記事一覧

エレミヤ書29:10~14「平安と将来と希望を与えるご計画」

2019年6月2日、エレミヤ書29:10~14「平安と将来と希望を与えるご計画」
バビロン捕囚となって絶望するイスラエルにエレミヤは、捕囚の地で腰を落ち着けて生活するよう勧めました。それは「バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る」からです。人の目には「災」と思えても、神はさらに深いご計画をもって導いておられるのです。
なぜイスラエルにバビロン捕囚という悲劇が襲ったのでしょうか。それは、イスラエルが神の民として本来あるべき姿を回復し、再出発するためでした。イスラエルは律法に背いて偶像崇拝に陥っていったため、神はエレミヤ他の預言者を次々とお遣わしになり、悔い改めのチャンスをお与えになりましたが、イスラエルは悔い改めようとせず、罪に罪を重ねていきました。そのため神はバビロン捕囚というさばきを下されたのですが、それは「災を与えようというのではなく、平安を…将来を…希望を与えようとするもの」だったのです。
「測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た」(詩篇16:6)。詩人は自分の生涯を振り返って、神は私のために最も良い人生を備えてくださった、と感謝しています。私を造られた神は、この私のことを誰よりもよく知っておられ、しかも御子イエスを十字架の死に渡されるほど、この私を愛しておられるお方です。この神が私のために最高の人生を割当ててくださらないはずがありません。「何か大きな問題や困難に出合った時…『なぜ?』という問いかけから、神さまの御業、ご計画に期待して、この出来事を通して『何を?』と祈り求めていきましょう」(松本雅弘師)。

マルコによる福音書1:35~39「朝早く寂しい所で」

2019年5月26日、マルコによる福音書1:35~39「朝早く寂しい所で」
神であると同時に人間であったイエスは、私たちと同様、弱さを覚えられましたし(ヨハネ4:6)、説教や癒しや悪霊追放のときには全精力を注いでおられたことでしょう(5:29~30)。そのように朝から晩まで休む暇なく働かれたイエスがお疲れにならなかったはずはありませんが、「朝はやく、夜の明けるよほど前に…起きて…祈っておられた」。
なぜそうされたのでしょうか。第一に、父なる神と交わるためでした。イエスは毎朝の祈りの中で、今日も神の愛と真実に支えられていることを感謝して一日を始められたのでしょう。「朝、神の前に静まって、神の愛が自分の心に注ぎ込まれ、満ち満ちてくるのを感ずるまでは、決してその場から立ち上がってはならない」(F.B.マイヤー)。
第二に、神から新しい力を得るためでした(イザヤ書40:31、ピリピ4:13)。イエスは毎朝の祈りの中で疲れを癒され、新たな力を注がれていたからこそ、激務に戻って行くことができたのでしょう。「神を離れては、どんなに些細な試練でも私たちの手に負えなくなる」(F.B.マイヤー)。
第三に、自分の使命を確認するためでした。本書には、イエスの祈りの場面が計3回記されています(1:35、6:46、14:32~42)。いずれも十字架抜きの救いへと誘う危機的な状況でした。だからこそ祈りの中で、「教を宣べ伝え」るため、十字架と復活による救いを完成するために来臨したことを再確認し、使命に堅く立つ必要があったのです。
「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」(ウエストミンスター小教理問答 第1問)。私たちも毎朝、このことのために今日も生かされていることを感謝し、一日をスタートしましょう。

マルコによる福音書1:35~39「朝早く寂しい所で」

2019年5月26日、マルコによる福音書1:35~39「朝早く寂しい所で」
神であると同時に人間であったイエスは、私たちと同様、弱さを覚えられましたし(ヨハネ4:6)、説教や癒しや悪霊追放のときには全精力を注いでおられたことでしょう(5:29~30)。そのように朝から晩まで休む暇なく働かれたイエスがお疲れにならなかったはずはありませんが、「朝はやく、夜の明けるよほど前に…起きて…祈っておられた」。
なぜそうされたのでしょうか。第一に、父なる神と交わるためでした。イエスは毎朝の祈りの中で、今日も神の愛と真実に支えられていることを感謝して一日を始められたのでしょう。「朝、神の前に静まって、神の愛が自分の心に注ぎ込まれ、満ち満ちてくるのを感ずるまでは、決してその場から立ち上がってはならない」(F.B.マイヤー)。
第二に、神から新しい力を得るためでした(イザヤ書40:31、ピリピ4:13)。イエスは毎朝の祈りの中で疲れを癒され、新たな力を注がれていたからこそ、激務に戻って行くことができたのでしょう。「神を離れては、どんなに些細な試練でも私たちの手に負えなくなる」(F.B.マイヤー)。
第三に、自分の使命を確認するためでした。本書には、イエスの祈りの場面が計3回記されています(1:35、6:46、14:32~42)。いずれも十字架抜きの救いへと誘う危機的な状況でした。だからこそ祈りの中で、「教を宣べ伝え」るため、十字架と復活による救いを完成するために来臨したことを再確認し、使命に堅く立つ必要があったのです。
「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」(ウエストミンスター小教理問答 第1問)。私たちも毎朝、このことのために今日も生かされていることを感謝し、一日をスタートしましょう。

マルコによる福音書1:29~34「イエスの家庭訪問」

2019年5月19日、マルコによる福音書1:29~34「イエスの家庭訪問」
第一に、「シモンのしゅうとめが熱病で床についていたので、人々はさっそく、そのことをイエスに知らせ」ました。「さっそく…イエスに知らせ」て祈ることこそ、問題解決の早道です(詩篇46:10、50:15)。
第二に、「イエスは近寄り、その手をとって起されると、熱が引き」ました。弟子たちが逆風のため舟をこぎあぐねていたとき、イエスが「舟に乗り込まれると、風はや」みました(6:45~52)。パウロの場合は、肉体的弱さが除去されるよう祈り続けましたが、結局癒されませんでした。代わりに「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」との答えを受け入れ、神により頼んで超人的な働きをしました。イエスを迎え入れることで、願いどおり解決されることもあれば、解決されないこともあります。しかしいずれにせよ、好循環へと変わっていくことだけは確かです。
第三に、熱病を癒された姑は、感謝にあふれて「彼らをもてなし」ました。ドルカスは十字架の愛に何とか応えようと、裁縫の賜物を用いて、困窮する女性たちのために服を作りました(使徒行伝9:36~43)。水が流れ込むだけで出口がなく、塩分濃度が高くて(普通の海の6倍)生物の住めない死海(塩の海)のようであってはなりません(使徒行伝20:35)。
イエスを信じ迎え入れることによって好循環が生まれ、十字架の愛に応えて神と人に仕えることによって好循環が維持されます。あなたの人生にもこの好循環があるでしょうか。信仰を働かせるよりも常識を働かせて、イエスを迎え入れるところが詰まっていませんか。喜んで神と人のために奉仕するところが詰まっていませんか。

マルコによる福音書1:29~34「イエスの家庭訪問」

2019年5月19日、マルコによる福音書1:29~34「イエスの家庭訪問」
第一に、「シモンのしゅうとめが熱病で床についていたので、人々はさっそく、そのことをイエスに知らせ」ました。「さっそく…イエスに知らせ」て祈ることこそ、問題解決の早道です(詩篇46:10、50:15)。
第二に、「イエスは近寄り、その手をとって起されると、熱が引き」ました。弟子たちが逆風のため舟をこぎあぐねていたとき、イエスが「舟に乗り込まれると、風はや」みました(6:45~52)。パウロの場合は、肉体的弱さが除去されるよう祈り続けましたが、結局癒されませんでした。代わりに「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」との答えを受け入れ、神により頼んで超人的な働きをしました。イエスを迎え入れることで、願いどおり解決されることもあれば、解決されないこともあります。しかしいずれにせよ、好循環へと変わっていくことだけは確かです。
第三に、熱病を癒された姑は、感謝にあふれて「彼らをもてなし」ました。ドルカスは十字架の愛に何とか応えようと、裁縫の賜物を用いて、困窮する女性たちのために服を作りました(使徒行伝9:36~43)。水が流れ込むだけで出口がなく、塩分濃度が高くて(普通の海の6倍)生物の住めない死海(塩の海)のようであってはなりません(使徒行伝20:35)。
イエスを信じ迎え入れることによって好循環が生まれ、十字架の愛に応えて神と人に仕えることによって好循環が維持されます。あなたの人生にもこの好循環があるでしょうか。信仰を働かせるよりも常識を働かせて、イエスを迎え入れるところが詰まっていませんか。喜んで神と人のために奉仕するところが詰まっていませんか。

マルコによる福音書1:21~28「人々はイエスに驚いた」

2019年5月12日、マルコによる福音書1:21~28「人々はイエスに驚いた」
イエスは、説教と御業(癒しや奇跡等)によって、父なる神がどういうお方であるかを人々に教えようとされました。律法学者たちは「やたらに他人のことばを引用」(リビングバイブル)して自らの教えを権威づけようとしましたが、永遠に神と共におられるイエスは、「神は言われる。わたしは言う」と確信をもって語ることができました。律法学者たちの説教は人々に重荷を負わせて苦しめるものでしたが、イエスの説教は重荷を下ろさせ(マタイ11:28)、恵みに生かすものでした。律法学者たちは語るだけで実行しませんでしたが、イエスは自ら語ったことを率先して実行されました(ルカ23:34)。「けがれた霊につかれた者が会堂にいて」、イエスが「黙れ、この人から出て行け」と言われると、悪霊は出て行きました(ルカ11:20)。人々は、イエスの説教や御業の中に、律法学者たちにはない天来の権威を見出して驚いたのです。
私たちは彼らのようにイエスを直接見ることはできませんが、聖書66巻によってより正確に知ることができます。問題は、イエスをどのようなお方と考え、どのような態度をとっているかです。自分のわずかな知識や経験で神を推し量ったり、常識の範囲内の御言葉しか聞こうとしなかったり、心をかたくなにして批判や偏見に凝り固まったりしていると、御言葉をいくら聞いても正しく理解できないでしょう。まず自分の知識や経験を横に置いて、神が言わんとすることを謙虚に聞き取る姿勢を持つところから始めるなら、イエスは私を罪と滅びから救い出してくださる救い主であり、私の生涯を全責任をもって導いてくださる主権者であることがわかるでしょう。

マルコによる福音書1:21~28「人々はイエスに驚いた」

2019年5月12日、マルコによる福音書1:21~28「人々はイエスに驚いた」
イエスは、説教と御業(癒しや奇跡等)によって、父なる神がどういうお方であるかを人々に教えようとされました。律法学者たちは「やたらに他人のことばを引用」(リビングバイブル)して自らの教えを権威づけようとしましたが、永遠に神と共におられるイエスは、「神は言われる。わたしは言う」と確信をもって語ることができました。律法学者たちの説教は人々に重荷を負わせて苦しめるものでしたが、イエスの説教は重荷を下ろさせ(マタイ11:28)、恵みに生かすものでした。律法学者たちは語るだけで実行しませんでしたが、イエスは自ら語ったことを率先して実行されました(ルカ23:34)。「けがれた霊につかれた者が会堂にいて」、イエスが「黙れ、この人から出て行け」と言われると、悪霊は出て行きました(ルカ11:20)。人々は、イエスの説教や御業の中に、律法学者たちにはない天来の権威を見出して驚いたのです。
私たちは彼らのようにイエスを直接見ることはできませんが、聖書66巻によってより正確に知ることができます。問題は、イエスをどのようなお方と考え、どのような態度をとっているかです。自分のわずかな知識や経験で神を推し量ったり、常識の範囲内の御言葉しか聞こうとしなかったり、心をかたくなにして批判や偏見に凝り固まったりしていると、御言葉をいくら聞いても正しく理解できないでしょう。まず自分の知識や経験を横に置いて、神が言わんとすることを謙虚に聞き取る姿勢を持つところから始めるなら、イエスは私を罪と滅びから救い出してくださる救い主であり、私の生涯を全責任をもって導いてくださる主権者であることがわかるでしょう。

ルカによる福音書24:44~53「十字架と復活の証人」

2019年5月5日、ルカによる福音書24:44~53「十字架と復活の証人」
本書は、「成就された」(1:1)で始まり、「成就する」(24:44)で終わり、神の約束は「必ずことごとく成就する」という確信で貫かれています。「キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる」ことにより、「その名によって罪のゆるしを得させる悔改め」、救いの道が完成されました。この福音は「エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」ために、弟子たちが「これらの事の証人」として遣わされようとしています。しかし彼らは、弱さや欠けを人一倍持つ者たちです。そんな彼らのために「わたしの父が約束されたもの(聖霊)を、あなたがたに贈る」と言われました。そして約束どおり聖霊が注がれると、臆病な弟子たちがいのちがけで福音を宣べ伝えるようになり、麗しい生活で福音を証しするようになったのです。
あなたにもそのような証人の一人になってほしい。これが、あなたのために御子イエスを犠牲にされた神の何よりの期待です。自分の性格や能力、努力や頑張りではとても証人にはなれないことを正直に認め、「私にも聖霊の恵みが必要です」と祈り求めることです。弟子たちもこの時点では私たちと大差ない存在でした。しかし弟子たちは造り変えられ、大きく飛躍しました。それは、「わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る」という約束を信じて、祈り待ち望み、その約束を実際にいただいたからです。大失敗した「都にとどまって」祈るということは、自分自身の醜い内面・本質から逃げないで、それに向き合うということです。砕かれて十字架を仰ぐとき、あなたも聖霊によって潔められ満たされた、力ある証人とされます。

ルカによる福音書24:13~32「復活のキリストは今も」

2019年4月28日、ルカによる福音書24:13~32「復活のキリストは今も」
①復活のキリストは今も一緒に歩まれる
エマオ途上の弟子たちが「このいっさいの出来事について…語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれ」ました。私たちの人生にも、「悲しそうな顔をして立ちどま」らざるを得ないことが少なくありませんが、そのとき十字架と復活のイエスが「近づいてきて…一緒に歩いて」くださる上、「その話は、なんのことなのか」と相談に乗り、慰め励ましてくださいます。
②復活のキリストは今も聖書を説き明かされる
「わざにも言葉にも力ある預言者でした…望みをかけていました」とすっかり過去のこととして語るほど、また空っぽの墓を見ても復活を信じられないほど絶望していた弟子たちに、イエスは旧約聖書全体から復活の事実を説き明かされました。すると「心が内に燃え」、一度は消え失せていた希望の火が再び燃え始めました。御言葉から離れて目先の現象だけに捕われると、間違いなく失望落胆します。しかし御言葉に聞き入るならば、「心が内に燃え」ることでしょう。
③復活のキリストは今も一緒に宿られる
エマオに近づくと弟子たちは立ち止まりましたが、イエスは「なお先へ進み行かれる様子で」した。そこで弟子たちはイエスを「しいて引き止めて」、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい」と願い、共に食卓を囲むうちに霊の眼が開かれ、このお方こそ復活のイエスであると悟りました。私たちもイエスを心の宿にお迎えして、日々イエスを拝して交わり、イエスをより深く知り、愛し従う者とされましょう。

ルカによる福音書24:1~12「イエス・キリストの復活」

2019年4月21日、ルカによる福音書24:1~12「イエス・キリストの復活」
十字架上に死んで墓に葬られたイエスの御体に香料を塗り、丁重に葬って差し上げようと、女性たちは「週の初めの日、夜明け前に…墓に行った」のですが、彼女たちの前には大問題がありました。墓の入口をふさぐ大石です。彼女たちはこの大石についてずっと話し合いながら墓まで来ましたが(マルコ16:3「話し合っていた」=話し合い続けていた)、それは全く不要な心配でした。すでに「石が墓からころがして」ありました。約束どおりイエスは死を打ち破って復活されたのです。
墓の大石どころではない人類共通の最大の大石、それは罪と死の大石です。この大石を取り除くために罪の全くない神の御子イエスが来臨され、私たちの罪を背負って十字架につけられ、私たちに代わって神のさばきを一身に受けて死なれましたが、三日目に復活されました。十字架がなくては復活の意味はなく、復活がなくては十字架は完成しません(ローマ4:25)。空っぽの墓は、イエスが罪と死に勝利され、今も生きておられる救い主であること、ただイエスを信じるだけで罪赦されるという救いが完成されたことの証明なのです。
十字架と復活によって、神と私たちとを隔てる途方もない罪と死の大石を「ころがして」下さったイエスは、私たちの人生に立ちはだかる大石をも同様に「ころがして」下さるお方です。「ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった」(マルコ16:4)。うつむいて困難ばかりを見つめるのではなく、十字架と復活のイエスに心の目を上げましょう。「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(Ⅱテモテ2:8)。