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マルコによる福音書7:24~30「食卓の下の子犬でも」

2020年10月18日、マルコによる福音書7:24~30「食卓の下の子犬でも」
①すぐ聞きつけてきて(25節)
「けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏し」ました。何としても癒していただきたいという真剣・切実な信仰がありました。長血の女性もそうでした(5:25~34)。「きょう」という日(ヘブル4:7)、「今」という時(Ⅱコリント6:2)は、神が与えてくださった絶好の機会、見逃してはなりません。
②ひれ伏し…願い続けた(26~29節)
彼女はイエスに相手にされなくても執拗に願い続けたため、弟子たちが「この女を追い払ってください」と困り果てるほどでした(マタイ15:22~23)。イエスが「まず子供たち(ユダヤ人)に十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬(異邦人)に投げてやるのは、よろしくない」と言われても、イエスの柔和な様子や「小犬」という表現から、拒絶の言葉とは捉えず、「でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」と迫ると、「あなたの願いどおりになるように」(マタイ15:28)とイエスは言われました。パリサイ人や律法学者との論争では負け知らずのイエスが、ここでは何か喜んで負けておられるように見えます。いくら祈っても答えがないのは、神が私たちの「信仰を見て」(2:5)、試しておられるのかもしれません(マタイ7:7)。
③家に帰ってみると(30節)
彼女は「お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」とのイエスの言葉を信じて、「家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまってい」ました。御言葉は必ず実現するのです(ヘブル11:1)。

詩篇19:1~14「大空と御言葉と良心」

2020年10月11日、詩篇19:1~14「大空と御言葉と良心」
①自然による啓示(1~6節)
「もろもろの天…大空」も、「この日」をもたらす太陽も、「この夜」を照らす月・星も、ある日偶然にできたのではなく、永遠のはじめから永遠の終わりまでおられる唯一絶対の神が創造されました(創世記1:1)。これら被造物は「話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに」、その存在自体が「神の栄光をあらわし…み手のわざをしめ」しています。それゆえ魂を研ぎ澄まして素直な心で自然界を見るならば、天地万物は神によって創造されたことがわかるのです(ローマ1:20)。
②言葉による啓示(7~11節)
自然による啓示だけでは不十分なので、神は御言葉によってご自身を啓示されました。御言葉は、創造主なる神がいかなるお方であるかを明らかにし、私たちの「魂を生きかえらせ」ます。人間の有限な知恵や力など所詮知れていますが、御言葉は「無学な者を賢く」し、人生の荒波を力強く乗り越えさせます。私たちの心に喜びと希望を与え、「心を喜ばせ…眼を明らかに(新改訳「人の目を明るくする」)」します。
③良心への啓示(12~14節)
このように「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった」(使徒行伝17:27)神は、私たちの良心を照らして罪を示すだけでなく、十字架と復活による救いを示し、「わが岩、わがあがないぬしなる主よ」という信仰告白へと導きます。さらに、「どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように」と、常に主に喜ばれる者でありたいという願いを起こさせます。

詩篇19:1~14「大空と御言葉と良心」

2020年10月11日、詩篇19:1~14「大空と御言葉と良心」
①自然による啓示(1~6節)
「もろもろの天…大空」も、「この日」をもたらす太陽も、「この夜」を照らす月・星も、ある日偶然にできたのではなく、永遠のはじめから永遠の終わりまでおられる唯一絶対の神が創造されました(創世記1:1)。これら被造物は「話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに」、その存在自体が「神の栄光をあらわし…み手のわざをしめ」しています。それゆえ魂を研ぎ澄まして素直な心で自然界を見るならば、天地万物は神によって創造されたことがわかるのです(ローマ1:20)。
②言葉による啓示(7~11節)
自然による啓示だけでは不十分なので、神は御言葉によってご自身を啓示されました。御言葉は、創造主なる神がいかなるお方であるかを明らかにし、私たちの「魂を生きかえらせ」ます。人間の有限な知恵や力など所詮知れていますが、御言葉は「無学な者を賢く」し、人生の荒波を力強く乗り越えさせます。私たちの心に喜びと希望を与え、「心を喜ばせ…眼を明らかに(新改訳「人の目を明るくする」)」します。
③良心への啓示(12~14節)
このように「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった」(使徒行伝17:27)神は、私たちの良心を照らして罪を示すだけでなく、十字架と復活による救いを示し、「わが岩、わがあがないぬしなる主よ」という信仰告白へと導きます。さらに、「どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように」と、常に主に喜ばれる者でありたいという願いを起こさせます。

マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス②」

2020年10月4日、マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス②」
「人の心の中」に「悪い思い」があるので、「欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴(いずれも単数形で、悪い態度を表す)」が出てきます。真っ赤な「欺き」はなくても、自分をよく見せるため、保身や弁解のためのピンク色の「欺き」がないでしょうか(マタイ12:36)。「好色」、性的放縦はないでしょうか。「妬み(直訳「邪悪な目」)」と「高慢」は正反対のように見えますが、実はその根っこは同じです。多くの場合、高慢は劣等感の裏返しです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43:4)、神は私たち一人ひとりをかけがえのない最高傑作として愛し、喜んでおられます。この神によって劣等感を埋めていただくことこそ、最高最善の対処法です。しかしそのためには、まず自分の惨めな姿を正直に認めることです。「あなたの名はなんと言いますか」と主から問いかけられたヤコブは、「ヤコブ(押し退けるもの、の意)です。名前のとおり神と人を押し退け、自我を突っ張って生きてきた者です」と正直に認めたところ、豊かな祝福が注がれました(創世記 第32章)。「誹り」とは、単なる悪口や中傷ではなく、聖なる神を冒瀆する罪のことです。「愚痴(新改訳2017「愚かさ」)」とは、罪を冗談半分に取り扱うこと、軽視することです。そのような生き方をしていると、「腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない」(詩篇14:1)ということになります。
正面切って聞かれたら、困り果て、途方に暮れるしかないことが、私たちにはたくさんあるはずです。心の中にある良い思いも「悪い思い」もすべてご存じの上で私たちを愛していてくださる神は、御子イエスによって「悪い思い」から救われる道を開いてくださったのです。

マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス②」

2020年10月4日、マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス②」
「人の心の中」に「悪い思い」があるので、「欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴(いずれも単数形で、悪い態度を表す)」が出てきます。真っ赤な「欺き」はなくても、自分をよく見せるため、保身や弁解のためのピンク色の「欺き」がないでしょうか(マタイ12:36)。「好色」、性的放縦はないでしょうか。「妬み(直訳「邪悪な目」)」と「高慢」は正反対のように見えますが、実はその根っこは同じです。多くの場合、高慢は劣等感の裏返しです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43:4)、神は私たち一人ひとりをかけがえのない最高傑作として愛し、喜んでおられます。この神によって劣等感を埋めていただくことこそ、最高最善の対処法です。しかしそのためには、まず自分の惨めな姿を正直に認めることです。「あなたの名はなんと言いますか」と主から問いかけられたヤコブは、「ヤコブ(押し退けるもの、の意)です。名前のとおり神と人を押し退け、自我を突っ張って生きてきた者です」と正直に認めたところ、豊かな祝福が注がれました(創世記 第32章)。「誹り」とは、単なる悪口や中傷ではなく、聖なる神を冒瀆する罪のことです。「愚痴(新改訳2017「愚かさ」)」とは、罪を冗談半分に取り扱うこと、軽視することです。そのような生き方をしていると、「腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない」(詩篇14:1)ということになります。
正面切って聞かれたら、困り果て、途方に暮れるしかないことが、私たちにはたくさんあるはずです。心の中にある良い思いも「悪い思い」もすべてご存じの上で私たちを愛していてくださる神は、御子イエスによって「悪い思い」から救われる道を開いてくださったのです。

マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス①」

2020年9月27日、マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス①」
「人の心の中」に「悪い思い」があるので、「不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪(いずれも複数形で、悪い行為を表す)」が出てきます。「姦淫」は結婚関係がある中での性的不道徳、「不品行」は結婚関係の有無に関係なくすべての性的不道徳のことです。律法学者たちは、「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)との律法を、実際の姦淫行為のみの問題に限定しましたが、イエスは「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」と言われました(マタイ5:27~32)。万引や不正乗車だけが「盗み」ではありません。悪意に満ちた噂話や陰口等で他人の評判を落とすなら、人の信用を盗む罪であり、地位や権力を利用して他人を支配するなら、人の自由・権利を盗む罪です。律法学者たちは、「殺す者は裁判を受けねばならない」という規定を付加することで、「殺してはならない」(出エジプト記20:13)との律法を、実際の殺人行為のみの問題に限定しましたが、イエスは「兄弟に対して怒る…兄弟にむかって愚か者と言う…ばか者と言う」のも殺人と本質的に同じだ、と言われました(マタイ5:21~26)。神以外の何かで心の渇きを満たそうとするから、「もっと、もっと」という「貪欲」に陥るのです。「邪悪」とは、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)とは正反対の意地悪な心のことです。
「悪い思い」があるのを認めない限り、「口さきではわたし(神)を敬うが、その心はわたし(神)から遠く離れ」たままです。しかしサマリヤの女性(ヨハネ4:1~42)やザアカイ(ルカ19:1~10)他は、「悪い思い」があることを正直に認めてイエスを信じたので、その人生が一変しました。

マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス①」

2020年9月27日、マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス①」
「人の心の中」に「悪い思い」があるので、「不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪(いずれも複数形で、悪い行為を表す)」が出てきます。「姦淫」は結婚関係がある中での性的不道徳、「不品行」は結婚関係の有無に関係なくすべての性的不道徳のことです。律法学者たちは、「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)との律法を、実際の姦淫行為のみの問題に限定しましたが、イエスは「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」と言われました(マタイ5:27~32)。万引や不正乗車だけが「盗み」ではありません。悪意に満ちた噂話や陰口等で他人の評判を落とすなら、人の信用を盗む罪であり、地位や権力を利用して他人を支配するなら、人の自由・権利を盗む罪です。律法学者たちは、「殺す者は裁判を受けねばならない」という規定を付加することで、「殺してはならない」(出エジプト記20:13)との律法を、実際の殺人行為のみの問題に限定しましたが、イエスは「兄弟に対して怒る…兄弟にむかって愚か者と言う…ばか者と言う」のも殺人と本質的に同じだ、と言われました(マタイ5:21~26)。神以外の何かで心の渇きを満たそうとするから、「もっと、もっと」という「貪欲」に陥るのです。「邪悪」とは、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)とは正反対の意地悪な心のことです。
「悪い思い」があるのを認めない限り、「口さきではわたし(神)を敬うが、その心はわたし(神)から遠く離れ」たままです。しかしサマリヤの女性(ヨハネ4:1~42)やザアカイ(ルカ19:1~10)他は、「悪い思い」があることを正直に認めてイエスを信じたので、その人生が一変しました。

マルコによる福音書7:14~23「人に入るもの、人から出るもの」

2020年9月20日、マルコによる福音書7:14~23「人に入るもの、人から出るもの」
「外から人の中にはいって来るもの(食物)」は、「腹の中にはいり…外に出て行くだけ」だから、「念入りに手を洗ってから」食事しないと汚れるという「昔の人の言伝え」など無意味で、「イエスは…どんな食物でもきよいものとされ」ました。「外から人の中にはいって来るもの」よりも、「人の中から出てくる…悪い思い」こそ大問題で、内から外に出て自分を汚し、他人を傷つけ、家庭や社会を破壊する恐るべき病原菌です。自分の目を外にではなく内に向けるようイエスは促しておられるのです。そのときどんなに逆立ちして頑張っても、自分ではどうすることもできないことがわかります。それほど罪に汚染された私たちは、もはやイエスに解決していただく他ないのです。
「妬み」や「誹り」から解放されたら、どんなに毎日が楽で幸せでしょうか。他にも心の中に様々な「悪い思い」を抱えているから、自分らしく生きることができないのです。すっきりした心と魂で生きることができないのです。そしてせっかく神から与えられている賜物や持ち味を十分発揮できないままくすぶり続けることになるのです。
私たち一人ひとりをかけがえのない最高傑作として愛していてくださる神は(イザヤ書43:4)、私たちが神の愛をいっぱい受け、神を愛し人を愛し、自分らしく最高の人生を歩むようにと願っておられます。それゆえ神は御子イエスをお遣わしになり、十字架の死に渡されたのです。まず自分も心の中に「悪い思い」がある「病人」(2:17)であることを素直に認めることがすべての始まりです。その上でイエスを信じ受け入れるなら、汚れた心も赦され、さらにきよめられるのです。

マルコによる福音書7:14~23「人に入るもの、人から出るもの」

2020年9月20日、マルコによる福音書7:14~23「人に入るもの、人から出るもの」
「外から人の中にはいって来るもの(食物)」は、「腹の中にはいり…外に出て行くだけ」だから、「念入りに手を洗ってから」食事しないと汚れるという「昔の人の言伝え」など無意味で、「イエスは…どんな食物でもきよいものとされ」ました。「外から人の中にはいって来るもの」よりも、「人の中から出てくる…悪い思い」こそ大問題で、内から外に出て自分を汚し、他人を傷つけ、家庭や社会を破壊する恐るべき病原菌です。自分の目を外にではなく内に向けるようイエスは促しておられるのです。そのときどんなに逆立ちして頑張っても、自分ではどうすることもできないことがわかります。それほど罪に汚染された私たちは、もはやイエスに解決していただく他ないのです。
「妬み」や「誹り」から解放されたら、どんなに毎日が楽で幸せでしょうか。他にも心の中に様々な「悪い思い」を抱えているから、自分らしく生きることができないのです。すっきりした心と魂で生きることができないのです。そしてせっかく神から与えられている賜物や持ち味を十分発揮できないままくすぶり続けることになるのです。
私たち一人ひとりをかけがえのない最高傑作として愛していてくださる神は(イザヤ書43:4)、私たちが神の愛をいっぱい受け、神を愛し人を愛し、自分らしく最高の人生を歩むようにと願っておられます。それゆえ神は御子イエスをお遣わしになり、十字架の死に渡されたのです。まず自分も心の中に「悪い思い」がある「病人」(2:17)であることを素直に認めることがすべての始まりです。その上でイエスを信じ受け入れるなら、汚れた心も赦され、さらにきよめられるのです。

ハバクク書2:1~4「遅くなっても待て」

2020年9月13日、ハバクク書2:1~4「遅くなっても待て」
「暴虐…よこしま…」に満ち、「律法はゆるみ、公義は行われ」ない南王国ユダを、神は「カルデヤびとを興」してさばこうとされています(1:2~6)。ハバクク(からみつく、抱きつく、の意)はそんな現実から目を背けないで直視し、その名前のとおり神に抱きつくようにして、「いつまでこんな状況が続くのですか。そしてそれはなぜですか」と訴えました。その上で、「見張所に立ち、物見やぐらに身を置き…なんと語られるか」、神の答えを待ち望みました。神からの答えは、「この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして(完成に向かって)急いでいる」状況で、現時点では約束が実現するようには思えないかもしれないが、「それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない」から忍耐強く待ち望め、と励ますものでした。
新型コロナウイルスによって日常生活は一変し、教会活動は制限されています。私たちはそうした「今」だけを見て一喜一憂しがちですが、神のご計画は遠大で、「この方に信頼する者は 決して失望させられることがない」(Ⅰペテロ2:6)のです。大切なことは、「それは必ず臨む。滞りはしない」という確信であり、信じて待ち望む忍耐です。「祈りとは、卵のようなもの。産んでもすぐにふ化しない」(キャサリン・マーシャル)。「卵がすぐにふ化しないように、ほとんどの祈りはすぐにはかなえられません。むしろ、世界と人類と私たちの人生の全体を包み込む神の目的のために、卵のように温められ、ふ化するときを待っているのです」(デイリーブレッド)。「もう少しの祈り、もう少しの信仰、もう少しの忍耐、そうすれば答えは必ず来る」(ジョージ・ミュラー)。