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ジョイジョイクラブ

★4月ジョイジョイクラブ★

日時:4月14日(日)午後1時~2時半

皆さん元気ですか?
4月は、イースター・パーティーです。
ジャグリング他の大道芸、腹話術、公園でイースターエッグ探しとゲーム、綿菓子、スイーツバイキング他、楽しいプログラムがいっぱいです。
卓球もできます。
皆で楽しみましょう!

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出エジプト記33:12~16「わたし自身が一緒に行く」

2019年3月31日、出エジプト記33:12~16「わたし自身が一緒に行く」
モーセが「四十日四十夜、(シナイ)山にい」て十戒を授与されている間、不安になった民は偶像を造り、偶像に頼って約束の地を目指そうとしました(31:18~32:1)。下山して目を疑うような光景を見たモーセは、民の罪の赦しと主の臨在の同行を切願しました(32:11~14、30~34)。そうして与えられた御言葉が、「わたし自身(新改訳2017「わたしの臨在」)が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」です。
「わたしにつながっていなければ実を結ぶことができない」(ヨハネ15:4)が、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)、「宙ぶらりんではなく、神ぶらりん」(向後昇太郎師)なのがキリスト者です。「どんな問題も、問題そのものが問題でなく、それをどう見るか、それとどう関わるか、あるいはその問題をどう捉えるか、それが問題なのです。この世には、本来問題というものはありません。あるのは問題との取り組み方だけです」(ある牧師)。人間の手に負えないことはあっても、神の手に負えないことなど一つもありません。それなのに自分の力を頼りに下手に頑張るから、かえって事態が紛糾し、時間と労力を浪費することになるのです。神の出番を横取りするから、神の全能の力を体験する絶好の機会を逃すことになるのです。臨在の主に対する信仰を働かせるよりも常識を働かせ、主に頼るよりも人に頼っていないでしょうか。閉塞感漂う時代だからこそ、「やめよ。知れ。わたしこそ神」(詩篇46:10、新改訳2017)、「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」と言われる主にひたすら信頼して歩みましょう。

マルコによる福音書1:16~20「わたしについてきなさい」

2019年3月24日、マルコによる福音書1:16~20「わたしについてきなさい」
シモン(ペテロ)とアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟は、「わたしについてきなさい…人間をとる漁師にしてあげよう」とイエスに招かれました。彼らは漁師で、専門教育を受けていない「無学な、ただの人たち」(使徒行伝4:13)でしたが、今後は罪の海に溺れている人間を救い出す「人間をとる漁師」へと召されたのです。「すると、彼らはすぐに網を捨てて…父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟において」、イエスに従いました。即刻の服従、無条件の服従、全生涯かけた服従でした。
ペテロの姑はイエスによって癒され、感謝に満ちてイエスたちをもてなしました(29~31節)。パウロとシラスが「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒行伝16:31)と確信をもって語ることができたのは、弟子たちの家族の救いの実例が多くあったからでしょう。イエスとその御言葉に従うことを勇気を出して優先するなら、あとはイエスが責任をもって下さるのです。
この世の頼りない「網」にいつまでもしがみついていないで、自分中心の生き方から神中心の生き方へと方向転換すべきではないでしょうか。自らの欲を満たそうと自分勝手に支配する世にあって、私たちは全地とその中に満ちるものを神の御心に従って正しく治めるよう選ばれ召されたのです(創世記1:28)。今置かれている職場・学校・家庭・教会等で、キリスト者だからこそできること、なすべきことがあるはずです。あなたの日々の歩みは、「わたしについてきなさい」との招きに真に応えたもの、「私の関係する仕事は、すべて神の仕事です」(ブラザー・ローレンス)と認識したものとなっているでしょうか。

マルコによる福音書1:16~20「わたしについてきなさい」

2019年3月24日、マルコによる福音書1:16~20「わたしについてきなさい」
シモン(ペテロ)とアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟は、「わたしについてきなさい…人間をとる漁師にしてあげよう」とイエスに招かれました。彼らは漁師で、専門教育を受けていない「無学な、ただの人たち」(使徒行伝4:13)でしたが、今後は罪の海に溺れている人間を救い出す「人間をとる漁師」へと召されたのです。「すると、彼らはすぐに網を捨てて…父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟において」、イエスに従いました。即刻の服従、無条件の服従、全生涯かけた服従でした。
ペテロの姑はイエスによって癒され、感謝に満ちてイエスたちをもてなしました(29~31節)。パウロとシラスが「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒行伝16:31)と確信をもって語ることができたのは、弟子たちの家族の救いの実例が多くあったからでしょう。イエスとその御言葉に従うことを勇気を出して優先するなら、あとはイエスが責任をもって下さるのです。
この世の頼りない「網」にいつまでもしがみついていないで、自分中心の生き方から神中心の生き方へと方向転換すべきではないでしょうか。自らの欲を満たそうと自分勝手に支配する世にあって、私たちは全地とその中に満ちるものを神の御心に従って正しく治めるよう選ばれ召されたのです(創世記1:28)。今置かれている職場・学校・家庭・教会等で、キリスト者だからこそできること、なすべきことがあるはずです。あなたの日々の歩みは、「わたしについてきなさい」との招きに真に応えたもの、「私の関係する仕事は、すべて神の仕事です」(ブラザー・ローレンス)と認識したものとなっているでしょうか。

ルカによる福音書16:19~31「アブラハムの懐か、それとも黄泉か」

2019年3月17日、ルカによる福音書16:19~31「アブラハムの懐か、それとも黄泉か」
豪邸に住んで「紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた」金持ちと、「金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた」ラザロ。ところが死後、金持ちは「黄泉にいて苦しみ」、ラザロは「御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られ」ました。この逆転劇の原因は何だったのでしょうか。
金持ちが黄泉に落ちたのは、「毎日ぜいたくに遊び暮らし」、貧しいラザロに何のあわれみも示さず、神を度外視して生きてきたからです。神に造られ愛されている人間が、神を無視して生きる的外れの生き方こそ最大の「罪」であり、永遠の滅びを刈り取る原因なのです。一方のラザロの生き方は、その名前の意味に暗示されているようです。イエスは彼に「ラザロ(神は助け、の意)」と名づけることによって、神を畏れて生きる人であったことを言おうとしておられるのでしょう。ラザロは自分の身の不幸を少しも嘆かず、神を呪わず、その名前のとおり、日々神の助けを仰ぎながら歩んでいたのでしょう。その結果、アブラハムのふところ(パラダイス)に迎え入れられたのです。
イエスが「聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)と言われたように、聖書はイエスについて証言する書です。この聖書に謙虚に聴くならば、自らの罪深さと、その罪を赦すための十字架であることを悟り、悔い改めと信仰へと導かれ、パラダイスが約束されます(ルカ23:43)。地上での神に対する態度によって永遠が決まり、一度決まってしまえば二度と逆転劇は起こりません。「また、よい機会を得たら」(使徒行伝24:25)と先延ばしせず、今決断しましょう。

マタイによる福音書12:9~14「手を伸ばしなさい」

2019年3月10日、マタイによる福音書12:9~14「手を伸ばしなさい」
安息日の会堂にイエスが入られると、そこに「右手のなえた人」(ルカ6:6)がいました。「イエスはその人に、『手を伸ばしなさい』と言われ」ると、彼の手は完全に萎えていて伸ばそうにも伸ばせない状態であったはずですが、イエスの言葉に応えて恐る恐る手を伸ばしてみると、何と伸ばすことができ、「ほかの手のように良く」なりました。
「わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる」(イザヤ書46:10)。神の言葉は真実で必ず実現するという確かな保証があるので、目に見える現実がどうであろうとも信じることができるのです(ヘブル11:1)。環境が整ってから等とイエスを信じ受け入れることを先延ばしにしていないでしょうか。治ったから信じたのではなく、まず信じたから治ったのです。祈りの手が萎えて、失望の黒雲に覆われていないでしょうか(Ⅰテモテ2:8「きよい手をあげて祈ってほしい」)。神のために奉仕や財を献げる手が萎えていないでしょうか(14:16「あなたがたの手で食物をやりなさい」)。率先して愛する交わりの手が萎えていないでしょうか(ガラテヤ2:9「交わりの手を差し伸べた」)。そんなあなたに、信仰の「手を伸ばしなさい」とイエスは呼びかけておられます。
いつまでも堂々巡りしていないで、勇気を出して前進すべきではないでしょうか。「どうせ自分は駄目だ」と諦めていないで、イエスに大いに期待して信仰の手を伸ばすべきではないでしょうか。「このわたしを信じて、あなたの萎えた○○の手を伸ばしなさい」と語りかけられているのではありませんか。イエスを信じて信仰の手を伸ばすなら、あなたにも驚くべき神のみわざが始まるに違いありません。

マルコによる福音書1:14~15「悔い改めて福音を信ぜよ」

2019年3月3日、マルコによる福音書1:14~15「悔い改めて福音を信ぜよ」
「時は満ち…神の国は近づいた」今、神の国に入るための条件は、「悔い改めて(心の向きを変える、の意)福音を信」じることです。生まれながらの人間は皆、神に背を向けて生きている罪人です。罪を犯すから罪人なのではなく、生まれながらの罪人だから罪を犯してしまうのです。神に背を向けたまま歩き続けると、神から遠ざかる一方です(マルコ7:21~22)。そうした歩みがいかに人を傷つけ、自分を汚し、神を悲しませてきたかに気づいて、今後は自分中心から神中心に生きようと心の向きを180度変えるのが「悔い改め」です。そのように神に向かって歩み続けると、神にますます近づき、神と共に歩むようになります。これこそ神に造られた人間の本来あるべき姿ですが、実は悔い改めだけでは救われません。罪を悔い改めた上で、「福音」そのものであるイエスを信じるから救われるのです(使徒行伝20:21)。
これは、救われるために必ずしなければならないことですが、その後は必要ないということではありません。地上的な価値観や生き方に支配され、引き戻されてしまいがちな私たちは、神の国完成の時が近いことを覚え、その意識を神の国に合わせて軌道修正する悔い改めの時がどうしても必要なのです。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(Ⅱコリント6:2)。「また、よい機会を得たら」(使徒行伝24:25)と言って、「今」という恵みの「時」を無駄にしてはなりません。「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4:7)、「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」(イザヤ書55:6)。

マルコによる福音書1:14~15「悔い改めて福音を信ぜよ」

2019年3月3日、マルコによる福音書1:14~15「悔い改めて福音を信ぜよ」
「時は満ち…神の国は近づいた」今、神の国に入るための条件は、「悔い改めて(心の向きを変える、の意)福音を信」じることです。生まれながらの人間は皆、神に背を向けて生きている罪人です。罪を犯すから罪人なのではなく、生まれながらの罪人だから罪を犯してしまうのです。神に背を向けたまま歩き続けると、神から遠ざかる一方です(マルコ7:21~22)。そうした歩みがいかに人を傷つけ、自分を汚し、神を悲しませてきたかに気づいて、今後は自分中心から神中心に生きようと心の向きを180度変えるのが「悔い改め」です。そのように神に向かって歩み続けると、神にますます近づき、神と共に歩むようになります。これこそ神に造られた人間の本来あるべき姿ですが、実は悔い改めだけでは救われません。罪を悔い改めた上で、「福音」そのものであるイエスを信じるから救われるのです(使徒行伝20:21)。
これは、救われるために必ずしなければならないことですが、その後は必要ないということではありません。地上的な価値観や生き方に支配され、引き戻されてしまいがちな私たちは、神の国完成の時が近いことを覚え、その意識を神の国に合わせて軌道修正する悔い改めの時がどうしても必要なのです。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(Ⅱコリント6:2)。「また、よい機会を得たら」(使徒行伝24:25)と言って、「今」という恵みの「時」を無駄にしてはなりません。「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4:7)、「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」(イザヤ書55:6)。

マルコによる福音書1:14~15「神の国は近づいた」

2019年2月24日、マルコによる福音書1:14~15「神の国は近づいた」
①神の国の到来と完成
「神の国」とは、神の恵みによる支配、という意味です(「御国」「天国」も同意)。エゴとエゴとがぶつかり合う世界、家庭や職場、学校は悲惨です。イエスは、そんな地上に神の国を実現するために来られました。イエスが「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:20~21)、「神の国が力をもって来る(=十字架)」(マルコ9:1)と言われたように、神の国はイエス来臨によって、さらには十字架と復活によって地上に実現し、特にイエスの説教や奇跡、愛と謙遜の中に現れています。またイエスを信じる者の心の「ただ中に」、信仰者の集まりである教会の「ただ中に」も実現しています。しかしいまだ不完全で、その完成はキリスト再臨後のことです(黙示録20:1~21:4)。私たちは、この「すでに」と「いまだ」の間の緊張状態に生かされているのです。
②神の国の完成のために
神の国は信じる者の心の内にすでに実現してはいますが、神の恵みによる支配を心から喜べない自己中心・自我がしばしばトラブルの一因となっています。主の祈りの中の「御国を来たらせたまえ」という祈りは、まず祈る者自身の醜い自我がキリストと共に十字架につけられて死に、キリストが内住されることにより(ガラテヤ2:19~20)、喜んで神に服従できるように、という祈りです。また、福音が全世界に宣べ伝えられた後に再臨があるということは、私たちの怠慢が再臨を遅らせているとも言えます(マタイ24:14)。それゆえ、福音を宣ベ伝えようと決意し、そのために自らを献げる祈りでもあるのです。

マルコによる福音書1:14~15「神の国は近づいた」

2019年2月24日、マルコによる福音書1:14~15「神の国は近づいた」
①神の国の到来と完成
「神の国」とは、神の恵みによる支配、という意味です(「御国」「天国」も同意)。エゴとエゴとがぶつかり合う世界、家庭や職場、学校は悲惨です。イエスは、そんな地上に神の国を実現するために来られました。イエスが「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:20~21)、「神の国が力をもって来る(=十字架)」(マルコ9:1)と言われたように、神の国はイエス来臨によって、さらには十字架と復活によって地上に実現し、特にイエスの説教や奇跡、愛と謙遜の中に現れています。またイエスを信じる者の心の「ただ中に」、信仰者の集まりである教会の「ただ中に」も実現しています。しかしいまだ不完全で、その完成はキリスト再臨後のことです(黙示録20:1~21:4)。私たちは、この「すでに」と「いまだ」の間の緊張状態に生かされているのです。
②神の国の完成のために
神の国は信じる者の心の内にすでに実現してはいますが、神の恵みによる支配を心から喜べない自己中心・自我がしばしばトラブルの一因となっています。主の祈りの中の「御国を来たらせたまえ」という祈りは、まず祈る者自身の醜い自我がキリストと共に十字架につけられて死に、キリストが内住されることにより(ガラテヤ2:19~20)、喜んで神に服従できるように、という祈りです。また、福音が全世界に宣べ伝えられた後に再臨があるということは、私たちの怠慢が再臨を遅らせているとも言えます(マタイ24:14)。それゆえ、福音を宣ベ伝えようと決意し、そのために自らを献げる祈りでもあるのです。