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伝道の書12:1~14「すべての人の本分」

2018年9月16日、伝道の書12:1~14「すべての人の本分」
本書は「空(息、の意)の空、空の空、いっさいは空である」(1:2)で始まり、12:8にも「空の空、いっさいは空である」とあり、それらの間に、知恵や知識、快楽や富、権力等をいくら得ても息のようにはかなく空しい体験が満ち満ちています。しかし忘れてならないのは、「日の下で」という語です(1:3他)。「日の下」、すなわち地上のことのみ追求する人生は、結局「空の空」だということです。そして12:1~8は老年についての記述です。老年は冬のように陰鬱で(2節)、腕や足が衰え、背骨は曲がり、歯は抜け、目は遠くなります(3節)。耳は遠くなり、話し声は小さくなり、朝早く目覚め、声に張りがなくなります(4節)。道を歩くのも困難になり、白髪になり、性欲は衰え、遂には死んで墓に葬られます(5~6節)。このような老年になり、「『わたしにはなんの楽しみもない』と言うように」なるなら、地上でいかに多くのものを得たとしても、それこそ「空の空、空の空、いっさいは空」です。
だからこそ著者は、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と声高に叫ぶのです。神のかたちに造られた「すべての人の本分」、人間が人間としてなすべき第一のことは、「神を恐れ、その命令を守」って生きることです。ところが人はこの本分から逸脱して、神に背を向けて生きています。この的外れの状態を聖書は「罪」と呼び、これこそが「空の空」の根源なのです。この罪の問題を解決するために御子イエスは来臨され、十字架上で身代わりの死を遂げられました。「先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは…キリストの尊い血によったのである」(Ⅰペテロ1:18~19)。十字架の血は、私たちを「空疎な生活から」救い出し、意義ある人生へと導き入れて下さるのです。

エズラ記9:1~2「神の恵みを受けた者は」

2018年9月9日、エズラ記9:1~2「神の恵みを受けた者は」
エズラたちの帰国から約4か月、指導者たちが「先だって」異民族と結婚したので、民もそれに倣っていることが明らかになりました。 イスラエルは、全世界に真の神を証しし、神の祝福をもたらすという尊い使命のために選ばれた「宝の民」でした(創世記12:2~3、申命記7:6)。異民族と結婚して悪影響を受けると、それどころではなくなるので、イスラエルは異民族と結婚することを固く禁じられたのです(申命記7:1~5)。バビロン捕囚となったのは、異民族から悪影響を受け、その生き方に倣ったからでした。あわれみ深い神によって回復され、神殿を再建することさえできたのに、またもや同じような罪を犯していることを知らされたエズラは、嘆き悲しみ断食して祈りました。
私たちも同様です。主に選ばれるような価値のない「無きに等しい者(直訳「無い者」)」(Ⅰコリント1:26~29)であるのに、「天地の造られる前から、キリストにあって…選び」(エペソ1:4)、十字架の救いにあずからせて下さいました。にもかかわらず私たちもイスラエル同様、何度も何度も神に背き、御心を傷つけてきました。それでもなお神は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43:4)と言っておられます。他人が何と言おうと、またあなた自身がどう思おうと、神は「あなたはわたしの大切な宝物」と言っておられるのです。「私は神の宝物」と自分自身に何度も言い、隣人にも「あなたは神の宝物」と言ってみましょう。あなたの生き方は変わるはずです。神にこよなく愛され、大切にされていることが真にわかれば、神を悲しませるような生き方はできなくなるはず、何とか神に喜ばれる生き方をして、神を証ししていきたいと願うはずです。

エズラ記8:24~36「神の御手に守られた旅路」

2018年8月19日、エズラ記8:24~36「神の御手に守られた旅路」
エズラ一行が断食して道中の無事を「神に願い求めたところ、神はその願いを聞きいれられた」(21~23節)とは言うものの、まだ一歩も前進していません。「神はその願いを聞きいれられた」との確信が与えられ、平安に満たされて出発することができたということです。そのようにして出発したエズラ一行は、断食して祈ったので神に守られ、何事もなく平穏無事であったということではなかったでしょう。約4か月の長旅の間(7:9)、様々な危険や困難に出くわしたはずです。しかしご真実な神が彼らの信頼と祈りに答えて、「敵の手および道に待ち伏せする者の手から…救われた」ので、無事帰国できたのです。
アブラハムは「望み得ないのに、なおも望みつつ信じ」(ローマ4:18)、高齢夫婦の間に約束の子イサクが誕生しました(創世記第17~21章)。契約の箱をかく祭司たちが濁流渦巻くヨルダン川に足を一歩踏み入れたその瞬間、水はせき止められて乾いた地を渡ることができるという約束を信じて従ったところ、そのとおりになりました(ヨシュア記 第3章)。いくら御言葉の約束を得ても、前進しようとせず、ただ待っているだけでは、約束はいつまで経っても絵に描いた餅に過ぎません。「信仰は冒険である」と言います。御言葉の約束を信じて一歩踏み出すならば、必ず御言葉の約束どおりになっていきます(イザヤ書55:11)。
「神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さる」(Ⅰコリント10:13)。ご真実な神は、私たちが試練の中で意気消沈したり絶望したりしないよう、「それ(試練)に耐え」忍ぶ力を「備えて下さ」います。エズラ一行がまさにそうでした。

エズラ記8:1~23「道中の無事を神に願い求めた」

2018年8月12日、エズラ記8:1~23「道中の無事を神に願い求めた」
エズラは、男性だけで約1,500人(女性や子どもも入れると3~4千人)、数十トンの「金銀…器物」と共に帰国しようとしています。当時の旅行は強盗や野獣に襲われる危険性大でしたが、エズラはペルシャ王に護衛を要請しないで、帰国予定者に「神の前でへりくだり…道中の無事を神に願い求めるため」(新改訳)断食して神に祈るよう促しました。
大きな問題や試練に直面したとき、あなたはこれまでどうしてきましたか。神に真剣に祈り求めるよりも、自分の浅薄な知恵や経験、身近な人に頼ってきませんでしたか。全能の神を信じていながら信仰生活が鳴かず飛ばずなのは、「神の前で身をひくくし…神に求め」ることをしていないからではありませんか。だから不安や恐れに満たされ、人間的な知恵や方策を模索せずにはいられなくなるのです。
アッスリヤの大軍に包囲されたとき、ヒゼキヤ王は何をするよりもまず神殿に行って祈りました。するとその夜、アッスリヤ軍は疫病によって全滅しました(列王紀下第18~19章)。「静まって(新改訳「やめよ」)、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)。「我らの戦闘力は第一に我らの無能、第二に主の大能である」(笹尾鉄三郎師)。試練や困難に直面したとき、人間的な知恵や小細工を一切放棄して、自らの無能に徹し、「わたしこそ神である」と言われる神の前に座り込み、祈り抜くことです。そうするなら神もその信頼に答えて、「驚くべきことを…行われ」ます(詩篇46:8)。人間の手に負えないことは多々あっても、神の手に負えないことなど一つもありません。「どんな問題も、問題そのものが問題でなく、それをどう見るか、それとどう関わるか、あるいはその問題をどう捉えるか、それが問題なのです」(ある牧師)。

エズラ記7:1~28「律法を調べ、行い、教えた」

2018年8月5日、エズラ記7:1~28「律法を調べ、行い、教えた」
神殿再建工事完了から60年弱、「天の神の律法の学者である祭司エズラ」がエルサレム帰還を決意します。目に見える部分は確かに整いましたが、問題は目に見えない部分、一人ひとりが律法に従って生きているか否かです。この神の民としての大原則を忘れ、目に見えない神ではなく目に見える偶像の神に頼り、罪に罪を重ねたために、神にさばかれてバビロン捕囚となったのです。しかし神のあわれみのゆえに捕囚から解放されて帰国し、神殿再建工事を成し遂げた今こそ、神の民の大原則が民の中に真に回復されなければ、いくら神殿が再建されて礼拝をささげていても無意味です。それゆえ「エズラは心をこめて主の律法を調べ、これを行い、かつイスラエルのうちに定めとおきてとを教え」るために帰国するのです(申命記6:4~15)。
私たちも神の不思議なご計画によって救いに導かれ、教会の一員とされました。しかしそれはゴールではなくスタートです。神の国完成と自分自身の救いの完成を目指して走り出した私たちも、御言葉を魂に蓄え(詩篇119:11)、絶えず思い起こし、御言葉によって警告されたり矯正されたりしながら歩むことが不可欠です。神も真理も希望も見失った時代だからこそ、私たちはなおさら確信をもって人々に、特に愛する家族に、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と言われるイエスを指し示す責任があります。これこそ真理だと確信しているなら、子や孫の進学・就職・結婚等に血眼になる以上に、信仰継承により情熱を注ぐはずではないでしょうか。皆、私に倣って、私のような生き方をしてほしい。これがエズラやパウロ(ピリピ3:17)の切なる願いであり、私たちの願い・目標でもあります。

詩篇3:1~8「しかし主よ」

2018年7月29日、詩篇3:1~8「しかし主よ」
「敵する者…逆らって立つ者が多く」、絶望的状況にあったダビデですが、「しかし主よ」と群がる敵から目を離して主を仰ぎました。四面楚歌における「しかし主よ」という信仰こそ、本篇のいのちであり、困難を打開する鍵です。そして「あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかた」と主への信頼を告白しました。主は敵の攻撃から私を囲むようにして守って下さる「盾」、私の「栄え」を守って下さるお方、私の名誉を回復して下さるお方だ、とダビデは信じていました。さらに「わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は…わたしに答えられる」、祈りに答えて下さるお方だ、と信じていました。東西南北を完全に封鎖されたような四面楚歌の中でも、上だけは常に開いていて、主に祈ることができます。祈りこそ最大最高の武器です。ダビデは想像を絶する試練の中でも、夜はすっかり安心して「ふして眠り」、朝はさわやかに「目をさます」ことができました。まさに偉大なる熟睡です。それはひとえに、ダビデが主に全く信頼し、そのダビデを「主が…ささえられるから」でした。
「悪魔はいつも二つのレンズを持っています。一つは凸レンズ、もう一つは凹レンズです。凸レンズをあてるとものが大きく見えます。反対に凹レンズをあてるとものが小さく見えます。悪魔は神さまのほうに凹レンズをあて、神さまを小さく見せます。そして現実の苦しみに凸レンズをあて、それを実際よりも大きく見せます。そしてささやくのです。『お前が信じている神は小さいぞ。今直面している困難はこんなに大きいぞ』と言い、わたしたちの勇気も信仰も砕いてしまいます」(蓮見和男師)。悪魔の策略に引っかかっていませんか。

エズラ記6:1~22「神の命令により完成した」

2018年7月22日、エズラ記6:1~22「神の命令により完成した」
州知事からの問い合わせに対してダリヨス王は、早速部下に「古文書をおさめてある書庫を調べさせたところ」、ユダヤ人の主張が事実であることが判明したので、神殿再建工事を妨害してはならないこと等を命じました。ユダヤ人は神とその言葉を信じて帰国し、神殿再建工事に立ち上がったものの、試練と困難の連続でしたが、遂に神殿を建て上げました。「イスラエルの神の命令」があったからです。
創世記後半に登場するヨセフは、若き日に見た神の約束は一体どうなってしまったのかと疑いたくなるような波乱万丈の生涯でした。しかしヨセフに対する神の約束は、時満ちてことごとく実現しました(創世記 第37章以下)。「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:11)。神が一度語られた言葉は空しく地に落ちることはありません。神が語られた以上は間違いなく成就するのです。
ユダヤ人同様、神とその言葉に従って一歩踏み出しても、約束の実現までには山あり谷あり、紆余曲折がつきものです。家族の救いにしても伝道の前進にしても思いどおりにいかないことの連続で、失望の種は尽きません。しかし失望落胆していたユダヤ人が預言者と神の言葉、神の目によって再び立ち上がったように、私たちも失望落胆、意気消沈して下ばかり向いていないで、その何倍も神とその言葉に信頼し期待しようではありませんか。神の言葉が共にあり、神の目が注がれている限り、いつか必ず祝福され、豊かに実を結ぶ日を迎えるはずだからです(詩篇1:1~3)。「もう少しの祈り、もう少しの信仰、もう少しの忍耐、そうすれば答えは必ず来る」(ジョージ・ミュラー)。

ルカによる福音書15:4~7「気づいて!神様の愛」

2018年7月15日、ルカによる福音書15:4~7「気づいて!神様の愛」
①失われた存在
羊飼いは一匹一匹の羊をよく知り、一匹でもいなくなると、すぐにわかりました。その一匹も、かけがえのない大切な存在だからです。同様に神は私たち一人ひとりのことをよくご存じの上で、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言って下さいます(イザヤ書43:1~4)。しかしいなくなった羊は、そのままでは毛や肉を得られないので無価値です。同様に人間も、造り主なる神から迷い出ている限り、本来もっている価値を大きく失い、「無益なものになって」いるのです(ローマ3:12)。羊は一度群れからはぐれると、近眼等のため自分から群れに帰ることはできません。同様に神から離れた人間も、どの神が真の神なのか、どこに真理があるのかまるでわからず、神のもとに帰ろうにも帰れない状態にあるのです。
②熱心な捜索
「いなくなった一匹を見つけるまで」熱心に捜索した羊飼いは、遂に発見して大喜びします。同様に神は「あなたはどこにいるにか」と呼びかけ(創世記3:9)、罪人が悔い改める先に自ら捜しに出かけ、自分から帰ろうにも帰れない罪人を連れ戻すまで決して諦められないお方です。この神の愛を知らせるために遣わされたのが御子イエスです。イエスは十字架と復活によって、神から離れて迷子になっている罪人が神に帰る道を開いて下さいました(ヨハネ14:6)。この神の一方的な愛の捜索劇に気づき、悔い改めと信仰によって神のもとに帰るとき、天では大きな喜びの声が上がり、私たちは恵み深い神と共に真に自分らしく、もっとすばらしく生きることができるようになるのです。

ヘブル人への手紙11:7「信仰によって、ノアは」

2018年7月8日、ヘブル人への手紙11:7「信仰によって、ノアは」
①信仰による従順
暴虐が地に満ちる「時代の人々の中で正しく、かつ全き人で…神とともに歩んだ」(創世記6:5、11~12、9)ノアは、洪水によって地を滅ぼすから箱舟を造るよう神に命じられると、神の言葉を微塵も疑わないで「すべて神の命じられたようにし」ました(6:13~14、22、7:5、9、16)。「信仰と服従とは、神の人の生涯の軌道をつくる二本のレールである。服従は信仰から生じ、生ける信仰はまた必ず絶対の服従に現れる」(澤村五郎師)。箱舟同様、十字架も「滅び行く者には愚か」に見えますが、罪と滅びから救い得るのはこの十字架のみです(Ⅰコリント1:18、23)。十字架信仰によって救いの箱舟に入れられた私たちは、七日ごとに箱舟に戻ってきます。主日礼拝をささげるためです。これからも御言葉に服従し、主の愛の中に留まり続けましょう(ヨハネ15:9、マタイ11:29)。
②信仰による宣教
洪水から救われたのはノア一家だけでしたが、ノアは「義の宣伝者」として、やがて洪水で滅びること、しかし箱舟に入れば救われることを乗船前まで人々に語ったことでしょう(Ⅱペテロ2:5)。「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい」とあるように、主は個人の救いとともに家族の救いを願っておられます(創世記7:1、使徒16:31)。世の人々に福音を語るとともに、愛する家族に語る責任があります。ノア一家によって始められた新しい地でしたが、再び罪が蔓延し、今度は洪水ではなく火によって滅ぼされ、その後「新しい天と新しい地」が完成します(Ⅱペテロ3:5~13)。それまでの間、私たちも「義の宣伝者」としていのちの限り東奔西走しましょう(使徒18:9~10、ヨハネ9:4、Ⅱテモテ4:2)。

詩篇13:1~6「主よ、いつまで」

2018年7月1日、詩篇13:1~6「主よ、いつまで」
①苦悩(1~2節)
「主よ、いつまでなのですか」とは、希望と疑いとが激しくぶつかり合っている言葉です。詩人は、いくら祈っても「いつまで」も主から答えがないので、主に見捨てられたのではないかと感じ、絶えず「魂に痛み…心に悲しみ」を抱えて苦悩しています。逆に神を畏れない敵はますます我が物顔に振る舞い、詩人の苦悩を増幅させています。
②嘆願(3~4節)
詩人はまず「みそなわして(=新改訳「私に目を注ぎ」)」と祈ります。全能の主が「目を注」がれること自体、すでに問題が解決したのも同然で、やがて必ず神の勝利を見ることになります(出エジプト記3:7~10、エズラ記5:5、使徒行伝4:13~31)。それゆえ、この主に対して「わたしの目を明らかにしてください(=新改訳「私の目を輝かせてください」)」と祈るのです。
③信頼(5~6節)
イスラエルが何度背いても、契約のゆえに見捨てず、愛さずにはいられないのが主の愛、主の真実です(エレミヤ書31:3)。詩人は、この主の愛と真実を根拠にして、どこまでも主に信頼しました。救いのみわざをまだ体験していないのに、恵みを先取りして喜び歌いました。
絶望して当然のような状況にあっても、主を信じる私たちにはなお希望があります(申命記33:27、詩篇30:5、ローマ5:5)。祈りに答えることは、全能の主にとっては実に簡単なことでしょうが、すぐに答えていると、私たちはいつまでたっても霊的幼な子のままです。それゆえ主は計り知れないご配慮をもって私たちの祈りを聞いておられ、最善の時に最善の方法で答えられるのです。主に信頼しましょう。