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マルコによる福音書5:21~24、35~43「ただ信じていなさい」5

2020年3月1日、マルコによる福音書5:21~24、35~43「ただ信じていなさい」
「会堂司のひとりであるヤイロ」が「死にかかってい」る娘のために「おいでになって、手をおいてやってください」とイエスにしきりに懇願すると、その信仰に答えて「イエスは彼と一緒に出かけられ」ました。ヤイロのように必死に祈り求めることを主は待っておられます。ハンナも「主の前に心を注ぎ出して」祈り抜き、やがて「その顔は、もはや悲しげではなくなった」のは、祈りが聞かれたと確信したからです。サムエルが与えられたのは、それからほどなくしてのことです(サムエル記上 第1章)。適当なところで立ち上がるから、いつまでたっても真の勝利が来ないのです。徹底的に祈り抜くことが大切です。
ヤイロの懇願に答えてすぐ出発したものの、「大ぜいの群衆」や長血の女に時間を取られているうちに、娘の死の知らせが届きました。ところが「イエスは…聞き流して(傍らで聞く、無視する、の意)…『恐れることはない(恐れているのを止めなさい、の意)。ただ信じなさい(信じ続けなさい、の意)』」と言われました。イエスは私たちの声をすぐ傍らで聞いておられますが、聞いても益にならない声は無視して聞き流されます。少年ダビデも巨人ゴリアテと戦うとき、人々は「無謀だ」と決めつけましたが、ダビデは「この戦いは主の戦いで」、主が勝利させてくださると確信していました(サムエル記上 第17章)。私たちも日々、世の声に翻弄され、神の御言葉よりも世の常識を優先してしまいそうになります。現実だけを見て、神を見失いそうになります。イエスはそんな弱い私たちに対して、周りの声など無視して聞き流しなさい、「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけておられるのです。

マルコによる福音書5:21~34「信仰のタッチ」

2020年2月23日、マルコによる福音書5:21~34「信仰のタッチ」
①長血の女の苦痛(25~26節)
「十二年間も長血をわずらっている女が…多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費やしてしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方で」、しかも律法によって「汚れた者」とみなされ、社会からも阻害されていました(レビ記15:25~30)。肉体的・経済的・社会的に苦しみ続けた女性でした。
②長血の女の信仰(27~34節)
イエスの評判(3:10)を聞いた彼女は、「せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていた(直訳「言い続けていた」)」、毎日毎日自分に言い聞かせていました。遂に念願のチャンスが到来すると、勇気を振り絞って「群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわ」りました。すると彼女は即刻癒され、「イエスは…自分の内から力が出て行ったことに気づかれ」ました。そして「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」と癒しと赦しの宣言をされました。
群衆は「四方八方から押し迫って…取り巻いて」(詳訳)いる状態で、イエスに触ったのは彼女だけではなかったでしょうが、イエスの「内から力が出て行」くような触り方をしたのは彼女だけでした。群衆の場合は単なる物理的タッチに過ぎなかったのに対して(6:5~6)、彼女の場合は明確な願いに基づく信仰のタッチであったからです(詩篇50:15)。イエスの周りをウロウロするだけでは何の変革も起こりません。明確な願いをもってイエスに近づき、イエスが「さわられた」と感じるような信仰のタッチをしましょう。これこそ信仰者必携の武器です。

マルコによる福音書5:21~34「信仰のタッチ」

2020年2月23日、マルコによる福音書5:21~34「信仰のタッチ」
①長血の女の苦痛(25~26節)
「十二年間も長血をわずらっている女が…多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費やしてしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方で」、しかも律法によって「汚れた者」とみなされ、社会からも阻害されていました(レビ記15:25~30)。肉体的・経済的・社会的に苦しみ続けた女性でした。
②長血の女の信仰(27~34節)
イエスの評判(3:10)を聞いた彼女は、「せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていた(直訳「言い続けていた」)」、毎日毎日自分に言い聞かせていました。遂に念願のチャンスが到来すると、勇気を振り絞って「群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわ」りました。すると彼女は即刻癒され、「イエスは…自分の内から力が出て行ったことに気づかれ」ました。そして「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」と癒しと赦しの宣言をされました。
群衆は「四方八方から押し迫って…取り巻いて」(詳訳)いる状態で、イエスに触ったのは彼女だけではなかったでしょうが、イエスの「内から力が出て行」くような触り方をしたのは彼女だけでした。群衆の場合は単なる物理的タッチに過ぎなかったのに対して(6:5~6)、彼女の場合は明確な願いに基づく信仰のタッチであったからです(詩篇50:15)。イエスの周りをウロウロするだけでは何の変革も起こりません。明確な願いをもってイエスに近づき、イエスが「さわられた」と感じるような信仰のタッチをしましょう。これこそ信仰者必携の武器です。

マルコによる福音書5:1~20「あなたの家族のもとに帰って」

2020年2月16日、マルコによる福音書5:1~20「あなたの家族のもとに帰って」
「悪霊につかれた人」が回復されると、「お供をしたいと願い出」ました。「しかし、イエスはお許しにならないで」、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」とお命じになりました。それは、異邦の町ゆえ誤ったメシヤ観が広まる恐れがなかったため(⇔1:44)、長年心配かけた家族に責任を果たさせるためでしょう。彼は「ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ」ました。
この私を愛し、十字架上で死んで復活された御子イエスを信じて救われているならば、「主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか」、喜びと感謝にあふれて人々に証しするはずではないでしょうか。しかし今のあなたを神がご覧になったとき、「あなたは初めの愛から離れてしまった…冷たくもなく、熱くもない」(黙示録2:4、3:15)と言われないでしょうか。「どこから落ちたかを思い起し」(黙示録2:5)、「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみ」(イザヤ書51:1)るべきではありませんか。「伝道の本質は、伝えたいと願っているその人への愛です。あなたが伝えたい人が、あなたの大切な家族であったり、恋人であったり、友達であったりするならば、その人が福音を知らないまま、生きていくことを『まあ、いいか』と終わらせたりできないでしょう…愛するとは、諦めないことです…大切なことは、信じていることにあなたがまず感動をしていることです。そのためにはあなたが口にした福音そのものを、しっかり味わうことです」(大嶋重徳師)。

マルコによる福音書5:1~20「あなたの家族のもとに帰って」

2020年2月16日、マルコによる福音書5:1~20「あなたの家族のもとに帰って」
「悪霊につかれた人」が回復されると、「お供をしたいと願い出」ました。「しかし、イエスはお許しにならないで」、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」とお命じになりました。それは、異邦の町ゆえ誤ったメシヤ観が広まる恐れがなかったため(⇔1:44)、長年心配かけた家族に責任を果たさせるためでしょう。彼は「ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ」ました。
この私を愛し、十字架上で死んで復活された御子イエスを信じて救われているならば、「主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか」、喜びと感謝にあふれて人々に証しするはずではないでしょうか。しかし今のあなたを神がご覧になったとき、「あなたは初めの愛から離れてしまった…冷たくもなく、熱くもない」(黙示録2:4、3:15)と言われないでしょうか。「どこから落ちたかを思い起し」(黙示録2:5)、「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみ」(イザヤ書51:1)るべきではありませんか。「伝道の本質は、伝えたいと願っているその人への愛です。あなたが伝えたい人が、あなたの大切な家族であったり、恋人であったり、友達であったりするならば、その人が福音を知らないまま、生きていくことを『まあ、いいか』と終わらせたりできないでしょう…愛するとは、諦めないことです…大切なことは、信じていることにあなたがまず感動をしていることです。そのためにはあなたが口にした福音そのものを、しっかり味わうことです」(大嶋重徳師)。

マルコによる福音書5:1~20「墓場の人生からの回復」

2020年2月9日、マルコによる福音書5:1~20「墓場の人生からの回復」
「激しい突風」のガリラヤ湖を渡り(4:35~41)、「向こう岸、ゲラサ人の地に着」くと、「けがれた霊につかれた人が墓場から出てき」ました。「墓場をすみかと」する、孤独で希望のない人。「もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けな」い、凶暴な人。「夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけ」る、自制心を失った人。「石で自分のからだを傷つけ」る、自分自身を受け入れ愛することができずに憎む人。これは、神のもとを離れ、自己中心に生きている罪人の姿でもあります。
地元カペナウムでは「大ぜいの群衆」がイエスを捜し求めていましたが(21節)、「けがれた霊につかれた人」を回復するために、1匹の迷子の羊を捜し出して救うためだけに(ルカ15:4~7)、イエスは大嵐のガリラヤ湖を渡られたのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43:4)、私たち一人ひとりも神にとってかけがえのない大切な存在です。神に造られ生かされていながら、神から迷い出てしまい、本来持っている価値を失い、力を十分発揮できずにいる私たち人間を、悪魔の支配から解放し、本来の姿に回復するために、イエスは来臨され、十字架と復活による救いを成し遂げてくださったのです。
「けがれた霊につかれた人」が救われるために、豚2千匹が犠牲になりました。私たち罪人を救うために神の御子イエスは、「がけから海へなだれを打って駆け下」ったどころか、十字架上で死んで黄泉にまで下られました。御子イエスを犠牲にしてでも少しも惜しくない、それほどあなたは「高価で尊い」存在なのです。だから神はあなたをも何とか回復したい、健全になってほしいと願っておられるのです。

マルコによる福音書5:1~20「墓場の人生からの回復」

2020年2月9日、マルコによる福音書5:1~20「墓場の人生からの回復」
「激しい突風」のガリラヤ湖を渡り(4:35~41)、「向こう岸、ゲラサ人の地に着」くと、「けがれた霊につかれた人が墓場から出てき」ました。「墓場をすみかと」する、孤独で希望のない人。「もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けな」い、凶暴な人。「夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけ」る、自制心を失った人。「石で自分のからだを傷つけ」る、自分自身を受け入れ愛することができずに憎む人。これは、神のもとを離れ、自己中心に生きている罪人の姿でもあります。
地元カペナウムでは「大ぜいの群衆」がイエスを捜し求めていましたが(21節)、「けがれた霊につかれた人」を回復するために、1匹の迷子の羊を捜し出して救うためだけに(ルカ15:4~7)、イエスは大嵐のガリラヤ湖を渡られたのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43:4)、私たち一人ひとりも神にとってかけがえのない大切な存在です。神に造られ生かされていながら、神から迷い出てしまい、本来持っている価値を失い、力を十分発揮できずにいる私たち人間を、悪魔の支配から解放し、本来の姿に回復するために、イエスは来臨され、十字架と復活による救いを成し遂げてくださったのです。
「けがれた霊につかれた人」が救われるために、豚2千匹が犠牲になりました。私たち罪人を救うために神の御子イエスは、「がけから海へなだれを打って駆け下」ったどころか、十字架上で死んで黄泉にまで下られました。御子イエスを犠牲にしてでも少しも惜しくない、それほどあなたは「高価で尊い」存在なのです。だから神はあなたをも何とか回復したい、健全になってほしいと願っておられるのです。

マタイによる福音書25:14~30「良い忠実な僕よ、よくやった」

2020年2月2日、マタイによる福音書25:14~30「良い忠実な僕よ、よくやった」
①タラントの委託
主人が僕に財産を預けたように、主は各人にタラント(賜物)を託しておられます。その分量は千差万別ですが、最少の者でも一タラント(約6千万円)ですから、決して少なくはありません。主の愛のご配慮により「それぞれの能力に応じて」ちょうど良い具合に配分されているのですから、他人と比較せず、自分の賜物を感謝して受入れましょう。
②タラントの活用
五タラントと二タラントの僕は商売をして儲けを得、どちらも二倍にしました。一方、一タラントの僕は、主人への反感や不満から冷淡で消極的な姿勢をとり、ただ地中に隠しただけでした。結局、賜物を忠実に活用するか否かは、十字架によって罪赦され、主の僕とされていることをどれだけ感謝し、喜んでいるかにかかっています。
③タラントの清算
主人が帰ってくると僕たちは結果報告し、五タラントと二タラントの僕は「良い忠実な僕よ」と称賛されましたが、一タラントの僕は外の暗闇に追い出されました。キリスト再臨後、私たちも決算報告を求められます。その際、成果の大小ではなく、賜物をどれだけ忠実に活用したかによって評価されます。「神様は『恵みはあなたの上に十分だ』と仰っているのです。問題は賜物がないと決めつけているあなた自身です。その理由は、賜物を才能と勘違いしていることです。賜物とは神様からのたまわりもので…時間、機会、関心をも磨いて、神様にお役に立つ生涯を歩んでほしいと思います」(大嶋重徳師)。

サムエル記上17:31~49「神による自信と勝利」

2019年1月19日、サムエル記上17:31~49「神による自信と勝利」
①生ける神への信仰
巨人ゴリアテがペリシテ軍の代表として戦いを挑んでくると、サウル王をはじめイスラエル軍は「避けて逃げ、ひじょうに恐れた」のに対して、少年ダビデ(15歳前後)は聖なる憤りを覚え、サウルに「しもべが…戦いましょう」と申し出ました。するとサウルは無謀だと決めつけますが、ダビデはあくまでも勝利を確信してやみませんでした。
サウルもイスラエル軍も神を信じていたはずですが、現実に巨人ゴリアテを目の当たりにすると、信仰を働かせるよりも世の常識を働かせて、勝ち目なしと決め込んだのです。一方のダビデは自分の無力さを認識しつつも、世の常識を働かせるよりも「生ける神」「万軍の主…イスラエルの軍の神」への信仰を働かせました。羊飼いとして羊を猛獣から守るために戦った際、主は共にいて勝たせてくださったように、「この戦いは主の戦いであって」、ゴリアテとの戦いにおいても主は勝利させてくださるに違いないと確信していたのです。
②使い慣れた武器
ゴリアテと戦うためにダビデはサウルの武具を着せられましたが、大き過ぎた上に不慣れでした。そこで武具を脱ぎ捨て、使い慣れた石投げと石を手に戦いに臨み、見事一発でゴリアテを倒しました。
私たちも自分の手にある「武器」・賜物を活用しましょう。賜物は様々ですが、共通の「武器」があります。御言葉と祈りです(エペソ6:17~18)。普段の御言葉と祈りの積み重ねによって使い慣れた武器となっているならば、いざという時の底力となること間違いなしです。

ルツ記1:1~22「なぜなら全能者が私を」

2020年1月12日、ルツ記1:1~22「なぜなら全能者が私を」
飢饉のため、ナオミは夫と二人の息子と共にベツレヘムからモアブに移住しました。しばらくして夫は死に、息子たちはモアブの女性オルパとルツと結婚しますが、やがて息子たちも死にました。飢饉の終わりを耳にして帰郷するナオミは、嫁たちをモアブに留まらせようとしますが、ルツだけは聞き入れませんでした。モアブの偶像に囲まれ育ったルツですが、ナオミ一家が信じている真の神信仰へと導かれていたからです。もしナオミが度重なる試練の中で神を呪い、不平不満でいっぱいの毎日を送っていたなら、ルツがナオミと行動を共にしたかどうかはなはだ疑問です。ナオミの日々の信仰生活は、異邦の嫁ルツに「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です」と証しされるほど麗しいものだったのでしょう。「あなたの神はわたしの神です」と証しされていますか、それとも「神の御名は、あなたがたのゆえに…汚されている」(ローマ2:24)でしょうか。
「全能者がわたしをひどく苦しめられた」とナオミは言いましたが、これは神を恨んだ言葉などではなく、神の主権を認めた言葉です。全能者の前に「アブラムは、ひれ伏した」(創世記17:3)結果、「アブラム」から「アブラハム」に改名され、約束の子イサクが与えられました。「ナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください」と言うナオミは、それでもなお神の主権を認め、神の愛を信じたのです。そのナオミの家系からダビデが生まれ、さらに御子イエスが降誕するという驚くべき祝福にあずかることになります。試練や苦難の中でこそ、「全能者がわたしを」という視点を忘れないようにしましょう。