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マルコの福音書8:34「自分を捨ててイエスに従う」

2021年8月15日、マルコの福音書8:34「自分を捨ててイエスに従う」
イエスに従って行くためには、その前に「自分を捨て」ということがどうしても必要になります。「自分を捨て」るとは、人格や個性を否定することでもなければ、夢や財産を投げ出すことでもありません。「何が何でも。自分が、自分が」という自分勝手な思いを捨てて、神の御心に的を合わせて生きることです。「額には神の御名が記されている」(黙示録22:4)私たちの言動によって、かえって「神の御名」が汚されていないでしょうか。真に「自分を捨て」てイエスに従っているなら、真に毎週神を礼拝して御言葉を聞いているなら、そのような状態を放置したままにしないはず、否できないはずです。それができていること自体、真に「自分を捨て」て従おうとしていない証拠でしょう。神の御言葉は、何も私たちを苦しめたり困らせたりするためにあるのではありません。私たちが真に人間らしく歩めるようにと願われる神の愛の語りかけです。その御言葉によって叱られたとき、「自分を捨て」て神中心の生き方に方向転換する人は幸いです。
並行箇所には「自分を捨て、日々自分の十字架を負って」(ルカ9:23)とあります。「時々」ではなく「日々」です。「自分を捨て、自分の十字架を負って」イエスに従うのは、特別な日のためだけのものでもなければ、牧師や宣教師になる人だけのものでもありません。ごく平凡な日常生活の繰り返しの中でこそ実践すべき生き方なのです。イエスの生涯は、まさに「自分を捨て、自分の十字架を負って」神の御心に従って生きることが、どんなに自分自身にとっても周囲の人々にとっても祝福であるか、身をもってお示しくださった生涯でした。

マルコの福音書8:34「自分を捨て、十字架を負われたイエス」

2021年8月8日、マルコの福音書8:34「自分を捨て、十字架を負われたイエス」
「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と弟子たちや群衆に言われたイエスは、口先だけでなく、ご自身がまずこの言葉を実践されました。
最初の人アダムは「神のようになって善悪を知る者とな」りたいと考えて不従順の罪に陥りましたが(創世記3:5~6)、「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を」惜しみなく捨てて、「ご自分を空しくして」私たちと同じ人となられました。人から礼拝され仕えられるべきキリストなのに、「仕えられるためではなく仕えるために…来た」と言われたとおり(10:45)、徹底的に人に仕える「しもべの姿をと」られました(ヨハネ13:1~5)。罪を除いては完全に「人間と同じようになられ」、まさしく「人としての姿をもって現れ(フランシスコ会訳「その姿はまさしく人間であり」)、「すべての点で兄弟たちと同じようになら」れ、「自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです」(ヘブル2:17~18)。そして「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」。キリストは全人類の罪の身代わりとして十字架上で死なれましたが、神はキリストを復活させることにより、キリストを信じるだけですべての罪が赦される救いを完成されたのです(ピリピ2:6~8)。
キリストが莫大な犠牲を払われたのは、私たちを愛するがゆえです。「わたし(主)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」からです(イザヤ書43:4)。このキリストに「自分を捨て、自分の十字架を負って…従って」いくことは、大きな喜びであり光栄です。

マルコの福音書8:34「自分を捨て、十字架を負われたイエス」

2021年8月8日、マルコの福音書8:34「自分を捨て、十字架を負われたイエス」
「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と弟子たちや群衆に言われたイエスは、口先だけでなく、ご自身がまずこの言葉を実践されました。
最初の人アダムは「神のようになって善悪を知る者とな」りたいと考えて不従順の罪に陥りましたが(創世記3:5~6)、「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を」惜しみなく捨てて、「ご自分を空しくして」私たちと同じ人となられました。人から礼拝され仕えられるべきキリストなのに、「仕えられるためではなく仕えるために…来た」と言われたとおり(10:45)、徹底的に人に仕える「しもべの姿をと」られました(ヨハネ13:1~5)。罪を除いては完全に「人間と同じようになられ」、まさしく「人としての姿をもって現れ(フランシスコ会訳「その姿はまさしく人間であり」)、「すべての点で兄弟たちと同じようになら」れ、「自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです」(ヘブル2:17~18)。そして「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」。キリストは全人類の罪の身代わりとして十字架上で死なれましたが、神はキリストを復活させることにより、キリストを信じるだけですべての罪が赦される救いを完成されたのです(ピリピ2:6~8)。
キリストが莫大な犠牲を払われたのは、私たちを愛するがゆえです。「わたし(主)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」からです(イザヤ書43:4)。このキリストに「自分を捨て、自分の十字架を負って…従って」いくことは、大きな喜びであり光栄です。

イザヤ書42:1~9「傷んだ葦を折ることもなく」

2021年8月1日、イザヤ書42:1~9「傷んだ葦を折ることもなく」
神のご計画実現のために遣わされる「わたしのしもべ」イエスは、バプテスマのヨハネから受洗されたとき、「天が開け、神の御霊がはとのように…下って」きて、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:16~17)と天から声がありました。「彼は国々にさばきを行う…ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む」とあるように、イエスの福音はユダヤを超えて全世界に宣べ伝えられています。イエスは、何の役にも立たない「傷んだ葦を折ることもなく」、煙たいだけで少しも明るくない「くすぶる灯芯を消すこともな」いお方です。事実、町中の嫌われ者であった取税人のマタイやザアカイ、男性遍歴を繰り返すサマリヤの女性等を見捨てず、どこまでも可能性を信じて救いに導かれました。イエスを三度も知らないと否認したペテロを赦し、再び使徒のリーダーとしてお立てになりました。罪の悲惨さによって今にも折れてしまいそうな私たち、良心のともしびが今にも消えそうな私たちに、イエスは優しく近づき、慰め励まし、もう一度立ち上がらせ、燃え立たせてくださいます。それがイエスの十字架と復活による福音であり、救いです。
もし自分自身に愛想を尽かしているなら、自分の伴侶や子どもに失望しているなら、「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともな」いイエスの愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」(エペソ3:18)を信じ抜きましょう。全人類を包むほど「広い」愛、永遠に続くほど「長い」愛、すべての人を天に引き上げるほど「高い」愛、最も罪深い者にも届くほど「深い」愛を信じ、神のみわざを期待し待ち望みましょう。

マルコの福音書8:31~33「キリストの後ろに下がる」

2021年7月25日、マルコの福音書8:31~33「キリストの後ろに下がる」
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」「あなたはキリストです」というやり取り直後の受難予告でしたから、弟子たちは耳を疑いました。ペテロがイエスの身を案じて「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」(マタイ16:22)と「いさめ始めた」ところ、「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とイエスに厳しく叱責されました。十字架の道を進む決意を邪魔する発言だったからです。同様の誘惑の1回目が「御霊に導かれて荒野に上って行かれ…四十日四十夜、断食を」されたとき(マタイ4:1~11)、2回目が今回、3回目が十字架前夜のゲツセマネでの祈りのときでした(マタイ26:36~46)。いずれも、十字架による救いを何とか阻止しようとするサタンの巧妙な誘惑でした。ペテロがサタンだというのではありません。「神のことを思わないで、人のことを思っている」ペテロの発言をサタンが利用したのです。イエスはそのことを見抜かれたので、厳しくお叱りになったのです。
「下がれ、サタン」を直訳すると、「下がりなさい、わたしの後ろに、サタンよ」となります。「後ろに」という語は、「だれでもわたし(の後ろ)に従って来たければ」(34節)にも使われています。私たちはついついでしゃばりがちです。神の御心よりも自分の思いを押し通したり、神に逆提案したりしがちです。しかしイエスを信じて生きるとは、いつもイエスの後ろにいるということです。イエスの慈愛に満ちた背中を見つめているなら、私たちの日々の歩みや言動は変わってくるはずです。今のあなたの立ち位置はイエスの前ですか、後ですか。

マルコの福音書8:31~33「キリストの後ろに下がる」

2021年7月25日、マルコの福音書8:31~33「キリストの後ろに下がる」
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」「あなたはキリストです」というやり取り直後の受難予告でしたから、弟子たちは耳を疑いました。ペテロがイエスの身を案じて「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」(マタイ16:22)と「いさめ始めた」ところ、「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とイエスに厳しく叱責されました。十字架の道を進む決意を邪魔する発言だったからです。同様の誘惑の1回目が「御霊に導かれて荒野に上って行かれ…四十日四十夜、断食を」されたとき(マタイ4:1~11)、2回目が今回、3回目が十字架前夜のゲツセマネでの祈りのときでした(マタイ26:36~46)。いずれも、十字架による救いを何とか阻止しようとするサタンの巧妙な誘惑でした。ペテロがサタンだというのではありません。「神のことを思わないで、人のことを思っている」ペテロの発言をサタンが利用したのです。イエスはそのことを見抜かれたので、厳しくお叱りになったのです。
「下がれ、サタン」を直訳すると、「下がりなさい、わたしの後ろに、サタンよ」となります。「後ろに」という語は、「だれでもわたし(の後ろ)に従って来たければ」(34節)にも使われています。私たちはついついでしゃばりがちです。神の御心よりも自分の思いを押し通したり、神に逆提案したりしがちです。しかしイエスを信じて生きるとは、いつもイエスの後ろにいるということです。イエスの慈愛に満ちた背中を見つめているなら、私たちの日々の歩みや言動は変わってくるはずです。今のあなたの立ち位置はイエスの前ですか、後ですか。

マルコの福音書8:31~33「多くの苦しみを受けるキリスト」

2021年7月18日、マルコの福音書8:31~33「多くの苦しみを受けるキリスト」
イエスはご自分を指して「人の子」と呼ばれました。永遠の主権者としての「人の子」であり(ダニエル書7:13~14)、受難のしもべとしての「人の子」(イザヤ書第53章)でもあることを含んだ呼称です。「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならない」と受難の予告をされました(9:31、10:33~34)。イエスの受難は偶然ではなく、必然的な神の救いのご計画であることを強調した「なければならない」です。
イエスはユダヤ教指導者たちに「捨てられ(審査に通らない、の意)」、十字架につけられて「殺され、三日後によみがえらなければな」りません。「神は、罪を知らない方(イエス)を私たちのために罪とされ」(Ⅱコリント5:21)た以上、愛する御子であってもさばかずにはいられないのが義なる神ですから、神の怒りが容赦なく下りました。イエスはユダヤ教指導者たちの審査には通らず、「捨てられ」ましたが、神の審査には通ったので「三日後によみがえ」り、救いを成就されたのです。
人間にとっての最大の危険は、神の審査に合格できないことです。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まってい」(ヘブル9:27)て、その結果、「罪の報酬は死です」(ローマ6:23)。一生懸命努力して入学試験等に合格しても、最後の最後、神の試験に不合格になったら、これまでの努力や苦労は水泡に帰してしまうと思いませんか。イエスの十字架と復活は私の罪のためと信じるなら、すべての罪は赦され、神の審査に合格させてくださるのです。あなたは神の審査に合格できるでしょうか。合格したいと思いませんか。

マルコの福音書8:31~33「多くの苦しみを受けるキリスト」

2021年7月18日、マルコの福音書8:31~33「多くの苦しみを受けるキリスト」
イエスはご自分を指して「人の子」と呼ばれました。永遠の主権者としての「人の子」であり(ダニエル書7:13~14)、受難のしもべとしての「人の子」(イザヤ書第53章)でもあることを含んだ呼称です。「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならない」と受難の予告をされました(9:31、10:33~34)。イエスの受難は偶然ではなく、必然的な神の救いのご計画であることを強調した「なければならない」です。
イエスはユダヤ教指導者たちに「捨てられ(審査に通らない、の意)」、十字架につけられて「殺され、三日後によみがえらなければな」りません。「神は、罪を知らない方(イエス)を私たちのために罪とされ」(Ⅱコリント5:21)た以上、愛する御子であってもさばかずにはいられないのが義なる神ですから、神の怒りが容赦なく下りました。イエスはユダヤ教指導者たちの審査には通らず、「捨てられ」ましたが、神の審査には通ったので「三日後によみがえ」り、救いを成就されたのです。
人間にとっての最大の危険は、神の審査に合格できないことです。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まってい」(ヘブル9:27)て、その結果、「罪の報酬は死です」(ローマ6:23)。一生懸命努力して入学試験等に合格しても、最後の最後、神の試験に不合格になったら、これまでの努力や苦労は水泡に帰してしまうと思いませんか。イエスの十字架と復活は私の罪のためと信じるなら、すべての罪は赦され、神の審査に合格させてくださるのです。あなたは神の審査に合格できるでしょうか。合格したいと思いませんか。

マルコの福音書8:27~30「あなたはキリストです」

2021年7月11日、マルコの福音書8:27~30「あなたはキリストです」
イエスが辺鄙な「ピリポ・カイサリアの村々に出かけられた」のは、弟子たちに重大な質問をするためでした。まずは、「人々はわたしをだれだと言っていますか」という一般質問でした。次に、世間はともかくとして「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と鋭く切り込まれました。するとペテロが弟子たちを代表して、「あなたはキリストです」という百点満点の信仰告白をしました。しかし弟子たちの現時点でのキリスト理解が不十分であったことは、直後の出来事で明らかになります(31~33節)。だからこそ、真っ先に信仰告白したペテロが、十字架前夜、真っ先にイエスを否認することになるのです。
旧約時代、王や預言者や祭司が任職のとき油を注がれたように、キリストは、王・預言者・祭司の三つの権能を兼ね備えたお方です。キリストは全宇宙・全世界を統治し、最善のご計画をもって私たちを守り導いていてくださる真の王です。聖書の言葉をもって私たちに語りかけ、御心を示してくださる真の預言者です。父なる神の右に座して私たちのために贖いをし、とりなし祈っていてくださる真の祭司です。そして私たちに罪を示し、その罪のためにイエスが十字架上で死んで三日目に復活されたことを示し、イエスを救い主と信じることができるようにしてくださるのが聖霊です(Ⅰコリント12:3)。預言者エリヤはイスラエルの民に「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え」(Ⅰ列王記18:21)と決断を迫りました。「あなたはキリストです」と告白し、生涯従い続けましょう。

マルコの福音書8:27~30「あなたはキリストです」

2021年7月11日、マルコの福音書8:27~30「あなたはキリストです」
イエスが辺鄙な「ピリポ・カイサリアの村々に出かけられた」のは、弟子たちに重大な質問をするためでした。まずは、「人々はわたしをだれだと言っていますか」という一般質問でした。次に、世間はともかくとして「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と鋭く切り込まれました。するとペテロが弟子たちを代表して、「あなたはキリストです」という百点満点の信仰告白をしました。しかし弟子たちの現時点でのキリスト理解が不十分であったことは、直後の出来事で明らかになります(31~33節)。だからこそ、真っ先に信仰告白したペテロが、十字架前夜、真っ先にイエスを否認することになるのです。
旧約時代、王や預言者や祭司が任職のとき油を注がれたように、キリストは、王・預言者・祭司の三つの権能を兼ね備えたお方です。キリストは全宇宙・全世界を統治し、最善のご計画をもって私たちを守り導いていてくださる真の王です。聖書の言葉をもって私たちに語りかけ、御心を示してくださる真の預言者です。父なる神の右に座して私たちのために贖いをし、とりなし祈っていてくださる真の祭司です。そして私たちに罪を示し、その罪のためにイエスが十字架上で死んで三日目に復活されたことを示し、イエスを救い主と信じることができるようにしてくださるのが聖霊です(Ⅰコリント12:3)。預言者エリヤはイスラエルの民に「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え」(Ⅰ列王記18:21)と決断を迫りました。「あなたはキリストです」と告白し、生涯従い続けましょう。