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イザヤ書43:1~7「あなたは高価で尊い」

7月29日、イザヤ書43:1~7「あなたは高価で尊い」
①あなたを愛している(4節)
牛やろばでさえ飼い主に恩を感じるのに、イスラエルは神に感謝することも従うこともしませんでした(1:3)。にもかかわらず神はイスラエルを見捨てなかったのみか、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(新改訳)と言われました。何ができてもできなくても、いかに罪に汚れていても、人は皆、神の目にはかけがえのない尊い存在、傑作中の傑作として愛されているのです。
②あなたをあがなった(1節)
神が無条件に私たちを愛されるのは、神のかたちに「創造された」からで(創世記1:27)、この神の愛は口先だけでなく具体的な行動を伴います。イスラエルをエジプトの奴隷から過越の小羊の血によって「あがなった(代価を払って買い戻す、の意)」神は(出エジプト第12章)、私たちを罪と滅びから救うために、御子イエスの十字架の死という莫大な代価を払われました。そして信じる者を罪の奴隷から買い戻されるのです。
③あなたと共にいる(2、5節)
罪赦されて神のものとされた信仰者にも、「水の中…川の中を過ぎ…火の中を行く」ような試練の中を通されることがありますが、そのような時にも神は、「わたしはあなたと共におる」と約束していて下さいます。どんなに信頼する親や伴侶、子、友人であっても、いつまでも一緒にいることはできませんが、神だけは「世の終りまで、いつも…共に」いて下さるとは、何と心丈夫なことでしょう(マタイ28:20)。

ローマ人への手紙5:1~11「十字架に示された神の愛」

7月22日、ローマ人への手紙5:1~11「十字架に示された神の愛」
①義認の以前
以前は、自分で正しい生き方をしようにもその力が「弱かった」上、神に積極的に反逆する「不信心な者たち」でした(6節)。創造主なる神から的をはずした「罪人」で(8節)、神の「敵」でさえありました(10節)。
②義認の根拠
神の怒りの他何も受ける資格のない全人類のために「キリストは…死んで下さった」のですが、これはアダムの堕罪直後から計画され、「時いたって」(=新改訳「定められた時に」)遂に実現した救いでした。道徳的に「正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいない」が、「善人(=新改訳「情け深い」)のためには、進んで死ぬ者もあるいはいる」でしょう。「しかし…キリストが死んで下さった」のは、そのような「正しい人のため」でもなければ、「善人のため」でもなく、神に唾するような「罪人」のためでした。この世では絶対にあり得ない、究極の無駄です。しかしそうすることにより、「神はわたしたちに対する愛を示された」のです。神の愛は相手の如何に全く左右されない無条件の愛だからこそ(マタイ5:45)、私のような者のためにもキリストは死なれたのです。
③義認の結果
私の罪のためにキリストは死んで下さったと信じて義と認められた者が、世の終わりの「神の怒りから救われる」ことは「なおさら」確実なこと(ヘブル9:27)、キリストの復活の「いのちによって救」いが完成されることも「なおさら」確実なことです。それゆえ「神を喜ぶ」のです。

ローマ人への手紙5:1~11「試練の中でも喜ぶ秘訣」

7月15日、ローマ人への手紙5:1~11「試練の中でも喜ぶ秘訣」
神との平和を得ても、この世では患難が絶えません。しかし神に義とされた者は、「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」のと同様、患難の中でも喜ぶことができます。その理由とは(3b~5節)…
「患難は忍耐を生み出し」とありますが、「忍耐」とは消極的にじっと我慢している状態のことではなく、むしろ積極的に堅く立っている状態のことです。「患難」の中でこそ、なおも神とその御言葉に信頼し続ける「忍耐」が培われます(マルコ13:13、ヘブル10:36)。「忍耐」によって私たちの内から不純物が取り除かれ、「錬達(=新改訳「練られた品性」。試験の結果、本物と証明された性質、の意)」の信仰者とされます。「錬達」は、いかなる時にも希望を失わないばかりか、「神の栄光にあずかる希望」にまで引き上げます。「そして、希望は失望に終る(恥をかかせる、の意)ことはない」。神は、蜃気楼のように途中で消えて失望させるようなお方ではありません。「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す」という連鎖を必ず完成させて下さるお方です。そして、「わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているから」、以上のことを確信することができ、患難の中でも耐え忍び、喜ぶことさえできるのです。御子イエスを十字架の死に渡すほど私たちのことを愛しておられる神が、どうして患難の中にある私たちを見捨てたりなさるでしょうか。私たちが苦しむとき、神の右に座っておられたイエスは立ち上がり、共に苦しみながら祈っていて下さるのです(使徒7:54~56、申命記33:27)。

ローマ人への手紙5:1~11「神との平和」

7月8日、ローマ人への手紙5:1~11「神との平和」
①過去の恵み「信仰によって義とされた」(1節)
イエスは、神の怒りとさばきを受けて滅びる他ない全人類の身代わりとして十字架につけられ、神にさばかれました(3:10、25~28)。私たちは、この十字架のイエスを信じる「信仰によって義とされた」のです。
②現在の恵み「神に対して平和を得ている」(1~2節)
「わたしたちがまだ敵であった時」とあるように(10節)、神に義とされていない間は、神と敵対関係にあり、罪によって「神の怒りを、自分の身に積んでいる」のです(2:5)。神のかたちに造られた人間は、神に的を合わせ、神を信じ愛して生きるとき、はじめて人間らしく充実した人生を送ることができるようになっています。それゆえ、神との不和、敵対関係こそ、人間のあらゆる不幸の根本原因です。しかしイエスを信じて義と認められた者は、神と和解し、「神に対して平和を得ている」のみか、憚ることなく神のもとに「導き入れられ(王の謁見室に招き入れられる、の意。エペソ2:18、3:12)」、神と親しく交わることができるという恵みに「いま立っている」とは、何という光栄でしょうか。
③未来の恵み「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」(2節)
義と認められる前は、神の栄光とは無縁でした(3:23)。しかし義と認められた者は、キリスト再臨後、弱く不完全な肉体を脱ぎ捨てて、キリストの「栄光のからだと同じかたちに変え」られ、「死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」天国で永遠に神と共に生きるという「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでい」ます(ピリピ3:21、黙示録21:4)。

創世記17:1~8「全能の神の前に歩む」

7月1日、創世記17:1~8「全能の神の前に歩む」
子孫が星のように増え広がるという神の約束が少しも実現する気配がなかったので、アブラムは妻サライの提案を受け入れ、女奴隷ハガルによってイシマエルを得ました(第15~16章)。その時アブラム86歳(16:15~16)、神が再顕現されたのが99歳の時(17:1)。その間何の記述もない13年間は、神との関係が途絶えた霊的暗黒期間でした。その後、神はアブラムに再顕現され、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」と言われたのです(1節)。肉の知恵で子孫を得ようとしたことは、神の前の歩みというより人の前の歩みでした。また「全き者であれ」とは、道徳的完全、罪なき完全ではなく、このお方のみを神として全く信頼するという信仰の完全を意味しています。しかし命令の前に「わたしは全能の神([ヘ]エール・シャッダーイ)である」との宣言があります。「エール」は神、「シャッダーイ」は十全、山、草原、乳房等諸説ありますが、乳房という意味は暗示に富んでいます。ちょうど栄養が母乳を通して赤子に移っていくように、全能の神の命が御言葉の乳を通してアブラムの内に移っていくので、「全き者」としての歩みが可能となるのです(マタイ5:48)。
全能の神の前に「アブラムは、ひれ伏した」結果(3節)、アブラム(高められた父、の意)からアブラハム(多くの国民の父、の意)に改名されました。彼の本質の変化を意味しています。自分で変えようにも変えられないのが自分自身ですが、神の前にひれ伏し、醜い自己を正直に認めて十字架を仰ぐなら、全能の神は見事に造り変えて下さるのです。

ローマ人への手紙4:16~25「死人を生かす神」

6月17日、ローマ人への手紙4:16~25「死人を生かす神」
アブラハムは、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい…あなたの子孫はあのようになるでしょう」と言われた主とその御言葉を信じて義と認められました(創世記15:5~6)。「彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも」、「死人(複数形、アブラハムとサラを指す)を生かし、無から有を呼び出される神」、まだこの世に誕生していない子孫を、あたかもすでに誕生し、存在しているかのように呼び出す神を、「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」のです(17~18節)。さすがのアブラハムも何度も約束を疑い、失敗もしましたが、そのたびに回れ右して信仰に立ち返りました(19~20節)。「神はその約束されたことを、また成就することができると確信した」ゆえに、絶望的な状況下でも信じ続けることができたのです(イザヤ55:11)。そして遂に約束の子イサクが与えられました(創世記21:5。アブラハム100歳、サラ90歳。約束から25年経過)。
「死んだ状態」のアブラハムを「生かし、無から有を呼び出され」た神は、イエスをも十字架の死から復活させられました。私たちも「先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者…肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、…生れながらの怒りの子」でしたが(エペソ2:1~3)、「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされた」(25節)ことを信じるならば義と認められ、永遠のいのちが与えられます。「死人を生かし、無から有を呼び出される神」に信頼し続けましょう。

ローマ人への手紙4:9~17「信仰の父アブラハム」

6月10日、ローマ人への手紙4:9~17「信仰の父アブラハム」
アブラハムが神に義と認められたのは85歳以前のことであり(創世記15:6、16:16)、割礼を受けたのは99歳の時のことで(創世記17:24)、明らかに「割礼を受けてからではなく、無割礼の時で」した(10節)。割礼は、信仰によって神に義と認められていることの「しるし…証印」であって(11節)、割礼を受けることによって義と認められたのでは決してありません。アブラハムが割礼を受ける前に義とされたのは、信仰のみによって義とされる異邦人の父となるためであり、その後に割礼を受けたのは、ユダヤ人の父ともなるためでした(11~12節)。割礼は新約のバプテスマ(洗礼)に相当します。バプテスマも、悔い改めと信仰によって神に義と認められた者が受ける「しるし…証印」です。
神はアブラハムに「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」と約束されました(創世記12:2、7)。神がモーセに律法をお与えになるより約500年前のことで、神の約束は律法遵守によって与えられたのではないということです(13節)。律法は人に罪を指摘し、律法違反のため神の「怒りを招」いていることを悟らせ、イエスのもとに導くためのものです(15節)。アブラハムは、割礼や律法によってではなく、信仰によって義と認められ、「多くの国民の父」とされたのです(16~17節)。
「異邦人…無割礼の者…キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく…契約に縁がなく…希望もなく神もない者であった」私たちが、十字架信仰によって義とされ、アブラハムの霊的子孫とされ、全世界の相続人とされるとは何という幸福でしょう(16~17節、エペソ2:11~13)。

詩篇51:1~19「砕かれた者に臨む聖霊」

5月27日、詩篇51:1~19「砕かれた者に臨む聖霊」
バテシバとの姦淫の罪を隠すため夫ウリヤを謀殺したダビデが預言者ナタンに迫られた体験に基づく詩でしょう(サムエル下 第11~12章)。
人の目はごまかせても、神の目はごまかせません(ガラテヤ6:7~8)。魂の暗黒を経験したダビデは(32:3~4)、「わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります」と深刻に罪を自覚し(3節)、神の前に砕かれ(6、17節)、「わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました」と真実に罪を洗いざらい告白して赦されました(4節)。王としてのメンツを重んじるあまり、いつでも弁解だらけのサウルとは大違いです(サムエル上 第13、15章)。この一件を通して内に宿る罪の性質に気づいたダビデは(5節)、罪の潔めを求めました(7~12節、ローマ7:15~24)。常に神の御言葉と御心に従って揺ぎなく歩むための「正しい霊」(10節、新改訳「ゆるがない霊」)、臨在の主と共に歩み続けるための「聖なる霊」(11節)、しぶしぶではなく喜んで主に仕えるための「自由の霊」(12節、新改訳「喜んで仕える霊」)を祈り求めました。「そうすればわたしは、とがを犯した者にあなたの道を教え」、すなわち主を証詞せずにはいられなくなり、その結果、「罪びとはあなたに帰ってくるでしょう」と歌いました(13節)。
「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」と自らの罪深さに苦悩して十字架を仰ぐとき(ローマ7:24)、あの十字架は醜い自我がキリストと共につけられて死んだ十字架でもあることを見出し、聖霊に満たされ支配される生涯に導き入れられるのです(ガラテヤ2:19~20)。

サムエル記上17:31~49「ゴリアテを倒したダビデ」

5月20日、サムエル記上17:31~49「ゴリアテを倒したダビデ」
①生ける神への信仰による勝利
巨人ゴリアテがペリシテ軍の代表として戦いを挑んでくると、サウル王をはじめイスラエル軍は「避けて逃げ、ひじょうに恐れた」のに対して、少年ダビデ(15歳前後)はサウルに「しもべが…戦いましょう」と申し出ました(11、24、26、32節)。するとサウルは無謀と決めつけますが、ダビデはあくまでも勝利を確信してやみませんでした(33~37節)。
サウルもイスラエル軍も神を信じていましたが、現実に巨人ゴリアテを目の当たりにすると、信仰を働かせるよりも世の常識を働かせて、勝ち目なしと決め込んだのです。一方のダビデは自分の無力さを認識しつつも、世の常識を働かせるよりも「生ける神」「万軍の主…イスラエルの軍の神」(26、36、45節)への信仰を働かせました。羊飼いとして羊を猛獣から守るために戦った際、主は共にいて勝たせて下さったように、「この戦いは主の戦いであって」、ゴリアテとの戦いにおいても主は勝利させて下さるに違いないと確信していたのです。
②使い慣れた武器による勝利
ゴリアテと戦うためダビデはサウルの武具を着せられましたが、大き過ぎた上に不慣れでした。そこで武具を脱ぎ捨て、使い慣れた石投げを手に戦いに臨み、見事一発でゴリアテを倒しました(38~49節)。
私たちの信仰の戦いにおける武器は御言葉と祈りであり(エペソ6:17~18)、普段の御言葉と祈りの積み重ねによって使い慣れた武器となっているならば、いざという時の底力となること間違いなしです。

ローマ人への手紙4:1~8「義と認められたアブラハム」

5月13日、ローマ人への手紙4:1~8「義と認められたアブラハム」
子孫を与えるという約束が待てど暮らせど実現しないため不満を漏らすアブラハムに対して、主は無数の星が輝く夜空を仰がせられ、「星を数えることができるなら、数えてみなさい…あなたの子孫はあのようになるでしょう」と約束されました。アブラハムは主ご自身とその御言葉を絶対的に信じた結果、義と認められました(創世記13:16、15:1~6)。ダビデはバテシバと姦淫の罪を犯した上、その罪を隠すため夫ウリヤを謀殺ました。ある日、預言者ナタンが譬え話を語り、「あなたがその人です」と切り込むと、ダビデは悔いくず折れ、「わたしは主に罪を犯しました」と告白しました。その結果、罪赦されました(サムエル下 第11~12章、詩篇 第32、51篇)。アブラハムとダビデが義とされたのは、割礼を受けたからでもなければ、律法を守ったからでもありません。ただ主を信じる信仰によって義と認められたのです。
私たち人間は神の前に何の働きもない者、律法を守ることも善行をすることもできない者であるばかりか、神とその御言葉に反逆する「不信心な者」でさえあります。「しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められる」(4~5節)。「わたしは悪人を義とすることはないからである」(出エジプト23:7)と言われる神が、明らかに有罪である人間を無罪とするというのです。一体どういうことでしょうか。それは、神が全人類の罪をイエスに背負わせて十字架につけ、代わりにさばかれたからです。悔改めと信仰のみによって義と認められる、何と恵みの福音でしょうか。