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ヨハネの第一の手紙4:17~18「愛には恐れがない」

2017年4月30日、ヨハネの第一の手紙4:17~18「愛には恐れがない」
「恐れ」が3回、「恐れる」が1回出てくるように、私たちは些細なことでもすぐに恐れやすい存在です。「はじめに神は天と地とを創造され…自分のかたちに人を創造され」(創世記1:1、27)、私たちのために最善のご計画をお持ちの神を締め出しているから、迷信や占いに頼り、将来に恐れを抱くのです。私たちをこよなく愛しておられる神を締め出しているから(イザヤ書43:4)、絶えず人と比べ、人の目を恐れるのです。また死後、神のさばきがあることを本能的に知っているから(ヘブル9:27、ローマ6:23)、死を恐れるのです。様々な恐れの原因は、神を締め出して生きる的外れの罪にあり、この罪と滅びから救い出すために御子イエスは降誕され、全人類の罪を背負って十字架上で死んで下さったのです。それゆえ罪を悔い改め、イエスを信じるならば、すべての罪が赦され、罪のためにさばかれることはもはやありません(ローマ8:1)。信仰者にとって、さばきの日は恐るべき日ではなく、神の「愛がわたしたちに全うされ」、完成される日なのです。
救われたとは言え、弱く不完全な存在ですから、罪や過ちを犯すことがあります。だからこそ「父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」(2:1)のです。悪魔は、罪を犯した者を神に中傷・告発しますが、十字架を信じて神に義と認められた以上、もはや誰も「訴える」ことも「罪に定める」こともできません(ローマ8:1、33~34)。私たちの助け主・弁護者キリストは、十字架の血潮を携えて、父なる神にとりなし祈っていて下さるからです。このイエスに時々刻々信頼して歩む者は、示された御言葉を無視したり意図的に罪を犯したりすることなどできないはずです。

ヨハネの第一の手紙4:13~16「神の中に私が、私の中に神が」

2017年4月23日、ヨハネの第一の手紙4:13~16「神の中に私が、私の中に神が」
父なる神は、最初の人アダムの堕罪直後、救いのご計画を打ち明けられました(創世記3:15)。そのご計画に基づいて、子なる神キリストは来臨され、十字架と復活によって救いを完成されました。そして聖霊なる神は「罪と義とさばきとについて、世の人の目を開」き(ヨハネ16:8)、「神に対する悔い改めと…主イエスに対する信仰」(使徒20:21)へと導いて救いを適用して下さいます。救いの計画者である父なる神、救いの実行者である子なる神、救いの適用者である聖霊なる神という三位一体の神の働きによって救われた者は、「神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいる」のです。復活のイエスは「父と子と聖霊との名によって(中に、の意)…バプテスマを施し」(マタイ28:19)と言われました。水の中にバケツを沈めると、水の中にバケツがあると同時に、バケツの中に水があるという状態になります。悔い改めと信仰によって救われた者もこれと同様、三位一体の神の中に結合されています。だからこそ続いて「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)と言われたのです。
指導者モーセを支え、後継者ヨシュアを強く雄々しくしたのも神の臨在でした。順境の日も逆境の日も「いつも(直訳「すべての日々に」)」変わらず共にいて、「われらの避け所また力…悩める時のいと近き助け」(詩篇46:1、5)ですから、「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)とパウロは言い、「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ」(詩篇37:23~24、新改訳)と詩人は歌います。「神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいる」とは何と幸いなことでしょう。

ヨハネの第一の手紙4:13~16「神の中に私が、私の中に神が」

2017年4月23日、ヨハネの第一の手紙4:13~16「神の中に私が、私の中に神が」
父なる神は、最初の人アダムの堕罪直後、救いのご計画を打ち明けられました(創世記3:15)。そのご計画に基づいて、子なる神キリストは来臨され、十字架と復活によって救いを完成されました。そして聖霊なる神は「罪と義とさばきとについて、世の人の目を開」き(ヨハネ16:8)、「神に対する悔い改めと…主イエスに対する信仰」(使徒20:21)へと導いて救いを適用して下さいます。救いの計画者である父なる神、救いの実行者である子なる神、救いの適用者である聖霊なる神という三位一体の神の働きによって救われた者は、「神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいる」のです。復活のイエスは「父と子と聖霊との名によって(中に、の意)…バプテスマを施し」(マタイ28:19)と言われました。水の中にバケツを沈めると、水の中にバケツがあると同時に、バケツの中に水があるという状態になります。悔い改めと信仰によって救われた者もこれと同様、三位一体の神の中に結合されています。だからこそ続いて「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)と言われたのです。
指導者モーセを支え、後継者ヨシュアを強く雄々しくしたのも神の臨在でした。順境の日も逆境の日も「いつも(直訳「すべての日々に」)」変わらず共にいて、「われらの避け所また力…悩める時のいと近き助け」(詩篇46:1、5)ですから、「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)とパウロは言い、「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ」(詩篇37:23~24、新改訳)と詩人は歌います。「神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいる」とは何と幸いなことでしょう。

ヨハネによる福音書20:24~31「信じる者になりなさい」

2017年4月16日、ヨハネによる福音書20:24~31「信じる者になりなさい」
弟子たちが復活のイエスに出会った喜びにあふれ、「わたしたちは主にお目にかかった」と口々に語る中、その場にいなかったトマスは、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と仲間の興奮ぶりを嘲笑うかのように言いました。トマスの心中では、復活などとても信じられないという気持ちと、しかしそれがもし本当なら自分も復活のイエスにお会いしたいという気持ちとが相争っていたことでしょう。そんなトマスの胸の内を誰よりもよくご存じのイエスは、再び復活の御姿を現され、真っ先にトマスのところに行かれました。今回はトマスのためだけに現れたと言ってもよいほどでした。一週間前トマスが弟子たちに語った言葉を聞き、疑いも葛藤もすべてご存じのイエスは、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい」と優しく語りかけられました。するとトマスはイエスにさわるまでもなく、「わが主よ、わが神よ」とひざまずきました。
やがてイエスは昇天され、肉眼では見えなくなりましたが、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来る」 (ローマ10:17)、御言葉と御霊によってイエスを「見ないで信ずる」ことができるようにされています。疑いや迷い、悲しみや悔しさで霊の眼が曇りやすい私たちの心をイエスはよくご存じで、そんな私たちをも見捨てず、忍耐強く導き続けて下さいます。この後トマスはインドで福音を宣べ伝え、そこで殉教したと言われています。イエスの十字架と復活を確信した者には、もはや迷いも恐れもないのです。

ヨハネによる福音書20:24~31「信じる者になりなさい」

2017年4月16日、ヨハネによる福音書20:24~31「信じる者になりなさい」
弟子たちが復活のイエスに出会った喜びにあふれ、「わたしたちは主にお目にかかった」と口々に語る中、その場にいなかったトマスは、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と仲間の興奮ぶりを嘲笑うかのように言いました。トマスの心中では、復活などとても信じられないという気持ちと、しかしそれがもし本当なら自分も復活のイエスにお会いしたいという気持ちとが相争っていたことでしょう。そんなトマスの胸の内を誰よりもよくご存じのイエスは、再び復活の御姿を現され、真っ先にトマスのところに行かれました。今回はトマスのためだけに現れたと言ってもよいほどでした。一週間前トマスが弟子たちに語った言葉を聞き、疑いも葛藤もすべてご存じのイエスは、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい」と優しく語りかけられました。するとトマスはイエスにさわるまでもなく、「わが主よ、わが神よ」とひざまずきました。
やがてイエスは昇天され、肉眼では見えなくなりましたが、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来る」 (ローマ10:17)、御言葉と御霊によってイエスを「見ないで信ずる」ことができるようにされています。疑いや迷い、悲しみや悔しさで霊の眼が曇りやすい私たちの心をイエスはよくご存じで、そんな私たちをも見捨てず、忍耐強く導き続けて下さいます。この後トマスはインドで福音を宣べ伝え、そこで殉教したと言われています。イエスの十字架と復活を確信した者には、もはや迷いも恐れもないのです。

ヨハネによる福音書20:24~31「信じる者になりなさい」

2017年4月16日、ヨハネによる福音書20:24~31「信じる者になりなさい」
弟子たちが復活のイエスに出会った喜びにあふれ、「わたしたちは主にお目にかかった」と口々に語る中、その場にいなかったトマスは、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と仲間の興奮ぶりを嘲笑うかのように言いました。トマスの心中では、復活などとても信じられないという気持ちと、しかしそれがもし本当なら自分も復活のイエスにお会いしたいという気持ちとが相争っていたことでしょう。そんなトマスの胸の内を誰よりもよくご存じのイエスは、再び復活の御姿を現され、真っ先にトマスのところに行かれました。今回はトマスのためだけに現れたと言ってもよいほどでした。一週間前トマスが弟子たちに語った言葉を聞き、疑いも葛藤もすべてご存じのイエスは、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい」と優しく語りかけられました。するとトマスはイエスにさわるまでもなく、「わが主よ、わが神よ」とひざまずきました。
やがてイエスは昇天され、肉眼では見えなくなりましたが、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来る」 (ローマ10:17)、御言葉と御霊によってイエスを「見ないで信ずる」ことができるようにされています。疑いや迷い、悲しみや悔しさで霊の眼が曇りやすい私たちの心をイエスはよくご存じで、そんな私たちをも見捨てず、忍耐強く導き続けて下さいます。この後トマスはインドで福音を宣べ伝え、そこで殉教したと言われています。イエスの十字架と復活を確信した者には、もはや迷いも恐れもないのです。

マルコによる福音書15:16~22「無理に背負わされた十字架」

2017年4月9日、マルコによる福音書15:16~22「無理に背負わされた十字架」
死刑囚は十字架の横木を自ら背負い、見せしめのため町中を引き回されながら刑場に向かいました。その定めに従って「イエスはみずから十字架を背負って」(ヨハネ19:17)、総督ピラトの官邸からゴルゴタの丘まで(ラテン語で「ヴィア・ドロローサ」。悲しみの道、の意)歩んでおられましたが、衰弱していたため、十字架を背負って歩き続けることができなくなりました。するとそこに「シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に(強制的に労働させる、の意。マタイ5:41「しいて…行かせようとする」と同語)負わせ」ました。
エルサレム詣での最中、世にも恐ろしい十字架を担がされたとき、シモンは己の運命を呪ったことでしょう。著者マルコは「アレキサンデルとルポスとの父シモン」と紹介していますが、何の説明もなしに息子たちの名前を挙げるのは、本書執筆当時、彼らは信者の間で周知の人物であったからでしょう。ルポスの母、すなわちシモンの妻も、パウロにとって信仰の「母」のような存在でした(ローマ16:13)。本来この十字架は、罪人のシモンや私が負うべきものでした。シモンが身代わりになったのではなく、イエスがシモンと私の罪の代わりに背負って死んで下さった十字架です。そうした十字架の真の意味をやがてシモンも悟り、一家を挙げてイエスを信じ、教会でしばしば感動に打ち震えながら証ししていたのではないかと思われます。
そのときはわからなくても、後になってからわかる恵みというものがあります。主が私たちに背負わせなさる十字架は、それを耐え忍ぶなら、やがて祝福に変えられる十字架です。「自分を捨て、日々自分の十字架を負うて」(ルカ9:23)、イエスの後に従っていきましょう。

マルコによる福音書15:16~22「無理に背負わされた十字架」

2017年4月9日、マルコによる福音書15:16~22「無理に背負わされた十字架」
死刑囚は十字架の横木を自ら背負い、見せしめのため町中を引き回されながら刑場に向かいました。その定めに従って「イエスはみずから十字架を背負って」(ヨハネ19:17)、総督ピラトの官邸からゴルゴタの丘まで(ラテン語で「ヴィア・ドロローサ」。悲しみの道、の意)歩んでおられましたが、衰弱していたため、十字架を背負って歩き続けることができなくなりました。するとそこに「シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に(強制的に労働させる、の意。マタイ5:41「しいて…行かせようとする」と同語)負わせ」ました。
エルサレム詣での最中、世にも恐ろしい十字架を担がされたとき、シモンは己の運命を呪ったことでしょう。著者マルコは「アレキサンデルとルポスとの父シモン」と紹介していますが、何の説明もなしに息子たちの名前を挙げるのは、本書執筆当時、彼らは信者の間で周知の人物であったからでしょう。ルポスの母、すなわちシモンの妻も、パウロにとって信仰の「母」のような存在でした(ローマ16:13)。本来この十字架は、罪人のシモンや私が負うべきものでした。シモンが身代わりになったのではなく、イエスがシモンと私の罪の代わりに背負って死んで下さった十字架です。そうした十字架の真の意味をやがてシモンも悟り、一家を挙げてイエスを信じ、教会でしばしば感動に打ち震えながら証ししていたのではないかと思われます。
そのときはわからなくても、後になってからわかる恵みというものがあります。主が私たちに背負わせなさる十字架は、それを耐え忍ぶなら、やがて祝福に変えられる十字架です。「自分を捨て、日々自分の十字架を負うて」(ルカ9:23)、イエスの後に従っていきましょう。

イザヤ書6:1~13「我ここにあり、我を遣わしたまえ」

2017年4月2日、イザヤ書6:1~13「我ここにあり、我を遣わしたまえ」
①イザヤの見神(1~7節)
「ウジヤ王の死んだ年」、南王国の今後を憂慮して神殿へ行ったイザヤは、主の臨在に触れました。罪のないセラピムでさえ「顔をおおい…足をおお」うほど「聖なる…万軍の主、その栄光は全地に満つ」主を霊の目で見ました。これまで「わざわいなるかな、彼らは…わざわいなるかな、彼らは」(6:8、11、18、20、21、22)と民の罪を6回も繰り返し指摘してきた彼ですが、自らの罪深さを思い知らされ、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」と叫びました。すると「祭壇の上から取った燃えている炭」が「イザヤの口に触れ」、「あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」と宣言されました。救われるためにも潔められるためにも、主の前に丸裸になり、自らの罪深さを正直に認めて砕かれ、自己破産するとき、十字架の祭壇で流された「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」のです(Ⅰヨハネ1:7)。
②イザヤの献身(8~13節)
「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」との主の御声を聞いたイザヤは「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」と応答しました。しかし彼に与えられた使命は容易なものではありませんでした。イザヤがいくら語っても、民はますます心をかたくなにして聞き従わないため、やがて滅ぼされるというのです。しかし「その切り株が残る」、約束の救い主が現れて救いを成し遂げられることを、イザヤは生涯をかけて語りました。現代も伝道困難な時代ですが、十字架の愛にお応えして「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」と献身しましょう。

ルツ記4:1~22「私たちのゴーエール」

2017年3月26日、ルツ記4:1~22「私たちのゴーエール」
ルツの求婚に対して「あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう」と約束したボアズは、「もっと近い親戚(ゴーエール、新改訳「買戻しの権利のある親類」)」に「あなたが、それをあがなおうと思われるならば、あがなってください(代価を払って買い戻す、の意)」と言うと、「わたしがあがないましょう」と答えたので、すかさずボアズは「あなたが…地所を買う時には…モアブ(申命記23:3)の女ルツをも買って…」と言いました。すると「わたしにはあがなうことができません。そんなことをすれば自分の嗣業をそこないます」と言ってボアズに買戻しの権利を譲ったので、ボアズは先祖の地所とルツを贖いました。
本書は、ボアズの姿を通して私たちの贖い主(ゴーエール)がどのようなお方であるかを示しています。「神のかたち」「神と等しく」あられたキリストは、天の栄光の御位を惜しみなく捨てて私たちと同じ「人間の姿になられ」、あの悪臭漂う家畜小屋に降誕されたばかりか、「おのれをむなしうして僕のかたちをとり」、全人類を罪と滅びから救うために十字架上で血もいのちも惜しみなく損われました。「それでは、わたしにはあがなうことができません。そんなことをすれば自分の嗣業をそこないます」などと一言も言われず、「十字架の死に至るまで従順であられ」ました。罪深い私を贖うために、です(ピリピ2:6~8)。
ルツが「はからずも」ボアズの畑に落ち穂拾いに行って結婚へと導かれたように、「キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」(エペソ2:12)私も、「はからずも」教会に導かれ、十字架によって贖われ、キリストの花嫁とされました。「主はほむべきかな」。