8月6日、ヨハネによる福音書7:53~8:11「身をかがめる主イエス」
朝早い神殿でイエスが人々に語っておられると、姦淫の現場を押さえられた女性が連行されてきました。姦淫は神が制定された結婚制度を破壊し、何よりも神の御心を痛める大罪で、石打ちによる死刑に処せられました(申命記22:13~30)。彼女は罪の現場を押さえられた恥ずかしさと、死刑に対する恐ろしさとで一杯だったことでしょう。
私たちの隠れた行為や思いのすべては、たとい人の目はごまかせても、神の目だけはごまかせません。神はすべてお見通しで、遅かれ早かれ罪の決着を迫られる時がきます(エペソ5:12~13、ガラテヤ6:7~8)。
律法学者やパリサイ人は「イエスをためして、訴える口実を得るため」、意地悪な質問をしました。それに対してイエスが沈黙されると、彼らはますます問い続けたので、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われ、「また身をかがめて、地面に物を書きつづけられ」ました。もし誰かが彼女に石を投げれば、その石はイエスにも当たります。イエスは彼女をさばく側に立たず、傍観者にもなられませんでした。罪と辱めの真っ只中にある彼女と同じところに留まって身をかがめ、「もし誰かが石を投げるならば、この私があなたのさばきを一緒に受けてあげよう」と言っておられるかのようで、これはまさに身代わりの十字架上のイエスの姿そのものです。イエスと二人きりになった彼女は心砕けて罪を悔い改め、「わたしもあなたを罰しない」との赦しの宣告を得ました(詩篇51:17)。