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ヨハネの第一の手紙5:20「私たちの確信―御子の来臨」

2017年8月20日、ヨハネの第一の手紙5:20「私たちの確信―御子の来臨」
キリスト者の第五の確信は、「神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さった」ということです。永遠の初めから神と共に天におられたキリストが、「言は肉体となり、バレンシアガ 財布コピーわたしたちのうちに宿った」(ヨハネ1:14)、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの…わたしたちに現れた」(1:1)とあるように、私たちと同じ人の姿をとって来臨されました。それは、目に見えない神がどのようなお方であるかを表すためであり(ヨハネ1:18)、キリストは今もその生涯と人格、説教と奇跡を通して私たちに語りかけておられます(ヘブル1:1)。神が人となられただけでも想像を絶することであるのに、何と罪の全くないキリストが「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として」(4:10)十字架につけられて死なれたのです。
私たちがこの真理に目が開かれ信じることができるのは、「神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さった」からに他なりません。そうして十字架を信じる者は「永遠のいのち」を得、「真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおる」、「神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいる」(4:15)のです。復活のイエスは「父と子と聖霊との名によって(中に、の意)…バプテスマを施し」(マタイ28:19)と言われました。悔い改めと信仰によって救われた者は、三位一体の神の中に結合されています。だから「見よ、バレンシアガ コート スーパーコピーわたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言われたのです。
「神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている(知り続けている)」。神の恵みがいかに広く長く高く深いものであるか、生涯かけて味わい知り続けていきましょう。

ヨハネの第一の手紙5:20「私たちの確信―御子の来臨」

2017年8月20日、ヨハネの第一の手紙5:20「私たちの確信―御子の来臨」
キリスト者の第五の確信は、「神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さった」ということです。永遠の初めから神と共に天におられたキリストが、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ1:14)、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの…わたしたちに現れた」(1:1)とあるように、私たちと同じ人の姿をとって来臨されました。それは、目に見えない神がどのようなお方であるかを表すためであり(ヨハネ1:18)、キリストは今もその生涯と人格、説教と奇跡を通して私たちに語りかけておられます(ヘブル1:1)。神が人となられただけでも想像を絶することであるのに、何と罪の全くないキリストが「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として」(4:10)十字架につけられて死なれたのです。
私たちがこの真理に目が開かれ信じることができるのは、「神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さった」からに他なりません。そうして十字架を信じる者は「永遠のいのち」を得、「真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおる」、「神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいる」(4:15)のです。復活のイエスは「父と子と聖霊との名によって(中に、の意)…バプテスマを施し」(マタイ28:19)と言われました。悔い改めと信仰によって救われた者は、三位一体の神の中に結合されています。だから「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言われたのです。
「神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている(知り続けている)」。神の恵みがいかに広く長く高く深いものであるか、生涯かけて味わい知り続けていきましょう。

ヨハネの第一の手紙5:19「私たちの確信―神に属する者」

2017年8月13日、ヨハネの第一の手紙5:19「私たちの確信―神に属する者」
キリスト者の第四の確信は、「わたしたちは神から出た者(新共同訳「神に属する者」)」だということです。しかし以前は「悪しき者(悪魔)の配下に(~の中に横たわっている、の意)」あり、「自分の罪過と罪とによって死んでいた者」(エペソ2:1)でした。放蕩息子が戻って来たとき、父が「このむすこが死んでいたのに生き返り」(ルカ15:24)と言ったように、肉体的には生きていても霊的には死んでいました。そのため「生れながらの怒りの子で」(エペソ2:3)、神の怒りを受けて永遠の滅びを刈り取るべき者でした(ヘブル9:27、ローマ6:23)。「しかるに、あわれみに富む神は」(エペソ2:4)御子イエスの十字架と復活によって救いを完成され、「恵みにより、信仰によ」って(エペソ2:8)「神から生れ」(18節)、「神に属する者」として下さいました。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」(哀歌3:22、新改訳)とあるように、「主の恵み…主のあわれみ」以外の何ものでもありません。
「良いわざに熱心な選びの民(文語訳「特選の民」)」らしく「良い行いをして日を過ごす」ことにより、私たちの作者・造り主である神がいかにすばらしいお方であるかが人々に明らかにされることを神は望んでおられるのです(エペソ2:10、テトス2:14)。私たちはこの世の基準からすれば、特選どころか、佳作や入選にさえ選ばれるかどうかわからない、まさに「無きに等しい者」(Ⅰコリント1:28)です。そんな私たちのために「キリストが…ご自身をささげられた」というのですから、何と驚くべきことか。それほど神は私たちを「高価で尊い」存在とみなしておられ、期待されているということです。それゆえ「神に属する者」「特選の民」という身分を忘れて、神の御名を汚してはなりません。

ヨハネの第一の手紙5:19「私たちの確信―神に属する者」

2017年8月13日、ヨハネの第一の手紙5:19「私たちの確信―神に属する者」
キリスト者の第四の確信は、「わたしたちは神から出た者(新共同訳「神に属する者」)」だということです。しかし以前は「悪しき者(悪魔)の配下に(~の中に横たわっている、の意)」あり、「自分の罪過と罪とによって死んでいた者」(エペソ2:1)でした。放蕩息子が戻って来たとき、父が「このむすこが死んでいたのに生き返り」(ルカ15:24)と言ったように、肉体的には生きていても霊的には死んでいました。そのため「生れながらの怒りの子で」(エペソ2:3)、神の怒りを受けて永遠の滅びを刈り取るべき者でした(ヘブル9:27、ローマ6:23)。「しかるに、あわれみに富む神は」(エペソ2:4)御子イエスの十字架と復活によって救いを完成され、「恵みにより、信仰によ」って(エペソ2:8)「神から生れ」(18節)、「神に属する者」として下さいました。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」(哀歌3:22、新改訳)とあるように、「主の恵み…主のあわれみ」以外の何ものでもありません。
「良いわざに熱心な選びの民(文語訳「特選の民」)」らしく「良い行いをして日を過ごす」ことにより、私たちの作者・造り主である神がいかにすばらしいお方であるかが人々に明らかにされることを神は望んでおられるのです(エペソ2:10、テトス2:14)。私たちはこの世の基準からすれば、特選どころか、佳作や入選にさえ選ばれるかどうかわからない、まさに「無きに等しい者」(Ⅰコリント1:28)です。そんな私たちのために「キリストが…ご自身をささげられた」というのですから、何と驚くべきことか。それほど神は私たちを「高価で尊い」存在とみなしておられ、期待されているということです。それゆえ「神に属する者」「特選の民」という身分を忘れて、神の御名を汚してはなりません。

ヨハネの第一の手紙5:18「私たちの確信―罪の中に生きない」

2017年7月30日、ヨハネの第一の手紙5:18「私たちの確信―罪の中に生きない」
キリスト者の第三の確信は、「すべて神から生れた者は罪を犯さない(新改訳「罪の中に生きない」」ことで、その理由が二つ記されています。
①神から生まれたゆえ
不完全さゆえの罪や失敗はありますが、平気で習慣的に罪を犯し続けることなどもはやできないのがキリスト者です。罪を悔い改めて十字架を信じることによって(使徒行伝20:21)、「神から生れた者」、「新しく(上から、新たに、の意)生れ」(ヨハネ3:3)た者には、「神の種(神の御言葉、神の御霊、神の性質)が、その人のうちにとどまっているから」(3:9)です。
②キリストの守りゆえ
「悪しき者(悪魔)」は「ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回って」(Ⅰペテロ5:8)、神に従って歩もうとする者に戦いを挑んできます。キリストに対しても、神の救いのご計画を台無しにしようとして、公生涯の最初から最後まで執拗に誘惑し続けました(マタイ4:1~11、16:21~23、27:39~44他)。この悪魔の手ごわさをよくご存じのイエスは、十字架前夜、「御名によって彼らを守って下さい…彼らを悪しき者から守って下さる」(ヨハネ17:11、15)ように、と祈られました。羊飼いは夕方、羊を家の中庭に造られた「羊の囲い」に連れ帰り、「門番」が一晩中警備し、ときには羊飼い自身が門に身を横たえて休み、狼や羊泥棒から守りました(ヨハネ10:1~18)。このようにキリストが体を張って時々刻々「守っていて下さるので、悪しき者が手を触れる(害を与えるためにしっかりつかむ、の意)ようなことはない」と信じて、キリストに信頼して歩むならば、「救にあずかるために、信仰により神の御力に守られている」(Ⅰペテロ1:5)ということが実現するのです。

ヨハネの第一の手紙5:18「私たちの確信―罪の中に生きない」

2017年7月30日、ヨハネの第一の手紙5:18「私たちの確信―罪の中に生きない」
キリスト者の第三の確信は、「すべて神から生れた者は罪を犯さない(新改訳「罪の中に生きない」」ことで、その理由が二つ記されています。
①神から生まれたゆえ
不完全さゆえの罪や失敗はありますが、平気で習慣的に罪を犯し続けることなどもはやできないのがキリスト者です。罪を悔い改めて十字架を信じることによって(使徒行伝20:21)、「神から生れた者」、「新しく(上から、新たに、の意)生れ」(ヨハネ3:3)た者には、「神の種(神の御言葉、神の御霊、神の性質)が、その人のうちにとどまっているから」(3:9)です。
②キリストの守りゆえ
「悪しき者(悪魔)」は「ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回って」(Ⅰペテロ5:8)、神に従って歩もうとする者に戦いを挑んできます。キリストに対しても、神の救いのご計画を台無しにしようとして、公生涯の最初から最後まで執拗に誘惑し続けました(マタイ4:1~11、16:21~23、27:39~44他)。この悪魔の手ごわさをよくご存じのイエスは、十字架前夜、「御名によって彼らを守って下さい…彼らを悪しき者から守って下さる」(ヨハネ17:11、15)ように、と祈られました。羊飼いは夕方、羊を家の中庭に造られた「羊の囲い」に連れ帰り、「門番」が一晩中警備し、ときには羊飼い自身が門に身を横たえて休み、狼や羊泥棒から守りました(ヨハネ10:1~18)。このようにキリストが体を張って時々刻々「守っていて下さるので、悪しき者が手を触れる(害を与えるためにしっかりつかむ、の意)ようなことはない」と信じて、キリストに信頼して歩むならば、「救にあずかるために、信仰により神の御力に守られている」(Ⅰペテロ1:5)ということが実現するのです。

ヨハネの第一の手紙5:16~17「私たちの確信―祈り②」

2017年7月23日、ヨハネの第一の手紙5:16~17「私たちの確信―祈り②」
「何事でも…願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さる」という確信は、とりなしの祈りへと導かれていくはずです。「だれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見」ても、もし愛がなければ、「自分とは関係ない」と見て見ぬふりをするか、心の中で軽蔑するか、人々に面白おかしくふれ回るかのいずれかでしょう。しかし永遠のいのちを得、祈りは聞かれることを確信している者はそうであってはならない、「神に願い求めなさい」とヨハネは言います。しかし「死に至る罪…については、願い求めよ、とは言わない」と言いますが、「願い求めよ、とは言わない」であって、「願い求めるな。願い求める必要などない」とは言っていません。これは、祈るべき場合と祈るべきでない場合とをしっかり見分けよ、と言っているわけでは決してないのです。「死に至ることのない罪」か「死に至る罪」かは、私たち人間が決めるべきことではなく、神がお決めになることであって、神の領域です。私たちがなすべきことは、判別することではなく、そのような兄弟姉妹をなおも愛して、とりなし祈ることなのです。
兄弟姉妹が真理の道・信仰の道からそれたり後退したりしている場合も、それを傍観・放任するのでなく、自分のことのように痛みを感じ、「迷いの道から引きもどす」努力をする責任があります(ヤコブ5:19~20)。忠告を拒絶されても、なおさらその人のために熱心に祈りましょう。「もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:15~20)。

ヨハネの第一の手紙5:16~17「私たちの確信―祈り②」

2017年7月23日、ヨハネの第一の手紙5:16~17「私たちの確信―祈り②」
「何事でも…願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さる」という確信は、とりなしの祈りへと導かれていくはずです。「だれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見」ても、もし愛がなければ、「自分とは関係ない」と見て見ぬふりをするか、心の中で軽蔑するか、人々に面白おかしくふれ回るかのいずれかでしょう。しかし永遠のいのちを得、祈りは聞かれることを確信している者はそうであってはならない、「神に願い求めなさい」とヨハネは言います。しかし「死に至る罪…については、願い求めよ、とは言わない」と言いますが、「願い求めよ、とは言わない」であって、「願い求めるな。願い求める必要などない」とは言っていません。これは、祈るべき場合と祈るべきでない場合とをしっかり見分けよ、と言っているわけでは決してないのです。「死に至ることのない罪」か「死に至る罪」かは、私たち人間が決めるべきことではなく、神がお決めになることであって、神の領域です。私たちがなすべきことは、判別することではなく、そのような兄弟姉妹をなおも愛して、とりなし祈ることなのです。
兄弟姉妹が真理の道・信仰の道からそれたり後退したりしている場合も、それを傍観・放任するのでなく、自分のことのように痛みを感じ、「迷いの道から引きもどす」努力をする責任があります(ヤコブ5:19~20)。忠告を拒絶されても、なおさらその人のために熱心に祈りましょう。「もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:15~20)。

使徒行伝7:54~8:3「的が外れていませんか」

2017年7月16日、使徒行伝7:54~8:3「的が外れていませんか」
サウロは律法を守ることによって神に義と認められようと懸命でしたが、少し前にイエスが十字架につけられて死んだ事件がありました。イエスは罪の全くない神の御子でありながら、全人類の罪を背負って十字架につけられ、神にさばかれて死なれたこと、三日目に復活されたこと、このイエスこそ約束の救い主で、イエスを信じるだけで義と認められることを宣ベ伝えていたのがステパノです。
反対者たちはステパノと議論したものの、ステパノが「知恵と御霊とで語っていたので、それに対抗できなかった」(6:10)ため、ステパノを捕えて議会に引き出しました。ステパノはイスラエルの歴史を回顧した後、「正しいかた(イエス)の来ることを予告した人たち(預言者)を殺し」、さらに「その正しいかた(イエス)を裏切る者、また殺す者となった」彼らの罪を鋭く指摘しました(7:51~53)。「これを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした」彼らの怒りは、「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」という言葉で頂点に達し、ステパノを石打ちの刑に処すと、ステパノは「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」と自分自身のために祈り(ルカ23:46)、続いて「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と迫害者のために祈って召天しました(ルカ23:34)。
ステパノの殉教はサウロに大きな衝撃を与え、迫害者からイエスの弟子に造り変えることになりました。「聖書は、『神の国は真面目なだけではダメだ』と語るのです。狭い門は、ただ恵みに信頼するだけでよいと思えたとき…スッと入る、何の狭さもない、その向こうに広い恵みの世界が拡がっているすばらしい門です」(河村従彦師)。

ヨハネの第一の手紙5:14~15「私たちの確信―祈り」

2017年7月9日、ヨハネの第一の手紙5:14~15「私たちの確信―祈り」
キリスト者の第二の確信は、「わたしたちが何事でも…願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さる」ということです(3:22、ヨハネ14:13)。ただし、「神の御旨に従って願い求めるなら」という条件付きです。イエスは十字架前夜、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と三度も祈られましたが、十字架以外に救いの方法はないというのが「神の御旨」でした(マタイ26:36~46)。パウロは肉体的弱さを取り除いてくれるよう何度も祈りましたが、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」というのが「神の御旨」でした(Ⅱコリント12:1~10)。祈ったとおりには答えられない祈りが確かにあります。「天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」(マタイ7:11)とあるように、神は、「祈ったとおりのもの」ではなく、私たちにとって真に「良いもの」だけをお与え下さいます。私たちが祈り願う以上に、神ははるかにすばらしい御旨を持っておられるお方なのです。それゆえ、祈ったとおりに答えられたときはもちろん感謝ですが、そのとおりに答えられなかったときにも神に感謝すべきでしょう。
「神に願い求めたことはすでにかなえられた(持っている、の意)」とは、今ささげた祈りはその瞬間神に聞かれ、祈りの答えをすでに持っており、あとは神がいかにその答えを見せて下さるかだけだ、ということです(マルコ11:24)。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」(マタイ24:35)という永遠不変の御言葉がこう約束しているのですら、私たちはもっと大胆に神に祈り、目に見える現実がどうであれ、祈りは聞かれたと確信して待ち望みましょう。