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ヨハネの第三の手紙 1~4「真理に生きるガイオ」

2017年10月15日、ヨハネの第三の手紙 1~4「真理に生きるガイオ」
イエスは「道…真理…命」(ヨハネ14:6)であり、「御言は真理」(ヨハネ17:17)です。いかに時代が変わろうとも、これが永遠不変の真理であることを私たちに教えるのが「真理の御霊」(ヨハネ16:13)です。この御霊によって悔い改めと信仰に導かれて救われたら卒業ではありません。そこから聖書の真理を生活の中で実践する歩みが始まるのです。ガイオはヨハネの導きで救われた後、「真理のうちを歩いている」との評判を聞いたヨハネは、「わたしの子供たちが真理のうちを歩いていることを聞く以上に、大きい喜びはない」と喜びを爆発させました。
「子どもたちが育つ社会は、真理や道徳に関する概念をほとんど否定してしまい、何が正しくて何が悪いのかを決める能力を失ってしまったのである。真理は好みの問題となり、道徳も個人の好みの問題に取ってかわってしまった」(『教会からクリスチャンホームの子がいなくなる』)時代だからこそ、ガイオのように本気で神を愛し、本気で聖書の真理に堅く立って歩むキリスト者が求められています。私たちは、“walking dictionary”(歩く辞書)ならぬ“walking Bible”(歩く聖書)です。世の多くの人々は活字の聖書は読みませんが、歩く聖書である私たちの生活を見、それを通して聖書の真理を読んでいます。純粋な「塩」は、少量でも大きな影響力を持っています(マタイ5:13)。日本でキリスト者は圧倒的少数派ですが、真理に堅く立って歩む純粋な「地の塩」であるならば、やがて日本全体にその恵みが浸透していき、祝福されていくことでしょう。親にとっては、血を分けた「子供たちが真理のうちを歩いていること」こそ何よりの喜びです。各家庭にこの御言葉が実現し、信仰が継承されていくよう祈り励みましょう。

ヨハネの第三の手紙 1~4「真理に生きるガイオ」

2017年10月15日、ヨハネの第三の手紙 1~4「真理に生きるガイオ」
イエスは「道…真理…命」(ヨハネ14:6)であり、「御言は真理」(ヨハネ17:17)です。いかに時代が変わろうとも、これが永遠不変の真理であることを私たちに教えるのが「真理の御霊」(ヨハネ16:13)です。この御霊によって悔い改めと信仰に導かれて救われたら卒業ではありません。そこから聖書の真理を生活の中で実践する歩みが始まるのです。ガイオはヨハネの導きで救われた後、「真理のうちを歩いている」との評判を聞いたヨハネは、「わたしの子供たちが真理のうちを歩いていることを聞く以上に、大きい喜びはない」と喜びを爆発させました。
「子どもたちが育つ社会は、真理や道徳に関する概念をほとんど否定してしまい、何が正しくて何が悪いのかを決める能力を失ってしまったのである。真理は好みの問題となり、道徳も個人の好みの問題に取ってかわってしまった」(『教会からクリスチャンホームの子がいなくなる』)時代だからこそ、ガイオのように本気で神を愛し、本気で聖書の真理に堅く立って歩むキリスト者が求められています。私たちは、“walking dictionary”(歩く辞書)ならぬ“walking Bible”(歩く聖書)です。世の多くの人々は活字の聖書は読みませんが、歩く聖書である私たちの生活を見、それを通して聖書の真理を読んでいます。純粋な「塩」は、少量でも大きな影響力を持っています(マタイ5:13)。日本でキリスト者は圧倒的少数派ですが、真理に堅く立って歩む純粋な「地の塩」であるならば、やがて日本全体にその恵みが浸透していき、祝福されていくことでしょう。親にとっては、血を分けた「子供たちが真理のうちを歩いていること」こそ何よりの喜びです。各家庭にこの御言葉が実現し、信仰が継承されていくよう祈り励みましょう。

ヨハネの第一の手紙5:21「偶像を警戒せよ」

2017年10月8日、ヨハネの第一の手紙5:21「偶像を警戒せよ」
「子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい(直訳「偶像から自分自身を守りなさい」)」。ヨハネは愛に満ちた警告を記して筆を置きます。「神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない」(18節)との約束があっても、私たちの側でも、この約束を信じて偶像から自分自身を守るよう努める責任があります。
真の神は目に見えない霊的存在ですから、目に見える神は間違いなく偽物・偶像です。しかし目に見えるものだけが偶像ではありません。自分の心が神以外の何かのために生きている状態、神なしでもこれさえあれば大丈夫と考えているものも偶像です(「学歴信仰」「拝金主義」等)。「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3:5)。「人の心には、イエスさましか満たすことのできない渇きがあります。ですから、イエスさまから恵みの水を受ける前は、ありとあらゆる『モノ』で渇きを癒そうとしてしまいます。『モノ』で心の渇きを癒そうとする結果、いつの間にか、それなしではやっていけない、ある種の依存症に陥ります。この依存症は聖書の言葉を使えば『偶像礼拝』に陥るということです。偶像礼拝の特徴は『もっと、もっと』とエスカレートするところにあります…C.S.ルイスはそのような生き方の先は地獄だと言いました」(松本雅弘師)。今日は十分であっても明日になれば不満が芽生えかねない私たちに、神はこう言われます。「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな…まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:31、33)、「おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである」(エレミヤ書17:7)。

ヨハネの第一の手紙5:21「偶像を警戒せよ」

2017年10月8日、ヨハネの第一の手紙5:21「偶像を警戒せよ」
「子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい(直訳「偶像から自分自身を守りなさい」)」。スーパーコピーヨハネは愛に満ちた警告を記して筆を置きます。「神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない」(18節)との約束があっても、私たちの側でも、この約束を信じて偶像から自分自身を守るよう努める責任があります。
真の神は目に見えない霊的存在ですから、目に見える神は間違いなく偽物・偶像です。しかし目に見えるものだけが偶像ではありません。自分の心が神以外の何かのために生きている状態、神なしでもこれさえあれば大丈夫と考えているものも偶像です(「学歴信仰」「拝金主義」等)。「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3:5)。「人の心には、イエスさましか満たすことのできない渇きがあります。ですから、イエスさまから恵みの水を受ける前は、ありとあらゆる『モノ』で渇きを癒そうとしてしまいます。『モノ』で心の渇きを癒そうとする結果、いつの間にか、それなしではやっていけない、ある種の依存症に陥ります。この依存症は聖書の言葉を使えば『偶像礼拝』に陥るということです。偶像礼拝の特徴は『もっと、もっと』とエスカレートするところにあります…C.S.ルイスはそのような生き方の先は地獄だと言いました」(松本雅弘師)。ウブロ スーパーコピー今日は十分であっても明日になれば不満が芽生えかねない私たちに、神はこう言われます。「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな…まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:31、33)、「おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである」(エレミヤ書17:7)。

ヨハネによる福音書2:1~11「ぶどう酒がなくなりました」

2017年10月1日、ヨハネによる福音書2:1~11「ぶどう酒がなくなりました」
婚礼の最中に「ぶどう酒がなくなってしまいました」。これは、私たちの人生にも思いがけない問題や悩みが生じ、喜びや楽しみが尽き果てるときがくることを意味しています。この世の有限なものに人生の基盤を置いている限り、真の平安や満足がなく、絶えず恐れや不安が付きまとうのも至極当然のことです。そのとき母マリヤは、真っ先にイエスのもとに行き、窮状を報告して助けを求めました。「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」と言われてもマリヤは希望を捨てず、僕たちに「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」と言い置きました。遂にイエスが僕たちに命令されると、僕たちは命令どおり「四、五斗(80~120㍑)もはいる石の水がめ…六つ」に、水を「口のところまでいっぱいに入れ…料理がしらのところに持って行」ったところ、ただの水が上等なぶどう酒に変わっていました。
「人のピンチは神のチャンス」。行き詰まったなら、慌てふためいたり肉の知恵を働かせたりせず、「ぶどう酒がなくなってしまいました」と自らの欠乏を素直に認めて神に期待することが恵みにあずかる秘訣です。神のみわざが実現するには、それぞれ神の時と方法があります。神の時を待ちきれずに、人間的な知恵や小細工で切り抜けようとするから、神の出番がなくなり、圧倒的な神による解決が得られなくなるのです。「すべての悩みのとき、主も悩まれて」いることを覚え(イザヤ書63:9)、私たちの側でもなすべき責任を果たしながら神の時を待つことが大切です。そうして人生にも教会にも、水がぶどう酒に変えられる神の奇跡を見せていただこうでありませんか。

ヨハネによる福音書2:1~11「ぶどう酒がなくなりました」

2017年10月1日、ヨハネによる福音書2:1~11「ぶどう酒がなくなりました」
婚礼の最中に「ぶどう酒がなくなってしまいました」。これは、sanndaru激安私たちの人生にも思いがけない問題や悩みが生じ、喜びや楽しみが尽き果てるときがくることを意味しています。この世の有限なものに人生の基盤を置いている限り、真の平安や満足がなく、絶えず恐れや不安が付きまとうのも至極当然のことです。そのとき母マリヤは、真っ先にイエスのもとに行き、窮状を報告して助けを求めました。「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」と言われてもマリヤは希望を捨てず、僕たちに「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」と言い置きました。遂にイエスが僕たちに命令されると、僕たちは命令どおり「四、五斗(80~120㍑)もはいる石の水がめ…六つ」に、水を「口のところまでいっぱいに入れ…料理がしらのところに持って行」ったところ、ただの水が上等なぶどう酒に変わっていました。
「人のピンチは神のチャンス」。行き詰まったなら、シュプリーム スーパーコピー慌てふためいたり肉の知恵を働かせたりせず、「ぶどう酒がなくなってしまいました」と自らの欠乏を素直に認めて神に期待することが恵みにあずかる秘訣です。神のみわざが実現するには、それぞれ神の時と方法があります。神の時を待ちきれずに、人間的な知恵や小細工で切り抜けようとするから、神の出番がなくなり、圧倒的な神による解決が得られなくなるのです。「すべての悩みのとき、主も悩まれて」いることを覚え(イザヤ書63:9)、私たちの側でもなすべき責任を果たしながら神の時を待つことが大切です。そうして人生にも教会にも、水がぶどう酒に変えられる神の奇跡を見せていただこうでありませんか。

コリント人への第一の手紙15:12~20「しかし事実、キリストは復活された」

2017年9月24日、コリント人への第一の手紙15:12~20「しかし事実、キリストは復活された」
コリント教会内に「死者の復活などはないと言っている」教会員がいたので、パウロは本章を記しました(1~11節はキリストの復活の歴史的事実について、12~19節はキリストの復活を否定するとどうなるかについて)。「キリストが…わたしたちの罪のために死んだこと…葬られたこと…三日目によみがえったこと」は、「聖書に書いてあるとおり」の神の救いのご計画の実現で、復活の目撃者の「大多数はいまなお生存している(パウロもその一人)」という事実はキリスト復活の確かな証拠です(3~8節)。
もし復活がなければ、私たちの「信仰は空虚なものとなり…いまなお罪の中にいることにな」り、「最もあわれむべき存在とな」ります。「宣教はむなしく…神にそむく偽証人にさえな」ります。「しかし事実、キリストは…死人の中からよみがえった」ゆえ、私たちの信仰も宣教も空しくないのです。復活は、キリストが罪と死に勝利されたことの何よりの証拠で、復活があってこそ十字架の贖いは効力を発揮し、信じる者を義とすることができるのです。十字架なくして復活の意味はなく、復活なくして十字架は完成しません。十字架と復活はコインの裏表のように切っても切れない関係にあり、福音の中心です。福音とは「十字架と復活による救い」と言えるでしょう(ローマ4:25)。
キリストの復活は、「眠っている者(=キリストを信じて死んだ人々)」がやがて復活し、天国で永遠に生きることの「初穂」、前兆でもあります。人類最大の敵は死で、誰も打ち勝てません。しかし十字架と復活を境にして、死はもはや呪われたものでも人生最大の敵でもなく、天国に続く希望のトンネルとなりました。先に召された聖徒たちもこの希望を抱きつつ召天し、天国での再会を待ちわびているのです。

詩篇100:1~5「喜びをもって御前に来たれ」

2017年9月17日、詩篇100:1~5「喜びをもって御前に来たれ」
詩人は「全地」に向かって「喜びをもって…歌いつつ…感謝しつつ…ほめたたえつつ」神を礼拝するよう招いています。それはなぜか。
①主は神であるから(1~3節)
聖書中、神の民はしばしば「羊」にたとえられ、中でも特に迷い出た羊として描かれています。「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)人間に真の神を教え、神のもとに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。この私を愛し、罪を贖うために死なれた十字架のイエスを仰ぎ見るとき、「われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」と告白し、心から喜んで礼拝することでしょう。
②主は恵み深いから(4~5節)
「恵み…いつくしみ…まこと」は、契約における神の姿勢を表す重要語です。本篇は、バビロン捕囚から帰還後、神殿を再建・奉献したときに歌われた詩であろうと言われています。そのときイスラエルはきっと思ったことでしょう。主はよくぞこんな羊をも見捨てず、「恵み…いつくしみ…まこと」の限りを尽くして導き続けて下さった、と。すると自ずから喜びと感謝にあふれて礼拝したに違いありません。
イスラエル同様、主に度々背いてきた私たちが今なお礼拝の民とされており、これまで「耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さ」いました(Ⅱテモテ2:13、Ⅰコリント10:13)。すべては主の「恵み…いつくしみ…まこと」以外の何ものでもないことを思うとき、毎週毎日、喜びに満たされて主を礼拝せずにはいられないはずです。

詩篇100:1~5「喜びをもって御前に来たれ」

2017年9月17日、詩篇100:1~5「喜びをもって御前に来たれ」
詩人は「全地」に向かって「喜びをもって…歌いつつ…感謝しつつ…ほめたたえつつ」神を礼拝するよう招いています。それはなぜか。
①主は神であるから(1~3節)
聖書中、神の民はしばしば「羊」にたとえられ、中でも特に迷い出た羊として描かれています。「羊のように迷って、vetements スーパーコピーおのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)人間に真の神を教え、神のもとに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。この私を愛し、罪を贖うために死なれた十字架のイエスを仰ぎ見るとき、「われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」と告白し、心から喜んで礼拝することでしょう。
②主は恵み深いから(4~5節)
「恵み…いつくしみ…まこと」は、契約における神の姿勢を表す重要語です。本篇は、バビロン捕囚から帰還後、神殿を再建・奉献したときに歌われた詩であろうと言われています。ハリウッド映画 腕時計そのときイスラエルはきっと思ったことでしょう。主はよくぞこんな羊をも見捨てず、「恵み…いつくしみ…まこと」の限りを尽くして導き続けて下さった、と。すると自ずから喜びと感謝にあふれて礼拝したに違いありません。
イスラエル同様、主に度々背いてきた私たちが今なお礼拝の民とされており、これまで「耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さ」いました(Ⅱテモテ2:13、Ⅰコリント10:13)。すべては主の「恵み…いつくしみ…まこと」以外の何ものでもないことを思うとき、毎週毎日、喜びに満たされて主を礼拝せずにはいられないはずです。

使徒行伝17:22~31「知られない神ではなく」

2017年9月10日、使徒行伝17:22~31「知られない神ではなく」
①万物を造った神(24~26節)
「この世界と、その中にある万物とを造った神」こそ真に拝むべきお方です。この神は、偶像のように人に造られ、人に支えられる必要がありません。永遠の初めから永遠の終わりまで、ただご自身のみによって存在され、「何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要も」ありません。むしろ「すべての人々に命と息と万物とを与え」、万物を保持し、歴史を支配しておられるお方です。
②人間と係わる神(27~29節)
このように偉大な「天地の主」ですが、はるか遠く彼方におられるお方ではありません。被造物や歴史を通して、さらには聖書と御子イエスを通して、「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば…見いだせる」ほど近くにおられるお方です(ローマ1:20、詩篇19:1)。それゆえ「知られない神」などではなく、知ろうと思えば十分に「知り得る神」なのです。そしてこの神は私たちと深く係わり、その顧みは一人の人間、一羽のすずめ、果ては一本の髪の毛にまで及んでいます(ルカ12:6~7)。
③世界をさばく神(30~31節)
「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされて」いましたが、聖書と御子イエスを通して決定的に啓示された以上、もはや弁解の余地はありません(ローマ1:19~20)。「みな悔い改めなければ」、「義をもってこの世界をさばく」神にさばかれ、永遠の滅びを迎えます(ヘブル9:27、ローマ6:23)。しかし愛なる神は、イエスの十字架と復活によって、「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰」によって救われる道を完成して下さったのです(使徒20:21)。