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ヨハネの第一の手紙5:1~5「世に勝つ信仰」

2017年5月28日、ヨハネの第一の手紙5:1~5「世に勝つ信仰」
信仰が本物であるか否かをテストする三つの要素が出てきます。第一は「信仰」(1、4、5節)。「神から生れた者」と認められるのは(ヨハネ3:3)、「すべてイエスのキリストであることを信じる(信じ続ける)者」だけです。第二は「愛」(1、2、3節)。「神から生れた者」は、「生んで下さったかた(神)を愛する(愛し続ける)」と同時に、「そのかたから生れた者(兄弟姉妹)をも愛する(愛し続ける)」はずです。第三は「従順」(2、3節)。「神から生れた者」は、「戒めを守る(守り続ける)」はずです。神を信じ愛して生きる者は、自ずと神に喜ばれる生き方をするようになります。神を愛する愛から出た自発的な行為ですから、決して「むずかしいものではな」く、重荷とはなりません。愛は戒めを軽くします。イエスも「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11:30)と言われました。イエスと「くびき」を共にして二人三脚すれば、イエスが共にくびきを負って下さるので、荷が軽くなるというわけです。
神に敵する「世」は、「肉の欲、目の欲、持ち物の誇」(2:16)をもって私たちを神から引き離そうと誘惑しますが、イエスは十字架と復活によって悪魔との戦いに打ち勝たれたお方です。この「イエスを神の子と信じる(信じ続ける)者」は、イエスの勝利に結び合わされ、「世に勝つ者」とされるのです。世の力は確かに強力ですが、この戦いは初めから勝負がついています。イエスと共に戦うゆえ、私たちの勝利は間違いないのです。「神さま抜きのあなた自身の頑張りや賢さは、サタンからすれば大したことはないのです…そのサタンに負けないためには…心からへりくだり、神さまの御力により頼むことです。神さまを求める者に、サタンは何の手出しもできません」(松本雅弘師)。

ヨハネの第一の手紙4:19~21「偽り者であってはならない」

2017年5月21日、ヨハネの第一の手紙4:19~21「偽り者であってはならない」
「神と交わりをしていると言いながら…やみの中を歩いて(歩き続けて)いるなら…偽っている」(1:6)、「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者」(2:4)と言ってきたヨハネは、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である」とも言います。神の前に「まだ弱かった…不信心な者たち…まだ罪人であった…敵であった」(ローマ5:6~10)私たちを、御子イエスの十字架によって「神がまず…愛して下さったから」、私たちが互いに「愛し合う(愛し合い続ける)」のは当然のことです。それゆえ「神を愛している」と告白しながら、「現に見ている兄弟を愛さない者は」、偽り者であるばかりか、「目に見えない神を愛することはできない」、神さえも本当の意味では愛していない、と言うのです。「見えない神を愛することは」、「見ている兄弟を愛」することで証明されなければならないのです。
厳し過ぎるでしょうか、否、決してそうではありません。「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである」とあるように、聖書の世界ではいつも神の恵みが先行しています。十戒も、「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という神の恵みの自己紹介で始まります(出エジプト記20:1~17)。「本物の愛に触れる時、あなたは自分が自分であることを喜ぶ者へと変えられます。愛の源である神さまに出会う時、人を妬む思い、羨む思い、軽蔑する思いから解放されます。逆に、人を大事にし、良さを認め、評価し、愛する者へと変えられていきます。神さまの恵みの福音にはそうした力があるからです」(松本雅弘師)。本物の愛に触れ、本物の愛に生きましょう。

ヨハネの第一の手紙4:19~21「偽り者であってはならない」

2017年5月21日、ヨハネの第一の手紙4:19~21「偽り者であってはならない」
「神と交わりをしていると言いながら…やみの中を歩いて(歩き続けて)いるなら…偽っている」(1:6)、「『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者」(2:4)と言ってきたヨハネは、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である」とも言います。神の前に「まだ弱かった…不信心な者たち…まだ罪人であった…敵であった」(ローマ5:6~10)私たちを、御子イエスの十字架によって「神がまず…愛して下さったから」、私たちが互いに「愛し合う(愛し合い続ける)」のは当然のことです。それゆえ「神を愛している」と告白しながら、「現に見ている兄弟を愛さない者は」、偽り者であるばかりか、「目に見えない神を愛することはできない」、神さえも本当の意味では愛していない、と言うのです。「見えない神を愛することは」、「見ている兄弟を愛」することで証明されなければならないのです。
厳し過ぎるでしょうか、否、決してそうではありません。「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである」とあるように、聖書の世界ではいつも神の恵みが先行しています。十戒も、「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という神の恵みの自己紹介で始まります(出エジプト記20:1~17)。「本物の愛に触れる時、あなたは自分が自分であることを喜ぶ者へと変えられます。愛の源である神さまに出会う時、人を妬む思い、羨む思い、軽蔑する思いから解放されます。逆に、人を大事にし、良さを認め、評価し、愛する者へと変えられていきます。神さまの恵みの福音にはそうした力があるからです」(松本雅弘師)。本物の愛に触れ、本物の愛に生きましょう。

哀歌3:19~39「主の恵みとあわれみは尽きない」

2017年5月14日、哀歌3:19~39「主の恵みとあわれみは尽きない」
バビロン捕囚となった民の嘆きを絵画的に表現した本書の真ん中に、「しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく…」との希望の表明があります。それはなぜでしょうか。
民がいかに不真実であっても、契約のゆえに神の真実は永遠不変だからです(エレミヤ書31:3)。民の不真実ゆえバビロン捕囚となりはしたものの、神の契約まで反故にされたわけではないこと、「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」ことを信じたからです(「いつくしみ」「あわれみ」「真実」は、契約における神の姿勢を表す重要語)。「神の愛は『だから』の愛ではなく、『にもかかわらず』の愛だ」と言われるとおり、これでも神の民かと言いたくなるような、どこに愛する価値があるのかと思うような民である「にもかかわらず」、一方的に愛さずにはいられないのが神です。この主のご真実を信じたからこそ、希望を失わなかったのです。何もかも失ったけれども「主はわたしの受くべき分」、主こそ最高の財産であること、「主の救を静かに待ち望むことは、良いこと」であり、「主はとこしえにこのような人を捨てられない」ことを確信できたのです。
ヘブル語の「言葉(ダーバル)」には、「事件、出来事」という意味もあります。神が語られた「言葉」は、必ず「出来事」になるからです。これまで神は約束をことごとく実現してこられましたが、その最大の実現が、御子イエスの来臨、十字架と復活による救いです(ルカ22:20、エレミヤ書31:31~34、Ⅱテモテ2:13)。厳しい現実を見つめると失望するだけですが、永遠不変の神の愛と真実と御言葉(ルカ21:33)に信頼して、「主の救を静かに待ち望む」なら、やがて希望は現実となるのです。

イザヤ書46:3~4「持ち運び、かつ救う神」

2017年5月7日、イザヤ書46:3~4「持ち運び、かつ救う神」
①人間が造った神
「ベル」「ネボ」はバビロンの神々、人間が造り出した偶像です。強大な力を誇示していたバビロンもやがて滅び、そのときには今まで頼りにしていたベルやネボがお荷物になり、獣に背負わせて持ち運ばなければならないという預言です(1~2節)。人間が造り出した偶像にはいのちがないので「動くことができない」、祈りに「答えることができない」、「悩みから救うことができない」のです(5~7節、詩篇115:4~8)。
②人間を造られた神
「わたしは造ったゆえ」と言われるように、聖書の「神は天と地とを創造され…自分のかたちに人を創造され」ました(創世記1:1、27)。それゆえ神は私たち一人ひとりをこよなく愛しておられます(イザヤ書43:4)。人間が造った偶像が全く無力で、人間が持ち運ばなければならないのに対して、人間を造られた神は人間を「負い、持ち運び…救う」神です。この神に「生れ出た時から…負われ、胎を出た時から…持ち運ばれた」からこそ、様々な試練を乗り越えることができたのです。
神の命令に背いて禁断の実を取って食べた最初の人アダムとエバ以来、人は皆、生まれながらに罪人で(ローマ5:12)、神から遠く離れた的外れの生き方をしています。そのままでは永遠の滅びですが、愛なる神は御子イエスに全人類の罪を負わせて十字架につけ、罪を悔い改めてイエスを信じる者を滅びから「救う」道を開いて下さいました。人として味わう苦悩や試練をなめ尽くされたイエスは、私たちの苦悩に共感し、人生の重荷を共に負って下さいます(マタイ11:28~29)。「わたしに聞け」と言われる神とその御言葉に聞き従う人は幸いです。

ヨハネの第一の手紙4:17~18「愛には恐れがない」

2017年4月30日、ヨハネの第一の手紙4:17~18「愛には恐れがない」
「恐れ」が3回、「恐れる」が1回出てくるように、私たちは些細なことでもすぐに恐れやすい存在です。「はじめに神は天と地とを創造され…自分のかたちに人を創造され」(創世記1:1、27)、私たちのために最善のご計画をお持ちの神を締め出しているから、迷信や占いに頼り、将来に恐れを抱くのです。私たちをこよなく愛しておられる神を締め出しているから(イザヤ書43:4)、絶えず人と比べ、人の目を恐れるのです。また死後、神のさばきがあることを本能的に知っているから(ヘブル9:27、ローマ6:23)、死を恐れるのです。様々な恐れの原因は、神を締め出して生きる的外れの罪にあり、この罪と滅びから救い出すために御子イエスは降誕され、全人類の罪を背負って十字架上で死んで下さったのです。それゆえ罪を悔い改め、イエスを信じるならば、すべての罪が赦され、罪のためにさばかれることはもはやありません(ローマ8:1)。信仰者にとって、さばきの日は恐るべき日ではなく、神の「愛がわたしたちに全うされ」、完成される日なのです。
救われたとは言え、弱く不完全な存在ですから、罪や過ちを犯すことがあります。だからこそ「父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」(2:1)のです。悪魔は、罪を犯した者を神に中傷・告発しますが、十字架を信じて神に義と認められた以上、もはや誰も「訴える」ことも「罪に定める」こともできません(ローマ8:1、33~34)。私たちの助け主・弁護者キリストは、十字架の血潮を携えて、父なる神にとりなし祈っていて下さるからです。このイエスに時々刻々信頼して歩む者は、示された御言葉を無視したり意図的に罪を犯したりすることなどできないはずです。

ヨハネの第一の手紙4:17~18「愛には恐れがない」

2017年4月30日、ヨハネの第一の手紙4:17~18「愛には恐れがない」
「恐れ」が3回、「恐れる」が1回出てくるように、私たちは些細なことでもすぐに恐れやすい存在です。「はじめに神は天と地とを創造され…自分のかたちに人を創造され」(創世記1:1、27)、私たちのために最善のご計画をお持ちの神を締め出しているから、迷信や占いに頼り、将来に恐れを抱くのです。私たちをこよなく愛しておられる神を締め出しているから(イザヤ書43:4)、絶えず人と比べ、人の目を恐れるのです。また死後、神のさばきがあることを本能的に知っているから(ヘブル9:27、ローマ6:23)、死を恐れるのです。様々な恐れの原因は、神を締め出して生きる的外れの罪にあり、この罪と滅びから救い出すために御子イエスは降誕され、全人類の罪を背負って十字架上で死んで下さったのです。それゆえ罪を悔い改め、イエスを信じるならば、すべての罪が赦され、罪のためにさばかれることはもはやありません(ローマ8:1)。信仰者にとって、さばきの日は恐るべき日ではなく、神の「愛がわたしたちに全うされ」、完成される日なのです。
救われたとは言え、弱く不完全な存在ですから、罪や過ちを犯すことがあります。だからこそ「父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」(2:1)のです。悪魔は、罪を犯した者を神に中傷・告発しますが、十字架を信じて神に義と認められた以上、もはや誰も「訴える」ことも「罪に定める」こともできません(ローマ8:1、33~34)。私たちの助け主・弁護者キリストは、十字架の血潮を携えて、父なる神にとりなし祈っていて下さるからです。このイエスに時々刻々信頼して歩む者は、示された御言葉を無視したり意図的に罪を犯したりすることなどできないはずです。

ヨハネの第一の手紙4:13~16「神の中に私が、私の中に神が」

2017年4月23日、ヨハネの第一の手紙4:13~16「神の中に私が、私の中に神が」
父なる神は、最初の人アダムの堕罪直後、救いのご計画を打ち明けられました(創世記3:15)。そのご計画に基づいて、子なる神キリストは来臨され、十字架と復活によって救いを完成されました。そして聖霊なる神は「罪と義とさばきとについて、世の人の目を開」き(ヨハネ16:8)、「神に対する悔い改めと…主イエスに対する信仰」(使徒20:21)へと導いて救いを適用して下さいます。救いの計画者である父なる神、救いの実行者である子なる神、救いの適用者である聖霊なる神という三位一体の神の働きによって救われた者は、「神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいる」のです。復活のイエスは「父と子と聖霊との名によって(中に、の意)…バプテスマを施し」(マタイ28:19)と言われました。水の中にバケツを沈めると、水の中にバケツがあると同時に、バケツの中に水があるという状態になります。悔い改めと信仰によって救われた者もこれと同様、三位一体の神の中に結合されています。だからこそ続いて「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)と言われたのです。
指導者モーセを支え、後継者ヨシュアを強く雄々しくしたのも神の臨在でした。順境の日も逆境の日も「いつも(直訳「すべての日々に」)」変わらず共にいて、「われらの避け所また力…悩める時のいと近き助け」(詩篇46:1、5)ですから、「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)とパウロは言い、「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ」(詩篇37:23~24、新改訳)と詩人は歌います。「神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいる」とは何と幸いなことでしょう。

ヨハネの第一の手紙4:13~16「神の中に私が、私の中に神が」

2017年4月23日、ヨハネの第一の手紙4:13~16「神の中に私が、私の中に神が」
父なる神は、最初の人アダムの堕罪直後、救いのご計画を打ち明けられました(創世記3:15)。そのご計画に基づいて、子なる神キリストは来臨され、十字架と復活によって救いを完成されました。そして聖霊なる神は「罪と義とさばきとについて、世の人の目を開」き(ヨハネ16:8)、「神に対する悔い改めと…主イエスに対する信仰」(使徒20:21)へと導いて救いを適用して下さいます。救いの計画者である父なる神、救いの実行者である子なる神、救いの適用者である聖霊なる神という三位一体の神の働きによって救われた者は、「神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいる」のです。復活のイエスは「父と子と聖霊との名によって(中に、の意)…バプテスマを施し」(マタイ28:19)と言われました。水の中にバケツを沈めると、水の中にバケツがあると同時に、バケツの中に水があるという状態になります。悔い改めと信仰によって救われた者もこれと同様、三位一体の神の中に結合されています。だからこそ続いて「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)と言われたのです。
指導者モーセを支え、後継者ヨシュアを強く雄々しくしたのも神の臨在でした。順境の日も逆境の日も「いつも(直訳「すべての日々に」)」変わらず共にいて、「われらの避け所また力…悩める時のいと近き助け」(詩篇46:1、5)ですから、「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)とパウロは言い、「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ」(詩篇37:23~24、新改訳)と詩人は歌います。「神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいる」とは何と幸いなことでしょう。

ヨハネによる福音書20:24~31「信じる者になりなさい」

2017年4月16日、ヨハネによる福音書20:24~31「信じる者になりなさい」
弟子たちが復活のイエスに出会った喜びにあふれ、「わたしたちは主にお目にかかった」と口々に語る中、その場にいなかったトマスは、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と仲間の興奮ぶりを嘲笑うかのように言いました。トマスの心中では、復活などとても信じられないという気持ちと、しかしそれがもし本当なら自分も復活のイエスにお会いしたいという気持ちとが相争っていたことでしょう。そんなトマスの胸の内を誰よりもよくご存じのイエスは、再び復活の御姿を現され、真っ先にトマスのところに行かれました。今回はトマスのためだけに現れたと言ってもよいほどでした。一週間前トマスが弟子たちに語った言葉を聞き、疑いも葛藤もすべてご存じのイエスは、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい」と優しく語りかけられました。するとトマスはイエスにさわるまでもなく、「わが主よ、わが神よ」とひざまずきました。
やがてイエスは昇天され、肉眼では見えなくなりましたが、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来る」 (ローマ10:17)、御言葉と御霊によってイエスを「見ないで信ずる」ことができるようにされています。疑いや迷い、悲しみや悔しさで霊の眼が曇りやすい私たちの心をイエスはよくご存じで、そんな私たちをも見捨てず、忍耐強く導き続けて下さいます。この後トマスはインドで福音を宣べ伝え、そこで殉教したと言われています。イエスの十字架と復活を確信した者には、もはや迷いも恐れもないのです。