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「学校行きたくない」「死にたい」と思い悩んでいる方へ

★「学校行きたくない」「死にたい」「もう自分は死ぬしかない」「自分は死んだほうがいいんだ」と思い悩んでいる方、
誰にも相談できず、ひとりで悩んでいる方へ★

あなたは決してひとりではありません。
あなたの周りにはあなたの助けになる人がきっといます。
ためらわないで助けを求めてください。
まずは電話かメールでご連絡ください。

今から数年前にホームレスのおじさんたちが先生役になって、小学生に教えるというセミナーを開きました。(中略)最後の授業は、元野宿のおじさんが「子どもたちに語る」というコーナーでした。(中略)子どもたちに、そのおじさんはこう語りかけました。「おじさんはさぁ、自分で頑張るしかないって60年生きてきたけど、この世の中には助けてくれる人がいたんだ。『助けて』と言えた日が助かった日だったよ」と言ったのです。そうしたら、聞いていた子どもたちの何人かが涙を流しているのです。私は司会だったので、「きみたちも学校でつらいことがある。家でつらいことがある、そんなときは『助けて!』と叫んだらいいんだ。たしかに世の中には、『助けて』と言ったら、『何を甘えているんだ』と言う人もいるよ。でも、『うちにおいで』と言ってくれる人が必ずいるから、『助けて!』って言いなさい」と言ったら、涙をバーっと流している子どもたちが何人もいました。…奥田知志他著『灯を輝かし、闇を照らす』より


マルコの福音書8:31~33「多くの苦しみを受けるキリスト」

2021年7月18日、マルコの福音書8:31~33「多くの苦しみを受けるキリスト」
イエスはご自分を指して「人の子」と呼ばれました。永遠の主権者としての「人の子」であり(ダニエル書7:13~14)、受難のしもべとしての「人の子」(イザヤ書第53章)でもあることを含んだ呼称です。「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならない」と受難の予告をされました(9:31、10:33~34)。イエスの受難は偶然ではなく、必然的な神の救いのご計画であることを強調した「なければならない」です。
イエスはユダヤ教指導者たちに「捨てられ(審査に通らない、の意)」、十字架につけられて「殺され、三日後によみがえらなければな」りません。「神は、罪を知らない方(イエス)を私たちのために罪とされ」(Ⅱコリント5:21)た以上、愛する御子であってもさばかずにはいられないのが義なる神ですから、神の怒りが容赦なく下りました。イエスはユダヤ教指導者たちの審査には通らず、「捨てられ」ましたが、神の審査には通ったので「三日後によみがえ」り、救いを成就されたのです。
人間にとっての最大の危険は、神の審査に合格できないことです。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まってい」(ヘブル9:27)て、その結果、「罪の報酬は死です」(ローマ6:23)。一生懸命努力して入学試験等に合格しても、最後の最後、神の試験に不合格になったら、これまでの努力や苦労は水泡に帰してしまうと思いませんか。イエスの十字架と復活は私の罪のためと信じるなら、すべての罪は赦され、神の審査に合格させてくださるのです。あなたは神の審査に合格できるでしょうか。合格したいと思いませんか。

マルコの福音書8:31~33「多くの苦しみを受けるキリスト」

2021年7月18日、マルコの福音書8:31~33「多くの苦しみを受けるキリスト」
イエスはご自分を指して「人の子」と呼ばれました。永遠の主権者としての「人の子」であり(ダニエル書7:13~14)、受難のしもべとしての「人の子」(イザヤ書第53章)でもあることを含んだ呼称です。「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならない」と受難の予告をされました(9:31、10:33~34)。イエスの受難は偶然ではなく、必然的な神の救いのご計画であることを強調した「なければならない」です。
イエスはユダヤ教指導者たちに「捨てられ(審査に通らない、の意)」、十字架につけられて「殺され、三日後によみがえらなければな」りません。「神は、罪を知らない方(イエス)を私たちのために罪とされ」(Ⅱコリント5:21)た以上、愛する御子であってもさばかずにはいられないのが義なる神ですから、神の怒りが容赦なく下りました。イエスはユダヤ教指導者たちの審査には通らず、「捨てられ」ましたが、神の審査には通ったので「三日後によみがえ」り、救いを成就されたのです。
人間にとっての最大の危険は、神の審査に合格できないことです。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まってい」(ヘブル9:27)て、その結果、「罪の報酬は死です」(ローマ6:23)。一生懸命努力して入学試験等に合格しても、最後の最後、神の試験に不合格になったら、これまでの努力や苦労は水泡に帰してしまうと思いませんか。イエスの十字架と復活は私の罪のためと信じるなら、すべての罪は赦され、神の審査に合格させてくださるのです。あなたは神の審査に合格できるでしょうか。合格したいと思いませんか。

マルコの福音書8:27~30「あなたはキリストです」

2021年7月11日、マルコの福音書8:27~30「あなたはキリストです」
イエスが辺鄙な「ピリポ・カイサリアの村々に出かけられた」のは、弟子たちに重大な質問をするためでした。まずは、「人々はわたしをだれだと言っていますか」という一般質問でした。次に、世間はともかくとして「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と鋭く切り込まれました。するとペテロが弟子たちを代表して、「あなたはキリストです」という百点満点の信仰告白をしました。しかし弟子たちの現時点でのキリスト理解が不十分であったことは、直後の出来事で明らかになります(31~33節)。だからこそ、真っ先に信仰告白したペテロが、十字架前夜、真っ先にイエスを否認することになるのです。
旧約時代、王や預言者や祭司が任職のとき油を注がれたように、キリストは、王・預言者・祭司の三つの権能を兼ね備えたお方です。キリストは全宇宙・全世界を統治し、最善のご計画をもって私たちを守り導いていてくださる真の王です。聖書の言葉をもって私たちに語りかけ、御心を示してくださる真の預言者です。父なる神の右に座して私たちのために贖いをし、とりなし祈っていてくださる真の祭司です。そして私たちに罪を示し、その罪のためにイエスが十字架上で死んで三日目に復活されたことを示し、イエスを救い主と信じることができるようにしてくださるのが聖霊です(Ⅰコリント12:3)。預言者エリヤはイスラエルの民に「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え」(Ⅰ列王記18:21)と決断を迫りました。「あなたはキリストです」と告白し、生涯従い続けましょう。

マルコの福音書8:27~30「あなたはキリストです」

2021年7月11日、マルコの福音書8:27~30「あなたはキリストです」
イエスが辺鄙な「ピリポ・カイサリアの村々に出かけられた」のは、弟子たちに重大な質問をするためでした。まずは、「人々はわたしをだれだと言っていますか」という一般質問でした。次に、世間はともかくとして「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と鋭く切り込まれました。するとペテロが弟子たちを代表して、「あなたはキリストです」という百点満点の信仰告白をしました。しかし弟子たちの現時点でのキリスト理解が不十分であったことは、直後の出来事で明らかになります(31~33節)。だからこそ、真っ先に信仰告白したペテロが、十字架前夜、真っ先にイエスを否認することになるのです。
旧約時代、王や預言者や祭司が任職のとき油を注がれたように、キリストは、王・預言者・祭司の三つの権能を兼ね備えたお方です。キリストは全宇宙・全世界を統治し、最善のご計画をもって私たちを守り導いていてくださる真の王です。聖書の言葉をもって私たちに語りかけ、御心を示してくださる真の預言者です。父なる神の右に座して私たちのために贖いをし、とりなし祈っていてくださる真の祭司です。そして私たちに罪を示し、その罪のためにイエスが十字架上で死んで三日目に復活されたことを示し、イエスを救い主と信じることができるようにしてくださるのが聖霊です(Ⅰコリント12:3)。預言者エリヤはイスラエルの民に「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え」(Ⅰ列王記18:21)と決断を迫りました。「あなたはキリストです」と告白し、生涯従い続けましょう。

創世記17:15~21「すべて喜びに変える神」

2021年7月4日、創世記17:15~21「すべて喜びに変える神」
子孫誕生の約束が実現しそうに見えないので、アブラハムは86歳のとき女奴隷ハガルによって子イシュマエルを得ましたが(第15~16章)、99歳のとき「わたしは彼女(妻サラ)を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える」と主は再び約束されました。すると「アブラハムはひれ伏して、笑った」。主の前に「ひれ伏して」おきながら、「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか」と神の言葉を疑って「笑った」とは、何という矛盾でしょうか。後にサラも「心の中で笑って」います(18:12)。「どうか、イシュマエルが御前で生きますように」とあくまでも常識的な提案をするアブラハムに主は愛想を尽かさず、「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ」と明言されました。やがて約束どおりにイサク(彼は笑う、の意)が誕生し、サラは「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことを笑うでしょう」と喜びました(21:1~7)。
私たちはアブラハム以上に全能の主を疑い、約束を信じきれず待ちきれず、もはや手遅れだと失望し、「ひれ伏して、笑った」ということが何と多いことでしょうか。そんな私たちであっても、主は呆れ果てたり見捨てたりなさいません。「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない」(マタイ12:20)お方です。「主にとって不可能なことがあるだろうか」(18:14)、驚くべきみわざを行い、不信仰の笑いを喜びの笑いに変えてくださいます。それゆえ「ひれ伏して、笑った」という矛盾をもうやめませんか。「神は私に笑いを下さいました」と言える日が必ず来ることを信じ期待して待ち望みましょう。

マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復②」

2021年6月27日、マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復②」
イエスは「目の見えない人」に対して、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」という見え方でよしとせず、「すべてのものがはっきりと見えるように」なるまで関わり続けられました。弟子たちも「あなたはキリストです」と信仰告白できるほど目が開かれていました。第一段階の癒しです。しかしその直後、「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱責されたように、まだまだ見えていませんでした(27~30節)。そのような状態の弟子たちでしたから、「だれが一番偉いか論じ合」い(9:34)、一つになれなかったのも当然です。しかしイエスの十字架・復活・昇天後に約束の聖霊が注がれると、弟子たちの「目がすっかり治り」、互いに愛し合い、いのちがけで福音を宣べ伝えるようになりました。第二段階の癒しで、弟子たちがイエスの前に留まって懇ろなお取り扱いを受け続けた結果です。大切なことは、私たちの側で簡単に諦めたり、中途半端に納得したりしないこと、「すべてのものがはっきりと見えるように」なるまでイエスの前に留まり続けることです。
「人は、自分自身の自己中心性や隠された動機に気がつかないかぎり、自分はキリストがわかっていると考えながら、まったくわかっていなかったり、キリストのために働いていると思いながら、実は自分の栄光のために奉仕したりしていることが多い」(坂野慧吉師)。自分の問題に何となく気づいているはずです。「私の心の目を開き、私の本当の姿を見せてください」と祈りましょう(黙示録3:18)。自分の問題の核心を正直に認め、イエスに触れて癒していただきましょう。

マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復②」

2021年6月27日、マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復②」
イエスは「目の見えない人」に対して、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」という見え方でよしとせず、「すべてのものがはっきりと見えるように」なるまで関わり続けられました。弟子たちも「あなたはキリストです」と信仰告白できるほど目が開かれていました。第一段階の癒しです。しかしその直後、「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱責されたように、まだまだ見えていませんでした(27~30節)。そのような状態の弟子たちでしたから、「だれが一番偉いか論じ合」い(9:34)、一つになれなかったのも当然です。しかしイエスの十字架・復活・昇天後に約束の聖霊が注がれると、弟子たちの「目がすっかり治り」、互いに愛し合い、いのちがけで福音を宣べ伝えるようになりました。第二段階の癒しで、弟子たちがイエスの前に留まって懇ろなお取り扱いを受け続けた結果です。大切なことは、私たちの側で簡単に諦めたり、中途半端に納得したりしないこと、「すべてのものがはっきりと見えるように」なるまでイエスの前に留まり続けることです。
「人は、自分自身の自己中心性や隠された動機に気がつかないかぎり、自分はキリストがわかっていると考えながら、まったくわかっていなかったり、キリストのために働いていると思いながら、実は自分の栄光のために奉仕したりしていることが多い」(坂野慧吉師)。自分の問題に何となく気づいているはずです。「私の心の目を開き、私の本当の姿を見せてください」と祈りましょう(黙示録3:18)。自分の問題の核心を正直に認め、イエスに触れて癒していただきましょう。

ルカの福音書15:8~10「見つけるまで捜す神」

2021年6月20日、ルカの福音書15:8~10「見つけるまで捜す神」
①失われた存在
「ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくし」ました。まだ九枚残っているから一枚くらい失くしてもかまわない、とはとても思えない、かけがえのない一枚でした。同様に、神に創造された私たち人間も、神にとって「高価で尊い」(イザヤ書43:1~4)宝物なのです。しかし、銀貨が失われて本来あるべきところにない状態では何も買うことができないように、私たち人間も、創造主なる神から離れたままでは、本来の価値も力も十分発揮できないのです。しかも銀貨が自分からは所有者のもとに帰れないように、人間も神から迷い出た結果、どの神が真の神なのか、どこに真理があるのかまるでわからず、神のもとに帰ろうにも帰れない状態にあるのです。
②熱心な捜索
女の人は銀貨を「見つけるまで…捜」し、遂に発見して大喜びします。神も「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9)と呼びかけ、罪人が悔い改める先に自ら捜しに出かけ、自分から帰ろうにも帰れない罪人を連れ戻すまで決して諦めないお方です。この神の愛を実際に見せるために遣わされたのが御子イエスです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6)と言われたイエスは、十字架と復活によって神に立ち帰る救いの一本道を開いてくださいました。このイエスを信じ、イエスのエスカレーターに乗って身を任せるなら、試練や悲しみをイエスと共に乗り越え、そのゴールは天国です。

マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復①」

2021年6月13日、マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復①」
「ベツサイダに着いた」イエスのもとに「人々が目の見えない人を連れて来て、彼にさわってやってくださいと…懇願した」ので、「イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれ…彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当て」られました。まだぼんやりとしか見えなかったので、「再び両手を彼の両目に両手を当てられ」ると、「目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようにな」りました。
「見えるようになって(見上げて、の意)」という語は、五千人の給食(6:41)や「耳が聞こえず口のきけない人」の癒し(7:34)にも出てきます。預言者エリシャの召使いはアラムの大軍に包囲されて狼狽しますが、エリシャが「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください」と祈ると、「主がその若者の目を開かれたので…火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」のを見ました(Ⅱ列王記6:15~17)。
厳しい現実に直面すると、意気消沈したり、目に見える何かに依り頼んだりしがちです。しかし真に目が開かれるならば、私は「火の馬と戦車が…取り巻いて…満ちて」守られているというもう一つの現実が見えてくるはずです。私の霊の目が閉ざされているから、信仰の目を上げて見ることができずにいるから、神の恵みや守りがわからないのではありませんか。私も「目の見えない人」で、イエスに「すべてのものがはっきりと見えるように」されなければならない者であることを正直に認め、私にも「さわってくださいとイエスに懇願し」ましょう。「イエスは…手を取って」親身に寄り添い、「はっきりと見えるようにな」るまで、辛抱強く関わり続けてくださいます。

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