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エレミヤ書23:1~8「一つの正しい若枝を起こす」

2016年11月27日、エレミヤ書23:1~8「一つの正しい若枝を起こす」
イスラエルの王は、「牧場の羊」なる神の民を「養う牧者」であるべきなのに、民を「散らし…追いやって顧みなかった」ので、バビロン捕囚というさばきを刈り取るのですが、主は再び民を「集め…帰らせ…数が多くなる」と回復を約束されただけでなく、「見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝(メシヤ)を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う」とも約束されました。
この預言はイエスによって真に成就しました。人間の牧者は正しく民を導くことができなかったので、主は真の牧者なるイエスをお送り下さったのです。イエスご自身、「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」と言われたとおり(ヨハネ10:10~11)、私の罪の身代わりとして十字架につけられて死に、よみがえって下さいました。「公平と正義を世に行う」イエスは、何の役にも立たない「傷ついた葦を折ることなく」、煙たいだけで少しも明るくない「ほのぐらい灯心を消すことな」いお方です(イザヤ書42:3、マタイ12:20)。事実イエスは、町中の嫌われ者であった取税人マタイやザアカイ、男性遍歴を繰り返すサマリヤの女等を見捨てず、どこまでも可能性を信じて救いに導かれました。もし自分自身に愛想を尽かしているなら、自分の伴侶や子どもに失望しているなら、「傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことな」いイエスの愛を信じましょう。自分自身の内にある可能性、あの人の内にある可能性を見出し、信じ続けましょう。イエスは、傷つき倒れ、悩み苦しむ者の友として来て下さり、優しく慰め、希望を与えて下さる真の救い主なのです。

ヨハネによる福音書4:46~54「御言葉を信じて帰って行った」

2016年11月20日、ヨハネによる福音書4:46~54「御言葉を信じて帰って行った」
「病気をしているむすこを持つある役人がカペナウム」から、ガリラヤのカナにおられるイエスを訪ね、「カペナウムに下って…子をなおしていただきたいと」繰り返し懇願しました。それに対してイエスは「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだろう」と、ユダヤ人全体の不信仰を指摘すると同時に、役人の信仰を試されました。すなわち、「しるしと奇跡」を見ることによる信仰か、それとも「見ないで信ずる」本物の信仰か(20:29)、試されたのです。それでも役人は「主よ、どうぞ、子供が死なないうちにきて下さい」と必死です。するとイエスは「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」とお答えになりました。「お帰りなさい」ということは、イエスは一緒には行かないということですが、続いて「あなたのむすこは助かるのだ」という約束をもお与えになりました。そうすることによって、御言葉を信じて生きるとはどういうことかを身をもって体験させ、悟らせようとされたのです。もはや役人は帰って行くしかありませんでした。半信半疑であったかもしれませんが、とにかく「彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行」きました。その結果、「イエスが『あなたのむすこは助かるのだ』と言われた…時刻」に「熱が引き」癒されたことを知り、「彼自身もその家族一同も信じ」ました。
「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ55:11)。神が語られた以上、御言葉の約束は必ず成就します。信じて従うならば、必ずその約束どおりになっていくのです。永遠に不変の御言葉こそ(マタイ24:35)、私たちの信仰の保証であり、確信の基盤です。

マタイによる福音書18:21~35「七たびを七十倍するまでに」

2016年11月13日、マタイによる福音書18:21~35「七たびを七十倍するまでに」
「兄弟がわたしに対して罪を犯した場合…七たびまで」赦せば十分と考えるペテロに、イエスは「七たびを七十倍するまでにしなさい」と言われました。何回赦したと覚えている限り、本当に赦したことにはなりません。なぜ例外なしに無制限に赦さなければならないのか、そのようなことが果たして実行可能なのか、という疑問に対する回答が23節以下の譬え話です。「一万タラント(約六千億円)の負債のある者」は、主人に「ひれ伏して哀願した」ところ、主人のあわれみによって「その負債を免じて」もらいました。ところがその帰路、わずか「百デナリ(約百万円)を貸している…仲間に出会い」、容赦なく投獄したため、せっかくの主人のあわれみを失って投獄されてしまいます。
私たちも神の前に一万タラント以上の莫大な罪の負債を負う者でしたが、神のあわれみと十字架信仰のゆえにすべての罪を帳消しにしていただきました。この神から受けた莫大なあわれみに比べれば、人から受けた百デナリの仕打ちなど取るに足りないものです。にもかかわらず、なぜ人の罪悪を赦せないのか。それは、自分がどれだけ赦されたかに気づいていないから、感謝していないからではないでしょうか。正直に神の前に出て十字架を仰ぐとき、こんな罪深い者をも愛し受け入れて下さる恵みに驚嘆し、赦せない心も次第に溶かされ、その赦された喜びが人を赦す原動力となっていくことでしょう(エペソ4:31~32)。真に霊的な人とは、常に赦された一万タラントを自覚して、そこから相手を見、相手の痛みをあわれみ包み込む人のことです。「信ずること キリストの名を呼ぶこと 人をゆるし 出来るかぎり愛すること それを私の一番よい仕事としたい」(八木重吉)。

ダニエル書3:1~30「たといそうでなくても」

2016年11月6日、ダニエル書3:1~30「たといそうでなくても」
ネブカデネザル王は金の像を造り、それを「ひれ伏して拝まない者は…火の燃える炉の中に投げ込まれる」と命じました。しかし、シャデラク、メシャク、アベデネゴは、律法に従って偶像崇拝をしませんでした(出エジプト20:3~5)。王は怒り狂って三人を呼び出して最後のチャンスを与えましたが、三人は「わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます」と神の全能を堅く信じていることを宣言しました。続いて「たといそうでなくても」、たとい救い出されなかったとしても、自分たちの神信仰は変わらず、「あなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」と宣言しました。人の願いと神の思い、人の時と神の時、人の方法と神の方法は、必ずしも同じではないため、「たといそうでなくても」ということがしばしば生じます。しかしそれでも愛なる神の思いは、人の願いをはるかに超えて最善なのです。三人は、神の全能を信じて生きると同時に、神の最善に委ねて生きていたのです。
王は火の燃える炉に三人を投げ込ませましたが、何と三人は何の害も受けずに火の中を歩いています。しかも三人ではなく四人です。かつてイスラエルの民と共にエジプトに下り、民と共に荒野を旅された神は、ここでは火の燃える炉の中に共に身を置いて三人を守られたのです(イザヤ43:1~2)。「奇蹟の時代はすでに過ぎ去ったと言ってはならない。ダニエルの神は昔も今も変わられない。ただ変わったのは人である。今の時代の人は奇蹟の必要なところまで神に信頼する大胆さがない。いいかげんなところで小知恵をめぐらして自分を助ける。だから神が奇蹟を行われる余地がないのである」(澤村五郎師)。

ダニエル書3:1~30「たといそうでなくても」

2016年11月6日、ダニエル書3:1~30「たといそうでなくても」
ネブカデネザル王は金の像を造り、それを「ひれ伏して拝まない者は…火の燃える炉の中に投げ込まれる」と命じました。しかし、シャデラク、メシャク、アベデネゴは、律法に従って偶像崇拝をしませんでした(出エジプト20:3~5)。王は怒り狂って三人を呼び出して最後のチャンスを与えましたが、三人は「わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます」と神の全能を堅く信じていることを宣言しました。続いて「たといそうでなくても」、たとい救い出されなかったとしても、自分たちの神信仰は変わらず、「あなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」と宣言しました。人の願いと神の思い、人の時と神の時、人の方法と神の方法は、必ずしも同じではないため、「たといそうでなくても」ということがしばしば生じます。しかしそれでも愛なる神の思いは、人の願いをはるかに超えて最善なのです。三人は、神の全能を信じて生きると同時に、神の最善に委ねて生きていたのです。
王は火の燃える炉に三人を投げ込ませましたが、何と三人は何の害も受けずに火の中を歩いています。しかも三人ではなく四人です。かつてイスラエルの民と共にエジプトに下り、民と共に荒野を旅された神は、ここでは火の燃える炉の中に共に身を置いて三人を守られたのです(イザヤ43:1~2)。「奇蹟の時代はすでに過ぎ去ったと言ってはならない。ダニエルの神は昔も今も変わられない。ただ変わったのは人である。今の時代の人は奇蹟の必要なところまで神に信頼する大胆さがない。いいかげんなところで小知恵をめぐらして自分を助ける。だから神が奇蹟を行われる余地がないのである」(澤村五郎師)。

ヨハネの第一の手紙3:14~18「十字架によって愛を知った」

2016年10月30日、ヨハネの第一の手紙3:14~18「十字架によって愛を知った」
イエスは「兄弟に対して怒る者(新改訳「腹を立てる者」)…愚か者(新改訳「能なし」)…ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれる」と言われ(マタイ5:22)、ヨハネは「すべて兄弟を憎む者は人殺しであり」と記します。怒り、心の中で抱く憎悪・敵意・悪口・軽蔑・罵り等も殺人と本質的に同じです。あなたはこれまで何人の人を心の中で、また言葉で殺してきたでしょうか。「わたしたちがまだ弱かったころ…まだ罪人であった時…敵であった時」(ローマ5:6、8、10)、私たちの側には神の恵みを受け得る良いものなど何一つないのに、私たちを永遠の滅びから救うべく「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった」のです。
イエスの十字架によって「愛ということを知った」者は、「兄弟のためにいのちを捨てる」ほど愛するようになるはずですが、日常生活でそうそう要求されることではありません。しかし「兄弟(単数形)が困っているのを見」ることは日常茶飯事です。そのとき「あわれみの心を閉じる者」、見て見ぬふりをして助けようとしない者が、いざというときどうして「兄弟(複数形)のためにいのちを捨てる」ことができるでしょうか。「愛しています。祈っています」と「言葉や口先」で言うだけで何もしないのは偽善です。「愛」は、単なる言葉の遊びや概念であっては何の意味もありません。「愛」とは、兄弟のためならいかなることでもする用意があるということ、具体的な行動を伴ってこその「愛」なのです。それゆえ「兄弟のためにいのちを捨てる」とは、文字どおりいのちを捨てることばかりでなく、むしろ私たちの身近にいる家族・親族、友人・知人、職場や学校の仲間に関心を向けること、声をかけること、時間や金銭を犠牲にすること等もそうなのです。

ヨハネの第一の手紙3:14~18「十字架によって愛を知った」

2016年10月30日、ヨハネの第一の手紙3:14~18「十字架によって愛を知った」
イエスは「兄弟に対して怒る者(新改訳「腹を立てる者」)…愚か者(新改訳「能なし」)…ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれる」と言われ(マタイ5:22)、ヨハネは「すべて兄弟を憎む者は人殺しであり」と記します。怒り、心の中で抱く憎悪・敵意・悪口・軽蔑・罵り等も殺人と本質的に同じです。あなたはこれまで何人の人を心の中で、また言葉で殺してきたでしょうか。「わたしたちがまだ弱かったころ…まだ罪人であった時…敵であった時」(ローマ5:6、8、10)、私たちの側には神の恵みを受け得る良いものなど何一つないのに、私たちを永遠の滅びから救うべく「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった」のです。
イエスの十字架によって「愛ということを知った」者は、「兄弟のためにいのちを捨てる」ほど愛するようになるはずですが、日常生活でそうそう要求されることではありません。しかし「兄弟(単数形)が困っているのを見」ることは日常茶飯事です。そのとき「あわれみの心を閉じる者」、見て見ぬふりをして助けようとしない者が、いざというときどうして「兄弟(複数形)のためにいのちを捨てる」ことができるでしょうか。「愛しています。祈っています」と「言葉や口先」で言うだけで何もしないのは偽善です。「愛」は、単なる言葉の遊びや概念であっては何の意味もありません。「愛」とは、兄弟のためならいかなることでもする用意があるということ、具体的な行動を伴ってこその「愛」なのです。それゆえ「兄弟のためにいのちを捨てる」とは、文字どおりいのちを捨てることばかりでなく、むしろ私たちの身近にいる家族・親族、友人・知人、職場や学校の仲間に関心を向けること、声をかけること、時間や金銭を犠牲にすること等もそうなのです。

ヨハネの第一の手紙3:11~13「カインかアベルか」

2016年10月23日、ヨハネの第一の手紙3:11~13「カインかアベルか」
律法に「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」(レビ記19:18)とあり、イエスも「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と言われたゆえ、「互に愛し合う(愛し合い続ける、の意)」ことは「初めから聞いていたおとずれ」であり、そうできなかった代表例「カイン」を取り上げます。弟アベルの供え物は受け入れられ、自分のは受け入れられなかったことで、主と弟に八つ当たりした上、アベルを殺害しました(創世記4:1~8)。
「健全な人間関係…を阻むもの…の第一は妬みです…第二に…自己満足に陥ることです…三番目は、利己的な心、つまり自己中心です…利己的になるとは、自分は特別だという気持ちになることだから…自分が願っているように扱われないと、不満が生じてきます」(丸屋真也師)。カインの心の奥底には弟に対する妬みがありました(マルコ15:10)。自己満足に陥っていて、なぜ神に受け入れらなかったのか省みようともしませんでした。自分は特別な存在ゆえ、特別に扱われて当然なのに、なぜアベルだけ受け入れられたのかという利己的な思いもありました。「互に愛し合うべきである」という御言葉の実践を阻んでいるのは、こうした妬み、自己満足、利己的な心なのです。
それらから解放されていたのがバプテスマのヨハネです。「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない」と言うように、賜物も使命も神から与えられるもので、他人と比較したり競争したりする必要などないこと、自分に与えられた使命を果たすことこそ最上の喜びであることを認識していたゆえ、「彼(イエス)は必ず栄え、わたしは衰える」と心から言うことができたのです(ヨハネ3:26~30)。

ヨハネの第一の手紙3:11~13「カインかアベルか」

2016年10月23日、ヨハネの第一の手紙3:11~13「カインかアベルか」
律法に「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」(レビ記19:18)とあり、イエスも「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と言われたゆえ、「互に愛し合う(愛し合い続ける、の意)」ことは「初めから聞いていたおとずれ」であり、そうできなかった代表例「カイン」を取り上げます。弟アベルの供え物は受け入れられ、自分のは受け入れられなかったことで、主と弟に八つ当たりした上、アベルを殺害しました(創世記4:1~8)。
「健全な人間関係…を阻むもの…の第一は妬みです…第二に…自己満足に陥ることです…三番目は、利己的な心、つまり自己中心です…利己的になるとは、自分は特別だという気持ちになることだから…自分が願っているように扱われないと、不満が生じてきます」(丸屋真也師)。カインの心の奥底には弟に対する妬みがありました(マルコ15:10)。自己満足に陥っていて、なぜ神に受け入れらなかったのか省みようともしませんでした。自分は特別な存在ゆえ、特別に扱われて当然なのに、なぜアベルだけ受け入れられたのかという利己的な思いもありました。「互に愛し合うべきである」という御言葉の実践を阻んでいるのは、こうした妬み、自己満足、利己的な心なのです。
それらから解放されていたのがバプテスマのヨハネです。「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない」と言うように、賜物も使命も神から与えられるもので、他人と比較したり競争したりする必要などないこと、自分に与えられた使命を果たすことこそ最上の喜びであることを認識していたゆえ、「彼(イエス)は必ず栄え、わたしは衰える」と心から言うことができたのです(ヨハネ3:26~30)。

ヨハネの第一の手紙3:4~10「神の子か悪魔の子か」

2016年10月16日、ヨハネの第一の手紙3:4~10「神の子か悪魔の子か」
①キリストが現れたのは
神とその御言葉という的から、わずか1㍉でもはずれたら、神の目には「罪…不法」です。神は、どれだけ的を外しているかではなく、的が外れているか否かに注目しておられるのです。「すべての人は罪を犯した」(ローマ3:23)とあるとおり、生まれながら罪の性質を受け継ぐ私たち人間は的を外してばかりいる存在であり、その結果、「罪の支払う報酬は死」(ローマ6:23)、永遠の滅びを刈り取るべき存在です。
イエスが来臨されたのは、「罪をとり除くため」でした。「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)として十字架につけられ、私たちに代わって神にさばかれて死ぬことにより、十字架を信じるだけで罪赦される道を開いて下さいました。また、「悪魔のわざを滅ぼしてしまうため」でした。イエスの十字架と復活は、悪魔に対する決定的な勝利であり、再臨後には完全な勝利がもたらされるのです(黙示録20:10)。
②キリストにある者は
「すべて彼におる者は、罪を犯さない(犯し続けない、の意)」、もはや平気で罪を犯し続けることはできません。なぜなら、「神から生れた者」だから、「神の種(神の御言葉、神の御霊、神の性質)が、その人のうちにとどまっているから」です。「なんらの罪がない」キリストを信じて「新しく(上から、新たに、の意)生れ」(ヨハネ3:3)=「神から生れ」、「神の種」を内に宿していながら、罪を犯し続けることなど全くの矛盾です。全人類は「神の子と悪魔の子」のどちらか一方に所属しています。両方に所属するということは絶対ありません。あなたは聖霊によって新生した「神の子」でしょうか、それとも依然として「悪魔の子」でしょうか。