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ヨシュア記11:1~23「その地に戦争はやんだ」

3月30日、ヨシュア記11:1~23「その地に戦争はやんだ」
イスラエルがカナン南部を征服したというニュースを伝え聞いたハゾルの王ヤビンは、北部の王たちと同盟を結んでイスラエルに戦いを挑みました。「その大軍は浜べの砂のように数多く、馬と戦車も、ひじょうに多かった」にもかかわらず、主は「彼らのゆえに恐れてはならない。あすの今ごろ、わたしは彼らを皆イスラエルに渡して、ことごとく殺させるであろう」と励ましと約束を与えられました。その上でイスラエルは「にわかに…おし寄せ…襲った」。今回も奇襲攻撃が功を奏し、敵を滅ぼし尽くすことができました。主の勝利の約束を信じ、主により頼みながら、人間の側でも全力を注いで敵と戦った結果、約束された勝利を自分のものとすることができたのです。
主の民は主にのみ頼るべきで、馬や戦車に頼るべきではないので(申命記17:16)、「ヨシュアは主が命じられたとおりに…彼らの馬の足の筋を切り、戦車を火で焼いた」。「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る」(詩篇20:7)。「鼻から息の出入りする人に、たよることをやめ」(イザヤ書2:22)、ただ主にのみより頼むなら、「主はあなたがたの前に行き…あなたがたのしんがりとなられ」(イザヤ書52:12)、主が私たちのために戦われ、最終的には必ず勝利を取って下さいます。そしてその後も「すべて主がモーセに命じられたことで、ヨシュアが行わなかったことは一つもなかった」。この主への従順こそ、信仰の戦いに勝利し続ける秘訣なのです。
敵が「浜べの砂のように数多く」とも、抱えている問題がいかに大きくとも、主に信頼し、従い続けている限り心配無用。「こうしてその地に戦争はやんだ」。やがて圧倒的な主の勝利を見ることでしょう。

ヨシュア記10:1~14「主が戦われる」

3月23日、ヨシュア記10:1~14「主が戦われる」
ギベオンがイスラエルと講和条約を結んだことを知ったカナン先住民たちは「大いに恐れ」、五都市連合でギベオンを攻撃しようとしました。ギベオンの要請に応えて戦いに駆けつけたイスラエルに、「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手にわたしたからである」と主は約束と励ましを与えられました。この戦いにおいても、主ご自身がイスラエルの先頭に立って戦われるということです。
イスラエルはギルガルからギベオンまで夜通し歩き、敵に奇襲攻撃をかけて多くの者を滅ぼし、逃れた者は天からの「大石」=「雹に打たれて死」にました。しかし決着がまだつかないうちに夜が明け始めたので、ヨシュアは、太陽はギベオンの上で留まり、月はアヤロンの谷で留まるようにと祈ると、そのとおりになり、大勝利を収めることができました。「主がイスラエルのために戦われたからである」。
多くの奇跡が聖書に記されていますが、これは想像を絶する奇跡です。しかし神は、天地の創造主であり支配者ですから、必要ならば全宇宙を総動員してでも、神の民を助けて下さるお方です。この神は、私たちの人生にも奇跡を起こして下さる、困難の大山を動かして下さると信じていますか(マルコ11:23~24)。それとも、私の人生には奇跡など起こり得ないと高を括っていますか。「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか…わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」(ローマ8:31、37)ことを信じましょう。その上でこの神を味方として忠実に歩み、なすべきことをなすならば心配無用。神は俄然働き出され、大勝利となることでしょう。

3月16日、ヨシュア記9:1~27「失敗を超える恵み」

3月16日、ヨシュア記9:1~27「失敗を超える恵み」
①敵の策略(1~15節)
イスラエルがエリコとアイを征服したと伝え聞いたギベオン人は、「策略をめぐらし」ました。その古びた靴や着物、乾いたパンや破れた皮袋を見た上、おだてられたイスラエルは、すっかり信用して講和条約を結びましたが、実は彼らは目と鼻の先に住む先住民でした。
失敗の原因は、「主のさしずを求めようとはしなかった」ことにありますが、なぜそうなったのでしょうか。それは、少なくとも外面的には大事件とは思えなかったから、ギベオン人が下手に出てきたからでしょう。私たちも特別なことのためには懸命に祈っても、些細なことのためには祈らず、優越感がくすぐられるときや物事が順調に進んで得意になっているときも、祈らないのではないでしょうか。サタンはあの手この手で私たちを不信仰に陥れ、信仰の戦いに敗北させようと必死に攻撃しています。この巧妙なサタンの策略を見破って勝利するか、それともサタンの策略にまんまと引っかかるか、その分かれ道は、「主のさしずを求め」るか否かにあるのです。
②恵みの挽回(16~27節)
ギベオン人は、イスラエルに仕えて「主の祭壇のため」(27節)に働き、バビロン捕囚から帰還後は城壁再建にも携わりました(ネヘミヤ記3:7)。
私たちもときに失敗しますが、失敗を失敗のまま終わらせられないのが主の恵みです(ローマ8:28)。失敗の原因を究明し、「すべて服従の線から脱落することは、時間と力の空費である」ことを悟り、悔い改めて十字架を仰ぎ、御言葉と御心に従って歩み出すならば、祝福の道を再び歩み出すことができるよう挽回して下さることでしょう。

ヨシュア記8:1~23「敗北から勝利へ」

3月9日、ヨシュア記8:1~23「敗北から勝利へ」
①罪悪の除去
アイとの戦いに負けた最大原因は、アカンが主の命令に背いて、聖絶すべきものを密かに自分の天幕に持ち帰っていたことにありました。そこでアカンとその家族を滅ぼし(7:24~26)、イスラエルから罪を除去すると、「恐れてはならない、おののいてはならない…アイ…をあなたの手に授ける」と罪の赦しと勝利の約束があり、アイ攻略の秘策も授けられ、総員で再度戦いに臨んで見事大勝利を収めました。
不従順の罪、未解決の罪を隠し持ってはいないでしょうか。「その滅ぼされるべきものを…滅ぼし去るのでなければ、わたしはもはやあなたがたとは共にいない…敵に当ることはできない」(7:12~13)。しかし罪を悔い改めて十字架を仰ぐならば、「アコル(災い、の意)の谷を望みの門として与える」(ホセア書2:15)。罪が除去されると、罪によってせき止められていた恵みが再び豊かに注がれるようになるのです。
②祈祷の回復
敗北した後、ヨシュアは主の前に座り込み、「あなたはなにゆえ…滅ぼさせられるのですか」と敗北の原因を祈り求めました(7:6~9)。さらにアイとの再戦の間中、ヨシュアは投げやりを手に持ってアイの方へ差し伸べ続けていました。これはヨシュアの祈りを表す行為です。
出エジプト後のイスラエルがアマレク戦で勝利したときにも、モーセの丘の頂での祈りがありました。モーセからその事実を聞かされたヨシュアは、祈りこそどんな武器や作戦にも勝る最大の鍵であると肝に銘じたことでしょう(出エジプト記17:8~14)。「いま教会が必要としているのは…祈りにおいて力のある人なのです」(E.M.バウンズ)。

詩篇40:1~17「人生の泥沼から引き上げる主」

2月23日、詩篇40:1~17「人生の泥沼から引き上げる主」
①泥沼
詩人は以前「滅びの穴…泥の沼」に落ち込んだようです。ダビデには、バテシバとの姦淫の罪を隠すため夫ウリヤを謀殺した泥沼、サウルや息子アブサロムに命を狙われた泥沼があり、ヨセフには、兄弟たちの妬みを買ってエジプトに奴隷として売られ、主人の好意を得て高められたかと思うと投獄され、忘れ去られた泥沼がありました。
②待望
詩人は「耐え忍んで主を待ち望んだ(待ちに待った、の意)」、徹底的に「主を待ち望」み、主に「叫」ぶように祈りました。不妊の女ハンナも、苦悩に満ちた心のまま主の前に出、「心を注ぎ出して」主に祈りました。
③救出
詩人は主に「滅びの穴から、泥の沼から」引き上げられたのみか、堅固で揺るがぬ「岩の上」に移され、その「歩みをたしかにされ」ました。
④感謝
そのような詩人から出てきたもの、それは感謝でした。感謝は、主への賛美となって(3節)、主への従順となって現れました(8節)。その結果、周囲の人々も主を「恐れ、かつ主に信頼する」ようになります。
私たちの生涯にも「滅びの穴…泥の沼」がありますが、最大の泥沼は罪の泥沼です。しかしイエスの十字架に救い出せない罪はありません。十字架を信じましょう。また試練の泥沼で苦悩しているなら、徹底的に主に信頼して祈りましょう。やがて必ず主が「滅びの穴から、泥の沼から引きあげて」下さいます。「もう少しの祈り、もう少しの信仰、もう少しの忍耐、そうすれば答えは必ず来る」(ジョージ・ミュラー)。

ヨシュア記7:1~26「みわざを妨げるもの」

2月16日、ヨシュア記7:1~26「みわざを妨げるもの」
①過信
ヨシュアは、エリコ戦同様、アイに偵察隊を派遣しました。アイの人口「一万二千人」(8:25)のうち戦闘可能なのは約1/4、ならば「ただ二、三千人」で十分と判断して「三千人」で戦い、予想外の敗北を喫しました。難攻不落のエリコに大勝利したことからくる油断、自分たちの力への過信があったのでしょう。この過信は祈祷の不足としても現れ、敗北後には祈っても、戦う前に祈ったという記述はありません。
勝利の後、順境の時、得意分野こそ危険です。神により頼んでいるつもりで、実は自分の知恵や経験、力により頼んでいる面があるからです。神から「離れては…何一つできない」ことを認め、神により頼んで事に当たる、これこそ勝利の秘訣です(ヨハネ15:5、ピリピ4:13)。
②背信
罪深いエリコとその中のものは、ラハブとその家の中にいる者および金銀・青銅・鉄の器以外はすべて滅ぼせ、というのが主の命令でした(6:17~19)。ところがアカンがその命令に背き、滅ぼし尽くすべきものを密かに自分の天幕に持ち帰っていました。このアカンの罪がイスラエルと神との間を隔てたので(イザヤ書59:1~2)、敗北したのです。
「見て、ほしくなり、それを取り…地に隠し」とは、典型的な人間の堕落の過程です。エバ(創世記3:6~8)やダビデ(サムエル記下11:2~4)もそうです。「その滅ぼされるべきものを…滅ぼし去るのでなければ、わたしはもはやあなたがたとは共にいない」。聖なる神は罪と同居できませんが、罪が除去されれば、「アコル(災い、の意)の谷を望みの門として与える」(ホセア書2:15)、望みの門、祝福の谷へと変えられるのです。

ヨシュア記6:1~21「信仰によってエリコの城壁は」

2月9日、ヨシュア記6:1~21「信仰によってエリコの城壁は」
①主の約束(1~2節)
エリコはイスラエルを恐れて城壁を一層「かたく閉ざして」いましたが、主は「わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている(完了時制)」と言われました。実際にはまだエリコを占領していませんが、主の摂理の中ではすでに完了しているのです。この約束された勝利を自分のものとして受け取る方法が信仰で、実際に一足一足踏んでいくことにより、約束が自分のものとなるのです。
②主の方法(3~21節)
「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」(5:14)と主の前にひれ伏すヨシュアに、エリコ攻略の方法が授けられました。祭司たちはラッパを吹き鳴らしながら先頭を進み、その後に契約の箱と武装した兵士たちが黙々と続き、城壁を一周する。これを六日間行い、七日目は同様に城壁を七回回り、七回目に祭司たちが長くラッパを吹いたら一斉にときの声を上げるとエリコの城壁は崩落する、という突飛な方法ですが、民は従順に従いました。すると七日目に城壁は崩れ、エリコを占領することができたのです。ヨシュア自身、主の前に自己主張という泥靴を脱ぎ捨てて僕に徹し(5:13~15)、民も割礼を受けて過越の祭を行い、主との関係が確立されていたので(5:1~12)、理解に苦しむ命令にも黙々と従うことができたのです(ローマ11:33)。
ペテロも「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言って「そのとおりにしたところ」、予想外の大漁となりました(ルカ5:1~11)。御言葉を聞いてそのとおりにするならば、必ず御言葉のとおりになるのです。人生の問題の城壁もやがて崩れ去ることでしょう。
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ヨシュア記5:13~15「主の軍勢の将」

2月2日、ヨシュア記5:13~15「主の軍勢の将」
①目を上げたヨシュア(13~14a節)
イスラエルが濁流渦巻くヨルダン川を奇跡的に渡り、約束の地に入ったことを聞いたエリコの町は、城壁をより一層「かたく閉ざして」いました。盤石の備えのエリコを前に思案に暮れるヨシュアが、ふと「目を上げてみると、ひとりの人が…立って」いました。それは敵でもなければ味方でもない、指導者ヨシュア自身がまず従うべき司令官、「主の軍勢の将」でした。「抜き身のつるぎを手に持ち」とは、敵と戦う態勢がすでにできており、主ご自身が先頭に立って戦い、勝利に導かれるということです。困難に直面したとき、問題の大きさや自分の弱さを見て思い煩ったり、人間的知恵を働かせたりせず、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」「われらの避け所また力…悩める時のいと近き助け」なる主を仰ぎましょう(詩篇121:1~2、46:1)。
②くつを脱いだヨシュア(14b~15節)
ヨシュアが軍勢の将に「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」と尋ねると、「あなたの足のくつを脱ぎなさい」と言われ、「ヨシュアはそのようにし」ました。「足のくつを脱」ぐとは、主の前に自己主張という泥靴を脱ぎ捨て、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1:38)と主の僕に徹することです。
あなたもヨシュア同様、「あなたはわれわれを助けるのですか」と主をヘルパー程度に見なしてはいないでしょうか。自分が相変わらず大将に居座り、主を思いどおりに操ろうとするから、かえって思い煩いが尽きないのです。しかし主に全権を明け渡し、主を大将としてお迎えすれば、主ご自身が戦って勝利へと導いて下さるのです。

ヨシュア記5:1~12「戦いに備えて」

1月26日、ヨシュア記5:1~12「戦いに備えて」
エリコとの戦いを前に、民に割礼を施すよう主は命じられました。割礼は、神の選びの民であることを自覚し、神への従順(申命記10:16)、愛と献身(申命記30:6)を表すための儀式で、割礼の跡を見るたびに神との契約を思い起こし、神に喜ばれる歩みをしようと決意するものです。割礼の後、民は出エジプトを記念する過越の祭を行いました。
常識的には、ヨルダン川を奇跡的に渡った勢いで一気にエリコに攻め込む方が有利と考え、逆に大変な痛みを伴う割礼をエリコの手前(3㎞弱)で受けるのは危険極まりないことと反対します。しかし戦いを前にして忙しく動き回るより、まず主との関係を確立する霊的準備こそ重要なので、こう命じられたのです。これは私たちが一日の戦いに踏み出すときも同じで、短時間であっても御言葉と祈りの時を持ち、神の武具を身に付けて踏み出すのと(エペソ6:14~18)、そうでないのとでは、同じ一日でも大きな違いが生じてくることでしょう。
イエスの十字架と復活を信じる信仰によって義とされた新約の私たちは(ガラテヤ6:15)、もはや肉体に割礼を受ける必要は全くありません。しかし、心を強情にすることなく御言葉に喜んで従える「心に割礼」ある者(申命記10:16)、御言葉に聞き従う用意のできた「耳にも割礼」ある者(使徒行伝7:51)、神の栄光をほめたたえる「くちびるに割礼」ある者(出エジプト記6:12)となるよう霊的割礼を受ける必要があります。「神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である」(ピリピ3:3)。神に反逆する「肉」が十字架につけられて死に(ガラテヤ5:24)、全くキリストの所有となり、時々刻々御霊に支配されながら歩む。これこそ最高の霊的準備です。、

詩篇93:1~5「主は王である」

1月19日、詩篇93:1~5「主は王である」
①主の支配(1~4節)
世の王が立派な衣をまとい、権力の象徴である剣を腰に帯びているように、全宇宙の王である主は「威光の衣をまとわれ」、全能の「力をもって帯とされ」ています。この偉大な主の主権は、天地創造以前の「いにしえより堅く立ち」、永遠の未来まで確立され続けています。
人間はこの主によって造られ、生かされていながら、主を人生から締め出し、自分が王となっています。この的外れの罪のために御子イエスは十字架上で死なれたのです。このイエスを救い主、王として心に信じ迎え入れ、人生を統べ治めていただくならば、世がどんなに揺れ動こうとも心配無用、決して揺るぎません(イザヤ書43:1~2)。
とは言え、イスラエルがバビロン捕囚を経験したように、私たちの人生も「大水…海の大波」のような試練に襲われ、人生が転覆するような窮地に陥ることがあります。しかし天を仰ぐなら、「主は高き所にいらせられて、その勢いは多くの水のとどろきにまさり、海の大波にまさって盛ん」なこと、「世界は堅く立って、動かされることは」ないことを知り、やがて主を賛美するに至るでしょう(ヨハネ16:33)。
②主の言葉(5節)
主は「あかし(御言葉)」を通して語りかけ、「あなたの家(神殿)」、さらには神の宮である私たちの内に宿って、共に歩んで下さいます(Ⅰコリント6:19)。主の御言葉は不変で、必ず成就します(ヨシュア記21:45、イザヤ書55:11)。主は一言で天地を創造され(創世記1:3他)、嵐を静め(マルコ4:39)、大漁をもたらされました(ルカ5:4)。この主と御言葉に信頼している限り、私たちの人生も「堅く立って、動かされることはありません」。

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