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詩篇121:1~8「主はあなたを守る方」

2020年11月8日、詩篇121:1~8「主はあなたを守る方」
巡礼者が目指すエルサレム神殿の方角を望むと、その旅路の困難さを暗示するかのように山々がそびえていました。思わず「わが助けは、どこから来るであろうか」と自問しますが、山々を見る目を少し上げて大空を仰ぐと、創造主への信仰がみなぎり、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」から大丈夫と確信しました(「守る」が6回)。
①主は眠ることなく守られる(3~4節)
真っ暗闇の中、野宿するのは心細い限りですが、主は「まどろむこともなく、眠ることもな」く見張り、野獣や強盗から守ってくださると確信しました。今も主は片時もまどろむことなく、私たちの手を握り締め、足がよろめかないよう守っていてくださいます(新聖歌474番)。
②主は右にいて守られる(5~6節)
主は常に右(保護者の位置)にいて、太陽(熱射病の原因)や月(てんかんや熱病の原因と考えられていた)から守ってくださると確信しました。信仰によってキリストの花嫁とされた私たちは、親鳥が翼で雛を「おおう」ように(新聖歌311番)、「ひとみのように」(詩篇17:8)、主に守られています。
③主はとこしえに守られる(7~8節)
主は出発から帰郷までのすべてを守ってくださると確信しました。罪の奴隷から贖い出された私たちが無事天国にゴールインするまで、信仰の旅路を「今からとこしえに至るまで」守り続けてくださいます。
主日礼拝ごとに心を高く上げて創造主を仰ぎ、過ぎた一週の旅路を主が守ってくださったことを感謝しつつ、新しい一週も必ず「わが助けは、天と地を造られた主から来る」と信じて踏み出しましょう。

詩篇121:1~8「主はあなたを守る方」

2020年11月8日、詩篇121:1~8「主はあなたを守る方」
巡礼者が目指すエルサレム神殿の方角を望むと、その旅路の困難さを暗示するかのように山々がそびえていました。思わず「わが助けは、どこから来るであろうか」と自問しますが、山々を見る目を少し上げて大空を仰ぐと、創造主への信仰がみなぎり、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」から大丈夫と確信しました(「守る」が6回)。
①主は眠ることなく守られる(3~4節)
真っ暗闇の中、野宿するのは心細い限りですが、主は「まどろむこともなく、眠ることもな」く見張り、野獣や強盗から守ってくださると確信しました。今も主は片時もまどろむことなく、私たちの手を握り締め、足がよろめかないよう守っていてくださいます(新聖歌474番)。
②主は右にいて守られる(5~6節)
主は常に右(保護者の位置)にいて、太陽(熱射病の原因)や月(てんかんや熱病の原因と考えられていた)から守ってくださると確信しました。信仰によってキリストの花嫁とされた私たちは、親鳥が翼で雛を「おおう」ように(新聖歌311番)、「ひとみのように」(詩篇17:8)、主に守られています。
③主はとこしえに守られる(7~8節)
主は出発から帰郷までのすべてを守ってくださると確信しました。罪の奴隷から贖い出された私たちが無事天国にゴールインするまで、信仰の旅路を「今からとこしえに至るまで」守り続けてくださいます。
主日礼拝ごとに心を高く上げて創造主を仰ぎ、過ぎた一週の旅路を主が守ってくださったことを感謝しつつ、新しい一週も必ず「わが助けは、天と地を造られた主から来る」と信じて踏み出しましょう。

マルコによる福音書7:31~37「何もかも、すばらしい」

2020年11月1日、マルコによる福音書7:31~37「何もかも、すばらしい」
イエスが「ガリラヤの海べにこられ」ると、「人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いし」ました。するとイエスは、「彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し」ました。耳の聞こえない彼に、癒しを肌で感じさせるためです。神に依り頼んで「天を仰いで」、「ため息をつき(名詞形がローマ8:26「うめき」)」、彼の「うめき」に共感してご自分の「うめき」とされました。そして「『エパタ(開けよ、の意)』と言われ」ました。直接的には耳と口が開くようにということですが、さらに彼の人生が大きく開かれていくようにということでもあるでしょう。その結果、「彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった」のです。
耳があっても神の言葉を聞こうとしない人がいますし(4:12)、口があっても神に祈らない人や感謝しない人がいます。イエスはそんな私たちをも、まず神と心が通い合う者に、さらに人とも心が通い合う者にしたいと願っておられます。そのためにイエスは来臨され、十字架と復活による救いを完成されたのです。イエスは、あなた「ひとりを群衆の中から連れ出し」、心の奥深くを見つめ、心が通い合うのを妨げている根本原因に触れて癒そうとされます。「エパタ…開けよ」「あなたも心の扉を開いて、わたしのもとに来なさい」と呼びかけられます。それに応えてイエスを信じ、イエスに心の耳や口、人生を開いていただくなら、もっと自分らしく、もっと楽々と、もっと天高く、もっと自由に羽ばたく人生を歩めるようになるはずです。

マルコによる福音書7:31~37「何もかも、すばらしい」

2020年11月1日、マルコによる福音書7:31~37「何もかも、すばらしい」
イエスが「ガリラヤの海べにこられ」ると、「人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いし」ました。するとイエスは、「彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し」ました。耳の聞こえない彼に、癒しを肌で感じさせるためです。神に依り頼んで「天を仰いで」、「ため息をつき(名詞形がローマ8:26「うめき」)」、彼の「うめき」に共感してご自分の「うめき」とされました。そして「『エパタ(開けよ、の意)』と言われ」ました。直接的には耳と口が開くようにということですが、さらに彼の人生が大きく開かれていくようにということでもあるでしょう。その結果、「彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった」のです。
耳があっても神の言葉を聞こうとしない人がいますし(4:12)、口があっても神に祈らない人や感謝しない人がいます。イエスはそんな私たちをも、まず神と心が通い合う者に、さらに人とも心が通い合う者にしたいと願っておられます。そのためにイエスは来臨され、十字架と復活による救いを完成されたのです。イエスは、あなた「ひとりを群衆の中から連れ出し」、心の奥深くを見つめ、心が通い合うのを妨げている根本原因に触れて癒そうとされます。「エパタ…開けよ」「あなたも心の扉を開いて、わたしのもとに来なさい」と呼びかけられます。それに応えてイエスを信じ、イエスに心の耳や口、人生を開いていただくなら、もっと自分らしく、もっと楽々と、もっと天高く、もっと自由に羽ばたく人生を歩めるようになるはずです。

伝道の書3:1~15「すべてに時がある」

2020年10月25日、伝道の書3:1~15「すべてに時がある」
「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」。その実例として生死、農業、建築、葬式・結婚式他を挙げています。「時」を正しく捉えられないで失敗することが私たちには多々ありますが、神は違います。神は一つの例外もなく「皆その時にかなって美しい」みわざをなしておられます。ですからコロナ禍も例外ではないはずです。従来の活動ができなくなった今も、決して無駄な時間などではなく、そこからしか得られない恵みもあるはずです。待ち望むことは、神の約束実現に必要不可欠な一つのステップで、「神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるため」です。「神のなされること」を認めようとしなければ、「人間にできないことなどない」と傲慢になるかと思えば、何か意に反することがあると途端に不安になり、希望を失ってしまいます。それゆえ、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と言うのです(12:1)。
神は私たちの目に見えないところで確かに働いて、最善のみわざを進めておられますが、私たちはそれを「見きわめることはでき」ません。まずこの現実を受け入れ、どんなことがあろうとも、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と信じ受け止めることです。今はとても「美しい」とは思えないことでも、「時」を支配しておられる神が、やがて「美しい」と言える状況に変えてくださると信じ期待することです(ローマ8:28)。そしていつまでも悔やんでばかりいないで、「ただ次の一歩、次の一息、次の一掃きだけに心を集中」(ミヒャエル・エンデ著『モモ』)し、今の「時」を「楽しく愉快に過ごす」ことです。

マルコによる福音書7:24~30「食卓の下の子犬でも」

2020年10月18日、マルコによる福音書7:24~30「食卓の下の子犬でも」
①すぐ聞きつけてきて(25節)
「けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏し」ました。何としても癒していただきたいという真剣・切実な信仰がありました。長血の女性もそうでした(5:25~34)。「きょう」という日(ヘブル4:7)、「今」という時(Ⅱコリント6:2)は、神が与えてくださった絶好の機会、見逃してはなりません。
②ひれ伏し…願い続けた(26~29節)
彼女はイエスに相手にされなくても執拗に願い続けたため、弟子たちが「この女を追い払ってください」と困り果てるほどでした(マタイ15:22~23)。イエスが「まず子供たち(ユダヤ人)に十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬(異邦人)に投げてやるのは、よろしくない」と言われても、イエスの柔和な様子や「小犬」という表現から、拒絶の言葉とは捉えず、「でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」と迫ると、「あなたの願いどおりになるように」(マタイ15:28)とイエスは言われました。パリサイ人や律法学者との論争では負け知らずのイエスが、ここでは何か喜んで負けておられるように見えます。いくら祈っても答えがないのは、神が私たちの「信仰を見て」(2:5)、試しておられるのかもしれません(マタイ7:7)。
③家に帰ってみると(30節)
彼女は「お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」とのイエスの言葉を信じて、「家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまってい」ました。御言葉は必ず実現するのです(ヘブル11:1)。

マルコによる福音書7:24~30「食卓の下の子犬でも」

2020年10月18日、マルコによる福音書7:24~30「食卓の下の子犬でも」
①すぐ聞きつけてきて(25節)
「けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏し」ました。何としても癒していただきたいという真剣・切実な信仰がありました。長血の女性もそうでした(5:25~34)。「きょう」という日(ヘブル4:7)、「今」という時(Ⅱコリント6:2)は、神が与えてくださった絶好の機会、見逃してはなりません。
②ひれ伏し…願い続けた(26~29節)
彼女はイエスに相手にされなくても執拗に願い続けたため、弟子たちが「この女を追い払ってください」と困り果てるほどでした(マタイ15:22~23)。イエスが「まず子供たち(ユダヤ人)に十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬(異邦人)に投げてやるのは、よろしくない」と言われても、イエスの柔和な様子や「小犬」という表現から、拒絶の言葉とは捉えず、「でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」と迫ると、「あなたの願いどおりになるように」(マタイ15:28)とイエスは言われました。パリサイ人や律法学者との論争では負け知らずのイエスが、ここでは何か喜んで負けておられるように見えます。いくら祈っても答えがないのは、神が私たちの「信仰を見て」(2:5)、試しておられるのかもしれません(マタイ7:7)。
③家に帰ってみると(30節)
彼女は「お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」とのイエスの言葉を信じて、「家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまってい」ました。御言葉は必ず実現するのです(ヘブル11:1)。

詩篇19:1~14「大空と御言葉と良心」

2020年10月11日、詩篇19:1~14「大空と御言葉と良心」
①自然による啓示(1~6節)
「もろもろの天…大空」も、「この日」をもたらす太陽も、「この夜」を照らす月・星も、ある日偶然にできたのではなく、永遠のはじめから永遠の終わりまでおられる唯一絶対の神が創造されました(創世記1:1)。これら被造物は「話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに」、その存在自体が「神の栄光をあらわし…み手のわざをしめ」しています。それゆえ魂を研ぎ澄まして素直な心で自然界を見るならば、天地万物は神によって創造されたことがわかるのです(ローマ1:20)。
②言葉による啓示(7~11節)
自然による啓示だけでは不十分なので、神は御言葉によってご自身を啓示されました。御言葉は、創造主なる神がいかなるお方であるかを明らかにし、私たちの「魂を生きかえらせ」ます。人間の有限な知恵や力など所詮知れていますが、御言葉は「無学な者を賢く」し、人生の荒波を力強く乗り越えさせます。私たちの心に喜びと希望を与え、「心を喜ばせ…眼を明らかに(新改訳「人の目を明るくする」)」します。
③良心への啓示(12~14節)
このように「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった」(使徒行伝17:27)神は、私たちの良心を照らして罪を示すだけでなく、十字架と復活による救いを示し、「わが岩、わがあがないぬしなる主よ」という信仰告白へと導きます。さらに、「どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように」と、常に主に喜ばれる者でありたいという願いを起こさせます。

詩篇19:1~14「大空と御言葉と良心」

2020年10月11日、詩篇19:1~14「大空と御言葉と良心」
①自然による啓示(1~6節)
「もろもろの天…大空」も、「この日」をもたらす太陽も、「この夜」を照らす月・星も、ある日偶然にできたのではなく、永遠のはじめから永遠の終わりまでおられる唯一絶対の神が創造されました(創世記1:1)。これら被造物は「話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに」、その存在自体が「神の栄光をあらわし…み手のわざをしめ」しています。それゆえ魂を研ぎ澄まして素直な心で自然界を見るならば、天地万物は神によって創造されたことがわかるのです(ローマ1:20)。
②言葉による啓示(7~11節)
自然による啓示だけでは不十分なので、神は御言葉によってご自身を啓示されました。御言葉は、創造主なる神がいかなるお方であるかを明らかにし、私たちの「魂を生きかえらせ」ます。人間の有限な知恵や力など所詮知れていますが、御言葉は「無学な者を賢く」し、人生の荒波を力強く乗り越えさせます。私たちの心に喜びと希望を与え、「心を喜ばせ…眼を明らかに(新改訳「人の目を明るくする」)」します。
③良心への啓示(12~14節)
このように「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった」(使徒行伝17:27)神は、私たちの良心を照らして罪を示すだけでなく、十字架と復活による救いを示し、「わが岩、わがあがないぬしなる主よ」という信仰告白へと導きます。さらに、「どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように」と、常に主に喜ばれる者でありたいという願いを起こさせます。

マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス②」

2020年10月4日、マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス②」
「人の心の中」に「悪い思い」があるので、「欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴(いずれも単数形で、悪い態度を表す)」が出てきます。真っ赤な「欺き」はなくても、自分をよく見せるため、保身や弁解のためのピンク色の「欺き」がないでしょうか(マタイ12:36)。「好色」、性的放縦はないでしょうか。「妬み(直訳「邪悪な目」)」と「高慢」は正反対のように見えますが、実はその根っこは同じです。多くの場合、高慢は劣等感の裏返しです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43:4)、神は私たち一人ひとりをかけがえのない最高傑作として愛し、喜んでおられます。この神によって劣等感を埋めていただくことこそ、最高最善の対処法です。しかしそのためには、まず自分の惨めな姿を正直に認めることです。「あなたの名はなんと言いますか」と主から問いかけられたヤコブは、「ヤコブ(押し退けるもの、の意)です。名前のとおり神と人を押し退け、自我を突っ張って生きてきた者です」と正直に認めたところ、豊かな祝福が注がれました(創世記 第32章)。「誹り」とは、単なる悪口や中傷ではなく、聖なる神を冒瀆する罪のことです。「愚痴(新改訳2017「愚かさ」)」とは、罪を冗談半分に取り扱うこと、軽視することです。そのような生き方をしていると、「腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない」(詩篇14:1)ということになります。
正面切って聞かれたら、困り果て、途方に暮れるしかないことが、私たちにはたくさんあるはずです。心の中にある良い思いも「悪い思い」もすべてご存じの上で私たちを愛していてくださる神は、御子イエスによって「悪い思い」から救われる道を開いてくださったのです。