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ローマ人への手紙6:1~5「キリストとの合一」

11月4日、ローマ人への手紙6:1~5「キリストとの合一」
「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」(5:20)、罪意識が大きければ大きいほど、救いの恵みもより大きく確かになるということですが、これは誤解を招きかねません。もし神の恵みが人間の罪に比例して増し加わるのであれば、もっと恵みを受けるために罪の中に留まり続けるほうがよいのではないかという放縦に陥る危険性があるからです。そこで「断じてそうではない」と強く否定し(1~2節)、救われた者がどういう存在であるか論述します。
以前の私たちはキリストの外にいて、罪の中にどっぷり浸り、神を神と思わず自分勝手に生きていました。しかし悔い改めと信仰によって、「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受け(直訳「キリスト・イエスの中へ浸された」)」、キリストと合一させられました。すなわち、キリストと共に「罪に対して死」に、キリストと共に「新しいいのちに生きる」者とされたのです(3~5節)。バプテスマとは、キリストと共に死ぬ葬儀であると同時に、キリストと合体する結婚式でもあります。それゆえ、弱さのために内なる戦いに負けて罪を犯すことはあっても(7:15~24)、もはや罪の世界に留まり続けることなど到底できなくなっているのがキリスト者なのです(Ⅰヨハネ3:6直訳「罪を犯し続けない」)。
犯した罪は赦されても、罪の性質=「古き人」(6節)はなお生きていて、内なる戦いを繰り広げます。勝利ある信仰生活を送るためにも、古き人が始末される必要があります。自分でも始末に困る自我の解決も、救い同様十字架にあることをパウロは6節以下に詳述します。

ヨハネによる福音書4:1~26「渇くことのない人生」

10月28日、ヨハネによる福音書4:1~26「渇くことのない人生」
「イエスは旅の疲れを覚えて…井戸のそばにすわっておられ」ると、「昼の十二時ごろ…ひとりのサマリヤの女が水をくみにきた」(6~7節)。日中非常に暑い中東では、水汲みは朝か夕方に行うのが普通でしたが、彼女はあえてその時間帯に水を汲みに来ました。それは、夫を次々と五人も取り替え、今また別の男性と同棲するという乱れた生活を送っていたからです(18節)。「富は海の水に似ている。それを飲めば飲むほど喉が渇く」(ショーペンハウエル)。「人の心には、神によってでなければ絶対に満たされない空洞がある」(パスカル)。心の空洞を真の神以外のもので満たそうとするから渇くのです。彼女の渇きを見抜いておられたイエスは、空洞を満たすことができるのは、「わたしが与える水を飲む者」だけであることを示されました(13~14節)。
彼女が「その水をわたしに下さい」と願うと、イエスは「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」と言われました(15~17節)。渇きの根本原因は神を無視した罪にあるからです。「あなたと話をしているこのわたしが、それ(=キリスト)である」と言われるイエスの前に罪を悔い改め、救い主と信じた彼女の人生は一変し、人々にイエスのことを宣べ伝えずにはおれませんでした(25~26、28~30、39~42節)。
私たちの人生には、時に様々な試練や困難が押し寄せ、涙に明け暮れることがありますが、「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」(詩篇84:6、新改訳)。イエスの十字架を信じて心に泉を持つようになれば、逆境の中でも希望の泉が湧き上がるのです。

サムエル記上23:1~5、24b~29「のがれの岩」

10月7日、サムエル記上23:1~5、24b~29「のがれの岩」
ダビデは15歳前後に第2代王として選ばれましたが、就任は30歳の時でした(サムエル上16:13、サムエル下5:4)。その間のダビデの歩みは…
①御心に従う
ペリシテと戦うべきか否かについて(1~5節)、サウルの攻撃やケイラの裏切りについて(6~14節)、ダビデはことごとく主の御心を尋ね求めながら行動しました。そうしてサウルの執拗な攻撃から守られ続けてきたダビデでしたが、遂にサウルの手に落ちるかと思ったちょうど「その時」、ペリシテの侵入によってサウルは攻撃を中断せざるを得なくなりました(24~28節)。まさに神のグッド・タイミング。常に主の御心に従って歩むダビデとサウルとの間には、目に見えない「のがれの岩」(新改訳「仕切りの岩」)が主によって常に設けられていたのです。
②主を待ち望む
ダビデは、「しかし、主よ、わたしはあなたに信頼して、言います、『あなたはわたしの神である』と。わたしの時はあなたのみ手にあります」(詩篇31:13~15)と、サウルの手から救い出される時が必ずくることを信じ、神の御手に一切を委ね安んじていました(伝道の書3:1、11)。それでも「包囲された町のように…囲まれた」ことが何度もありましたが、その都度「主は驚くばかりに、いつくしみを…示された」ことを体験したダビデは(31:21)、サウルを殺害する好機が二度ありながら、人間的な力で神の時を強引に引き寄せようとはせず、ひたすら神の時を待ち望み続けました。困難な時こそ、主を待ち望みましょう。

サムエル記上15:1~31「神に捨てられたサウル」

9月30日、サムエル記上15:1~31「神に捨てられたサウル」
アマレクを滅ぼし尽くせという主の命令に対して、サウルは「ただ値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽した」ものの、貪欲から「羊と牛の最も良いもの…を残し」ました(3、7~9、19節)。そのことを「彼がそむいて、わたしに従わず、わたしの言葉を行わなかった」と言われたように、部分的な服従は全く従っていないも同然なのです(11節)。
サウルは「わたしは主の言葉を実行しました」と偽ったばかりでなく、サムエルに不従順を指摘されると、自分のことは棚に上げておいて「人々が…民は」と責任転嫁しました。挙げ句の果ては「主にささげるために、羊と牛の最も良いものを残した」と愚にも付かぬ言い訳さえしました(13~15節)。サムエルが不従順を指摘して悔い改めを迫っても、サウルは「わたしは主の言葉に聞き従い…しかし民は…主にささげるため…取りました」と同じ主張を繰り返すのみでした(20~21節)。
そこでサムエルが「そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しい」大罪で、主は高価な犠牲よりも御言葉への聴従をお喜びになることを語ると(22~23a節)、さすがのサウルも「わたしは罪を犯しました」と罪を認めました。しかしこれが口先だけの悔い改めであったことは、「民の長老たち、およびイスラエルの前で、わたしを尊び」という言葉からも明らかです(30節)。結局サウルは神前よりも人前の面目を重んじて悔い改めようとしなかったため、神に捨てられてしまったのです(23b節)。「かたくなな、悔い改めのない心のゆえに」、「慈愛と忍耐と寛容との富を」無にしてはなりません(ローマ2:4~5)。

ピリピ人への手紙3:17~21「わたしたちの国籍は天にある」

9月23日、ピリピ人への手紙3:17~21「わたしたちの国籍は天にある」
パウロは、不完全で未熟だからこそ今もなおキリストをひたすら「捕えようとして追い求めている」(12~14、17節)、この私の生き方、信仰姿勢に「ならう者となってほしい」と言っています。その理由は…
①消極的理由(18~19節)
「キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いから」です。直接的には、以前キリストを信じて救われながら、その後十字架を否定したような生き方をしている者のことですが、キリストをまだ信じていない人々も含めて理解すればよいでしょう。具体的には、自分の「腹」=欲望を神として自分勝手に生きており、それをまるで自由、「栄光」であるかのように考える「恥」知らず、「地上のこと」だけを追い求めていました。「彼らの最後は滅びである」。そうならないよう、パウロもキリストも「涙を流し」ながら語り、祈るのです(ルカ19:41)。
②積極的理由(20~21節)
ピリピ教会の大多数はローマ帝国の国籍を持っていて、それを誇りにしていましたが、「わたしたちの国籍は天にある」、ローマの国籍以上にすばらしい天国という国籍をも持っていました。キリストを信じる者には、地上の他に天国にも国籍、すまいがあるのです(ヨハネ14:1~3)。そして「そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを(再臨)、わたしたちは待ち望んでいる」のです。なぜならこの再臨の日には、「わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さ」り、天国で永遠に神と共に生きるからです。

サムエル記下19:31~40「老聖徒バルジライ」

9月16日、サムエル記下19:31~40「老聖徒バルジライ」
①与える人
バルジライ(鉄器、鉄製品、の意)は、息子アブサロムの謀反によって都落ちしたダビデたちを養いました(17:27~29、19:32)。「報いを望まで人に与えよ」(讃美歌536番)と歌うように、王位奪還後の報酬や地位など全く当てにせず、神から与えられた富を惜しみなく隣人のために用いたのです。「受けるよりは与える方が、さいわいである」と言われたイエスご自身、栄光の富に輝く天の御位を捨てて世に降り、人々に慰めや希望、癒し等を与えた末、十字架上で私たちの罪の身代わりとして命までも惜しみなく与えて下さいました(使徒20:35、Ⅱコリント8:9)。徹底的に与え尽くされたイエスによって救われた私たちも、慰めと励ましの言葉、共に泣き、共に祈る等、惜しみなく与えたいものです(箴言11:24~25、Ⅱコリント9:6)。「一生を終えて後に残るのは、我々が集めたものではなくて、我々が与えたものである」(ジェラール・シャンドリ)。
②慎み深い人
恩に報いようとするダビデに対して、バルジライは丁重に辞退しました。年老いてもなお自分自身を冷静に見つめる目を失わず、地上のものにいつまでもしがみつかず、自分のためには何も求めず、ただ他者の益となることだけを求めました(34~37節)。分を知り、慎み深い、美しい謙遜です。しかし世には、時に教会内にも彼とは正反対の人がいるものですが、それでは「ひとりも彼を惜しむ者はなかった」という惨めな晩年を迎えることになりかねません(歴代志下21:20)。

サムエル記上8:1~22「主こそ真の王」

9月9日、サムエル記上8:1~22「主こそ真の王」
①民の要求(1~9節)
サムエルの老化と跡継ぎの息子たちの堕落によって士師制が完全に行き詰まった上、周辺諸国が強大になる中、民は士師制から王制への転換を求めました(1~5節)。現状分析に基づく当然の判断であったかもしれませんが、問題は「ほかの国々のように」(5節)という言葉にありました。天地の創造者・支配者である主にのみ信頼して生きるところに神の民の祝福があるのに、その真の王である主を捨てて、世の王を当てにする民の不信仰を、主とサムエルは見抜いていたのです(6~7節)。ところが主は民のなすがままに任せられました(ローマ1:24~28)。私たちも主を無視した罪を十字架によって赦され、「王の王、主の主」(黙示録19:16)と崇める生涯に方向転換したはずですが、いつの間にか自分が王となり、自我を突っ張り通してはいないでしょうか。
②世の王と真の王(10~22節)
王制にばら色の夢を描く民に、サムエルは王制の現実を語りました(10~18節)。取って取って取りまくるのが世の王です(「取って」が6回、ヘブル語原文では4回)。一方、真の王である主は、与えて与えて与え尽くすお方です。事実、次々と預言者を遣わして民に悔い改めの機会を与え、例外なく太陽と雨を与え(マタイ5:45)、遂には御子イエスの命をも惜しみなくお与えになりました(ローマ8:32)。この主が私たちを祝福しようとして定められた神の国の規則が御言葉です。口先だけでなく心の底から主を真の王と崇め、御言葉に忠実に従いたいものです。

サムエル記上3:1~14「しもべは聞きます」

9月2日、サムエル記上3:1~14「しもべは聞きます」
ハンナは誓いどおり、サムエルが乳離れすると祭司エリに預けました(1:10~11、2:11)。「わらべ(=新改訳「少年」。10代前半か)サムエルは、エリの前で、主に仕えていた。そのころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった」(1節)。これは、主がご自分の御思いを打明けようにも、打明けることができるような信仰者のいない暗黒時代であったことを示しています。そのような中、主に選ばれたのがサムエルでした。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるのである」(マタイ4:4、申命記8:3)。食事をしなければ生きていけないように、神に造られた人間は、神の言葉を聞かなければ本当の意味で生きていけません。しかしそれを妨げる罪がありますが、その罪を赦し、神との交わりを回復するのが十字架なのです。
サムエルが寝ていると、「サムエルよ、サムエルよ」との声。走ってエリのもとへ行くと、「わたしは呼ばない。帰って寝なさい」との答え。同じことが三度繰り返された後、やっと「エリは主がわらべを呼ばれたのであることを悟った」。そして四度目に主から呼ばれたとき、サムエルは教えられたとおり「しもべは聞きます。お話しください」と言うと、主はエリ家に対するさばきについて語られました(3~14節)。ヘブル語で「聞く」と「従う」は同語です。御言葉を聞いても従わなければ、真に聞いたことにはならないということです。サムエル自身まず御言葉に聴従する人であったからこそ、イスラエル全土から敬愛され、その言葉には権威と説得力があったのです(19~21節)。

マタイによる福音書22:1~14「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」

8月12日、マタイによる福音書22:1~14「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」
①招きに応じなかった人(1~7節)
王(神)がその王子(御子イエス)のために婚宴(天国)を催し、僕たち(救い主来臨を告げた預言者たち)を遣わして三度も招きましたが、彼ら(ユダヤ人)は「知らぬ顔をして」無関心、神よりも「自分の畑…自分の商売」優先、「僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった」反逆によって応じませんでした(ヨハネ1:11)。このように天国への招きを拒絶する人の最後は永遠の滅びです(5~7節)。信じるとは、「自分の畑…自分の商売」第一の生き方から、神第一の生き方へと方向転換することです。
②招きに応じた人(8~10節)
次に「町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも(異邦人)」招くと、婚宴は満席になりました。イエスが来臨されたのは、「罪人を招くため」「失われたものを尋ね出して救うため」です(マタイ9:13、ルカ19:10)。信じるとは、「どうして私のような者が」と驚きつつも、手取り足取りの神の招きに素直に応じて身を委ねることに他なりません。
③礼服を着なかった人(11~14節)
招きに応じた人々の中に、一人だけ礼服(十字架による救いの衣、イザヤ61:10)を着ていない人がいました。礼服を着る資格がないと思ったからではなく、礼服を着る必要がないと思ったから着なかったのでしょう。そのため「外の暗やみにほうり出」されて滅びました。天国で通用するのは、自分の義の衣ではなく、十字架と復活による救いの衣だけです。主は今も涙ながらに招いておられます(マタイ23:37~38)。

ローマ人への手紙5:12~21「罪の起源と救いの創始」

8月5日、ローマ人への手紙5:12~21「罪の起源と救いの創始」
①罪の起源であるアダム(12~14節)
最初の人アダムとエバは蛇にそそのかされ、禁断の木の実を食べたため(創世記3:1~6)、恥意識(3:7)、神への恐怖(3:8、10)、出産の苦痛(3:16ab)、不自然な男女関係(3:16c)、土地の荒廃と労働の苦労(3:17~18、ローマ8:22)、死(3:19)がもたらされました。最初の人アダムが不従順の罪を犯した結果、全人類に罪が入り込み、その罪の刑罰として死がもたらされました(ローマ5:12)。アダムの子孫である私たちは皆、生まれながらに罪人だから罪を犯し、そのままでは永遠に滅びるべき存在なのです。 ②救いの創始であるキリスト(15~21節)
罪を犯して神の前から逃亡するアダムとエバに対して、神は「あなたはどこにいるのか」と愛の呼びかけをされた後、「女のすえ(単数形)」として生まれる「ひとりの人イエス・キリスト」による救いを約束されました(創世記3:9、11、15)。「おまえ(蛇)は彼(キリスト)のかかとを砕く」が、「彼(キリスト)はおまえ(蛇)のかしらを砕き」とあるように、キリストは十字架上で死んで三日目によみがえることによって悪魔に勝利され、救いを完成して下さいました。アダムは神のようになろうとして罪を犯し、死を招きましたが、キリストは「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた…おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」ことによって全人類に救いをもたらされたのです(ピリピ2:6~8)。