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ルツ記4:1~22「私たちのゴーエール」

2017年3月26日、ルツ記4:1~22「私たちのゴーエール」
ルツの求婚に対して「あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう」と約束したボアズは、「もっと近い親戚(ゴーエール、新改訳「買戻しの権利のある親類」)」に「あなたが、それをあがなおうと思われるならば、あがなってください(代価を払って買い戻す、の意)」と言うと、「わたしがあがないましょう」と答えたので、すかさずボアズは「あなたが…地所を買う時には…モアブ(申命記23:3)の女ルツをも買って…」と言いました。すると「わたしにはあがなうことができません。そんなことをすれば自分の嗣業をそこないます」と言ってボアズに買戻しの権利を譲ったので、ボアズは先祖の地所とルツを贖いました。
本書は、ボアズの姿を通して私たちの贖い主(ゴーエール)がどのようなお方であるかを示しています。「神のかたち」「神と等しく」あられたキリストは、天の栄光の御位を惜しみなく捨てて私たちと同じ「人間の姿になられ」、あの悪臭漂う家畜小屋に降誕されたばかりか、「おのれをむなしうして僕のかたちをとり」、全人類を罪と滅びから救うために十字架上で血もいのちも惜しみなく損われました。「それでは、わたしにはあがなうことができません。そんなことをすれば自分の嗣業をそこないます」などと一言も言われず、「十字架の死に至るまで従順であられ」ました。罪深い私を贖うために、です(ピリピ2:6~8)。
ルツが「はからずも」ボアズの畑に落ち穂拾いに行って結婚へと導かれたように、「キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」(エペソ2:12)私も、「はからずも」教会に導かれ、十字架によって贖われ、キリストの花嫁とされました。「主はほむべきかな」。

ルツ記3:1~18「おっしゃることを皆いたしましょう」

2017年3月19日、ルツ記3:1~18「おっしゃることを皆いたしましょう」
ルツが落ち穂拾いに出かけたところが「はからずも」親戚ボアズの畑であったことから、二人が結婚に導かれているように考えていたナオミは、神の時が満ちたことを確信し、ボアズに求婚するようルツに指示しました。ルツはモアブ人ですから(申命記23:3)、いざ結婚となれば、さすがのボアズも躊躇するのではないかという恐れもあったでしょう。しかしそうした恐れ以上に主とナオミに信頼するルツは「あなたのおっしゃることを皆いたしましょう」と答え、「すべてしゅうとめが命じたとおりにし」ました。受胎告知されたときのマリヤの言葉「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1:38)に相通じます。ルツは「あなたのすそ(2:12「翼」と同語)で、はしためをおおってください」と求婚しました。主の翼の保護を求めて帰郷した私たちは、「最も近い親戚(ゴーエール)」であるボアズの翼の保護をも求めています、ということです。それに対してボアズは「わたしよりも、もっと近い親戚があります」と言いつつ、「あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう」と約束しました。
これは私たちと真のゴーエール、主との関係にも当てはまります。私たちが主に「あなたのおっしゃることを皆いたしましょう」と申し上げるとき、主もまた私たちに「あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう」と約束して下さるのです。それゆえ、なすべきことを皆なし遂げたならば、後は主の御手にお任せして、「この事がどうなるかわかるまで」待つことが大切です。私たち以上に神が最善の時を知り、最善の方法を心得ておられるからです。神よりも自分が先走って知恵を働かせてもお邪魔になるだけです(創世記 第16章)。

ルツ記3:1~18「おっしゃることを皆いたしましょう」

2017年3月19日、ルツ記3:1~18「おっしゃることを皆いたしましょう」
ルツが落ち穂拾いに出かけたところが「はからずも」親戚ボアズの畑であったことから、二人が結婚に導かれているように考えていたナオミは、神の時が満ちたことを確信し、ボアズに求婚するようルツに指示しました。ルツはモアブ人ですから(申命記23:3)、いざ結婚となれば、さすがのボアズも躊躇するのではないかという恐れもあったでしょう。しかしそうした恐れ以上に主とナオミに信頼するルツは「あなたのおっしゃることを皆いたしましょう」と答え、「すべてしゅうとめが命じたとおりにし」ました。受胎告知されたときのマリヤの言葉「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1:38)に相通じます。ルツは「あなたのすそ(2:12「翼」と同語)で、はしためをおおってください」と求婚しました。主の翼の保護を求めて帰郷した私たちは、「最も近い親戚(ゴーエール)」であるボアズの翼の保護をも求めています、ということです。それに対してボアズは「わたしよりも、もっと近い親戚があります」と言いつつ、「あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう」と約束しました。
これは私たちと真のゴーエール、主との関係にも当てはまります。私たちが主に「あなたのおっしゃることを皆いたしましょう」と申し上げるとき、主もまた私たちに「あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう」と約束して下さるのです。それゆえ、なすべきことを皆なし遂げたならば、後は主の御手にお任せして、「この事がどうなるかわかるまで」待つことが大切です。私たち以上に神が最善の時を知り、最善の方法を心得ておられるからです。神よりも自分が先走って知恵を働かせてもお邪魔になるだけです(創世記 第16章)。

ルツ記2:1~23「はからずも、ちょうどその時」

2017年3月12日、ルツ記2:1~23「はからずも、ちょうどその時」
ナオミは、ルツと共にモアブからベツレヘムに帰郷したものの、その日からの生活の当てがない状態です。そこでルツは「畑に行かせてください…落ち穂を拾います」と言い(レビ記19:9~10)、知らずに行ったところが何と「はからずも」親戚ボアズの畑でした。そして「ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て」(新改訳)ルツと出会い、姑に尽くすことで評判のルツのために格別の取り計らいをしました。
ルツの「はからずも」と、ボアズの「ちょうどその時」とが出会ったことにより、ナオミとルツの人生が大きく変わっていきます。ルツが「はからずも」している行動の背後で、神はご自身のご計画を着々と進めておられたのです。人間的に見れば「はからずも」偶然のようであっても、神の側から見ればまさに「ちょうどその時」の必然でした。神は、ナオミとルツのように「その翼の下に身を寄せようと」する者を、全責任をもって守り、「じゅうぶんの報いを得」させて下さるお方です。そのために、私たちの願いや考えをはるかに超えて働き、実に不思議なご計画を着々と進めて行かれるのです(ローマ8:28)。
「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11)。神の時と方法は「皆」例外なく最善です。私たちの目には理解しがたいことであっても、神の目には最善であり、神のご計画に狂いはありません。私のために尊い御子イエスをも惜しまず十字架の死に渡された神は、私のために最善以下の人生を備えるようなことなど絶対ありません。それゆえ目先の出来事だけを見て失望したり、諦めたり、つぶやいたりするのはやめましょう。いかなるときにも決して下手なことはされない神に全く信頼して委ねましょう(Ⅰペテロ5:6)。

ルツ記2:1~23「はからずも、ちょうどその時」

2017年3月12日、ルツ記2:1~23「はからずも、ちょうどその時」
ナオミは、ルツと共にモアブからベツレヘムに帰郷したものの、その日からの生活の当てがない状態です。そこでルツは「畑に行かせてください…落ち穂を拾います」と言い(レビ記19:9~10)、知らずに行ったところが何と「はからずも」親戚ボアズの畑でした。そして「ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て」(新改訳)ルツと出会い、姑に尽くすことで評判のルツのために格別の取り計らいをしました。
ルツの「はからずも」と、ボアズの「ちょうどその時」とが出会ったことにより、ナオミとルツの人生が大きく変わっていきます。ルツが「はからずも」している行動の背後で、神はご自身のご計画を着々と進めておられたのです。人間的に見れば「はからずも」偶然のようであっても、神の側から見ればまさに「ちょうどその時」の必然でした。神は、ナオミとルツのように「その翼の下に身を寄せようと」する者を、全責任をもって守り、「じゅうぶんの報いを得」させて下さるお方です。そのために、私たちの願いや考えをはるかに超えて働き、実に不思議なご計画を着々と進めて行かれるのです(ローマ8:28)。
「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11)。神の時と方法は「皆」例外なく最善です。私たちの目には理解しがたいことであっても、神の目には最善であり、神のご計画に狂いはありません。私のために尊い御子イエスをも惜しまず十字架の死に渡された神は、私のために最善以下の人生を備えるようなことなど絶対ありません。それゆえ目先の出来事だけを見て失望したり、諦めたり、つぶやいたりするのはやめましょう。いかなるときにも決して下手なことはされない神に全く信頼して委ねましょう(Ⅰペテロ5:6)。

ルツ記1:1~22「なぜなら全能者が私を」

2017年3月5日、ルツ記1:1~22「なぜなら全能者が私を」
飢饉のため、ナオミは夫と二人の息子と共にベツレヘムからモアブへ移住しました。しばらくして夫は死に、息子たちはモアブの女性オルパとルツと結婚しますが、やがて息子たちも死にました。飢饉の終わりを伝え聞いて帰郷するナオミは、嫁たちはモアブに留まるよう説得しますが、ルツだけは聞き入れませんでした。モアブの偶像に囲まれて育ったルツですが、ナオミ一家が信じている真の神信仰へと導かれていたからです。もしナオミが度重なる試練の中で神を呪い、不平不満でいっぱいの毎日を送っていたら、ルツがナオミと行動を共にしたかどうかはなはだ疑問です。ナオミの日々の信仰生活は、異邦の嫁ルツに「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です」と証しされるほど麗しいものだったのです。「あなたの神はわたしの神です」と証しされていますか。それとも「神の御名は、あなたがたのゆえに…汚されている」(ローマ2:24)でしょうか。
ナオミは「全能者がわたしをひどく苦しめられた」と言いましたが、これは神を恨んだ言葉ではなく、神の主権を認めた言葉です。もしナオミの中に神への恨み辛みが渦巻いていたなら、どうしてルツに「あなたの神はわたしの神です」と告白させることができたでしょうか。全能者の前に「アブラムは、ひれ伏した」(創世記17:3)結果、「アブラム」から「アブラハム」に改名され、約束の子イサクが与えられました。「ナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください」と言いながらも、ナオミは神の主権の前にひれ伏しました。そのナオミの家系からダビデが、さらには御子イエスが誕生するという祝福にあずかります。「全能者がわたしを」という視点を忘れないように。

ルツ記1:1~22「なぜなら全能者が私を」

2017年3月5日、ルツ記1:1~22「なぜなら全能者が私を」
飢饉のため、ナオミは夫と二人の息子と共にベツレヘムからモアブへ移住しました。しばらくして夫は死に、息子たちはモアブの女性オルパとルツと結婚しますが、やがて息子たちも死にました。飢饉の終わりを伝え聞いて帰郷するナオミは、嫁たちはモアブに留まるよう説得しますが、ルツだけは聞き入れませんでした。モアブの偶像に囲まれて育ったルツですが、ナオミ一家が信じている真の神信仰へと導かれていたからです。もしナオミが度重なる試練の中で神を呪い、不平不満でいっぱいの毎日を送っていたら、ルツがナオミと行動を共にしたかどうかはなはだ疑問です。ナオミの日々の信仰生活は、異邦の嫁ルツに「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です」と証しされるほど麗しいものだったのです。「あなたの神はわたしの神です」と証しされていますか。それとも「神の御名は、あなたがたのゆえに…汚されている」(ローマ2:24)でしょうか。
ナオミは「全能者がわたしをひどく苦しめられた」と言いましたが、これは神を恨んだ言葉ではなく、神の主権を認めた言葉です。もしナオミの中に神への恨み辛みが渦巻いていたなら、どうしてルツに「あなたの神はわたしの神です」と告白させることができたでしょうか。全能者の前に「アブラムは、ひれ伏した」(創世記17:3)結果、「アブラム」から「アブラハム」に改名され、約束の子イサクが与えられました。「ナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください」と言いながらも、ナオミは神の主権の前にひれ伏しました。そのナオミの家系からダビデが、さらには御子イエスが誕生するという祝福にあずかります。「全能者がわたしを」という視点を忘れないように。

ヨハネの第一の手紙4:11~12「見えない神、見える愛」

2017年2月26日、ヨハネの第一の手紙4:11~12「見えない神、見える愛」
神が私たちをどれほど愛して下さったかを記してきたヨハネは、「ここに愛がある」と締め括った後(7~10節)、「神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合う(愛し合い続ける、の意)べきである(負債を支払う義務を負う、の意)」、相手がどうであろうと、いつも変わることなく愛し続けるように、と語りかけます。十字架によって「神がこのようにわたしたちを愛して下さったので」、私たちは神に対して莫大な負債を負っています。その負債は、神を愛することにより、「互に愛し合う」ことにより返済するのです。
御子イエスが来臨された目的の一つは、「見た者は、まだひとりもいない」神を表すためでした(ヨハネ1:18)。説教や奇跡によって、そして何よりも愛によって神を表されました。ご自分を裏切ろうとしているユダをも、極限まで愛し通されました(ヨハネ13:1~5)。「イエスさまの周りには大勢の人がいました。それはイエスさまには赦しと愛があり、人を受け入れる雰囲気が満ちていたからです」(松本雅弘師)。
「互に愛し合う」ことを難しくしているのは、他人ではなく自分自身です。神の助けによって「あの人と一緒にいたら安心する。落ち着く。居心地が良い」と人々から愛され慕われるような者にされ、真実に「わたしたちが互に愛し合うなら」、「神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされる」。目に見えない神が「わたしたちのうちにいま」すことを確信し得るだけでなく、目に見えない神が私たちを通して人々にわかるようにされていくのです。逆に言えば、目に見えない神をさらに見えなくしている、わからなくしているのは私たち自身のあり方ではないか、とも考えさせられます。

ヨハネの第一の手紙4:11~12「見えない神、見える愛」

2017年2月26日、ヨハネの第一の手紙4:11~12「見えない神、見える愛」
神が私たちをどれほど愛して下さったかを記してきたヨハネは、「ここに愛がある」と締め括った後(7~10節)、「神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合う(愛し合い続ける、の意)べきである(負債を支払う義務を負う、の意)」、相手がどうであろうと、いつも変わることなく愛し続けるように、と語りかけます。十字架によって「神がこのようにわたしたちを愛して下さったので」、私たちは神に対して莫大な負債を負っています。その負債は、神を愛することにより、「互に愛し合う」ことにより返済するのです。
御子イエスが来臨された目的の一つは、「見た者は、まだひとりもいない」神を表すためでした(ヨハネ1:18)。説教や奇跡によって、そして何よりも愛によって神を表されました。ご自分を裏切ろうとしているユダをも、極限まで愛し通されました(ヨハネ13:1~5)。「イエスさまの周りには大勢の人がいました。それはイエスさまには赦しと愛があり、人を受け入れる雰囲気が満ちていたからです」(松本雅弘師)。
「互に愛し合う」ことを難しくしているのは、他人ではなく自分自身です。神の助けによって「あの人と一緒にいたら安心する。落ち着く。居心地が良い」と人々から愛され慕われるような者にされ、真実に「わたしたちが互に愛し合うなら」、「神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされる」。目に見えない神が「わたしたちのうちにいま」すことを確信し得るだけでなく、目に見えない神が私たちを通して人々にわかるようにされていくのです。逆に言えば、目に見えない神をさらに見えなくしている、わからなくしているのは私たち自身のあり方ではないか、とも考えさせられます。

ヨハネの第一の手紙4:7~10「ここに愛がある」

2017年2月19日、ヨハネの第一の手紙4:7~10「ここに愛がある」
①愛の起源(7ac、8b節)
「愛する者たちよ」を直訳すると、「愛される者たちよ」となります。誰かに愛されることも幸いですが、神に愛されることにまさる幸いはありません。この神の愛から漏れている人は一人もいないのです。
②愛の方向(10節)
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって」とあるように、愛は、私たちから神への方向ではなく、神から私たちへの方向です。自分で正しく生きようとしてもその力が「弱かった」上、神に積極的に反逆する「不信心な者たち」、創造主なる神から的をはずした「罪人」、神の「敵」でさえあった私たちに対して(ローマ5:6、8、10)、まず神のほうから「わたしたちを愛して下さっ」たのです。
③愛の証明(10節)
神の愛は口先だけの愛ではなく、具体的な行動を伴う愛です。その究極が、「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった」ということです。神が人となられただけでも想像を絶することですが、何と罪の全くない神の御子イエスが「わたしたちの罪のためにあがない(新改訳「なだめ」)の供え物として」十字架に釘付けられ(ローマ3:25、ヘブル9:5)、本来なら罪人の私たちに下されるはずの神の怒りとさばきを一身に引受けて死なれたのです。十字架は「神の義と愛の合えるところ」(新聖歌230番)、二つの相矛盾する性質が見事にドッキングしたところ、驚くべき神の救いの方法です。それによって、ただ御子イエスを信じるだけで罪赦され、神に創造された人間らしく、神と共に真に「生きるようにして下さった」のです。