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礼拝堂での礼拝・教会学校を再開

★6月21日(日)から、礼拝堂での礼拝と教会学校を再開しています。

礼拝は午前10時15分から、教会学校は午前11時からです。

これまでどおりライブ配信もしますので、在宅オンライン礼拝も可能です。
https://zoom.us/j/をクリックしてください。
ID入力が必要ですので、メール等でご連絡くださればお教えいたします。

マルコによる福音書7:14~23「人に入るもの、人から出るもの」

2020年9月20日、マルコによる福音書7:14~23「人に入るもの、人から出るもの」
「外から人の中にはいって来るもの(食物)」は、「腹の中にはいり…外に出て行くだけ」だから、「念入りに手を洗ってから」食事しないと汚れるという「昔の人の言伝え」など無意味で、「イエスは…どんな食物でもきよいものとされ」ました。「外から人の中にはいって来るもの」よりも、「人の中から出てくる…悪い思い」こそ大問題で、内から外に出て自分を汚し、他人を傷つけ、家庭や社会を破壊する恐るべき病原菌です。自分の目を外にではなく内に向けるようイエスは促しておられるのです。そのときどんなに逆立ちして頑張っても、自分ではどうすることもできないことがわかります。それほど罪に汚染された私たちは、もはやイエスに解決していただく他ないのです。
「妬み」や「誹り」から解放されたら、どんなに毎日が楽で幸せでしょうか。他にも心の中に様々な「悪い思い」を抱えているから、自分らしく生きることができないのです。すっきりした心と魂で生きることができないのです。そしてせっかく神から与えられている賜物や持ち味を十分発揮できないままくすぶり続けることになるのです。
私たち一人ひとりをかけがえのない最高傑作として愛していてくださる神は(イザヤ書43:4)、私たちが神の愛をいっぱい受け、神を愛し人を愛し、自分らしく最高の人生を歩むようにと願っておられます。それゆえ神は御子イエスをお遣わしになり、十字架の死に渡されたのです。まず自分も心の中に「悪い思い」がある「病人」(2:17)であることを素直に認めることがすべての始まりです。その上でイエスを信じ受け入れるなら、汚れた心も赦され、さらにきよめられるのです。

マルコによる福音書7:14~23「人に入るもの、人から出るもの」

2020年9月20日、マルコによる福音書7:14~23「人に入るもの、人から出るもの」
「外から人の中にはいって来るもの(食物)」は、「腹の中にはいり…外に出て行くだけ」だから、「念入りに手を洗ってから」食事しないと汚れるという「昔の人の言伝え」など無意味で、「イエスは…どんな食物でもきよいものとされ」ました。「外から人の中にはいって来るもの」よりも、「人の中から出てくる…悪い思い」こそ大問題で、内から外に出て自分を汚し、他人を傷つけ、家庭や社会を破壊する恐るべき病原菌です。自分の目を外にではなく内に向けるようイエスは促しておられるのです。そのときどんなに逆立ちして頑張っても、自分ではどうすることもできないことがわかります。それほど罪に汚染された私たちは、もはやイエスに解決していただく他ないのです。
「妬み」や「誹り」から解放されたら、どんなに毎日が楽で幸せでしょうか。他にも心の中に様々な「悪い思い」を抱えているから、自分らしく生きることができないのです。すっきりした心と魂で生きることができないのです。そしてせっかく神から与えられている賜物や持ち味を十分発揮できないままくすぶり続けることになるのです。
私たち一人ひとりをかけがえのない最高傑作として愛していてくださる神は(イザヤ書43:4)、私たちが神の愛をいっぱい受け、神を愛し人を愛し、自分らしく最高の人生を歩むようにと願っておられます。それゆえ神は御子イエスをお遣わしになり、十字架の死に渡されたのです。まず自分も心の中に「悪い思い」がある「病人」(2:17)であることを素直に認めることがすべての始まりです。その上でイエスを信じ受け入れるなら、汚れた心も赦され、さらにきよめられるのです。

ハバクク書2:1~4「遅くなっても待て」

2020年9月13日、ハバクク書2:1~4「遅くなっても待て」
「暴虐…よこしま…」に満ち、「律法はゆるみ、公義は行われ」ない南王国ユダを、神は「カルデヤびとを興」してさばこうとされています(1:2~6)。ハバクク(からみつく、抱きつく、の意)はそんな現実から目を背けないで直視し、その名前のとおり神に抱きつくようにして、「いつまでこんな状況が続くのですか。そしてそれはなぜですか」と訴えました。その上で、「見張所に立ち、物見やぐらに身を置き…なんと語られるか」、神の答えを待ち望みました。神からの答えは、「この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして(完成に向かって)急いでいる」状況で、現時点では約束が実現するようには思えないかもしれないが、「それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない」から忍耐強く待ち望め、と励ますものでした。
新型コロナウイルスによって日常生活は一変し、教会活動は制限されています。私たちはそうした「今」だけを見て一喜一憂しがちですが、神のご計画は遠大で、「この方に信頼する者は 決して失望させられることがない」(Ⅰペテロ2:6)のです。大切なことは、「それは必ず臨む。滞りはしない」という確信であり、信じて待ち望む忍耐です。「祈りとは、卵のようなもの。産んでもすぐにふ化しない」(キャサリン・マーシャル)。「卵がすぐにふ化しないように、ほとんどの祈りはすぐにはかなえられません。むしろ、世界と人類と私たちの人生の全体を包み込む神の目的のために、卵のように温められ、ふ化するときを待っているのです」(デイリーブレッド)。「もう少しの祈り、もう少しの信仰、もう少しの忍耐、そうすれば答えは必ず来る」(ジョージ・ミュラー)。

創世記12:1~4「あなたは祝福となりなさい」

2020年9月6日、創世記12:1~4「あなたは祝福となりなさい」
主はアブラ(ハ)ムに「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と命じられました。75歳で未知の土地に移住するというのは、恐れと不安、労苦と犠牲が伴いますが、「信仰によって、アブラハムは…それに従い、行く先を知らないで出て行」きました(ヘブル11:8)。ヘブル語では、「聞く」という語と「従う」という語は同じです。ただ単に聞くだけで従わなければ真に聞いたことにはならない、聞いて従って初めて真に聞いたことになるということです。
主はただ「従え」と言われるだけでありません。命令には必ず祝福が伴います。「(妻)サライはうまずめで、子がなかった」(ヘブル11:30)のに、やがて子が誕生し、その子孫は「大いなる国民」になるという祝福です。アブラムから始まるイスラエル民族によって、全世界が真の神を知るようになり、祝福されるようになるという祝福です。これは究極的にはアブラムの家系から降誕された御子イエスによって成就しました。さらにイエスを信じる信仰によって救われた私たちも今や「アブラハムの子」とされ、その祝福を受け継いでいるのです(ガラテヤ3:7)。御言葉に従順に従うなら、豊かな祝福が注がれるばかりか、周囲にもその祝福があふれ出ていくのです。「信仰と服従とは、神の人の生涯の軌道をつくる二本のレールである。服従は信仰から生じ、生ける信仰はまた必ず絶対の服従に現れる」(澤村五郎師)。
アブラムは主に信頼して「はじめの一歩」を踏み出しました。その後は主のご真実を体験し続ける生涯でした。「あなたは祝福となりなさい」と言われる主に信頼して従うこと、これこそ祝福の鍵なのです。

マルコによる福音書7:1~13「口先で敬うが、その心は」

2020年8月30日、マルコによる福音書7:1~13「口先で敬うが、その心は」
「パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった」際、「弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た」ので、ここぞとばかり非難しました。「ユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない」からです。
それに対してイエスは、掟を守ることで「わたし(神)を敬」っている気になっているようだが、それは「口さき」だけのことで、「その心はわたし(神)から遠く離れている」、仮面をかぶって義人を演じる「偽善者(俳優、通訳、の意)」だと彼らの本質を鋭く指摘されました。その証拠に、年老いた両親を援助したくない場合、「あなたに差上げるはずのこのものはコルバン…供え物ですと言えば…父母に対して、もう何もしないで済む」という「言伝え」を巧みに利用して、「あなたの父と母を敬え」(出エジプト記20:12)という「神のいましめを捨て」ていたからです。
すべてを見通しておられる神の前でも、私たちは格好をつけて良い子のふりをしたり、仮面をかぶって偽りの自分を演じたりしやすいものです。それは、本当の姿を見られたら愛されないかもしれない、受け入れられないかもしれないという恐れが心の奥底にあるからではありませんか。しかし心配無用です。イエスが私たちに代わって十字架上で捨てられてくださったので、私たちはもはや神に捨てられることなどないからです。ですから仮面をかぶった自分で生きるのをやめ、素の自分で生きようではありませんか。そこから神の愛を本当に知り、その愛に応えて生きる信仰生活が始まるのです。

マルコによる福音書7:1~13「口先で敬うが、その心は」

2020年8月30日、マルコによる福音書7:1~13「口先で敬うが、その心は」
「パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった」際、「弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た」ので、ここぞとばかり非難しました。「ユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない」からです。
それに対してイエスは、掟を守ることで「わたし(神)を敬」っている気になっているようだが、それは「口さき」だけのことで、「その心はわたし(神)から遠く離れている」、仮面をかぶって義人を演じる「偽善者(俳優、通訳、の意)」だと彼らの本質を鋭く指摘されました。その証拠に、年老いた両親を援助したくない場合、「あなたに差上げるはずのこのものはコルバン…供え物ですと言えば…父母に対して、もう何もしないで済む」という「言伝え」を巧みに利用して、「あなたの父と母を敬え」(出エジプト記20:12)という「神のいましめを捨て」ていたからです。
すべてを見通しておられる神の前でも、私たちは格好をつけて良い子のふりをしたり、仮面をかぶって偽りの自分を演じたりしやすいものです。それは、本当の姿を見られたら愛されないかもしれない、受け入れられないかもしれないという恐れが心の奥底にあるからではありませんか。しかし心配無用です。イエスが私たちに代わって十字架上で捨てられてくださったので、私たちはもはや神に捨てられることなどないからです。ですから仮面をかぶった自分で生きるのをやめ、素の自分で生きようではありませんか。そこから神の愛を本当に知り、その愛に応えて生きる信仰生活が始まるのです。

マルコによる福音書6:53~56「信仰の手を伸ばそう」

2020年8月23日、マルコによる福音書6:53~56「信仰の手を伸ばそう」
ゲネサレの人々はイエスの来訪を知るや否や、「その地方をあまねく駆けめぐり…病人たちを…運びはじめ…せめてその上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたいと、お願いし…さわった者は皆いやされ」ました。「力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった」(1~6節)郷里ナザレとは対照的です。信じようとも期待しようともしない不信仰の中では、さすがのイエスもその力を発揮することができませんでした。ゲネサレの人々の信仰は、幼稚でご利益信仰的であったかもしれませんが、イエスに対するひたむきな心で信仰の手を伸ばしました。その素朴な信仰にイエスも深いあわれみをもって答えられたのです。
罪や病気や死は初めからあったものではなく、最初の人アダムとエバの堕罪によって生じた不自然なものです(創世記 第3章)。イエスは、私たち人間をこれらから救い出すためにこの世に来られ、神のかたちに造られた人間がこれらで苦しむのを見て、深くあわれまれました。癒しのみわざは、御言葉を語ることと同様、イエスにとっては重要な働きの一つだったのです。それほどイエスは、「あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと」願っておられるのです(Ⅲヨハネ2)。
しかし問題はその後です。この世的な祝福だけで満足して、イエスのもとを離れ去るのか。それとも永遠に失われることのない霊的祝福を求めて、イエスを信じ、イエスの愛に応えて生きるのか。「今は恵みの時…今は救の日」(Ⅱコリント6:2)、「今」こそ信仰決断の時です。

マルコによる福音書6:53~56「信仰の手を伸ばそう」

2020年8月23日、マルコによる福音書6:53~56「信仰の手を伸ばそう」
ゲネサレの人々はイエスの来訪を知るや否や、「その地方をあまねく駆けめぐり…病人たちを…運びはじめ…せめてその上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたいと、お願いし…さわった者は皆いやされ」ました。「力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった」(1~6節)郷里ナザレとは対照的です。信じようとも期待しようともしない不信仰の中では、さすがのイエスもその力を発揮することができませんでした。ゲネサレの人々の信仰は、幼稚でご利益信仰的であったかもしれませんが、イエスに対するひたむきな心で信仰の手を伸ばしました。その素朴な信仰にイエスも深いあわれみをもって答えられたのです。
罪や病気や死は初めからあったものではなく、最初の人アダムとエバの堕罪によって生じた不自然なものです(創世記 第3章)。イエスは、私たち人間をこれらから救い出すためにこの世に来られ、神のかたちに造られた人間がこれらで苦しむのを見て、深くあわれまれました。癒しのみわざは、御言葉を語ることと同様、イエスにとっては重要な働きの一つだったのです。それほどイエスは、「あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと」願っておられるのです(Ⅲヨハネ2)。
しかし問題はその後です。この世的な祝福だけで満足して、イエスのもとを離れ去るのか。それとも永遠に失われることのない霊的祝福を求めて、イエスを信じ、イエスの愛に応えて生きるのか。「今は恵みの時…今は救の日」(Ⅱコリント6:2)、「今」こそ信仰決断の時です。

マルコによる福音書6:45~52「心安かれ、我なり、恐るな」

2020年8月16日、マルコによる福音書6:45~52「心安かれ、我なり、恐るな」
「イエスは…群集を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸…へ先におやりにな」りました。逆風が夕方から夜明けまで吹き続けたため、弟子たちは舟をこぎあぐねていました。でも、なぜイエスに助けを求めなかったのでしょうか。イエスの専門分野である神の世界に関してはイエスに信頼するが、自分たちの専門分野である漁の世界に関しては自分たちだけで何とかなると考えていたからかもしれません。私たちも、イエスはいつも共にいてくださると口先で言いながら、実生活ではイエスの臨在をまるで必要としていないかのような生き方をしてはいないでしょうか。
弟子たちが精も根も尽き果てた頃、イエスが「海の上を歩いて近づき」、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と語りかけられました。以前もガリラヤ湖で大嵐に見舞われたとき、わたしイエスが「静まれ、黙れ」と言うと、「風はやんで、大なぎになった」ではないか(4:35~41)。パンの奇跡を見たばかりではないか(6:35~44)。わたしの命令でこぎ出した舟ではないか。全宇宙の主権者がいるのに、なぜ恐れるのか、信頼できないのか、ということです(マタイ28:18)。
もはや打つ手がないような絶体絶命のとき、「主よ、お助けください」(マタイ14:30)と叫んで、イエスを自分の人生丸に迎え入れるならば、「舟に乗り込まれると、風はやんだ」、そして向こう岸へ無事到着させてくださいます。「イエスは波を踏みつけて来られた。そのようにイエスは、人生にわきあがって来るすべての混乱を、足の下に踏みつけられた。クリスチャンよ、どうして恐れるのか」(アウグスティヌス)。

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