる」(9:6)とあるように、やがて約束の救い主が来臨することを神から啓示されていたからです。約750年後ではありますが、この預言はイエス・キリストにおいて成就しました。クリスマスの出来事です。
神に造られ生かされている私たち人間にとって、神に背を向けて生きているという神との断絶ほど「闇」の状態はありません。神の御子イエスが来臨されたのは、神と人との断絶状態を十字架と復活によって解消するためでした。イエスを私の罪のための救い主として信じ受け入れると、神との関係が回復され、神が味方となってくださる人生が始まります。目の前の現実は確かに厳しいかもしれない、「しかし」、「アドナイ・イルエ…主の山には備えがある」(創世記22:14)、「インマヌエル…神が私たちとともにおられる」(マタイ1:23)、「エベン・エゼル…ここまで主が私たちを助けてくださった」(Ⅰサムエル7:12)。

マルコの福音書9:9~13「聖書に書かれているとおり」

2021年11月21日、マルコの福音書9:9~13「聖書に書かれているとおり」
イエスの変貌を目撃した「ペテロとヤコブとヨハネ」が「山を下りながら」イエスと交わした問答です。イエスが本当に約束の救い主であるなら、その前に「まずエリヤが来るはず」(マラキ書4:5)なのに、エリヤはまだ来ていないから、イエスが救い主であるはずがない、と律法学者たちは考えていました。そうした疑問に対してイエスは「エリヤはもう来ています…」と言われ、「弟子たちは…バプテスマのヨハネのことだと気づ」(マタイ17:13)きました。「人々は…彼に好き勝手なことをし…た」のであれば、「多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてある」とおり、救い主に対してはもっとひどいことをするはずだ、十字架で死ぬために来臨した受難の僕なのだから、と言われました。
人がこう「言っている」ことよりも、聖書がこう「書いてある」ことのほうを信じるべきです。しかし実は、イエスを弟子たちに紹介したヨハネ自身も、「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか」と揺らいだことがありました。それに対してイエスは、「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き…」、聖書に「書いてある」とおりのことが実現しているではないか、と諭されました(マタイ11:2~6)。「互いに論じ合」うのもそれなりに有意義でしょうが、限界や間違いがあります。真の答えは聖書の中にこそあります。謙虚に「イエスに尋ね」、聖書に「書いてある」御言葉に信じ従うなら、間違いのない確かな人生を歩むことができます。試練や苦難に襲われることがあっても、栄光に続く道であることはこれまでも体験済みでしょう。正しい判断・選択をしたいものです。

マルコの福音書9:9~13「聖書に書かれているとおり」

2021年11月21日、マルコの福音書9:9~13「聖書に書かれているとおり」
イエスの変貌を目撃した「ペテロとヤコブとヨハネ」が「山を下りながら」イエスと交わした問答です。イエスが本当に約束の救い主であるなら、その前に「まずエリヤが来るはず」(マラキ書4:5)なのに、エリヤはまだ来ていないから、イエスが救い主であるはずがない、と律法学者たちは考えていました。そうした疑問に対してイエスは「エリヤはもう来ています…」と言われ、「弟子たちは…バプテスマのヨハネのことだと気づ」(マタイ17:13)きました。「人々は…彼に好き勝手なことをし…た」のであれば、「多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてある」とおり、救い主に対してはもっとひどいことをするはずだ、十字架で死ぬために来臨した受難の僕なのだから、と言われました。
人がこう「言っている」ことよりも、聖書がこう「書いてある」ことのほうを信じるべきです。しかし実は、イエスを弟子たちに紹介したヨハネ自身も、「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか」と揺らいだことがありました。それに対してイエスは、「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き…」、聖書に「書いてある」とおりのことが実現しているではないか、と諭されました(マタイ11:2~6)。「互いに論じ合」うのもそれなりに有意義でしょうが、限界や間違いがあります。真の答えは聖書の中にこそあります。謙虚に「イエスに尋ね」、聖書に「書いてある」御言葉に信じ従うなら、間違いのない確かな人生を歩むことができます。試練や苦難に襲われることがあっても、栄光に続く道であることはこれまでも体験済みでしょう。正しい判断・選択をしたいものです。

マルコの福音書9:2~8「私たちの変貌」

2021年11月14日、マルコの福音書9:2~8「私たちの変貌」
信仰者にとって「山」は重要な場所でした。イエスは山で説教し、祈り、大宣教命令をなさいました(マタイ5:1、14:23、28:16)。モーセはシナイ山で十戒を付与され(出エジプト記19:3~)、燃え尽きたエリヤはホレブ山で神に出会って再起しました(Ⅰ列王記19:8~)。多忙な毎日の私たちだからこそ、ひとり神の前に静まる場所・時間を持つことが大切です。御子イエスも人となられた以上、神に祈らなければ使命を遂行することができなかったのですから、私たちはなおさらそうです。
御言葉と祈りによって神と交わっていると、神をより深く人格的・体験的に知るようになり、同時に自分の罪深さ・弱さ・貧しさ等も知るようになります。イエスによる大漁の奇跡を目の当たりにしたペテロが、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」(ルカ5:8)と言わずにはいられなかったように、自分の惨めな真相に気づかされておののくはずです。問題はその後どういう態度をとるかです。イエスの愛の中に憩うことができないのは、自分の真の姿がわかっていないから、否、裸で惨めな自分の姿を認めようとしないから、認めたがらないからでしょう。それがまさに律法学者やパリサイ人の生き方でした。しかし神の前に自分の真相を正直に認めて砕かれるとき、聖化の恵みにあずかります。続いて「覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていき」(Ⅱコリント3:18)、成長・成熟していきます。そして「キリストが現れたときに(再臨)、キリストに似た者になる」(Ⅰヨハネ3:2)、救いが完成される栄化の恵みにあずかるのです。

マルコの福音書9:2~8「私たちの変貌」

2021年11月14日、マルコの福音書9:2~8「私たちの変貌」
信仰者にとって「山」は重要な場所でした。イエスは山で説教し、祈り、大宣教命令をなさいました(マタイ5:1、14:23、28:16)。モーセはシナイ山で十戒を付与され(出エジプト記19:3~)、燃え尽きたエリヤはホレブ山で神に出会って再起しました(Ⅰ列王記19:8~)。多忙な毎日の私たちだからこそ、ひとり神の前に静まる場所・時間を持つことが大切です。御子イエスも人となられた以上、神に祈らなければ使命を遂行することができなかったのですから、私たちはなおさらそうです。
御言葉と祈りによって神と交わっていると、神をより深く人格的・体験的に知るようになり、同時に自分の罪深さ・弱さ・貧しさ等も知るようになります。イエスによる大漁の奇跡を目の当たりにしたペテロが、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」(ルカ5:8)と言わずにはいられなかったように、自分の惨めな真相に気づかされておののくはずです。問題はその後どういう態度をとるかです。イエスの愛の中に憩うことができないのは、自分の真の姿がわかっていないから、否、裸で惨めな自分の姿を認めようとしないから、認めたがらないからでしょう。それがまさに律法学者やパリサイ人の生き方でした。しかし神の前に自分の真相を正直に認めて砕かれるとき、聖化の恵みにあずかります。続いて「覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていき」(Ⅱコリント3:18)、成長・成熟していきます。そして「キリストが現れたときに(再臨)、キリストに似た者になる」(Ⅰヨハネ3:2)、救いが完成される栄化の恵みにあずかるのです。

ルカの福音書14:7~11「上座と末席」

2021年11月7日、ルカの福音書14:7~11「上座と末席」
イエスが「食事をするために、パリサイ派のある指導者の家に入られ」ると、「水腫をわずらっている人がいた」ので「抱いて癒やし、帰され」ました(1~4節)。その間、律法を厳格に守っている自分こそ上座に座るべきだと自認するパリサイ人たちが(マタイ23:6~7)、「上座を」奪い合っていました。自分が丁重に扱われると満足し、軽く扱われると不機嫌になる者たちに語られたのが、「婚宴の席次の譬え」です。
イエスは「結婚の披露宴」という設定でよく語られましたが、私たちは本来、神の国の婚宴に招かれるはずがないのに、「恵みのゆえに…(イエスの十字架を信じる)信仰によって救われ」、神の国の婚宴に招き入れられた者です(エペソ2:11~13)。それがどんなに大きな恵みであるかを真に知っているならば、招いてくださった神の前にも人々の前にも、「自分を高くする」ことなどできないはずです。むしろ自然と「自分を低くする」ようになるはずです。神の被造物に過ぎない自分の無力さも、逆立ちしても救われようのない自分の罪深さも自覚していないから、「自分を高く」して上座を奪い合うのです。そんなどうしようもない私たちのために、イエスは神の御子としての地位も特権も投げ捨てて、十字架の死にまで降られたのです(ピリピ2:6~8)。
同じ地位や立場にあっても、「誰を主権者とするか」によって人生の意味と豊かさが大きく異なってきます。あなたは誰を主権者として生きていますか。自分自身が主権者になっていないでしょうか。不平不満や妬み、劣等感、あるいは逆に高慢が心の中にあるなら、それは主権者が違うからではないかと省みる必要があるでしょう。

マルコの福音書9:2~8「愛するイエスの言うことを聞け」

2021年10月31日、マルコの福音書9:2~8「愛するイエスの言うことを聞け」
イエスの変貌を目撃したペテロが「恐怖に打たれて」発した言葉には、二つの誤りがありました。第一は、神の御子イエスをモーセやエリヤと同列に置いたことです。その誤りを正すため神はモーセとエリヤを隠し、「イエスだけで、もはやだれも見えな」いようにされました。イエス受洗時に「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(1:11)と言われた神は、「あなたはキリストです」との信仰告白直後の受難予告に戸惑い、理解できない弟子たちに(8:27~38)、イエスこそ神の御子、救い主であることを示すため、「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け」とペテロたちに語りかけられました。
「私たちは、ペテロと同じ過ちにしばしば陥ります。イエスという存在をほかの存在と並べて、またさまざまな情報を集め、いったいだれの声が自分に最善なのだろうと考え、イエスにだけ向き合うことをなかなかしません」(藤本満師)。しかし今後は、深呼吸して心を静め、「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け」との御言葉を思い起こし、「イエスから、目を離さないで」(ヘブル12:2)、イエスを十字架の死にまで渡された神の愛と御言葉に信頼し聴従しましょう。
第二の誤りは、「幕屋を三つ造」って栄光を保存しようとしたことです。彼らが山上でイエスの変貌を目撃したのは、そこにいつまでも留まって自分たちだけいい気分に浸るためではありません。山麓には罪や重荷で苦しむ人々がいます。山上の栄光を味わった者には、山麓で苦悩する人々のもとに行ってイエスを証しする使命があります(16:15)。私たちは「集められて祈り、散らされて宣べ伝える」のです。

マルコの福音書9:2~8「愛するイエスの言うことを聞け」

2021年10月31日、マルコの福音書9:2~8「愛するイエスの言うことを聞け」
イエスの変貌を目撃したペテロが「恐怖に打たれて」発した言葉には、二つの誤りがありました。第一は、神の御子イエスをモーセやエリヤと同列に置いたことです。その誤りを正すため神はモーセとエリヤを隠し、「イエスだけで、もはやだれも見えな」いようにされました。イエス受洗時に「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(1:11)と言われた神は、「あなたはキリストです」との信仰告白直後の受難予告に戸惑い、理解できない弟子たちに(8:27~38)、イエスこそ神の御子、救い主であることを示すため、「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け」とペテロたちに語りかけられました。
「私たちは、ペテロと同じ過ちにしばしば陥ります。イエスという存在をほかの存在と並べて、またさまざまな情報を集め、いったいだれの声が自分に最善なのだろうと考え、イエスにだけ向き合うことをなかなかしません」(藤本満師)。しかし今後は、深呼吸して心を静め、「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け」との御言葉を思い起こし、「イエスから、目を離さないで」(ヘブル12:2)、イエスを十字架の死にまで渡された神の愛と御言葉に信頼し聴従しましょう。
第二の誤りは、「幕屋を三つ造」って栄光を保存しようとしたことです。彼らが山上でイエスの変貌を目撃したのは、そこにいつまでも留まって自分たちだけいい気分に浸るためではありません。山麓には罪や重荷で苦しむ人々がいます。山上の栄光を味わった者には、山麓で苦悩する人々のもとに行ってイエスを証しする使命があります(16:15)。私たちは「集められて祈り、散らされて宣べ伝える」のです。

ページ移動