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ヨハネによる福音書3:1~15「新しく生まれる」

2020年3月8日、ヨハネによる福音書3:1~15「新しく生まれる」
ニコデモは、宗教的には律法を厳格に守る「パリサイ人」、社会的には「ユダヤ人の指導者(最高議会の議員)」でした。「年をとってから」と自ら言うように老人であり、後にイエスを葬るため「没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきた」(19:39)金持ちでもあったでしょう。その彼が「夜イエスのもとに」来ました。「夜」(本書では多くの場合、霊的暗黒を暗示。9:4、11:10、13:30)は、彼の霊的暗黒状態、真の光を渇き求める心を暗示しています。律法を守り行っていても、神の国に入れるという確信がなく、魂には依然として「夜」の部分があったのでしょう。
そんなニコデモにイエスが「だれでも新しく(上から、新たに、という二重の意)生れなければ、神の国を見ることはできない」と言われると、霊的盲目の彼は「…もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」と言う頓珍漢ぶり。そこでイエスは「水と霊(新生における聖霊の働きのことであろう)とから生れなければ、神の国にはいることはできない」、聖霊によって新生しなければ神の国に入れない、と再度言われました。「風」と同じで「霊」も目に見えませんが、聖霊は「思いのままに」働いて人を新生に導きます。「不思議に思うには及」びません。
続いて、「モーセが荒野でへびを上げた」出来事を引用して(民数記21:4~9)、「人の子もまた上げられなければならない(十字架、さらには復活・昇天をも意味)」と言われました。イスラエルが青銅の蛇を仰ぎ見て生きたように、全人類の罪の身代わりとして十字架に上げられて死に、三日目に死から引き上げられ、天に引き上げられたイエスを救い主と信じ仰ぐ者は、新しく上から生まれ、「永遠の命を得る」のです。

マルコによる福音書5:21~24、35~43「ただ信じていなさい」

2020年3月1日、マルコによる福音書5:21~24・35~43「ただ信じていなさい」
「会堂司のひとりであるヤイロ」が「死にかかってい」る娘のために「おいでになって、手をおいてやってください」とイエスにしきりに懇願すると、その信仰に答えて「イエスは彼と一緒に出かけられ」ました。ヤイロのように必死に祈り求めることを主は待っておられます。ハンナも「主の前に心を注ぎ出して」祈り抜き、やがて「その顔は、もはや悲しげではなくなった」のは、祈りが聞かれたと確信したからです。サムエルが与えられたのは、それからほどなくしてのことです(サムエル記上 第1章)。適当なところで立ち上がるから、いつまでたっても真の勝利が来ないのです。徹底的に祈り抜くことが大切です。
ヤイロの懇願に答えてすぐ出発したものの、「大ぜいの群衆」や長血の女に時間を取られているうちに、娘の死の知らせが届きました。ところが「イエスは…聞き流して(傍らで聞く、無視する、の意)…『恐れることはない(恐れているのを止めなさい、の意)。ただ信じなさい(信じ続けなさい、の意)』」と言われました。イエスは私たちの声をすぐ傍らで聞いておられますが、聞いても益にならない声は無視して聞き流されます。少年ダビデも巨人ゴリアテと戦うとき、人々は「無謀だ」と決めつけましたが、ダビデは「この戦いは主の戦いで」、主が勝利させてくださると確信していました(サムエル記上 第17章)。私たちも日々、世の声に翻弄され、神の御言葉よりも世の常識を優先してしまいそうになります。現実だけを見て、神を見失いそうになります。イエスはそんな弱い私たちに対して、周りの声など無視して聞き流しなさい、「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけておられるのです。

マルコによる福音書5:21~24、35~43「ただ信じていなさい」5

2020年3月1日、マルコによる福音書5:21~24、35~43「ただ信じていなさい」
「会堂司のひとりであるヤイロ」が「死にかかってい」る娘のために「おいでになって、手をおいてやってください」とイエスにしきりに懇願すると、その信仰に答えて「イエスは彼と一緒に出かけられ」ました。ヤイロのように必死に祈り求めることを主は待っておられます。ハンナも「主の前に心を注ぎ出して」祈り抜き、やがて「その顔は、もはや悲しげではなくなった」のは、祈りが聞かれたと確信したからです。サムエルが与えられたのは、それからほどなくしてのことです(サムエル記上 第1章)。適当なところで立ち上がるから、いつまでたっても真の勝利が来ないのです。徹底的に祈り抜くことが大切です。
ヤイロの懇願に答えてすぐ出発したものの、「大ぜいの群衆」や長血の女に時間を取られているうちに、娘の死の知らせが届きました。ところが「イエスは…聞き流して(傍らで聞く、無視する、の意)…『恐れることはない(恐れているのを止めなさい、の意)。ただ信じなさい(信じ続けなさい、の意)』」と言われました。イエスは私たちの声をすぐ傍らで聞いておられますが、聞いても益にならない声は無視して聞き流されます。少年ダビデも巨人ゴリアテと戦うとき、人々は「無謀だ」と決めつけましたが、ダビデは「この戦いは主の戦いで」、主が勝利させてくださると確信していました(サムエル記上 第17章)。私たちも日々、世の声に翻弄され、神の御言葉よりも世の常識を優先してしまいそうになります。現実だけを見て、神を見失いそうになります。イエスはそんな弱い私たちに対して、周りの声など無視して聞き流しなさい、「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけておられるのです。

マルコによる福音書5:21~34「信仰のタッチ」

2020年2月23日、マルコによる福音書5:21~34「信仰のタッチ」
①長血の女の苦痛(25~26節)
「十二年間も長血をわずらっている女が…多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費やしてしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方で」、しかも律法によって「汚れた者」とみなされ、社会からも阻害されていました(レビ記15:25~30)。肉体的・経済的・社会的に苦しみ続けた女性でした。
②長血の女の信仰(27~34節)
イエスの評判(3:10)を聞いた彼女は、「せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていた(直訳「言い続けていた」)」、毎日毎日自分に言い聞かせていました。遂に念願のチャンスが到来すると、勇気を振り絞って「群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわ」りました。すると彼女は即刻癒され、「イエスは…自分の内から力が出て行ったことに気づかれ」ました。そして「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」と癒しと赦しの宣言をされました。
群衆は「四方八方から押し迫って…取り巻いて」(詳訳)いる状態で、イエスに触ったのは彼女だけではなかったでしょうが、イエスの「内から力が出て行」くような触り方をしたのは彼女だけでした。群衆の場合は単なる物理的タッチに過ぎなかったのに対して(6:5~6)、彼女の場合は明確な願いに基づく信仰のタッチであったからです(詩篇50:15)。イエスの周りをウロウロするだけでは何の変革も起こりません。明確な願いをもってイエスに近づき、イエスが「さわられた」と感じるような信仰のタッチをしましょう。これこそ信仰者必携の武器です。

マルコによる福音書5:21~34「信仰のタッチ」

2020年2月23日、マルコによる福音書5:21~34「信仰のタッチ」
①長血の女の苦痛(25~26節)
「十二年間も長血をわずらっている女が…多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費やしてしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方で」、しかも律法によって「汚れた者」とみなされ、社会からも阻害されていました(レビ記15:25~30)。肉体的・経済的・社会的に苦しみ続けた女性でした。
②長血の女の信仰(27~34節)
イエスの評判(3:10)を聞いた彼女は、「せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていた(直訳「言い続けていた」)」、毎日毎日自分に言い聞かせていました。遂に念願のチャンスが到来すると、勇気を振り絞って「群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわ」りました。すると彼女は即刻癒され、「イエスは…自分の内から力が出て行ったことに気づかれ」ました。そして「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」と癒しと赦しの宣言をされました。
群衆は「四方八方から押し迫って…取り巻いて」(詳訳)いる状態で、イエスに触ったのは彼女だけではなかったでしょうが、イエスの「内から力が出て行」くような触り方をしたのは彼女だけでした。群衆の場合は単なる物理的タッチに過ぎなかったのに対して(6:5~6)、彼女の場合は明確な願いに基づく信仰のタッチであったからです(詩篇50:15)。イエスの周りをウロウロするだけでは何の変革も起こりません。明確な願いをもってイエスに近づき、イエスが「さわられた」と感じるような信仰のタッチをしましょう。これこそ信仰者必携の武器です。

マルコによる福音書5:1~20「あなたの家族のもとに帰って」

2020年2月16日、マルコによる福音書5:1~20「あなたの家族のもとに帰って」
「悪霊につかれた人」が回復されると、「お供をしたいと願い出」ました。「しかし、イエスはお許しにならないで」、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」とお命じになりました。それは、異邦の町ゆえ誤ったメシヤ観が広まる恐れがなかったため(⇔1:44)、長年心配かけた家族に責任を果たさせるためでしょう。彼は「ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ」ました。
この私を愛し、十字架上で死んで復活された御子イエスを信じて救われているならば、「主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか」、喜びと感謝にあふれて人々に証しするはずではないでしょうか。しかし今のあなたを神がご覧になったとき、「あなたは初めの愛から離れてしまった…冷たくもなく、熱くもない」(黙示録2:4、3:15)と言われないでしょうか。「どこから落ちたかを思い起し」(黙示録2:5)、「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみ」(イザヤ書51:1)るべきではありませんか。「伝道の本質は、伝えたいと願っているその人への愛です。あなたが伝えたい人が、あなたの大切な家族であったり、恋人であったり、友達であったりするならば、その人が福音を知らないまま、生きていくことを『まあ、いいか』と終わらせたりできないでしょう…愛するとは、諦めないことです…大切なことは、信じていることにあなたがまず感動をしていることです。そのためにはあなたが口にした福音そのものを、しっかり味わうことです」(大嶋重徳師)。

マルコによる福音書5:1~20「あなたの家族のもとに帰って」

2020年2月16日、マルコによる福音書5:1~20「あなたの家族のもとに帰って」
「悪霊につかれた人」が回復されると、「お供をしたいと願い出」ました。「しかし、イエスはお許しにならないで」、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」とお命じになりました。それは、異邦の町ゆえ誤ったメシヤ観が広まる恐れがなかったため(⇔1:44)、長年心配かけた家族に責任を果たさせるためでしょう。彼は「ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ」ました。
この私を愛し、十字架上で死んで復活された御子イエスを信じて救われているならば、「主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか」、喜びと感謝にあふれて人々に証しするはずではないでしょうか。しかし今のあなたを神がご覧になったとき、「あなたは初めの愛から離れてしまった…冷たくもなく、熱くもない」(黙示録2:4、3:15)と言われないでしょうか。「どこから落ちたかを思い起し」(黙示録2:5)、「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみ」(イザヤ書51:1)るべきではありませんか。「伝道の本質は、伝えたいと願っているその人への愛です。あなたが伝えたい人が、あなたの大切な家族であったり、恋人であったり、友達であったりするならば、その人が福音を知らないまま、生きていくことを『まあ、いいか』と終わらせたりできないでしょう…愛するとは、諦めないことです…大切なことは、信じていることにあなたがまず感動をしていることです。そのためにはあなたが口にした福音そのものを、しっかり味わうことです」(大嶋重徳師)。

マルコによる福音書5:1~20「墓場の人生からの回復」

2020年2月9日、マルコによる福音書5:1~20「墓場の人生からの回復」
「激しい突風」のガリラヤ湖を渡り(4:35~41)、「向こう岸、ゲラサ人の地に着」くと、「けがれた霊につかれた人が墓場から出てき」ました。「墓場をすみかと」する、孤独で希望のない人。「もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けな」い、凶暴な人。「夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけ」る、自制心を失った人。「石で自分のからだを傷つけ」る、自分自身を受け入れ愛することができずに憎む人。これは、神のもとを離れ、自己中心に生きている罪人の姿でもあります。
地元カペナウムでは「大ぜいの群衆」がイエスを捜し求めていましたが(21節)、「けがれた霊につかれた人」を回復するために、1匹の迷子の羊を捜し出して救うためだけに(ルカ15:4~7)、イエスは大嵐のガリラヤ湖を渡られたのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43:4)、私たち一人ひとりも神にとってかけがえのない大切な存在です。神に造られ生かされていながら、神から迷い出てしまい、本来持っている価値を失い、力を十分発揮できずにいる私たち人間を、悪魔の支配から解放し、本来の姿に回復するために、イエスは来臨され、十字架と復活による救いを成し遂げてくださったのです。
「けがれた霊につかれた人」が救われるために、豚2千匹が犠牲になりました。私たち罪人を救うために神の御子イエスは、「がけから海へなだれを打って駆け下」ったどころか、十字架上で死んで黄泉にまで下られました。御子イエスを犠牲にしてでも少しも惜しくない、それほどあなたは「高価で尊い」存在なのです。だから神はあなたをも何とか回復したい、健全になってほしいと願っておられるのです。

マルコによる福音書5:1~20「墓場の人生からの回復」

2020年2月9日、マルコによる福音書5:1~20「墓場の人生からの回復」
「激しい突風」のガリラヤ湖を渡り(4:35~41)、「向こう岸、ゲラサ人の地に着」くと、「けがれた霊につかれた人が墓場から出てき」ました。「墓場をすみかと」する、孤独で希望のない人。「もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けな」い、凶暴な人。「夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけ」る、自制心を失った人。「石で自分のからだを傷つけ」る、自分自身を受け入れ愛することができずに憎む人。これは、神のもとを離れ、自己中心に生きている罪人の姿でもあります。
地元カペナウムでは「大ぜいの群衆」がイエスを捜し求めていましたが(21節)、「けがれた霊につかれた人」を回復するために、1匹の迷子の羊を捜し出して救うためだけに(ルカ15:4~7)、イエスは大嵐のガリラヤ湖を渡られたのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43:4)、私たち一人ひとりも神にとってかけがえのない大切な存在です。神に造られ生かされていながら、神から迷い出てしまい、本来持っている価値を失い、力を十分発揮できずにいる私たち人間を、悪魔の支配から解放し、本来の姿に回復するために、イエスは来臨され、十字架と復活による救いを成し遂げてくださったのです。
「けがれた霊につかれた人」が救われるために、豚2千匹が犠牲になりました。私たち罪人を救うために神の御子イエスは、「がけから海へなだれを打って駆け下」ったどころか、十字架上で死んで黄泉にまで下られました。御子イエスを犠牲にしてでも少しも惜しくない、それほどあなたは「高価で尊い」存在なのです。だから神はあなたをも何とか回復したい、健全になってほしいと願っておられるのです。

マタイによる福音書25:14~30「良い忠実な僕よ、よくやった」

2020年2月2日、マタイによる福音書25:14~30「良い忠実な僕よ、よくやった」
①タラントの委託
主人が僕に財産を預けたように、主は各人にタラント(賜物)を託しておられます。その分量は千差万別ですが、最少の者でも一タラント(約6千万円)ですから、決して少なくはありません。主の愛のご配慮により「それぞれの能力に応じて」ちょうど良い具合に配分されているのですから、他人と比較せず、自分の賜物を感謝して受入れましょう。
②タラントの活用
五タラントと二タラントの僕は商売をして儲けを得、どちらも二倍にしました。一方、一タラントの僕は、主人への反感や不満から冷淡で消極的な姿勢をとり、ただ地中に隠しただけでした。結局、賜物を忠実に活用するか否かは、十字架によって罪赦され、主の僕とされていることをどれだけ感謝し、喜んでいるかにかかっています。
③タラントの清算
主人が帰ってくると僕たちは結果報告し、五タラントと二タラントの僕は「良い忠実な僕よ」と称賛されましたが、一タラントの僕は外の暗闇に追い出されました。キリスト再臨後、私たちも決算報告を求められます。その際、成果の大小ではなく、賜物をどれだけ忠実に活用したかによって評価されます。「神様は『恵みはあなたの上に十分だ』と仰っているのです。問題は賜物がないと決めつけているあなた自身です。その理由は、賜物を才能と勘違いしていることです。賜物とは神様からのたまわりもので…時間、機会、関心をも磨いて、神様にお役に立つ生涯を歩んでほしいと思います」(大嶋重徳師)。