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マルコによる福音書1:2~5「荒野で叫ぶ者の声」

2018年11月18日、マルコによる福音書1:2~5「荒野で叫ぶ者の声」
「預言者イザヤの書に…と書いてある」とは、「神の子イエス・キリストの福音」は、旧約聖書の預言の成就だということです。最初の人アダムが罪を犯したときから計画されていた救いで(創世記3:15)、イザヤ他の預言者たちに度々打ち明けられてきました。そうした入念な準備の後にキリストが登場するのですが、その前にバプテスマのヨハネが遣わされ、人々がキリストを信じ受入れる道備えをしました。
ヨハネの中心メッセージは「悔改め(心の方向転換、の意)」でした。心の向きを180度変え、自分中心から神中心に方向転換することです。生まれながらの人間は皆、神に背を向けて生きている罪人です。罪を犯すから罪人なのではなく、生まれながらの罪人だから罪を犯してしまうのです。神に背を向けたまま歩き続けると、神から遠ざかる一方です(マルコ7:21~22)。そのような歩みがいかに人を傷つけ、自分を汚し、神を悲しませてきたかに気づいて、今後は自分中心から神中心に生きていこうと心の向きを180度変えるのが「悔改め」です。そのように神に向かって歩み続けると、神にますます近づき、神と共に歩むようになります。これこそ神に造られた人間の本来あるべき姿です。とは言え、悔い改めだけでは救われません。罪を悔い改めた上でイエスの十字架を信じるから救われるのです(使徒行伝20:21)。
当時、救い主が来られたら、神の選民ユダヤ人は自動的に救われると信じていました。ヨハネはそうした浅薄な期待を打ち砕き、真に心の方向転換をしたなら、「悔改めにふさわしい実を結」ぶはずだ、と語りました(ルカ3:8)。悔い改めの徹底こそ、救いの鍵だからです。

マルコによる福音書1:2~5「荒野で叫ぶ者の声」

2018年11月18日、マルコによる福音書1:2~5「荒野で叫ぶ者の声」
「預言者イザヤの書に…と書いてある」とは、「神の子イエス・キリストの福音」は、旧約聖書の預言の成就だということです。最初の人アダムが罪を犯したときから計画されていた救いで(創世記3:15)、イザヤ他の預言者たちに度々打ち明けられてきました。そうした入念な準備の後にキリストが登場するのですが、その前にバプテスマのヨハネが遣わされ、人々がキリストを信じ受入れる道備えをしました。
ヨハネの中心メッセージは「悔改め(心の方向転換、の意)」でした。心の向きを180度変え、自分中心から神中心に方向転換することです。生まれながらの人間は皆、神に背を向けて生きている罪人です。罪を犯すから罪人なのではなく、生まれながらの罪人だから罪を犯してしまうのです。神に背を向けたまま歩き続けると、神から遠ざかる一方です(マルコ7:21~22)。そのような歩みがいかに人を傷つけ、自分を汚し、神を悲しませてきたかに気づいて、今後は自分中心から神中心に生きていこうと心の向きを180度変えるのが「悔改め」です。そのように神に向かって歩み続けると、神にますます近づき、神と共に歩むようになります。これこそ神に造られた人間の本来あるべき姿です。とは言え、悔い改めだけでは救われません。罪を悔い改めた上でイエスの十字架を信じるから救われるのです(使徒行伝20:21)。
当時、救い主が来られたら、神の選民ユダヤ人は自動的に救われると信じていました。ヨハネはそうした浅薄な期待を打ち砕き、真に心の方向転換をしたなら、「悔改めにふさわしい実を結」ぶはずだ、と語りました(ルカ3:8)。悔い改めの徹底こそ、救いの鍵だからです。

丸屋真也師セミナー(IFM関西セミナー)

★2020年度 丸屋真也師セミナー(IFM関西セミナー)★

『スピリチュアル・フォーメイション(霊的形成)―真に御霊の実を結ぶために』

【講師】
丸屋 真也師(IFM代表・相談室長、臨床心理学博士、牧会学博士)

【日時】
第1回:2020年4月18日(土)午後0時45分~3時45分
第2回:7月4日(土)
第3回:10月24日(土)

【会場】
芦屋川教会

【受講料】
全3回で16,000円。
夫婦や家族で出席する場合、二人目以降は11,000円(何名でも適用されます)。

※当セミナーについては、芦屋川教会が窓口になっていますので、興味のある方はご連絡ください。
案内チラシと出席申込書をお送りいたします。

マルコによる福音書1:1「イエス・キリストの福音」

2018年11月11日、マルコによる福音書1:1「イエス・キリストの福音」
「神の子イエス・キリスト(について)の福音」こそ、全人類が最も必要としていた勝利の知らせ、喜びのおとずれです。人類共通の究極の問題である罪と死に、真の解決を与え得るものだからです。世のニュースは、どんな大事件や大発見であっても、しばらくすると忘れられてしまいますが、福音は永遠に変わらないグッドニュースです。
「神の子イエス・キリスト」とは、イエスはキリスト(油注がれた者、の意)であり神の子である、ということです。ペテロは弟子たちを代表して「あなたこそ、生ける神の子キリストです」、イエスこそ約束のメシヤ=キリスト、救い主と信仰告白しました(マタイ16:13~16)。御霊は罪を指摘し、十字架はその罪を赦すためであることを示し、悔い改めと信仰へと導きます(マタイ16:17、Ⅰコリント12:3)。「神の子イエス」と言っても、イエスは神の被造物ではなく、永遠の初めから父なる神と共にいて天地を創造され、人々に神を見せ、十字架と復活による救いを完成するために来臨された「神の子」です(ヨハネ1:2~3、14、18)。
パウロとバルナバの伝道旅行に同行しながら途中で逃げ帰ってしまったマルコ自身(使徒行伝13:5、13)、「彼(マルコ)はわたしの務のために役に立つから」とパウロに高く評価されるほど、福音によって造り変えられました(Ⅱテモテ4:11)。イエスを裏切ったペテロも、「弟子たちとペテロとの所へ行って」(マルコ16:7)という御使の言葉を聞き、裏切者の名をもう一度呼んで下さるイエスの愛に触れ、再び立ち上がることができました。「神の子イエス・キリストの福音」は、信じる者の人生を造り変え、新しく出直す力、立ち上がる力を与えるのです。

マルコによる福音書1:1「イエス・キリストの福音」

2018年11月11日、マルコによる福音書1:1「イエス・キリストの福音」
「神の子イエス・キリスト(について)の福音」こそ、全人類が最も必要としていた勝利の知らせ、喜びのおとずれです。人類共通の究極の問題である罪と死に、真の解決を与え得るものだからです。世のニュースは、どんな大事件や大発見であっても、しばらくすると忘れられてしまいますが、福音は永遠に変わらないグッドニュースです。
「神の子イエス・キリスト」とは、イエスはキリスト(油注がれた者、の意)であり神の子である、ということです。ペテロは弟子たちを代表して「あなたこそ、生ける神の子キリストです」、イエスこそ約束のメシヤ=キリスト、救い主と信仰告白しました(マタイ16:13~16)。御霊は罪を指摘し、十字架はその罪を赦すためであることを示し、悔い改めと信仰へと導きます(マタイ16:17、Ⅰコリント12:3)。「神の子イエス」と言っても、イエスは神の被造物ではなく、永遠の初めから父なる神と共にいて天地を創造され、人々に神を見せ、十字架と復活による救いを完成するために来臨された「神の子」です(ヨハネ1:2~3、14、18)。
パウロとバルナバの伝道旅行に同行しながら途中で逃げ帰ってしまったマルコ自身(使徒行伝13:5、13)、「彼(マルコ)はわたしの務のために役に立つから」とパウロに高く評価されるほど、福音によって造り変えられました(Ⅱテモテ4:11)。イエスを裏切ったペテロも、「弟子たちとペテロとの所へ行って」(マルコ16:7)という御使の言葉を聞き、裏切者の名をもう一度呼んで下さるイエスの愛に触れ、再び立ち上がることができました。「神の子イエス・キリストの福音」は、信じる者の人生を造り変え、新しく出直す力、立ち上がる力を与えるのです。

出エジプト記3:1~12「すべては感謝に変わる」

2018年10月28日、出エジプト記3:1~12「すべては感謝に変わる」
エジプトの迫害下、赤子モーセは神の守りによって生き延び、両親のもとで信仰によって育まれ、成長するとパロ王の娘の養子として宮廷で最高の教育を受けました。成功の階段を順調に駆け上っていたある日、大きな挫折を味わいます。同胞イスラエル人がエジプト人に虐待されるのを見たモーセは、怒りのあまりエジプト人を殺害したため、ミデヤンの荒野に逃亡しなければならなくなったのです。そこで羊飼いとなったモーセは、エジプトの華やかな宮廷生活とは比較にならない、来る日も来る日も羊を飼うという単調な生活を約40年も送ることになります(使徒行伝7:23~30)。80歳頃のある日、モーセは羊の群れを導いて「神の山ホレブ(シナイ山)」に来たとき、しばが燃えても燃えてもなくならない、実に不思議な光景を見ました。主ご自身が燃えるしばの中に臨在されていたのです。枯れたしばのような人生を送ってきたモーセですが、主に出会って人生が大きく変わり、出エジプトの指導者という新しい使命に立ち上がりました。
両親と過ごした数年も、エジプトの宮廷での40年弱も、ミデヤンの荒野での40年も、実にこの日のためだったのです。荒野の40年間は、モーセにとっては失敗、挫折、後悔以外の何ものでもなかったかもしれませんが、神はそれすらも恵みに逆転され、モーセの生涯にとってなくてはならぬ期間とされました。神のご計画には一つの無駄も失敗もありません。「測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た」(詩篇16:6)。愛なる神に信頼して生きる人生は、必ずすべては感謝に変わる人生なのです。

エズラ記10:1~44「今なお望みがある」

2018年10月21日、エズラ記10:1~44「今なお望みがある」
民の罪を嘆き悲しむエズラの祈りは、やがて民全体に波及していきました。シカニヤは「われわれは神にむかって罪を犯し」と正直に認めた上で、異邦の「妻ならびにその子供たちを、ことごとく追い出す」なら、「今なお望みがあります」と主張しました。新約時代の今は、宗教が違うなら即離婚すべきだと解釈すべきではありません。ここで学び取るべき霊的真理は、罪を犯しても大失敗をしても、神の前に真実に悔い改めるなら「今なお望みがあります」ということです。
せっかくの「望み」をふいにしたのがサウル王でした(サムエル記上 第15章)。不従順の罪を指摘されても、責任転嫁したり言い訳したり面目を重んじたりで、悔い改めなかったために神に捨てられました。「神と人の前に真実に生きること」(鈴木一郎師)が何よりも大切です。
ペテロも大失敗しました。「みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26:33)と大言壮語した舌の根も乾かぬうちにイエスを三度否認すると、「主は振りむいてペテロを見つめられた…ペテロは…外へ出て、激しく泣いた」(ルカ22:61~62)。大失敗をも包み込んで赦す愛のまなざしに触れて号泣したペテロは、自分の弱さを正直に認めて悔い改めたので、回復されました(ヨハネ21:16)。四福音書すべてにペテロの大失敗が包み隠さず記されているのは、イエスを信じる人生はいつでもやり直し可能であるということを強調したいからです。「神の前でまことの悔い改めがなされるなら、神はそれを決して拒まれません。放蕩息子を迎えて抱きしめてくださる神は、いつでもやり直しの機会を備えてくださいます。どのような中にあっても、私たちにはなお希望があります」(リジョイス)。

エズラ記10:1~44「今なお望みがある」

2018年10月21日、エズラ記10:1~44「今なお望みがある」
民の罪を嘆き悲しむエズラの祈りは、やがて民全体に波及していきました。シカニヤは「われわれは神にむかって罪を犯し」と正直に認めた上で、異邦の「妻ならびにその子供たちを、ことごとく追い出す」なら、「今なお望みがあります」と主張しました。新約時代の今は、宗教が違うなら即離婚すべきだと解釈すべきではありません。ここで学び取るべき霊的真理は、罪を犯しても大失敗をしても、神の前に真実に悔い改めるなら「今なお望みがあります」ということです。
せっかくの「望み」をふいにしたのがサウル王でした(サムエル記上 第15章)。不従順の罪を指摘されても、責任転嫁したり言い訳したり面目を重んじたりで、悔い改めなかったために神に捨てられました。「神と人の前に真実に生きること」(鈴木一郎師)が何よりも大切です。
ペテロも大失敗しました。「みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26:33)と大言壮語した舌の根も乾かぬうちにイエスを三度否認すると、「主は振りむいてペテロを見つめられた…ペテロは…外へ出て、激しく泣いた」(ルカ22:61~62)。大失敗をも包み込んで赦す愛のまなざしに触れて号泣したペテロは、自分の弱さを正直に認めて悔い改めたので、回復されました(ヨハネ21:16)。四福音書すべてにペテロの大失敗が包み隠さず記されているのは、イエスを信じる人生はいつでもやり直し可能であるということを強調したいからです。「神の前でまことの悔い改めがなされるなら、神はそれを決して拒まれません。放蕩息子を迎えて抱きしめてくださる神は、いつでもやり直しの機会を備えてくださいます。どのような中にあっても、私たちにはなお希望があります」(リジョイス)。

エズラ記9:3~15「天に達する罪であっても」

2018年10月14日、エズラ記9:3~15「天に達する罪であっても」
指導者も民も律法に反して異民族と結婚していることを知ったエズラは、民の罪を自分の罪と捉えて心を痛め、断食して祈りました。先祖の時代から今日まで、律法破りの罪は「頭よりも高く」積もり、今や「天に達し」ています。エズラにできることは、「正しくいらせられ」る神の前に心底嘆き悲しみ、あわれみにすがることだけでした。
これこそ神のあわれみや赦しを願い求める際に必要不可欠な態度です。パリサイ人と取税人の譬え(ルカ18:9~14)の中で、パリサイ人は祈りの中で他人を見下し、自分の義しさを誇りました。取税人は自分の罪を心底悲しみ、砕けきった心で「神様、罪人のわたしをおゆるしください(=新改訳「こんな罪人の私をあわれんでください」)」と祈りました。神に受け入れられたのは、丸裸になって神の前に出た取税人でした。
エズラ同様、パウロも「大きな悲しみ…絶えざる痛み」に襲われました。同胞ユダヤ人がイエスを信じようとしないからです(ローマ9:1~3)。かつてのパウロもそうでしたが、ダマスコ途上で復活のイエスと出会い、迫害者から伝道者へと造り変えられました(使徒行伝 第9章)。そのようなパウロだからこそ、自分だけ救われて喜ぶことなどとてもできませんでした。「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(8:39)と言ったパウロが、「同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」と叫び、滅びの破れ口に仁王立ちになって同胞のために祈るのです。このようにとりなし祈る人が求められています(イザヤ書59:16)。「同胞に対するあわれみに欠けているなら、私たちの正統信仰は堅苦しいだけで終わってしまいます」(F.A.シェーファー)。

エズラ記9:3~15「天に達する罪であっても」

2018年10月14日、エズラ記9:3~15「天に達する罪であっても」
指導者も民も律法に反して異民族と結婚していることを知ったエズラは、民の罪を自分の罪と捉えて心を痛め、断食して祈りました。先祖の時代から今日まで、律法破りの罪は「頭よりも高く」積もり、今や「天に達し」ています。エズラにできることは、「正しくいらせられ」る神の前に心底嘆き悲しみ、あわれみにすがることだけでした。
これこそ神のあわれみや赦しを願い求める際に必要不可欠な態度です。パリサイ人と取税人の譬え(ルカ18:9~14)の中で、パリサイ人は祈りの中で他人を見下し、自分の義しさを誇りました。取税人は自分の罪を心底悲しみ、砕けきった心で「神様、罪人のわたしをおゆるしください(=新改訳「こんな罪人の私をあわれんでください」)」と祈りました。神に受け入れられたのは、丸裸になって神の前に出た取税人でした。
エズラ同様、パウロも「大きな悲しみ…絶えざる痛み」に襲われました。同胞ユダヤ人がイエスを信じようとしないからです(ローマ9:1~3)。かつてのパウロもそうでしたが、ダマスコ途上で復活のイエスと出会い、迫害者から伝道者へと造り変えられました(使徒行伝 第9章)。そのようなパウロだからこそ、自分だけ救われて喜ぶことなどとてもできませんでした。「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(8:39)と言ったパウロが、「同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」と叫び、滅びの破れ口に仁王立ちになって同胞のために祈るのです。このようにとりなし祈る人が求められています(イザヤ書59:16)。「同胞に対するあわれみに欠けているなら、私たちの正統信仰は堅苦しいだけで終わってしまいます」(F.A.シェーファー)。