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ローマ人への手紙2:17~29「霊による心の割礼」

10月29日、ローマ人への手紙2:17~29「霊による心の割礼」
ユダヤ人は、神の祝福を全世界に取次ぐために神に選ばれ、神から律法を与えられ、律法によって神の御旨を知り、なすべきことを教えられてきました。それゆえユダヤ人は神を誇り、異邦人を「盲人…やみにおる者…愚かな者…幼な子」と蔑み、自分たちのことは異邦人の「手引き…光…導き手…教師」と誇っていました(17~20節)。しかしその誇りには実質が伴っておらず、「律法に違反して、神を侮ってい」ました(21~23節)。その結果、異邦人たちは神を求めるどころか、逆にユダヤ人と共に神を侮り、神の御名を汚すようになったのです(24節)。
「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です」というルツの信仰告白の背後には、姑ナオミの麗しい信仰生活がありました(ルツ記1:1~18)。私たちの信仰生活は、「あなたの神はわたしの神です」と証詞されるようなものでしょうか。それとも「神の御名は、あなたがたのゆえに…汚されている」と言われるようなものでしょうか。
「私たちには律法だけでなく割礼がある」というユダヤ人の反論に対してパウロは、律法を守らなければ割礼は無価値と切り捨てます。神に問われているのは、割礼の有無ではなく、「文字によらず霊による心の割礼」の有無、律法の精神にかなった歩みをしているか否かです。しかし、律法にかなった歩みをしようにも、生まれながらアダム伝来の罪の性質をもつ私たち人間には不可能です(3:20、ガラテヤ3:24)。罪を悔い改めて十字架を信じ、御言葉に従って歩む者こそ、「文字によらず霊による心の割礼」の者、真の神の民と見なされるのです。

ローマ人への手紙2:12~16「心の律法」

10月22日、ローマ人への手紙2:12~16「心の律法」
「律法」には二種類あり、第一の律法は、聖書の中の律法です。特に旧約聖書の最初の五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)、より広くは旧約聖書全体が「律法」です(新約聖書全体は「福音」)。さらには旧新約聖書全体が、神の教えと御心を明らかにした「律法」とも言えるでしょう。神に選ばれ、律法を委ねられたユダヤ人は、生前律法を守っていたかどうか、律法に照らし合わせてさばかれます。律法を聞いて知っているだけで、実行しなければ無意味なのです(12~13節)。
第二の律法は、良心の中の律法です。異邦人は律法を知りませんが、律法の精神が不完全ではあっても心の中に刻み付けられているのです。そしてこの良心は私たちの心の中で働き、何が善で何が悪か、「互にあるいは訴え、あるいは弁明し合」います。律法を知らない異邦人は、律法ではなく良心の光によってさばかれます。それゆえ、律法の精神を実践して生きていたならば、たとい律法や福音を聞いたことがなくても、神のあわれみを受けることでしょう(14~15節)。
律法によってさばかれるか、良心によってさばかれるか、いずれにしても、人は皆一人の例外もなく神のさばきを受けなければならないということであり、その時、「おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない」ということです(マタイ10:26)。このままでは滅びる他ない私たちのために、律法は罪を示し、「キリストに連れて行く養育掛」として働き(ガラテヤ3:24)、罪の悔い改めと十字架信仰による明確な救いへと導くのです。

ローマ人への手紙2:1~11「神のさばきと神の慈愛」

10月15日、ローマ人への手紙2:1~11「神のさばきと神の慈愛」
「すべて人をさばく者」=ユダヤ人は、自分は神に特別に選ばれ、愛されている民という優越感を抱き、神も律法も知らない異邦人を見下し、さばいていました。しかし実はユダヤ人も異邦人と「同じこと(1:18~32)を行っている」ので、ユダヤ人が異邦人をさばくということは、結局自分自身をもさばいて有罪判決を下しているのであり、自分たちは罪人ではないと弁解する余地など全くないのです(1節)。
神は「正しく」=直訳「真理にしたがって」、真理の御言葉に従ってさばかれるので(2節)、異邦人もユダヤ人もさばきを免れ得ません(3節)。このように厳しく罪を糾弾するのは、神の「慈愛と忍耐と寛容との富」に気づいてほしいからです。しかしいつまでも「かたくなな、悔改めのない心」でいるならば神の怒りをせっせと貯め込むことになり(5節)、神はユダヤ人も異邦人も「かたより見ること」なく(11節)、「おのおのに、そのわざにしたがって報いられる」のです(6節、ヤコブ2:14~26)。
姦淫の罪を犯した上、その夫を謀殺したダビデは、ナタンに「あなたがその人です」と鋭く切り込まれると、「わたしは主に罪を犯しました」と悔いくず折れました(サムエル下第11~12章)。他人の罪や欠点はよくわかっても、いざ自分のこととなるとまるでわからず、自分だけはさばかれない、大丈夫と思い込みやすいものです。しかし聖なる神の前には五十歩百歩、皆罪人に過ぎません。「あの人がどうのこうの」ではなく、自分自身がいかに罪深い者であるかを神の前に素直に認めて十字架を仰ぐよう、神の慈愛が今も注がれているのです。

ヘブル人への手紙11:1~12「信仰によって、サラもまた」

10月1日、ヘブル人への手紙11:1~12「信仰によって、サラもまた」
「あなたの子孫を地のちりのように多くします」と主はかつてアブラハムに約束されたのに(創世記13:16)、待てど暮らせど子どもが与えられませんでした。アブラハムがその不満を主にぶつけると、主はアブラハムを天幕の中から連れ出し、無数の星が輝く夜空を仰がせ、「あなたの子孫はあのようになる」と約束されました(創世記15:1~6)。
それでもなお約束が成就しないので、さすがのアブラハムとサラの信仰も萎えてきました。サラは女奴隷ハガルによって子どもを得るよう夫に提案し、イシマエルを得ましたが、これが争いの原因となりました(16:1~4)。さらに、子どもが来春生まれると御告げを受けたとき、サラは不信仰の笑いをしました。しかし主の叱責によって、やがてサラは不信仰を悔い改め、全能の神のご真実を信じたに違いありません。それゆえ著者は「信仰によって、サラもまた」と記すのです。そして遂に約束の子イサクを得ました(18:1~15)。アブラハムの信仰にサラの信仰が加わってはじめてイサクの誕生があったのです。
御言葉の約束を聞きながら、「そうは言っても…」と不信仰に陥ってはいませんか。イエスも郷里ナザレでは、「彼らの不信仰のゆえに…力あるわざを、あまりなさらなかった」とあります(マタイ13:58)。私たちの不信仰が神の全能を制限し、御業を妨げているのです。全能の神は不信仰の笑いを感謝の笑いに変えて下さるお方。目に見える現実がどんなに厳しくても、いくら待っても約束が実現しそうになくても、天を仰ぎ続けましょう。「偉大な信仰者であれ」(長島幸雄師)。

ヘブル人への手紙11:13~16「天のふるさとを望んで」

9月24日、ヘブル人への手紙11:13~16「天のふるさとを望んで」
「アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時」、二つの約束を与えられました。住むべき土地を与えるという約束、子孫を与えるという約束です(創世記12:1~7)。後者は、25年後のイサク誕生によって実現しました(21:1~5)。前者は、確かにアブラハムはカナンの地に住みましたが、土地を所有して定住することは生涯なく、イサク、ヤコブの代になっても同様でした。土地を所有したのは、妻サラの亡骸を葬るために購入した畑のみでした(23:17~20)。生涯天幕住まいのアブラハムが不平不満を漏らさず、神と共に歩み続けることができたのは、自分の真の故郷は「もっと良い、天にあるふるさと」であり、やがてそこに永住できると信じていたからです。
イエスは十字架前夜、「わたしの父の家には、すまいがたくさんある」と言われました(ヨハネ14:2)。罪を悔い改めてイエスの十字架を信じるならば、すべての罪は赦され、天に「すまい」を持つ者に変えられます。すると、真の希望と喜び、感謝に満ちる日々となり、死を前にしても天国の希望に輝いて、少しも慌てることがないのです。
神の約束の中でも最大のものは、救いの完成の約束でしょう。キリスト再臨後、天国が完成し、世々の聖徒たちは天国で永遠に神と共に住みます。この天のふるさと目指して旅する私たちを見て、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、○○の神」と言い、私たちを「恥とはされな」い、尊んで下さるとは何と幸いなことでしょう(サムエル上2:30)。神の約束に不動の信頼を寄せて歩みましょう。

ヘブルへの手紙11:1~10「信仰によって、アブラハムは」

9月17日、ヘブルへの手紙11:1~10「信仰によって、アブラハムは」
①信仰による出発(8節)
主はアブラハムに「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と命じられました(創世記12:1)。75歳という高齢で、住み慣れた故郷・財産等を捨てて未知の土地を目指す。想像を絶する恐れと不安、労苦と犠牲が伴う命令ですが、アブラハムは最善以下のことは決してなさらない主に全く信頼して、「信仰によって…それに従い」ました。その結果アブラハムは祝福の基となり、その子孫は大いなる国民となりました(創世記12:2~3)。服従を伴う信仰には、払った犠牲を補って余りある豊かな祝福が備えられているのです。
②信仰による生活(9節)
約束の地に到着したアブラハムは、真っ先に礼拝・祈祷・献身の祭壇を築き、天幕生活を始めました(創世記12:4~8)。世にあっては旅人、寄留者であることを常に自覚していたからです。十字架を信じて神のもとに立ち帰った私たちも、真の国籍は天にあり、天のふるさとを目指して歩む旅人です(ピリピ3:20)。御言葉と祈りの祭壇をしっかり築き、「たましいに戦いをいどむ肉の欲を避け」ましょう(Ⅰペテロ2:11)。
③信仰による希望(10節)
土地を所有せず、ずっと天幕生活をしていたアブラハムが平安であったのは、「ゆるがぬ土台の上に建てられた都」に永住するという待望信仰があったからです。イエスを信じると天国の希望がみなぎってくるので、有限な地上生涯を有意義に生きることができるのです。

ヘブルへの手紙11:1~7「信仰によって、ノアは」

9月10日、ヘブルへの手紙11:1~7「信仰によって、ノアは」
①信仰による従順
暴虐が地に満ちる中、「ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人で…神とともに歩んだ」(創世記6:5、11~12、9)。洪水によって地を滅ぼすから箱舟を造るよう神に命じられたノアは、神の言葉を微塵も疑わないで、「すべて神の命じられたようにした」(6:13~14、22、7:5、9、16)。「信仰と服従とは、神の人の生涯の軌道をつくる二本のレールである。服従は信仰から生じ、生ける信仰はまた必ず絶対の服従に現れる」(澤村五郎師)。箱舟同様、十字架も「滅び行く者には愚かであるが」、罪と滅びから救い得るのはこの十字架のみです(Ⅰコリント1:18、23)。「彼のうしろの戸を閉ざされた」神の愛による閉じ込めに感謝しつつ、御言葉に服従し、主の愛の中に留まり続けましょう(ヨハネ15:9、マタイ11:29)。
②信仰による宣教
洪水から救われたのはノアの一家だけでしたが、ノアは「義の宣伝者」として、やがて洪水で滅びること、しかし箱舟に入れば救われることを箱舟に入る直前まで人々に宣ベ伝えました(Ⅱペテロ2:5)。「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい」とあるように、主は個人の救いとともに家族の救いを願っておられます(創世記7:1、使徒16:31)。ノアとその家族によって始められた新しい地も罪によって汚され、今度は洪水ではなく火によって滅ぼされ、その後「新しい天と新しい地」が完成します(Ⅱペテロ3:5~13)。それまでの間、私たちも「義の宣伝者」として命の限り東奔西走しましょう(使徒18:9~10、ヨハネ9:4、Ⅱテモテ4:2)。

ヘブルへの手紙11:1~6「信仰によって、エノクは」

9月3日、ヘブルへの手紙11:1~6「信仰によって、エノクは」
アダムからノアまでの神を畏れる家系において、判で押したように「…年生きて…そして死んだ」と記される中、エノクだけは「神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」と記されています(創世記第5章)。エノクは信仰によって神と呼吸を合わせた二人三脚の歩みをしたのです。それは、愛するわが子メトセラを得、生命を生み出す神への畏れと感謝の念に満たされた65歳の時に始まりました。そして、「エノク(訓練する、奉献する、の意)」という名前のとおり、自分を全く主に献げきり、主のものとして生きる訓練を絶えず続けたのでしょう。それゆえ、「人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかり」(6:5)という時代の中でも、罪に打ち勝ち、300年間変わらず神と共に歩み続けることができたのです。
エノクは、自ら神と共に歩むだけでなく、神の言葉を人々に宣べ伝えました(ユダ14~15)。そのエノクがある日突然いなくなると、人々は「神が彼を取られたので、いなくなった」「死を見ないように天に移された(翻訳された、の意)」としか考えられませんでした。それほどエノクの地上における時々刻々の歩みは、そのまま場所を天に移し替えても少しも違和感なく、恥ずかしくない歩みであったということです。エノクは言葉と生活の両方で人々に神を証ししていたのです。
神との二人三脚を妨げる罪を悔い改めて十字架を信じるとともに、処分すべきは処分し、謝罪すべきは謝罪し、弁償すべきは弁償して、神と共に歩み続けるという信仰の大事業を完遂しましょう(ヘブル4:7)。

ヘブルへの手紙11:1~4「信仰によって、アベルは」

8月27日、ヘブルへの手紙11:1~4「信仰によって、アベルは」
ある日「カインは地の産物を」「アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で」(新改訳)、主に感謝の供え物として献げました。その結果、「主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかった」(創世記4:1~16)。
相違の原因は、「正しい事をしていないのでしたら」「カインとその供え物とは顧みられなかった」とあるように、供え物にではなく両者の態度にありました。「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル上16:7)。カインは好い加減なものを好い加減な心で、「献げさせていただく」ではなく「献げてやった」という心で献げたようです。それに対してアベルは、羊の初子たちを十分吟味した上で、その中から最良のものを選び出して真心から献げたようです。以上のことをヘブル書は、「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた」と記すのです。
神は私たちを罪と滅びから救うために御子イエスを惜しみなく献げて下さいました(ヨハネ3:16)。恵みに感謝して財と共に自分自身を惜しみなく神に献げる、これこそ「なすべき霊的な礼拝」です(ローマ12:1)。
アベルの血は神のさばきを求めて叫びましたが(創世記4:10)、「アベルの血よりも力強く語るそそがれた(御子の)血」(ヘブル12:24)は神に近づく道を開きました。罪があるならば即刻悔い改めて十字架を仰ぎ、「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物」とされましょう(ローマ12:1)。

ヘブルへの手紙11:1~3「信仰とは」

8月20日、ヘブルへの手紙11:1~3「信仰とは」
①信仰とは(1~2節)
⑴信仰とは、「望んでいる事がら」、すなわち未来に実現することが約束されている事柄(祈りが聞かれること、復活、栄化、天国他)を「確信」(=新改訳「保証」)することです。神の御言葉という確かな保証、基盤があるので、たとい現実がどうであろうと確信できるのです(マタイ5:18、24:35)。
⑵信仰とは、「まだ見ていない事実」、すなわち肉眼では見えなくても厳然として存在する事実=霊の世界のことを「確認」(=新改訳「確信」)することです。十字架を信じて罪赦され、心の汚れが取り除かれると、霊の世界のことに目が開かれ、確信することができるのです。
②信仰によって、わたしたちは(3節)
「神は言われた…そのようになった」と繰返されるように(創世記第1章)、目に見える世界は、目に見えない神の、目に見えない言葉によって創造されました。その後も神は「その力ある言葉をもって万物を保っておられ」ます(ヘブル1:3)。この神を信じると、⑴神の前に覚えられていることを確信します。神の支配と保護は、おまけの一羽のすずめのような私たちにまで及び、「神のみまえでは忘れられてはいない」のです(ルカ12:6~7、マタイ10:29)。⑵神の助けを確信します。神は眠ることなく、右にいて、永遠に私たちを助け守って下さいます(詩篇第121篇)。⑶神の最善を確信します。神はすべてを統べ治めて、「神を愛する者たち」のために最善以下のことは決してなさいません(ローマ8:28)。