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ホセア書11:8~9「どうして見捨てられようか」

2020年11月29日、ホセア書11:8~9「どうして見捨てられようか」
「イスラエルの幼い時」、すなわち神の選民として歩み始めた当初から、神はイスラエルを愛し、奴隷状態にあった「エジプトから呼び出し」、約束の地カナンに導き入れられました(1節)。ところがイスラエルは神の愛を忘れて「遠ざかり」、偶像礼拝に傾いていきました(2節)。それでも神は、父が「わが子」を愛するように振る舞ってこられましたが、イスラエルはますます自分勝手な道に突き進むので、さすがの神もアッスリヤを用いてさばこうとされました(5~7節)。しかしいざさばきを下そうとしたとき、神は愛する民をさばくには忍びなくなり、「どうして…捨てることができようか…渡すことができようか…」と繰返し叫ばれました。罪は罪として罰せずにはいられない神の義と、それでもなお愛さずにはいられない神の愛。相矛盾する二つの間に板挟みとなった神の自己分裂の末、「神であって、人ではなく…聖なる者だから」、遂に神の義よりも神の愛が勝利したのです。
「どうして」と叫ばれた神は、時満ちて御子イエスを降誕させ、イエスに全人類の罪を背負わせ、十字架上で「どうして…お見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばせることで神の義は満足させられ、その御子を信じる者を赦すということで神の愛も満足させられました。十字架はまさに「神の義と愛の会えるところ」(新聖歌230番)、神の「どうして」という自己分裂を解消する唯一の手段だったのです。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵み…あわれみ」のゆえです(哀歌3:22)。どんなに不従順な者であっても愛さずにはいられない神は、どこまでも捜し求め、抱き抱え、天国に招き入れようとされるのです。

マルコによる福音書8:11~13「天からのしるしがあっても」

2020年11月22日、マルコによる福音書8:11~13「天からのしるしがあっても」
パリサイ人たちはイエスに「天からのしるし(新改訳2017注「証拠としての奇跡」)を求め」ました。それ自体は罪でも何でもなくても、問題はその動機です。自分たちも信じたいから証拠を見せてほしいというのではなく、「イエスを試みようと」、貶めようとする挑戦的な求め方でした。もちろんイエスは拒絶されましたが、ただそれだけではありません。拒絶してもなおパリサイ人たちを切り捨てるこができず、あわれまずにはいられませんでした。だからこそ「イエスは、心の中で深く嘆息(新改訳2017「深くため息をついて」)」されたのです。確かにイエスは頑なな彼らに対して「しるしは今の時代には決して与えられない」と言われましたが、「救いは今の時代のあなた方には決して与えられない」とは言っておられません。あなた方にも是非気づいてほしい、そして信じてほしい、というイエスの熱い思いの表れです。
イエスは、目に見えない神がどのようなお方であるかを見せるために人の子として来臨されました(ヨハネ1:18)。わざわざしるしなど求めなくても、パリサイ人たちの目の前にはしるしに勝るイエスがおられました。そして今の私たちには十字架と復活という最高最大のしるしがあり、イエスについて記した聖書があります。素直な心さえあれば、イエスこそ真の救い主だとわかり、信じて救われることができます。しかし第三者の立場に立って眺めている限りは、何の変化もないでしょう。第三者の立場から当事者の立場に変わる勇気と決断が必要です。放蕩息子のように(ルカ15:11~32)、気づいたら躊躇しないですぐ方向転換する、思い切って飛び込んでみることです。

マルコによる福音書8:11~13「天からのしるしがあっても」

2020年11月22日、マルコによる福音書8:11~13「天からのしるしがあっても」
パリサイ人たちはイエスに「天からのしるし(新改訳2017注「証拠としての奇跡」)を求め」ました。それ自体は罪でも何でもなくても、問題はその動機です。自分たちも信じたいから証拠を見せてほしいというのではなく、「イエスを試みようと」、貶めようとする挑戦的な求め方でした。もちろんイエスは拒絶されましたが、ただそれだけではありません。拒絶してもなおパリサイ人たちを切り捨てるこができず、あわれまずにはいられませんでした。だからこそ「イエスは、心の中で深く嘆息(新改訳2017「深くため息をついて」)」されたのです。確かにイエスは頑なな彼らに対して「しるしは今の時代には決して与えられない」と言われましたが、「救いは今の時代のあなた方には決して与えられない」とは言っておられません。あなた方にも是非気づいてほしい、そして信じてほしい、というイエスの熱い思いの表れです。
イエスは、目に見えない神がどのようなお方であるかを見せるために人の子として来臨されました(ヨハネ1:18)。わざわざしるしなど求めなくても、パリサイ人たちの目の前にはしるしに勝るイエスがおられました。そして今の私たちには十字架と復活という最高最大のしるしがあり、イエスについて記した聖書があります。素直な心さえあれば、イエスこそ真の救い主だとわかり、信じて救われることができます。しかし第三者の立場に立って眺めている限りは、何の変化もないでしょう。第三者の立場から当事者の立場に変わる勇気と決断が必要です。放蕩息子のように(ルカ15:11~32)、気づいたら躊躇しないですぐ方向転換する、思い切って飛び込んでみることです。

マルコによる福音書8:1~10「忘れっぽい私たち」

2020年11月15日、マルコによる福音書8:1~10「忘れっぽい私たち」
「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない」と言われるイエスに、「こんな荒野で、どこからパンを手に入れて、これらの人々にじゅうぶん食べさせることができましょうか」と弟子たちは答えました。前回同様(6:30~44)、手元にあるわずかなものだけに目を留めて無理だと考える、少しも成長していない弟子たちの姿を通して、あなたも過去の恵みをいとも簡単に忘れ去っているのではないか、と語りかけているのです。
出エジプト後の荒野放浪生活の終わり頃、モーセはイスラエルに「この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」(申命記8:4)、絶えず神の守りがあったことを語りました。御子イエスの十字架の血によって贖い取られた私たちに対しても、神は底抜けに気前の良いお方だったはずです(新聖歌18番2節「主は贖い 成し遂げて 御名に頼る 人びとの 罪はいかに 深くとも 赦し与え 助け給う」)。それゆえ、何かあるたびに思い煩ったり右往左往したりすることから、もうそろそろ卒業しようではありませんか。もし今度そうなりそうになったときには、これまで主がどんなに恵み祝福してくださったか、必要な助けを与えてくださったか、静かに思い起こすことです。そのためにも、毎週の礼拝や日毎の静思の時を大切にしましょう。
繰り返されることは恵みです。自分の弱さを克服して飛躍するチャンスです。あなたの「信仰が大いに成長し…互いに対する愛が増し加わっている」(Ⅱテサロニケ1:3、新改訳2017)ことが何よりの喜びだ、と神から言われるような信仰者に成長させていただきたいものです。

マルコによる福音書8:1~10「忘れっぽい私たち」

2020年11月15日、マルコによる福音書8:1~10「忘れっぽい私たち」
「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない」と言われるイエスに、「こんな荒野で、どこからパンを手に入れて、これらの人々にじゅうぶん食べさせることができましょうか」と弟子たちは答えました。前回同様(6:30~44)、手元にあるわずかなものだけに目を留めて無理だと考える、少しも成長していない弟子たちの姿を通して、あなたも過去の恵みをいとも簡単に忘れ去っているのではないか、と語りかけているのです。
出エジプト後の荒野放浪生活の終わり頃、モーセはイスラエルに「この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」(申命記8:4)、絶えず神の守りがあったことを語りました。御子イエスの十字架の血によって贖い取られた私たちに対しても、神は底抜けに気前の良いお方だったはずです(新聖歌18番2節「主は贖い 成し遂げて 御名に頼る 人びとの 罪はいかに 深くとも 赦し与え 助け給う」)。それゆえ、何かあるたびに思い煩ったり右往左往したりすることから、もうそろそろ卒業しようではありませんか。もし今度そうなりそうになったときには、これまで主がどんなに恵み祝福してくださったか、必要な助けを与えてくださったか、静かに思い起こすことです。そのためにも、毎週の礼拝や日毎の静思の時を大切にしましょう。
繰り返されることは恵みです。自分の弱さを克服して飛躍するチャンスです。あなたの「信仰が大いに成長し…互いに対する愛が増し加わっている」(Ⅱテサロニケ1:3、新改訳2017)ことが何よりの喜びだ、と神から言われるような信仰者に成長させていただきたいものです。

詩篇121:1~8「主はあなたを守る方」

2020年11月8日、詩篇121:1~8「主はあなたを守る方」
巡礼者が目指すエルサレム神殿の方角を望むと、その旅路の困難さを暗示するかのように山々がそびえていました。思わず「わが助けは、どこから来るであろうか」と自問しますが、山々を見る目を少し上げて大空を仰ぐと、創造主への信仰がみなぎり、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」から大丈夫と確信しました(「守る」が6回)。
①主は眠ることなく守られる(3~4節)
真っ暗闇の中、野宿するのは心細い限りですが、主は「まどろむこともなく、眠ることもな」く見張り、野獣や強盗から守ってくださると確信しました。今も主は片時もまどろむことなく、私たちの手を握り締め、足がよろめかないよう守っていてくださいます(新聖歌474番)。
②主は右にいて守られる(5~6節)
主は常に右(保護者の位置)にいて、太陽(熱射病の原因)や月(てんかんや熱病の原因と考えられていた)から守ってくださると確信しました。信仰によってキリストの花嫁とされた私たちは、親鳥が翼で雛を「おおう」ように(新聖歌311番)、「ひとみのように」(詩篇17:8)、主に守られています。
③主はとこしえに守られる(7~8節)
主は出発から帰郷までのすべてを守ってくださると確信しました。罪の奴隷から贖い出された私たちが無事天国にゴールインするまで、信仰の旅路を「今からとこしえに至るまで」守り続けてくださいます。
主日礼拝ごとに心を高く上げて創造主を仰ぎ、過ぎた一週の旅路を主が守ってくださったことを感謝しつつ、新しい一週も必ず「わが助けは、天と地を造られた主から来る」と信じて踏み出しましょう。

詩篇121:1~8「主はあなたを守る方」

2020年11月8日、詩篇121:1~8「主はあなたを守る方」
巡礼者が目指すエルサレム神殿の方角を望むと、その旅路の困難さを暗示するかのように山々がそびえていました。思わず「わが助けは、どこから来るであろうか」と自問しますが、山々を見る目を少し上げて大空を仰ぐと、創造主への信仰がみなぎり、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」から大丈夫と確信しました(「守る」が6回)。
①主は眠ることなく守られる(3~4節)
真っ暗闇の中、野宿するのは心細い限りですが、主は「まどろむこともなく、眠ることもな」く見張り、野獣や強盗から守ってくださると確信しました。今も主は片時もまどろむことなく、私たちの手を握り締め、足がよろめかないよう守っていてくださいます(新聖歌474番)。
②主は右にいて守られる(5~6節)
主は常に右(保護者の位置)にいて、太陽(熱射病の原因)や月(てんかんや熱病の原因と考えられていた)から守ってくださると確信しました。信仰によってキリストの花嫁とされた私たちは、親鳥が翼で雛を「おおう」ように(新聖歌311番)、「ひとみのように」(詩篇17:8)、主に守られています。
③主はとこしえに守られる(7~8節)
主は出発から帰郷までのすべてを守ってくださると確信しました。罪の奴隷から贖い出された私たちが無事天国にゴールインするまで、信仰の旅路を「今からとこしえに至るまで」守り続けてくださいます。
主日礼拝ごとに心を高く上げて創造主を仰ぎ、過ぎた一週の旅路を主が守ってくださったことを感謝しつつ、新しい一週も必ず「わが助けは、天と地を造られた主から来る」と信じて踏み出しましょう。

マルコによる福音書7:31~37「何もかも、すばらしい」

2020年11月1日、マルコによる福音書7:31~37「何もかも、すばらしい」
イエスが「ガリラヤの海べにこられ」ると、「人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いし」ました。するとイエスは、「彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し」ました。耳の聞こえない彼に、癒しを肌で感じさせるためです。神に依り頼んで「天を仰いで」、「ため息をつき(名詞形がローマ8:26「うめき」)」、彼の「うめき」に共感してご自分の「うめき」とされました。そして「『エパタ(開けよ、の意)』と言われ」ました。直接的には耳と口が開くようにということですが、さらに彼の人生が大きく開かれていくようにということでもあるでしょう。その結果、「彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった」のです。
耳があっても神の言葉を聞こうとしない人がいますし(4:12)、口があっても神に祈らない人や感謝しない人がいます。イエスはそんな私たちをも、まず神と心が通い合う者に、さらに人とも心が通い合う者にしたいと願っておられます。そのためにイエスは来臨され、十字架と復活による救いを完成されたのです。イエスは、あなた「ひとりを群衆の中から連れ出し」、心の奥深くを見つめ、心が通い合うのを妨げている根本原因に触れて癒そうとされます。「エパタ…開けよ」「あなたも心の扉を開いて、わたしのもとに来なさい」と呼びかけられます。それに応えてイエスを信じ、イエスに心の耳や口、人生を開いていただくなら、もっと自分らしく、もっと楽々と、もっと天高く、もっと自由に羽ばたく人生を歩めるようになるはずです。

マルコによる福音書7:31~37「何もかも、すばらしい」

2020年11月1日、マルコによる福音書7:31~37「何もかも、すばらしい」
イエスが「ガリラヤの海べにこられ」ると、「人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いし」ました。するとイエスは、「彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し」ました。耳の聞こえない彼に、癒しを肌で感じさせるためです。神に依り頼んで「天を仰いで」、「ため息をつき(名詞形がローマ8:26「うめき」)」、彼の「うめき」に共感してご自分の「うめき」とされました。そして「『エパタ(開けよ、の意)』と言われ」ました。直接的には耳と口が開くようにということですが、さらに彼の人生が大きく開かれていくようにということでもあるでしょう。その結果、「彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった」のです。
耳があっても神の言葉を聞こうとしない人がいますし(4:12)、口があっても神に祈らない人や感謝しない人がいます。イエスはそんな私たちをも、まず神と心が通い合う者に、さらに人とも心が通い合う者にしたいと願っておられます。そのためにイエスは来臨され、十字架と復活による救いを完成されたのです。イエスは、あなた「ひとりを群衆の中から連れ出し」、心の奥深くを見つめ、心が通い合うのを妨げている根本原因に触れて癒そうとされます。「エパタ…開けよ」「あなたも心の扉を開いて、わたしのもとに来なさい」と呼びかけられます。それに応えてイエスを信じ、イエスに心の耳や口、人生を開いていただくなら、もっと自分らしく、もっと楽々と、もっと天高く、もっと自由に羽ばたく人生を歩めるようになるはずです。

伝道の書3:1~15「すべてに時がある」

2020年10月25日、伝道の書3:1~15「すべてに時がある」
「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」。その実例として生死、農業、建築、葬式・結婚式他を挙げています。「時」を正しく捉えられないで失敗することが私たちには多々ありますが、神は違います。神は一つの例外もなく「皆その時にかなって美しい」みわざをなしておられます。ですからコロナ禍も例外ではないはずです。従来の活動ができなくなった今も、決して無駄な時間などではなく、そこからしか得られない恵みもあるはずです。待ち望むことは、神の約束実現に必要不可欠な一つのステップで、「神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるため」です。「神のなされること」を認めようとしなければ、「人間にできないことなどない」と傲慢になるかと思えば、何か意に反することがあると途端に不安になり、希望を失ってしまいます。それゆえ、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と言うのです(12:1)。
神は私たちの目に見えないところで確かに働いて、最善のみわざを進めておられますが、私たちはそれを「見きわめることはでき」ません。まずこの現実を受け入れ、どんなことがあろうとも、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と信じ受け止めることです。今はとても「美しい」とは思えないことでも、「時」を支配しておられる神が、やがて「美しい」と言える状況に変えてくださると信じ期待することです(ローマ8:28)。そしていつまでも悔やんでばかりいないで、「ただ次の一歩、次の一息、次の一掃きだけに心を集中」(ミヒャエル・エンデ著『モモ』)し、今の「時」を「楽しく愉快に過ごす」ことです。