記事一覧

ゼパニヤ書3:9~20「主は救いの勇士」

2018年4月8日、ゼパニヤ書3:9~20「主は救いの勇士」
南王国は当時、堕落の極みにあり、やがて神の厳しいさばきが下されようとしているにもかかわらず、預言者ゼパニヤは「喜び歌え…喜び呼ばわれ…心のかぎり喜び楽しめ」と繰り返し命じました。それは、神に背く者を「主は取り去り…追い払われ」、神を畏れる「残りの者」の「うちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる」からです。
また、「地は変り、山は海の真中に移る…その水は鳴りとどろき、あわだつ…そのさわぎによって山は震え動く」ような激しい試練の中で詩人は、「神はわれらの避け所また力…悩める時のいと近き助け…神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる」ということをまざまざと体験しました(詩篇 第46篇)。
私たちもこの神を人生の味方とすることができたら、どんなに幸いでしょうか。イエスの十字架を信じて罪赦されると、この神が共に歩み、味方となって下さる幸いな人生が始まります。試練や困難に直面することがあっても、「あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる」。この約束を信じて神に信頼するならば、やがて「わたしはあなたから悩みを取り去る。あなたは恥を受けることはない」ということになるでしょう。しかし、神以外のものに重心を置くと、いざというとき脆くも崩れ去るものです。
今年度、祈ったとおり期待したとおりになかなか事が進まず、失望することが多いかもしれません。しかし「あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる」「神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる」という約束の御言葉を思い起こし、この神に大いに期待しましょう。

4月ジョイジョイクラブ

★4月ジョイジョイクラブ★

日時:4月22日(日)午後1時~3時頃

みなさん元気ですか?
今月は、イースター・パーティーです。
腹話術、公園でイースターエッグ探しとゲーム、綿菓子、スイーツバイキング他、楽しいプログラムがいっぱいです。
皆で楽しみましょう!

マタイによる福音書28:1~10「墓は空っぽ、復活された」

2018年4月1日、マタイによる福音書28:1~10「墓は空っぽ、復活された」
「週の初めの日の明け方」、イエスが葬られた「墓を見にきた」ところ、墓石は転がされ、中は空っぽでした。空の墓が意味するのは…
①死からいのちへ
私たち人間は、神に造られ生かされている存在でありながら、神に背いて生きています。この的外れの状態を聖書は「罪」と呼び、「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(ヘブル9:27)、死んだ後、神のさばきを受けなければなりません。その結果は、「罪の支払う報酬は死」(ローマ6:23)、永遠の滅びです。
この罪と死の大石を取り除くために、イエスは全人類の罪を背負って十字架につけられ、神にさばかれて死に、しかし三日目に復活されたのです。イエスが死んで墓に葬られておしまいであったなら、私たち罪人と何ら変わりがありません。しかし空っぽの墓は、イエスが「かねて言われたとおりに、よみがえられ」、それによって人類最大の敵である罪と死に勝利して救いを完成されたことの証明なのです(ローマ1:4、4:25、Ⅰコリント15:12~20)。このイエスを信じるなら、すべての罪が赦され、神と共に永遠に生きるのです。イエスの復活を境に、十字架と復活を信じる者にとって、死は呪われたものでも一切の終わりでもなく、天国に続く希望のトンネルとなったのです。
②絶望から希望へ
「もうここ(墓)にはおられない」イエスは、信じる者と共におられ、人生に立ちはだかる困難の大石をも転がして下さいます。「世の中を見れば、心が騒ぐでしょう。自分自身を見れば、落ち込むでしょう。しかし、キリストを見上げれば、心に平安が訪れます」(コーリー・テン・ブーム)。

マタイによる福音書28:1~10「墓は空っぽ、復活された」

2018年4月1日、マタイによる福音書28:1~10「墓は空っぽ、復活された」
「週の初めの日の明け方」、イエスが葬られた「墓を見にきた」ところ、墓石は転がされ、中は空っぽでした。空の墓が意味するのは…
①死からいのちへ
私たち人間は、神に造られ生かされている存在でありながら、神に背いて生きています。この的外れの状態を聖書は「罪」と呼び、「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(ヘブル9:27)、死んだ後、神のさばきを受けなければなりません。その結果は、「罪の支払う報酬は死」(ローマ6:23)、永遠の滅びです。
この罪と死の大石を取り除くために、イエスは全人類の罪を背負って十字架につけられ、神にさばかれて死に、しかし三日目に復活されたのです。イエスが死んで墓に葬られておしまいであったなら、私たち罪人と何ら変わりがありません。しかし空っぽの墓は、イエスが「かねて言われたとおりに、よみがえられ」、それによって人類最大の敵である罪と死に勝利して救いを完成されたことの証明なのです(ローマ1:4、4:25、Ⅰコリント15:12~20)。このイエスを信じるなら、すべての罪が赦され、神と共に永遠に生きるのです。イエスの復活を境に、十字架と復活を信じる者にとって、死は呪われたものでも一切の終わりでもなく、天国に続く希望のトンネルとなったのです。
②絶望から希望へ
「もうここ(墓)にはおられない」イエスは、信じる者と共におられ、人生に立ちはだかる困難の大石をも転がして下さいます。「世の中を見れば、心が騒ぐでしょう。自分自身を見れば、落ち込むでしょう。しかし、キリストを見上げれば、心に平安が訪れます」(コーリー・テン・ブーム)。

ルカによる福音書19:41~48「イエスの涙」

2018年3月25日、ルカによる福音書19:41~48「イエスの涙」
イエスがエルサレムに入城されると聞いた人々は、遂にイスラエルがローマの支配下から解放される時が来たと考えて大歓迎しました(37~38節)。それと対照的にイエスは「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣」かれました。エルサレムは神との「平和をもたらす道を知」らないから、否、知ろうとしないからです。生まれながらの人間は皆、罪のため神と敵対関係にあり、「神の怒りを、自分の身に積んでいる」存在です(ローマ2:5)。「キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで」(ローマ5:6)、救いの道を開くためにエルサレムに入城されたのです。イエスは、神との「平和をもたらす道」そのものであるのに(ヨハネ14:6)、人々は誤解したり拒絶したりしました。そんなかたくなな心に対してイエスは涙されたのです。
さらにイエスは、エルサレムが包囲攻撃されて徹底的に破壊されることを予告されました(70年のローマ軍侵攻により実現)。エルサレムに臨もうとしている悲惨な未来のゆえにイエスは涙されたのです。「自業自得、自己責任」と切り捨てられても仕方ないエルサレムでしたが、イエスはエルサレムのために涙されました。否、そのようなエルサレムだからこそ、「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた」のです。パウロも「キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いから…涙を流して語」りました(ピリピ3:18)。
あなたの日々の歩みは、イエスの喜びの対象でしょうか、それとも涙の対象でしょうか。イエスの涙を無にして永遠に後悔することのないよう、信仰の決断を今しましょう。人々のために泣くイエスやパウロの涙を与えていただいて福音を証しする者とされましょう。

ルカによる福音書19:41~48「イエスの涙」

2018年3月25日、ルカによる福音書19:41~48「イエスの涙」
イエスがエルサレムに入城されると聞いた人々は、遂にイスラエルがローマの支配下から解放される時が来たと考えて大歓迎しました(37~38節)。それと対照的にイエスは「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣」かれました。エルサレムは神との「平和をもたらす道を知」らないから、否、知ろうとしないからです。生まれながらの人間は皆、罪のため神と敵対関係にあり、「神の怒りを、自分の身に積んでいる」存在です(ローマ2:5)。「キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで」(ローマ5:6)、救いの道を開くためにエルサレムに入城されたのです。イエスは、神との「平和をもたらす道」そのものであるのに(ヨハネ14:6)、人々は誤解したり拒絶したりしました。そんなかたくなな心に対してイエスは涙されたのです。
さらにイエスは、エルサレムが包囲攻撃されて徹底的に破壊されることを予告されました(70年のローマ軍侵攻により実現)。エルサレムに臨もうとしている悲惨な未来のゆえにイエスは涙されたのです。「自業自得、自己責任」と切り捨てられても仕方ないエルサレムでしたが、イエスはエルサレムのために涙されました。否、そのようなエルサレムだからこそ、「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた」のです。パウロも「キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いから…涙を流して語」りました(ピリピ3:18)。
あなたの日々の歩みは、イエスの喜びの対象でしょうか、それとも涙の対象でしょうか。イエスの涙を無にして永遠に後悔することのないよう、信仰の決断を今しましょう。人々のために泣くイエスやパウロの涙を与えていただいて福音を証しする者とされましょう。

エズラ記3:8~13「喜ぶ声と泣く声と」

2018年3月18日、エズラ記3:8~13「喜ぶ声と泣く声と」
帰還した民は「七月(太陽暦の9~10月)に…祭壇を築」き、半年後の「二月(4~5月)に…工事を始め…主の宮の基礎をすえ」ました。そのとき、「喜びのために声をあげて叫ぶ者も多かった」半面、「大声をあげて泣いた」者もいました。「もとの宮を見た老人たち」です。栄光に輝くソロモン神殿と、これから建て上げる神殿とを比較して泣いたのです。しかしそうなったのは、他でもない自分たちの罪のためであることを悟り、過去の罪を嘆き悔いる心から出た涙でもありました。と同時に、そんな者であるにもかかわらず、70年間の捕囚の中にも帰還の旅の中にも、神の助けと守りが随所にあったこと、神は約束の御言葉どおり祖国帰還を実現させて下さったこと、それは神殿奉献時のソロモンの祈り(列王紀上9:46~50)の成就でもあったことを発見しました。すべては「主はめぐみ深く、そのいつくしみはとこしえに…絶えることがない」ゆえであることを思い起こし、感激する心から出た涙でもありました。一方の「喜びのために声をあげて叫ぶ者」は、辛く苦しい過去にではなく、明るい未来に目を向ける心から出た喜びの叫びでした。事実、神は「主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きい…わたしはこの所に繁栄を与える」(ハガイ書2:9)と言われました。
どんなに後悔しても過去は変えられませんが、過去の失敗から教訓を学び、現在と未来を変える力にすることはできます。過去は人生を力強く前進させる「帆」にもなり得ますし、いつまでも過去に縛り付ける「錨」にもなり得ます。要はあなたの決断次第です。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント5:17)。いつからでもやり直し可能なのがキリストにある人生です。

エズラ記3:8~13「喜ぶ声と泣く声と」

2018年3月18日、エズラ記3:8~13「喜ぶ声と泣く声と」
帰還した民は「七月(太陽暦の9~10月)に…祭壇を築」き、半年後の「二月(4~5月)に…工事を始め…主の宮の基礎をすえ」ました。そのとき、「喜びのために声をあげて叫ぶ者も多かった」半面、「大声をあげて泣いた」者もいました。「もとの宮を見た老人たち」です。栄光に輝くソロモン神殿と、これから建て上げる神殿とを比較して泣いたのです。しかしそうなったのは、他でもない自分たちの罪のためであることを悟り、過去の罪を嘆き悔いる心から出た涙でもありました。と同時に、そんな者であるにもかかわらず、70年間の捕囚の中にも帰還の旅の中にも、神の助けと守りが随所にあったこと、神は約束の御言葉どおり祖国帰還を実現させて下さったこと、それは神殿奉献時のソロモンの祈り(列王紀上9:46~50)の成就でもあったことを発見しました。すべては「主はめぐみ深く、そのいつくしみはとこしえに…絶えることがない」ゆえであることを思い起こし、感激する心から出た涙でもありました。一方の「喜びのために声をあげて叫ぶ者」は、辛く苦しい過去にではなく、明るい未来に目を向ける心から出た喜びの叫びでした。事実、神は「主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きい…わたしはこの所に繁栄を与える」(ハガイ書2:9)と言われました。
どんなに後悔しても過去は変えられませんが、過去の失敗から教訓を学び、現在と未来を変える力にすることはできます。過去は人生を力強く前進させる「帆」にもなり得ますし、いつまでも過去に縛り付ける「錨」にもなり得ます。要はあなたの決断次第です。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント5:17)。いつからでもやり直し可能なのがキリストにある人生です。

エズラ記3:1~7「まず祭壇を築いた」

2018年3月11日、エズラ記3:1~7「まず祭壇を築いた」
祖国に帰還した民は、「七月(太陽暦の9~10月)になって、民はひとりのようにエルサレムに集ま」り、「祭壇を築い」て「燔祭をささげ…仮庵の祭を行い」ました。城壁も破壊されたままの無防備な状況での礼拝は危険で、事実、神殿再建工事を始めると敵の妨害に遭います(次章)。しかしそのような危険や恐れがあったからこそ、民は何よりも礼拝して神の守りを祈り求めずにはいられなかったのです。神の民としての再出発を意義あるものとするためにも、礼拝を渇望し、礼拝する神殿の再建を必要としたのです。ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ他もまず祭壇を築きました(創世記8:20、12:7、13:4、26:25、33:20)。
このように何よりもまず神を礼拝して再出発した民でしたが、かつてはそうではありませんでした。安息日を形式的に守るだけで、頭の中にあるのは「神」ではなく「金」でした。真心からなる礼拝を失い、罪に罪を重ねた刈り取りがバビロン捕囚であり、その捕囚から解放された民が真っ先に回復したものが礼拝でした。
「人がなし得る最高の行為は礼拝である」(バックストン師)。礼拝という最高の行為をしている今、喜びと感謝にあふれているでしょうか。聖書中、神の民はしばしば羊にたとえられ、中でも特に迷い出た羊として描かれています。「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)人間に真の神を教え、神のもとに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。この私を愛し、罪を贖うために死なれた十字架のイエスを仰ぐとき、「われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」(詩篇100:3)と告白し、心から喜んで礼拝するはずです。

エズラ記3:1~7「まず祭壇を築いた」

2018年3月11日、エズラ記3:1~7「まず祭壇を築いた」
祖国に帰還した民は、「七月(太陽暦の9~10月)になって、民はひとりのようにエルサレムに集ま」り、「祭壇を築い」て「燔祭をささげ…仮庵の祭を行い」ました。城壁も破壊されたままの無防備な状況での礼拝は危険で、事実、神殿再建工事を始めると敵の妨害に遭います(次章)。しかしそのような危険や恐れがあったからこそ、民は何よりも礼拝して神の守りを祈り求めずにはいられなかったのです。神の民としての再出発を意義あるものとするためにも、礼拝を渇望し、supreme 激安礼拝する神殿の再建を必要としたのです。ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ他もまず祭壇を築きました(創世記8:20、12:7、13:4、26:25、33:20)。
このように何よりもまず神を礼拝して再出発した民でしたが、かつてはそうではありませんでした。安息日を形式的に守るだけで、頭の中にあるのは「神」ではなく「金」でした。真心からなる礼拝を失い、罪に罪を重ねた刈り取りがバビロン捕囚であり、その捕囚から解放された民が真っ先に回復したものが礼拝でした。
「人がなし得る最高の行為は礼拝である」(バックストン師)。礼拝という最高の行為をしている今、喜びと感謝にあふれているでしょうか。聖書中、神の民はしばしば羊にたとえられ、中でも特に迷い出た羊として描かれています。「羊のように迷って、sanndaru激安おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)人間に真の神を教え、神のもとに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。この私を愛し、罪を贖うために死なれた十字架のイエスを仰ぐとき、「われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」(詩篇100:3)と告白し、心から喜んで礼拝するはずです。

ページ移動