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マルコによる福音書1:12~13「イエスも誘惑にあわれた」

2019年2月10日、マルコによる福音書1:12~13「イエスも誘惑にあわれた」
①誘惑の時期
イエスの受洗のときに注がれた御霊が、今度は強制的に「イエスを荒野に追いや」りました。するとそこにサタンの誘惑が待っていました。天から聖霊が下り、神の御声が臨んだ直後、いわば霊的に高められ引き上げられた直後のことでした。順境のときこそ要注意です。
②誘惑の本質
十字架による救いを何とか阻止しようと、サタンはイエスを三度誘惑しました。本質は同じで、自分を第一に考えて、神を隅っこに追いやることです(マタイ4:1~11)。そして今もサタンは、イエスを信じて生きようとする者に対して、あの手この手を使って戦いを挑み、御言葉の約束を疑わせ、神を隅っこに追いやらせようとしています。
③誘惑の撃退
イエスは、サタンの誘惑を神の御言葉によって退けられましたが(申命記8:3、6:16、13)、ただ一人で戦われたのではありません。「天使たち」と父なる神の守りがあったからこそ、獣に襲われることなく「四十日のあいだ荒野にいて」、誘惑に勝利できたのです。サタンは一時的に離れ去りましたが、十字架による救いを台無しにしようと、最後の最後まで執拗に誘惑してきました。このサタンの手ごわさを誰よりもよくご存じのイエスは、「わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい」(ヨハネ17:11)と今も祈っておられます。誘惑にあわれ、誘惑に勝利されたイエスだからこそ、私たちの弱さや苦悩に共感でき、的確な助けの手を差し伸べることができるのです(ヘブル4:15、2:18)。

マルコによる福音書1:12~13「イエスも誘惑にあわれた」

2019年2月10日、マルコによる福音書1:12~13「イエスも誘惑にあわれた」
①誘惑の時期
イエスの受洗のときに注がれた御霊が、今度は強制的に「イエスを荒野に追いや」りました。するとそこにサタンの誘惑が待っていました。天から聖霊が下り、神の御声が臨んだ直後、いわば霊的に高められ引き上げられた直後のことでした。順境のときこそ要注意です。
②誘惑の本質
十字架による救いを何とか阻止しようと、サタンはイエスを三度誘惑しました。本質は同じで、自分を第一に考えて、神を隅っこに追いやることです(マタイ4:1~11)。そして今もサタンは、イエスを信じて生きようとする者に対して、あの手この手を使って戦いを挑み、御言葉の約束を疑わせ、神を隅っこに追いやらせようとしています。
③誘惑の撃退
イエスは、サタンの誘惑を神の御言葉によって退けられましたが(申命記8:3、6:16、13)、ただ一人で戦われたのではありません。「天使たち」と父なる神の守りがあったからこそ、獣に襲われることなく「四十日のあいだ荒野にいて」、誘惑に勝利できたのです。サタンは一時的に離れ去りましたが、十字架による救いを台無しにしようと、最後の最後まで執拗に誘惑してきました。このサタンの手ごわさを誰よりもよくご存じのイエスは、「わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい」(ヨハネ17:11)と今も祈っておられます。誘惑にあわれ、誘惑に勝利されたイエスだからこそ、私たちの弱さや苦悩に共感でき、的確な助けの手を差し伸べることができるのです(ヘブル4:15、2:18)。

詩篇121:1~8「うつむかないで目を上げよう」

2019年2月3日、詩篇121:1~8「うつむかないで目を上げよう」
巡礼者が目指すエルサレム神殿の方角を望むと、その旅路の困難さを暗示するかのように山々がそびえていました。思わず「わが助けは、どこから来るであろうか」と自問しますが、山々を見る目を少し上げて大空を仰ぐと、創造主への信仰がみなぎり、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」から大丈夫と確信しました(「守る」が6回)。
①主は眠ることなく守られるから(3~4節)
真っ暗闇の中、野宿するのは心細い限りですが、主は「まどろむこともなく、眠ることもな」く見張りして、野獣や強盗から守って下さると確信しました。今も主は片時もまどろむことなく、私たちの手を握り締め、足がよろめかないよう守っていて下さいます(新聖歌474番)。
②主は右にいて守られるから(5~6節)
主は常に右(保護者の位置)にいて、太陽(熱射病の原因)や月(てんかんや熱病の原因と当時考えられていた)から守って下さると確信しました。信仰によってキリストの花嫁とされた私たちを、親鳥が翼を広げて雛を守るように、全責任と細心の注意をもって守っていて下さいます(詩篇17:8)。
③主はとこしえに守られるから(7~8節)
主は出発から帰郷までのすべてを守って下さると確信しました。罪の奴隷から贖い出された私たちが無事天国にゴールインするまで、信仰の旅路を「今からとこしえに至るまで」守り続けて下さいます。
主日礼拝ごとに心を高く上げて天を仰ぎ、過ぎた一週間の旅路を絶えず主が守って下さったことを感謝しつつ、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」と信じて、新しい一週間を踏み出しましょう。

詩篇121:1~8「うつむかないで目を上げよう」

2019年2月3日、詩篇121:1~8「うつむかないで目を上げよう」
巡礼者が目指すエルサレム神殿の方角を望むと、その旅路の困難さを暗示するかのように山々がそびえていました。思わず「わが助けは、どこから来るであろうか」と自問しますが、山々を見る目を少し上げて大空を仰ぐと、創造主への信仰がみなぎり、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」から大丈夫と確信しました(「守る」が6回)。
①主は眠ることなく守られるから(3~4節)
真っ暗闇の中、野宿するのは心細い限りですが、主は「まどろむこともなく、眠ることもな」く見張りして、野獣や強盗から守って下さると確信しました。今も主は片時もまどろむことなく、私たちの手を握り締め、足がよろめかないよう守っていて下さいます(新聖歌474番)。
②主は右にいて守られるから(5~6節)
主は常に右(保護者の位置)にいて、太陽(熱射病の原因)や月(てんかんや熱病の原因と当時考えられていた)から守って下さると確信しました。信仰によってキリストの花嫁とされた私たちを、親鳥が翼を広げて雛を守るように、全責任と細心の注意をもって守っていて下さいます(詩篇17:8)。
③主はとこしえに守られるから(7~8節)
主は出発から帰郷までのすべてを守って下さると確信しました。罪の奴隷から贖い出された私たちが無事天国にゴールインするまで、信仰の旅路を「今からとこしえに至るまで」守り続けて下さいます。
主日礼拝ごとに心を高く上げて天を仰ぎ、過ぎた一週間の旅路を絶えず主が守って下さったことを感謝しつつ、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」と信じて、新しい一週間を踏み出しましょう。

マルコによる福音書1:9~11「あなたはわたしの愛する子」

2019年1月20日、マルコによる福音書1:9~11「あなたはわたしの愛する子」
イエスが「宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時で」(ルカ3:23)、その前に「ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けにな」りました。なぜ罪のない神の御子イエスが「罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ」(4節)を受けられたのでしょうか。それは罪人の私たちと同じ立場に立って連帯責任を負うためでした(ヘブル4:15、2:17)。
イエスがバプテスマを受けて「水の中から上がられると」、三つのことが伴いました。「天が裂けて(イエスによって神の国が開かれた)」、「聖霊がはとのように…下って来(イエスに聖霊の力が注がれた。イザヤ書61:1~3)」、「天から声があった(イエスが神ご自身によって証言された)」。「あなたはわたしの愛する子」とは、イエスは神の御子、王なるメシヤだということ(詩篇2:7)、「わたしの心にかなう者である(新改訳「わたしはあなたを喜ぶ」)」とは、イエスは人の罪を背負う受難の僕だということです(イザヤ書42:1)。王なるメシヤでありながら、僕として苦難を受けるという相矛盾する二つが、イエスにおいて成就するということです。
「天から声があった」のは、イエスが救い主としてまだ何もしておられなかったときのことで、神は、何かをしたからではなく、イエスの存在そのものを喜ばれたのです。イエスが救い主として使命を果たせたのは、この無条件の愛に支えられていたからでもあります。他人がどう言おうと「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43:4)、神は私を受け入れ喜んでいて下さいます。「自己受容とは、自分の弱さや欠点を直視し、弱くて欠点だらけの自分を、それでもかけがえのない自分として受け入れるということです」(片柳弘史師)。

マルコによる福音書1:9~11「あなたはわたしの愛する子」

2019年1月20日、マルコによる福音書1:9~11「あなたはわたしの愛する子」
イエスが「宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時で」(ルカ3:23)、その前に「ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けにな」りました。なぜ罪のない神の御子イエスが「罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ」(4節)を受けられたのでしょうか。それは罪人の私たちと同じ立場に立って連帯責任を負うためでした(ヘブル4:15、2:17)。
イエスがバプテスマを受けて「水の中から上がられると」、三つのことが伴いました。「天が裂けて(イエスによって神の国が開かれた)」、「聖霊がはとのように…下って来(イエスに聖霊の力が注がれた。イザヤ書61:1~3)」、「天から声があった(イエスが神ご自身によって証言された)」。「あなたはわたしの愛する子」とは、イエスは神の御子、王なるメシヤだということ(詩篇2:7)、「わたしの心にかなう者である(新改訳「わたしはあなたを喜ぶ」)」とは、イエスは人の罪を背負う受難の僕だということです(イザヤ書42:1)。王なるメシヤでありながら、僕として苦難を受けるという相矛盾する二つが、イエスにおいて成就するということです。
「天から声があった」のは、イエスが救い主としてまだ何もしておられなかったときのことで、神は、何かをしたからではなく、イエスの存在そのものを喜ばれたのです。イエスが救い主として使命を果たせたのは、この無条件の愛に支えられていたからでもあります。他人がどう言おうと「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43:4)、神は私を受け入れ喜んでいて下さいます。「自己受容とは、自分の弱さや欠点を直視し、弱くて欠点だらけの自分を、それでもかけがえのない自分として受け入れるということです」(片柳弘史師)。

申命記34:1~8「主のしもべの死」

2018年1月13日、申命記34:1~8「主のしもべの死」
モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルは、不従順のために荒野を40年も放浪しましたが、遂に約束の地の手前まで到達しました。主はピスガの頂からモーセに約束の地を見せられた上で、「あなたはそこへ渡って行くことはできない」と改めて言われました。荒野放浪中、飲み水がないことで民がつぶやくと、「岩に命じて水を出させなさい」と主が言われたのに、「モーセは…つえで岩を二度打」って水を出したため、モーセは約束の地に入れないことを宣告されていました(民数記20:2~13)。考え直して下さるようモーセが主に懇願すると、主は「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない」(新改訳)と言われました(申命記3:23~28)。「もう二度と聞きたくない」というよりも、「お前はかたくなな民を導くことでこれまで苦労してきたのだから、もう十分だ。ゆっくり休むがよい」という意味なのではないでしょうか。モーセが約束の地に入れなかったのは、さばきというよりも、主のあわれみによるのでしょう。
「主のしもべモーセは主の言葉のとおりに(新改訳「主の命令によって」)モアブの地で死んだ」。モーセの地上での使命が終わったから、「主の命令によって」召されたのであり、それが約束の地の手前であったということです。「主の命令によって」を直訳すると、「主の口によって」となり、ラビは「主の口づけによって」と訳しました。大震災で召された兄弟姉妹たちも、計り知れない主の深い御旨によって地上の使命を終えたので、主は身をかがめて兄弟姉妹に口づけし、ご自分のもとに迎え入れられたと信じ、主の愛の御手にお委ねしましょう。

ヨシュア記1:1~9「強く、また雄々しくあれ」

2019年1月6日、ヨシュア記1:1~9「強く、また雄々しくあれ」
「主のしもべモーセが死んだ後」、後継者として選ばれたヨシュアは、恐れと不安でいっぱいだったでしょう。実は出エジプトの指導者として召されたときのモーセも同じで、様々な理由をつけて拒んでいました。「与えられた仕事が重く感じられる時、私たちは、心配になったり、緊張したり、不安にかられたりします。『モーセ症候群』にかかってしまい、目の前に立ちはだかるチャレンジを克服するなんてとてもできないと思ってしまいます。このことの間違いは、自分自身を低く評価しているということではありません。むしろ、神様を低く評価していることにあります」(『平安を得るためのヒント100』)。
恐れおののくヨシュアに対して主は、「強く、また雄々しくあれ」と三度も励まされました。それは単なる気休めではなく、確かな保証があっての励ましでした。それは、「モーセと共にいたように、あなたと共におる…あなたを見放すことも、見捨てることもしない…あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ」です。
「神はわれらの避け所また力…悩める時のいと近き助け」(詩篇46:1)と言われる主が「わたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)。主の臨在こそ何ものにも勝る力です。「自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだね」(Ⅰペテロ5:7)、臨在の主を信じ、御言葉に従って歩むなら、「強く、また雄々しくあ」ることができます。試練や困難に直面しても、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)、「あなたは、わたしに従ってきなさい」(ヨハネ21:22)と言われる主に信頼しましょう。

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詩篇119:9~16「御言葉に思いを潜める」

2019年1月1日、詩篇119:9~16「御言葉に思いを潜める」
「心のうちに」何を「たくわえ(宝物や高価なものを隠すように大切に保存する、の意)」るかで、その人の人生が決まってきます。詩人は、神の「み言葉」こそ最も大切に「たくわえ」るべきものと認識していました。神を愛し、神の御言葉に従って生きていくことこそ、神に似せて造られた私たち人間の本分です(伝道の書12:13)。そのことを確認するためにも、毎週の礼拝・祈祷会、日々の御言葉と祈りの時が重要です。そこで語りかけられる御言葉を「心のうちに…たくわえ」ていくのです。
その上で「さとしを思い(黙想する、の意。新改訳「戒めに思いを潜め」)」、牛のように御言葉を反芻し、黙想することが大切です。御言葉をお茶漬けのようにさらさら流し込んでおしまいにするのではなく、祈り心をもってよく噛みしめ、何度も何度も味わいましょう。夜寝る前、今朝読んだ御言葉は何であったか思い出せないのは、朝の御言葉を一度限りのものにしてしまうからです。そうではなく、朝の御言葉を一日のうちに何度も何度も思い起こして口ずさむならば、その御言葉が魂にしっかり刻み付けられ、血となり肉となっていきます。
もし信仰の軌道をはずれかけていれば、御言葉によって軌道修正していただき、自分の不信仰によって神とその力を小さくしていれば、御言葉のレンズによって元通りの偉大な神を見せていただくのです。そうするなら、「罪を犯すことのないように」なるでしょう。「あなたの定めを喜び、あなたのみ言葉を忘れ」ないようになるでしょう。勝利ある信仰生活は、「心のうちにみ言葉をたくわえ」、黙想し、御言葉に信頼するという地道な一歩一歩の積み重ねによるのです。

詩篇119:9~16「御言葉に思いを潜める」

2019年1月1日、詩篇119:9~16「御言葉に思いを潜める」
「心のうちに」何を「たくわえ(宝物や高価なものを隠すように大切に保存する、の意)」るかで、その人の人生が決まってきます。詩人は、神の「み言葉」こそ最も大切に「たくわえ」るべきものと認識していました。神を愛し、神の御言葉に従って生きていくことこそ、神に似せて造られた私たち人間の本分です(伝道の書12:13)。そのことを確認するためにも、毎週の礼拝・祈祷会、日々の御言葉と祈りの時が重要です。そこで語りかけられる御言葉を「心のうちに…たくわえ」ていくのです。
その上で「さとしを思い(黙想する、の意。新改訳「戒めに思いを潜め」)」、牛のように御言葉を反芻し、黙想することが大切です。御言葉をお茶漬けのようにさらさら流し込んでおしまいにするのではなく、祈り心をもってよく噛みしめ、何度も何度も味わいましょう。夜寝る前、今朝読んだ御言葉は何であったか思い出せないのは、朝の御言葉を一度限りのものにしてしまうからです。そうではなく、朝の御言葉を一日のうちに何度も何度も思い起こして口ずさむならば、その御言葉が魂にしっかり刻み付けられ、血となり肉となっていきます。
もし信仰の軌道をはずれかけていれば、御言葉によって軌道修正していただき、自分の不信仰によって神とその力を小さくしていれば、御言葉のレンズによって元通りの偉大な神を見せていただくのです。そうするなら、「罪を犯すことのないように」なるでしょう。「あなたの定めを喜び、あなたのみ言葉を忘れ」ないようになるでしょう。勝利ある信仰生活は、「心のうちにみ言葉をたくわえ」、黙想し、御言葉に信頼するという地道な一歩一歩の積み重ねによるのです。