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ヘブル人への手紙11:13~16「天の故郷に憧れて」

2019年9月22日、ヘブル人への手紙11:13~16「天の故郷に憧れて」
信仰によって生き、「信仰をいだいて死んだ」、これが旧約の聖徒たちの生涯の共通点でした。判で押したように「…年生きて…そして死んだ」と記される中、エノクだけは「神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」と特筆されています(創世記5:24)。彼は後世に残るような大事業はしませんでしたが、神と共に歩むという大事業を完成し、神によって永遠に評価される信仰者となりました(5節)。「アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時」、「信仰によって…それに従い、行く先を知らないで出て行った」(8節)ものの、山あり谷あり、妻の亡骸を葬る墓地以外に所有地はなく、「旅人であり寄留者」のような生涯でした。それでも不平不満を漏らさず神に従い続けることができたのは、「もっと良い、天にあるふるさと」、「ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいた」(10節)からです。やがて憧れの天の故郷に迎え入れられ永住するというゴールをしっかり見つめていたからです。そんな「アブラハムは幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ」(創世記25:8、新改訳2017)、悔いのない充実した信仰生涯を全うした人でした。
「飛行機は飛び立つときより着地が難しい。人生も同じだよ」(本田宗一郎氏)。さっそうと離陸して快調に飛行しても、着陸に失敗すれば一巻の終わりです。あなたはどのような人生の着地をしようとしていますか。エノクやアブラハムのように天の故郷をしっかりと見据えながら、「幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ」という神と共なる信仰生涯こそ目指すべき着地ではないでしょうか。

マルコによる福音書3:19b~30「赦される罪、赦されない罪」

2019年9月15日、マルコによる福音書3:19b~30「赦される罪、赦されない罪」
イエスは「ベルゼブルにとりつかれている…悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と律法学者たちが非難すると、イエスは譬えによってその論理の誤りを指摘された上で、人が「犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる」が、「聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」と言われました。悔い改めと信仰によって赦されない罪などこの地上に一つもありません。誰でもいつでもやり直し可能、それがイエスの福音です。イエスが説教や奇跡によって神の愛や力を現しておられるのに、律法学者たちのように受け入れようとしない人こそ「聖霊をけがす者」で、「いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」のです。罪の大小・多少ではなく、悔い改めと信仰の有無が問われているのです。一度限りの行為というよりも、継続した心の姿勢が問われているのです。
神がその人の人生から手を引いて「なすに任せられ」ることほど恐ろしいさばきはありません(ローマ1:24~32)。その恐ろしさを知らないから平気で罪を犯せるのです。罪から離れ、神の愛の中に飛び込むべきだと示されていながら、「また、よい機会を得たら」(使徒行伝24:25)と言い訳して、悔い改めと信仰の決断を先延ばしにしていると、永遠に後悔することになりかねません。それゆえ聖書は、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4:7)、「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」(イザヤ書55:6)と語りかけているのです。御言葉と御霊の光に即刻忠実に従って歩み続けましょう。

マルコによる福音書3:19b~30「赦される罪、赦されない罪」

2019年9月15日、マルコによる福音書3:19b~30「赦される罪、赦されない罪」
イエスは「ベルゼブルにとりつかれている…悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と律法学者たちが非難すると、イエスは譬えによってその論理の誤りを指摘された上で、人が「犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる」が、「聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」と言われました。悔い改めと信仰によって赦されない罪などこの地上に一つもありません。誰でもいつでもやり直し可能、それがイエスの福音です。イエスが説教や奇跡によって神の愛や力を現しておられるのに、律法学者たちのように受け入れようとしない人こそ「聖霊をけがす者」で、「いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」のです。罪の大小・多少ではなく、悔い改めと信仰の有無が問われているのです。一度限りの行為というよりも、継続した心の姿勢が問われているのです。
神がその人の人生から手を引いて「なすに任せられ」ることほど恐ろしいさばきはありません(ローマ1:24~32)。その恐ろしさを知らないから平気で罪を犯せるのです。罪から離れ、神の愛の中に飛び込むべきだと示されていながら、「また、よい機会を得たら」(使徒行伝24:25)と言い訳して、悔い改めと信仰の決断を先延ばしにしていると、永遠に後悔することになりかねません。それゆえ聖書は、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4:7)、「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」(イザヤ書55:6)と語りかけているのです。御言葉と御霊の光に即刻忠実に従って歩み続けましょう。

マルコによる福音書3:13~19a「そばに置いて遣わすため」

2019年9月8日、マルコによる福音書3:13~19a「そばに置いて遣わすため」
イエスは「夜を徹して神に祈られ」(ルカ6:12)、「みこころにかなった者たち(新共同訳「これと思う人々」)」12名を使徒として選ばれました。その目的は「彼らを自分のそばに置くためであり」、「つかわす」ためです。この二つの目的は、私たちが選ばれ救われた目的でもあります。
第一は「自分のそばに置くため」。イエスは寝食を共にして生き方を見せることで、彼らをご自分に倣う者へと造り変えようとされたのです。イエスのそばで御言葉に養われ(ルカ10:39)、イエスの教育・訓練・感化を受け続けるなら、次第にイエスに似てくることでしょう。
第二は「つかわす」ため。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝え」(16:15)る「宣教」のため、「悪霊を追い出す権威を持たせるため」に「つかわす」のです。私たちが先に救われたのは、「救わんがための救い」(ブース大将)、私たちを通して誰かが救われるためです。普段はおしゃべりなのに、「この人による以外に救はない」(使徒行伝4:12)ほどすばらしい福音の宣教となると、どうして途端に無口になってしまうのでしょうか。「今の時を生かして」(エペソ5:16)、「時が良くても悪くても」(Ⅱテモテ4:2)、イエスを証ししたいものです。
12使徒の名簿は、イエスを否認した「ペテロ」に始まり、イエスを裏切った「ユダ」で終わっています。最初から出来上がった人が選ばれたのではないということです。しかしやがてペテロは教会の柱に造り変えられ、「雷の子」ヨハネは愛の人に造り変えられました。ユダを除く使徒の生涯は、イエスのそばで学び、取り扱われ、造り変えられる恵みがいかにすばらしいものであるかを証明しています。

マルコによる福音書3:13~19a「そばに置いて遣わすため」

2019年9月8日、マルコによる福音書3:13~19a「そばに置いて遣わすため」
イエスは「夜を徹して神に祈られ」(ルカ6:12)、「みこころにかなった者たち(新共同訳「これと思う人々」)」12名を使徒として選ばれました。その目的は「彼らを自分のそばに置くためであり」、「つかわす」ためです。この二つの目的は、私たちが選ばれ救われた目的でもあります。
第一は「自分のそばに置くため」。イエスは寝食を共にして生き方を見せることで、彼らをご自分に倣う者へと造り変えようとされたのです。イエスのそばで御言葉に養われ(ルカ10:39)、イエスの教育・訓練・感化を受け続けるなら、次第にイエスに似てくることでしょう。
第二は「つかわす」ため。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝え」(16:15)る「宣教」のため、「悪霊を追い出す権威を持たせるため」に「つかわす」のです。私たちが先に救われたのは、「救わんがための救い」(ブース大将)、私たちを通して誰かが救われるためです。普段はおしゃべりなのに、「この人による以外に救はない」(使徒行伝4:12)ほどすばらしい福音の宣教となると、どうして途端に無口になってしまうのでしょうか。「今の時を生かして」(エペソ5:16)、「時が良くても悪くても」(Ⅱテモテ4:2)、イエスを証ししたいものです。
12使徒の名簿は、イエスを否認した「ペテロ」に始まり、イエスを裏切った「ユダ」で終わっています。最初から出来上がった人が選ばれたのではないということです。しかしやがてペテロは教会の柱に造り変えられ、「雷の子」ヨハネは愛の人に造り変えられました。ユダを除く使徒の生涯は、イエスのそばで学び、取り扱われ、造り変えられる恵みがいかにすばらしいものであるかを証明しています。

マルコによる福音書3:7~12「あなたこそ神の子です」

2019年8月18日、マルコによる福音書3:7~12「あなたこそ神の子です」
イエスが安息日に片手のなえた人を癒されたことで、パリサイ派とヘロデ党が「イエスを殺そうと相談しはじめた」一方(1~6節)、各地から「イエスにさわろうとして、押し寄せてきた」人々もいました。真実に救いを求める人もいたでしょうが、多くはご利益目当ての人でした。イエスを正しく認識していたのは、皮肉にも「けがれた霊ども」で、「あなたこそ神の子です」と認めていました(ヤコブ書2:19)。
あなたも、群衆のようにただイエスの周りを取り囲むだけで、本気で信じようとも従おうともしない人でしょうか。悪魔のようにただイエスについて頭でよく知っているだけの人でしょうか。どんなにイエスについてよく知っていても、どんなにイエスの周りをうろうろしていても、悔い改めと信仰によってイエスにつながることがなければ、いつまでたっても何の変化もあり得ません。「十二年間も長血をわずらっている女が…せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思って」、「群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった」ところ、たちどころに癒されました(5:25~34)。彼女のように明確な願いをもってイエスに近づいて触れることが大切です。そのときイエスも私たちに対して全能の御腕を伸ばして、最善の時に最善の方法でその祈りに答えてくださることでしょう。
「あなたこそ神の子です」と本物の信仰告白をして、イエスと共に歩む信仰生涯に入る決断をすべきではないでしょうか。いつまでも同じところに留まっていないで、「どうせ自分は駄目だ」と諦めていないで、明確な願いをもって一歩踏み出すべきではないでしょうか。

マルコによる福音書3:7~12「あなたこそ神の子です」

2019年8月18日、マルコによる福音書3:7~12「あなたこそ神の子です」
イエスが安息日に片手のなえた人を癒されたことで、パリサイ派とヘロデ党が「イエスを殺そうと相談しはじめた」一方(1~6節)、各地から「イエスにさわろうとして、押し寄せてきた」人々もいました。真実に救いを求める人もいたでしょうが、多くはご利益目当ての人でした。イエスを正しく認識していたのは、皮肉にも「けがれた霊ども」で、「あなたこそ神の子です」と認めていました(ヤコブ書2:19)。
あなたも、群衆のようにただイエスの周りを取り囲むだけで、本気で信じようとも従おうともしない人でしょうか。悪魔のようにただイエスについて頭でよく知っているだけの人でしょうか。どんなにイエスについてよく知っていても、どんなにイエスの周りをうろうろしていても、悔い改めと信仰によってイエスにつながることがなければ、いつまでたっても何の変化もあり得ません。「十二年間も長血をわずらっている女が…せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思って」、「群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった」ところ、たちどころに癒されました(5:25~34)。彼女のように明確な願いをもってイエスに近づいて触れることが大切です。そのときイエスも私たちに対して全能の御腕を伸ばして、最善の時に最善の方法でその祈りに答えてくださることでしょう。
「あなたこそ神の子です」と本物の信仰告白をして、イエスと共に歩む信仰生涯に入る決断をすべきではないでしょうか。いつまでも同じところに留まっていないで、「どうせ自分は駄目だ」と諦めていないで、明確な願いをもって一歩踏み出すべきではないでしょうか。

マルコによる福音書3:1~6「あなたの手を伸ばしなさい」

2019年8月11日、マルコによる福音書3:1~6「あなたの手を伸ばしなさい」
安息日の会堂に「右手のなえた人」(ルカ6:6)がいました。パリサイ人が「イエスを訴えようと思って…うかがってい」ると、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」とイエスに質問されましたが、「彼らは黙ってい」ました。「イエスは怒り…その心のかたくななのを嘆いて」、「手を伸ばしなさい」と言って癒されると、それを機に分離主義の「パリサイ人」と世俗主義の「ヘロデ党」がイエス憎しで一致、「イエスを殺そうと相談しはじめ」ました。
取税人や罪人に対しては怒られなかったイエスですが、自称義人のパリサイ人や律法学者に対しては、その心のかたくなさを嘆き怒られました(11:15~18、マタイ第23章「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである」計8回)。「律法的な信仰が問題なのは…周りの人々を批判することです」(丸屋真也師)。律法的な信仰から恵みに生きる信仰に変わるためにはどうしたらよいのでしょうか。それは、強がるのをやめること、裸の恥を覆い隠す鎧を脱ぎ捨てることです。自分の弱さを正直に認めてへりくだり、神の助けを求めるならば、頑固で傲慢で冷たい「石の心を除いて」、教えられやすく従いやすい、柔らかく温かい「肉の心を与え」られます(エゼキエル書36:26)。「雷の子」(3:17)とあだ名された怒りっぽいヨハネも、愛の使徒に造り変えられました。「『わたしとしたことが、こんなはずじゃなかった』と思うようなことをしてしまったときこそ、自分がどんな人間かを知るチャンス。『わたしはこんな人間だ』と素直に認められたなら、そこから成長が始まるでしょう」(片柳弘史師)。さあ、「手を伸ばしなさい」。

マルコによる福音書3:1~6「あなたの手を伸ばしなさい」

2019年8月11日、マルコによる福音書3:1~6「あなたの手を伸ばしなさい」
安息日の会堂に「右手のなえた人」(ルカ6:6)がいました。パリサイ人が「イエスを訴えようと思って…うかがってい」ると、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」とイエスに質問されましたが、「彼らは黙ってい」ました。「イエスは怒り…その心のかたくななのを嘆いて」、「手を伸ばしなさい」と言って癒されると、それを機に分離主義の「パリサイ人」と世俗主義の「ヘロデ党」がイエス憎しで一致、「イエスを殺そうと相談しはじめ」ました。
取税人や罪人に対しては怒られなかったイエスですが、自称義人のパリサイ人や律法学者に対しては、その心のかたくなさを嘆き怒られました(11:15~18、マタイ第23章「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである」計8回)。「律法的な信仰が問題なのは…周りの人々を批判することです」(丸屋真也師)。律法的な信仰から恵みに生きる信仰に変わるためにはどうしたらよいのでしょうか。それは、強がるのをやめること、裸の恥を覆い隠す鎧を脱ぎ捨てることです。自分の弱さを正直に認めてへりくだり、神の助けを求めるならば、頑固で傲慢で冷たい「石の心を除いて」、教えられやすく従いやすい、柔らかく温かい「肉の心を与え」られます(エゼキエル書36:26)。「雷の子」(3:17)とあだ名された怒りっぽいヨハネも、愛の使徒に造り変えられました。「『わたしとしたことが、こんなはずじゃなかった』と思うようなことをしてしまったときこそ、自分がどんな人間かを知るチャンス。『わたしはこんな人間だ』と素直に認められたなら、そこから成長が始まるでしょう」(片柳弘史師)。さあ、「手を伸ばしなさい」。

ペテロの第一の手紙5:6~11「神が心配してくださるから」

2019年8月4日、ペテロの第一の手紙5:6~11「神が心配してくださるから」
①神にゆだねなさい(6~7節)
「みな互に謙遜を身につけ」るのは、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからで」、「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」と命じています(5~6節)。神の前にへりくだるならば、「時が来れば(新改訳「ちょうど良い時に」)」(伝道の書3:11)、神は必ず「高くして下さる」。「思いわずらい」とは、神への信頼と不信仰という二つの間に心が引き裂かれて揺れ動いている状態のことです。「思いわずらいを…神にゆだねる(投げかける、の意。ルカ19:35「上着をかけて」と同語)」とは、上着を投げかけるように、思いわずらいを「いっさい」合切、神に投げかけることです。「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから」、安心して全部お任せしましょう。
②悪魔に抵抗しなさい(8~11節)
「いっさい神にゆだね」たら、後は何もしなくてよいということではありません。神にゆだねた上で「身を慎み、目をさましていな」ければなりません(マタイ24:42、26:41)。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」からです。「光の天使に擬装」して巧妙に迫ることもあるからです(Ⅱコリント11:14)。この悪魔に対して、まず神への「信仰にかたく立っ」た上で「抵抗」するのです。この順序が大切です(エペソ6:11、ヤコブ4:7)。そうするならば、「きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血」(1:19)によって「永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後」、必ず勝利させてくださるのです。