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ヨハネの第一の手紙4:7~10「ここに愛がある」

2017年2月19日、ヨハネの第一の手紙4:7~10「ここに愛がある」
①愛の起源(7ac、8b節)
「愛する者たちよ」を直訳すると、「愛される者たちよ」となります。誰かに愛されることも幸いですが、神に愛されることにまさる幸いはありません。この神の愛から漏れている人は一人もいないのです。
②愛の方向(10節)
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって」とあるように、愛は、私たちから神への方向ではなく、神から私たちへの方向です。自分で正しく生きようとしてもその力が「弱かった」上、神に積極的に反逆する「不信心な者たち」、創造主なる神から的をはずした「罪人」、神の「敵」でさえあった私たちに対して(ローマ5:6、8、10)、まず神のほうから「わたしたちを愛して下さっ」たのです。
③愛の証明(10節)
神の愛は口先だけの愛ではなく、具体的な行動を伴う愛です。その究極が、「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった」ということです。神が人となられただけでも想像を絶することですが、何と罪の全くない神の御子イエスが「わたしたちの罪のためにあがない(新改訳「なだめ」)の供え物として」十字架に釘付けられ(ローマ3:25、ヘブル9:5)、本来なら罪人の私たちに下されるはずの神の怒りとさばきを一身に引受けて死なれたのです。十字架は「神の義と愛の合えるところ」(新聖歌230番)、二つの相矛盾する性質が見事にドッキングしたところ、驚くべき神の救いの方法です。それによって、ただ御子イエスを信じるだけで罪赦され、神に創造された人間らしく、神と共に真に「生きるようにして下さった」のです。

ヨハネの第一の手紙4:1~6「本物と偽物の見分け方」

2017年2月12日、ヨハネの第一の手紙4:1~6「本物と偽物の見分け方」
本物と偽物の判別基準は、イエス・キリストの受肉降誕を告白しているか否か(1~3節)、教会の共通の信仰に同意しているか否か(4~6節)です。ヨハネは「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい」と言います。そのために必要なことは何でしょう。「羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す…羊はその声を知っているので、彼について行く…ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」(ヨハネ10:3~5)。羊は自分の羊飼いの声を毎日聞くことによってその声を覚え、多くの声の中から自分の羊飼いの声を聞き分け、その声だけに聞き従うように、イエスにつながり続け、御言葉を聞き学び続けることによって、真理か否か、異端か否か、判別し得る者に成長させていただきたいものです(使徒行伝17:11)。
異端が耳障りのよい言葉で人々の心をつかみ、勢力を拡大する中、正統的な教会は年々勢いを失っている現実を目の当たりにして、私たちは失望しがちです。しかしだからこそ、「あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝った(うち勝っている、の意)のである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである」という御言葉を信じ抜きたいものです。私たちの「うちにいますのは、世にある者よりも大いなる者」であり、このお方と共に戦うゆえに私たちの勝利は間違いないのです。本物の福音を知り信じている私たちが、真に地の塩・世の光としての使命を果たしていくなら、異端に負けるはずがありません。異端が働く余地がないほどに、私たちが福音を満たしていくことを神は期待しておられるはずです。

ヨハネの第一の手紙4:1~6「本物と偽物の見分け方」

2017年2月12日、ヨハネの第一の手紙4:1~6「本物と偽物の見分け方」
本物と偽物の判別基準は、イエス・キリストの受肉降誕を告白しているか否か(1~3節)、教会の共通の信仰に同意しているか否か(4~6節)です。ヨハネは「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい」と言います。そのために必要なことは何でしょう。「羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す…羊はその声を知っているので、彼について行く…ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」(ヨハネ10:3~5)。羊は自分の羊飼いの声を毎日聞くことによってその声を覚え、多くの声の中から自分の羊飼いの声を聞き分け、その声だけに聞き従うように、イエスにつながり続け、御言葉を聞き学び続けることによって、真理か否か、異端か否か、判別し得る者に成長させていただきたいものです(使徒行伝17:11)。
異端が耳障りのよい言葉で人々の心をつかみ、勢力を拡大する中、正統的な教会は年々勢いを失っている現実を目の当たりにして、私たちは失望しがちです。しかしだからこそ、「あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝った(うち勝っている、の意)のである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである」という御言葉を信じ抜きたいものです。私たちの「うちにいますのは、世にある者よりも大いなる者」であり、このお方と共に戦うゆえに私たちの勝利は間違いないのです。本物の福音を知り信じている私たちが、真に地の塩・世の光としての使命を果たしていくなら、異端に負けるはずがありません。異端が働く余地がないほどに、私たちが福音を満たしていくことを神は期待しておられるはずです。

出エジプト記15:22~27「苦難の荒野から喜びの泉に」

2017年2月5日、出エジプト記15:22~27「苦難の荒野から喜びの泉に」
紅海の奇跡によってエジプトの奴隷から完全に解放されたイスラエルは、シュルの荒野を三日歩いても水を得られませんでした。メラに着いてやっと水を発見して喜んだのも束の間、「メラ(苦い、の意)の水は苦くて飲むことができなかった」ので、民はモーセに向かってつぶやきました。順境のときに賛美するのは容易ですが、問題は逆境のときです。三日前に紅海の奇跡を体験したばかりですから、主は必ず水を与えて下さると信頼すべきでしたが、民は早くも主を忘れてつぶやきました。私たちの人生にも「メラ」があります。私たちの内を点検するために、主があえて備えられるものです(申命記8:2)。
すぐにつぶやく民とは違い、モーセは真っ先に主のもとに逃げ込んで祈り、祈りの中で示された「一本の木を…水に投げ入れると、水は甘くなった」。その後、「水の泉十二と、なつめやしの木七十本」のある「エリム」に到着し、民は身も心も憩い安らいだことでしょう。
この「一本の木」は、イエスの十字架を暗示していると言えるでしょう。イエスは、苦い罪と死を負っている人類の真っ只中に飛び込んで来られたばかりか、罪と死を一身に背負って十字架につけられ、私たちに代わって神にさばかれて死なれました。この十字架によって、罪と死が癒されて真に生きる救いの道が完成したのです。人生や家庭の問題を本当に解決したいと思うなら、その真ん中に十字架を迎え入れることです。そうするなら、辛苦から甘美なものへと回復されていくことでしょう。「メラ」の試練を乗り越えた後には、必ず「エリム」の安息が備えられています。「メラ」を通るときにも、私たちには問題を持って行って祈ることのできる主が共におられます。

ヨハネの第一の手紙3:19~24「愛による確信」

2017年1月29日、ヨハネの第一の手紙3:19~24「愛による確信」
「行いと真実とをもって愛し合」(18節)うことにより確信するのは…
①救いの確信(19~20節)
真実の愛に生きているなら、「真理から出たものであること(新改訳「真理に属するものであること」)」を確信でき、いつでも「神のみまえに心を安んじて(新共同訳「安心できます」)」いることができます。でも真実の愛に生きようとすればするほど、自分の弱さや足りなさのゆえに「心に責められるようなこと」を感じるのも事実です。しかし「神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じ」で、「人は行為を見、神はその意図を知っている」(トマス・ア・ケンピス)とは慰めです。
②祈りの確信(21~22節)
真実の愛に生きているなら、神と人との関係が正常ですから、それを土台にして大胆に神に祈ることができ、「願い求めるものは、なんでもいただける」と確信できます(イザヤ書59:2)。とは言え、自分勝手な祈りをしがちな私たちですから、願い求めたとおりには答えられないこともあります。愛なる神は、私たちに真に「良いもの」(マタイ7:11)だけを与えて下さいます。すべての祈りは神に届いているのです。
③臨在の確信(23~24節)
真実の愛に生きているなら、「神におり(ヨハネ15:4「つながる」と同語)、神もまたその人にいます」ことを確信できます。私たちの恐れを取り除いて「強く…雄々しくあ」ることを可能にするのは、主の臨在の約束ですが(ヨシュア記1:1~9、マタイ28:20)、御言葉に従わないでいて、主の臨在だけ信じて安心しようとしても無理な話です。「神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます」ことを忘れないように。

ヨハネの第一の手紙3:19~24「愛による確信」

2017年1月29日、ヨハネの第一の手紙3:19~24「愛による確信」
「行いと真実とをもって愛し合」(18節)うことにより確信するのは…
①救いの確信(19~20節)
真実の愛に生きているなら、「真理から出たものであること(新改訳「真理に属するものであること」)」を確信でき、いつでも「神のみまえに心を安んじて(新共同訳「安心できます」)」いることができます。でも真実の愛に生きようとすればするほど、自分の弱さや足りなさのゆえに「心に責められるようなこと」を感じるのも事実です。しかし「神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じ」で、「人は行為を見、神はその意図を知っている」(トマス・ア・ケンピス)とは慰めです。
②祈りの確信(21~22節)
真実の愛に生きているなら、神と人との関係が正常ですから、それを土台にして大胆に神に祈ることができ、「願い求めるものは、なんでもいただける」と確信できます(イザヤ書59:2)。とは言え、自分勝手な祈りをしがちな私たちですから、願い求めたとおりには答えられないこともあります。愛なる神は、私たちに真に「良いもの」(マタイ7:11)だけを与えて下さいます。すべての祈りは神に届いているのです。
③臨在の確信(23~24節)
真実の愛に生きているなら、「神におり(ヨハネ15:4「つながる」と同語)、神もまたその人にいます」ことを確信できます。私たちの恐れを取り除いて「強く…雄々しくあ」ることを可能にするのは、主の臨在の約束ですが(ヨシュア記1:1~9、マタイ28:20)、御言葉に従わないでいて、主の臨在だけ信じて安心しようとしても無理な話です。「神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます」ことを忘れないように。

コリント人への第二の手紙5:1~10「私たちは心強い」

2017年1月22日、コリント人への第二の手紙5:1~10「私たちは心強い」
①永遠の家が備えてあるから(1~5節)
「わたしたちの住んでいる地上の幕屋(肉体)」は、荒野の幕屋のように一時的なもので、「幕屋がこわれ(解体される、の意)」、天に召されると、「神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家」、復活のキリストと同じ栄光のからだが与えられます(ピリピ3:21)。このからだは、「神からいただく…人の手によらない」とあるように、人間の努力や功績のゆえではなく、ただ神の恵みのゆえに与えられるものであり、「天にある…永遠の家」とあるように、永遠で完全なものです。「神はその保証(手付金、の意)として御霊をわたしたちに賜わった」、十字架を信じて罪赦され、内に御霊が与えられているということは、やがてこの完全な救いがなされることの保証です。弱く脆い肉体をもっていたパウロですが、このような大いなる希望に目を留めていたので、「落胆しない…いつも心強い」と告白できたのです。
②信仰によって歩いているから(6~10節)
キリスト者にとって死は恐ろしいものではなく、むしろ主と直接顔と顔とを合わせて交わることを可能にする希望の門ですから、「むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている」と言います。十字架を信じて救われた者は、もはや罪のためにさばかれることはありませんが(ローマ8:1)、「キリストのさばきの座」で「善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねば」なりません。パウロは将来、神の前にどのような姿で立ちたいかを見据えて、常に「ただ主に喜ばれる者となる」ことをひたすら求めて生きていたので、「落胆しない…いつも心強い」と告白できたのです。

コリント人への第二の手紙4:16~18「見えないものに目を注ぐ」

2017年1月15日、コリント人への第二の手紙4:16~18「見えないものに目を注ぐ」
日々「わたしたちの外なる人は滅びて(壊れ続けていく)」いきますが、イエスによって新しくされた「内なる人は日ごとに新しくされ(新しくされ続けていく)」、「顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」(3:18)のです。やがて信じる者に与えられるこの「永遠の重い栄光」(黙示録21:3~4)に比べるなら、地上のあらゆる試練や困難は、所詮「このしばらくの軽い患難」に過ぎません。「今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」(ローマ8:18)。
トマスは「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と言い(ヨハネ20:24~25)、エサウは一杯の「レンズ豆のあつもの」のために「長子の特権」を弟ヤコブに譲りました(創世記25:27~34)。私たちは何としばしば患難に飲み込まれてしまうことか。見えるものに心奪われ、見えないものに懐疑的になることか。目に見えるものがいかに脆くはかなく危ういものであるか、阪神淡路大震災等で嫌というほど体験させられたはずです。イエスが「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」(マタイ24:35)と言われたとおり、この地上には神の御言葉以外に絶対的確かさを持つものなどありません。だからこそパウロは「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ(ルカ11:35「注意しなさい」、ガラテヤ6:1「反省しなさい」)と同語」と言うのです。今あなたは「見えるもの」に目を注いでいるのか、「見えないもの」に目を注いでいるのか、「注意しなさい…調べなさい…反省しなさい」と問われているのです。

詩篇121:1~8「わが助けはどこから来る」

2017年1月8日、詩篇121:1~8「わが助けはどこから来る」
巡礼者が目指すエルサレム神殿の方角を望むと、その旅路の困難さを暗示するかのように山々がそびえていました。思わず「わが助けは、どこから来るであろうか」と自問しますが、山々を見る目を少し上げて大空を仰ぐと、創造主への信仰がみなぎり、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」から大丈夫と確信しました(「守る」が6回)。
①眠ることなく守られる主から(3~4節)
真っ暗闇の中、野宿するのは心細い限りですが、主は「まどろむこともなく、眠ることもな」く見張りして、野獣や強盗から守って下さると確信しました。今も主は片時もまどろむことなく、私たちの手を握り締め、足がよろめかないよう守っていて下さいます(新聖歌474番)。
②右にいて守られる主から(5~6節)
主は常に右(保護者の位置)にいて、太陽(熱射病の原因)や月(てんかんや熱病の原因と当時考えられていた)から守って下さると確信しました。十字架信仰によってキリストの花嫁とされた私たちを、ちょうど親鳥が翼を広げて雛を守るように、常に全責任をもって守っていて下さいます。
③とこしえに守られる主から(7~8節)
主は出発から帰郷までのすべてを守って下さると確信しました。罪の奴隷から贖い出された私たちが無事天国にゴールインするまで、信仰の旅路を「今からとこしえに至るまで」守り続けて下さいます。
主日礼拝ごとに、心を高く上げて天を仰ぎ、過ぎた一週間の旅路を絶えず主が守って下さったことを感謝し、この主に信頼して新しい一週間を踏み出すのです。困難の山々に直面することがあっても、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」と信じて進みましょう。

詩篇121:1~8「わが助けはどこから来る」

2017年1月8日、詩篇121:1~8「わが助けはどこから来る」
巡礼者が目指すエルサレム神殿の方角を望むと、その旅路の困難さを暗示するかのように山々がそびえていました。思わず「わが助けは、どこから来るであろうか」と自問しますが、山々を見る目を少し上げて大空を仰ぐと、創造主への信仰がみなぎり、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」から大丈夫と確信しました(「守る」が6回)。
①眠ることなく守られる主から(3~4節)
真っ暗闇の中、野宿するのは心細い限りですが、主は「まどろむこともなく、眠ることもな」く見張りして、野獣や強盗から守って下さると確信しました。今も主は片時もまどろむことなく、私たちの手を握り締め、足がよろめかないよう守っていて下さいます(新聖歌474番)。
②右にいて守られる主から(5~6節)
主は常に右(保護者の位置)にいて、太陽(熱射病の原因)や月(てんかんや熱病の原因と当時考えられていた)から守って下さると確信しました。十字架信仰によってキリストの花嫁とされた私たちを、ちょうど親鳥が翼を広げて雛を守るように、常に全責任をもって守っていて下さいます。
③とこしえに守られる主から(7~8節)
主は出発から帰郷までのすべてを守って下さると確信しました。罪の奴隷から贖い出された私たちが無事天国にゴールインするまで、信仰の旅路を「今からとこしえに至るまで」守り続けて下さいます。
主日礼拝ごとに、心を高く上げて天を仰ぎ、過ぎた一週間の旅路を絶えず主が守って下さったことを感謝し、この主に信頼して新しい一週間を踏み出すのです。困難の山々に直面することがあっても、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」と信じて進みましょう。