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コリント人への第一の手紙15:12~20「しかし事実、キリストは復活された」

2017年9月24日、コリント人への第一の手紙15:12~20「しかし事実、キリストは復活された」
コリント教会内に「死者の復活などはないと言っている」教会員がいたので、パウロは本章を記しました(1~11節はキリストの復活の歴史的事実について、12~19節はキリストの復活を否定するとどうなるかについて)。「キリストが…わたしたちの罪のために死んだこと…葬られたこと…三日目によみがえったこと」は、「聖書に書いてあるとおり」の神の救いのご計画の実現で、復活の目撃者の「大多数はいまなお生存している(パウロもその一人)」という事実はキリスト復活の確かな証拠です(3~8節)。
もし復活がなければ、私たちの「信仰は空虚なものとなり…いまなお罪の中にいることにな」り、「最もあわれむべき存在とな」ります。「宣教はむなしく…神にそむく偽証人にさえな」ります。「しかし事実、キリストは…死人の中からよみがえった」ゆえ、私たちの信仰も宣教も空しくないのです。復活は、キリストが罪と死に勝利されたことの何よりの証拠で、復活があってこそ十字架の贖いは効力を発揮し、信じる者を義とすることができるのです。十字架なくして復活の意味はなく、復活なくして十字架は完成しません。十字架と復活はコインの裏表のように切っても切れない関係にあり、福音の中心です。福音とは「十字架と復活による救い」と言えるでしょう(ローマ4:25)。
キリストの復活は、「眠っている者(=キリストを信じて死んだ人々)」がやがて復活し、天国で永遠に生きることの「初穂」、前兆でもあります。人類最大の敵は死で、誰も打ち勝てません。しかし十字架と復活を境にして、死はもはや呪われたものでも人生最大の敵でもなく、天国に続く希望のトンネルとなりました。先に召された聖徒たちもこの希望を抱きつつ召天し、天国での再会を待ちわびているのです。

詩篇100:1~5「喜びをもって御前に来たれ」

2017年9月17日、詩篇100:1~5「喜びをもって御前に来たれ」
詩人は「全地」に向かって「喜びをもって…歌いつつ…感謝しつつ…ほめたたえつつ」神を礼拝するよう招いています。それはなぜか。
①主は神であるから(1~3節)
聖書中、神の民はしばしば「羊」にたとえられ、中でも特に迷い出た羊として描かれています。「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)人間に真の神を教え、神のもとに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。この私を愛し、罪を贖うために死なれた十字架のイエスを仰ぎ見るとき、「われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」と告白し、心から喜んで礼拝することでしょう。
②主は恵み深いから(4~5節)
「恵み…いつくしみ…まこと」は、契約における神の姿勢を表す重要語です。本篇は、バビロン捕囚から帰還後、神殿を再建・奉献したときに歌われた詩であろうと言われています。そのときイスラエルはきっと思ったことでしょう。主はよくぞこんな羊をも見捨てず、「恵み…いつくしみ…まこと」の限りを尽くして導き続けて下さった、と。すると自ずから喜びと感謝にあふれて礼拝したに違いありません。
イスラエル同様、主に度々背いてきた私たちが今なお礼拝の民とされており、これまで「耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さ」いました(Ⅱテモテ2:13、Ⅰコリント10:13)。すべては主の「恵み…いつくしみ…まこと」以外の何ものでもないことを思うとき、毎週毎日、喜びに満たされて主を礼拝せずにはいられないはずです。

詩篇100:1~5「喜びをもって御前に来たれ」

2017年9月17日、詩篇100:1~5「喜びをもって御前に来たれ」
詩人は「全地」に向かって「喜びをもって…歌いつつ…感謝しつつ…ほめたたえつつ」神を礼拝するよう招いています。それはなぜか。
①主は神であるから(1~3節)
聖書中、神の民はしばしば「羊」にたとえられ、中でも特に迷い出た羊として描かれています。「羊のように迷って、vetements スーパーコピーおのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)人間に真の神を教え、神のもとに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。この私を愛し、罪を贖うために死なれた十字架のイエスを仰ぎ見るとき、「われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」と告白し、心から喜んで礼拝することでしょう。
②主は恵み深いから(4~5節)
「恵み…いつくしみ…まこと」は、契約における神の姿勢を表す重要語です。本篇は、バビロン捕囚から帰還後、神殿を再建・奉献したときに歌われた詩であろうと言われています。ハリウッド映画 腕時計そのときイスラエルはきっと思ったことでしょう。主はよくぞこんな羊をも見捨てず、「恵み…いつくしみ…まこと」の限りを尽くして導き続けて下さった、と。すると自ずから喜びと感謝にあふれて礼拝したに違いありません。
イスラエル同様、主に度々背いてきた私たちが今なお礼拝の民とされており、これまで「耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さ」いました(Ⅱテモテ2:13、Ⅰコリント10:13)。すべては主の「恵み…いつくしみ…まこと」以外の何ものでもないことを思うとき、毎週毎日、喜びに満たされて主を礼拝せずにはいられないはずです。

使徒行伝17:22~31「知られない神ではなく」

2017年9月10日、使徒行伝17:22~31「知られない神ではなく」
①万物を造った神(24~26節)
「この世界と、その中にある万物とを造った神」こそ真に拝むべきお方です。この神は、偶像のように人に造られ、人に支えられる必要がありません。永遠の初めから永遠の終わりまで、ただご自身のみによって存在され、「何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要も」ありません。むしろ「すべての人々に命と息と万物とを与え」、万物を保持し、歴史を支配しておられるお方です。
②人間と係わる神(27~29節)
このように偉大な「天地の主」ですが、はるか遠く彼方におられるお方ではありません。被造物や歴史を通して、さらには聖書と御子イエスを通して、「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば…見いだせる」ほど近くにおられるお方です(ローマ1:20、詩篇19:1)。それゆえ「知られない神」などではなく、知ろうと思えば十分に「知り得る神」なのです。そしてこの神は私たちと深く係わり、その顧みは一人の人間、一羽のすずめ、果ては一本の髪の毛にまで及んでいます(ルカ12:6~7)。
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③世界をさばく神(30~31節)
「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされて」いましたが、聖書と御子イエスを通して決定的に啓示された以上、もはや弁解の余地はありません(ローマ1:19~20)。「みな悔い改めなければ」、「義をもってこの世界をさばく」神にさばかれ、永遠の滅びを迎えます(ヘブル9:27、ローマ6:23)。しかし愛なる神は、イエスの十字架と復活によって、「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰」によって救われる道を完成して下さったのです(使徒20:21)。

ヨハネの第一の手紙5:20「私たちの確信―御子の来臨」

2017年8月20日、ヨハネの第一の手紙5:20「私たちの確信―御子の来臨」
キリスト者の第五の確信は、「神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さった」ということです。永遠の初めから神と共に天におられたキリストが、「言は肉体となり、バレンシアガ 財布コピーわたしたちのうちに宿った」(ヨハネ1:14)、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの…わたしたちに現れた」(1:1)とあるように、私たちと同じ人の姿をとって来臨されました。それは、目に見えない神がどのようなお方であるかを表すためであり(ヨハネ1:18)、キリストは今もその生涯と人格、説教と奇跡を通して私たちに語りかけておられます(ヘブル1:1)。神が人となられただけでも想像を絶することであるのに、何と罪の全くないキリストが「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として」(4:10)十字架につけられて死なれたのです。
私たちがこの真理に目が開かれ信じることができるのは、「神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さった」からに他なりません。そうして十字架を信じる者は「永遠のいのち」を得、「真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおる」、「神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいる」(4:15)のです。復活のイエスは「父と子と聖霊との名によって(中に、の意)…バプテスマを施し」(マタイ28:19)と言われました。悔い改めと信仰によって救われた者は、三位一体の神の中に結合されています。だから「見よ、バレンシアガ コート スーパーコピーわたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言われたのです。
「神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている(知り続けている)」。神の恵みがいかに広く長く高く深いものであるか、生涯かけて味わい知り続けていきましょう。

ヨハネの第一の手紙5:20「私たちの確信―御子の来臨」

2017年8月20日、ヨハネの第一の手紙5:20「私たちの確信―御子の来臨」
キリスト者の第五の確信は、「神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さった」ということです。永遠の初めから神と共に天におられたキリストが、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ1:14)、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの…わたしたちに現れた」(1:1)とあるように、私たちと同じ人の姿をとって来臨されました。それは、目に見えない神がどのようなお方であるかを表すためであり(ヨハネ1:18)、キリストは今もその生涯と人格、説教と奇跡を通して私たちに語りかけておられます(ヘブル1:1)。神が人となられただけでも想像を絶することであるのに、何と罪の全くないキリストが「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として」(4:10)十字架につけられて死なれたのです。
私たちがこの真理に目が開かれ信じることができるのは、「神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さった」からに他なりません。そうして十字架を信じる者は「永遠のいのち」を得、「真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおる」、「神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいる」(4:15)のです。復活のイエスは「父と子と聖霊との名によって(中に、の意)…バプテスマを施し」(マタイ28:19)と言われました。悔い改めと信仰によって救われた者は、三位一体の神の中に結合されています。だから「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言われたのです。
「神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている(知り続けている)」。神の恵みがいかに広く長く高く深いものであるか、生涯かけて味わい知り続けていきましょう。

ヨハネの第一の手紙5:19「私たちの確信―神に属する者」

2017年8月13日、ヨハネの第一の手紙5:19「私たちの確信―神に属する者」
キリスト者の第四の確信は、「わたしたちは神から出た者(新共同訳「神に属する者」)」だということです。しかし以前は「悪しき者(悪魔)の配下に(~の中に横たわっている、の意)」あり、「自分の罪過と罪とによって死んでいた者」(エペソ2:1)でした。放蕩息子が戻って来たとき、父が「このむすこが死んでいたのに生き返り」(ルカ15:24)と言ったように、肉体的には生きていても霊的には死んでいました。そのため「生れながらの怒りの子で」(エペソ2:3)、神の怒りを受けて永遠の滅びを刈り取るべき者でした(ヘブル9:27、ローマ6:23)。「しかるに、あわれみに富む神は」(エペソ2:4)御子イエスの十字架と復活によって救いを完成され、「恵みにより、信仰によ」って(エペソ2:8)「神から生れ」(18節)、「神に属する者」として下さいました。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」(哀歌3:22、新改訳)とあるように、「主の恵み…主のあわれみ」以外の何ものでもありません。
「良いわざに熱心な選びの民(文語訳「特選の民」)」らしく「良い行いをして日を過ごす」ことにより、私たちの作者・造り主である神がいかにすばらしいお方であるかが人々に明らかにされることを神は望んでおられるのです(エペソ2:10、テトス2:14)。私たちはこの世の基準からすれば、特選どころか、佳作や入選にさえ選ばれるかどうかわからない、まさに「無きに等しい者」(Ⅰコリント1:28)です。そんな私たちのために「キリストが…ご自身をささげられた」というのですから、何と驚くべきことか。それほど神は私たちを「高価で尊い」存在とみなしておられ、期待されているということです。それゆえ「神に属する者」「特選の民」という身分を忘れて、神の御名を汚してはなりません。

ヨハネの第一の手紙5:19「私たちの確信―神に属する者」

2017年8月13日、ヨハネの第一の手紙5:19「私たちの確信―神に属する者」
キリスト者の第四の確信は、「わたしたちは神から出た者(新共同訳「神に属する者」)」だということです。しかし以前は「悪しき者(悪魔)の配下に(~の中に横たわっている、の意)」あり、「自分の罪過と罪とによって死んでいた者」(エペソ2:1)でした。放蕩息子が戻って来たとき、父が「このむすこが死んでいたのに生き返り」(ルカ15:24)と言ったように、肉体的には生きていても霊的には死んでいました。そのため「生れながらの怒りの子で」(エペソ2:3)、神の怒りを受けて永遠の滅びを刈り取るべき者でした(ヘブル9:27、ローマ6:23)。「しかるに、あわれみに富む神は」(エペソ2:4)御子イエスの十字架と復活によって救いを完成され、「恵みにより、信仰によ」って(エペソ2:8)「神から生れ」(18節)、「神に属する者」として下さいました。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」(哀歌3:22、新改訳)とあるように、「主の恵み…主のあわれみ」以外の何ものでもありません。
「良いわざに熱心な選びの民(文語訳「特選の民」)」らしく「良い行いをして日を過ごす」ことにより、私たちの作者・造り主である神がいかにすばらしいお方であるかが人々に明らかにされることを神は望んでおられるのです(エペソ2:10、テトス2:14)。私たちはこの世の基準からすれば、特選どころか、佳作や入選にさえ選ばれるかどうかわからない、まさに「無きに等しい者」(Ⅰコリント1:28)です。そんな私たちのために「キリストが…ご自身をささげられた」というのですから、何と驚くべきことか。それほど神は私たちを「高価で尊い」存在とみなしておられ、期待されているということです。それゆえ「神に属する者」「特選の民」という身分を忘れて、神の御名を汚してはなりません。

ヨハネの第一の手紙5:18「私たちの確信―罪の中に生きない」

2017年7月30日、ヨハネの第一の手紙5:18「私たちの確信―罪の中に生きない」
キリスト者の第三の確信は、「すべて神から生れた者は罪を犯さない(新改訳「罪の中に生きない」」ことで、その理由が二つ記されています。
①神から生まれたゆえ
不完全さゆえの罪や失敗はありますが、平気で習慣的に罪を犯し続けることなどもはやできないのがキリスト者です。罪を悔い改めて十字架を信じることによって(使徒行伝20:21)、「神から生れた者」、「新しく(上から、新たに、の意)生れ」(ヨハネ3:3)た者には、「神の種(神の御言葉、神の御霊、神の性質)が、その人のうちにとどまっているから」(3:9)です。
②キリストの守りゆえ
「悪しき者(悪魔)」は「ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回って」(Ⅰペテロ5:8)、神に従って歩もうとする者に戦いを挑んできます。キリストに対しても、神の救いのご計画を台無しにしようとして、公生涯の最初から最後まで執拗に誘惑し続けました(マタイ4:1~11、16:21~23、27:39~44他)。この悪魔の手ごわさをよくご存じのイエスは、十字架前夜、「御名によって彼らを守って下さい…彼らを悪しき者から守って下さる」(ヨハネ17:11、15)ように、と祈られました。羊飼いは夕方、羊を家の中庭に造られた「羊の囲い」に連れ帰り、「門番」が一晩中警備し、ときには羊飼い自身が門に身を横たえて休み、狼や羊泥棒から守りました(ヨハネ10:1~18)。このようにキリストが体を張って時々刻々「守っていて下さるので、悪しき者が手を触れる(害を与えるためにしっかりつかむ、の意)ようなことはない」と信じて、キリストに信頼して歩むならば、「救にあずかるために、信仰により神の御力に守られている」(Ⅰペテロ1:5)ということが実現するのです。

ヨハネの第一の手紙5:18「私たちの確信―罪の中に生きない」

2017年7月30日、ヨハネの第一の手紙5:18「私たちの確信―罪の中に生きない」
キリスト者の第三の確信は、「すべて神から生れた者は罪を犯さない(新改訳「罪の中に生きない」」ことで、その理由が二つ記されています。
①神から生まれたゆえ
不完全さゆえの罪や失敗はありますが、平気で習慣的に罪を犯し続けることなどもはやできないのがキリスト者です。罪を悔い改めて十字架を信じることによって(使徒行伝20:21)、「神から生れた者」、「新しく(上から、新たに、の意)生れ」(ヨハネ3:3)た者には、「神の種(神の御言葉、神の御霊、神の性質)が、その人のうちにとどまっているから」(3:9)です。
②キリストの守りゆえ
「悪しき者(悪魔)」は「ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回って」(Ⅰペテロ5:8)、神に従って歩もうとする者に戦いを挑んできます。キリストに対しても、神の救いのご計画を台無しにしようとして、公生涯の最初から最後まで執拗に誘惑し続けました(マタイ4:1~11、16:21~23、27:39~44他)。この悪魔の手ごわさをよくご存じのイエスは、十字架前夜、「御名によって彼らを守って下さい…彼らを悪しき者から守って下さる」(ヨハネ17:11、15)ように、と祈られました。羊飼いは夕方、羊を家の中庭に造られた「羊の囲い」に連れ帰り、「門番」が一晩中警備し、ときには羊飼い自身が門に身を横たえて休み、狼や羊泥棒から守りました(ヨハネ10:1~18)。このようにキリストが体を張って時々刻々「守っていて下さるので、悪しき者が手を触れる(害を与えるためにしっかりつかむ、の意)ようなことはない」と信じて、キリストに信頼して歩むならば、「救にあずかるために、信仰により神の御力に守られている」(Ⅰペテロ1:5)ということが実現するのです。