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ヨハネによる福音書20:24~31「信じる者になりなさい」

2017年4月16日、ヨハネによる福音書20:24~31「信じる者になりなさい」
弟子たちが復活のイエスに出会った喜びにあふれ、「わたしたちは主にお目にかかった」と口々に語る中、その場にいなかったトマスは、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と仲間の興奮ぶりを嘲笑うかのように言いました。トマスの心中では、復活などとても信じられないという気持ちと、しかしそれがもし本当なら自分も復活のイエスにお会いしたいという気持ちとが相争っていたことでしょう。そんなトマスの胸の内を誰よりもよくご存じのイエスは、再び復活の御姿を現され、真っ先にトマスのところに行かれました。今回はトマスのためだけに現れたと言ってもよいほどでした。一週間前トマスが弟子たちに語った言葉を聞き、疑いも葛藤もすべてご存じのイエスは、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい」と優しく語りかけられました。するとトマスはイエスにさわるまでもなく、「わが主よ、わが神よ」とひざまずきました。
やがてイエスは昇天され、肉眼では見えなくなりましたが、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来る」 (ローマ10:17)、御言葉と御霊によってイエスを「見ないで信ずる」ことができるようにされています。疑いや迷い、悲しみや悔しさで霊の眼が曇りやすい私たちの心をイエスはよくご存じで、そんな私たちをも見捨てず、忍耐強く導き続けて下さいます。この後トマスはインドで福音を宣べ伝え、そこで殉教したと言われています。イエスの十字架と復活を確信した者には、もはや迷いも恐れもないのです。

ヨハネによる福音書20:24~31「信じる者になりなさい」

2017年4月16日、ヨハネによる福音書20:24~31「信じる者になりなさい」
弟子たちが復活のイエスに出会った喜びにあふれ、「わたしたちは主にお目にかかった」と口々に語る中、その場にいなかったトマスは、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と仲間の興奮ぶりを嘲笑うかのように言いました。トマスの心中では、復活などとても信じられないという気持ちと、しかしそれがもし本当なら自分も復活のイエスにお会いしたいという気持ちとが相争っていたことでしょう。そんなトマスの胸の内を誰よりもよくご存じのイエスは、再び復活の御姿を現され、真っ先にトマスのところに行かれました。今回はトマスのためだけに現れたと言ってもよいほどでした。一週間前トマスが弟子たちに語った言葉を聞き、疑いも葛藤もすべてご存じのイエスは、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい」と優しく語りかけられました。するとトマスはイエスにさわるまでもなく、「わが主よ、わが神よ」とひざまずきました。
やがてイエスは昇天され、肉眼では見えなくなりましたが、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来る」 (ローマ10:17)、御言葉と御霊によってイエスを「見ないで信ずる」ことができるようにされています。疑いや迷い、悲しみや悔しさで霊の眼が曇りやすい私たちの心をイエスはよくご存じで、そんな私たちをも見捨てず、忍耐強く導き続けて下さいます。この後トマスはインドで福音を宣べ伝え、そこで殉教したと言われています。イエスの十字架と復活を確信した者には、もはや迷いも恐れもないのです。

マルコによる福音書15:16~22「無理に背負わされた十字架」

2017年4月9日、マルコによる福音書15:16~22「無理に背負わされた十字架」
死刑囚は十字架の横木を自ら背負い、見せしめのため町中を引き回されながら刑場に向かいました。その定めに従って「イエスはみずから十字架を背負って」(ヨハネ19:17)、総督ピラトの官邸からゴルゴタの丘まで(ラテン語で「ヴィア・ドロローサ」。悲しみの道、の意)歩んでおられましたが、衰弱していたため、十字架を背負って歩き続けることができなくなりました。するとそこに「シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に(強制的に労働させる、の意。マタイ5:41「しいて…行かせようとする」と同語)負わせ」ました。
エルサレム詣での最中、世にも恐ろしい十字架を担がされたとき、シモンは己の運命を呪ったことでしょう。著者マルコは「アレキサンデルとルポスとの父シモン」と紹介していますが、何の説明もなしに息子たちの名前を挙げるのは、本書執筆当時、彼らは信者の間で周知の人物であったからでしょう。ルポスの母、すなわちシモンの妻も、パウロにとって信仰の「母」のような存在でした(ローマ16:13)。本来この十字架は、罪人のシモンや私が負うべきものでした。シモンが身代わりになったのではなく、イエスがシモンと私の罪の代わりに背負って死んで下さった十字架です。そうした十字架の真の意味をやがてシモンも悟り、一家を挙げてイエスを信じ、教会でしばしば感動に打ち震えながら証ししていたのではないかと思われます。
そのときはわからなくても、後になってからわかる恵みというものがあります。主が私たちに背負わせなさる十字架は、それを耐え忍ぶなら、やがて祝福に変えられる十字架です。「自分を捨て、日々自分の十字架を負うて」(ルカ9:23)、イエスの後に従っていきましょう。

マルコによる福音書15:16~22「無理に背負わされた十字架」

2017年4月9日、マルコによる福音書15:16~22「無理に背負わされた十字架」
死刑囚は十字架の横木を自ら背負い、見せしめのため町中を引き回されながら刑場に向かいました。その定めに従って「イエスはみずから十字架を背負って」(ヨハネ19:17)、総督ピラトの官邸からゴルゴタの丘まで(ラテン語で「ヴィア・ドロローサ」。悲しみの道、の意)歩んでおられましたが、衰弱していたため、十字架を背負って歩き続けることができなくなりました。するとそこに「シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に(強制的に労働させる、の意。マタイ5:41「しいて…行かせようとする」と同語)負わせ」ました。
エルサレム詣での最中、世にも恐ろしい十字架を担がされたとき、シモンは己の運命を呪ったことでしょう。著者マルコは「アレキサンデルとルポスとの父シモン」と紹介していますが、何の説明もなしに息子たちの名前を挙げるのは、本書執筆当時、彼らは信者の間で周知の人物であったからでしょう。ルポスの母、すなわちシモンの妻も、パウロにとって信仰の「母」のような存在でした(ローマ16:13)。本来この十字架は、罪人のシモンや私が負うべきものでした。シモンが身代わりになったのではなく、イエスがシモンと私の罪の代わりに背負って死んで下さった十字架です。そうした十字架の真の意味をやがてシモンも悟り、一家を挙げてイエスを信じ、教会でしばしば感動に打ち震えながら証ししていたのではないかと思われます。
そのときはわからなくても、後になってからわかる恵みというものがあります。主が私たちに背負わせなさる十字架は、それを耐え忍ぶなら、やがて祝福に変えられる十字架です。「自分を捨て、日々自分の十字架を負うて」(ルカ9:23)、イエスの後に従っていきましょう。

イザヤ書6:1~13「我ここにあり、我を遣わしたまえ」

2017年4月2日、イザヤ書6:1~13「我ここにあり、我を遣わしたまえ」
①イザヤの見神(1~7節)
「ウジヤ王の死んだ年」、南王国の今後を憂慮して神殿へ行ったイザヤは、主の臨在に触れました。罪のないセラピムでさえ「顔をおおい…足をおお」うほど「聖なる…万軍の主、その栄光は全地に満つ」主を霊の目で見ました。これまで「わざわいなるかな、彼らは…わざわいなるかな、彼らは」(6:8、11、18、20、21、22)と民の罪を6回も繰り返し指摘してきた彼ですが、自らの罪深さを思い知らされ、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」と叫びました。すると「祭壇の上から取った燃えている炭」が「イザヤの口に触れ」、「あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」と宣言されました。救われるためにも潔められるためにも、主の前に丸裸になり、自らの罪深さを正直に認めて砕かれ、自己破産するとき、十字架の祭壇で流された「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」のです(Ⅰヨハネ1:7)。
②イザヤの献身(8~13節)
「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」との主の御声を聞いたイザヤは「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」と応答しました。しかし彼に与えられた使命は容易なものではありませんでした。イザヤがいくら語っても、民はますます心をかたくなにして聞き従わないため、やがて滅ぼされるというのです。しかし「その切り株が残る」、約束の救い主が現れて救いを成し遂げられることを、イザヤは生涯をかけて語りました。現代も伝道困難な時代ですが、十字架の愛にお応えして「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」と献身しましょう。

ルツ記4:1~22「私たちのゴーエール」

2017年3月26日、ルツ記4:1~22「私たちのゴーエール」
ルツの求婚に対して「あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう」と約束したボアズは、「もっと近い親戚(ゴーエール、新改訳「買戻しの権利のある親類」)」に「あなたが、それをあがなおうと思われるならば、あがなってください(代価を払って買い戻す、の意)」と言うと、「わたしがあがないましょう」と答えたので、すかさずボアズは「あなたが…地所を買う時には…モアブ(申命記23:3)の女ルツをも買って…」と言いました。すると「わたしにはあがなうことができません。そんなことをすれば自分の嗣業をそこないます」と言ってボアズに買戻しの権利を譲ったので、ボアズは先祖の地所とルツを贖いました。
本書は、ボアズの姿を通して私たちの贖い主(ゴーエール)がどのようなお方であるかを示しています。「神のかたち」「神と等しく」あられたキリストは、天の栄光の御位を惜しみなく捨てて私たちと同じ「人間の姿になられ」、あの悪臭漂う家畜小屋に降誕されたばかりか、「おのれをむなしうして僕のかたちをとり」、全人類を罪と滅びから救うために十字架上で血もいのちも惜しみなく損われました。「それでは、わたしにはあがなうことができません。そんなことをすれば自分の嗣業をそこないます」などと一言も言われず、「十字架の死に至るまで従順であられ」ました。罪深い私を贖うために、です(ピリピ2:6~8)。
ルツが「はからずも」ボアズの畑に落ち穂拾いに行って結婚へと導かれたように、「キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」(エペソ2:12)私も、「はからずも」教会に導かれ、十字架によって贖われ、キリストの花嫁とされました。「主はほむべきかな」。

ルツ記4:1~22「私たちのゴーエール」

2017年3月26日、ルツ記4:1~22「私たちのゴーエール」
ルツの求婚に対して「あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう」と約束したボアズは、「もっと近い親戚(ゴーエール、新改訳「買戻しの権利のある親類」)」に「あなたが、それをあがなおうと思われるならば、あがなってください(代価を払って買い戻す、の意)」と言うと、「わたしがあがないましょう」と答えたので、すかさずボアズは「あなたが…地所を買う時には…モアブ(申命記23:3)の女ルツをも買って…」と言いました。すると「わたしにはあがなうことができません。そんなことをすれば自分の嗣業をそこないます」と言ってボアズに買戻しの権利を譲ったので、ボアズは先祖の地所とルツを贖いました。
本書は、ボアズの姿を通して私たちの贖い主(ゴーエール)がどのようなお方であるかを示しています。「神のかたち」「神と等しく」あられたキリストは、天の栄光の御位を惜しみなく捨てて私たちと同じ「人間の姿になられ」、あの悪臭漂う家畜小屋に降誕されたばかりか、「おのれをむなしうして僕のかたちをとり」、全人類を罪と滅びから救うために十字架上で血もいのちも惜しみなく損われました。「それでは、わたしにはあがなうことができません。そんなことをすれば自分の嗣業をそこないます」などと一言も言われず、「十字架の死に至るまで従順であられ」ました。罪深い私を贖うために、です(ピリピ2:6~8)。
ルツが「はからずも」ボアズの畑に落ち穂拾いに行って結婚へと導かれたように、「キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」(エペソ2:12)私も、「はからずも」教会に導かれ、十字架によって贖われ、キリストの花嫁とされました。「主はほむべきかな」。

ルツ記3:1~18「おっしゃることを皆いたしましょう」

2017年3月19日、ルツ記3:1~18「おっしゃることを皆いたしましょう」
ルツが落ち穂拾いに出かけたところが「はからずも」親戚ボアズの畑であったことから、二人が結婚に導かれているように考えていたナオミは、神の時が満ちたことを確信し、ボアズに求婚するようルツに指示しました。ルツはモアブ人ですから(申命記23:3)、いざ結婚となれば、さすがのボアズも躊躇するのではないかという恐れもあったでしょう。しかしそうした恐れ以上に主とナオミに信頼するルツは「あなたのおっしゃることを皆いたしましょう」と答え、「すべてしゅうとめが命じたとおりにし」ました。受胎告知されたときのマリヤの言葉「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1:38)に相通じます。ルツは「あなたのすそ(2:12「翼」と同語)で、はしためをおおってください」と求婚しました。主の翼の保護を求めて帰郷した私たちは、「最も近い親戚(ゴーエール)」であるボアズの翼の保護をも求めています、ということです。それに対してボアズは「わたしよりも、もっと近い親戚があります」と言いつつ、「あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう」と約束しました。
これは私たちと真のゴーエール、主との関係にも当てはまります。私たちが主に「あなたのおっしゃることを皆いたしましょう」と申し上げるとき、主もまた私たちに「あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう」と約束して下さるのです。それゆえ、なすべきことを皆なし遂げたならば、後は主の御手にお任せして、「この事がどうなるかわかるまで」待つことが大切です。私たち以上に神が最善の時を知り、最善の方法を心得ておられるからです。神よりも自分が先走って知恵を働かせてもお邪魔になるだけです(創世記 第16章)。

ルツ記3:1~18「おっしゃることを皆いたしましょう」

2017年3月19日、ルツ記3:1~18「おっしゃることを皆いたしましょう」
ルツが落ち穂拾いに出かけたところが「はからずも」親戚ボアズの畑であったことから、二人が結婚に導かれているように考えていたナオミは、神の時が満ちたことを確信し、ボアズに求婚するようルツに指示しました。ルツはモアブ人ですから(申命記23:3)、いざ結婚となれば、さすがのボアズも躊躇するのではないかという恐れもあったでしょう。しかしそうした恐れ以上に主とナオミに信頼するルツは「あなたのおっしゃることを皆いたしましょう」と答え、「すべてしゅうとめが命じたとおりにし」ました。受胎告知されたときのマリヤの言葉「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1:38)に相通じます。ルツは「あなたのすそ(2:12「翼」と同語)で、はしためをおおってください」と求婚しました。主の翼の保護を求めて帰郷した私たちは、「最も近い親戚(ゴーエール)」であるボアズの翼の保護をも求めています、ということです。それに対してボアズは「わたしよりも、もっと近い親戚があります」と言いつつ、「あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう」と約束しました。
これは私たちと真のゴーエール、主との関係にも当てはまります。私たちが主に「あなたのおっしゃることを皆いたしましょう」と申し上げるとき、主もまた私たちに「あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう」と約束して下さるのです。それゆえ、なすべきことを皆なし遂げたならば、後は主の御手にお任せして、「この事がどうなるかわかるまで」待つことが大切です。私たち以上に神が最善の時を知り、最善の方法を心得ておられるからです。神よりも自分が先走って知恵を働かせてもお邪魔になるだけです(創世記 第16章)。

ルツ記2:1~23「はからずも、ちょうどその時」

2017年3月12日、ルツ記2:1~23「はからずも、ちょうどその時」
ナオミは、ルツと共にモアブからベツレヘムに帰郷したものの、その日からの生活の当てがない状態です。そこでルツは「畑に行かせてください…落ち穂を拾います」と言い(レビ記19:9~10)、知らずに行ったところが何と「はからずも」親戚ボアズの畑でした。そして「ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て」(新改訳)ルツと出会い、姑に尽くすことで評判のルツのために格別の取り計らいをしました。
ルツの「はからずも」と、ボアズの「ちょうどその時」とが出会ったことにより、ナオミとルツの人生が大きく変わっていきます。ルツが「はからずも」している行動の背後で、神はご自身のご計画を着々と進めておられたのです。人間的に見れば「はからずも」偶然のようであっても、神の側から見ればまさに「ちょうどその時」の必然でした。神は、ナオミとルツのように「その翼の下に身を寄せようと」する者を、全責任をもって守り、「じゅうぶんの報いを得」させて下さるお方です。そのために、私たちの願いや考えをはるかに超えて働き、実に不思議なご計画を着々と進めて行かれるのです(ローマ8:28)。
「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11)。神の時と方法は「皆」例外なく最善です。私たちの目には理解しがたいことであっても、神の目には最善であり、神のご計画に狂いはありません。私のために尊い御子イエスをも惜しまず十字架の死に渡された神は、私のために最善以下の人生を備えるようなことなど絶対ありません。それゆえ目先の出来事だけを見て失望したり、諦めたり、つぶやいたりするのはやめましょう。いかなるときにも決して下手なことはされない神に全く信頼して委ねましょう(Ⅰペテロ5:6)。