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創世記17:15~21「すべて喜びに変える神」

2021年7月4日、創世記17:15~21「すべて喜びに変える神」
子孫誕生の約束が実現しそうに見えないので、アブラハムは86歳のとき女奴隷ハガルによって子イシュマエルを得ましたが(第15~16章)、99歳のとき「わたしは彼女(妻サラ)を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える」と主は再び約束されました。すると「アブラハムはひれ伏して、笑った」。主の前に「ひれ伏して」おきながら、「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか」と神の言葉を疑って「笑った」とは、何という矛盾でしょうか。後にサラも「心の中で笑って」います(18:12)。「どうか、イシュマエルが御前で生きますように」とあくまでも常識的な提案をするアブラハムに主は愛想を尽かさず、「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ」と明言されました。やがて約束どおりにイサク(彼は笑う、の意)が誕生し、サラは「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことを笑うでしょう」と喜びました(21:1~7)。
私たちはアブラハム以上に全能の主を疑い、約束を信じきれず待ちきれず、もはや手遅れだと失望し、「ひれ伏して、笑った」ということが何と多いことでしょうか。そんな私たちであっても、主は呆れ果てたり見捨てたりなさいません。「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない」(マタイ12:20)お方です。「主にとって不可能なことがあるだろうか」(18:14)、驚くべきみわざを行い、不信仰の笑いを喜びの笑いに変えてくださいます。それゆえ「ひれ伏して、笑った」という矛盾をもうやめませんか。「神は私に笑いを下さいました」と言える日が必ず来ることを信じ期待して待ち望みましょう。

マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復②」

2021年6月27日、マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復②」
イエスは「目の見えない人」に対して、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」という見え方でよしとせず、「すべてのものがはっきりと見えるように」なるまで関わり続けられました。弟子たちも「あなたはキリストです」と信仰告白できるほど目が開かれていました。第一段階の癒しです。しかしその直後、「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱責されたように、まだまだ見えていませんでした(27~30節)。そのような状態の弟子たちでしたから、「だれが一番偉いか論じ合」い(9:34)、一つになれなかったのも当然です。しかしイエスの十字架・復活・昇天後に約束の聖霊が注がれると、弟子たちの「目がすっかり治り」、互いに愛し合い、いのちがけで福音を宣べ伝えるようになりました。第二段階の癒しで、弟子たちがイエスの前に留まって懇ろなお取り扱いを受け続けた結果です。大切なことは、私たちの側で簡単に諦めたり、中途半端に納得したりしないこと、「すべてのものがはっきりと見えるように」なるまでイエスの前に留まり続けることです。
「人は、自分自身の自己中心性や隠された動機に気がつかないかぎり、自分はキリストがわかっていると考えながら、まったくわかっていなかったり、キリストのために働いていると思いながら、実は自分の栄光のために奉仕したりしていることが多い」(坂野慧吉師)。自分の問題に何となく気づいているはずです。「私の心の目を開き、私の本当の姿を見せてください」と祈りましょう(黙示録3:18)。自分の問題の核心を正直に認め、イエスに触れて癒していただきましょう。

マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復②」

2021年6月27日、マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復②」
イエスは「目の見えない人」に対して、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」という見え方でよしとせず、「すべてのものがはっきりと見えるように」なるまで関わり続けられました。弟子たちも「あなたはキリストです」と信仰告白できるほど目が開かれていました。第一段階の癒しです。しかしその直後、「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱責されたように、まだまだ見えていませんでした(27~30節)。そのような状態の弟子たちでしたから、「だれが一番偉いか論じ合」い(9:34)、一つになれなかったのも当然です。しかしイエスの十字架・復活・昇天後に約束の聖霊が注がれると、弟子たちの「目がすっかり治り」、互いに愛し合い、いのちがけで福音を宣べ伝えるようになりました。第二段階の癒しで、弟子たちがイエスの前に留まって懇ろなお取り扱いを受け続けた結果です。大切なことは、私たちの側で簡単に諦めたり、中途半端に納得したりしないこと、「すべてのものがはっきりと見えるように」なるまでイエスの前に留まり続けることです。
「人は、自分自身の自己中心性や隠された動機に気がつかないかぎり、自分はキリストがわかっていると考えながら、まったくわかっていなかったり、キリストのために働いていると思いながら、実は自分の栄光のために奉仕したりしていることが多い」(坂野慧吉師)。自分の問題に何となく気づいているはずです。「私の心の目を開き、私の本当の姿を見せてください」と祈りましょう(黙示録3:18)。自分の問題の核心を正直に認め、イエスに触れて癒していただきましょう。

ルカの福音書15:8~10「見つけるまで捜す神」

2021年6月20日、ルカの福音書15:8~10「見つけるまで捜す神」
①失われた存在
「ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくし」ました。まだ九枚残っているから一枚くらい失くしてもかまわない、とはとても思えない、かけがえのない一枚でした。同様に、神に創造された私たち人間も、神にとって「高価で尊い」(イザヤ書43:1~4)宝物なのです。しかし、銀貨が失われて本来あるべきところにない状態では何も買うことができないように、私たち人間も、創造主なる神から離れたままでは、本来の価値も力も十分発揮できないのです。しかも銀貨が自分からは所有者のもとに帰れないように、人間も神から迷い出た結果、どの神が真の神なのか、どこに真理があるのかまるでわからず、神のもとに帰ろうにも帰れない状態にあるのです。
②熱心な捜索
女の人は銀貨を「見つけるまで…捜」し、遂に発見して大喜びします。神も「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9)と呼びかけ、罪人が悔い改める先に自ら捜しに出かけ、自分から帰ろうにも帰れない罪人を連れ戻すまで決して諦めないお方です。この神の愛を実際に見せるために遣わされたのが御子イエスです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6)と言われたイエスは、十字架と復活によって神に立ち帰る救いの一本道を開いてくださいました。このイエスを信じ、イエスのエスカレーターに乗って身を任せるなら、試練や悲しみをイエスと共に乗り越え、そのゴールは天国です。

マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復①」

2021年6月13日、マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復①」
「ベツサイダに着いた」イエスのもとに「人々が目の見えない人を連れて来て、彼にさわってやってくださいと…懇願した」ので、「イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれ…彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当て」られました。まだぼんやりとしか見えなかったので、「再び両手を彼の両目に両手を当てられ」ると、「目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようにな」りました。
「見えるようになって(見上げて、の意)」という語は、五千人の給食(6:41)や「耳が聞こえず口のきけない人」の癒し(7:34)にも出てきます。預言者エリシャの召使いはアラムの大軍に包囲されて狼狽しますが、エリシャが「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください」と祈ると、「主がその若者の目を開かれたので…火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」のを見ました(Ⅱ列王記6:15~17)。
厳しい現実に直面すると、意気消沈したり、目に見える何かに依り頼んだりしがちです。しかし真に目が開かれるならば、私は「火の馬と戦車が…取り巻いて…満ちて」守られているというもう一つの現実が見えてくるはずです。私の霊の目が閉ざされているから、信仰の目を上げて見ることができずにいるから、神の恵みや守りがわからないのではありませんか。私も「目の見えない人」で、イエスに「すべてのものがはっきりと見えるように」されなければならない者であることを正直に認め、私にも「さわってくださいとイエスに懇願し」ましょう。「イエスは…手を取って」親身に寄り添い、「はっきりと見えるようにな」るまで、辛抱強く関わり続けてくださいます。

マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復①」

2021年6月13日、マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復①」
「ベツサイダに着いた」イエスのもとに「人々が目の見えない人を連れて来て、彼にさわってやってくださいと…懇願した」ので、「イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれ…彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当て」られました。まだぼんやりとしか見えなかったので、「再び両手を彼の両目に両手を当てられ」ると、「目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようにな」りました。
「見えるようになって(見上げて、の意)」という語は、五千人の給食(6:41)や「耳が聞こえず口のきけない人」の癒し(7:34)にも出てきます。預言者エリシャの召使いはアラムの大軍に包囲されて狼狽しますが、エリシャが「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください」と祈ると、「主がその若者の目を開かれたので…火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」のを見ました(Ⅱ列王記6:15~17)。
厳しい現実に直面すると、意気消沈したり、目に見える何かに依り頼んだりしがちです。しかし真に目が開かれるならば、私は「火の馬と戦車が…取り巻いて…満ちて」守られているというもう一つの現実が見えてくるはずです。私の霊の目が閉ざされているから、信仰の目を上げて見ることができずにいるから、神の恵みや守りがわからないのではありませんか。私も「目の見えない人」で、イエスに「すべてのものがはっきりと見えるように」されなければならない者であることを正直に認め、私にも「さわってくださいとイエスに懇願し」ましょう。「イエスは…手を取って」親身に寄り添い、「はっきりと見えるようにな」るまで、辛抱強く関わり続けてくださいます。

ヨシュア記1:1~9「強くあれ、雄々しくあれ」

2021年6月6日、ヨシュア記1:1~9「強くあれ、雄々しくあれ」
「主のしもべモーセの死後」、後継者ヨシュアは恐れと不安でいっぱいだったことでしょう。あの偉大な指導者モーセでさえ苦労した、頑ななイスラエルの民を率いるのですから。恐れおののくヨシュアに対して主は、「強くあれ。雄々しくあれ」と三度も励まされました。それは単なる気休めではなく、確かな保証があっての励ましでした。それは、主は「モーセとともにいたように、あなたとともにいる…あなたを見放さず、あなたを見捨てない」から、「あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられる」からです。
私たちも、罪の悔い改めとイエスの十字架を信じる信仰によって、主はこの私を愛し、私と共にいてくださるから恐れる必要など全くないという約束が自分のものになります。モーセやヨシュアと共にいてくださった主が、「このわたしが共にいるではないか」「強くあれ。雄々しくあれ」と励ましてくださいます。しかしこの語りかけをどれだけ本気で信じているでしょうか。重い荷物を主に委ねようとせず、自分で背負い込んだまま頑張ろうとして思い煩ってはいないでしょうか。「神は われらの避け所 また力。苦しむとき そこにある強き助け」(詩篇46:1)なる主が、「私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたともにいます」(マタイ28:20)という主の臨在こそ、何ものにも勝る力です。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだね」(Ⅰペテロ5:7)、臨在の主に信頼するなら、どんな試練や困難に直面しても「強く…雄々しく」、主と共に乗り越えていくことができるのです。

イザヤ書63:7~10「共に苦しみ、背負う主」

2021年5月30日、イザヤ書63:7~10「共に苦しみ、背負う主」
①主は苦しまれた
「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ」とあるように、主は常にイスラエルの苦悩を共有しておられました。エジプトの奴隷状態にあった「イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ…彼らの叫びは神に届」き、主は「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている」と言われました(出エジプト記2:23、3:7)。ラザロの死に「イエスは涙を流され」ました(ヨハネ11:35)。人となられた御子イエスは、私たちと同様に様々な試練にあわれたので、私たちの苦悩を知り、深く同情されるのです(ヘブル2:18、4:15)。
②主は贖われた
「主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い」とあるように、主は共に悩まれただけでなく、エジプトの奴隷状態のイスラエルを贖い出されました。やがてバビロン捕囚となりますが、そこからも贖い出して帰還させられます。さらに全人類を罪と滅びから贖い出すために、御子イエスに全人類の罪を背負わせて十字架の死に渡すことによって救いを完成されました。
③主は背負い担われた
共に苦しみ、贖われた主は、イスラエルを「昔からずっと…背負い、担って」こられました。主は「あなたがたが年をとっても…白髪になっても…背負う(「担って」と同語)」(46:4)、「おんぶに抱っこ」してくださるお方です。「思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」(Ⅰペテロ5:7)。

エゼキエル書36:22~32「新しい心、新しい霊」

2021年5月23日、エゼキエル書36:22~32「新しい心、新しい霊」
①偶像からの清め(24~25節)
神に背き続けてきたイスラエルであってもなお見捨てることができない、愛さずにはいられない神は、「わたしはあなたがたを諸国の間から導き出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く」と、捕囚からの解放を約束されました。イスラエルにとっての罪の結果はバビロン捕囚でしたが、私たちにとっての「罪の報酬は死(永遠の滅び)です」(ローマ6:23)。神以外のものを頼みとする的外れ、「すべての偶像の汚れから…きよめ」るために、イエスは来臨されたのです。
②石の心の除去(26節)
神の御言葉や忠告に耳をふさぐ頑固で傲慢な「石の心」、神と人に対する愛の冷えた「石の心」がないでしょうか。神はそうした「石の心を取り除き」たいと願われますが、私たちの同意なくしては何もなさいません。私たちが同意するのを待っておられ、同意するや否や、「石の心を取り除き」、柔らかく温かい「肉の心を与え」てくださいます。
③聖霊の内住(27節)
偶像から清め、石の心を取り除いた後、聖霊がその人の内に王の王として内住し、満ちてくださいます。聖霊は、罪の性質を持って生まれた弱い私たちが「掟に従って歩み…定めを守り行うように」、「みこころを行うことを喜びと」(詩篇40:8)するように助け、「わたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」という、より深い神との交わりへと導きます。そのような一人ひとりを通して、「廃墟であった町々を人の群れで満たす」(38節)というリバイバルが実現するのです。

エゼキエル書36:22~32「新しい心、新しい霊」

2021年5月23日、エゼキエル書36:22~32「新しい心、新しい霊」
①偶像からの清め(24~25節)
神に背き続けてきたイスラエルであってもなお見捨てることができない、愛さずにはいられない神は、「わたしはあなたがたを諸国の間から導き出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く」と、捕囚からの解放を約束されました。イスラエルにとっての罪の結果はバビロン捕囚でしたが、私たちにとっての「罪の報酬は死(永遠の滅び)です」(ローマ6:23)。神以外のものを頼みとする的外れ、「すべての偶像の汚れから…きよめ」るために、イエスは来臨されたのです。
②石の心の除去(26節)
神の御言葉や忠告に耳をふさぐ頑固で傲慢な「石の心」、神と人に対する愛の冷えた「石の心」がないでしょうか。神はそうした「石の心を取り除き」たいと願われますが、私たちの同意なくしては何もなさいません。私たちが同意するのを待っておられ、同意するや否や、「石の心を取り除き」、柔らかく温かい「肉の心を与え」てくださいます。
③聖霊の内住(27節)
偶像から清め、石の心を取り除いた後、聖霊がその人の内に王の王として内住し、満ちてくださいます。聖霊は、罪の性質を持って生まれた弱い私たちが「掟に従って歩み…定めを守り行うように」、「みこころを行うことを喜びと」(詩篇40:8)するように助け、「わたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」という、より深い神との交わりへと導きます。そのような一人ひとりを通して、「廃墟であった町々を人の群れで満たす」(38節)というリバイバルが実現するのです。