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ヨハネの第一の手紙5:14~15「私たちの確信―祈り」

2017年7月9日、ヨハネの第一の手紙5:14~15「私たちの確信―祈り」
キリスト者の第二の確信は、「わたしたちが何事でも…願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さる」ということです(3:22、ヨハネ14:13)。ただし、「神の御旨に従って願い求めるなら」という条件付きです。イエスは十字架前夜、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と三度も祈られましたが、十字架以外に救いの方法はないというのが「神の御旨」でした(マタイ26:36~46)。パウロは肉体的弱さを取り除いてくれるよう何度も祈りましたが、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」というのが「神の御旨」でした(Ⅱコリント12:1~10)。祈ったとおりには答えられない祈りが確かにあります。「天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」(マタイ7:11)とあるように、神は、「祈ったとおりのもの」ではなく、私たちにとって真に「良いもの」だけをお与え下さいます。私たちが祈り願う以上に、神ははるかにすばらしい御旨を持っておられるお方なのです。それゆえ、祈ったとおりに答えられたときはもちろん感謝ですが、そのとおりに答えられなかったときにも神に感謝すべきでしょう。
「神に願い求めたことはすでにかなえられた(持っている、の意)」とは、今ささげた祈りはその瞬間神に聞かれ、祈りの答えをすでに持っており、あとは神がいかにその答えを見せて下さるかだけだ、ということです(マルコ11:24)。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」(マタイ24:35)という永遠不変の御言葉がこう約束しているのですら、私たちはもっと大胆に神に祈り、目に見える現実がどうであれ、祈りは聞かれたと確信して待ち望みましょう。

マルコによる福音書4:26~28「おのずから成長する神の国」

2017年7月2日、マルコによる福音書4:26~28「おのずから成長する神の国」
①おのずから成長する神の国
大地にまかれた種が知らないうちに芽を出し、「おのずから(新改訳「人手によらず」)実を結」ぶように、神の国(神の恵みによる支配)も人間の思いや力の及ばないところで「おのずから」成長していきます。「成長させて下さるのは、神である」(Ⅰコリント3:6~7)。しかもただ成長するだけでなく、「かまを入れる…刈入れ時」、神の国完成の時が必ず来ます。
②心の中で成長する神の国
イエスを信じる者の心の中に到来した神の国も(ルカ17:21)、「おのずから」成長し、実を結びます。御言葉の種には生命があるからです。
③世の中で成長する神の国
イエスはこの譬え話を「おびただしい群衆」(1節)に向かって語られましたが、中でも特に熱心党の誤り(武力によってローマ帝国を倒し、神の国を建設する)を正すために語られたのではないかと思われます。私たちも、ともすると神を押しのけ、自分の力で神のわざをなそうとする熱心党の傾向がありはしないでしょうか。確かに人間の側にも、祈ること、良い証詞を立てること等、なすべきことがあります。しかしたとえそれらがなくても、むしろ悪条件の中でも、神の国はおのずから成長していくもので、私たち人間には計り知れない神の領域です。神は御国の福音の種を地上にまき、御子イエスの十字架の血潮という水を注ぎ、救われる者を2000年間起こしてこられました。そして今も世界中で福音の種がまかれ、ひそかに成長し、実を結びつつあります。それゆえ福音の種まきをしたならば、後は神の国の生命力を信じ、忍耐して祈り待ち望みましょう。後は神の領域です。

ヨハネの第一の手紙5:13「私たちの確信―永遠のいのち」

2017年6月25日、ヨハネの第一の手紙5:13「私たちの確信―永遠のいのち」
①現在的な永遠のいのち
ヨハネが福音書を執筆したのは、「イエスは神の子キリストであると信じ」て、永遠の「命を得る」よう導くためでしたが(ヨハネ20:31)、手紙を執筆したのは、信じた者はすでに「永遠のいのちを持っている」ことを「悟らせるため」でした。永遠のいのちは、永遠の初めから終わりまで存在される神ご自身のいのちのことです。死んだ後はじめて与えられるいのちではなく、「信じる者には永遠の命がある(新共同訳「永遠の命を得ている」)」(ヨハネ6:47)とあるように、イエスをキリスト、私の罪のための救い主と信じて救われたその瞬間にすでに与えられているいのちです。この永遠のいのちにあずかっている者は、もはや以前のように故意に平気で罪を犯し続けることはできません(3:9)。無理やり御言葉に従うのではなく、内にある永遠のいのちが御言葉に従うことを何よりの喜びとさせるのです。また、世(神に敵対し、悪魔が支配する領域)の攻撃を見破り、「世に勝つ」力が与えられます(5:4~5)。
②未来的な永遠のいのち
永遠のいのちを得ている者は、天国に迎え入れられ、ほふられた小羊キリストの前に立ち、御手と御足、脇腹と頭に残る傷跡を見ます。そのとき、私の罪のためにキリストがどんなに大きな犠牲を払われたかを思い起こし、声の限り感謝と喜びの賛美をささげることでしょう(黙示録4:8~11、5:11~14)。一方、福音を拒絶した者には永遠の滅びが待っています(黙示録20:11~15)。それゆえ、永遠のいのちを得ている者には、福音宣教という大使命があるのです。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(Ⅱテモテ4:2、新改訳)。

ヨハネの第一の手紙5:13「私たちの確信―永遠のいのち」

2017年6月25日、ヨハネの第一の手紙5:13「私たちの確信―永遠のいのち」
①現在的な永遠のいのち
ヨハネが福音書を執筆したのは、「イエスは神の子キリストであると信じ」て、永遠の「命を得る」よう導くためでしたが(ヨハネ20:31)、手紙を執筆したのは、信じた者はすでに「永遠のいのちを持っている」ことを「悟らせるため」でした。永遠のいのちは、永遠の初めから終わりまで存在される神ご自身のいのちのことです。死んだ後はじめて与えられるいのちではなく、「信じる者には永遠の命がある(新共同訳「永遠の命を得ている」)」(ヨハネ6:47)とあるように、イエスをキリスト、私の罪のための救い主と信じて救われたその瞬間にすでに与えられているいのちです。この永遠のいのちにあずかっている者は、もはや以前のように故意に平気で罪を犯し続けることはできません(3:9)。無理やり御言葉に従うのではなく、内にある永遠のいのちが御言葉に従うことを何よりの喜びとさせるのです。また、世(神に敵対し、悪魔が支配する領域)の攻撃を見破り、「世に勝つ」力が与えられます(5:4~5)。
②未来的な永遠のいのち
永遠のいのちを得ている者は、天国に迎え入れられ、ほふられた小羊キリストの前に立ち、御手と御足、脇腹と頭に残る傷跡を見ます。そのとき、私の罪のためにキリストがどんなに大きな犠牲を払われたかを思い起こし、声の限り感謝と喜びの賛美をささげることでしょう(黙示録4:8~11、5:11~14)。一方、福音を拒絶した者には永遠の滅びが待っています(黙示録20:11~15)。それゆえ、永遠のいのちを得ている者には、福音宣教という大使命があるのです。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(Ⅱテモテ4:2、新改訳)。

ヨハネの第一の手紙5:6~12「御霊と水と血による証言」

2017年6月18日、ヨハネの第一の手紙5:6~12「御霊と水と血による証言」
「水」とは、イエスが公生涯の最初にバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマの水のことで、そのとき「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という神の声がありました(マルコ1:9~11)。「血」とは、イエスが十字架上で流された血のことで、そのとき「地上の全面が暗くなって…神殿の幕が上から下まで真二つに裂け…地震があり」ました(マタイ27:45~54)。イエスは神が人となって「水」のバプテスマをお受けになり、十字架上で「血」を流して死なれた救い主であることを否定する異端が現れていたので、「イエス・キリストは…水と血とによってこられた」と強調するのです。さらに、「わたし(イエス)についてあかしをする」(ヨハネ15:26)真理の御霊が、このことは真実だと証ししています。裁判では二人以上の証言が必要とされました(申命記19:15)。イエスについては、「御霊と水と血」の三つの証言があり、「この三つのものは一致する」上、その一つは御霊なる神ですから、これ以上確かな証言は世界中どこにもありません。
私たちが安心して日常生活を送り得るのは、「人間のあかしを受けいれ」、互いに信用しているからです。そのように「人間のあかしを受けいれる」のであれば、「神のあかしはさらにまさっている」のだから、当然受け入れるべきではないか、とヨハネは問いかけているのです。「御霊と水と血」が証しするイエスに対する私たちの態度は、イエスを信じるか信じないか、二つに一つで、中間などあり得ません。信じる者には「永遠のいのち」が与えられ、信じない者には与えられません。「なぜイエス・キリストは十字架にかからなければならなかったのか。その問いをもって聖書を読んでください」(松本雅弘師)。

ヨハネの第一の手紙5:6~12「御霊と水と血による証言」

2017年6月18日、ヨハネの第一の手紙5:6~12「御霊と水と血による証言」
「水」とは、イエスが公生涯の最初にバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマの水のことで、そのとき「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という神の声がありました(マルコ1:9~11)。「血」とは、イエスが十字架上で流された血のことで、そのとき「地上の全面が暗くなって…神殿の幕が上から下まで真二つに裂け…地震があり」ました(マタイ27:45~54)。イエスは神が人となって「水」のバプテスマをお受けになり、十字架上で「血」を流して死なれた救い主であることを否定する異端が現れていたので、「イエス・キリストは…水と血とによってこられた」と強調するのです。さらに、「わたし(イエス)についてあかしをする」(ヨハネ15:26)真理の御霊が、このことは真実だと証ししています。裁判では二人以上の証言が必要とされました(申命記19:15)。イエスについては、「御霊と水と血」の三つの証言があり、「この三つのものは一致する」上、その一つは御霊なる神ですから、これ以上確かな証言は世界中どこにもありません。
私たちが安心して日常生活を送り得るのは、「人間のあかしを受けいれ」、互いに信用しているからです。そのように「人間のあかしを受けいれる」のであれば、「神のあかしはさらにまさっている」のだから、当然受け入れるべきではないか、とヨハネは問いかけているのです。「御霊と水と血」が証しするイエスに対する私たちの態度は、イエスを信じるか信じないか、二つに一つで、中間などあり得ません。信じる者には「永遠のいのち」が与えられ、信じない者には与えられません。「なぜイエス・キリストは十字架にかからなければならなかったのか。その問いをもって聖書を読んでください」(松本雅弘師)。

イザヤ書40:27~31「走っても疲れず、歩いても弱らず」

2017年6月11日、イザヤ書40:27~31「走っても疲れず、歩いても弱らず」
イスラエルは当時、大国バビロンの脅威の前に風前の灯のような状態にありました。そのようなときこそ出エジプト他の恵みを思い起こし、主に信頼すべきでしたが、「わが道は主に隠れている…わが訴えはわが神に顧みられない」と嘆いていました。厳しい現実にばかり目を向け、主がどのようなお方であるかを見失っていたからです。
この世のあらゆるものは絶えず移り変わっていきますが、主は絶対に変わらない「とこしえの神」です(ヘブル13:8)。主は御言葉をもって天地万物を創造された「地の果の創造者」であり、神から離れて滅びに向かっている罪人を神の子に造り変えて下さるお方です(Ⅱコリント5:17、新聖歌21番4節「天地造りし神は 人をも造り変えて 正しくきよき魂 持つ身とならしめ給う」)。「下には永遠の腕がある」(申命記33:27)、私たちを支え続けても絶対に「弱ることなく、また疲れること」がないばかりか、「弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる」全能の神です。私たち一人ひとりのために最高の生涯設計をもっておられ(エレミヤ書29:11)、「その知恵ははかりがたい」全知の神です。
「新たなる力を得(力を入れ替える、の意)、わしのように翼をはって、のぼることができる」ために必要なことは、人間的な力で生きてボロボロに弱り疲れていたのを、弱ることも疲れることもない神の力に入れ替えていただくことです。これをまさしく実践されたのが御子イエスです。心身共に酷使して夜遅くまで働きながら、「朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)。イエスは日々、神との交わりによって「新たなる力を得」、回復され、多忙な働きに戻って行かれたのです。

ローマ人への手紙8:26~30「私たちの弱さを助ける御霊」

2017年6月4日、ローマ人への手紙8:26~30「私たちの弱さを助ける御霊」
「弱いわたしたち(直訳「私たちの弱さ(複数形)」)」とあるように、イエスを信じて神の子とされ、栄光の望みが与えられていても(8:18~25)、私たちにはなお様々な弱さがあります。特に「どう祈ったらよいかわからない」、祈りにおける弱さがあります。そのような私たちを「御霊もまた同じように…助けて下さる(共に代わって取る、の意)」、御霊は私たちと共にいて、私たちに代わって、私たちの弱さ・重荷・うめきを引き受けて下さるのです。このように地上では御霊がとりなし、天上ではイエスがとりなしていて下さいます(34節、ヘブル7:25、Ⅰヨハネ2:1)。しかも「人の心を探り知るかた(父なる神)は、御霊の思うところがなんであるかを知っておられ」、一方の「御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さる」がゆえに、私たちの言葉にならないうめきや、不十分極まりない祈りも神に聞き届けられるのです。
かつて神に敵対していた者が(5:10)、信仰によって「神を愛する者」とされたのは、単なる偶然ではなく、「天地の造られる前から」(エペソ1:4)、「ご計画に従って召された」結果です。そのような私たちのために、「神は…万事を益となるように」、すべて神の御心にかなうものとなるように、神は私たちと「共に働いて」下さいます。それはひとえに、私たちを「更に御子のかたちに似たものと」するため、「御子を多くの兄弟の中で長子とならせるため」です。御子が私たちを神に誇らしげに紹介できるように、神は様々なことを総動員して私たちを練り潔めていて下さるのです。御子と御霊は私たちの弱さを助けとりなし、神は私たちが御子に似る者となるよう万事を益となるようにして下さいます。この三位一体の神が栄光のゴールまで一緒です。

ローマ人への手紙8:26~30「私たちの弱さを助ける御霊」

2017年6月4日、ローマ人への手紙8:26~30「私たちの弱さを助ける御霊」
「弱いわたしたち(直訳「私たちの弱さ(複数形)」)」とあるように、イエスを信じて神の子とされ、栄光の望みが与えられていても(8:18~25)、私たちにはなお様々な弱さがあります。特に「どう祈ったらよいかわからない」、祈りにおける弱さがあります。そのような私たちを「御霊もまた同じように…助けて下さる(共に代わって取る、の意)」、御霊は私たちと共にいて、私たちに代わって、私たちの弱さ・重荷・うめきを引き受けて下さるのです。このように地上では御霊がとりなし、天上ではイエスがとりなしていて下さいます(34節、ヘブル7:25、Ⅰヨハネ2:1)。しかも「人の心を探り知るかた(父なる神)は、御霊の思うところがなんであるかを知っておられ」、一方の「御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さる」がゆえに、私たちの言葉にならないうめきや、不十分極まりない祈りも神に聞き届けられるのです。
かつて神に敵対していた者が(5:10)、信仰によって「神を愛する者」とされたのは、単なる偶然ではなく、「天地の造られる前から」(エペソ1:4)、「ご計画に従って召された」結果です。そのような私たちのために、「神は…万事を益となるように」、すべて神の御心にかなうものとなるように、神は私たちと「共に働いて」下さいます。それはひとえに、私たちを「更に御子のかたちに似たものと」するため、「御子を多くの兄弟の中で長子とならせるため」です。御子が私たちを神に誇らしげに紹介できるように、神は様々なことを総動員して私たちを練り潔めていて下さるのです。御子と御霊は私たちの弱さを助けとりなし、神は私たちが御子に似る者となるよう万事を益となるようにして下さいます。この三位一体の神が栄光のゴールまで一緒です。

ヨハネの第一の手紙5:1~5「世に勝つ信仰」

2017年5月28日、ヨハネの第一の手紙5:1~5「世に勝つ信仰」
信仰が本物であるか否かをテストする三つの要素が出てきます。第一は「信仰」(1、4、5節)。「神から生れた者」と認められるのは(ヨハネ3:3)、「すべてイエスのキリストであることを信じる(信じ続ける)者」だけです。第二は「愛」(1、2、3節)。「神から生れた者」は、「生んで下さったかた(神)を愛する(愛し続ける)」と同時に、「そのかたから生れた者(兄弟姉妹)をも愛する(愛し続ける)」はずです。第三は「従順」(2、3節)。「神から生れた者」は、「戒めを守る(守り続ける)」はずです。神を信じ愛して生きる者は、自ずと神に喜ばれる生き方をするようになります。神を愛する愛から出た自発的な行為ですから、決して「むずかしいものではな」く、重荷とはなりません。愛は戒めを軽くします。イエスも「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11:30)と言われました。イエスと「くびき」を共にして二人三脚すれば、イエスが共にくびきを負って下さるので、荷が軽くなるというわけです。
神に敵する「世」は、「肉の欲、目の欲、持ち物の誇」(2:16)をもって私たちを神から引き離そうと誘惑しますが、イエスは十字架と復活によって悪魔との戦いに打ち勝たれたお方です。この「イエスを神の子と信じる(信じ続ける)者」は、イエスの勝利に結び合わされ、「世に勝つ者」とされるのです。世の力は確かに強力ですが、この戦いは初めから勝負がついています。イエスと共に戦うゆえ、私たちの勝利は間違いないのです。「神さま抜きのあなた自身の頑張りや賢さは、サタンからすれば大したことはないのです…そのサタンに負けないためには…心からへりくだり、神さまの御力により頼むことです。神さまを求める者に、サタンは何の手出しもできません」(松本雅弘師)。