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ヨハネによる福音書20:11~18「振り向くと復活のイエスが」

2020年4月12日、ヨハネによる福音書20:11~18「振り向くと復活のイエスが」
日曜日の早朝マグダラのマリヤが、十字架上で死んで葬られたイエスの墓に行くと、入口の大石は除かれ、遺体がなくなっていました。「泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと」、二人の御使から「女よ、なぜ泣いているのか」と語りかけられ、「うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見」ましたが、悲しみと失望で霊の眼が曇っていたからか、「それがイエスであることに気」づきませんでした。エマオ途上の弟子たちもやはりそうでした(ルカ24:16)。イエスも「女よ、なぜ泣いているのか」と語りかけられました。涙の意味を尋ねているのではなく、もはや泣く必要はないということです。十字架と復活によって救いを完成されたからです。イエスは続いて「マリヤよ」と優しく名前を呼ばれました。これまで何度も耳にした声に触れ、再び「ふり返っ(振り向く、心の向きを変える、の意。マタイ18:3「心をいれかえて」と同語)」たとき、イエスだとはっきり認識できたのです。
私たちの人生にも、失望してうなだれること、泣きたくなるようなことが多々あります。そんなとき、イエスが共におられることを見失って右往左往し、ますます落ち込んではいないでしょうか。しかし復活のイエスは私たちにも「○○よ、なぜ泣いているのか」と語りかけ、目を開いてくださいます。悩みの日にこそ御前に静まり、御言葉に耳を傾けましょう(詩篇50:15)。「うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た」。共におられる復活のイエスを認めて仰ぐならば、今抱えている問題がどんなに大きくても、私たちの涙は拭われ、雄々しく立ち上がらせていただけることでしょう。

ヨハネによる福音書20:11~18「振り向くと復活のイエスが」

2020年4月12日、ヨハネによる福音書20:11~18「振り向くと復活のイエスが」
日曜日の早朝マグダラのマリヤが、十字架上で死んで葬られたイエスの墓に行くと、入口の大石は除かれ、遺体がなくなっていました。「泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと」、二人の御使から「女よ、なぜ泣いているのか」と語りかけられ、「うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見」ましたが、悲しみと失望で霊の眼が曇っていたからか、「それがイエスであることに気」づきませんでした。エマオ途上の弟子たちもやはりそうでした(ルカ24:16)。イエスも「女よ、なぜ泣いているのか」と語りかけられました。涙の意味を尋ねているのではなく、もはや泣く必要はないということです。十字架と復活によって救いを完成されたからです。イエスは続いて「マリヤよ」と優しく名前を呼ばれました。これまで何度も耳にした声に触れ、再び「ふり返っ(振り向く、心の向きを変える、の意。マタイ18:3「心をいれかえて」と同語)」たとき、イエスだとはっきり認識できたのです。
私たちの人生にも、失望してうなだれること、泣きたくなるようなことが多々あります。そんなとき、イエスが共におられることを見失って右往左往し、ますます落ち込んではいないでしょうか。しかし復活のイエスは私たちにも「○○よ、なぜ泣いているのか」と語りかけ、目を開いてくださいます。悩みの日にこそ御前に静まり、御言葉に耳を傾けましょう(詩篇50:15)。「うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た」。共におられる復活のイエスを認めて仰ぐならば、今抱えている問題がどんなに大きくても、私たちの涙は拭われ、雄々しく立ち上がらせていただけることでしょう。

ヨハネによる福音書20:11~18「振り向くと復活のイエスが」

2020年4月12日、ヨハネによる福音書20:11~18「振り向くと復活のイエスが」
日曜日の早朝マグダラのマリヤが、十字架上で死んで葬られたイエスの墓に行くと、入口の大石は除かれ、遺体がなくなっていました。「泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと」、二人の御使から「女よ、なぜ泣いているのか」と語りかけられ、「うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見」ましたが、悲しみと失望で霊の眼が曇っていたからか、「それがイエスであることに気」づきませんでした。エマオ途上の弟子たちもやはりそうでした(ルカ24:16)。イエスも「女よ、なぜ泣いているのか」と語りかけられました。涙の意味を尋ねているのではなく、もはや泣く必要はないということです。十字架と復活によって救いを完成されたからです。イエスは続いて「マリヤよ」と優しく名前を呼ばれました。これまで何度も耳にした声に触れ、再び「ふり返っ(振り向く、心の向きを変える、の意。マタイ18:3「心をいれかえて」と同語)」たとき、イエスだとはっきり認識できたのです。
私たちの人生にも、失望してうなだれること、泣きたくなるようなことが多々あります。そんなとき、イエスが共におられることを見失って右往左往し、ますます落ち込んではいないでしょうか。しかし復活のイエスは私たちにも「○○よ、なぜ泣いているのか」と語りかけ、目を開いてくださいます。悩みの日にこそ御前に静まり、御言葉に耳を傾けましょう(詩篇50:15)。「うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た」。共におられる復活のイエスを認めて仰ぐならば、今抱えている問題がどんなに大きくても、私たちの涙は拭われ、雄々しく立ち上がらせていただけることでしょう。

ルカによる福音書23:27~31「自分自身のために泣きなさい」

2020年4月5日、ルカによる福音書23:27~31「自分自身のために泣きなさい」
十字架につけられるために刑場に向かうイエスは、「わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい」と言われました。「山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出す」ほど悲惨なエルサレム滅亡が近づいているからです。
「生木(イエス)でさえもそうされるなら、枯木(エルサレム)はどうされることであろう」。「枯木」とは、当時のエルサレムのことだけでなく、神から離れて霊的いのちの枯れた私たち罪人のことでもあります。やがて訪れる世の終わりの日、人々ははっきり二つに分けられます。「信じてバプテスマを受ける者は救われる」か、「不信仰の者は罪に定められる」かの二つです(16:16)。私たちを造り、こよなく愛しておられる神に背を向けて自己中心に歩み、「罪に定められる」他ない罪人のために、神は救いの道を用意されました。御子イエスに私たちの罪を負わせて十字架上でさばくことにより、ただイエスを信じるだけで救われる道を開いてくださいました。この神の愛を踏みにじり、イエスの救いを拒絶する者こそ、「不信仰の者」なのです。「ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み…ながく忍耐しておられる」(Ⅱペテロ3:9)神の忍耐を軽んじてはなりません。
イエスの受苦に同情して泣くのも悪くありませんが、むしろイエスの十字架に自分の罪深さを見、自分自身のために泣くのが受難週の本当の過ごし方です。「私の罪が鞭となり、主の聖なる肩に傷を付け、主の額にいばらの冠を被せ、血を流させたからです」(スポルジョン)。

ルカによる福音書23:27~31「自分自身のために泣きなさい」

2020年4月5日、ルカによる福音書23:27~31「自分自身のために泣きなさい」
十字架につけられるために刑場に向かうイエスは、「わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい」と言われました。「山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出す」ほど悲惨なエルサレム滅亡が近づいているからです。
「生木(イエス)でさえもそうされるなら、枯木(エルサレム)はどうされることであろう」。「枯木」とは、当時のエルサレムのことだけでなく、神から離れて霊的いのちの枯れた私たち罪人のことでもあります。やがて訪れる世の終わりの日、人々ははっきり二つに分けられます。「信じてバプテスマを受ける者は救われる」か、「不信仰の者は罪に定められる」かの二つです(16:16)。私たちを造り、こよなく愛しておられる神に背を向けて自分勝手に歩み、「罪に定められる」他ない罪人のために、神は救いの道を用意されました。私たち罪人の代わりに御子イエスをさばくことにより、ただイエスの十字架を信じるだけで罪赦される道を開いてくださいました。この神の愛を踏みにじり、イエスの救いを拒絶する者こそ、「不信仰の者」なのです。「ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み…ながく忍耐しておられる」(Ⅱペテロ3:9)神の忍耐を軽んじてはなりません。
イエスの受苦に同情して泣くのも悪くありませんが、むしろイエスの十字架に自分の罪深さを見、自分自身のために泣くのが受難週の本当の過ごし方です。「私の罪が鞭となり、主の聖なる肩に傷を付け、主の額にいばらの冠を被せ、血を流させたからです」(スポルジョン)。

マルコによる福音書6:6b~13「十二弟子の派遣」

2020年3月22日、マルコによる福音書6:6b~13「十二弟子の派遣」
イエスは「十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことに」されました。「十二人をお立てになった」目的は、「彼らを自分のそばに置くためであり」、「つかわす」ためでした(3:14~15)。イエスは「彼らを自分のそばに置」いて訓練した上で、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝え」(16:15)る「宣教」のため、「悪霊を追い出す権威を持たせるため」に「つかわす」のです。その際、持参してよいものといけないものとの注意も与えられました。必要最小限の旅支度で、あとは全面的に神に信頼せよ、ということです。旅人をもてなす習慣があった当時だからできたことですが(ヘブル13:2)、神に真剣により頼んで期待することが薄らいではいないか、と問う必要もあるでしょう。「これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」(ゼカリヤ書4:6)、今こそ当教団の原点に立つべきです。人間的な「権勢」や「能力」に寄り頼まず、聖霊に寄り頼みましょう。
十二弟子は、厳しい条件付きで遣わされることで、主に寄り頼まなければ到底全うできないことを日々痛感したことでしょう。と同時に、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と言われたとおり、イエスが共にいて助けてくださることを何度も体験したことでしょう。「彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした」結果、「イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった」「多くの人々は…一せいに駆けつけ…パンを食べた者は男五千人であった」となったのです(6:14、33~44)。

マルコによる福音書6:6b~13「十二弟子の派遣」

2020年3月22日、マルコによる福音書6:6b~13「十二弟子の派遣」
イエスは「十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことに」されました。「十二人をお立てになった」目的は、「彼らを自分のそばに置くためであり」、「つかわす」ためでした(3:14~15)。イエスは「彼らを自分のそばに置」いて訓練した上で、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝え」(16:15)る「宣教」のため、「悪霊を追い出す権威を持たせるため」に「つかわす」のです。その際、持参してよいものといけないものとの注意も与えられました。必要最小限の旅支度で、あとは全面的に神に信頼せよ、ということです。旅人をもてなす習慣があった当時だからできたことですが(ヘブル13:2)、神に真剣により頼んで期待することが薄らいではいないか、と問う必要もあるでしょう。「これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」(ゼカリヤ書4:6)、今こそ当教団の原点に立つべきです。人間的な「権勢」や「能力」に寄り頼まず、聖霊に寄り頼みましょう。
十二弟子は、厳しい条件付きで遣わされることで、主に寄り頼まなければ到底全うできないことを日々痛感したことでしょう。と同時に、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と言われたとおり、イエスが共にいて助けてくださることを何度も体験したことでしょう。「彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした」結果、「イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった」「多くの人々は…一せいに駆けつけ…パンを食べた者は男五千人であった」となったのです(6:14、33~44)。

マルコによる福音書1:1~6a「イエスは不信仰に驚かれた」

2020年3月15日、マルコによる福音書1:1~6a「イエスは不信仰に驚かれた」
マルコによる福音書1:1~6a「イエスは不信仰に驚かれた」
イエスが生まれ育った郷里ナザレの人々は、イエスはもちろんのこと、その両親や兄弟たちとも旧知の間柄なので、自分たちが昔からよく知っている「この人」のままでした。すばらしい説教や奇跡を見聞きしても、「イエスのことを、自分たちと同じ、ただの田舎者だと思って」(リビングバイブル)いました。というのも、当時のユダヤ人は、約束の救い主はエルサレム神殿に突如現れると信じていたからです。
これまでイエスは、病を癒したり悪霊を追い出したり嵐を静めたりと、「力あるわざ」を度々行ってこられたのに、ナザレでは「ただ少数の病人に手をおいていやされた」だけでした。全能のイエスであっても、信じようとも期待しようともしない不信仰の中では、その全能の力も働きも大幅に制限されてしまうということです。不信仰は、全能の主から溢れ流れる恵みを妨げる絶縁体のようなものなのです。
今のあなたをご覧になってイエスはどう思われるでしょうか。「不信仰を驚き怪しまれ」、「そこでは力あるわざを一つもすることができず」でしょうか。それとも「イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」(マタイ8:10)と、その信仰に驚かれるでしょうか。
パウロ(サウロ)も「かつてはキリストを肉によって」(Ⅱコリント5:16)、自己流に判断して、約束の救い主であることを否定していました。自分の頭で納得できる範囲内でイエスを見つめている限り、イエスを真に知ることも救いを得ることもできず、何の変革も起こらないでしょう。人間的な常識の範囲を飛び超えて、「人にはできないが、神にはできる」(10:27)とイエスに期待し、信仰の手を伸ばしましょう。

マルコによる福音書1:1~6a「イエスは不信仰に驚かれた」

2020年3月15日、マルコによる福音書1:1~6a「イエスは不信仰に驚かれた」
マルコによる福音書1:1~6a「イエスは不信仰に驚かれた」
イエスが生まれ育った郷里ナザレの人々は、イエスはもちろんのこと、その両親や兄弟たちとも旧知の間柄なので、自分たちが昔からよく知っている「この人」のままでした。すばらしい説教や奇跡を見聞きしても、「イエスのことを、自分たちと同じ、ただの田舎者だと思って」(リビングバイブル)いました。というのも、当時のユダヤ人は、約束の救い主はエルサレム神殿に突如現れると信じていたからです。
これまでイエスは、病を癒したり悪霊を追い出したり嵐を静めたりと、「力あるわざ」を度々行ってこられたのに、ナザレでは「ただ少数の病人に手をおいていやされた」だけでした。全能のイエスであっても、信じようとも期待しようともしない不信仰の中では、その全能の力も働きも大幅に制限されてしまうということです。不信仰は、全能の主から溢れ流れる恵みを妨げる絶縁体のようなものなのです。
今のあなたをご覧になってイエスはどう思われるでしょうか。「不信仰を驚き怪しまれ」、「そこでは力あるわざを一つもすることができず」でしょうか。それとも「イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」(マタイ8:10)と、その信仰に驚かれるでしょうか。
パウロ(サウロ)も「かつてはキリストを肉によって」(Ⅱコリント5:16)、自己流に判断して、約束の救い主であることを否定していました。自分の頭で納得できる範囲内でイエスを見つめている限り、イエスを真に知ることも救いを得ることもできず、何の変革も起こらないでしょう。人間的な常識の範囲を飛び超えて、「人にはできないが、神にはできる」(10:27)とイエスに期待し、信仰の手を伸ばしましょう。

ヨハネによる福音書3:1~15「新しく生まれる」

2020年3月8日、ヨハネによる福音書3:1~15「新しく生まれる」
ニコデモは、宗教的には律法を厳格に守る「パリサイ人」、社会的には「ユダヤ人の指導者(最高議会の議員)」でした。「年をとってから」と自ら言うように老人であり、後にイエスを葬るため「没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきた」(19:39)金持ちでもあったでしょう。その彼が「夜イエスのもとに」来ました。「夜」(本書では多くの場合、霊的暗黒を暗示。9:4、11:10、13:30)は、彼の霊的暗黒状態、真の光を渇き求める心を暗示しています。律法を守り行っていても、神の国に入れるという確信がなく、魂には依然として「夜」の部分があったのでしょう。
そんなニコデモにイエスが「だれでも新しく(上から、新たに、という二重の意)生れなければ、神の国を見ることはできない」と言われると、霊的盲目の彼は「…もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」と言う頓珍漢ぶり。そこでイエスは「水と霊(新生における聖霊の働きのことであろう)とから生れなければ、神の国にはいることはできない」、聖霊によって新生しなければ神の国に入れない、と再度言われました。「風」と同じで「霊」も目に見えませんが、聖霊は「思いのままに」働いて人を新生に導きます。「不思議に思うには及」びません。
続いて、「モーセが荒野でへびを上げた」出来事を引用して(民数記21:4~9)、「人の子もまた上げられなければならない(十字架、さらには復活・昇天をも意味)」と言われました。イスラエルが青銅の蛇を仰ぎ見て生きたように、全人類の罪の身代わりとして十字架に上げられて死に、三日目に死から引き上げられ、天に引き上げられたイエスを救い主と信じ仰ぐ者は、新しく上から生まれ、「永遠の命を得る」のです。