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エズラ記6:1~22「神の命令により完成した」

2018年7月22日、エズラ記6:1~22「神の命令により完成した」
州知事からの問い合わせに対してダリヨス王は、早速部下に「古文書をおさめてある書庫を調べさせたところ」、ユダヤ人の主張が事実であることが判明したので、神殿再建工事を妨害してはならないこと等を命じました。ユダヤ人は神とその言葉を信じて帰国し、神殿再建工事に立ち上がったものの、試練と困難の連続でしたが、遂に神殿を建て上げました。「イスラエルの神の命令」があったからです。
創世記後半に登場するヨセフは、若き日に見た神の約束は一体どうなってしまったのかと疑いたくなるような波乱万丈の生涯でした。しかしヨセフに対する神の約束は、時満ちてことごとく実現しました(創世記 第37章以下)。「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:11)。神が一度語られた言葉は空しく地に落ちることはありません。神が語られた以上は間違いなく成就するのです。
ユダヤ人同様、神とその言葉に従って一歩踏み出しても、約束の実現までには山あり谷あり、紆余曲折がつきものです。家族の救いにしても伝道の前進にしても思いどおりにいかないことの連続で、失望の種は尽きません。しかし失望落胆していたユダヤ人が預言者と神の言葉、神の目によって再び立ち上がったように、私たちも失望落胆、意気消沈して下ばかり向いていないで、その何倍も神とその言葉に信頼し期待しようではありませんか。神の言葉が共にあり、神の目が注がれている限り、いつか必ず祝福され、豊かに実を結ぶ日を迎えるはずだからです(詩篇1:1~3)。「もう少しの祈り、もう少しの信仰、もう少しの忍耐、そうすれば答えは必ず来る」(ジョージ・ミュラー)。

ルカによる福音書15:4~7「気づいて!神様の愛」

2018年7月15日、ルカによる福音書15:4~7「気づいて!神様の愛」
①失われた存在
羊飼いは一匹一匹の羊をよく知り、一匹でもいなくなると、すぐにわかりました。その一匹も、かけがえのない大切な存在だからです。同様に神は私たち一人ひとりのことをよくご存じの上で、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言って下さいます(イザヤ書43:1~4)。しかしいなくなった羊は、そのままでは毛や肉を得られないので無価値です。同様に人間も、造り主なる神から迷い出ている限り、本来もっている価値を大きく失い、「無益なものになって」いるのです(ローマ3:12)。羊は一度群れからはぐれると、近眼等のため自分から群れに帰ることはできません。同様に神から離れた人間も、どの神が真の神なのか、どこに真理があるのかまるでわからず、神のもとに帰ろうにも帰れない状態にあるのです。
②熱心な捜索
「いなくなった一匹を見つけるまで」熱心に捜索した羊飼いは、遂に発見して大喜びします。同様に神は「あなたはどこにいるにか」と呼びかけ(創世記3:9)、罪人が悔い改める先に自ら捜しに出かけ、自分から帰ろうにも帰れない罪人を連れ戻すまで決して諦められないお方です。この神の愛を知らせるために遣わされたのが御子イエスです。イエスは十字架と復活によって、神から離れて迷子になっている罪人が神に帰る道を開いて下さいました(ヨハネ14:6)。この神の一方的な愛の捜索劇に気づき、悔い改めと信仰によって神のもとに帰るとき、天では大きな喜びの声が上がり、私たちは恵み深い神と共に真に自分らしく、もっとすばらしく生きることができるようになるのです。

ヘブル人への手紙11:7「信仰によって、ノアは」

2018年7月8日、ヘブル人への手紙11:7「信仰によって、ノアは」
①信仰による従順
暴虐が地に満ちる「時代の人々の中で正しく、かつ全き人で…神とともに歩んだ」(創世記6:5、11~12、9)ノアは、洪水によって地を滅ぼすから箱舟を造るよう神に命じられると、神の言葉を微塵も疑わないで「すべて神の命じられたようにし」ました(6:13~14、22、7:5、9、16)。「信仰と服従とは、神の人の生涯の軌道をつくる二本のレールである。服従は信仰から生じ、生ける信仰はまた必ず絶対の服従に現れる」(澤村五郎師)。箱舟同様、十字架も「滅び行く者には愚か」に見えますが、罪と滅びから救い得るのはこの十字架のみです(Ⅰコリント1:18、23)。十字架信仰によって救いの箱舟に入れられた私たちは、七日ごとに箱舟に戻ってきます。主日礼拝をささげるためです。これからも御言葉に服従し、主の愛の中に留まり続けましょう(ヨハネ15:9、マタイ11:29)。
②信仰による宣教
洪水から救われたのはノア一家だけでしたが、ノアは「義の宣伝者」として、やがて洪水で滅びること、しかし箱舟に入れば救われることを乗船前まで人々に語ったことでしょう(Ⅱペテロ2:5)。「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい」とあるように、主は個人の救いとともに家族の救いを願っておられます(創世記7:1、使徒16:31)。世の人々に福音を語るとともに、愛する家族に語る責任があります。ノア一家によって始められた新しい地でしたが、再び罪が蔓延し、今度は洪水ではなく火によって滅ぼされ、その後「新しい天と新しい地」が完成します(Ⅱペテロ3:5~13)。それまでの間、私たちも「義の宣伝者」としていのちの限り東奔西走しましょう(使徒18:9~10、ヨハネ9:4、Ⅱテモテ4:2)。

詩篇13:1~6「主よ、いつまで」

2018年7月1日、詩篇13:1~6「主よ、いつまで」
①苦悩(1~2節)
「主よ、いつまでなのですか」とは、希望と疑いとが激しくぶつかり合っている言葉です。詩人は、いくら祈っても「いつまで」も主から答えがないので、主に見捨てられたのではないかと感じ、絶えず「魂に痛み…心に悲しみ」を抱えて苦悩しています。逆に神を畏れない敵はますます我が物顔に振る舞い、詩人の苦悩を増幅させています。
②嘆願(3~4節)
詩人はまず「みそなわして(=新改訳「私に目を注ぎ」)」と祈ります。全能の主が「目を注」がれること自体、すでに問題が解決したのも同然で、やがて必ず神の勝利を見ることになります(出エジプト記3:7~10、エズラ記5:5、使徒行伝4:13~31)。それゆえ、この主に対して「わたしの目を明らかにしてください(=新改訳「私の目を輝かせてください」)」と祈るのです。
③信頼(5~6節)
イスラエルが何度背いても、契約のゆえに見捨てず、愛さずにはいられないのが主の愛、主の真実です(エレミヤ書31:3)。詩人は、この主の愛と真実を根拠にして、どこまでも主に信頼しました。救いのみわざをまだ体験していないのに、恵みを先取りして喜び歌いました。
絶望して当然のような状況にあっても、主を信じる私たちにはなお希望があります(申命記33:27、詩篇30:5、ローマ5:5)。祈りに答えることは、全能の主にとっては実に簡単なことでしょうが、すぐに答えていると、私たちはいつまでたっても霊的幼な子のままです。それゆえ主は計り知れないご配慮をもって私たちの祈りを聞いておられ、最善の時に最善の方法で答えられるのです。主に信頼しましょう。

エズラ記5:3~17「神の目が注がれていたので」

2018年6月24日、エズラ記5:3~17「神の目が注がれていたので」
神殿再建工事を中断して16年になるユダヤ人を再び立ち上がらせたのは、預言者と神の言葉(5:1~2)、それから「神の目」でした。工事を知った州知事たちは、ユダヤ人から聞き取り調査を行った上でダリヨス王に報告して指示を仰ぎ、それまで結論を出さずに工事を続けさせました。サマリヤ人の態度が敵意と悪意に満ちていたのに対して、知事たちの態度は公明正大でした。それについて著者は、「ユダヤ人の長老たちの上には、神の目が注がれていたので(神の守り・保護を意味する慣用句)、彼らはこれをやめさせることができず」と記します。
「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる」(歴代志下16:9)。主は全地を見渡し、すべてを見て聞いて知っておられるだけでなく、必要なら被造物を総動員してでも「力をあらわされる」お方です。この主の力を体験するためには条件があります。「自分に向かって心を全うする者のために」とあるように、主に従うことです(マタイ13:58)。また、「その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある」(申命記11:12)。「年の始めから年の終りまで」絶えずイスラエルに目を留めておられた主は、天国というゴール目指して地上を旅する私たちをも、「年の始めから年の終りまで」絶えず目を留め顧みていて下さいます。御子イエスの十字架の血潮によって神の子とされた者を、この世のすべてが束になってかかってきても打ち負かすことはできません。神の目が注がれているからです。人間の手に負えないことはあっても、神の手に負えないことなど一つもありません(ローマ8:31、37)。神に信頼しましょう。

ハガイ書2:20~23「あなたを印章のようにする」

2018年6月10日、ハガイ書2:20~23「あなたを印章のようにする」
ハガイによる第四の預言は、総督ゼルバベルを「立て…印章のようにする」というものです。ゼルバベルの祖父エコニヤ(エホヤキン)は、神に捨てられた悪王でしたが(エレミヤ書22:24)、その孫ゼルバベルは「わがしもべ」、神に喜んで従う者でした。「印章」とは王の印鑑のことで、盗難や紛失等から守るため指輪にして王の指にはめられており、重要文書にはこの印が押されました。ここに記されていることは間違いなく実行することを保証する印であり、絶対的権威を持っていました。ゼルバベルは神の御手に握られた尊い印章であり、ゼルバベルが神の全権大使として御心を遂行していくということです。
ゼルバベルは確かに「ユダの総督」ではありましたが、強大なペルシャ王に比べると無に等しい存在です。そんなゼルバベルを「印章のようにする」とは、目に見えない偉大な神の権威を地上に現わし、神のご計画を担う存在とするということです。バビロン捕囚となり、神の約束も水泡に帰したかのように見えましたが、ゼルバベルによってダビデ王家は回復され、やがてこの家系から救い主が降誕され、十字架と復活による救いが完成されました。まさに預言の成就です。
私たちは神に敵対する罪人でしたが、イエスを信じる信仰によって神と和解し、「キリストの使者(全権大使、の意)」とされました(Ⅱコリント5:18~20)。全権大使には絶対の権威があります。それは私たち自身の権威ではなく、私たちの背後におられる神の権威です。私たちには神がついておられるのです。この神に信頼して働くとき、神は私たちを通して俄然働かれます(マルコ16:20)。それゆえ「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい」(Ⅰコリント15:58)。

ハガイ書2:10~19「後のことをよく考えよ」

2018年6月3日、ハガイ書2:10~19「後のことをよく考えよ」
主は民に「主の宮で石の上に石が積まれなかった前、あなたがたは、どんなであったか」と語りかけ、過去を見つめさせようとされました。「二十枡の麦の積まれる所に行ったが、わずかに十枡を得、また五十桶をくもうとして、酒ぶねに行ったが、二十桶を得たのみ」という空回り人生であり、その根本原因は優先順位が狂っていることにありました。「しかし、あなたがたは、わたしに帰らなかった」ので、16年も工事を中断することになったのです。そこで主は預言者ハガイをお遣わしになり、ハガイの預言を聞いた民は幸いにも悔い改めて主に立ち帰り、神殿再建工事に再び立ち上がりました。その日を境に民を取り巻く霊的状況は一変しました。だからこそ主は「この日から、後の事を思うがよい」と繰り返し民を励まされたのです。とは言っても現実は、収穫の乏しかった惨めな過去と少しも変わらないように見えます(19節)。「しかし、わたしはこの日から、あなたがたに恵みを与える」。目に見えるところ何も変化がないように思えても、悔い改めて献身を新たにしたときから、目に見えない世界では決定的な変化が生じているのです。主がそう約束されたからには、やがて必ず実現します。民は主の約束を信じて待ち望めばよいのです。
過去をいくら悔やんでみても、変えることなど誰にもできません。イエスの十字架によって赦され、再出発する他ありません。悪循環の原因に気づいたなら(黙示録2:4~5他)、主に立ち帰る決断をしましょう。「あなたがたはこの日から、後の事を思うがよい…わたしはこの日から、あなたがたに恵みを与える」、「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る」(詩篇126:5)という好循環が始まるのです。

ハガイ書2:1~9「勇気を出せ、恐れるな」

2018年5月27日、ハガイ書2:1~9「勇気を出せ、恐れるな」
神殿再建工事再開から約1か月後、仮庵の祭の最終日、収穫が乏しかったことや(1:10~11)、壮麗なソロモン神殿と比べて再建中の神殿は「無にひとしい」ことで失望落胆する民に、再び主の言葉が臨みました。「勇気を出せ(新改訳「強くあれ」)」と三度も繰り返し語られました。
それは第一に、「わたしはあなたがたと共にいる」からです(4~5節)。時々共にいるのではありません。「エジプトから出た時」以来ずっと共におられました。紅海渡渉やエリコ攻略、バビロン捕囚からの解放他、主が共におられなければ不可能なことばかりでした。失望落胆する民に主は「わたしはあなたがたと共にいる」という約束をもう一度思い起こさせられました。第二に、全世界が揺り動かされ、諸国民が真の神を認めるようになり、財宝を献げ、その財宝が神殿に満ちるようになるからです(6~8節)。事実この直後、ダリヨス王の命令で十分な道具や資材、資金が届けられました(エズラ記6:6~15)。第三に、「主の家の後の栄光(再建中の神殿の栄光)は、前の栄光(ソロモン神殿の栄光)よりも大きい」から、「この所に繁栄を与える」からです(9節)。事実、「宮よりも大いなる」(マタイ12:6)御子イエスが神殿に来られました。
人間的には無に等しいとしか見えない神殿でも、主の目にはそうではありませんでした。主のご計画は私たちの想像をはるかに超えて進められていきます。この主の御力を忘れ、厳しい現実に目を奪われて不安でいっぱいになったり、失望落胆したり、諦めたりしてはいませんか。そんな私たちに主は、「わたしはあなたがたと共にいる」から大丈夫だ、「後の栄光は、前の栄光よりも大きい…わたしはこの所に繁栄を与える」から、「勇気を出せ」と励まして下さるのです。

ルカによる福音書24:44~49「聖霊の派遣と私たちの派遣」

2018年5月20日、ルカによる福音書24:44~49「聖霊の派遣と私たちの派遣」
本書は、「成就された」(1:1)で始まり、「成就する」(24:44)で終わり、神の約束は「必ずことごとく成就する」という確信で貫かれています。「キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる」ことにより、「その名によって罪のゆるしを得させる悔改め」、救いの道が完成されました。この福音は「エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」ために、弟子たちが「これらの事の証人」として遣わされようとしています。しかし彼らは、弱さや欠けを人一倍持つ者たちです。そんな彼らのために「わたしの父が約束されたもの(聖霊)を、あなたがたに贈る」と言われました。そして約束どおり聖霊が注がれると、臆病な弟子たちがいのちがけで福音を宣べ伝えるようになり、麗しい生活で福音を証しするようになったのです。
あなたにもそのような証人の一人になってほしい。これが、あなたのために御子イエスを犠牲にされた神の何よりの期待です。自分の性格や能力、努力や頑張りではとても証人にはなれないことを正直に認め、「私にも聖霊の恵みが必要です」と祈り求めることです。これまでの生き方を今後もずっと続けていって、恥ずかしくありませんか。弟子たちもこの時点では私たちと大差ない存在でした。しかし弟子たちは造り変えられ、大きく飛躍しました。それは、「わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る」という約束を信じて祈り続け、その約束を実際にいただいたからです。大失敗した「都にとどまって」祈るということは、自分自身の醜い内面、本質から逃げないで、それと向き合うということです。砕かれて十字架を仰ぐとき、聖霊によって潔められ満たされ、力ある証人とされるのです。

ハガイ書1:12~15「奮い立って仕事に取りかかる」

2018年5月13日、ハガイ書1:12~15「奮い立って仕事に取りかかる」
①民は恐れかしこんだ(12節)
信仰はまず御言葉を聞くことから始まります(ローマ10:17)。御言葉を聞かなければ何も始まらないので、毎週の礼拝・祈祷会、毎日の静思の時を大切にしましょう。「民は、その神、主の声と、その神、主のつかわされた預言者ハガイの言葉とに聞きしたがい」ました(サムエル記上3:9)。「あなたがたの歩みをよく考えよ」と迫られた民は、空回り人生の根本原因は優先順位の狂いにあることを素直に認め、今後は御言葉に聞き従っていく決断をし、「主の前に恐れかしこ」みました。
②主は共にいると言われた(13節)
御言葉に「聞きしたがい…主の前に恐れかしこんだ」民に対して、主は「わたしはあなたがたと共にいる」と言われました。この臨在の約束は、民にとって、どんな大国の援助や協力よりもはるかに頼もしいものでした。私たちにも「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)という約束があります。
③主は振り動かされた(14~15節)
臨在の約束をもって励まされた「主は…総督ゼルバベルの心と…大祭司ヨシュアの心…すべての民の心を、振り動かされ(エズラ記1:1、5「感動された」と同語)」、約16年も中断していた神殿再建工事を再開させられました。厳しい事情は少しも変わっていませんが、民の心が変わったのです。御言葉から離れ、優先順位を誤って目先の現象だけを追っていると、私たちは間違いなく失望落胆します。しかし御言葉に耳を傾けるならば、主が共におられることを確信でき、「心を、振り動かされ」、信仰と希望に再び立ち上がることができるのです。