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マルコによる福音書6:14~29「永遠に後悔することがないように」

2020年7月12日、マルコによる福音書6:14~29「永遠に後悔することがないように」
「イエスの名が知れわたって、ヘロデ王(イエス降誕時のヘロデ大王の息子アンテパス)の耳にはい」ると、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」とヘロデは考えました。バプテスマの「ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って」いながら処刑していたからです。
「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と真っ正面から糾弾するヨハネに対してヘロデは、「恐れ…保護を加え…その教を聞いて非常に悩み続けながらも、なお喜んで聞いてい」ました。罪を自覚していながらも悔い改めを拒み続けていると、「ところが、よい機会がきた」。せっかくの悔い改めの「機会」を、ヨハネ処刑の「機会」に変えてしまったのです。後にイエスが捕えられ、自分の前に連れて来られたとき、「ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ」(ルカ23:8)ものの、もはやイエスはヘロデに何も語られませんでした。結局ヘロデは、バプテスマのヨハネとイエスの両方の死に手を貸すことになったのです。
ペリクスも「また、よい機会を得たら」と決断を先延ばしにした結果、二度と「よい機会」は訪れませんでした(使徒行伝24:24~27)。逆にダビデは、預言者ナタンの糾弾に「わたしは主に罪をおかしました」と悔いくずおれ、赦される「機会」となりました(サムエル記下第11~12章)。
心をかたくなにして御言葉の光に従うことを拒み続けていると、「良心に焼き印をおされて」(Ⅰテモテ4:2)麻痺してしまい、御言葉に心を刺され悔い改めることもなくなってしまいかねません。永遠に後悔することがないように、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4:7)と警告しているのです。

マルコによる福音書6:14~29「永遠に後悔することがないように」

2020年7月12日、マルコによる福音書6:14~29「永遠に後悔することがないように」
「イエスの名が知れわたって、ヘロデ王(イエス降誕時のヘロデ大王の息子アンテパス)の耳にはい」ると、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」とヘロデは考えました。バプテスマの「ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って」いながら処刑していたからです。
「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と真っ正面から糾弾するヨハネに対してヘロデは、「恐れ…保護を加え…その教を聞いて非常に悩み続けながらも、なお喜んで聞いてい」ました。罪を自覚していながらも悔い改めを拒み続けていると、「ところが、よい機会がきた」。せっかくの悔い改めの「機会」を、ヨハネ処刑の「機会」に変えてしまったのです。後にイエスが捕えられ、自分の前に連れて来られたとき、「ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ」(ルカ23:8)ものの、もはやイエスはヘロデに何も語られませんでした。結局ヘロデは、バプテスマのヨハネとイエスの両方の死に手を貸すことになったのです。
ペリクスも「また、よい機会を得たら」と決断を先延ばしにした結果、二度と「よい機会」は訪れませんでした(使徒行伝24:24~27)。逆にダビデは、預言者ナタンの糾弾に「わたしは主に罪をおかしました」と悔いくずおれ、赦される「機会」となりました(サムエル記下第11~12章)。
心をかたくなにして御言葉の光に従うことを拒み続けていると、「良心に焼き印をおされて」(Ⅰテモテ4:2)麻痺してしまい、御言葉に心を刺され悔い改めることもなくなってしまいかねません。永遠に後悔することがないように、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4:7)と警告しているのです。

詩篇100:1~5「私たちは牧場の羊」

2020年7月5日、詩篇100:1~5「私たちは牧場の羊」
詩人は「全地」に向かって「喜びをもって…歌いつつ…感謝しつつ…ほめたたえつつ」神を礼拝するよう招いています。それはなぜか。
①主は神であるから(1~3節)
神に造られながら、「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)私たち人間に、真の神を教え、神のもとに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。この私を愛し、罪を贖うために死なれた十字架のイエスを仰ぎ見るとき、「われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」と告白し、心から喜んで礼拝することでしょう。
②主は恵み深いから(4~5節)
「恵み…いつくしみ…まこと」は、契約における神の姿勢を表す重要語です。本篇は、バビロン捕囚から帰還後、神殿を再建・奉献した際に歌われた詩であろうと言われています。そのときイスラエルはきっと思ったことでしょう。主はよくぞこんな強情な羊をも見捨てず、「恵み…いつくしみ…まこと」の限りを尽くして導き続けてくださったものよ、と。そうして喜びと感謝に満ちて礼拝したことでしょう。
イスラエル同様、何度も何度も主に背いてきた私たちが今なお礼拝の民とされているばかりか、これまで「耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さ」いました(Ⅰコリント10:13)。すべては主の「恵み…いつくしみ…まこと」以外の何ものでもありません。そのことを思えば、主を愛し、主を礼拝せずにはいられないはずです。

詩篇100:1~5「私たちは牧場の羊」

2020年7月5日、詩篇100:1~5「私たちは牧場の羊」
詩人は「全地」に向かって「喜びをもって…歌いつつ…感謝しつつ…ほめたたえつつ」神を礼拝するよう招いています。それはなぜか。
①主は神であるから(1~3節)
神に造られながら、「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)私たち人間に、真の神を教え、神のもとに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。この私を愛し、罪を贖うために死なれた十字架のイエスを仰ぎ見るとき、「われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」と告白し、心から喜んで礼拝することでしょう。
②主は恵み深いから(4~5節)
「恵み…いつくしみ…まこと」は、契約における神の姿勢を表す重要語です。本篇は、バビロン捕囚から帰還後、神殿を再建・奉献した際に歌われた詩であろうと言われています。そのときイスラエルはきっと思ったことでしょう。主はよくぞこんな強情な羊をも見捨てず、「恵み…いつくしみ…まこと」の限りを尽くして導き続けてくださったものよ、と。そうして喜びと感謝に満ちて礼拝したことでしょう。
イスラエル同様、何度も何度も主に背いてきた私たちが今なお礼拝の民とされているばかりか、これまで「耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さ」いました(Ⅰコリント10:13)。すべては主の「恵み…いつくしみ…まこと」以外の何ものでもありません。そのことを思えば、主を愛し、主を礼拝せずにはいられないはずです。

詩篇23:6「主は私の羊飼い、恵みが追って来る」

2020年6月28日、詩篇23:6「主は私の羊飼い、恵みが追って来る」
順境の日も逆境の日も、「わたしの生きているかぎりは(直訳「私の生涯のすべての日々」)必ず恵みといつくしみとが伴う(新改訳2017「追って来る」)でしょう」。「恵みといつくしみ」は、主の契約に対する真実な姿勢を表す重要語です。神の愛は、「もし~」という条件付きの愛でもなければ、「~だから」という状況次第の愛でもありません。「でも」の愛です。「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である」(Ⅱテモテ2:13)。イスラエルがいかに「不真実であっても」、実際、不真実だらけでしたが、それ「でも」主は契約のゆえに主の側の「真実」を変えようとせず、契約を守り通されました。その最大の証拠が、約束の救い主イエスの来臨、十字架と復活による救いでした。
以前は「必ず恵みといつくしみとが伴う」人生とは無縁の者で、「自分の罪過と罪とによって死んでいた者…生れながらの怒りの子」(エペソ2:1~3)でした。「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし」(エペソ2:4~6)、主ご自身と「恵みといつくしみ」とにサンドイッチされるようにして歩んでいます。だからこそ、「死の陰の谷」や「敵の前」を乗り越えることができたのです。
それゆえ、「主の宮」で主を礼拝することが何よりの喜びであり、「やがて、私は主の家に着き、いつまでもおそばで暮すこと」(リビングバイブル)を切望するのです(ピリピ1:23)。やがて死によって地上生涯を終えますが、イエスを信じて「永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47、新共同訳)者は、主と共に生きる場所が地上から天上に変わるだけなのです。

詩篇23:6「主は私の羊飼い、恵みが追って来る」

2020年6月28日、詩篇23:6「主は私の羊飼い、恵みが追って来る」
順境の日も逆境の日も、「わたしの生きているかぎりは(直訳「私の生涯のすべての日々」)必ず恵みといつくしみとが伴う(新改訳2017「追って来る」)でしょう」。「恵みといつくしみ」は、主の契約に対する真実な姿勢を表す重要語です。神の愛は、「もし~」という条件付きの愛でもなければ、「~だから」という状況次第の愛でもありません。「でも」の愛です。「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である」(Ⅱテモテ2:13)。イスラエルがいかに「不真実であっても」、実際、不真実だらけでしたが、それ「でも」主は契約のゆえに主の側の「真実」を変えようとせず、契約を守り通されました。その最大の証拠が、約束の救い主イエスの来臨、十字架と復活による救いでした。
以前は「必ず恵みといつくしみとが伴う」人生とは無縁の者で、「自分の罪過と罪とによって死んでいた者…生れながらの怒りの子」(エペソ2:1~3)でした。「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし」(エペソ2:4~6)、主ご自身と「恵みといつくしみ」とにサンドイッチされるようにして歩んでいます。だからこそ、「死の陰の谷」や「敵の前」を乗り越えることができたのです。
それゆえ、「主の宮」で主を礼拝することが何よりの喜びであり、「やがて、私は主の家に着き、いつまでもおそばで暮すこと」(リビングバイブル)を切望するのです(ピリピ1:23)。やがて死によって地上生涯を終えますが、イエスを信じて「永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47、新共同訳)者は、主と共に生きる場所が地上から天上に変わるだけなのです。

詩篇23:5「主は私の羊飼い、敵前でも杯はあふれる」

2020年6月21日、詩篇23:5「主は私の羊飼い、敵前でも杯はあふれる」
主と共に歩む「正しい道」であっても、いつも平坦な道ばかりではありません。ときに「死の陰の谷」もあれば「敵の前」もありますが、そのようなときにも「わたしの杯はあふれます」。しかしそのためにイエスは、苦い「杯」を飲み干してくださいました。ゲツセマネの園でイエスは、神の怒りの杯を飲むか飲まないか苦悶しながら祈られた末、全時代・全人類の罪を背負って十字架につけられ、神のさばきを一身に受けて死なれ、救いを完成してくださいました。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(Ⅱコリント5:21)。イエスの苦悶は、この私の罪のための苦悶であり、信じる者に「わたしの杯はあふれます」という恵みを与えるための苦悶だったのです。
私たちの人生にも様々な「敵」が次から次へと出現しますが、「これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」(ローマ8:37、新改訳2017)。イエスを信じて神と和解し、神を味方とするようになった人は、「敵の前で」「敵をよそに」(新改訳2017)、神の大切な友として豊かなもてなしを受け、慰め励まされます。目の前の戦いはすでに決着済み、勝利は確定済みなのです。私たちのために大切な御子イエスを惜しみなく十字架の死に渡されるほど私たちのことをこよなく愛しておられる神が、様々な戦いにも勝利させてくださる、しかも余裕しゃくしゃく「圧倒的な勝利者」とさせてくださるのです。共に戦ってくださる主がおられること、主は「敵」よりも偉大なお方であることを常に覚えていましょう。

詩篇23:5「主は私の羊飼い、敵前でも杯はあふれる」

2020年6月21日、詩篇23:5「主は私の羊飼い、敵前でも杯はあふれる」
主と共に歩む「正しい道」であっても、いつも平坦な道ばかりではありません。ときに「死の陰の谷」もあれば「敵の前」もありますが、そのようなときにも「わたしの杯はあふれます」。しかしそのためにイエスは、苦い「杯」を飲み干してくださいました。ゲツセマネの園でイエスは、神の怒りの杯を飲むか飲まないか苦悶しながら祈られた末、全時代・全人類の罪を背負って十字架につけられ、神のさばきを一身に受けて死なれ、救いを完成してくださいました。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(Ⅱコリント5:21)。イエスの苦悶は、この私の罪のための苦悶であり、信じる者に「わたしの杯はあふれます」という恵みを与えるための苦悶だったのです。
私たちの人生にも様々な「敵」が次から次へと出現しますが、「これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」(ローマ8:37、新改訳2017)。イエスを信じて神と和解し、神を味方とするようになった人は、「敵の前で」「敵をよそに」(新改訳2017)、神の大切な友として豊かなもてなしを受け、慰め励まされます。目の前の戦いはすでに決着済み、勝利は確定済みなのです。私たちのために大切な御子イエスを惜しみなく十字架の死に渡されるほど私たちのことをこよなく愛しておられる神が、様々な戦いにも勝利させてくださる、しかも余裕しゃくしゃく「圧倒的な勝利者」とさせてくださるのです。共に戦ってくださる主がおられること、主は「敵」よりも偉大なお方であることを常に覚えていましょう。

詩篇23:4「主は私の羊飼い、死の陰の谷も恐れない」

2020年6月14日、詩篇23:4「主は私の羊飼い、死の陰の谷も恐れない」
荒野には危険な「死の陰の谷」がありますが、羊飼いは羊たちと常に「共に」いて、「むちと…つえ」を用いて敵から羊たちを守りました。
「死の陰の谷」や「わざわい」の全くない人生などあり得ません。詩人が「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません」と宣言するのは、「あなたがわたしと共におられるからです」。親や友もありがたい存在ではありますが、いつでもどんな場合でも頼りになるわけではありません。しかし「水の中…川の中…火の中」を行くようなときにも、天地万物の創造者・支配者なる主は、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ、…わたしはあなたと共におる」と言われます(イザヤ書43:1~3)。しかも、復活のイエスが「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言われたように、時々ではなく「世の終りまで、いつも…共に」いてくださるのです。
「聖書のどこを開いても聞こえてくる三つのメッセージがある。それは、『愛している』『共にいる』『恐れるな』の三つである」(岸本望師)。主はこの私を愛し、私と共にいてくださるから恐れる必要はない、という聖書の中心的な約束を自分のものとするために必要なものは、ただ信仰のみです。罪を悔い改め、イエスの十字架を信じるならば、神との間を隔てている罪が取り除かれ、「愛している」「共にいる」「恐れるな」という聖書の約束が真に自分のものとなります。そうすると「死の陰の谷を歩むとも」恐れる必要などありません。主は「死の陰の谷」も共に歩んで、無事乗り越えられるよう助けてくださるからです。

詩篇23:4「主は私の羊飼い、死の陰の谷も恐れない」

2020年6月14日、詩篇23:4「主は私の羊飼い、死の陰の谷も恐れない」
荒野には危険な「死の陰の谷」がありますが、羊飼いは羊たちと常に「共に」いて、「むちと…つえ」を用いて敵から羊たちを守りました。
「死の陰の谷」や「わざわい」の全くない人生などあり得ません。詩人が「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません」と宣言するのは、「あなたがわたしと共におられるからです」。親や友もありがたい存在ではありますが、いつでもどんな場合でも頼りになるわけではありません。しかし「水の中…川の中…火の中」を行くようなときにも、天地万物の創造者・支配者なる主は、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ、…わたしはあなたと共におる」と言われます(イザヤ書43:1~3)。しかも、復活のイエスが「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言われたように、時々ではなく「世の終りまで、いつも…共に」いてくださるのです。
「聖書のどこを開いても聞こえてくる三つのメッセージがある。それは、『愛している』『共にいる』『恐れるな』の三つである」(岸本望師)。主はこの私を愛し、私と共にいてくださるから恐れる必要はない、という聖書の中心的な約束を自分のものとするために必要なものは、ただ信仰のみです。罪を悔い改め、イエスの十字架を信じるならば、神との間を隔てている罪が取り除かれ、「愛している」「共にいる」「恐れるな」という聖書の約束が真に自分のものとなります。そうすると「死の陰の谷を歩むとも」恐れる必要などありません。主は「死の陰の谷」も共に歩んで、無事乗り越えられるよう助けてくださるからです。