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ルカによる福音書5:1~11「お言葉ですから」

2017年1月1日、ルカによる福音書5:1~11「お言葉ですから」
「群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきた」と「夜通し働きましたが、何も取れませんでした」とは実に好対照です。神を抜きにした人生は結局徒労に終わることの象徴であり、神と共に歩む人生であっても結果の伴わない厳しい現実に直面することの象徴でもあります。ゴルフボールの表面には小さな無数のディンプルがあります。もしピン球のように凸凹がなく、つるつるしていたら、どんなに強く上手に打っても決して遠くまで飛ぶことはないそうです。朝顔にとっては、夜間の暗さと冷たさは、よりきれいに咲くために必要不可欠だそうです。私たちがより飛躍するためには、そうしたへこみもプラス要因になると信じて、まずは心に留め置きたいものです。
イエスはペテロに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われました。漁の常識からすると突飛なアドバイスでしたが、「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言ってそのとおりにしたところ、予想外の大漁となりました。たとえ半信半疑、嫌々ながらでも御言葉に従うと、大漁になったのですから、喜んで100%従うと、どれほど豊かな祝福を受けることでしょうか。御言葉を聞いて、そのとおりにするなら、必ず御言葉の約束どおりになっていくのです。世の常識や自分の経験を働かせて従おうとしないから、またいい加減なところで妥協するから、徒労に終わるのです。
今年、「夜通し働きましたが、何も取れませんでした」と失望することがあるかもしれませんが、「しかし、お言葉ですから」と御言葉に聞き従い、「沖へこぎ出し、網をおろして」みましょう。あの網が駄目ならこの網と、諦めないで可能性を信じて網をおろしましょう。

ヨハネによる福音書3:16「最上の贈り物」

2016年12月25日、ヨハネによる福音書3:16「最上の贈り物」
①神の愛の事実…「神は…この世を愛して下さった」
最初に「神は」とあり、聖書の冒頭でも「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)と宣言するように、永遠の昔から存在される唯一真の神が天と地とその中に満ちるすべてのもの、そして私たち人間も創造されました。この神は、背く者や愛するに値しない者をも「高価で尊い」存在として愛さずにはいられない愛なる神です(イザヤ書43:4)。
②神の愛の程度…「そのひとり子を賜わったほどに」
神と共に永遠の昔からおられる「ひとり子(イエス・キリスト)」は、今から約2000年前、天の栄光をかなぐり捨てて罪と汚れに満ちた地上に人の子として降誕された上、その最期は十字架刑でした。神は、大切な「ひとり子」が地上でどんな目に遭うかを重々承知の上で、惜しみなく与え尽くすほど「この世(私たち一人一人)を愛して下さった」のです。
③神の愛の目的…「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」
「ひとりも滅びないで」とは、裏を返せば、人は皆そのままでは滅びるべき存在だということです。人は皆、創造主なる神とその御言葉に背いて自分勝手に生きてきた罪人だからです。神は、罪は罪としてさばかずにはいられない義なるお方ですが、罪人がさばかれて永遠に滅びるのを看過できない愛なるお方でもあります。そこで神は、御子に全人類の罪を背負わせて十字架につけ、罪人をさばく代わりに御子をさばくことにより、「永遠の命を得る」道を開かれました。この救いを得るのに必要な条件は、罪の悔い改めと「御子を信じる」信仰のみです(使徒20:21)。神の愛をこれ以上拒絶し、御心を悲しませてはなりません。神の愛の贈り物イエスを信じ受け入れましょう。

ヨハネによる福音書3:16「最上の贈り物」

2016年12月25日、ヨハネによる福音書3:16「最上の贈り物」
①神の愛の事実…「神は…この世を愛して下さった」
最初に「神は」とあり、聖書の冒頭でも「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)と宣言するように、永遠の昔から存在される唯一真の神が天と地とその中に満ちるすべてのもの、そして私たち人間も創造されました。この神は、背く者や愛するに値しない者をも「高価で尊い」存在として愛さずにはいられない愛なる神です(イザヤ書43:4)。
②神の愛の程度…「そのひとり子を賜わったほどに」
神と共に永遠の昔からおられる「ひとり子(イエス・キリスト)」は、今から約2000年前、天の栄光をかなぐり捨てて罪と汚れに満ちた地上に人の子として降誕された上、その最期は十字架刑でした。神は、大切な「ひとり子」が地上でどんな目に遭うかを重々承知の上で、惜しみなく与え尽くすほど「この世(私たち一人一人)を愛して下さった」のです。
③神の愛の目的…「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」
「ひとりも滅びないで」とは、裏を返せば、人は皆そのままでは滅びるべき存在だということです。人は皆、創造主なる神とその御言葉に背いて自分勝手に生きてきた罪人だからです。神は、罪は罪としてさばかずにはいられない義なるお方ですが、罪人がさばかれて永遠に滅びるのを看過できない愛なるお方でもあります。そこで神は、御子に全人類の罪を背負わせて十字架につけ、罪人をさばく代わりに御子をさばくことにより、「永遠の命を得る」道を開かれました。この救いを得るのに必要な条件は、罪の悔い改めと「御子を信じる」信仰のみです(使徒20:21)。神の愛をこれ以上拒絶し、御心を悲しませてはなりません。神の愛の贈り物イエスを信じ受け入れましょう。

マタイによる福音書1:1~17「イエス・キリストの系図」

2016年12月18日、マタイによる福音書1:1~17「イエス・キリストの系図」
①来臨の事実
有名な王(ダビデやソロモン他)が登場する系図がキリストにあるということは、キリストが神話や昔話の類に出てくるような想像上の人物ではなく、歴史上確かに実在したお方であることを示しています。
②来臨の実現
ダビデの子孫からキリストが降誕されることを、神はダビデや預言者たちに約束されていました(サムエル記下7:12、イザヤ書9:6~7他)。「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」という書き出しは、キリストの来臨は偶発的な出来事ではなく、旧約聖書に度々約束されていた神の救いのご計画の成就であることを示しています。
③来臨の目的
この系図には、悪王(マナセ他)や、異邦人・遊女等の4人の女性タマル(創世記 第38章)、ラハブ(ヨシュア記 第2章)、ルツ(ルツ記)、ウリヤの妻(バテシバ。サムエル記下 第11章)が登場します。キリストの系図は、人間の罪の匂いがその間から立ち込めてくるような系図です。「このマリヤからキリストといわれるイエスがお生まれになった」とは、キリストが罪に汚れた全人類の真っ只中に人の子として来られたことを示しています。キリストは実に全時代・全人類の罪の連帯責任を負い、ご自分の罪として引き受けて十字架につけられ、身代わりの死を遂げるために来臨されたのです。どんなに罪と汚れと失敗に満ちた過去があろうと、このキリストを信じるならば、愛と祝福に満ちた全く新しい生涯に造り変えられる、人生をやり直すことができるばかりか、「祝福の基」とされるのです(ローマ3:23、Ⅱコリント5:17、創世記12:2)。

マタイによる福音書1:1~17「イエス・キリストの系図」

2016年12月18日、マタイによる福音書1:1~17「イエス・キリストの系図」
①来臨の事実
有名な王(ダビデやソロモン他)が登場する系図がキリストにあるということは、キリストが神話や昔話の類に出てくるような想像上の人物ではなく、歴史上確かに実在したお方であることを示しています。
②来臨の実現
ダビデの子孫からキリストが降誕されることを、神はダビデや預言者たちに約束されていました(サムエル記下7:12、イザヤ書9:6~7他)。「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」という書き出しは、キリストの来臨は偶発的な出来事ではなく、旧約聖書に度々約束されていた神の救いのご計画の成就であることを示しています。
③来臨の目的
この系図には、悪王(マナセ他)や、異邦人・遊女等の4人の女性タマル(創世記 第38章)、ラハブ(ヨシュア記 第2章)、ルツ(ルツ記)、ウリヤの妻(バテシバ。サムエル記下 第11章)が登場します。キリストの系図は、人間の罪の匂いがその間から立ち込めてくるような系図です。「このマリヤからキリストといわれるイエスがお生まれになった」とは、キリストが罪に汚れた全人類の真っ只中に人の子として来られたことを示しています。キリストは実に全時代・全人類の罪の連帯責任を負い、ご自分の罪として引き受けて十字架につけられ、身代わりの死を遂げるために来臨されたのです。どんなに罪と汚れと失敗に満ちた過去があろうと、このキリストを信じるならば、愛と祝福に満ちた全く新しい生涯に造り変えられる、人生をやり直すことができるばかりか、「祝福の基」とされるのです(ローマ3:23、Ⅱコリント5:17、創世記12:2)。

マタイによる福音書1:18~25「インマヌエル、神われらと共にいます」

2016年12月11日、マタイによる福音書1:18~25「インマヌエル、神われらと共にいます」
①イエス(主は救い、の意)
婚約者マリヤのお腹が日に日に大きくなるのを見て、「ひそかに離縁しようと決心した」ヨセフの夢に現れた御使は、「心配しないで(新改訳「恐れないで」)」と語りかけました。私たちは些細なことでもすぐに恐れやすい存在です。「はじめに神は天と地とを創造され…自分のかたちに人を創造された」ゆえ(創世記1:1、27)、神を人生のはじめに置いて、神に的を合わせて生きるとき、最も幸福な人生を送ることができるよう造られています。一人ひとりのために最善のご計画をお持ちの神を締め出して生きているから、迷信や占いに頼り、将来に対して不安になるのです。私たちをこよなく愛しておられる神を締め出しているから、絶えず人と比べ、人の目を恐れるのです。また死後、神のさばきがあることを本能的に知っているからこそ、死を恐れるのです。様々な恐れの原因は、神を締め出して生きる的外れの罪にあり、この罪と滅びから私たちを救うためにイエスは人の子として降誕され、全人類の罪を背負って十字架上で死んで下さったのです。
②インマヌエル(神われらと共にいます、の意)
イエスが聖霊によって母マリヤの胎に宿られたように、イエスを信じて罪赦された者の内にイエスはお宿り下さいます(28:20)。私たちと同じ人となり、人が経験する苦悩をなめ尽くされたイエスは、私たちに心底同情することができるお方です(ヘブル3:17~18、4:15)。イエスを信じる前は、人生の重荷のすべてを自分で背負い込み、自分の力で何とかしなければなりませんでしたが、イエスを信じた後は、イエスが共に重荷を負って歩み、荒波を乗り越えさせて下さるのです。

マタイによる福音書1:18~25「インマヌエル、神われらと共にいます」

2016年12月11日、マタイによる福音書1:18~25「インマヌエル、神われらと共にいます」
①イエス(主は救い、の意)
婚約者マリヤのお腹が日に日に大きくなるのを見て、「ひそかに離縁しようと決心した」ヨセフの夢に現れた御使は、「心配しないで(新改訳「恐れないで」)」と語りかけました。私たちは些細なことでもすぐに恐れやすい存在です。「はじめに神は天と地とを創造され…自分のかたちに人を創造された」ゆえ(創世記1:1、27)、神を人生のはじめに置いて、神に的を合わせて生きるとき、最も幸福な人生を送ることができるよう造られています。一人ひとりのために最善のご計画をお持ちの神を締め出して生きているから、迷信や占いに頼り、将来に対して不安になるのです。私たちをこよなく愛しておられる神を締め出しているから、絶えず人と比べ、人の目を恐れるのです。また死後、神のさばきがあることを本能的に知っているからこそ、死を恐れるのです。様々な恐れの原因は、神を締め出して生きる的外れの罪にあり、この罪と滅びから私たちを救うためにイエスは人の子として降誕され、全人類の罪を背負って十字架上で死んで下さったのです。
②インマヌエル(神われらと共にいます、の意)
イエスが聖霊によって母マリヤの胎に宿られたように、イエスを信じて罪赦された者の内にイエスはお宿り下さいます(28:20)。私たちと同じ人となり、人が経験する苦悩をなめ尽くされたイエスは、私たちに心底同情することができるお方です(ヘブル3:17~18、4:15)。イエスを信じる前は、人生の重荷のすべてを自分で背負い込み、自分の力で何とかしなければなりませんでしたが、イエスを信じた後は、イエスが共に重荷を負って歩み、荒波を乗り越えさせて下さるのです。

へブル人への手紙9:23~28「キリストの初臨と再臨」

2016年12月4日、へブル人への手紙9:23~28「キリストの初臨と再臨」
①キリストの初臨(25~28a節)
「世の終りに、一度だけ現れた」とは、キリストが人の子として降誕された初臨のことです。旧約時代、「大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはい」り、まず自分と自分の家族、次にイスラエル全体の罪の贖いをしました。贖罪の日(レビ記 第16章、太陽暦の9~10月)を迎えるたびに、毎年毎年繰り返さなければならない不完全な贖いでした。それに対して永遠の大祭司キリストは、「たびたびご自身をささげられるのではな」く、十字架上に「一度だけご自身をささげられ」、「やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって…永遠のあがないを全うされ」ました(12節)。二度と繰り返す必要のない、一度にして完全な贖いでした。人は皆、「死んだ後さばきを受け」、永遠の滅びを刈り取るべき罪人ですが、ただ十字架を信じるだけですべての罪が赦されるという救いの道を開いて下さったのです。
②キリストの再臨(28b節)
「二度目に現れて」とは、キリストの再臨のことです。それは、十字架上で再び「罪を負うためではなしに」、「彼を待ち望んでいる人々に…救を与え」、完成するためです。キリストの初臨、十字架と復活によって神の国(神の恵みによる支配)は「すでに」到来していますが、「いまだ」完成していません。悪魔が働き、罪悪が蔓延しています。しかしキリストが再臨されると、悪魔と罪は全く滅ぼされ、神の民は永遠に神と共に住む、神の国が完成します。私たちはこの「すでに」と「いまだ」の間の緊張状態の中に生かされているのです。常に心の目を覚まして、再臨のキリストを待ち望みつつ歩みましょう(マタイ25:1~13)。

へブル人への手紙9:23~28「キリストの初臨と再臨」

2016年12月4日、へブル人への手紙9:23~28「キリストの初臨と再臨」
①キリストの初臨(25~28a節)
「世の終りに、一度だけ現れた」とは、キリストが人の子として降誕された初臨のことです。旧約時代、「大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはい」り、まず自分と自分の家族、次にイスラエル全体の罪の贖いをしました。贖罪の日(レビ記 第16章、太陽暦の9~10月)を迎えるたびに、毎年毎年繰り返さなければならない不完全な贖いでした。それに対して永遠の大祭司キリストは、「たびたびご自身をささげられるのではな」く、十字架上に「一度だけご自身をささげられ」、「やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって…永遠のあがないを全うされ」ました(12節)。二度と繰り返す必要のない、一度にして完全な贖いでした。人は皆、「死んだ後さばきを受け」、永遠の滅びを刈り取るべき罪人ですが、ただ十字架を信じるだけですべての罪が赦されるという救いの道を開いて下さったのです。
②キリストの再臨(28b節)
「二度目に現れて」とは、キリストの再臨のことです。それは、十字架上で再び「罪を負うためではなしに」、「彼を待ち望んでいる人々に…救を与え」、完成するためです。キリストの初臨、十字架と復活によって神の国(神の恵みによる支配)は「すでに」到来していますが、「いまだ」完成していません。悪魔が働き、罪悪が蔓延しています。しかしキリストが再臨されると、悪魔と罪は全く滅ぼされ、神の民は永遠に神と共に住む、神の国が完成します。私たちはこの「すでに」と「いまだ」の間の緊張状態の中に生かされているのです。常に心の目を覚まして、再臨のキリストを待ち望みつつ歩みましょう(マタイ25:1~13)。

エレミヤ書23:1~8「一つの正しい若枝を起こす」

2016年11月27日、エレミヤ書23:1~8「一つの正しい若枝を起こす」
イスラエルの王は、「牧場の羊」なる神の民を「養う牧者」であるべきなのに、民を「散らし…追いやって顧みなかった」ので、バビロン捕囚というさばきを刈り取るのですが、主は再び民を「集め…帰らせ…数が多くなる」と回復を約束されただけでなく、「見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝(メシヤ)を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う」とも約束されました。
この預言はイエスによって真に成就しました。人間の牧者は正しく民を導くことができなかったので、主は真の牧者なるイエスをお送り下さったのです。イエスご自身、「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」と言われたとおり(ヨハネ10:10~11)、私の罪の身代わりとして十字架につけられて死に、よみがえって下さいました。「公平と正義を世に行う」イエスは、何の役にも立たない「傷ついた葦を折ることなく」、煙たいだけで少しも明るくない「ほのぐらい灯心を消すことな」いお方です(イザヤ書42:3、マタイ12:20)。事実イエスは、町中の嫌われ者であった取税人マタイやザアカイ、男性遍歴を繰り返すサマリヤの女等を見捨てず、どこまでも可能性を信じて救いに導かれました。もし自分自身に愛想を尽かしているなら、自分の伴侶や子どもに失望しているなら、「傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことな」いイエスの愛を信じましょう。自分自身の内にある可能性、あの人の内にある可能性を見出し、信じ続けましょう。イエスは、傷つき倒れ、悩み苦しむ者の友として来て下さり、優しく慰め、希望を与えて下さる真の救い主なのです。