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マタイによる福音書2:1~12「喜びにあふれるクリスマス」

2019年12月8日、マタイによる福音書2:1~12「喜びにあふれるクリスマス」
①ヘロデ王の礼拝
東方の博士たちが、降誕された救い主を「ユダヤ人の王」と呼んだため、ヘロデ王は「不安を感じ」、「その幼な子のことを詳しく調べ…知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」と言うものの、実は憎きライバルの抹殺を企んでいました。権力や目に見えるものを人生の第一の価値として礼拝するヘロデは、世の多くの人々の姿でもあります。
②博士たちの礼拝
今までにない星が夜空に輝くのを見た「博士たち(新共同訳「占星術の学者たち」)」は、救い主誕生のしるしと確信し、千㎞以上もの長旅を経て、遂に救い主にお会いしました。博士たちは救い主を「ひれ伏して拝み」、非常に高価な「黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげ」ました。
人が真に幸いな人生を送ることができない最大原因は、創造主なる神を神としない的外れの罪にあります。御子イエスはこの罪を解決するために降誕され、十字架と復活によって救いを完成されました。「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」(イザヤ書41:10)。イエスを救い主と信じるなら、神は「あなたと共にい」て、「あなたを強くし…助け…ささえ」てくださいます。マイナスと思えるようなことでも、御子を十字架の死にまで渡された愛なる神は「共に働いて、万事を益となるようにして下さ」います(ローマ8:28)。イエスを信じて、「非常な喜びにあふれ」る人生に入れていただきましょう。

詩篇113:1~9「身を低くしてご覧になる主」

2019年12月1日、詩篇113:1~9「身を低くしてご覧になる主」
詩人は「主のしもべたち」に、「今より、とこしえに至るまで」永遠に、「日のいずるところから日の入るところまで」全世界で、「主をほめたたえよ」と呼びかけます。その理由が4節以下に記されています。主は「天よりも高い」ところに座しておられ、「くらぶべき者はだれ」もない超越したお方だからです。ソロモンは「神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです」と祈りました(列王紀上8:27)。そのような主が「遠く天と地とを見わたされる(新改訳「身を低くして天と地をご覧になる」)」。「天よりも高い」ところに座しておられる主は、徹底的に「身を低くして」被造物と関わってくださるお方だからです。主は、「ちり…あくた」の中で苦悩する「貧しい者…乏しい者」や「子を産まぬ女」を、腕組みして天から眺めるだけの傍観者ではなく、実際に親身になって関わってくださるお方です。
このことが文字通り成就したのがクリスマスの出来事です。私たち罪人を救うために、御子イエスはまさに「身を低くして」地上に人の子として降誕されました。人生のあらゆる苦悩を味わわれたイエスは、病に苦しむ者や罪に悩む者等に寄り添われました(ヘブル4:15)。姦淫の現場を押さえられ、恥ずかしさと死の恐怖に打ち震える女性に、イエスは「身をかがめて」寄り添い、罪の赦しを宣告されました(ヨハネ8:1~11)。イエスは今も、人生に悩み苦しむ者や罪に苦悶する者に寄り添い、共に生きようとしておられます。そして再び引き上げ、勝利を与え、喜びを回復したいと願っておられる救い主なのです。

詩篇113:1~9「身を低くしてご覧になる主」

2019年12月1日、詩篇113:1~9「身を低くしてご覧になる主」
詩人は「主のしもべたち」に、「今より、とこしえに至るまで」永遠に、「日のいずるところから日の入るところまで」全世界で、「主をほめたたえよ」と呼びかけます。その理由が4節以下に記されています。主は「天よりも高い」ところに座しておられ、「くらぶべき者はだれ」もない超越したお方だからです。ソロモンは「神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです」と祈りました(列王紀上8:27)。そのような主が「遠く天と地とを見わたされる(新改訳「身を低くして天と地をご覧になる」)」。「天よりも高い」ところに座しておられる主は、徹底的に「身を低くして」被造物と関わってくださるお方だからです。主は、「ちり…あくた」の中で苦悩する「貧しい者…乏しい者」や「子を産まぬ女」を、腕組みして天から眺めるだけの傍観者ではなく、実際に親身になって関わってくださるお方です。
このことが文字通り成就したのがクリスマスの出来事です。私たち罪人を救うために、御子イエスはまさに「身を低くして」地上に人の子として降誕されました。人生のあらゆる苦悩を味わわれたイエスは、病に苦しむ者や罪に悩む者等に寄り添われました(ヘブル4:15)。姦淫の現場を押さえられ、恥ずかしさと死の恐怖に打ち震える女性に、イエスは「身をかがめて」寄り添い、罪の赦しを宣告されました(ヨハネ8:1~11)。イエスは今も、人生に悩み苦しむ者や罪に苦悶する者に寄り添い、共に生きようとしておられます。そして再び引き上げ、勝利を与え、喜びを回復したいと願っておられる救い主なのです。

詩篇113:1~9「身を低くしてご覧になる主」

2019年12月1日、詩篇113:1~9「身を低くしてご覧になる主」
詩人は「主のしもべたち」に、「今より、とこしえに至るまで」永遠に、「日のいずるところから日の入るところまで」全世界で、「主をほめたたえよ」と呼びかけます。その理由が4節以下に記されています。主は「天よりも高い」ところに座しておられ、「くらぶべき者はだれ」もない超越したお方だからです。ソロモンは「神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです」と祈りました(列王紀上8:27)。そのような主が「遠く天と地とを見わたされる(新改訳「身を低くして天と地をご覧になる」)」。「天よりも高い」ところに座しておられる主は、徹底的に「身を低くして」被造物と関わってくださるお方だからです。主は、「ちり…あくた」の中で苦悩する「貧しい者…乏しい者」や「子を産まぬ女」を、腕組みして天から眺めるだけの傍観者ではなく、実際に親身になって関わってくださるお方です。
このことが文字通り成就したのがクリスマスの出来事です。私たち罪人を救うために、御子イエスはまさに「身を低くして」地上に人の子として降誕されました。人生のあらゆる苦悩を味わわれたイエスは、病に苦しむ者や罪に悩む者等に寄り添われました(ヘブル4:15)。姦淫の現場を押さえられ、恥ずかしさと死の恐怖に打ち震える女性に、イエスは「身をかがめて」寄り添い、罪の赦しを宣告されました(ヨハネ8:1~11)。イエスは今も、人生に悩み苦しむ者や罪に苦悶する者に寄り添い、共に生きようとしておられます。そして再び引き上げ、勝利を与え、喜びを回復したいと願っておられる救い主なのです。

マルコによる福音書4:35~41「向こう岸へ渡ろう」

2019年11月24日、マルコによる福音書4:35~41「向こう岸へ渡ろう」
イエスと弟子たちがガリラヤ湖の「向こう岸へ渡ろう」としたところ、今まで経験したことのないような「激しい突風」に遭遇しました(ガリラヤ湖は地中海の海面より210㍍も低く、500~600㍍の山々に囲まれている、すり鉢状の地形の底にあるため、突然の嵐がしばしば発生)。「舳の方でまくらをして、眠っておられた」イエスに弟子たちは、「わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と不満をぶつけ、イエスが「『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎにな」りました。イエスは、病を癒したり悪霊を追い出したりするだけでなく、自然界をも支配する全宇宙の王であることが証明された瞬間です。
そもそも「向こう岸へ渡ろう」と言ったのは、弟子たちではなくイエスご自身でした。イエスのご命令で出発した舟ですから、最後までイエスが責任をもってくださるはずです。しかも舟にはイエスご自身も乗っておられました。それなのに「どうしてそんなにこわがるのですか。まだわたしが信じられないのですか」(リビングバイブル)。
思わぬ人生の嵐に見舞われたとき、私たちも弟子たちのように悲観主義に陥って神を疑い、「どこにおられるのですか。何をしておられるのですか」と文句を言いがちです。そんな私たちに「どうしてそんなにこわがるのですか。まだわたしが信じられないのですか」「わたしはあなたと共にいる。わたしに信頼しなさい。わたしがあなたの人生の大嵐を鎮めてあげよう」と語りかけておられます。神への信頼で満たされて一日を始めるのと、不安と恐れに支配されて始めるのとでは大違いです。朝の御言葉と祈りの時間を大切にしましょう。

マルコによる福音書4:35~41「向こう岸へ渡ろう」

2019年11月24日、マルコによる福音書4:35~41「向こう岸へ渡ろう」
イエスと弟子たちがガリラヤ湖の「向こう岸へ渡ろう」としたところ、今まで経験したことのないような「激しい突風」に遭遇しました(ガリラヤ湖は地中海の海面より210㍍も低く、500~600㍍の山々に囲まれている、すり鉢状の地形の底にあるため、突然の嵐がしばしば発生)。「舳の方でまくらをして、眠っておられた」イエスに弟子たちは、「わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と不満をぶつけ、イエスが「『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎにな」りました。イエスは、病を癒したり悪霊を追い出したりするだけでなく、自然界をも支配する全宇宙の王であることが証明された瞬間です。
そもそも「向こう岸へ渡ろう」と言ったのは、弟子たちではなくイエスご自身でした。イエスのご命令で出発した舟ですから、最後までイエスが責任をもってくださるはずです。しかも舟にはイエスご自身も乗っておられました。それなのに「どうしてそんなにこわがるのですか。まだわたしが信じられないのですか」(リビングバイブル)。
思わぬ人生の嵐に見舞われたとき、私たちも弟子たちのように悲観主義に陥って神を疑い、「どこにおられるのですか。何をしておられるのですか」と文句を言いがちです。そんな私たちに「どうしてそんなにこわがるのですか。まだわたしが信じられないのですか」「わたしはあなたと共にいる。わたしに信頼しなさい。わたしがあなたの人生の大嵐を鎮めてあげよう」と語りかけておられます。神への信頼で満たされて一日を始めるのと、不安と恐れに支配されて始めるのとでは大違いです。朝の御言葉と祈りの時間を大切にしましょう。

マルコによる福音書4:30~34「大きく成長する神の国」

2019年11月17日、マルコによる福音書4:30~34「大きく成長する神の国」
26~32節の二つの譬え話には、小さな始まりが大きな結果になるという共通点があり、26~29節は神の国は「おのずから」成長する点を強調し、30~32節は「からし種のように」成長する点を強調しています。「からし種」は「地上のどんな種よりも小さい」と当時考えられていましたが(100粒で約1㌘)、「成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほど」(3~4㍍)にもなります。小さく始まった神の国が次第に成長・発展し、世界のどの国よりも大きくなり、今や全世界がその中に宿るほど拡大・成長しています。
イエスの弟子たちは当時、世の人々の目にはからし種のような存在だったでしょう(ヨハネ1:46)。私たちも同様です(Ⅰコリント1:26~28)。小さいということは劣等感の原因にもなりますが、神は小さいものや「無きに等しい者を、あえて選ばれ」(Ⅰコリント1:26~28)、その小さいものを用いて神の栄光を現そうとされるお方です。御子イエスが降誕されたのは、大きな都エルサレムではなく、小さな町ベツレヘムでした(マタイ2:6)。イエスは五つのパンと二匹の魚だけで五千人以上の空腹を満たされました(マタイ14:15~21)。小さな少年ダビデは巨人ゴリアテをたった一発の小石で打ち倒しました(サムエル記上 第17章)。
「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう」(マタイ17:20、ピリピ4:13)。小さな始まりに気落ちしてはなりません。やがて大きな結果になる、これが聖書の約束です。私個人としても教会としても、この神の国の爆発的な生命力を信じて待ち望み、体験させていただきましょう。

マルコによる福音書4:30~34「大きく成長する神の国」

2019年11月17日、マルコによる福音書4:30~34「大きく成長する神の国」
26~32節の二つの譬え話には、小さな始まりが大きな結果になるという共通点があり、26~29節は神の国は「おのずから」成長する点を強調し、30~32節は「からし種のように」成長する点を強調しています。「からし種」は「地上のどんな種よりも小さい」と当時考えられていましたが(100粒で約1㌘)、「成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほど」(3~4㍍)にもなります。小さく始まった神の国が次第に成長・発展し、世界のどの国よりも大きくなり、今や全世界がその中に宿るほど拡大・成長しています。
イエスの弟子たちは当時、世の人々の目にはからし種のような存在だったでしょう(ヨハネ1:46)。私たちも同様です(Ⅰコリント1:26~28)。小さいということは劣等感の原因にもなりますが、神は小さいものや「無きに等しい者を、あえて選ばれ」(Ⅰコリント1:26~28)、その小さいものを用いて神の栄光を現そうとされるお方です。御子イエスが降誕されたのは、大きな都エルサレムではなく、小さな町ベツレヘムでした(マタイ2:6)。イエスは五つのパンと二匹の魚だけで五千人以上の空腹を満たされました(マタイ14:15~21)。小さな少年ダビデは巨人ゴリアテをたった一発の小石で打ち倒しました(サムエル記上 第17章)。
「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう」(マタイ17:20、ピリピ4:13)。小さな始まりに気落ちしてはなりません。やがて大きな結果になる、これが聖書の約束です。私個人としても教会としても、この神の国の爆発的な生命力を信じて待ち望み、体験させていただきましょう。

マルコによる福音書4:26~29「おのずから実を結ぶ神の国」

2019年11月10日、マルコによる福音書4:26~29「おのずから実を結ぶ神の国」
①おのずから成長する神の国
大地にまかれた種が知らないうちに芽を出し、「おのずから(新改訳2017「ひとりでに」)実を結」ぶように、神の国(神の恵みによる支配)も人間の思いや力の及ばないところで「おのずから」成長していきます。「成長させて下さるのは、神で」(Ⅰコリント3:6~7)、しかもただ成長するだけでなく、「かまを入れる…刈入れ時」、神の国完成の時が必ず来ます。
②心の中で成長する神の国
イエスを信じる者の心の中に到来した神の国も(ルカ17:21)、「おのずから」成長し、実を結びます。御言葉の種にはいのちがあるからです。
③世の中で成長する神の国
イエスはこの譬え話を、熱心党の誤り(武力によってローマ帝国を倒し、神の国を建設する)を正すために語られたのかもしれません。私たちにも、神を押し退けて自力で神のわざをなそうとする熱心党的傾向がないでしょうか。確かに人間の側にも、祈ることや良い証詞を立てること等、なすべき責任があります。しかしたとえそれらがなくても、悪条件下であっても、神の国は「おのずから」成長していくもので、私たちには計り知れない神の領域です。また、当時イエスの弟子たちはごく少数で、神の国がなかなか成長しないように見える中、弟子たちを励ますための譬え話でもあったでしょう。ただひたすら信じて待つ他ない夜のような時もあります。しかし「おのずから」「ひとりでに」夜も昼も着実に進展していく神の国の生命力を信じて、なすべきことをなしたなら、あとは忍耐して神の時を待ち望むことです。

マルコによる福音書4:26~29「おのずから実を結ぶ神の国」

2019年11月10日、マルコによる福音書4:26~29「おのずから実を結ぶ神の国」
①おのずから成長する神の国
大地にまかれた種が知らないうちに芽を出し、「おのずから(新改訳2017「ひとりでに」)実を結」ぶように、神の国(神の恵みによる支配)も人間の思いや力の及ばないところで「おのずから」成長していきます。「成長させて下さるのは、神で」(Ⅰコリント3:6~7)、しかもただ成長するだけでなく、「かまを入れる…刈入れ時」、神の国完成の時が必ず来ます。
②心の中で成長する神の国
イエスを信じる者の心の中に到来した神の国も(ルカ17:21)、「おのずから」成長し、実を結びます。御言葉の種にはいのちがあるからです。
③世の中で成長する神の国
イエスはこの譬え話を、熱心党の誤り(武力によってローマ帝国を倒し、神の国を建設する)を正すために語られたのかもしれません。私たちにも、神を押し退けて自力で神のわざをなそうとする熱心党的傾向がないでしょうか。確かに人間の側にも、祈ることや良い証詞を立てること等、なすべき責任があります。しかしたとえそれらがなくても、悪条件下であっても、神の国は「おのずから」成長していくもので、私たちには計り知れない神の領域です。また、当時イエスの弟子たちはごく少数で、神の国がなかなか成長しないように見える中、弟子たちを励ますための譬え話でもあったでしょう。ただひたすら信じて待つ他ない夜のような時もあります。しかし「おのずから」「ひとりでに」夜も昼も着実に進展していく神の国の生命力を信じて、なすべきことをなしたなら、あとは忍耐して神の時を待ち望むことです。