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ヨブ記2:7~10「幸いを神から受けるのだから」

2021年1月24日、ヨブ記2:7~10「幸いを神から受けるのだから」
再びサタンが来て、今度は「ヨブを撃ち…いやな腫物をもって彼を悩まし」ました。信仰を持つがゆえに苦悩する、悲惨な夫の姿を間近に見ていた妻が「神をのろって死になさい」と言うと、ヨブは「神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」と言いました。わが子をすべて失い、信仰につまずいた妻に、これまでどんなに「幸をうけ」てきたか思い起こさせ、優しく説得しようとした言葉です。
しかし前回の悲劇の際(1:22)にはなかった、気になる表現があります。「そのくちびるをもって罪を犯さなかった(直訳「彼の唇では罪を犯さなかった」)」。口にこそ出さないが、心の中ではそうではない、つぶやきがヨブの心の中で渦巻いていたことを示唆しています。流行語大賞にも選ばれた「なんでだろ~」、このときのヨブの心境もまさにそうだったでしょう。「神を畏れて生きてきた私がなんでだろ~」。しかしヨブ以上に「なんでだろ~」と苦悩された方がおられます。イエス・キリストです。イエスは罪の全くない神の御子でしたが、全人類の罪の身代わりとして十字架につけられ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(マタイ27:46)。
希望がまるで見えない状況で、ヨブはますますその苦悩を深めていきますが、それでもなお忍耐を働かせ続けました。ヨブには苦難の理由は最後まで明らかにされませんでしたが、霊の目で神を見るという体験によって納得し、祝福も回復されました(第42章)。御子イエスを犠牲にしてでも罪人を救おうとする愛なる神は、「すべての悩みのとき、主も悩まれ…救い」出してくださるお方です(イザヤ書63:9)。

ヨブ記1:20~22「主は与え、主は取られる」

2021年1月17日、ヨブ記1:20~22「主は与え、主は取られる」
「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」ヨブでしたが、一日のうちに子や僕、家畜等を失いました。それでもヨブは信仰によって再び「起き上がり…地に伏して拝し」、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と言いました。人は神に全面的に依存しなければ生きていけない無力な存在であることを認め、ただ神が神であるがゆえに、神を信じ畏れることを止めませんでした。このヨブの姿は私たちに、「あなたにとって神を信じるとは、神を礼拝するとはどういうことか」と問いかけます。また、私たちは所有者ではなく管理者に過ぎないことを謙虚に認めるよう迫ります。
義人がなぜ試練にあって苦しまなければならないのか、これが本書の中心主題です。ヨブには苦難の理由が最後まで知らされなかったように、私たちを襲う試練や苦難の意味や理由も、この地上では完全には理解できないでしょう。それゆえ理由のわからない苦難に直面しても、自分を責めたり神を恨んだりしてはなりません。御子イエスを十字架の死に渡すほど私たちを愛しておられる神が、どうして意味もなく私たちを苦しめたりなさるでしょうか。どんなに辛く苦しいときでも、常に神は私たちの味方です。この神にどこまでも信頼するよう本書は私たちに語りかけているのです。「わたしの愛する子よ。あの阪神・淡路大震災を、またあの試練をよくぞ耐え忍んで信仰を守り通してくれた。わたしの誇りだ、喜びだ。これからもその信仰を貫き通してほしい」と主は称賛されていることでしょう。

ルカによる福音書1:5~24「あなたの願いが大きくされたのです」

2021年1月10日、ルカによる福音書1:5~24「あなたの願いが大きくされたのです」
子どもの誕生をひたすら祈っていたザカリヤ夫妻ですが、「有名になる子どもを…」などとは祈らなかったでしょう。そんなザカリヤに御使は「あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう」と告げたばかりか、その子は人々が約束の救い主を信じ受け入れるための道備えをする者になる、というのです。
無名で平凡な祭司ザカリヤ夫妻にとって、日々の祈りのほとんどはごくごく個人的なものに過ぎなかったでしょう。しかし神は、神の民イスラエルの祝福のために、全人類の祝福のために、夫妻の祈りをはるかに超えて答えられたのです。サムエルの母ハンナもそうでした。ハンナは子どもが欲しい一心で祈っていたのであって、歴史を動かすような偉大な人物の母になりたいなどと考えていたわけではありません。しかしこのハンナの祈りがサムエルの誕生につながり、サムエルは最暗黒時代のイスラエルに希望をもたらす存在となったのです(サムエル記上 第1章)。当教会の地区会もそうです。願いにはるかに勝ることを、神は地区会を通して行ってくださいました。
コロナ禍によって「すべての教会活動が休止を余儀なくされたことを、強制終了ではなく、神がリセットボタンを押されたと受け止めたい…もう以前には戻れないし、単純に戻ろうとしてはならない。神様は何を変えようとされているのか」、「元の状態に戻るよりも、新しい変化が必要である」(『クリスチャン新聞』『時報』)。神は最も良い時に最も良い方法で、しかも驚くような広がりをもって祈りに答えてくださることを信じて、神に大いに期待して祈り続けましょう。

ルカによる福音書1:5~24「あなたの願いが聞かれたのです」

2021年1月3日、ルカによる福音書1:5~24「あなたの願いが聞かれたのです」
祭司ザカリヤと妻エリサベツは「神のみまえに正しい人で」したが、「子がなく…すでに年老いてい」ました。そんなある日、ザカリヤが神殿の聖所で香をたいていると御使が現れ、「あなたの祈が聞きいれられたのだ」と言われました。その言葉通り、「そののち、妻エリサベツはみごもり…月が満ちて、男の子を産んだ」のです。この子こそバプテスマのヨハネで、イエスの前に現れて道備えをする人物です。
ザカリヤ夫妻は「子どもを与えてください」と祈り続けていたでしょうが、ある年齢を境に諦め、そう祈るのを止めてしまっていたと思われます。しかし神は彼らの祈りを覚えておられました。神が祈りにお答えになるのは、神の「時」が満ちたときです。それは私たちが期待する「時」とは違うかもしれませんが、すべてを見通しておられる神にとっては、その「時」こそ最高最善のタイミングなのです。ザカリヤ夫妻の場合も、イエスのご降誕に合わせて、神は夫妻に子どもを与える「ちょうど良い時」を待っておられたのです。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11)、「神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます」(Ⅰペテロ5:6、新改訳2017)。すべての背後には神がおられ、最善の時に最善の方法で実現するよう、万物を総動員して絶えず働いておられるのです。
常識を超えて信仰を働かせ、神の御言葉を信じるのが信仰です。信仰は「超」常識です。御言葉は「時が来れば成就する」ことを信じて祈り続けましょう(イザヤ書55:11)。「恐れるな、○○よ、わたしはあなたの祈りを確かに聞いている」と神は私たちにも語っておられます。

ルカによる福音書1:5~24「あなたの願いが聞かれたのです」

2021年1月3日、ルカによる福音書1:5~24「あなたの願いが聞かれたのです」
祭司ザカリヤと妻エリサベツは「神のみまえに正しい人で」したが、「子がなく…すでに年老いてい」ました。そんなある日、ザカリヤが神殿の聖所で香をたいていると御使が現れ、「あなたの祈が聞きいれられたのだ」と言われました。その言葉通り、「そののち、妻エリサベツはみごもり…月が満ちて、男の子を産んだ」のです。この子こそバプテスマのヨハネで、イエスの前に現れて道備えをする人物です。
ザカリヤ夫妻は「子どもを与えてください」と祈り続けていたでしょうが、ある年齢を境に諦め、そう祈るのを止めてしまっていたと思われます。しかし神は彼らの祈りを覚えておられました。神が祈りにお答えになるのは、神の「時」が満ちたときです。それは私たちが期待する「時」とは違うかもしれませんが、すべてを見通しておられる神にとっては、その「時」こそ最高最善のタイミングなのです。ザカリヤ夫妻の場合も、イエスのご降誕に合わせて、神は夫妻に子どもを与える「ちょうど良い時」を待っておられたのです。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11)、「神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます」(Ⅰペテロ5:6、新改訳2017)。すべての背後には神がおられ、最善の時に最善の方法で実現するよう、万物を総動員して絶えず働いておられるのです。
常識を超えて信仰を働かせ、神の御言葉を信じるのが信仰です。信仰は「超」常識です。御言葉は「時が来れば成就する」ことを信じて祈り続けましょう(イザヤ書55:11)。「恐れるな、○○よ、わたしはあなたの祈りを確かに聞いている」と神は私たちにも語っておられます。

エレミヤ書29:10~14「平安と将来と希望を与えるご計画」

2020年12月27日、エレミヤ書29:10~14「平安と将来と希望を与えるご計画」
バビロン捕囚となって絶望するイスラエルにエレミヤは、捕囚の地で腰を落ち着けて生活するよう勧めました。「バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る」からです。でもなぜイスラエルにバビロン捕囚という悲劇が襲ったのでしょうか。それは、イスラエルが神の民として本来あるべき姿を回復するためでした。律法に背き偶像崇拝に堕していたイスラエルに、神はエレミヤ他の預言者を遣わして悔い改めのチャンスを与えられましたが、イスラエルは心をかたくなにして背き続けため、神はバビロン捕囚というさばきを下されたのです。しかしそれは「災を与えようというのではなく、平安を…将来を…希望を与えようとするもの」でした。具体的には、「あなたがたの祈を聞く」、祈りの回復です。「あなたがたに会う」、礼拝の回復です。「あなたがたの繁栄を回復し」、祖国の回復です。人の目には「災」と思えることであっても、神はさらに深いご計画をもって導いておられるのです。今のコロナ禍も例外ではないでしょう。
私の人生にご計画を持っておられる神は、決して失敗なさいません。私を造られた神は、この私のことを誰よりもよくご存じで、しかも御子イエスを十字架の死に渡されるほど、この私を愛しておられるお方です。万事の背後には神の愛のご計画があり、意味があることを信じましょう。「何か大きな問題や困難に出合った時…『なぜ?』という問いかけから、神さまの御業、ご計画に期待して、この出来事を通して『何を?』と祈り求めていきましょう」(松本雅弘師)。

ピリピ人への手紙2:6~8「クリスマスの心」

2020年12月20日、ピリピ人への手紙2:6~8「クリスマスの心」
最初の人アダムは「神のように善悪を知る者」になりたいと考えて不従順の罪に陥りましたが(創世記3:5~6)、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを」惜しみなく捨て、「おのれをむなしうして」私たちと同じ人となられました。人から礼拝され仕えられるべきキリストですが、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり」と言われたとおり(マルコ10:45)、人に仕える「僕のかたちをと」られました(ヨハネ13:1~5)。キリストは、罪の性質を除いては完全に「人間の姿になられ」、人間が味わうべき疲労や空腹、試練や苦悩を体験されました(ヨハネ4:6~7他)。このように「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができる」のです(ヘブル2:17~18)。以上より、「その有様は人と異ならず」、約束の救い主とはとても思えない存在でしたが、「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられ」ました。キリストは全人類の罪の身代わりとして十字架上で死なれましたが、神はキリストを復活させ、キリストを信じるだけですべての罪が赦される救いを完成されたのです。
人は皆、神から遠く離れて人生の意義も目的も見失い、滅びるべき存在ですが、キリストの十字架によって、本来私たちに降りかかるべき刑罰が、もはや信じる者には及ばなくなりました。私たちにとってはこの上なく「喜ばしい交換」(ルター)ですが、キリストはこの交換のために莫大な犠牲を払われました。それはひとえに私たちを愛するがゆえの降誕であり、想像を絶するへりくだりだったのです。

ピリピ人への手紙2:6~8「クリスマスの心」

2020年12月20日、ピリピ人への手紙2:6~8「クリスマスの心」
最初の人アダムは「神のように善悪を知る者」になりたいと考えて不従順の罪に陥りましたが(創世記3:5~6)、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを」惜しみなく捨て、「おのれをむなしうして」私たちと同じ人となられました。人から礼拝され仕えられるべきキリストですが、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり」と言われたとおり(マルコ10:45)、人に仕える「僕のかたちをと」られました(ヨハネ13:1~5)。キリストは、罪の性質を除いては完全に「人間の姿になられ」、人間が味わうべき疲労や空腹、試練や苦悩を体験されました(ヨハネ4:6~7他)。このように「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができる」のです(ヘブル2:17~18)。以上より、「その有様は人と異ならず」、約束の救い主とはとても思えない存在でしたが、「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられ」ました。キリストは全人類の罪の身代わりとして十字架上で死なれましたが、神はキリストを復活させ、キリストを信じるだけですべての罪が赦される救いを完成されたのです。
人は皆、神から遠く離れて人生の意義も目的も見失い、滅びるべき存在ですが、キリストの十字架によって、本来私たちに降りかかるべき刑罰が、もはや信じる者には及ばなくなりました。私たちにとってはこの上なく「喜ばしい交換」(ルター)ですが、キリストはこの交換のために莫大な犠牲を払われました。それはひとえに私たちを愛するがゆえの降誕であり、想像を絶するへりくだりだったのです。

ヨハネによる福音書14:1~7「準備ができたら、迎えに来ます」

2020年12月13日、ヨハネによる福音書14:1~7「準備ができたら、迎えに来ます」
イエスが世を去る日が近いこと等を聞いて「心を騒がせ」ていた弟子たちに、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい…わたしは道であり、真理であり、命である」とイエスは言われました。人は皆、神に造られ生かされているにもかかわらず、「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)。この的外れの罪のために神との交わりが断絶されています。イエスはこの断絶を解消するために来臨されたのです。私たちの罪を赦して神との交わりを回復し、天のすまいに迎え入れるために、イエスは人々に踏みつけられることを覚悟の上で来臨され(ヘブル語の「道」という語は、「踏みつける」という意味の動詞の派生語)、十字架の苦しみを味わい尽くされました。あの十字架のイエスは、私たちの罪のために踏みつけられた姿そのものです。イエスこそ、信じる者を天のすまいへと導き入れる救いの「道であり、真理であり」、永遠の「命」を与えるお方で、「この人による以外に救はない」(使徒行伝4:12)のです。私たちの魂の港とも言うべき天のすまいを持っている人は、究極の希望・永遠の祝福を持っているので、大きな試練や困難が襲いかかってきても、「心を騒がせない」で耐え忍ぶことができるのです。
約2000年前、十字架と復活による救いを成し遂げるために初臨されたキリストは、「またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう」との約束どおり、いつか必ず再臨され、救いを完成されます(黙示録21:1~4)。私たちが帰るべき最も安心できる場所は「父のみもと」です。そこに迎え入れられる「最高の日」を目指して歩み続けたいものです。

ヨハネによる福音書14:1~7「準備ができたら、迎えに来ます」

2020年12月13日、ヨハネによる福音書14:1~7「準備ができたら、迎えに来ます」
イエスが世を去る日が近いこと等を聞いて「心を騒がせ」ていた弟子たちに、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい…わたしは道であり、真理であり、命である」とイエスは言われました。人は皆、神に造られ生かされているにもかかわらず、「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)。この的外れの罪のために神との交わりが断絶されています。イエスはこの断絶を解消するために来臨されたのです。私たちの罪を赦して神との交わりを回復し、天のすまいに迎え入れるために、イエスは人々に踏みつけられることを覚悟の上で来臨され(ヘブル語の「道」という語は、「踏みつける」という意味の動詞の派生語)、十字架の苦しみを味わい尽くされました。あの十字架のイエスは、私たちの罪のために踏みつけられた姿そのものです。イエスこそ、信じる者を天のすまいへと導き入れる救いの「道であり、真理であり」、永遠の「命」を与えるお方で、「この人による以外に救はない」(使徒行伝4:12)のです。私たちの魂の港とも言うべき天のすまいを持っている人は、究極の希望・永遠の祝福を持っているので、大きな試練や困難が襲いかかってきても、「心を騒がせない」で耐え忍ぶことができるのです。
約2000年前、十字架と復活による救いを成し遂げるために初臨されたキリストは、「またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう」との約束どおり、いつか必ず再臨され、救いを完成されます(黙示録21:1~4)。私たちが帰るべき最も安心できる場所は「父のみもと」です。そこに迎え入れられる「最高の日」を目指して歩み続けたいものです。