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ルカによる福音書24:1~12「キリストの復活」

2016年3月27日、ルカによる福音書24:1~12「キリストの復活」
十字架上に死んで墓に葬られたイエスの御体に香料を塗り、完全に葬って差し上げようと、彼女たちは「週の初めの日、夜明け前に…墓に行った」。まるで夜明けが待ちきれないかのように墓に急ぐ彼女たちの並々ならぬ愛と熱心が伝わってきます。私たちも毎週このような愛と熱意、飢え渇きをもって礼拝に急ぎ集っているでしょうか。
しかし墓に急ぐ彼女たちの前には大問題がありました。墓の入口をふさぐ大石です。彼女たちはこの大石についてずっと話し合いながら墓まで来ましたが(マルコ16:3「話し合っていた」=話し合い続けていた)、それは全く不要な思い煩いでした。すでに「石が墓からころがして」ありました。約束どおりイエスは死を打ち破って復活されたのです。
墓の大石どころではない人類共通の最大の大石、それは罪と死の大石です。この大石を取り除くために罪の全くない神の御子イエスが来臨され、私たちの罪を背負って十字架につけられ、私たちに代わって神のさばきを一身に受けて死なれましたが、三日目に復活されました。十字架がなくては復活の意味はなく、復活がなくては十字架は完成しません(ローマ4:25)。空っぽの墓は、イエスが罪と死に勝利され、今も生きておられる救い主であること、ただイエスを信じるだけで罪赦されるという救いが完成されたことの証明なのです。
十字架と復活によって、神と私たちとを隔てる途方もない罪と死の大石を「ころがして」下さったイエスは、私たちの人生に立ちはだかる大石をも同様に「ころがして」下さるお方です。それゆえ困難の大石ばかり見つめて失望せず、復活のイエスを仰ぎ信頼するなら(詩篇121:1~2)、すでに「石が…ころがしてある」のを見ることでしょう。

マタイによる福音書21:1~11「子ろばに乗る王なるイエス」

2016年3月20日、マタイによる福音書21:1~11「子ろばに乗る王なるイエス」
イスラエルがエジプトの奴隷状態から解放されたことを記念する過越の祭の真っ最中(ヨハネ12:12)、イエスはエルサレムに入城されました。多くの奇跡を行われてきたイエスこそ、祖国をローマ帝国の支配下から解放する約束のメシヤと考え、「ホサナ(私たちを救って下さい、の意)」(詩篇118:25~26)と熱狂的に歓迎しました。もしイエスが、群集が期待するような政治的解放者なら、軍馬に乗って入城されるはずですが(列王紀上4:26)、群集の期待を拒絶するかのように子ろばに乗って入城されました。これは旧約聖書の成就でした(ゼカリヤ書9:9)。イエスは、政治的・軍事的な王ではなく、人々を罪から解放する平和の王として来られたのです。期待を裏切られた群衆は、数日後には一転して「十字架につけよ」(ルカ23:21)と叫び声を上げることになります。
私たちも以前は、戸口につながれた子ろばのように、罪につながれていた者です(ヨハネ8:34、ローマ6:23)。本来なら私たちが神にさばかれて滅ぼされるべきところ、私たちの罪をイエスが一身に引き受けて十字架につけられ、私たちに代わって神にさばかれて死んで下さいました。そうすることによって、ただ十字架を信じるだけで罪赦され、罪の奴隷から解放される救いの道を開いて下さったのです。
ろばは強情で調教が難しい反面、小さな身体にいっぱいの荷物を背負って運ぶ忍耐強い面もあります。スピードは遅くても、持久力はあります。イエスは、長所もあれば短所もある子ろばのような私たちに目を留め、「主がお入り用なのです」と言って下さるとは、何たる光栄でしょう。私を愛していのちまで捨てて下さったイエスをお乗せし、人々に証詞する「ちいろば」にならせていただきましょう。

ルカによる福音書18:1~8「失望せずに常に祈れ」

2016年3月13日、ルカによる福音書18:1~8「失望せずに常に祈れ」
トラブルで悩むやもめは執拗に裁判官に訴えますが、「不義な裁判官」はまるで相手にしません。世の終わりの近い今、理不尽なことが少なくない現実に直面したり(マタイ24:3~14)、祈り続けても答えられなかったりすると、「祈っても祈らなくても同じだ。なるようにしかならない」と思いがちです。そして祈れなくなり、祈らなくなると、世の濁流に押し流されてしまいます。「悪魔はいつも二つのレンズを持っているのです。一つは凸レンズ、もう一つは凹レンズです。凸レンズをあてるとものが大きく見えます。反対に凹レンズをあてるとものが小さく見えます。悪魔は神さまのほうに凹レンズをあて、神さまを小さく見せます。そして現実の苦しみに凸レンズをあて、それを実際よりも大きく見せます。そしてささやくのです。『お前が信じている神は小さいぞ。今直面している困難はこんなに大きいぞ』と言い、わたしたちの勇気も信仰も砕いてしまいます」(蓮見和男師)。「神を恐れず、人を人とも思わぬ」世界で、世との戦いに勝利し、再臨の主の前に恐れなく立つためにも、「失望せずに常に祈る」ことは不可欠です。神に「日夜叫び求める」祈りなしにはやっていけません。
不義な裁判官ですら、やもめの執拗な願いを遂に聞き入れました。ましてや義なる神が神の子たちの叫びを「長い間そのままにしておかれることがあろうか」、否、絶対聞き入れて下さいます。「求めよ(求め続けよ)、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ7:7)、「ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい」(ヤコブ1:6)。ですから神に信頼して「失望せずに常に祈る」ことです。「もう少しの祈り、もう少しの信仰、もう少しの忍耐、そうすれば答えは必ず来る」(ジョージ・ミュラー)。

へブル人への手紙2:14~18「死と罪と試練からの解放」

2016年3月6日、へブル人への手紙2:14~18「死と罪と試練からの解放」
①死からの解放(14~15節)
御子イエスが人の子として降誕されたのは、「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つため」でした。「死」は人類に最初からあったものではなく、アダムの堕罪の結果もたらされた神の刑罰です(創世記3:19、ローマ5:12)。「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まって」(ヘブル9:27)おり、「罪の支払う報酬は死」(ローマ6:23)、永遠の滅びです。神のかたちに造られた人間はこのことを本能的に知っているからこそ死を恐れるのです。
②罪からの解放(16~17節)
御子が「あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった」のは、「あわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうため」でした。御子は十字架と復活によって、一度にして完全な贖いを成し遂げて下さいました。十字架信仰によって、死の根本原因である罪を赦された者にとっては、死はもはや呪われたものでも人生最大の敵でもなく、天国に続く希望のトンネルとなったのです。
③試練からの解放(18節)
罪を他にして「あらゆる点において兄弟たちと同じようになら」れた御子は、様々な「試錬を受けて苦しまれ」ました。「主の受けぬ試みも 主の知らぬ悲しみも うつし世にあらじかし いずこにも御跡見ゆ」(讃美歌532番)。私たちが味わう試練や悲しみは、すべて御子が体験済みであり、試練や悲しみのあそこにもここにも御子が通られた跡を発見するのです。そんな御子だからこそ「試練の中にある者たちを助けることができる」のです。何があっても大丈夫、何とかなります。

ヨハネの第二の手紙 7~13「真理と愛に留まる」

2016年2月28日、ヨハネの第二の手紙 7~13「真理と愛に留まる」
①よく注意せよ(7~8節)
当時、「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しない」異端(グノーシス主義)が「多く世にはいってき」ていました。イエスの警告が現実問題となっていたので(マルコ13:22~23)、ヨハネは本書を記す必要に迫られたのです。以来、統一協会やエホバの証人、モルモン教他、様々な異端が次々と現れ、人々を真理から遠ざけています。「羊はその声を知っているので、彼について行く…ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」(ヨハネ10:2~5)。本物と偽者とを判別できる羊であるためにも、毎週の礼拝や祈祷会、毎日の静思の時を大切にし、主の御声を聞き続けましょう。
②行き過ぎるな(9節)
神の救いのご計画を十字架と復活によって実現された御子イエスを否定して「キリストの教をとおり過ごして(新改訳「行き過ぎをして」)」いる異端は、「神を持っていない」し、「救はない」(使徒4:12)のです。異端は「聖書に従って教えるのではなく、自分たちに聖書を従わせようとします。聖書は従わせるものではなく、私たちが従うべき信仰と生活の唯一の基準」です(リジョイス)。あなたの御言葉に対する姿勢はいかがですか。日々、御言葉に聞き従っているでしょうか(ヤコブ1:22)。
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③仲間になるな(10~11節)
異端を「家に入れることも、あいさつすることもしてはいけない」とは厳しい命令ですが、異端を寛容に受け入れると、やがて「その悪い行いにあずかることになる」危険が大だからです。しかし異端の人々のためにもイエスは死なれたゆえ、彼らのためにも祈りましょう。

ヨハネの第二の手紙 4~6「真理と愛に生きる」

2016年2月21日、ヨハネの第二の手紙 4~6「真理と愛に生きる」
①真理に生きる(4節)
イエスこそ「道…真理…命」そのものであり、それを記す「御言は真理」ですから(ヨハネ14:6、17:17)、「戒めどおりに、真理のうちを歩いている」とは、御言葉に従って歩んでいると換言できましょう。神から遠く離れて自分勝手に歩む人間は、自由を謳歌しているようでいて、その実は「罪の奴隷」であり、結末は永遠の滅びです(ローマ6:23)。イエスと二人三脚の歩みをするときにこそ、真の自由を味わい得るのです(マタイ11:29、ヨハネ8:32、Ⅱコリント13:8)。真理に目が開かれ、罪の悔い改めと十字架信仰によって救われた者が、「信仰は本人の自由」などと物わかりのよさそうなことを言って、愛する家族・友人等の永遠について無関心であるのは、あまりにも無責任ではないでしょうか。
②愛に生きる(5~6節)
イエスは「互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と言われました。十字架上で命を捨てるほど私たちを愛して下さったイエスの愛が、互いに愛し合うことの根源・原動力です。「わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」(Ⅰヨハネ3:18)と言われても、そうできない者です。そのことを素直に認めて十字架を仰ぐとき、「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:19~20)との御言葉が成就し、「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれて」(ローマ5:5)、互いに愛し合うことができるように変えられていくのです。

ヨハネの第二の手紙1~3「真理と愛」

2016年2月14日、ヨハネの第二の手紙 1~3「真理と愛」
イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と言われました。イエスこそ天のすまいへと導き入れる救いの「道であり、真理であり」、信じる者に永遠の「命」を与えるお方です。イエスこそ「真理」そのものであり、神の「御言は真理であります」(ヨハネ17:17)。このことがどんなに時代が変わっても永遠不変の真理であることを私たちに教えるのが「真理の御霊」(ヨハネ16:13)です。「真理の御霊…はわたし(キリスト)についてあかし」し、「あらゆる真理に導いてくれ」ますが、その中でも特に重要なのが救いの真理です(ヨハネ16:8~11)。御霊は、これまで犯してきた数限りない「罪」を示しますが、その中でも最大の罪は、「罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである」とあるように、神に造られ愛されていながら、神を無視して自分勝手に生きていることであり、その罪を赦すために遣わされたイエスを信じないことです。御霊は、これこそ最大の罪であり、不幸の根源であることに目を開きます。と同時に御霊は、イエスこそ「義」そのものであり、イエスの十字架と復活を信じることによって「義」とされることについても目を開きます。さらに御霊は、十字架と復活によって「この世の君(サタン)」に「さばき」がすでに下されていること、人は皆、世の終りに神の「さばき」を受けること、罪が未解決であれば永遠の滅びであることについても目を開きます。そして神の前に罪を悔い改め、イエスを信じる信仰へと導いて下さいます。「戒めどおりに、真理のうちを歩いている者がある」一方で、そうでない人もいたため、ヨハネはこの第二の手紙を書いたのです。

申命記4:1~8「近くおる神を持つ幸い」

2016年2月7日、申命記4:1~8「近くおる神を持つ幸い」
①神が近くおられるゆえの幸い(7節)
「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)後、放置することなく、今も「その力ある言葉をもって万物を保っておられ」(ヘブル1:3)ます。私たち被造物とはかけ離れたお方ですが、遠くで腕組みして黙って見ているだけの神ではありません。「われわれの神、主は、われわれが呼び求める時、つねにわれわれに近くおられ」ます。「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめる」(詩篇50:15)、「彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く」(イザヤ65:24)とあるように、神は、罪を悔い改めてイエスの十字架を信じる者と共にいて、祈りに答えて助けて下さるお方です。このような神を持つゆえに幸いなのです。
②神の御言葉があるゆえの幸い(8節)
「正しい定めと、おきて」の中心が十戒です。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」から、「あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない(しないだろう、否、しないはずだ)…」と続きます(5:6~21)。神は人に幸いをもたらそうとして十戒他を定められたのであって、決してさばきのためではありませんでした。神の御言葉は、どんなに時代が変わり、どんなに社会が進歩しても、変える必要もなければ、修正する必要もない、永遠不変の絶対的真理です。神に造られた人間にとって、人生を正しく有意義に歩むために不可欠な羅針盤であり、地図です。この御言葉に従って歩むならば、間違いなく祝福に満ちた人生を送ることができます。このような御言葉を持つゆえに幸いなのです。

歴代志下16:1~10「主の目、主の力」

2016年1月31日、歴代志下16:1~10「主の目、主の力」
北王国イスラエルが南王国「ユダに攻め上り…ラマを築いた」ので、南王国の王アサは、スリヤの王に金銀を贈り、北王国との関係を破棄して南王国と同盟を結び、北王国を撤退させてほしいと頼み込み、スリヤがそのとおり行うと、北王国は撤退せざるを得ませんでした。
歴史家や政治評論家はアサ王の外交手腕を高く評価するかもしれませんが、主の評価は全く異なるものでした。先見者ハナニはアサ王に「あなたがスリヤの王に寄り頼んで、あなたの神、主に寄り頼まなかったので、スリヤ王の軍勢はあなたの手からのがれてしまった」と語った後、過去の勝利を思い起こさせました。「エチオピヤびとと、リビアびと」との戦いでは、何をするよりもまず主に祈り、「主に寄り頼んだので、主は彼らをあなたの手に渡された」ではないか、と(14:9~15)。その上で、「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる」と語りました。
「主の目はあまねく全地を行きめぐり」、すべてを見て聞いて知っておられるのみか、必要なら被造物を総動員してでも「力をあらわされる」お方です。この主の力を体験するためには条件があります。「自分に向かって心を全うする者のために」とあるように、主に従うことです。従おうとしない人には、いかに全能の主であってもその力を現すことはできないのです。イエスも不信仰に凝り固まっている人には力を現されませんでした(マタイ13:58)。主の力が思うように現されないともどかしく思いますが、それ以上にもどかしく思っているのは主ご自身です。私たちの心が主と一つになっていないばかりに、千載一遇のチャンスを逃していることが何と多いことでしょうか。

マタイによる福音書13:1~23「耳のある者は聞くがよい」

2016年1月24日、マタイによる福音書13:1~23「耳のある者は聞くがよい」
①種は神の言葉
イエスが神の言葉を種に譬えられたように、両者には共通点があります。⑴いのちがある…御言葉は罪を示し、イエスの十字架は罪を赦すためであったことを悟らせ、信じる者を「新たに生れ」させるいのちがあります(Ⅰペテロ1:23)。⑵力がある…御言葉には信じる者を造り変え、試練や誘惑に打ち勝たせる力があります(ヘブル4:12)。⑶実を結ぶ…御言葉が心の内に宿ると、やがて悔い改めの実(マタイ3:8)、品性の実(ガラテヤ5:22~23)、救霊の実(ヨハネ15:16)を結ぶようになります。
②土地は聞く人の心
どの土地にも「種は…落ちた」とあり、種もその蒔き方も皆同じで、ただ落ちた土地(=御言を聞く人の心)が違うために結果が異なりました。⑴道ばた(4、19節)…人や家畜の行き来で踏み固められた畑の小道のことで、かたくなな心を表しています。せっかく御言葉を聞いても、心を閉ざしてはねつけるので、「悪い者(悪魔)」に奪い取られてしまいます(ヘブル4:7)。⑵土の薄い石地(5~6、20~21節)…岩の上に土が薄くかぶさっている地では深く根を張れないので、暑い日にはすぐ枯れてしまう、感情的・衝動的な心を表しています。御言葉を聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、「困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしま」います。⑶いばらの地(7、22節)…地中にいばらの根が残っていて、やがていばらに覆い尽くされる地のことで、世的な心を表しています。神を第二第三にしていると、心はいつの間にか世に占領されてしまいます。⑷良い地(8、23節)…絶えず砕かれ、教えられやすく従いやすい柔らかな心は豊かに結実します(エレミヤ4:3、詩篇51:17)。

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