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マタイによる福音書2:1~12「喜びあふれるクリスマス」

2017年12月24日、マタイによる福音書2:1~12「喜びあふれるクリスマス」
今までにない星が夜空に輝くのを見た「博士たち(新共同訳「占星術の学者たち」)」は、救い主誕生のしるしと確信し、千㎞以上もの長旅を続けてユダヤに到着し、遂に救い主に「会い、ひれ伏して拝み…黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげ」ました。神はやがて救い主が到来するということを度々約束してこられ、博士たちは神の約束は時が来ると必ず実現するということを今回まざまざと体験し、神とその御言葉に従っていけば間違いないと確信したので「非常な喜びにあふれ」、高価な贈物を惜しみなく献げずにはいられなかったのです。
人が真に幸いな人生を送ることができない最大の原因は、「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)、この造り主なる神を第一としない的外れの罪にあり、この罪の問題を解決するために御子イエスは降誕され、十字架と復活によって救いを完成されたのです。イエスを救い主と信じ受け入れるなら、聖書に記されている神の約束が自分のものとなります。たとえば、「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」(イザヤ書41:10)。万事休すと思えるようなときにも、神は「あなたと共にい」て、「あなたを強くし…助け…ささえ」て下さいます。また、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」(ローマ8:28)。すべてのことの背後には神の愛のご計画があり、マイナスと思える体験も必ず感謝と喜びに変えて下さいます。イエスを信じて「非常な喜びにあふれ」る人生に入れていただきましょう。

マタイによる福音書2:1~12「喜びあふれるクリスマス」

2017年12月24日、マタイによる福音書2:1~12「喜びあふれるクリスマス」
今までにない星が夜空に輝くのを見た「博士たち(新共同訳「占星術の学者たち」)」は、救い主誕生のしるしと確信し、千㎞以上もの長旅を続けてユダヤに到着し、遂に救い主に「会い、ひれ伏して拝み…黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげ」ました。神はやがて救い主が到来するということを度々約束してこられ、博士たちは神の約束は時が来ると必ず実現するということを今回まざまざと体験し、神とその御言葉に従っていけば間違いないと確信したので「非常な喜びにあふれ」、高価な贈物を惜しみなく献げずにはいられなかったのです。
人が真に幸いな人生を送ることができない最大の原因は、「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)、この造り主なる神を第一としない的外れの罪にあり、この罪の問題を解決するために御子イエスは降誕され、十字架と復活によって救いを完成されたのです。イエスを救い主と信じ受け入れるなら、聖書に記されている神の約束が自分のものとなります。たとえば、「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」(イザヤ書41:10)。万事休すと思えるようなときにも、神は「あなたと共にい」て、「あなたを強くし…助け…ささえ」て下さいます。また、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」(ローマ8:28)。すべてのことの背後には神の愛のご計画があり、マイナスと思える体験も必ず感謝と喜びに変えて下さいます。イエスを信じて「非常な喜びにあふれ」る人生に入れていただきましょう。

ルカによる福音書15:11~24「走り寄る神」

2017年12月17日、ルカによる福音書15:11~24「走り寄る神」
弟息子は父親から財産を分与されると、早速父親の目の届かない遠い所へ行って自由奔放な生活をした挙句、破局を迎えました。幸いにも弟息子が「本心に立ちかえ」ると、見えてきたものがありました。それは、自分の自由を束縛する監視人のように父親を認識していましたが、父親がいたからこその恵まれた生活であったことです。弟息子は父親に謝ろうと家に帰るのですが、「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻し」ました。この父親こそ父なる神の姿であり、弟息子こそ神に背を向けて歩む人間の姿です。私たちが持っているいのちも健康も才能も、実はすべて神から与えられたものであるのに、神に感謝することもなく自分勝手に歩んでいます。この的外れの罪から救い出し、神のもとに立ち帰る道を開くために、約2000年前、神は御子イエスを人の子として遣わされたのです。クリスマスの出来事です。罪を悔い改めてイエスを信じ、神に一歩踏み出すとき、神はそれ以上に走り寄り、罪を赦し、神の家族に迎え入れて下さるのです(ヤコブ4:8)。
神を抜きにして自己実現をひたすら追求し、上を上を目指す生き方には、必ず限界、行き詰まりがあります。あなたも弟息子のように自分の力だけを頼りに歯を食いしばって頑張り、ボロボロに疲れ果てていませんか。愛なる神は、そんなあなたを抱きしめたい、真の安息を与えたい、真に充実した人生を送ってほしいと願い、あなたが方向転換するのを今か今かと待ち構えておられます。「自分一人で頑張って生きるのはもうやめてはどうか。これからはこのわたしと共に生きてみないか」と神はあなたに呼びかけておられるのです。

ルカによる福音書15:11~24「走り寄る神」

2017年12月17日、ルカによる福音書15:11~24「走り寄る神」
弟息子は父親から財産を分与されると、早速父親の目の届かない遠い所へ行って自由奔放な生活をした挙句、破局を迎えました。幸いにも弟息子が「本心に立ちかえ」ると、見えてきたものがありました。それは、自分の自由を束縛する監視人のように父親を認識していましたが、父親がいたからこその恵まれた生活であったことです。弟息子は父親に謝ろうと家に帰るのですが、「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻し」ました。この父親こそ父なる神の姿であり、弟息子こそ神に背を向けて歩む人間の姿です。私たちが持っているいのちも健康も才能も、実はすべて神から与えられたものであるのに、神に感謝することもなく自分勝手に歩んでいます。この的外れの罪から救い出し、神のもとに立ち帰る道を開くために、約2000年前、神は御子イエスを人の子として遣わされたのです。クリスマスの出来事です。罪を悔い改めてイエスを信じ、神に一歩踏み出すとき、神はそれ以上に走り寄り、罪を赦し、神の家族に迎え入れて下さるのです(ヤコブ4:8)。
神を抜きにして自己実現をひたすら追求し、上を上を目指す生き方には、必ず限界、行き詰まりがあります。あなたも弟息子のように自分の力だけを頼りに歯を食いしばって頑張り、ボロボロに疲れ果てていませんか。愛なる神は、そんなあなたを抱きしめたい、真の安息を与えたい、真に充実した人生を送ってほしいと願い、あなたが方向転換するのを今か今かと待ち構えておられます。「自分一人で頑張って生きるのはもうやめてはどうか。これからはこのわたしと共に生きてみないか」と神はあなたに呼びかけておられるのです。

マタイによる福音書25:1~13「目をさましていなさい」

2017年12月10日、マタイによる福音書25:1~13「目をさましていなさい」
花婿を迎えるためにあかりを持って待機していた十人のおとめは、「花婿の来るのがおくれたので…みな居眠りをして、寝てしま」い、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」ときには、「あかりが消えかかっていました」。予備の油を用意していなかった五人は「買いに出ているうちに、花婿が着い」て締め出され、用意していた五人だけが「花婿と一緒に婚宴のへやにはいり」ました。
この譬え話は、天国の扉は一度閉じられると、もう二度と開かれないので、扉が開いているうちに入らなければならないことを教えています。では、いつまで開いているのか、キリスト再臨までです。いつキリストは再臨されるのか、父なる神だけがご存じです(24:36)。どうしたら天国に入れるのか、罪の悔い改めとイエスの十字架を信じる信仰によってのみです(使徒行伝20:21)。そうでなければ「罪の支払う報酬は死」(ローマ6:23)、永遠の滅びを刈り取ることになります。
また、キリスト再臨に対して常に目を覚まして用意をしていなければならないことをも教えています。何から何までほとんど同じ両者の間に、ただ一つ決定的な相違点がありました。予備の油を用意していたか否かです。「油」とは、常に備えのできた信仰のことでしょう。そのためには聖霊の助けが不可欠です。思慮深い五人の眠りはいつでも備えのできているゆえの安心した眠りであり、思慮の浅い五人の眠りは油断した眠りなのでしょう。あなたは、キリストがいつ再臨されても恥ずかしくない歩みをしているでしょうか。「わたしはすぐに来る」と言われるイエスに対して、「アァメン、主イエスよ、きたりませ」と胸を張って言えるでしょうか(黙示録22:7、12、17、20)。

マタイによる福音書25:1~13「目をさましていなさい」

2017年12月10日、マタイによる福音書25:1~13「目をさましていなさい」
花婿を迎えるためにあかりを持って待機していた十人のおとめは、「花婿の来るのがおくれたので…みな居眠りをして、寝てしま」い、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」ときには、「あかりが消えかかっていました」。予備の油を用意していなかった五人は「買いに出ているうちに、花婿が着い」て締め出され、用意していた五人だけが「花婿と一緒に婚宴のへやにはいり」ました。
この譬え話は、天国の扉は一度閉じられると、もう二度と開かれないので、扉が開いているうちに入らなければならないことを教えています。では、いつまで開いているのか、キリスト再臨までです。いつキリストは再臨されるのか、父なる神だけがご存じです(24:36)。どうしたら天国に入れるのか、罪の悔い改めとイエスの十字架を信じる信仰によってのみです(使徒行伝20:21)。そうでなければ「罪の支払う報酬は死」(ローマ6:23)、永遠の滅びを刈り取ることになります。
また、キリスト再臨に対して常に目を覚まして用意をしていなければならないことをも教えています。何から何までほとんど同じ両者の間に、ただ一つ決定的な相違点がありました。予備の油を用意していたか否かです。「油」とは、常に備えのできた信仰のことでしょう。そのためには聖霊の助けが不可欠です。思慮深い五人の眠りはいつでも備えのできているゆえの安心した眠りであり、思慮の浅い五人の眠りは油断した眠りなのでしょう。あなたは、キリストがいつ再臨されても恥ずかしくない歩みをしているでしょうか。「わたしはすぐに来る」と言われるイエスに対して、「アァメン、主イエスよ、きたりませ」と胸を張って言えるでしょうか(黙示録22:7、12、17、20)。

ヨブ記19:21~27「私を贖う者は生きておられる」

2017年12月3日、ヨブ記19:21~27「私を贖う者は生きておられる」
「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」ヨブでしたが、一瞬のうちに子や僕、家畜等を失い、自分は悪性の皮膚病に苦しむという試練に次々襲われました。妻からは「神をのろって死になさい」と罵られ(1:1~2:10)、友人たちからは「不義を耕し、害悪をまく」(4:8)から試練に遭うのだ、と因果応報論で責め立てられます。義人がなぜ試練に遭わねばならぬのか、とますます苦悩する中、「わたしをあがなう者(ゴ-エ-ル、買戻しの権利のある親戚)は生きておられる」、親戚以上に親身になって自分のことを心配し、弁護して下さる方が天におられることに目が開かれました。このときヨブは、来たるべき真のゴ-エ-ル、イエス・キリストを指し示していたのです。
時満ちて降誕されたイエスは、十字架と復活によって、信じる者の罪を赦し、永遠のいのちを与える救いを完成されました。さらに天の父なる神の右に座し、私たちの弁護者として神にとりなし祈っておられます(Ⅰヨハネ2:1)。また、人となられたイエスは様々な試練や苦悩をなめ尽くされたので(讃美歌532番2節「主の受けぬ試みも 主の知らぬ悲しみも うつし世にあらじかし いずこにも御跡見ゆ」)、私たちの弱さや苦悩に共感し、助けることがおできになります(ヘブル2:17~18、4:15)。ヨブには苦難の理由は最後まで知らされませんでした。私たちを襲う試練や苦難の理由も、この地上では完全に理解することはできませんが、御子イエスを十字架の死に渡すほど私たちを愛しておられる神が、意味もなく私たちを苦しめるようなことなど絶対なさいません。試練に遭っても、自分を責めたり神を恨んだりせず、「わたしをあがなう者は生きておられる」、イエスを仰ぎ信頼しましょう。

ヨブ記19:21~27「私を贖う者は生きておられる」

2017年12月3日、ヨブ記19:21~27「私を贖う者は生きておられる」
「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」ヨブでしたが、一瞬のうちに子や僕、家畜等を失い、自分は悪性の皮膚病に苦しむという試練に次々襲われました。妻からは「神をのろって死になさい」と罵られ(1:1~2:10)、友人たちからは「不義を耕し、害悪をまく」(4:8)から試練に遭うのだ、と因果応報論で責め立てられます。義人がなぜ試練に遭わねばならぬのか、とますます苦悩する中、「わたしをあがなう者(ゴ-エ-ル、買戻しの権利のある親戚)は生きておられる」、親戚以上に親身になって自分のことを心配し、弁護して下さる方が天におられることに目が開かれました。このときヨブは、来たるべき真のゴ-エ-ル、イエス・キリストを指し示していたのです。
時満ちて降誕されたイエスは、十字架と復活によって、信じる者の罪を赦し、永遠のいのちを与える救いを完成されました。さらに天の父なる神の右に座し、私たちの弁護者として神にとりなし祈っておられます(Ⅰヨハネ2:1)。また、人となられたイエスは様々な試練や苦悩をなめ尽くされたので(讃美歌532番2節「主の受けぬ試みも 主の知らぬ悲しみも うつし世にあらじかし いずこにも御跡見ゆ」)、私たちの弱さや苦悩に共感し、助けることがおできになります(ヘブル2:17~18、4:15)。
ヨブには苦難の理由は最後まで知らされませんでした。私たちを襲う試練や苦難の理由も、この地上では完全に理解することはできませんが、御子イエスを十字架の死に渡すほど私たちを愛しておられる神が、意味もなく私たちを苦しめるようなことなど絶対なさいません。試練に遭っても、自分を責めたり神を恨んだりせず、「わたしをあがなう者は生きておられる」、イエスを仰ぎ信頼しましょう。

ヨハネの第三の手紙 9~15「悪にならわないで、善にならいなさい」

2017年11月26日、ヨハネの第三の手紙 9~15「悪にならわないで、善にならいなさい」
「みんなのかしらになりたがっているデオテレペス」は、人々から敬愛されている使徒ヨハネの存在が目障りで、ヨハネたちを「受けいれ」ないで「口ぎたなく…ののしり」、さらには「受けいれようとする人たちを妨げて、教会から追い出してい」ました。一方、デメテリオは、「あらゆる人も…真理そのものも…わたし(ヨハネ)たちも」、この人なら間違いないと証しする、折り紙付きの信者でした。教会には、「善を行なう」良い模範だけでなく、「悪を行う」悪い模範もあります。
デオテレペスと正反対の歩みをしたのがバプテスマのヨハネでした(ヨハネ3:22~30)。イエスが公生涯にお立ち上がりになると、人々の人気はヨハネからイエスに移っていきましたが、ヨハネは少しも腐らず、「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言ってイエスに道を譲り、表舞台から静かに消えていきました。己の分・己の使命を正しく認識し、他人と比較したり競争したりする必要など全くないこと、自分に与えられた使命を果たすことこそ最上の喜びであることを知り、約束の救い主イエスがあがめられることだけを望んでいたからです。
「キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」私たちが「救われたのは、実に、恵みにより、信仰による」のです(エペソ2:11~13)。このことが真にわかっているなら、神の前にも人の前にも「かしらになりたが」ることなでできないはずです。特権や権利等を捨てて、神の僕として互いに仕え合うところ、それが教会です。「悪にならわないで、善にならい」、後に続く人たちのために良い模範・目標になってほしい、と神はあなたに期待しておられるのです。

ヨハネの第三の手紙 9~15「悪にならわないで、善にならいなさい」

2017年11月26日、ヨハネの第三の手紙 9~15「悪にならわないで、善にならいなさい」
「みんなのかしらになりたがっているデオテレペス」は、人々から敬愛されている使徒ヨハネの存在が目障りで、ヨハネたちを「受けいれ」ないで「口ぎたなく…ののしり」、さらには「受けいれようとする人たちを妨げて、教会から追い出してい」ました。一方、デメテリオは、「あらゆる人も…真理そのものも…わたし(ヨハネ)たちも」、この人なら間違いないと証しする、折り紙付きの信者でした。教会には、「善を行なう」良い模範だけでなく、「悪を行う」悪い模範もあります。
デオテレペスと正反対の歩みをしたのがバプテスマのヨハネでした(ヨハネ3:22~30)。イエスが公生涯にお立ち上がりになると、人々の人気はヨハネからイエスに移っていきましたが、ヨハネは少しも腐らず、「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言ってイエスに道を譲り、表舞台から静かに消えていきました。己の分・己の使命を正しく認識し、他人と比較したり競争したりする必要など全くないこと、自分に与えられた使命を果たすことこそ最上の喜びであることを知り、約束の救い主イエスがあがめられることだけを望んでいたからです。
「キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」私たちが「救われたのは、実に、恵みにより、信仰による」のです(エペソ2:11~13)。このことが真にわかっているなら、神の前にも人の前にも「かしらになりたが」ることなでできないはずです。特権や権利等を捨てて、神の僕として互いに仕え合うところ、それが教会です。「悪にならわないで、善にならい」、後に続く人たちのために良い模範・目標になってほしい、と神はあなたに期待しておられるのです。