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イザヤ書52:13~53:12「受難のキリスト」

4月5日、イザヤ書52:13~53:12「受難のキリスト」
これはキリスト受難の預言です(使徒8:28~35他)。キリストは「高められ、あげられ、ひじょうに高くなる」のですが(52:13、復活・昇天・着座)、その前にどうしても避けて通れない苦難がありました(52:14以下)。
「かわいた土から出る根のように」、家畜小屋で誕生し、ヘロデに命を狙われる等、キリストの生涯はその最初から苦難に満ちたものでした(2節)。「われわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない」とあるように、キリストは人間と同じ姿を取って来臨されました(2節)。らい病人のように「侮られて人に捨てられ…忌みきわれ…侮られ…尊ば」れませんでした(3節)。さばきの庭で罵られ、つばきをかけられ、打ち叩かれても、一言も「口を開か」ず、重い十字架を担ぎながら、「ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように」黙々とゴルゴダの丘へと向かわれました(7節、Ⅰペテロ2:23)。そして十字架上で、「われわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれた」のです(4、5、6、8節)。キリストの側には、十字架につけられるような理由など全くありません。造り主なる神から「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(6節)、「われわれ」の罪の身代わりとしての十字架であったのです。十字架の苦難は「主の御旨」であり、キリストは喜んで御旨に服従されました。それによって、十字架を信じる者の罪を赦し、義とする救いの道が開かれるからです(10~11節)。
私に代わってキリストが罰せられた、この「喜ばしい交換」(ルタ-)に驚きと感動を覚えるとともに、感謝と献身を新たにしましょう。

コリント人への第一の手紙15:1~11「キリストの復活」

3月23日、コリント人への第一の手紙15:1~11「キリストの復活」
①復活は罪に対する勝利(1~19節)
キリストが十字架につけられて死なれたのは「わたしたちの罪のため」であり、「そして葬られたこと」とわざわざ記すのは、仮死ではなく完全な死であったことを強調するためです。しかしキリストは「三日目によみがえ」られ、今も生きておられます(3~4節)。もし十字架の死だけで復活がなかったならば、救いは未完成であり、その結果、「信仰は空虚なものとなり…いまなお罪の中にいることにな」り、「すべての人の中で最もあわれむべき存在とな」ります(12~19節)。しかし「三日目によみがえったこと」により、罪に対する勝利と救いの完成が証明されたのです。このように十字架と復活は表裏一体、福音の中心です。この福音を信じる者は誰でも義と認められるのです(ローマ4:25)。
②復活は死に対する勝利(20~58節)
キリストは、人類最大の敵である死を復活によって打ち破られ、死は一切の終わりではなくなりました(55~57節)。キリストの復活は、キリストを信じる者も同様に復活することの「初穂」、前兆です(20節)。死からいのちへの大逆転をもたらした復活を信じるならば、その人自身の人生にも大逆転がもたらされ、すべてが意味あるものへと変えられていくのです。「主にあっては」、無駄なこと、無意味なことなど何一つとしてありません。また、様々な問題に直面するとき、死をも打ち破られたキリストの御力に真により頼むならば、試練や困難を耐え忍んで乗り越えることができるようにされるのです(58節)。

ヨハネによる福音書19:28~30「わたしは、かわく」

3月16日、ヨハネによる福音書19:28~30「わたしは、かわく」
①肉体的な渇き
神の御子でありながら人間の姿をとって降誕されたイエスは、私たちと同様に弱さを覚え(4:6~7)、十字架上でも「わたしは、かわく」と喉の渇きを訴えられました。「民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようになら」れたイエスは、「罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われ」ました(ヘブル2:17、4:15、讃美歌532番2節「主の受けぬ試みも 主の知らぬ悲しみも うつし世にあらじかし いずこにも御跡見ゆ」)。人生のあらゆる試錬を体験され、十字架の苦悩をも忍ばれたイエスは、「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」のです(ヘブル4:15)。
②霊的な渇き
イエスは人となられたものの神の御子ですから、私たちと違って「罪は犯され」ませんでした(ヘブル4:15)。罪の全くないイエスが極悪犯罪人を処刑する十字架につけられ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです(マルコ15:34)。父なる神と親しい交わりの中にあるときには「父よ」と呼んでおられたイエスですが、全人類の罪を背負って十字架につけられ、神に完全に捨てられた今、「わが神、わが神」と叫ぶ他ありませんでした。その後語られたのが、「わたしは、かわく」です。それゆえこれは、神との交わりが断絶されたことから生じる霊的な渇きであり、全人類が罪と滅びから救われるようにとの霊的な渇きでもあったことでしょう。

ルカによる福音書24:13~32「復活のキリストは今も」

4月8日、ルカによる福音書24:13~32「復活のキリストは今も」
①復活のキリストは今も一緒に歩まれる(13~17節)
エマオ途上の弟子たちが「このいっさいの出来事について…語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた」。私たちが「悲しそうな顔をして立ちどま」る時にも、私たちの罪のために死んで復活されたイエスは「近づいてきて…一緒に歩いて」下さる上、「その話は、なんのことなのか」「あなたが今抱えている問題は何なのか」と相談に乗り、慰め励まして下さいます。
②復活のキリストは今も聖書を説き明かされる(18~27節)
「わざにも言葉にも力ある預言者でした…望みをかけていました」とすっかり過去のこととして語るほど、また空っぽの墓を見ても復活を信じられないほど絶望していた弟子たちに、イエスは旧約聖書全体から復活の事実を説き明かされました。すると「心が内に燃え」、一度は消え失せていた希望の火が再び燃え始めました。一緒に歩んで聖書を説き明かされるイエスの御声に聞き入るならば、「悲しそうな顔をして立ちどま」ることなく、「心が内に燃え」ることでしょう。
③復活のキリストは今も一緒に宿られる(28~32節)
エマオに近づくと弟子たちは立ち止まりましたが、イエスは「なお先へ進み行かれる様子」。そこで弟子たちはイエスを「しいて引き止めて」、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい」と願い、食卓を囲むうちに開眼され、イエスであることがわかりました。私たちもイエスを心の宿にお迎えして、より深い交わりをもたせていただきましょう。

ルカによる福音書23:32~38「父よ、彼らを赦したまえ」

4月1日、ルカによる福音書23:32~38「父よ、彼らを赦したまえ」
金曜日の朝9時、「されこうべ(ラテン語でカルバリ)と呼ばれている」ゴルゴタの丘に三本の十字架が立てられ、真ん中にイエスが、両側に強盗がつけられました(マルコ15:25、マタイ27:33、イザヤ53:12)。十字架の下からは兵卒や役人、民衆がイエスをあざ笑い(35~37節)、上からは「『これはユダヤ人の王』と書いた札」がイエスを侮辱し(38節)、横からは強盗までもがイエスを罵る(39節)という精神的侮辱と肉体的苦痛の極限状態の中、イエスが最初に発せられたのが、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」という祈りでした(34節)。この祈りはまさに「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という教えの実践であり(マタイ5:44)、これによって極悪非道な強盗の一人の良心を目覚めさせました(40~43節)。これだけ見ても、イエスこそ神の御子、真の救い主であることは明らかです。
しかしそのようなことさえもまるでわからない神音痴である私たち人間は、自分が「何をしているのか」、神の前にいかに罪深い存在であるか、まるで「わからずにいる」存在です。真の神がわからず、そのため自分自身さえもわからないというのが人間の悲惨な現実です。しかし、「神の義と愛の合えるところ」である十字架を仰ぐとき、自らの罪深さを知らされると同時に、十字架による救いの必要性を示されます(新聖歌230番1節、Ⅱコリント5:21)。十字架上の第一言は、イエスを十字架につけて苦しめている罪人のこの私を「全く限りなく」赦すための祈りであったことを鮮やかに悟るのです(新聖歌104番2節)。

マルコによる福音書16:1~8「空っぽの墓」

4月16日、マルコによる福音書16:1~8「空っぽの墓」
「安息日が終った」土曜の日没後、三人の女性は「イエスに塗るために、香料を買い求め」、夜明けが待ちきれないかのように「週の初めの日に、早朝、日の出のころ、墓に行」きました。私たちも毎週このような愛と熱意、飢え渇きをもって教会に集い、礼拝しているでしょうか。
墓に急ぐ彼女たちの前には大きな問題がありました。墓の入口をふさぐ大石です。彼女たちはこの大石についてうつむきながら話し合い続けて墓まで来ました。私たちの人生にも様々な困難の大石が立ちはだかりますが、人類共通の最大の大石、それは罪と死の大石です。イエスはこの大石を取り除くために来臨されたのです。「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と唯一言い得る罪の全くない神の御子イエスが、全人類の罪を背負って十字架につけられ、神のさばきを一身に受けて死なれました(15:33~41)。しかし三日目によみがえって、イエスを信じるだけで罪赦される救いの道を完成して下さいました。
罪と死の大石を十字架と復活によって「ころがして」下さったイエスは、人生に立ちはだかる困難の大石をも「ころがして」下さるお方です。困難ばかりを見つめてうつむかないで、イエスを仰ぎましょう。「石はすでにころがしてあった」のを見ることでしょう(詩篇121:1~2)。
「真白な長い衣を着た若者(=御使)」は、「弟子たちとペテロとの所へ行って…伝えなさい」と命じました。イエスを裏切り(14:66~72)、失意のどん底にある自分の名前をもう一度呼んで下さるイエスの愛に触れたペテロは、復活の命と力に満たされて再び立ち上がったのです。

ルカによる福音書23:39~43「三本の十字架」

4月9日、ルカによる福音書23:39~43「三本の十字架」
金曜日の朝9時、ゴルゴタの丘に三本の十字架が立てられ、御子イエスが真ん中に(イザヤ53:12)、二人の強盗が両側につけられました。ひとりの強盗は、「あなたはキリスト(救い主)ではないか」と口先では言っていますが、その救いが自分に必要だとは微塵も感じていません。ますます心をかたくなにして、最後の救いのチャンスを無にしました。
もうひとりの強盗も最初のうちは一緒にイエスを罵っていましたが(マタイ27:44)、十字架上の第一言「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(34節)との祈りを聞き、良心が目覚めたのでしょう。「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか」と神への畏れの念を抱き、「お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから」と自分の罪を素直に告白し、「こうなったのは当然だ」と十字架刑を神のさばきとして受け止めました。そして「このかたは何も悪いことをしたのではない…イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と、イエスは罪を全く犯さなかったお方であり、「御国の権威」をもつ真の王、救い主であることを認めて信仰を表明しました。
その結果、「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」という救いの約束を得ました。救いは「きょう」、罪の悔い改めと十字架を信じる信仰のみによって瞬間的に与えられ(エペソ2:8~9、Ⅱコリント6:2、ヘブル4:7)、「わたしと一緒にパラダイスにいる」、イエスが死の向こうまでも同行され、そこで永遠の安息が与えられるのです。

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