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ヨブ記19:21~27「私を贖う者は生きておられる」

2017年12月3日、ヨブ記19:21~27「私を贖う者は生きておられる」
「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」ヨブでしたが、一瞬のうちに子や僕、家畜等を失い、自分は悪性の皮膚病に苦しむという試練に次々襲われました。妻からは「神をのろって死になさい」と罵られ(1:1~2:10)、友人たちからは「不義を耕し、害悪をまく」(4:8)から試練に遭うのだ、と因果応報論で責め立てられます。義人がなぜ試練に遭わねばならぬのか、とますます苦悩する中、「わたしをあがなう者(ゴ-エ-ル、買戻しの権利のある親戚)は生きておられる」、親戚以上に親身になって自分のことを心配し、弁護して下さる方が天におられることに目が開かれました。このときヨブは、来たるべき真のゴ-エ-ル、イエス・キリストを指し示していたのです。
時満ちて降誕されたイエスは、十字架と復活によって、信じる者の罪を赦し、永遠のいのちを与える救いを完成されました。さらに天の父なる神の右に座し、私たちの弁護者として神にとりなし祈っておられます(Ⅰヨハネ2:1)。また、人となられたイエスは様々な試練や苦悩をなめ尽くされたので(讃美歌532番2節「主の受けぬ試みも 主の知らぬ悲しみも うつし世にあらじかし いずこにも御跡見ゆ」)、私たちの弱さや苦悩に共感し、助けることがおできになります(ヘブル2:17~18、4:15)。
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ヨブには苦難の理由は最後まで知らされませんでした。私たちを襲う試練や苦難の理由も、この地上では完全に理解することはできませんが、御子イエスを十字架の死に渡すほど私たちを愛しておられる神が、意味もなく私たちを苦しめるようなことなど絶対なさいません。試練に遭っても、自分を責めたり神を恨んだりせず、「わたしをあがなう者は生きておられる」、イエスを仰ぎ信頼しましょう。

ヨブ記19:21~27「私を贖う者は生きておられる」

2017年12月3日、ヨブ記19:21~27「私を贖う者は生きておられる」
「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」ヨブでしたが、一瞬のうちに子や僕、家畜等を失い、自分は悪性の皮膚病に苦しむという試練に次々襲われました。妻からは「神をのろって死になさい」と罵られ(1:1~2:10)、友人たちからは「不義を耕し、害悪をまく」(4:8)から試練に遭うのだ、と因果応報論で責め立てられます。義人がなぜ試練に遭わねばならぬのか、とますます苦悩する中、「わたしをあがなう者(ゴ-エ-ル、買戻しの権利のある親戚)は生きておられる」、親戚以上に親身になって自分のことを心配し、弁護して下さる方が天におられることに目が開かれました。このときヨブは、来たるべき真のゴ-エ-ル、イエス・キリストを指し示していたのです。
時満ちて降誕されたイエスは、十字架と復活によって、信じる者の罪を赦し、永遠のいのちを与える救いを完成されました。さらに天の父なる神の右に座し、私たちの弁護者として神にとりなし祈っておられます(Ⅰヨハネ2:1)。また、人となられたイエスは様々な試練や苦悩をなめ尽くされたので(讃美歌532番2節「主の受けぬ試みも 主の知らぬ悲しみも うつし世にあらじかし いずこにも御跡見ゆ」)、私たちの弱さや苦悩に共感し、助けることがおできになります(ヘブル2:17~18、4:15)。
ヨブには苦難の理由は最後まで知らされませんでした。私たちを襲う試練や苦難の理由も、この地上では完全に理解することはできませんが、御子イエスを十字架の死に渡すほど私たちを愛しておられる神が、意味もなく私たちを苦しめるようなことなど絶対なさいません。試練に遭っても、自分を責めたり神を恨んだりせず、「わたしをあがなう者は生きておられる」、イエスを仰ぎ信頼しましょう。

ヨハネの第三の手紙 9~15「悪にならわないで、善にならいなさい」

2017年11月26日、ヨハネの第三の手紙 9~15「悪にならわないで、善にならいなさい」
「みんなのかしらになりたがっているデオテレペス」は、人々から敬愛されている使徒ヨハネの存在が目障りで、ヨハネたちを「受けいれ」ないで「口ぎたなく…ののしり」、さらには「受けいれようとする人たちを妨げて、教会から追い出してい」ました。一方、デメテリオは、「あらゆる人も…真理そのものも…わたし(ヨハネ)たちも」、この人なら間違いないと証しする、折り紙付きの信者でした。教会には、「善を行なう」良い模範だけでなく、「悪を行う」悪い模範もあります。
デオテレペスと正反対の歩みをしたのがバプテスマのヨハネでした(ヨハネ3:22~30)。イエスが公生涯にお立ち上がりになると、人々の人気はヨハネからイエスに移っていきましたが、ヨハネは少しも腐らず、「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言ってイエスに道を譲り、表舞台から静かに消えていきました。己の分・己の使命を正しく認識し、他人と比較したり競争したりする必要など全くないこと、自分に与えられた使命を果たすことこそ最上の喜びであることを知り、約束の救い主イエスがあがめられることだけを望んでいたからです。
「キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」私たちが「救われたのは、実に、恵みにより、信仰による」のです(エペソ2:11~13)。このことが真にわかっているなら、神の前にも人の前にも「かしらになりたが」ることなでできないはずです。特権や権利等を捨てて、神の僕として互いに仕え合うところ、それが教会です。「悪にならわないで、善にならい」、後に続く人たちのために良い模範・目標になってほしい、と神はあなたに期待しておられるのです。

ヨハネの第三の手紙 9~15「悪にならわないで、善にならいなさい」

2017年11月26日、ヨハネの第三の手紙 9~15「悪にならわないで、善にならいなさい」
「みんなのかしらになりたがっているデオテレペス」は、人々から敬愛されている使徒ヨハネの存在が目障りで、ヨハネたちを「受けいれ」ないで「口ぎたなく…ののしり」、さらには「受けいれようとする人たちを妨げて、教会から追い出してい」ました。一方、デメテリオは、「あらゆる人も…真理そのものも…わたし(ヨハネ)たちも」、この人なら間違いないと証しする、折り紙付きの信者でした。教会には、「善を行なう」良い模範だけでなく、「悪を行う」悪い模範もあります。
デオテレペスと正反対の歩みをしたのがバプテスマのヨハネでした(ヨハネ3:22~30)。イエスが公生涯にお立ち上がりになると、人々の人気はヨハネからイエスに移っていきましたが、ヨハネは少しも腐らず、「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言ってイエスに道を譲り、表舞台から静かに消えていきました。己の分・己の使命を正しく認識し、他人と比較したり競争したりする必要など全くないこと、自分に与えられた使命を果たすことこそ最上の喜びであることを知り、約束の救い主イエスがあがめられることだけを望んでいたからです。
「キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」私たちが「救われたのは、実に、恵みにより、信仰による」のです(エペソ2:11~13)。このことが真にわかっているなら、神の前にも人の前にも「かしらになりたが」ることなでできないはずです。特権や権利等を捨てて、神の僕として互いに仕え合うところ、それが教会です。「悪にならわないで、善にならい」、後に続く人たちのために良い模範・目標になってほしい、と神はあなたに期待しておられるのです。

ヨハネの第三の手紙 5~8「愛に生きるガイオ」

2017年11月19日、ヨハネの第三の手紙 5~8「愛に生きるガイオ」
貧しいキリスト者が多く、悪名高い宿屋が少なくなかった当時、同信の旅人をもてなすのはキリスト者の良い習慣で(ローマ12:13、ヘブル13:2)、ガイオも家庭を開放して、伝道のため「旅先にある者につくしてい」ました。彼らが伝道を終えて教会に帰ると、ガイオがいかに心を込めてもてなしてくれたか、大きな感動をもって「諸教会で…(ガイオ)の愛についてあかしをし」、諸教会も大きな喜びで溢れました。
多くの家庭が崩壊し、子どもたちが深く傷ついている現代、初代教会の良い習慣が見直され、回復される必要があるのではないでしょうか。家庭の開放や愛のもてなしは難しいという場合も、神と人のために、あなたにしかできない何かがあるのではないでしょうか。嘆き悲しむ人に寄り添い、慰め励ますこともそうです。世界に出て行くことはできなくても、祈りと献金で世界宣教の一端を担う「真理のための同労者」になることもそうです。神と人のために自分にできることが何かないか考え、勇気をもって実践していきたいものです。
ガイオは、真理に生きると同時に愛に生きる人、真理と愛がバランスよく共存する、成熟したキリスト者でした。イエスの父ヨセフも、律法に対する正しさとマリヤに対する愛の板挟みで苦しみました(マタイ1:18~25)。そしてイエスも「めぐみとまこととに満ちてい」ました(ヨハネ1:14)。どうしたらそうなれるのでしょうか。それは、聖霊が内に宿り、満ち満ちて下さるならば可能となります。なぜなら、聖霊は「真理の御霊」であり(ヨハネ14:17)、御霊の実の第一は「愛」だからです(ガラテヤ5:22~23)。聖霊に満たされて生きるとき、自ずから真理と愛に根差した「真理のための同労者」になることができるのです。

ヨハネの第三の手紙 5~8「愛に生きるガイオ」

2017年11月19日、ヨハネの第三の手紙 5~8「愛に生きるガイオ」
貧しいキリスト者が多く、悪名高い宿屋が少なくなかった当時、同信の旅人をもてなすのはキリスト者の良い習慣で(ローマ12:13、ヘブル13:2)、ガイオも家庭を開放して、伝道のため「旅先にある者につくしてい」ました。彼らが伝道を終えて教会に帰ると、ガイオがいかに心を込めてもてなしてくれたか、大きな感動をもって「諸教会で…(ガイオ)の愛についてあかしをし」、諸教会も大きな喜びで溢れました。
多くの家庭が崩壊し、子どもたちが深く傷ついている現代、初代教会の良い習慣が見直され、回復される必要があるのではないでしょうか。家庭の開放や愛のもてなしは難しいという場合も、神と人のために、あなたにしかできない何かがあるのではないでしょうか。嘆き悲しむ人に寄り添い、慰め励ますこともそうです。世界に出て行くことはできなくても、祈りと献金で世界宣教の一端を担う「真理のための同労者」になることもそうです。神と人のために自分にできることが何かないか考え、勇気をもって実践していきたいものです。
ガイオは、真理に生きると同時に愛に生きる人、真理と愛がバランスよく共存する、成熟したキリスト者でした。イエスの父ヨセフも、律法に対する正しさとマリヤに対する愛の板挟みで苦しみました(マタイ1:18~25)。そしてイエスも「めぐみとまこととに満ちてい」ました(ヨハネ1:14)。どうしたらそうなれるのでしょうか。それは、聖霊が内に宿り、満ち満ちて下さるならば可能となります。なぜなら、聖霊は「真理の御霊」であり(ヨハネ14:17)、御霊の実の第一は「愛」だからです(ガラテヤ5:22~23)。聖霊に満たされて生きるとき、自ずから真理と愛に根差した「真理のための同労者」になることができるのです。

ヨハネの第一の手紙5:21「偶像を警戒せよ②」

2017年11月12日、ヨハネの第一の手紙5:21「偶像を警戒せよ②」
何が偶像かを見極める四つの方法(ティモシー・ケラー著『偽りの神々』)とは、⑴一人だけのときに考えることやすることに注目する。「あなたの宗教とは、あなたが一人だけのときにすることだ」(ウィリアム・テンプル師)。それがあなたの中で神以上の地位を占めている偶像かもしれません。⑵金銭の使い方に注目する。家や子どものため、服や趣味等のために使った残り物を神に献げるというような金銭の使い方をしているとするなら、それが偶像かもしれません。⑶答えられなかった祈りと、なかなか実現しない希望に対する反応に注目する。「求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ」(ヤコブ4:3)。答えられない祈りは、もしかしたら私たちに何か大切なことに気づかせようとする神の愛の呼びかけかもしれません。⑷最も自制できない感情に注目する。劣等感や妬み、不平不満や怒り等の根っこに、成功や自己義認等の偶像が潜んでいることがあります。
自分の心の中にも偶像があることを正直に認め、偶像を捨て去ることは幸いですが、実はこれだけでは真の解決にはなりません。「人間の性質とは、いわば絶えることのない偶像工場」(カルヴァン)で、早晩また新しい偶像を迎え入れることになるからです。だからこそパウロは「あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい…あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」(コロサイ3:1~2)と言うのです。イエスが莫大な犠牲を払って救って下さったことを感謝し、イエスによって心が満たされて満足しているならば、もはやこの世の空しい偶像に心奪われたり惑わされたりすることなどないのです。

ヨハネの第一の手紙5:21「偶像を警戒せよ②」

2017年11月12日、ヨハネの第一の手紙5:21「偶像を警戒せよ②」
何が偶像かを見極める四つの方法(ティモシー・ケラー著『偽りの神々』)とは、⑴一人だけのときに考えることやすることに注目する。「あなたの宗教とは、あなたが一人だけのときにすることだ」(ウィリアム・テンプル師)。それがあなたの中で神以上の地位を占めている偶像かもしれません。⑵金銭の使い方に注目する。家や子どものため、服や趣味等のために使った残り物を神に献げるというような金銭の使い方をしているとするなら、それが偶像かもしれません。⑶答えられなかった祈りと、なかなか実現しない希望に対する反応に注目する。「求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ」(ヤコブ4:3)。答えられない祈りは、もしかしたら私たちに何か大切なことに気づかせようとする神の愛の呼びかけかもしれません。⑷最も自制できない感情に注目する。劣等感や妬み、不平不満や怒り等の根っこに、成功や自己義認等の偶像が潜んでいることがあります。
自分の心の中にも偶像があることを正直に認め、偶像を捨て去ることは幸いですが、実はこれだけでは真の解決にはなりません。「人間の性質とは、いわば絶えることのない偶像工場」(カルヴァン)で、早晩また新しい偶像を迎え入れることになるからです。だからこそパウロは「あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい…あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」(コロサイ3:1~2)と言うのです。イエスが莫大な犠牲を払って救って下さったことを感謝し、イエスによって心が満たされて満足しているならば、もはやこの世の空しい偶像に心奪われたり惑わされたりすることなどないのです。

ルカによる福音書7:11~17「泣かないでいなさい」

2017年10月29日、ルカによる福音書7:11~17「泣かないでいなさい」
百卒長の僕が奇跡的に癒された「そののち、間もなく」のこと、イエスの一行はいつも以上に意気揚々と歩いていたことでしょう。まさに命と喜びに満ちあふれた行列です。そんな一行が、ナインの町の門から出てきた葬列とばったり鉢合わせしました。夫を失った後、精神的・経済的・社会的に唯一の支えであったひとり息子を亡くして葬りに行くやもめの、まさに死と悲しみに満ちあふれた行列です。
イエスはやもめを「見て」、ご自分のほうから近づき、内臓が揺り動かされるほど、まるでご自分の悲しみのように「深い同情を寄せられ」、「泣かないでいなさい」と言われました。人々が「神はその民を顧みてくださった(訪問する、の意)」と言うように、イエスは悩み悲しむ者を訪れて顧み、親身に寄り添って下さるお方です。イエスは「悲しみの人で、病を知っていた」から(イザヤ53:3)、「罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われた」から(ヘブル4:15)、「わたしたちの弱さを思いやること」ができるのです。その後イエスは「近寄って棺に手をかけ」、「若者よ、さあ、起きなさい」との一言でひとり息子を生き返らせ、母親にお返しになりました。
イエスは全人類の罪を背負って十字架につけられ、神にさばかれて死なれましたが、三日目に復活して罪と死を打ち破られました。悲しみに沈むとき、試練や困難に襲われるとき、復活のイエスは近づき、「見て深い同情を寄せられ、『泣かないでいなさい』と」、絶望の「棺に手をかけ」、再び立ち上がらせて下さいます。信仰者もいずれ召されますが、再臨時、「さあ、起きなさい」との御声を聞いて復活し、天国で世々の聖徒たちと共に永遠に生きるのです(黙示録21:3~4)。

ルカによる福音書17:1~10「ふつつかな僕」

2017年10月22日、ルカによる福音書17:1~10「ふつつかな僕」
私たちはかつて罪の奴隷でしたが、十字架を信じる信仰によって神の僕とされました。しかしどんなに立派な歩みや働きができても、神の前には欠けだらけの「ふつつかな僕」に過ぎません。神のすばらしさを知れば知るほど、「ふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」と告白するはずですが、実際はそうではありません。心のどこかで認められ誉められ感謝されるのを期待しているところがあります。「弟子たちは信仰が増して力あるわざを行いたいと願いました。それによって自分を誇示できるからです。人に対しても神に対しても、本当に仕えるために求めたものではありませんでした。主はそれを見抜かれたのです。信仰の増し加わるのを願うのならその前に謙遜を、仕えることを学びなさいと言われたのです。私たちが何か奉仕をしたときに何を期待するかによってこのときの弟子たちと同じかどうかがわかります。自分がしたことを誰も認めてくれなかったとき、もし私たちが不満を持つようならば、私たちの信仰が増して力あるわざを行うようになったならば私たちは誇る者なのです」(安藤俊悦師)。神は私たちを損得計算抜きで愛して下さいました。そのクライマックスがイエスの十字架です。この神に仕えることができるだけで十分満足ではありませんか。だからと言って神は、そのような忠実な神の僕を放ってはおかれません。豊かに報いずにはいられないお方です。だからこそ、私たちのほうから何か期待したり要求したりする必要などないのです。「わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」という言葉は、一日の務めを終えたときの祈りの言葉であり、生涯の最後に思い起こすべき言葉です。