記事一覧

ヨハネの第一の手紙3:19~24「愛による確信」

2017年1月29日、ヨハネの第一の手紙3:19~24「愛による確信」
「行いと真実とをもって愛し合」(18節)うことにより確信するのは…
①救いの確信(19~20節)
真実の愛に生きているなら、「真理から出たものであること(新改訳「真理に属するものであること」)」を確信でき、いつでも「神のみまえに心を安んじて(新共同訳「安心できます」)」いることができます。でも真実の愛に生きようとすればするほど、自分の弱さや足りなさのゆえに「心に責められるようなこと」を感じるのも事実です。しかし「神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じ」で、「人は行為を見、神はその意図を知っている」(トマス・ア・ケンピス)とは慰めです。
②祈りの確信(21~22節)
真実の愛に生きているなら、神と人との関係が正常ですから、それを土台にして大胆に神に祈ることができ、「願い求めるものは、なんでもいただける」と確信できます(イザヤ書59:2)。とは言え、自分勝手な祈りをしがちな私たちですから、願い求めたとおりには答えられないこともあります。愛なる神は、私たちに真に「良いもの」(マタイ7:11)だけを与えて下さいます。すべての祈りは神に届いているのです。
③臨在の確信(23~24節)
真実の愛に生きているなら、「神におり(ヨハネ15:4「つながる」と同語)、神もまたその人にいます」ことを確信できます。私たちの恐れを取り除いて「強く…雄々しくあ」ることを可能にするのは、主の臨在の約束ですが(ヨシュア記1:1~9、マタイ28:20)、御言葉に従わないでいて、主の臨在だけ信じて安心しようとしても無理な話です。「神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます」ことを忘れないように。

ヨハネの第一の手紙3:19~24「愛による確信」

2017年1月29日、ヨハネの第一の手紙3:19~24「愛による確信」
「行いと真実とをもって愛し合」(18節)うことにより確信するのは…
①救いの確信(19~20節)
真実の愛に生きているなら、「真理から出たものであること(新改訳「真理に属するものであること」)」を確信でき、いつでも「神のみまえに心を安んじて(新共同訳「安心できます」)」いることができます。でも真実の愛に生きようとすればするほど、自分の弱さや足りなさのゆえに「心に責められるようなこと」を感じるのも事実です。しかし「神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じ」で、「人は行為を見、神はその意図を知っている」(トマス・ア・ケンピス)とは慰めです。
②祈りの確信(21~22節)
真実の愛に生きているなら、神と人との関係が正常ですから、それを土台にして大胆に神に祈ることができ、「願い求めるものは、なんでもいただける」と確信できます(イザヤ書59:2)。とは言え、自分勝手な祈りをしがちな私たちですから、願い求めたとおりには答えられないこともあります。愛なる神は、私たちに真に「良いもの」(マタイ7:11)だけを与えて下さいます。すべての祈りは神に届いているのです。
③臨在の確信(23~24節)
真実の愛に生きているなら、「神におり(ヨハネ15:4「つながる」と同語)、神もまたその人にいます」ことを確信できます。私たちの恐れを取り除いて「強く…雄々しくあ」ることを可能にするのは、主の臨在の約束ですが(ヨシュア記1:1~9、マタイ28:20)、御言葉に従わないでいて、主の臨在だけ信じて安心しようとしても無理な話です。「神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます」ことを忘れないように。

コリント人への第二の手紙5:1~10「私たちは心強い」

2017年1月22日、コリント人への第二の手紙5:1~10「私たちは心強い」
①永遠の家が備えてあるから(1~5節)
「わたしたちの住んでいる地上の幕屋(肉体)」は、荒野の幕屋のように一時的なもので、「幕屋がこわれ(解体される、の意)」、天に召されると、「神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家」、復活のキリストと同じ栄光のからだが与えられます(ピリピ3:21)。このからだは、「神からいただく…人の手によらない」とあるように、人間の努力や功績のゆえではなく、ただ神の恵みのゆえに与えられるものであり、「天にある…永遠の家」とあるように、永遠で完全なものです。「神はその保証(手付金、の意)として御霊をわたしたちに賜わった」、十字架を信じて罪赦され、内に御霊が与えられているということは、やがてこの完全な救いがなされることの保証です。弱く脆い肉体をもっていたパウロですが、このような大いなる希望に目を留めていたので、「落胆しない…いつも心強い」と告白できたのです。
②信仰によって歩いているから(6~10節)
キリスト者にとって死は恐ろしいものではなく、むしろ主と直接顔と顔とを合わせて交わることを可能にする希望の門ですから、「むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている」と言います。十字架を信じて救われた者は、もはや罪のためにさばかれることはありませんが(ローマ8:1)、「キリストのさばきの座」で「善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねば」なりません。パウロは将来、神の前にどのような姿で立ちたいかを見据えて、常に「ただ主に喜ばれる者となる」ことをひたすら求めて生きていたので、「落胆しない…いつも心強い」と告白できたのです。

コリント人への第二の手紙4:16~18「見えないものに目を注ぐ」

2017年1月15日、コリント人への第二の手紙4:16~18「見えないものに目を注ぐ」
日々「わたしたちの外なる人は滅びて(壊れ続けていく)」いきますが、イエスによって新しくされた「内なる人は日ごとに新しくされ(新しくされ続けていく)」、「顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」(3:18)のです。やがて信じる者に与えられるこの「永遠の重い栄光」(黙示録21:3~4)に比べるなら、地上のあらゆる試練や困難は、所詮「このしばらくの軽い患難」に過ぎません。「今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」(ローマ8:18)。
トマスは「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と言い(ヨハネ20:24~25)、エサウは一杯の「レンズ豆のあつもの」のために「長子の特権」を弟ヤコブに譲りました(創世記25:27~34)。私たちは何としばしば患難に飲み込まれてしまうことか。見えるものに心奪われ、見えないものに懐疑的になることか。目に見えるものがいかに脆くはかなく危ういものであるか、阪神淡路大震災等で嫌というほど体験させられたはずです。イエスが「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」(マタイ24:35)と言われたとおり、この地上には神の御言葉以外に絶対的確かさを持つものなどありません。だからこそパウロは「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ(ルカ11:35「注意しなさい」、ガラテヤ6:1「反省しなさい」)と同語」と言うのです。今あなたは「見えるもの」に目を注いでいるのか、「見えないもの」に目を注いでいるのか、「注意しなさい…調べなさい…反省しなさい」と問われているのです。

詩篇121:1~8「わが助けはどこから来る」

2017年1月8日、詩篇121:1~8「わが助けはどこから来る」
巡礼者が目指すエルサレム神殿の方角を望むと、その旅路の困難さを暗示するかのように山々がそびえていました。思わず「わが助けは、どこから来るであろうか」と自問しますが、山々を見る目を少し上げて大空を仰ぐと、創造主への信仰がみなぎり、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」から大丈夫と確信しました(「守る」が6回)。
①眠ることなく守られる主から(3~4節)
真っ暗闇の中、野宿するのは心細い限りですが、主は「まどろむこともなく、眠ることもな」く見張りして、野獣や強盗から守って下さると確信しました。今も主は片時もまどろむことなく、私たちの手を握り締め、足がよろめかないよう守っていて下さいます(新聖歌474番)。
②右にいて守られる主から(5~6節)
主は常に右(保護者の位置)にいて、太陽(熱射病の原因)や月(てんかんや熱病の原因と当時考えられていた)から守って下さると確信しました。十字架信仰によってキリストの花嫁とされた私たちを、ちょうど親鳥が翼を広げて雛を守るように、常に全責任をもって守っていて下さいます。
③とこしえに守られる主から(7~8節)
主は出発から帰郷までのすべてを守って下さると確信しました。罪の奴隷から贖い出された私たちが無事天国にゴールインするまで、信仰の旅路を「今からとこしえに至るまで」守り続けて下さいます。
主日礼拝ごとに、心を高く上げて天を仰ぎ、過ぎた一週間の旅路を絶えず主が守って下さったことを感謝し、この主に信頼して新しい一週間を踏み出すのです。困難の山々に直面することがあっても、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」と信じて進みましょう。

詩篇121:1~8「わが助けはどこから来る」

2017年1月8日、詩篇121:1~8「わが助けはどこから来る」
巡礼者が目指すエルサレム神殿の方角を望むと、その旅路の困難さを暗示するかのように山々がそびえていました。思わず「わが助けは、どこから来るであろうか」と自問しますが、山々を見る目を少し上げて大空を仰ぐと、創造主への信仰がみなぎり、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」から大丈夫と確信しました(「守る」が6回)。
①眠ることなく守られる主から(3~4節)
真っ暗闇の中、野宿するのは心細い限りですが、主は「まどろむこともなく、眠ることもな」く見張りして、野獣や強盗から守って下さると確信しました。今も主は片時もまどろむことなく、私たちの手を握り締め、足がよろめかないよう守っていて下さいます(新聖歌474番)。
②右にいて守られる主から(5~6節)
主は常に右(保護者の位置)にいて、太陽(熱射病の原因)や月(てんかんや熱病の原因と当時考えられていた)から守って下さると確信しました。十字架信仰によってキリストの花嫁とされた私たちを、ちょうど親鳥が翼を広げて雛を守るように、常に全責任をもって守っていて下さいます。
③とこしえに守られる主から(7~8節)
主は出発から帰郷までのすべてを守って下さると確信しました。罪の奴隷から贖い出された私たちが無事天国にゴールインするまで、信仰の旅路を「今からとこしえに至るまで」守り続けて下さいます。
主日礼拝ごとに、心を高く上げて天を仰ぎ、過ぎた一週間の旅路を絶えず主が守って下さったことを感謝し、この主に信頼して新しい一週間を踏み出すのです。困難の山々に直面することがあっても、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」と信じて進みましょう。

ルカによる福音書5:1~11「お言葉ですから」

2017年1月1日、ルカによる福音書5:1~11「お言葉ですから」
「群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきた」と「夜通し働きましたが、何も取れませんでした」とは実に好対照です。神を抜きにした人生は結局徒労に終わることの象徴であり、神と共に歩む人生であっても結果の伴わない厳しい現実に直面することの象徴でもあります。ゴルフボールの表面には小さな無数のディンプルがあります。もしピン球のように凸凹がなく、つるつるしていたら、どんなに強く上手に打っても決して遠くまで飛ぶことはないそうです。朝顔にとっては、夜間の暗さと冷たさは、よりきれいに咲くために必要不可欠だそうです。私たちがより飛躍するためには、そうしたへこみもプラス要因になると信じて、まずは心に留め置きたいものです。
イエスはペテロに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われました。漁の常識からすると突飛なアドバイスでしたが、「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言ってそのとおりにしたところ、予想外の大漁となりました。たとえ半信半疑、嫌々ながらでも御言葉に従うと、大漁になったのですから、喜んで100%従うと、どれほど豊かな祝福を受けることでしょうか。御言葉を聞いて、そのとおりにするなら、必ず御言葉の約束どおりになっていくのです。世の常識や自分の経験を働かせて従おうとしないから、またいい加減なところで妥協するから、徒労に終わるのです。
今年、「夜通し働きましたが、何も取れませんでした」と失望することがあるかもしれませんが、「しかし、お言葉ですから」と御言葉に聞き従い、「沖へこぎ出し、網をおろして」みましょう。あの網が駄目ならこの網と、諦めないで可能性を信じて網をおろしましょう。

ヨハネによる福音書3:16「最上の贈り物」

2016年12月25日、ヨハネによる福音書3:16「最上の贈り物」
①神の愛の事実…「神は…この世を愛して下さった」
最初に「神は」とあり、聖書の冒頭でも「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)と宣言するように、永遠の昔から存在される唯一真の神が天と地とその中に満ちるすべてのもの、そして私たち人間も創造されました。この神は、背く者や愛するに値しない者をも「高価で尊い」存在として愛さずにはいられない愛なる神です(イザヤ書43:4)。
②神の愛の程度…「そのひとり子を賜わったほどに」
神と共に永遠の昔からおられる「ひとり子(イエス・キリスト)」は、今から約2000年前、天の栄光をかなぐり捨てて罪と汚れに満ちた地上に人の子として降誕された上、その最期は十字架刑でした。神は、大切な「ひとり子」が地上でどんな目に遭うかを重々承知の上で、惜しみなく与え尽くすほど「この世(私たち一人一人)を愛して下さった」のです。
③神の愛の目的…「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」
「ひとりも滅びないで」とは、裏を返せば、人は皆そのままでは滅びるべき存在だということです。人は皆、創造主なる神とその御言葉に背いて自分勝手に生きてきた罪人だからです。神は、罪は罪としてさばかずにはいられない義なるお方ですが、罪人がさばかれて永遠に滅びるのを看過できない愛なるお方でもあります。そこで神は、御子に全人類の罪を背負わせて十字架につけ、罪人をさばく代わりに御子をさばくことにより、「永遠の命を得る」道を開かれました。この救いを得るのに必要な条件は、罪の悔い改めと「御子を信じる」信仰のみです(使徒20:21)。神の愛をこれ以上拒絶し、御心を悲しませてはなりません。神の愛の贈り物イエスを信じ受け入れましょう。

ヨハネによる福音書3:16「最上の贈り物」

2016年12月25日、ヨハネによる福音書3:16「最上の贈り物」
①神の愛の事実…「神は…この世を愛して下さった」
最初に「神は」とあり、聖書の冒頭でも「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)と宣言するように、永遠の昔から存在される唯一真の神が天と地とその中に満ちるすべてのもの、そして私たち人間も創造されました。この神は、背く者や愛するに値しない者をも「高価で尊い」存在として愛さずにはいられない愛なる神です(イザヤ書43:4)。
②神の愛の程度…「そのひとり子を賜わったほどに」
神と共に永遠の昔からおられる「ひとり子(イエス・キリスト)」は、今から約2000年前、天の栄光をかなぐり捨てて罪と汚れに満ちた地上に人の子として降誕された上、その最期は十字架刑でした。神は、大切な「ひとり子」が地上でどんな目に遭うかを重々承知の上で、惜しみなく与え尽くすほど「この世(私たち一人一人)を愛して下さった」のです。
③神の愛の目的…「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」
「ひとりも滅びないで」とは、裏を返せば、人は皆そのままでは滅びるべき存在だということです。人は皆、創造主なる神とその御言葉に背いて自分勝手に生きてきた罪人だからです。神は、罪は罪としてさばかずにはいられない義なるお方ですが、罪人がさばかれて永遠に滅びるのを看過できない愛なるお方でもあります。そこで神は、御子に全人類の罪を背負わせて十字架につけ、罪人をさばく代わりに御子をさばくことにより、「永遠の命を得る」道を開かれました。この救いを得るのに必要な条件は、罪の悔い改めと「御子を信じる」信仰のみです(使徒20:21)。神の愛をこれ以上拒絶し、御心を悲しませてはなりません。神の愛の贈り物イエスを信じ受け入れましょう。

マタイによる福音書1:1~17「イエス・キリストの系図」

2016年12月18日、マタイによる福音書1:1~17「イエス・キリストの系図」
①来臨の事実
有名な王(ダビデやソロモン他)が登場する系図がキリストにあるということは、キリストが神話や昔話の類に出てくるような想像上の人物ではなく、歴史上確かに実在したお方であることを示しています。
②来臨の実現
ダビデの子孫からキリストが降誕されることを、神はダビデや預言者たちに約束されていました(サムエル記下7:12、イザヤ書9:6~7他)。「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」という書き出しは、キリストの来臨は偶発的な出来事ではなく、旧約聖書に度々約束されていた神の救いのご計画の成就であることを示しています。
③来臨の目的
この系図には、悪王(マナセ他)や、異邦人・遊女等の4人の女性タマル(創世記 第38章)、ラハブ(ヨシュア記 第2章)、ルツ(ルツ記)、ウリヤの妻(バテシバ。サムエル記下 第11章)が登場します。キリストの系図は、人間の罪の匂いがその間から立ち込めてくるような系図です。「このマリヤからキリストといわれるイエスがお生まれになった」とは、キリストが罪に汚れた全人類の真っ只中に人の子として来られたことを示しています。キリストは実に全時代・全人類の罪の連帯責任を負い、ご自分の罪として引き受けて十字架につけられ、身代わりの死を遂げるために来臨されたのです。どんなに罪と汚れと失敗に満ちた過去があろうと、このキリストを信じるならば、愛と祝福に満ちた全く新しい生涯に造り変えられる、人生をやり直すことができるばかりか、「祝福の基」とされるのです(ローマ3:23、Ⅱコリント5:17、創世記12:2)。