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ヨハネの第一の手紙5:16~17「私たちの確信―祈り②」

2017年7月23日、ヨハネの第一の手紙5:16~17「私たちの確信―祈り②」
「何事でも…願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さる」という確信は、とりなしの祈りへと導かれていくはずです。「だれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見」ても、もし愛がなければ、「自分とは関係ない」と見て見ぬふりをするか、心の中で軽蔑するか、人々に面白おかしくふれ回るかのいずれかでしょう。しかし永遠のいのちを得、祈りは聞かれることを確信している者はそうであってはならない、「神に願い求めなさい」とヨハネは言います。しかし「死に至る罪…については、願い求めよ、とは言わない」と言いますが、「願い求めよ、とは言わない」であって、「願い求めるな。願い求める必要などない」とは言っていません。これは、祈るべき場合と祈るべきでない場合とをしっかり見分けよ、と言っているわけでは決してないのです。「死に至ることのない罪」か「死に至る罪」かは、私たち人間が決めるべきことではなく、神がお決めになることであって、神の領域です。私たちがなすべきことは、判別することではなく、そのような兄弟姉妹をなおも愛して、とりなし祈ることなのです。
兄弟姉妹が真理の道・信仰の道からそれたり後退したりしている場合も、それを傍観・放任するのでなく、自分のことのように痛みを感じ、「迷いの道から引きもどす」努力をする責任があります(ヤコブ5:19~20)。忠告を拒絶されても、なおさらその人のために熱心に祈りましょう。「もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:15~20)。

ヨハネの第一の手紙5:16~17「私たちの確信―祈り②」

2017年7月23日、ヨハネの第一の手紙5:16~17「私たちの確信―祈り②」
「何事でも…願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さる」という確信は、とりなしの祈りへと導かれていくはずです。「だれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見」ても、もし愛がなければ、「自分とは関係ない」と見て見ぬふりをするか、心の中で軽蔑するか、人々に面白おかしくふれ回るかのいずれかでしょう。しかし永遠のいのちを得、祈りは聞かれることを確信している者はそうであってはならない、「神に願い求めなさい」とヨハネは言います。しかし「死に至る罪…については、願い求めよ、とは言わない」と言いますが、「願い求めよ、とは言わない」であって、「願い求めるな。願い求める必要などない」とは言っていません。これは、祈るべき場合と祈るべきでない場合とをしっかり見分けよ、と言っているわけでは決してないのです。「死に至ることのない罪」か「死に至る罪」かは、私たち人間が決めるべきことではなく、神がお決めになることであって、神の領域です。私たちがなすべきことは、判別することではなく、そのような兄弟姉妹をなおも愛して、とりなし祈ることなのです。
兄弟姉妹が真理の道・信仰の道からそれたり後退したりしている場合も、それを傍観・放任するのでなく、自分のことのように痛みを感じ、「迷いの道から引きもどす」努力をする責任があります(ヤコブ5:19~20)。忠告を拒絶されても、なおさらその人のために熱心に祈りましょう。「もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:15~20)。

使徒行伝7:54~8:3「的が外れていませんか」

2017年7月16日、使徒行伝7:54~8:3「的が外れていませんか」
サウロは律法を守ることによって神に義と認められようと懸命でしたが、少し前にイエスが十字架につけられて死んだ事件がありました。イエスは罪の全くない神の御子でありながら、全人類の罪を背負って十字架につけられ、神にさばかれて死なれたこと、三日目に復活されたこと、このイエスこそ約束の救い主で、イエスを信じるだけで義と認められることを宣ベ伝えていたのがステパノです。
反対者たちはステパノと議論したものの、ステパノが「知恵と御霊とで語っていたので、それに対抗できなかった」(6:10)ため、ステパノを捕えて議会に引き出しました。ステパノはイスラエルの歴史を回顧した後、「正しいかた(イエス)の来ることを予告した人たち(預言者)を殺し」、さらに「その正しいかた(イエス)を裏切る者、また殺す者となった」彼らの罪を鋭く指摘しました(7:51~53)。「これを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした」彼らの怒りは、「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」という言葉で頂点に達し、ステパノを石打ちの刑に処すと、ステパノは「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」と自分自身のために祈り(ルカ23:46)、続いて「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と迫害者のために祈って召天しました(ルカ23:34)。
ステパノの殉教はサウロに大きな衝撃を与え、迫害者からイエスの弟子に造り変えることになりました。「聖書は、『神の国は真面目なだけではダメだ』と語るのです。狭い門は、ただ恵みに信頼するだけでよいと思えたとき…スッと入る、何の狭さもない、その向こうに広い恵みの世界が拡がっているすばらしい門です」(河村従彦師)。

ヨハネの第一の手紙5:14~15「私たちの確信―祈り」

2017年7月9日、ヨハネの第一の手紙5:14~15「私たちの確信―祈り」
キリスト者の第二の確信は、「わたしたちが何事でも…願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さる」ということです(3:22、ヨハネ14:13)。ただし、「神の御旨に従って願い求めるなら」という条件付きです。イエスは十字架前夜、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と三度も祈られましたが、十字架以外に救いの方法はないというのが「神の御旨」でした(マタイ26:36~46)。パウロは肉体的弱さを取り除いてくれるよう何度も祈りましたが、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」というのが「神の御旨」でした(Ⅱコリント12:1~10)。祈ったとおりには答えられない祈りが確かにあります。「天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」(マタイ7:11)とあるように、神は、「祈ったとおりのもの」ではなく、私たちにとって真に「良いもの」だけをお与え下さいます。私たちが祈り願う以上に、神ははるかにすばらしい御旨を持っておられるお方なのです。それゆえ、祈ったとおりに答えられたときはもちろん感謝ですが、そのとおりに答えられなかったときにも神に感謝すべきでしょう。
「神に願い求めたことはすでにかなえられた(持っている、の意)」とは、今ささげた祈りはその瞬間神に聞かれ、祈りの答えをすでに持っており、あとは神がいかにその答えを見せて下さるかだけだ、ということです(マルコ11:24)。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」(マタイ24:35)という永遠不変の御言葉がこう約束しているのですら、私たちはもっと大胆に神に祈り、目に見える現実がどうであれ、祈りは聞かれたと確信して待ち望みましょう。

ヨハネの第一の手紙5:14~15「私たちの確信―祈り」

2017年7月9日、ヨハネの第一の手紙5:14~15「私たちの確信―祈り」
キリスト者の第二の確信は、「わたしたちが何事でも…願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さる」ということです(3:22、ヨハネ14:13)。ただし、「神の御旨に従って願い求めるなら」という条件付きです。イエスは十字架前夜、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と三度も祈られましたが、十字架以外に救いの方法はないというのが「神の御旨」でした(マタイ26:36~46)。パウロは肉体的弱さを取り除いてくれるよう何度も祈りましたが、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」というのが「神の御旨」でした(Ⅱコリント12:1~10)。祈ったとおりには答えられない祈りが確かにあります。「天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」(マタイ7:11)とあるように、神は、「祈ったとおりのもの」ではなく、私たちにとって真に「良いもの」だけをお与え下さいます。私たちが祈り願う以上に、神ははるかにすばらしい御旨を持っておられるお方なのです。それゆえ、祈ったとおりに答えられたときはもちろん感謝ですが、そのとおりに答えられなかったときにも神に感謝すべきでしょう。
「神に願い求めたことはすでにかなえられた(持っている、の意)」とは、今ささげた祈りはその瞬間神に聞かれ、祈りの答えをすでに持っており、あとは神がいかにその答えを見せて下さるかだけだ、ということです(マルコ11:24)。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」(マタイ24:35)という永遠不変の御言葉がこう約束しているのですら、私たちはもっと大胆に神に祈り、目に見える現実がどうであれ、祈りは聞かれたと確信して待ち望みましょう。

マルコによる福音書4:26~28「おのずから成長する神の国」

2017年7月2日、マルコによる福音書4:26~28「おのずから成長する神の国」
①おのずから成長する神の国
大地にまかれた種が知らないうちに芽を出し、「おのずから(新改訳「人手によらず」)実を結」ぶように、神の国(神の恵みによる支配)も人間の思いや力の及ばないところで「おのずから」成長していきます。「成長させて下さるのは、神である」(Ⅰコリント3:6~7)。しかもただ成長するだけでなく、「かまを入れる…刈入れ時」、神の国完成の時が必ず来ます。
②心の中で成長する神の国
イエスを信じる者の心の中に到来した神の国も(ルカ17:21)、「おのずから」成長し、実を結びます。御言葉の種には生命があるからです。
③世の中で成長する神の国
イエスはこの譬え話を「おびただしい群衆」(1節)に向かって語られましたが、中でも特に熱心党の誤り(武力によってローマ帝国を倒し、神の国を建設する)を正すために語られたのではないかと思われます。私たちも、ともすると神を押しのけ、自分の力で神のわざをなそうとする熱心党の傾向がありはしないでしょうか。確かに人間の側にも、祈ること、良い証詞を立てること等、なすべきことがあります。しかしたとえそれらがなくても、むしろ悪条件の中でも、神の国はおのずから成長していくもので、私たち人間には計り知れない神の領域です。神は御国の福音の種を地上にまき、御子イエスの十字架の血潮という水を注ぎ、救われる者を2000年間起こしてこられました。そして今も世界中で福音の種がまかれ、ひそかに成長し、実を結びつつあります。それゆえ福音の種まきをしたならば、後は神の国の生命力を信じ、忍耐して祈り待ち望みましょう。後は神の領域です。

ヨハネの第一の手紙5:13「私たちの確信―永遠のいのち」

2017年6月25日、ヨハネの第一の手紙5:13「私たちの確信―永遠のいのち」
①現在的な永遠のいのち
ヨハネが福音書を執筆したのは、「イエスは神の子キリストであると信じ」て、永遠の「命を得る」よう導くためでしたが(ヨハネ20:31)、手紙を執筆したのは、信じた者はすでに「永遠のいのちを持っている」ことを「悟らせるため」でした。永遠のいのちは、永遠の初めから終わりまで存在される神ご自身のいのちのことです。死んだ後はじめて与えられるいのちではなく、「信じる者には永遠の命がある(新共同訳「永遠の命を得ている」)」(ヨハネ6:47)とあるように、イエスをキリスト、私の罪のための救い主と信じて救われたその瞬間にすでに与えられているいのちです。この永遠のいのちにあずかっている者は、もはや以前のように故意に平気で罪を犯し続けることはできません(3:9)。無理やり御言葉に従うのではなく、内にある永遠のいのちが御言葉に従うことを何よりの喜びとさせるのです。また、世(神に敵対し、悪魔が支配する領域)の攻撃を見破り、「世に勝つ」力が与えられます(5:4~5)。
②未来的な永遠のいのち
永遠のいのちを得ている者は、天国に迎え入れられ、ほふられた小羊キリストの前に立ち、御手と御足、脇腹と頭に残る傷跡を見ます。そのとき、私の罪のためにキリストがどんなに大きな犠牲を払われたかを思い起こし、声の限り感謝と喜びの賛美をささげることでしょう(黙示録4:8~11、5:11~14)。一方、福音を拒絶した者には永遠の滅びが待っています(黙示録20:11~15)。それゆえ、永遠のいのちを得ている者には、福音宣教という大使命があるのです。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(Ⅱテモテ4:2、新改訳)。

ヨハネの第一の手紙5:13「私たちの確信―永遠のいのち」

2017年6月25日、ヨハネの第一の手紙5:13「私たちの確信―永遠のいのち」
①現在的な永遠のいのち
ヨハネが福音書を執筆したのは、「イエスは神の子キリストであると信じ」て、永遠の「命を得る」よう導くためでしたが(ヨハネ20:31)、手紙を執筆したのは、信じた者はすでに「永遠のいのちを持っている」ことを「悟らせるため」でした。永遠のいのちは、永遠の初めから終わりまで存在される神ご自身のいのちのことです。死んだ後はじめて与えられるいのちではなく、「信じる者には永遠の命がある(新共同訳「永遠の命を得ている」)」(ヨハネ6:47)とあるように、イエスをキリスト、私の罪のための救い主と信じて救われたその瞬間にすでに与えられているいのちです。この永遠のいのちにあずかっている者は、もはや以前のように故意に平気で罪を犯し続けることはできません(3:9)。無理やり御言葉に従うのではなく、内にある永遠のいのちが御言葉に従うことを何よりの喜びとさせるのです。また、世(神に敵対し、悪魔が支配する領域)の攻撃を見破り、「世に勝つ」力が与えられます(5:4~5)。
②未来的な永遠のいのち
永遠のいのちを得ている者は、天国に迎え入れられ、ほふられた小羊キリストの前に立ち、御手と御足、脇腹と頭に残る傷跡を見ます。そのとき、私の罪のためにキリストがどんなに大きな犠牲を払われたかを思い起こし、声の限り感謝と喜びの賛美をささげることでしょう(黙示録4:8~11、5:11~14)。一方、福音を拒絶した者には永遠の滅びが待っています(黙示録20:11~15)。それゆえ、永遠のいのちを得ている者には、福音宣教という大使命があるのです。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(Ⅱテモテ4:2、新改訳)。

ヨハネの第一の手紙5:6~12「御霊と水と血による証言」

2017年6月18日、ヨハネの第一の手紙5:6~12「御霊と水と血による証言」
「水」とは、イエスが公生涯の最初にバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマの水のことで、そのとき「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という神の声がありました(マルコ1:9~11)。「血」とは、イエスが十字架上で流された血のことで、そのとき「地上の全面が暗くなって…神殿の幕が上から下まで真二つに裂け…地震があり」ました(マタイ27:45~54)。イエスは神が人となって「水」のバプテスマをお受けになり、十字架上で「血」を流して死なれた救い主であることを否定する異端が現れていたので、「イエス・キリストは…水と血とによってこられた」と強調するのです。さらに、「わたし(イエス)についてあかしをする」(ヨハネ15:26)真理の御霊が、このことは真実だと証ししています。裁判では二人以上の証言が必要とされました(申命記19:15)。イエスについては、「御霊と水と血」の三つの証言があり、「この三つのものは一致する」上、その一つは御霊なる神ですから、これ以上確かな証言は世界中どこにもありません。
私たちが安心して日常生活を送り得るのは、「人間のあかしを受けいれ」、互いに信用しているからです。そのように「人間のあかしを受けいれる」のであれば、「神のあかしはさらにまさっている」のだから、当然受け入れるべきではないか、とヨハネは問いかけているのです。「御霊と水と血」が証しするイエスに対する私たちの態度は、イエスを信じるか信じないか、二つに一つで、中間などあり得ません。信じる者には「永遠のいのち」が与えられ、信じない者には与えられません。「なぜイエス・キリストは十字架にかからなければならなかったのか。その問いをもって聖書を読んでください」(松本雅弘師)。

ヨハネの第一の手紙5:6~12「御霊と水と血による証言」

2017年6月18日、ヨハネの第一の手紙5:6~12「御霊と水と血による証言」
「水」とは、イエスが公生涯の最初にバプテスマのヨハネからお受けになったバプテスマの水のことで、そのとき「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という神の声がありました(マルコ1:9~11)。「血」とは、イエスが十字架上で流された血のことで、そのとき「地上の全面が暗くなって…神殿の幕が上から下まで真二つに裂け…地震があり」ました(マタイ27:45~54)。イエスは神が人となって「水」のバプテスマをお受けになり、十字架上で「血」を流して死なれた救い主であることを否定する異端が現れていたので、「イエス・キリストは…水と血とによってこられた」と強調するのです。さらに、「わたし(イエス)についてあかしをする」(ヨハネ15:26)真理の御霊が、このことは真実だと証ししています。裁判では二人以上の証言が必要とされました(申命記19:15)。イエスについては、「御霊と水と血」の三つの証言があり、「この三つのものは一致する」上、その一つは御霊なる神ですから、これ以上確かな証言は世界中どこにもありません。
私たちが安心して日常生活を送り得るのは、「人間のあかしを受けいれ」、互いに信用しているからです。そのように「人間のあかしを受けいれる」のであれば、「神のあかしはさらにまさっている」のだから、当然受け入れるべきではないか、とヨハネは問いかけているのです。「御霊と水と血」が証しするイエスに対する私たちの態度は、イエスを信じるか信じないか、二つに一つで、中間などあり得ません。信じる者には「永遠のいのち」が与えられ、信じない者には与えられません。「なぜイエス・キリストは十字架にかからなければならなかったのか。その問いをもって聖書を読んでください」(松本雅弘師)。