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礼拝堂での礼拝・教会学校を再開

★6月21日(日)から、礼拝堂での礼拝と教会学校を再開しています。
これまでどおりライブ配信もしますので、在宅オンライン礼拝・教会学校も可能です。
礼拝は午前10時15分から、教会学校は午前11時からです。
https://zoom.us/j/をクリックしてください。
ID入力が必要ですので、メール等でご連絡くださればお教えいたします。

マルコによる福音書6:33~44「イエスは深くあわれまれた」

2020年7月26日、マルコによる福音書6:33~44「イエスは深くあわれまれた」
「飼う者のない羊のような…有様を深くあわれんで」なされたことは
①霊の食物による養い(34節)
パリサイ人や律法学者は本来、人々を養い導く羊飼い的存在であるはずでしたが、律法に細則を付加して無味乾燥な戒律に変え、逆に人々を縛り苦しめていました。そのため疲れ果てて「飼う者のない羊のような」状態の人々に、イエスは本来あるべき神の愛の御言葉として、愛と恵みに満ちあふれた御言葉として語り聞かせられたのです。
この世には、「あなたは駄目だ」と思い込ませる言葉や情報で満ちています。だからこそ、絶えず神の御言葉に耳を傾ける必要があるのです。この世の言葉ではなく神の御言葉を聞いて信じることです。
②肉の食物による養い(35~44節)
人々が時も忘れて御言葉に聞き入っていると、「はや時もおそくなっ」ていたので(マタイ14:15「夕方になったので」)、イエスは「五つのパンと二ひきの魚と」で人々の空腹を満たされました。イエスは、私たちの魂だけでなく肉体にも関心を持って心配しておられるお方です。私たちを「深くあわれんで」おられるイエスは、私たちの霊も心もからだも、社会生活も家庭生活も、すべてが健全であることを願っておられます(Ⅲヨハネ2)。イエスはらい病人を「深くあわれみ、手を伸ばして…さわり」癒されました(1:41)。ひとり息子を亡くしたやもめを「見て深い同情を寄せられ」、息子を生き返らせられました(ルカ7:13)。
それゆえ私たちも、幼児が人目も憚らず遠慮なく親に求めるように、あわれみ深い父なる神に遠慮せず格好つけず願い求めましょう。

マルコによる福音書6:33~44「イエスは深くあわれまれた」

2020年7月26日、マルコによる福音書6:33~44「イエスは深くあわれまれた」
「飼う者のない羊のような…有様を深くあわれんで」なされたことは
①霊の食物による養い(34節)
パリサイ人や律法学者は本来、人々を養い導く羊飼い的存在であるはずでしたが、律法に細則を付加して無味乾燥な戒律に変え、逆に人々を縛り苦しめていました。そのため疲れ果てて「飼う者のない羊のような」状態の人々に、イエスは本来あるべき神の愛の御言葉として、愛と恵みに満ちあふれた御言葉として語り聞かせられたのです。
この世には、「あなたは駄目だ」と思い込ませる言葉や情報で満ちています。だからこそ、絶えず神の御言葉に耳を傾ける必要があるのです。この世の言葉ではなく神の御言葉を聞いて信じることです。
②肉の食物による養い(35~44節)
人々が時も忘れて御言葉に聞き入っていると、「はや時もおそくなっ」ていたので(マタイ14:15「夕方になったので」)、イエスは「五つのパンと二ひきの魚と」で人々の空腹を満たされました。イエスは、私たちの魂だけでなく肉体にも関心を持って心配しておられるお方です。私たちを「深くあわれんで」おられるイエスは、私たちの霊も心もからだも、社会生活も家庭生活も、すべてが健全であることを願っておられます(Ⅲヨハネ2)。イエスはらい病人を「深くあわれみ、手を伸ばして…さわり」癒されました(1:41)。ひとり息子を亡くしたやもめを「見て深い同情を寄せられ」、息子を生き返らせられました(ルカ7:13)。
それゆえ私たちも、幼児が人目も憚らず遠慮なく親に求めるように、あわれみ深い父なる神に遠慮せず格好つけず願い求めましょう。

マルコによる福音書6:30~32「しばらく休みなさい」

2020年7月19日、マルコによる福音書6:30~32「しばらく休みなさい」
二人一組の伝道旅行結果(7~13節)を「残らずイエスに報告した」弟子たちは、「人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」と言われました。これまでずっと「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかった」上、伝道旅行の緊張と不安、バプテスマのヨハネの死という悲しみが重なり、精神的にも肉体的にも疲れていたからです。
神も、天地創造の「すべての作業を終って第七日に休まれた」お方です(創世記1:31~2:2)。この神によって、神に似せて造られた私たち人間も、神のように休みを取る必要があります。そうすることによって、神と共に生きる恵みのリズムのようなものが生まれてくるのです。片手間でない神の祝福と聖別にあずかるために(創世記2:2~3)、イエスの十字架と復活を信じて罪の奴隷から救い出された恵みを覚えるために(申命記5:15)、主日ごとに教会に集って神を礼拝するのです。
「毎日の生活が卵の中のようにいっぱいつまっていたら、何も入れる余地はないし、神ですらそこに何も入れることができないでしょう。ですから、生活の中にすきまをつくることが大切になるんです」(ポール・トゥルニエ)。「静まって(新改訳2017「やめよ」)、わたしこそ神であることを知れ」。真に大切なものを「入れる余地」をつくるためには、何かをやめる必要があります。「時間がないから神の前で静思の時を持つことができないというのではなく、静思の時を持つことができないから時間に追われてしまうのだ」(大嶋重徳師)。多忙で騒がしい現代だからなおさら、少なくとも一日に一回は祈りの中で静まる時を持ち、週に一回は神を礼拝して静まる時を持つことが必要なのです。

マルコによる福音書6:30~32「しばらく休みなさい」

2020年7月19日、マルコによる福音書6:30~32「しばらく休みなさい」
二人一組の伝道旅行結果(7~13節)を「残らずイエスに報告した」弟子たちは、「人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」と言われました。これまでずっと「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかった」上、伝道旅行の緊張と不安、バプテスマのヨハネの死という悲しみが重なり、精神的にも肉体的にも疲れていたからです。
神も、天地創造の「すべての作業を終って第七日に休まれた」お方です(創世記1:31~2:2)。この神によって、神に似せて造られた私たち人間も、神のように休みを取る必要があります。そうすることによって、神と共に生きる恵みのリズムのようなものが生まれてくるのです。片手間でない神の祝福と聖別にあずかるために(創世記2:2~3)、イエスの十字架と復活を信じて罪の奴隷から救い出された恵みを覚えるために(申命記5:15)、主日ごとに教会に集って神を礼拝するのです。
「毎日の生活が卵の中のようにいっぱいつまっていたら、何も入れる余地はないし、神ですらそこに何も入れることができないでしょう。ですから、生活の中にすきまをつくることが大切になるんです」(ポール・トゥルニエ)。「静まって(新改訳2017「やめよ」)、わたしこそ神であることを知れ」。真に大切なものを「入れる余地」をつくるためには、何かをやめる必要があります。「時間がないから神の前で静思の時を持つことができないというのではなく、静思の時を持つことができないから時間に追われてしまうのだ」(大嶋重徳師)。多忙で騒がしい現代だからなおさら、少なくとも一日に一回は祈りの中で静まる時を持ち、週に一回は神を礼拝して静まる時を持つことが必要なのです。

マルコによる福音書6:14~29「永遠に後悔することがないように」

2020年7月12日、マルコによる福音書6:14~29「永遠に後悔することがないように」
「イエスの名が知れわたって、ヘロデ王(イエス降誕時のヘロデ大王の息子アンテパス)の耳にはい」ると、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」とヘロデは考えました。バプテスマの「ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って」いながら処刑していたからです。
「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と真っ正面から糾弾するヨハネに対してヘロデは、「恐れ…保護を加え…その教を聞いて非常に悩み続けながらも、なお喜んで聞いてい」ました。罪を自覚していながらも悔い改めを拒み続けていると、「ところが、よい機会がきた」。せっかくの悔い改めの「機会」を、ヨハネ処刑の「機会」に変えてしまったのです。後にイエスが捕えられ、自分の前に連れて来られたとき、「ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ」(ルカ23:8)ものの、もはやイエスはヘロデに何も語られませんでした。結局ヘロデは、バプテスマのヨハネとイエスの両方の死に手を貸すことになったのです。
ペリクスも「また、よい機会を得たら」と決断を先延ばしにした結果、二度と「よい機会」は訪れませんでした(使徒行伝24:24~27)。逆にダビデは、預言者ナタンの糾弾に「わたしは主に罪をおかしました」と悔いくずおれ、赦される「機会」となりました(サムエル記下第11~12章)。
心をかたくなにして御言葉の光に従うことを拒み続けていると、「良心に焼き印をおされて」(Ⅰテモテ4:2)麻痺してしまい、御言葉に心を刺され悔い改めることもなくなってしまいかねません。永遠に後悔することがないように、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4:7)と警告しているのです。

マルコによる福音書6:14~29「永遠に後悔することがないように」

2020年7月12日、マルコによる福音書6:14~29「永遠に後悔することがないように」
「イエスの名が知れわたって、ヘロデ王(イエス降誕時のヘロデ大王の息子アンテパス)の耳にはい」ると、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」とヘロデは考えました。バプテスマの「ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って」いながら処刑していたからです。
「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と真っ正面から糾弾するヨハネに対してヘロデは、「恐れ…保護を加え…その教を聞いて非常に悩み続けながらも、なお喜んで聞いてい」ました。罪を自覚していながらも悔い改めを拒み続けていると、「ところが、よい機会がきた」。せっかくの悔い改めの「機会」を、ヨハネ処刑の「機会」に変えてしまったのです。後にイエスが捕えられ、自分の前に連れて来られたとき、「ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ」(ルカ23:8)ものの、もはやイエスはヘロデに何も語られませんでした。結局ヘロデは、バプテスマのヨハネとイエスの両方の死に手を貸すことになったのです。
ペリクスも「また、よい機会を得たら」と決断を先延ばしにした結果、二度と「よい機会」は訪れませんでした(使徒行伝24:24~27)。逆にダビデは、預言者ナタンの糾弾に「わたしは主に罪をおかしました」と悔いくずおれ、赦される「機会」となりました(サムエル記下第11~12章)。
心をかたくなにして御言葉の光に従うことを拒み続けていると、「良心に焼き印をおされて」(Ⅰテモテ4:2)麻痺してしまい、御言葉に心を刺され悔い改めることもなくなってしまいかねません。永遠に後悔することがないように、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4:7)と警告しているのです。

詩篇100:1~5「私たちは牧場の羊」

2020年7月5日、詩篇100:1~5「私たちは牧場の羊」
詩人は「全地」に向かって「喜びをもって…歌いつつ…感謝しつつ…ほめたたえつつ」神を礼拝するよう招いています。それはなぜか。
①主は神であるから(1~3節)
神に造られながら、「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)私たち人間に、真の神を教え、神のもとに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。この私を愛し、罪を贖うために死なれた十字架のイエスを仰ぎ見るとき、「われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」と告白し、心から喜んで礼拝することでしょう。
②主は恵み深いから(4~5節)
「恵み…いつくしみ…まこと」は、契約における神の姿勢を表す重要語です。本篇は、バビロン捕囚から帰還後、神殿を再建・奉献した際に歌われた詩であろうと言われています。そのときイスラエルはきっと思ったことでしょう。主はよくぞこんな強情な羊をも見捨てず、「恵み…いつくしみ…まこと」の限りを尽くして導き続けてくださったものよ、と。そうして喜びと感謝に満ちて礼拝したことでしょう。
イスラエル同様、何度も何度も主に背いてきた私たちが今なお礼拝の民とされているばかりか、これまで「耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さ」いました(Ⅰコリント10:13)。すべては主の「恵み…いつくしみ…まこと」以外の何ものでもありません。そのことを思えば、主を愛し、主を礼拝せずにはいられないはずです。

詩篇100:1~5「私たちは牧場の羊」

2020年7月5日、詩篇100:1~5「私たちは牧場の羊」
詩人は「全地」に向かって「喜びをもって…歌いつつ…感謝しつつ…ほめたたえつつ」神を礼拝するよう招いています。それはなぜか。
①主は神であるから(1~3節)
神に造られながら、「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)私たち人間に、真の神を教え、神のもとに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。この私を愛し、罪を贖うために死なれた十字架のイエスを仰ぎ見るとき、「われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」と告白し、心から喜んで礼拝することでしょう。
②主は恵み深いから(4~5節)
「恵み…いつくしみ…まこと」は、契約における神の姿勢を表す重要語です。本篇は、バビロン捕囚から帰還後、神殿を再建・奉献した際に歌われた詩であろうと言われています。そのときイスラエルはきっと思ったことでしょう。主はよくぞこんな強情な羊をも見捨てず、「恵み…いつくしみ…まこと」の限りを尽くして導き続けてくださったものよ、と。そうして喜びと感謝に満ちて礼拝したことでしょう。
イスラエル同様、何度も何度も主に背いてきた私たちが今なお礼拝の民とされているばかりか、これまで「耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さ」いました(Ⅰコリント10:13)。すべては主の「恵み…いつくしみ…まこと」以外の何ものでもありません。そのことを思えば、主を愛し、主を礼拝せずにはいられないはずです。

詩篇23:6「主は私の羊飼い、恵みが追って来る」

2020年6月28日、詩篇23:6「主は私の羊飼い、恵みが追って来る」
順境の日も逆境の日も、「わたしの生きているかぎりは(直訳「私の生涯のすべての日々」)必ず恵みといつくしみとが伴う(新改訳2017「追って来る」)でしょう」。「恵みといつくしみ」は、主の契約に対する真実な姿勢を表す重要語です。神の愛は、「もし~」という条件付きの愛でもなければ、「~だから」という状況次第の愛でもありません。「でも」の愛です。「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である」(Ⅱテモテ2:13)。イスラエルがいかに「不真実であっても」、実際、不真実だらけでしたが、それ「でも」主は契約のゆえに主の側の「真実」を変えようとせず、契約を守り通されました。その最大の証拠が、約束の救い主イエスの来臨、十字架と復活による救いでした。
以前は「必ず恵みといつくしみとが伴う」人生とは無縁の者で、「自分の罪過と罪とによって死んでいた者…生れながらの怒りの子」(エペソ2:1~3)でした。「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし」(エペソ2:4~6)、主ご自身と「恵みといつくしみ」とにサンドイッチされるようにして歩んでいます。だからこそ、「死の陰の谷」や「敵の前」を乗り越えることができたのです。
それゆえ、「主の宮」で主を礼拝することが何よりの喜びであり、「やがて、私は主の家に着き、いつまでもおそばで暮すこと」(リビングバイブル)を切望するのです(ピリピ1:23)。やがて死によって地上生涯を終えますが、イエスを信じて「永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47、新共同訳)者は、主と共に生きる場所が地上から天上に変わるだけなのです。

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