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ヨハネによる福音書2:1~11「水をぶどう酒に変えるキリスト」

11月7日、ヨハネによる福音書2:1~11「水をぶどう酒に変えるキリスト」
人生最大の喜びである婚礼において、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。これは、私たちの人生にも思いがけない問題や悩みが生じ、喜びや楽しみが尽き果てる時がくることを意味しています。この世の有限なものに人生の基盤を置いている限り、vetements コピー真の平安や満足がなく、絶えず恐れや不安が付きまとうのも至極当然のことです。
婚礼の最中の大ピンチ、母マリヤは真っ先にイエスのもとへ行って窮状を報告して助けを求めました。行き詰まりは決して絶望ではありません。「人のピンチは神のチャンス」。行き詰まったならば、慌てふためいたり、肉の知恵を働かせたりせず、「ぶどう酒がなくなってしまいました。神の助けなしではもう駄目です」と自らの欠乏を素直に認め、イエスの前に出ることが、恵みにあずかる秘訣です。
マリヤは僕たちに、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」と言い置き、僕たちはイエスに命じられたとおり、「四、五斗(80~120㍑)もはいる石の水がめ(清めのため)…六つ(不完全数)」に、水を「口のところまでいっぱいに入れ…料理がしらのところに持って行き」ました。すると、ただの水が上等なぶどう酒(救い・喜びの象徴)に変わっていたのです。これは、不完全な清めの儀式の時代は終わり、イエスによる完全な救いの時代が到来したことを意味しています(Ⅱコリント5:17)。ハリウッド映画 腕時計私の罪のために十字架上で死んで復活されたイエスを信じ、その御言葉に従っていくならば、私の人生にも同様の奇跡が起こります。水のように味気なく、やがて腐敗していく人生が、ぶどう酒のように喜びに満ち、年を重ねるほどに芳香を放つ人生へと変えられるのです。そしてそのゴールは栄光の天国です。

ヨハネによる福音書1:43~51「天が開けて」

10月31日、ヨハネによる福音書1:43~51「天が開けて」
「わたしに従ってきなさい」というイエスの権威ある言葉と人格に触れたピリポは、イエスこそ約束の救い主であると確信しました。するとアンデレ同様(41節)、「ナタナエル(12使徒バルトロマイのことか)に出会って…『イエスにいま出会った』」と証ししましたが、ナタナエルは、旧約聖書にその地名が登場しない「ナザレから、なんのよいものが出ようか」と偏見の虜になり、素直に受け入れませんでした。それに対してピリポは議論せず、論より証拠とばかり、「きて見なさい」とだけナタナエルに言いました。それも「イエスにいま出会った」という確信と感動があったからこそ、説得力ある誘いとなったのです。
ナタナエルがイエスのもとに導かれてくると、イエスは「ほんとうのイスラエル人…その心には偽りがない」という彼の内面と、「いちじくの木の下(学び祈る場)にいるのを見た」という外面を鋭く指摘されました。するとナタナエルは「あなたは神の子です…イスラエルの王です」と言って、目の前のイエスこそ約束の救い主であると確信しました。主を真実に求める者を主は放っておかれません。主は必ずその求めに答えて、願いに勝る答えを与えて下さいます。それゆえ私たちも、主を待ち望んで祈る静かな時と場所を確保したいものです。
「これよりも、もっと大きなこと…天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを…見る」とイエスが言われたように、弟子たちは多くの奇跡を目撃しますが、その究極である十字架と復活によってイエスは天と地とを結ぶ梯子となり(創世記28:10~17)、神と人との交流が回復されました。イエスを信じて「天が開けて」いる人は幸いです。「途方にくれても行き詰まらない」からです(Ⅱコリント4:7~8)。

マルコによる福音書4:26~29「ひそかに成長する種」

10月24日、マルコによる福音書4:26~29「ひそかに成長する種」
①おのずから成長する神の国
大地にまかれた種が知らないうちに芽を出し、「おのずから(新改訳「人手によらず」)実を結」ぶように、神の国(神の恵みによる支配)も人間の思いや力の及ばないところで「おのずから」成長していきます。「成長させて下さるのは、神である」(Ⅰコリント3:6~7)。しかもただ成長するだけでなく、「かまを入れる…刈入れ時」、神の国完成の時が必ず来ます。
②心の中で成長する神の国
イエスを信じる者の心の中に到来した神の国も(ルカ17:21)、「おのずから」成長し、実を結びます。御言葉の種には生命があるからです。
③世の中で成長する神の国
イエスはこの譬え話を「おびただしい群衆」(1節)に向かって語られましたが、中でも特に熱心党の誤り(武力によってローマ帝国を倒し、神の国を建設する)を正すために語られたのではないかと思われます。私たちも、ともすると神を押しのけ、自分の力で神のわざをなそうとする熱心党の傾向がありはしないでしょうか。確かに人間の側にも、祈ること、良い証詞を立てること等、なすべきことがあります。しかしたとえそれらがなくても、むしろ悪条件の中でも、神の国はおのずから成長していくもので、私たち人間には計り知れない神の領域です。神は御国の福音の種を地上にまき、御子イエスの十字架の血潮という水を注ぎ、救われる者を2000年間起こしてこられました。そして今も世界中で福音の種がまかれ、ひそかに成長し、実を結びつつあります。それゆえ福音の種まきをしたならば、後は神の国の生命力を信じ、忍耐して祈り待ち望みましょう。後は神の領域です。

ヨハネによる福音書1:35~42「キリストにいま出会った」

10月10日、ヨハネによる福音書1:35~42「キリストにいま出会った」
①ついて行った(35~38節)
バプテスマのヨハネがイエスを「見よ、神の小羊」と呼ぶのを聞いた「ふたりの弟子(一人はアンデレ、もう一人は著者ヨハネであろう)」が、師のもとを去って「イエスについて行った」のは、重大な決断に基づく行動でした。そこでイエスは、二人の行動の背後にある本質的な欲求を引き出すため、「何を求めているのか」(新共同訳)と問われました。イエスのことをもっとよく知りたいと願う二人は、「どこにおとまりなのですか」と尋ね、イエスと静かに交わる場所を求めました(黙示録14:4)。
②泊まった(39節)
「イエスのところに泊まった(15:4「つながって」と同語)」二人は、イエスの言葉と人格に触れ、イエスこそ約束の「メシヤ(キリスト)」であると確信しました。それから約60年後、ヨハネが「時は午後四時ごろであった」と時刻まで正確に記すのは、その出会いがあまりにも感動的であったからでしょう。今も私たちがイエスのもとに真に留まるとき、「あなたは…である」と私たちの真相を指摘されますが、砕かれて十字架を仰ぐならば、「あなたを…と呼ぶ」と新しく造り変えて下さいます。そしてイエスにつながり続けるなら、実を豊かに結ぶのです。
③つれてきた(40~42節)
翌日アンデレは、何をするよりも「まず自分の兄弟シモンに出会って」、「メシヤにいま出会った(発見する、の意)」と感動をもって語り、「シモンをイエスのもとにつれてき」ました。時々刻々キリストと交わることにより、5分前に街角でキリストに出会ったような新鮮な感動をもって家族・友人に証しし、キリストのもとにお導きしたいものです。

ヨハネによる福音書1:29~34「見よ、神の小羊」

10月3日、ヨハネによる福音書1:29~34「見よ、神の小羊」
バプテスマのヨハネはイエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と証言しました。ここにイエス来臨の目的が凝縮されています。神に造られながら、神に敵対する「世の罪を取り除く(負う、の意。マタイ27:32)」ためにイエスは来られました。「小羊」という表現の背後には、過越の小羊と苦難の僕があります。イスラエルをエジプトの奴隷状態から救い出すため主が下された第十の災いは、小羊の血が塗られた家は過ぎ越しましたが、血が塗られていない家のういごを皆滅ぼし、パロは遂にイスラエルを去らせました(出エジプト12:1~42、Ⅰコリント5:7)。受難の僕は、「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った…われわれすべての者の不義」を一身に背負い、「しえたげられ、苦しめられ」ました(イザヤ52:15~53:12、使徒8:32~35)。イエスこそ十字架に上げられて救いを完成する「神の小羊」なのです。
罪人と同じ立場に立つためイエスが受洗された際、「御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た」ヨハネは、イエスこそ約束の救い主であることを確信しました。ヨハネが授けていた水のバプテスマは、罪の赦しの象徴であって、赦しを得させるものではありません。罪は、イエスの十字架の血潮と御霊によってはじめて取り除いていただけるものです。イエスは、罪を悔い改め、十字架を信じる者の罪を赦し、さらには「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ローマ7:24)と自己絶望して十字架を仰ぐ者の罪を潔める、「御霊によって(の中に、の意)バプテスマを授けるかた」です。
「世の罪を取り除く神の小羊」を仰ぎ、御霊の中に浸されて世に勝利するとともに、ヨハネのように人々にイエスを紹介しましょう。

ルカによる福音書7:11~17「泣かないでいなさい」

9月26日、ルカによる福音書7:11~17「泣かないでいなさい」
百卒長の僕が奇跡的に癒された「そののち、間もなく」のこと、イエスの一行はいつも以上に意気揚々と歩いていたことでしょう。まさに命と喜びに満ちあふれた行列です。そんな一行が、ナインの町の門から出てきた葬列とばったり鉢合わせしました。夫を失った後、精神的・経済的・社会的に唯一の支えであったひとり息子を亡くして葬りに行くやもめの、まさに死と悲しみに満ちあふれた行列です。
イエスはやもめを「見て」、ご自分のほうから近づき、内臓が揺り動かされるほど、まるでご自分の悲しみのように「深い同情を寄せられ」、「泣かないでいなさい」と言われました。人々が「神はその民を顧みてくださった(訪問する、の意)」と言うように、イエスは悩み悲しむ者を訪れて顧み、親身に寄り添って下さるお方です。イエスは「悲しみの人で、病を知っていた」から(イザヤ53:3)、「罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われた」から(ヘブル4:15)、「わたしたちの弱さを思いやること」ができるのです。その後イエスは「近寄って棺に手をかけ」、「若者よ、さあ、起きなさい」との一言でひとり息子を生き返らせ、母親にお返しになりました。
イエスは全人類の罪を背負って十字架につけられ、神にさばかれて死なれましたが、三日目に復活して罪と死を打ち破られました。悲しみに沈むとき、試練や困難に襲われるとき、復活のイエスは近づき、「見て深い同情を寄せられ、『泣かないでいなさい』と」、絶望の「棺に手をかけ」、再び立ち上がらせて下さいます。信仰者もいずれ召されますが、再臨時、「さあ、起きなさい」との御声を聞いて復活し、天国で世々の聖徒たちと共に永遠に生きるのです(黙示録21:3~4)。

ルカによる福音書2:22~38「宮を離れずに」

9月19日、ルカによる福音書2:22~38「宮を離れずに」
ヨセフとマリヤは男児に「割礼をほどこ」し、「イエスと名づけ」ました。そして「きよめの期間が過ぎたとき」、エルサレム神殿へ行き、「幼な子を主にささげ…犠牲をささげ」ました(21~24節)。この赤子こそ約束の救い主だと確信して礼拝したのが、シメオンとアンナでした。
「正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められる(救い主の来臨)のを待ち望んでいた」シメオンは、「聖霊が彼に宿って…主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けてい」ました。そんな彼が「御霊に感じて宮にはいった」ところ、ちょうど「両親もその子イエスを連れてはいってきたので、シメオンは幼な子を腕に抱き」、このイエスこそ「万民」の救い主であることを見出し、「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます」と神をほめたたえ、さらに「この幼な子は…反対を受けるしるしとして、定められています」とイエスの受難をも預言しました。
アンナは「非常に年をとっていた…八十四歳」の「女預言者」で、その結婚生活は「七年間」続いただけで、その後84歳になるまで約60年間やもめとして過ごしてきた女性です。そのような厳しい状況にあるからこそ神にしがみつき、「宮を離れずに夜も昼も断食と祈とをもって神に仕え」てきたのです。その信仰と祈りの報酬として救い主を拝したアンナは、「神に感謝をささげ」、「この幼な子のことを、エルサレムの救を待ち望んでいるすべての人々に語りきかせ」ました。
老年になると繰言が多くなりがちですが、「宮を離れずに」生きる彼らにはそれが見当たりません。教会生活を中心に、天のふるさとを待ち望みつつ(ヘブル11:16)、御言葉と祈りに生きる老年は幸いです。

ヨハネによる福音書1:19~28「荒野で呼ばわる者の声」

9月12日、ヨハネによる福音書1:19~28「荒野で呼ばわる者の声」
ユダヤ教指導者たちはバプテスマのヨハネのもとに人を遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせました。「民衆は救主を待ち望んでいたので、みな心の中でヨハネのことを、もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていた」(ルカ3:15)ことを知っていたヨハネは、「キリストではない」と明確に否定しました。次の問いは「あなたはエリヤですか」。救い主来臨前には預言者エリヤが先駆者として遣わされると人々は理解していました(マラキ4:5、マタイ27:46~47)。それに対してヨハネは「いや、そうではない」と否定しました(もっともイエスはヨハネを霊的な意味でエリヤとみなされました。マルコ9:11~13)。さらに彼らが「あの預言者(申命記18:15、ヨハネ7:40、使徒3:22、7:37)ですか」と尋ねると、ヨハネは「いいえ」と否定した上で、「『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」(イザヤ40:3)と証言しました。「声」は「言葉」を運ぶ器に過ぎません。荒野のように荒廃した人々を、救い主のもとに導く道備えをしているに過ぎない、との自己証言です。
それなら「なぜバプテスマを授けるのですか」という非難に対して、救い主がすでに来て「あなたがたの中に立っておられ」、自分が授けるバプテスマは救い主による赦しの予備的なものに過ぎないこと、「わたしはその人のくつのひもを解く(奴隷の仕事)値うちもない」ことを謙虚に認めました(3:29~30)。パウロの切願も「わたしの身によってキリストがあがめられる(拡大される、の意)こと」(ピリピ1:20)でした。苦難の中にも、失意のどん底にも、キリストは「立っておられ」ますが、多くの人々はこのキリストを知らず、異端もはびこっています。今こそ「主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声」が必要です。

創世記15:1~6「天を仰いで」

9月5日、創世記15:1~6「天を仰いで」
主はアブラムに顕現され、「アブラムよ恐れてはならない」と語られました。なぜ恐れる必要がないのか。それは、主ご自身がアブラムの「盾」であり、アブラムの「受ける報いは、はなはだ大きい」からです。しかしアブラムは、「わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに」、どうして「受ける報いは、はなはだ大きい」と言えるのですか、「あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」、「わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします」(13:16)との約束はどうなったのですか、と主に不満をぶつけました。すると主は、奴隷を跡継ぎにすることを堅く禁じた上で、「あなたの身から出る者があとつぎとなるべきで」、あくまでも約束の実現を待ち望むよう命じられました。そしてアブラムを天幕の中から連れ出し、無数の星が輝く夜空を仰がせられました。天幕に閉じこもって高齢の夫婦が向き合い、いつまでも子が与えられない現実ばかりを見つめていては不信仰に陥るだけです。しかし天を仰ぐと、天地創造の神に不可能などないという信仰が湧いてきます。そして「アブラムは主を信じ…主はこれを彼の義と認められ」ました。
「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」(詩篇19:1)。夜空を見上げ、天地創造の神に思いを馳せることも大切ですが、それ以上に大切なのが、十字架を見上げ、罪の赦し(マタイ9:2)、主の臨在(マタイ14:27)、家族の救い(使徒16:31)等、約束の御言葉を信じることです。「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」(ローマ4:18)アブラムのように、主を信じ抜き、主の約束の実現を待ち望む「偉大な信仰者であれ」(長島幸雄師)。「さあ、天を見上げなさい」(新改訳)。

ヨハネによる福音書1:14~18「言は肉体となり」

8月29日、ヨハネによる福音書1:14~18「言は肉体となり」
「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った(幕屋を張って住む、の意)」とは、約2000年前、神の御子キリストが人となられ、罪と汚れに満ちた地上に来臨された受肉降誕、クリスマスの出来事を指しています。出エジプト後、約束の地を目指して荒野を旅するイスラエルにとって、幕屋は移動式の礼拝堂でした。「雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた」(出エジプト40:34)。神が幕屋に宿り、神が民と共におられるという臨在が実現したのです。そして時満ちてキリストは、人々が見たり聞いたり触ったりできる肉体をとってこの地上に宿り、歩まれました(Ⅰヨハネ1:1)。神でありながら人となられ、「わたしたちと同じように試錬に会われた」キリストは、「わたしたちの弱さを思いやることのでき」るお方です(ヘブル4:15)。と同時に、「わたしたちはその栄光を見た」とあるように、キリストはあの変貌山で本来の神の栄光の姿を包み隠さず現されました(マタイ17:1~2)。
ではなぜキリストは受肉降誕されたのでしょうか。それは、人に「神をあらわ」すためでした。父なる神の「ふところに」おられたキリストだからこそ、目に見えない神がどのようなお方であるか、「あらわ」すことができるのです。キリストはその生涯と人格、言葉とわざを通して神を「あらわし」(ヘブル1:1)、遂には十字架と復活によって神の救いのご計画を完成されました。キリストは、信じる私たちの心の内にもお宿り下さり、試練や苦悩の尽きない人生を共に歩んで下さいます。そしてその救いのゴールは、「神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして…死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」という天国なのです(黙示録21:3)。