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「死にたい」と思い悩んでいる方へ

★「死にたい」「もう自分は死ぬしかない」「自分は死んだほうがいいんだ」と思い悩んでいる方、
誰にも相談できず、ひとりで悩んでいる方へ★

あなたは決してひとりではありません。
あなたの周りにはあなたの助けになる人がきっといます。
ためらわないで助けを求めてください。
まずは電話かメールでご連絡ください。

今から数年前にホームレスのおじさんたちが先生役になって、小学生に教えるというセミナーを開きました。(中略)最後の授業は、元野宿のおじさんが「子どもたちに語る」というコーナーでした。(中略)子どもたちに、そのおじさんはこう語りかけました。「おじさんはさぁ、自分で頑張るしかないって60年生きてきたけど、この世の中には助けてくれる人がいたんだ。『助けて』と言えた日が助かった日だったよ」と言ったのです。そうしたら、聞いていた子どもたちの何人かが涙を流しているのです。私は司会だったので、「きみたちも学校でつらいことがある。家でつらいことがある、そんなときは『助けて!』と叫んだらいいんだ。たしかに世の中には、『助けて』と言ったら、『何を甘えているんだ』と言う人もいるよ。でも、『うちにおいで』と言ってくれる人が必ずいるから、『助けて!』って言いなさい」と言ったら、涙をバーっと流している子どもたちが何人もいました。…奥田知志他著『灯を輝かし、闇を照らす』より

詩篇91:1~16「全能者の陰に宿る幸い」

2021年2月21日、詩篇91:1~16「全能者の陰に宿る幸い」
私たちの人生には、「かりゅうどのわなと、恐ろしい疫病」他、様々な困難が襲いかかってきますが、そのとき主のもとに「住む…やどる」人は幸いです。主は、親鳥が雛を守るように「その羽をもって…おおわれ」、「大盾…小盾(新改訳2017「砦」)」のように私たちを取り囲んで守ってくださいます。さらに主は「あなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられ」ます(ルカ22:43、イザヤ63:9)。「あなたのために」ピッタリの、オーダーメイドの守りです。主は常に「共にいて」「呼ぶとき…答え」、「救い」出してくださいます。「彼の悩みのときに」とあるように、主を信じていれば災難に全くあわないということではありませんが、立ち上がれないほど打ち倒されることがないよう主が守り支えてくださるということです。
私たちの日常生活のほとんどは、目に見えない電気によって支えられています。しかし実は電気以上にもっと大きく、もっと根本的な便宜によって、すなわち目に見えない神によって私たちは守り支えられているのです。ときとして突発的な出来事が私たちの人生に襲いかかりますが、大切なことは、そうした事態に直面しても揺り動かされることのない確かな備えがあることです。「いと高き者のもとにある隠れ場に住む…全能者の陰にやどる」、すなわちイエスを信じて生きることこそ、一生涯保障が続く究極の保険です。「神に信頼するとは…第一に、神を『愛する』ことです。第二に、神の『名を知る』、つまりどんな時も信じることです。第三に、神を『呼び求める』こと、つまり、いつも祈り、神と対話することです」(羽鳥明師)。

詩篇91:1~16「全能者の陰に宿る幸い」

2021年2月21日、詩篇91:1~16「全能者の陰に宿る幸い」
私たちの人生には、「かりゅうどのわなと、恐ろしい疫病」他、様々な困難が襲いかかってきますが、そのとき主のもとに「住む…やどる」人は幸いです。主は、親鳥が雛を守るように「その羽をもって…おおわれ」、「大盾…小盾(新改訳2017「砦」)」のように私たちを取り囲んで守ってくださいます。さらに主は「あなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられ」ます(ルカ22:43、イザヤ63:9)。「あなたのために」ピッタリの、オーダーメイドの守りです。主は常に「共にいて」「呼ぶとき…答え」、「救い」出してくださいます。「彼の悩みのときに」とあるように、主を信じていれば災難に全くあわないということではありませんが、立ち上がれないほど打ち倒されることがないよう主が守り支えてくださるということです。
私たちの日常生活のほとんどは、目に見えない電気によって支えられています。しかし実は電気以上にもっと大きく、もっと根本的な便宜によって、すなわち目に見えない神によって私たちは守り支えられているのです。ときとして突発的な出来事が私たちの人生に襲いかかりますが、大切なことは、そうした事態に直面しても揺り動かされることのない確かな備えがあることです。「いと高き者のもとにある隠れ場に住む…全能者の陰にやどる」、すなわちイエスを信じて生きることこそ、一生涯保障が続く究極の保険です。「神に信頼するとは…第一に、神を『愛する』ことです。第二に、神の『名を知る』、つまりどんな時も信じることです。第三に、神を『呼び求める』こと、つまり、いつも祈り、神と対話することです」(羽鳥明師)。

詩篇90:1~17「残りの日々を数えるすべを教えてください」

2021年2月14日、詩篇90:1~17「残りの日々を数えるすべを教えてください」
主は永遠の昔から永遠の未来まで存在されるお方、「地と世界とを造られ」た創造者です。しかし私たち人間は、「人の子よ、帰れ」と主に命じられると死んで、ちりに帰るべき有限な存在です。しかもその生涯は「夜の間のひと時…ひと夜の夢のごとく」実にはかないものです。しかもただはかないだけでなく、「不義…隠れた罪」のため、神の「怒りによって消えうせ…憤りによって滅び去る」べき存在です。人生の最後が悲惨なだけでなく、人生の途上も「その一生はただ、ほねおりと悩み」の連続です。これが神から離れた人間の現実です。
しかし神と人間について正しく認識する詩人は、「われらにおのが日を数えることを教えて…ください(聖書協会共同訳「残りの日々を数えるすべを教え…てください」)」と祈ります。人生から神を締め出すなら、あるのは人生の無常と自分の罪深さのみですが、「主よ、み心を変えてください(新改訳2017「帰って来てください。主よ」)」、人生に主をお迎えしさえすれば、一切は好転するのです。イエスの十字架を信じるなら、朝には主の恵みで満ち足り、希望にあふれて一日を始めることができ(14節)、これまでの苦悩を補って余りある喜びで満ち足らせ(15節)、平凡な日常生活も「確かなものに(新改訳2017)」されるのです(17節)。
もしかしたら今年のスケジュール帳に、自分の召天・葬儀の日が割り込んでくるかもしれません。「残りの日々を数え」つつ、これが地上最後の礼拝になるかもしれないという真剣な思いで毎週の礼拝に臨みましょう。死を避けるのでなく死を見つめながら、「今」という時を無駄にすることなく、一日一日を神と共に全力で歩みましょう。

詩篇90:1~17「残りの日々を数えるすべを教えてください」

2021年2月14日、詩篇90:1~17「残りの日々を数えるすべを教えてください」
主は永遠の昔から永遠の未来まで存在されるお方、「地と世界とを造られ」た創造者です。しかし私たち人間は、「人の子よ、帰れ」と主に命じられると死んで、ちりに帰るべき有限な存在です。しかもその生涯は「夜の間のひと時…ひと夜の夢のごとく」実にはかないものです。しかもただはかないだけでなく、「不義…隠れた罪」のため、神の「怒りによって消えうせ…憤りによって滅び去る」べき存在です。人生の最後が悲惨なだけでなく、人生の途上も「その一生はただ、ほねおりと悩み」の連続です。これが神から離れた人間の現実です。
しかし神と人間について正しく認識する詩人は、「われらにおのが日を数えることを教えて…ください(聖書協会共同訳「残りの日々を数えるすべを教え…てください」)」と祈ります。人生から神を締め出すなら、あるのは人生の無常と自分の罪深さのみですが、「主よ、み心を変えてください(新改訳2017「帰って来てください。主よ」)」、人生に主をお迎えしさえすれば、一切は好転するのです。イエスの十字架を信じるなら、朝には主の恵みで満ち足り、希望にあふれて一日を始めることができ(14節)、これまでの苦悩を補って余りある喜びで満ち足らせ(15節)、平凡な日常生活も「確かなものに(新改訳2017)」されるのです(17節)。
もしかしたら今年のスケジュール帳に、自分の召天・葬儀の日が割り込んでくるかもしれません。「残りの日々を数え」つつ、これが地上最後の礼拝になるかもしれないという真剣な思いで毎週の礼拝に臨みましょう。死を避けるのでなく死を見つめながら、「今」という時を無駄にすることなく、一日一日を神と共に全力で歩みましょう。

創世記12:1~4「あなたは祝福となりなさい」

2021年2月7日、創世記12:1~4「あなたは祝福となりなさい」
主はアブラ(ハ)ムに「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と命じられました。文化の中心地から未知の土地に75歳で移住するのには恐れや不安があったでしょうが、「信仰によって、アブラハムは…それに従い、行く先を知らないで出て行った」(ヘブル11:8)。ヘブル語で「聞く」という語と「従う」という語は同じです。ただ単に聞くだけで従わなければ真に聞いたことにはならない、聞いて従って初めて真に聞いたことになるということです。
主は痩せ馬に鞭打つようにして盲従させる非情なお方ではありません。命令には必ず約束が伴います。「(妻)サライはうまずめで、子がなかった」(11:30)のに、やがて子が生まれ、「大いなる国民」になるという約束です。「あなたは祝福の基となる…地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」、アブラムから始まるイスラエル民族によって、全世界に祝福が及ぶようになるという約束です。これは究極的にはアブラムの家系から降誕された御子イエスによって成就しました。さらにイエスを信じる私たちも「アブラハムの子」(ガラテヤ3:7)、「祝福の基」とされていますので、その私たちの存在によって家庭も学校も職場も地域も神の祝福が及ぶところとなっているのです。
アブラムは主に信頼して「はじめの一歩」を踏み出しました。その結果、豊かに祝福され、「幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ」(25:8、新改訳2017)。様々な試練や戦いがありましたが、主のご真実を体験し続ける生涯でした。「あなたは祝福となりなさい」と言われる主に信頼して従うこと、これこそが祝福の鍵なのです。

申命記32:10~14「瞳のように守られている私たち」

2021年1月31日、申命記32:10~14「瞳のように守られている私たち」
主がイスラエルをいかに保護されたか、2つの譬えで語ります。
①「目のひとみ」の譬え(10節)
荒野の40年間、イスラエルの側から神に助けを求めたというよりも、神の側からイスラエルを「見いだし…会い…巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られ」ました(ヨハネ15:16)。「目のひとみ」は絶えず保護されていて、直接触れることなどまずできません。ましてや誰が主の「目のひとみ」に触れることなどできましょうか。イスラエルは主によってそれほど常に瞬間瞬間、絶えず継続的に、確実に守られ保護されてきた、そしてこれからもそうだ、ということです。一羽のすずめさえも「神のみまえで忘れられてはいない」(ルカ12:6~7、マタイ10:29)ように、私たち一人ひとりも神に片時も忘れられることなく覚えられているだけでなく、絶えず「巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られ」ているとは、何と心丈夫なことでしょうか。
②「わし…ひな」の譬え(11~12節)
親「わし」は、「ひな」がいよいよ巣立つというとき、早く飛び立つように「その巣のひなを呼び起し」、突き飛ばして飛び立たせますが、放ったらかしにはせず、「その子の上に舞いかけ」、まだまだ飛ぶ力が弱くて落ちていくのを見ると、「その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負」って支えます。イスラエルに対する神の導きも、まさに親わしのようであったことをモーセは思い起こさせました。「『どんどん落ちていく』と感じるとき、主が鷲のように翼を広げて私たちを受け止め、安心させてくださいます」(デイリーブレッド)。

ヨブ記2:7~10「幸いを神から受けるのだから」

2021年1月24日、ヨブ記2:7~10「幸いを神から受けるのだから」
再びサタンが来て、今度は「ヨブを撃ち…いやな腫物をもって彼を悩まし」ました。信仰を持つがゆえに苦悩する、悲惨な夫の姿を間近に見ていた妻が「神をのろって死になさい」と言うと、ヨブは「神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」と言いました。わが子をすべて失い、信仰につまずいた妻に、これまでどんなに「幸をうけ」てきたか思い起こさせ、優しく説得しようとした言葉です。
しかし前回の悲劇の際(1:22)にはなかった、気になる表現があります。「そのくちびるをもって罪を犯さなかった(直訳「彼の唇では罪を犯さなかった」)」。口にこそ出さないが、心の中ではそうではない、つぶやきがヨブの心の中で渦巻いていたことを示唆しています。流行語大賞にも選ばれた「なんでだろ~」、このときのヨブの心境もまさにそうだったでしょう。「神を畏れて生きてきた私がなんでだろ~」。しかしヨブ以上に「なんでだろ~」と苦悩された方がおられます。イエス・キリストです。イエスは罪の全くない神の御子でしたが、全人類の罪の身代わりとして十字架につけられ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(マタイ27:46)。
希望がまるで見えない状況で、ヨブはますますその苦悩を深めていきますが、それでもなお忍耐を働かせ続けました。ヨブには苦難の理由は最後まで明らかにされませんでしたが、霊の目で神を見るという体験によって納得し、祝福も回復されました(第42章)。御子イエスを犠牲にしてでも罪人を救おうとする愛なる神は、「すべての悩みのとき、主も悩まれ…救い」出してくださるお方です(イザヤ書63:9)。

ヨブ記1:20~22「主は与え、主は取られる」

2021年1月17日、ヨブ記1:20~22「主は与え、主は取られる」
「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」ヨブでしたが、一日のうちに子や僕、家畜等を失いました。それでもヨブは信仰によって再び「起き上がり…地に伏して拝し」、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と言いました。人は神に全面的に依存しなければ生きていけない無力な存在であることを認め、ただ神が神であるがゆえに、神を信じ畏れることを止めませんでした。このヨブの姿は私たちに、「あなたにとって神を信じるとは、神を礼拝するとはどういうことか」と問いかけます。また、私たちは所有者ではなく管理者に過ぎないことを謙虚に認めるよう迫ります。
義人がなぜ試練にあって苦しまなければならないのか、これが本書の中心主題です。ヨブには苦難の理由が最後まで知らされなかったように、私たちを襲う試練や苦難の意味や理由も、この地上では完全には理解できないでしょう。それゆえ理由のわからない苦難に直面しても、自分を責めたり神を恨んだりしてはなりません。御子イエスを十字架の死に渡すほど私たちを愛しておられる神が、どうして意味もなく私たちを苦しめたりなさるでしょうか。どんなに辛く苦しいときでも、常に神は私たちの味方です。この神にどこまでも信頼するよう本書は私たちに語りかけているのです。「わたしの愛する子よ。あの阪神・淡路大震災を、またあの試練をよくぞ耐え忍んで信仰を守り通してくれた。わたしの誇りだ、喜びだ。これからもその信仰を貫き通してほしい」と主は称賛されていることでしょう。

礼拝堂での礼拝・教会学校を休止

★緊急事態宣言発令に伴い、1月17日(日)から、教会に集まっての礼拝・教会学校は休止、オンラインによる礼拝・教会学校とします。

どなたでも参加できますので、参加したい方は教会までご連絡ください。
https://zoom.us/j/をクリックしてください。
ミーティングIDとパスコードの入力が必要ですので、メール等でご連絡くださればお教えいたします。

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