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エズラ記5:1~2「御言葉により再び立ち上がる」

2018年4月29日、エズラ記5:1~2「御言葉により再び立ち上がる」
16年間も中断していた神殿再建工事を再開させた二つの要因とは
①預言者の派遣
エレミヤの預言活動から約60年ぶりに預言者ハガイとゼカリヤがエルサレムに現れ、「ゼルバベル(総督、政治的指導者)および…エシュア(大祭司、宗教的指導者)は立ちあがって、エルサレムにある神の宮を(再び)建て始め」ました。かつて神は、エジプトの奴隷であった民の「うめき…叫び」を「聞き…覚え…顧み」、モーセを指導者としてエジプトを脱出させられました。その後も神は士師や預言者を遣わして民を導いてこられました。「神は天使(良い協力者)をお送り下さる」(鄭弼祷師)。私たちは一人孤独で戦っているのではありません。神が共に戦っていて下さいます。そればかりか、「神の預言者たちも、彼らと共にいて彼らを助けた」、良い協力者・理解者を送って助けて下さるのです。
②御言葉の激励
神殿再建を半ば諦め失望していた民を再び立ち上がらせたのは、預言者であり、預言者によって語られた神の言葉でした。バアルの神との戦いの後、燃え尽き症候群のような状態に陥ったエリヤを再び立ち上がらせたのは、休息と食事、そして神の「静かな細い声」でした(列王紀下 第19章)。イエスが処刑されて絶望するエマオ途上の弟子たちを再び立ち上がらせたのは、復活のイエスによる御言葉の解き明かしでした(ルカ 第24章)。人の慰めの言葉等も確かに重要ですが、それらに勝って神の言葉ほど私たちを力づけ励ますものはありません。しかし何と私たちは、御言葉とは真逆のメッセージを世から受け取っていることでしょうか。神の御言葉にこそ耳を傾けましょう。

エズラ記4:1~24「親切そうに見えて実は」

2018年4月22日、エズラ記4:1~24「親切そうに見えて実は」
「ユダとベニヤミンの敵(サマリヤ人)」が「われわれも、あなたがたと一緒にこれを建てさせてください。われわれはあなたがたと同じく、あなたがたの神を礼拝します…」と神殿再建工事への協力を申し出ました。猫の手も借りたいのが実情でしたが、断固拒絶しました。先祖たちが犯した偶像崇拝の道に再び陥る危険性が大であったからです。すると敵は本性を現し、脅迫や嫌がらせ、役人買収によって妨害したため、16年間も工事を中断せざるを得なくなりました。
このときの敵の手口は、悪魔がよく使う手口でもあります。「光の天使に擬装」して忍び寄り、言葉巧みにささやくかと思えば、「ほえたけるししのように」牙をむいて襲いかかることもあります(Ⅱコリント11:14、Ⅰペテロ5:8)。この悪魔の餌食にならないためにも、イエスにつながり続け、御言葉を聞き続けることにより、正しく判別する力を与えられる必要があります(ヨハネ10:2~5)。また私たちは、真に頼り得る神に頼らないで、目先の時計人間的な知恵や方策に飛びつきやすく、せっかくの神の出番を奪ってしまいやすいのではないでしょうか。「あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ」(イザヤ2:22)。さらに悪魔は、私たちに失望の火矢を打ち込んできます。今の時代、目の前の現実だけ見つめると、それこそ失望の連続です。しかしだからこそ、神に期待し、諦めないで祈り続けたいものです。
私たちは常に選択と決断を迫られています。自分の欲や一時の感情に従って選択すると、やがて問題が生じるものです。このときのユダヤ人のように、神とその御言葉に堅く立った選択をしたいものです。たとえ遠回りしたように見えても、それが祝福の道なのです。

エズラ記4:1~24「親切そうに見えて実は」

2018年4月22日、エズラ記4:1~24「親切そうに見えて実は」
「ユダとベニヤミンの敵(サマリヤ人)」が「われわれも、あなたがたと一緒にこれを建てさせてください。われわれはあなたがたと同じく、あなたがたの神を礼拝します…」と神殿再建工事への協力を申し出ました。猫の手も借りたいのが実情でしたが、断固拒絶しました。先祖たちが犯した偶像崇拝の道に再び陥る危険性が大であったからです。すると敵は本性を現し、脅迫や嫌がらせ、役人買収によって妨害したため、16年間も工事を中断せざるを得なくなりました。
このときの敵の手口は、悪魔がよく使う手口でもあります。「光の天使に擬装」して忍び寄り、言葉巧みにささやくかと思えば、「ほえたけるししのように」牙をむいて襲いかかることもあります(Ⅱコリント11:14、Ⅰペテロ5:8)。この悪魔の餌食にならないためにも、イエスにつながり続け、御言葉を聞き続けることにより、正しく判別する力を与えられる必要があります(ヨハネ10:2~5)。また私たちは、真に頼り得る神に頼らないで、目先の人間的な知恵や方策に飛びつきやすく、せっかくの神の出番を奪ってしまいやすいのではないでしょうか。「あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ」(イザヤ2:22)。さらに悪魔は、私たちに失望の火矢を打ち込んできます。今の時代、目の前の現実だけ見つめると、それこそ失望の連続です。しかしだからこそ、神に期待し、諦めないで祈り続けたいものです。
私たちは常に選択と決断を迫られています。自分の欲や一時の感情に従って選択すると、やがて問題が生じるものです。このときのユダヤ人のように、神とその御言葉に堅く立った選択をしたいものです。たとえ遠回りしたように見えても、それが祝福の道なのです。

ヨハネの第一の手紙3:14~18「十字架の愛に応えて」

2018年4月15日、ヨハネの第一の手紙3:14~18「十字架の愛に応えて」
イエスは「兄弟に対して怒る者(新改訳「腹を立てる者」)…愚か者(新改訳「能なし」)…ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれる」と言われ(マタイ5:22)、ヨハネは「すべて兄弟を憎む者は人殺しであり」と記します。心の中で抱く怒り・憎悪・敵意・悪口・軽蔑・罵り等も、殺人と本質的に同じです。あなたはこれまで何人の人を心の中で、また言葉で殺してきたでしょうか。「わたしたちがまだ弱かったころ…まだ罪人であった時…敵であった時」(ローマ5:6、8、10)、私たちの側には神の恵みを受け得る良いものなど何一つないのに、私たちを永遠の滅びから救うべく「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった」のです。
十字架によって「愛ということを知った」者は、「兄弟(複数形)のためにいのちを捨てる」ほど愛するはずですが、「いのちを捨てる」ことは普段そうそう要求されることではありません。しかし「兄弟(単数形)が困っているのを見」ることは日常茶飯事です。そのとき「あわれみの心を閉じる者」、見て見ぬふりをして助けようとしない者が、いざというとき、どうして「兄弟のためにいのちを捨てる」ことができるでしょうか。「愛しています。祈っています」と、「言葉や口先」で言うだけで何もしないのは偽善です。「愛」は、単なる言葉遊びや概念であっては無意味です。具体的な行動を伴ってこその「愛」です。「年をとれば、きみは二本の手を持っていることに気づくだろう。自分自身を助ける手と、他人を助ける手と」(オードリー・ヘプバーンが死の間際、息子たちに読み聞かせた詩)。十字架の愛に応えて、あなたはどう生きるべきでしょうか。「他人を助ける手」をどう使うべきでしょうか。祈る「手」、「世の富」を献げる「手」、身近な人々を気にかけ配慮する「手」でしょうか。

ゼパニヤ書3:9~20「主は救いの勇士」

2018年4月8日、ゼパニヤ書3:9~20「主は救いの勇士」
南王国は当時、堕落の極みにあり、やがて神の厳しいさばきが下されようとしているにもかかわらず、預言者ゼパニヤは「喜び歌え…喜び呼ばわれ…心のかぎり喜び楽しめ」と繰り返し命じました。それは、神に背く者を「主は取り去り…追い払われ」、神を畏れる「残りの者」の「うちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる」からです。
また、「地は変り、山は海の真中に移る…その水は鳴りとどろき、あわだつ…そのさわぎによって山は震え動く」ような激しい試練の中で詩人は、「神はわれらの避け所また力…悩める時のいと近き助け…神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる」ということをまざまざと体験しました(詩篇 第46篇)。
私たちもこの神を人生の味方とすることができたら、どんなに幸いでしょうか。イエスの十字架を信じて罪赦されると、この神が共に歩み、味方となって下さる幸いな人生が始まります。試練や困難に直面することがあっても、「あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる」。この約束を信じて神に信頼するならば、やがて「わたしはあなたから悩みを取り去る。あなたは恥を受けることはない」ということになるでしょう。しかし、神以外のものに重心を置くと、いざというとき脆くも崩れ去るものです。
今年度、祈ったとおり期待したとおりになかなか事が進まず、失望することが多いかもしれません。しかし「あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる」「神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる」という約束の御言葉を思い起こし、この神に大いに期待しましょう。

マタイによる福音書28:1~10「墓は空っぽ、復活された」

2018年4月1日、マタイによる福音書28:1~10「墓は空っぽ、復活された」
「週の初めの日の明け方」、イエスが葬られた「墓を見にきた」ところ、墓石は転がされ、中は空っぽでした。空の墓が意味するのは…
①死からいのちへ
私たち人間は、神に造られ生かされている存在でありながら、神に背いて生きています。この的外れの状態を聖書は「罪」と呼び、「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(ヘブル9:27)、死んだ後、神のさばきを受けなければなりません。その結果は、「罪の支払う報酬は死」(ローマ6:23)、永遠の滅びです。
この罪と死の大石を取り除くために、イエスは全人類の罪を背負って十字架につけられ、神にさばかれて死に、しかし三日目に復活されたのです。イエスが死んで墓に葬られておしまいであったなら、私たち罪人と何ら変わりがありません。しかし空っぽの墓は、イエスが「かねて言われたとおりに、よみがえられ」、それによって人類最大の敵である罪と死に勝利して救いを完成されたことの証明なのです(ローマ1:4、4:25、Ⅰコリント15:12~20)。このイエスを信じるなら、すべての罪が赦され、神と共に永遠に生きるのです。イエスの復活を境に、十字架と復活を信じる者にとって、死は呪われたものでも一切の終わりでもなく、天国に続く希望のトンネルとなったのです。
②絶望から希望へ
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「もうここ(墓)にはおられない」イエスは、信じる者と共におられ、人生に立ちはだかる困難の大石をも転がして下さいます。「世の中を見れば、心が騒ぐでしょう。自分自身を見れば、落ち込むでしょう。しかし、キリストを見上げれば、心に平安が訪れます」(コーリー・テン・ブーム)。

マタイによる福音書28:1~10「墓は空っぽ、復活された」

2018年4月1日、マタイによる福音書28:1~10「墓は空っぽ、復活された」
「週の初めの日の明け方」、イエスが葬られた「墓を見にきた」ところ、墓石は転がされ、中は空っぽでした。空の墓が意味するのは…
①死からいのちへ
私たち人間は、神に造られ生かされている存在でありながら、神に背いて生きています。この的外れの状態を聖書は「罪」と呼び、「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(ヘブル9:27)、死んだ後、神のさばきを受けなければなりません。その結果は、「罪の支払う報酬は死」(ローマ6:23)、永遠の滅びです。
この罪と死の大石を取り除くために、イエスは全人類の罪を背負って十字架につけられ、神にさばかれて死に、しかし三日目に復活されたのです。イエスが死んで墓に葬られておしまいであったなら、私たち罪人と何ら変わりがありません。しかし空っぽの墓は、イエスが「かねて言われたとおりに、よみがえられ」、それによって人類最大の敵である罪と死に勝利して救いを完成されたことの証明なのです(ローマ1:4、4:25、Ⅰコリント15:12~20)。このイエスを信じるなら、すべての罪が赦され、神と共に永遠に生きるのです。イエスの復活を境に、十字架と復活を信じる者にとって、死は呪われたものでも一切の終わりでもなく、天国に続く希望のトンネルとなったのです。
②絶望から希望へ
「もうここ(墓)にはおられない」イエスは、信じる者と共におられ、人生に立ちはだかる困難の大石をも転がして下さいます。「世の中を見れば、心が騒ぐでしょう。自分自身を見れば、落ち込むでしょう。しかし、キリストを見上げれば、心に平安が訪れます」(コーリー・テン・ブーム)。

ルカによる福音書19:41~48「イエスの涙」

2018年3月25日、ルカによる福音書19:41~48「イエスの涙」
イエスがエルサレムに入城されると聞いた人々は、遂にイスラエルがローマの支配下から解放される時が来たと考えて大歓迎しました(37~38節)。それと対照的にイエスは「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣」かれました。エルサレムは神との「平和をもたらす道を知」らないから、否、知ろうとしないからです。生まれながらの人間は皆、罪のため神と敵対関係にあり、「神の怒りを、自分の身に積んでいる」存在です(ローマ2:5)。「キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで」(ローマ5:6)、救いの道を開くためにエルサレムに入城されたのです。イエスは、神との「平和をもたらす道」そのものであるのに(ヨハネ14:6)、人々は誤解したり拒絶したりしました。そんなかたくなな心に対してイエスは涙されたのです。
さらにイエスは、エルサレムが包囲攻撃されて徹底的に破壊されることを予告されました(70年のローマ軍侵攻により実現)。エルサレムに臨もうとしている悲惨な未来のゆえにイエスは涙されたのです。「自業自得、自己責任」と切り捨てられても仕方ないエルサレムでしたが、イエスはエルサレムのために涙されました。否、そのようなエルサレムだからこそ、「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた」のです。パウロも「キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いから…涙を流して語」りました(ピリピ3:18)。
あなたの日々の歩みは、イエスの喜びの対象でしょうか、それとも涙の対象でしょうか。イエスの涙を無にして永遠に後悔することのないよう、信仰の決断を今しましょう。人々のために泣くイエスやパウロの涙を与えていただいて福音を証しする者とされましょう。

ルカによる福音書19:41~48「イエスの涙」

2018年3月25日、ルカによる福音書19:41~48「イエスの涙」
イエスがエルサレムに入城されると聞いた人々は、遂にイスラエルがローマの支配下から解放される時が来たと考えて大歓迎しました(37~38節)。それと対照的にイエスは「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣」かれました。エルサレムは神との「平和をもたらす道を知」らないから、否、知ろうとしないからです。生まれながらの人間は皆、罪のため神と敵対関係にあり、「神の怒りを、自分の身に積んでいる」存在です(ローマ2:5)。「キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで」(ローマ5:6)、救いの道を開くためにエルサレムに入城されたのです。イエスは、神との「平和をもたらす道」そのものであるのに(ヨハネ14:6)、人々は誤解したり拒絶したりしました。そんなかたくなな心に対してイエスは涙されたのです。
さらにイエスは、エルサレムが包囲攻撃されて徹底的に破壊されることを予告されました(70年のローマ軍侵攻により実現)。エルサレムに臨もうとしている悲惨な未来のゆえにイエスは涙されたのです。「自業自得、自己責任」と切り捨てられても仕方ないエルサレムでしたが、イエスはエルサレムのために涙されました。否、そのようなエルサレムだからこそ、「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた」のです。パウロも「キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いから…涙を流して語」りました(ピリピ3:18)。
あなたの日々の歩みは、イエスの喜びの対象でしょうか、それとも涙の対象でしょうか。イエスの涙を無にして永遠に後悔することのないよう、信仰の決断を今しましょう。人々のために泣くイエスやパウロの涙を与えていただいて福音を証しする者とされましょう。

エズラ記3:8~13「喜ぶ声と泣く声と」


2018年3月18日、エズラ記3:8~13「喜ぶ声と泣く声と」
帰還した民は「七月(太陽暦の9~10月)に…祭壇を築」き、半年後の「二月(4~5月)に…工事を始め…主の宮の基礎をすえ」ました。そのとき、「喜びのために声をあげて叫ぶ者も多かった」半面、「大声をあげて泣いた」者もいました。「もとの宮を見た老人たち」です。栄光に輝くソロモン神殿と、これから建て上げる神殿とを比較して泣いたのです。しかしそうなったのは、他でもない自分たちの罪のためであることを悟り、過去の罪を嘆き悔いる心から出た涙でもありました。と同時に、そんな者であるにもかかわらず、70年間の捕囚の中にも帰還の旅の中にも、神の助けと守りが随所にあったこと、神は約束の御言葉どおり祖国帰還を実現させて下さったこと、それは神殿奉献時のソロモンの祈り(列王紀上9:46~50)の成就でもあったことを発見しました。すべては「主はめぐみ深く、そのいつくしみはとこしえに…絶えることがない」ゆえであることを思い起こし、感激する心から出た涙でもありました。一方の「喜びのために声をあげて叫ぶ者」は、辛く苦しい過去にではなく、明るい未来に目を向ける心から出た喜びの叫びでした。事実、神は「主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きい…わたしはこの所に繁栄を与える」(ハガイ書2:9)と言われました。
どんなに後悔しても過去は変えられませんが、過去の失敗から教訓を学び、現在と未来を変える力にすることはできます。過去は人生を力強く前進させる「帆」にもなり得ますし、いつまでも過去に縛り付ける「錨」にもなり得ます。要はあなたの決断次第です。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント5:17)。いつからでもやり直し可能なのがキリストにある人生です。