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ルカによる福音書22:39~46「御心がなるように」

3月29日、ルカによる福音書22:39~46「御心がなるように」
①苦悶の祈り
「杯」は神の怒りの象徴で、十字架上で神の怒りを受けて死ぬことを意味しています。ユダヤでは立って祈るのが普通でしたが、このときのイエスはあまりの苦悶のゆえに、まるで崩れ落ちるように「ひざまずいて」祈られました。それは、十字架上の死は単なる死ではなく、全人類の罪に対する神のさばきとしての死であったからです(Ⅱコリント5:21)。このイエスの苦悶は、この私の罪のための苦悶でした。
②服従の祈り
もし十字架以外に罪を贖う方法があるなら「この杯をわたしから取りのけてください」というのがイエスの本心でした。「しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」と何よりも神の御心が実現することを願われました。油搾りという意味の「ゲツセマネ」、それは十字架を前にしたイエスが血の汗を流しながら祈る場所にふさわしい名前です。イエスはちょうどオリブの実のように、神の御心という上石と、人類に対する愛という石うすとの間で砕かれ、すりつぶされ、十字架刑を受け入れられたのです。「御心とは、人間を祝福しようとする神の愛のご計画である」。御心に従って歩むとき、私たちは最も深い満足と喜びを見出すことができるのです。
③勝利の祈り
イエスは祈りの中で御心に服従する決意をして勝利されたので、「祈を終えて立ちあがり」、十字架上で神の怒りの杯を最後の一滴まで飲み干し、十字架を信じるだけで救われるという救いを完成されました。十字架の勝利も、ゲツセマネの祈りの勝利があればこそでした。

マタイによる福音書5:40~42「二マイル精神」

3月22日、マタイによる福音書5:40~42「二マイル精神」
昼はオーバー、夜は毛布として活躍する「上着」は、どんなに借金があろうとも奪われてはならないものでしたが、「下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい」とイエスはお命じになりました。ローマ軍は荷物運搬等のため人々を徴用することがあり(ルカ23:26)、ぎりぎりの毎日を送る人々には大きな負担でしたが、「あなたをしいて一マイル(約1500m)行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい」とお命じになりました。真に困窮して「求める者には与え、借りようとする者を断るな」とお命じになりました(Ⅰヨハネ3:17)。下着を取ろうとする者に下着を出すのは、ただの敗北ですが、下着に加えて上着までも与えるなら、それは悪に対する全き愛の勝利です。
人は少しでも得しようと考えて私利私欲に走りますが、神は与えて与えて与え尽くすお方、「悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」(45節)、実に気前のよいお方です。全人類を罪と滅びから救うために御子イエスを惜しみなく遣わし、十字架の死にまでお渡し下さいました(ローマ8:32)。まさに「もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい」の実践です。
「他人のために何かをするとき、ぶつぶつつぶやかないで感謝の気持ちをもって仕えるという姿勢をもつと、心が自然にへりくだり、そのへりくだった心を神様はとても喜ばれます。そしてその人の心に、豊かな喜びと恵みを与えてくださるのです」(渡辺明日香)。今日から「二マイル精神」を合言葉として、教会内はもちろん、学校や職場、家庭や近隣でも、この二マイル精神を実践していきたいものです。

マタイによる福音書5:38~39「善をもって悪に勝て」

3月15日、マタイによる福音書5:38~39「善をもって悪に勝て」
「目には目を…」とは、復讐を奨励した律法ではなく、復讐を制限した律法です(出エジプト記21:24、同害報復法)。人間の心は執念深く、侮辱や損害を加えた相手にとことん仕返ししなければ収まらないので、目には目まで、歯には歯まで、という制限が必要でした。それを律法学者たちは、復讐を実行する権利として用いました。それに対してイエスは「だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」とお命じになりました。侮辱されると激しい憤りを覚え、復讐して当然と考える私たちは、この命令に抵抗を覚えます。
山上の説教は、自分の醜い真相に直面させ、どうしようもない自分に絶望させる説教です。と同時に、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ローマ7:24)と叫んで十字架を仰がせ、その罪深さを潔めて御霊に満たし、「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」(ローマ7:25)という賛美へと導く説教です。復讐せずにはいられない醜い自分であることを素直に認めて十字架を仰ぐならば、「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれ」(ローマ5:5)、たとい相手がどうであろうとも、まず私自身が最善を尽くして愛することができるように変えられていきます。「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」(Ⅰペテロ2:23)イエスに倣い、「自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せ(直訳「神の怒りに場所を与える」)」るならば(ローマ12:19)、神ご自身が最善の時に最善の方法をもって勝利を取って下さいます。「最もよい復讐の方法は、自分まで同じような行為をしないことだ」(マルクス・アウレリウス)。

マタイによる福音書5:33~37「真実な言葉と行いを」

3月8日、マタイによる福音書5:33~37「真実な言葉と行いを」
「いつわり誓うな…」(レビ記19:12、民数記30:2、申命記23:21~23)とは、守らないような誓いはするな、誓った以上は必ず果たせ、ということですが、律法学者たちは、神をさして誓った誓いは必ず果たさねばならないが、「天」や「地」、「エルサレム」や「自分の頭」等をさして誓った誓いは守らなくても問題ない、という屁理屈を考え出しました。
それに対してイエスは、「天…は神の御座であるから…地…は神の足台であるから…エルサレム…は『大王の都』であるから」、「自分の頭」も神のものであるから神をさして誓っているのと同じだ、と反論され、「いっさい誓ってはならない」とさえ言われました。私たちが語る言葉はすべて神が聞いておられ、行為はすべて神が見ておられるのだから、神の前にも人の前にも常に真実、誠実であれ、口先だけの無責任な誓いや約束をしてはならない、というのが真意です。
あなたは約束したことを簡単に忘れたり、先延ばしにしたり、反故にしたりしてはいませんか。「祈っています」が単なる挨拶になっていませんか。「アーメン(まことに、確かに、そうであるように、の意)」とは、「私がささげた祈りは真心からの祈りです」という告白、誓約です。祈りの中で神に「今後は~します」「もう~しません」と決意したり誓ったりしたことを、神の助けをいただきながら実行していますか。
神の御言葉はことごとく真実で、約束されたとおり御子イエスをお遣わしになり、十字架と復活によって救いを完成して下さいました。耐震偽装や食品偽装等、様々な偽装が横行する現代だからこそ、真実な神とその御言葉を信じる私たちが真実に語り、真実に行動することによって真の神を証詞するよう神は期待しておられるのです。

マタイによる福音書5:31~32「離婚を考える前に」

3月1日、マタイによる福音書5:31~32「離婚を考える前に」
「妻を出す者は離縁状を渡せ」(申命記24:1)とは、弱い立場にある女性を守るため、男性の気まぐれ離婚を防ぐための律法でしたが、律法学者たちは、離縁状を渡しさえすれば、どんな場合でも離婚できると都合よく解釈していました。それに対してイエスは「不品行以外の理由で…」と離婚条件は不品行のみであると明言されました。しかも不品行の理由があれば必ず離婚せよ、と命じておられるのではなく、不品行が原因の場合に限って離婚を許容しておられるに過ぎません。
神は「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい(向かい合って対をなす、の意)助け手を造ろう」(創世記2:18)と言われ、アダムの妻としてエバを与えられました。互いに交わりを持つ三位一体の神のかたちに造られた人間には、共に向かい合って交わるための「助け手」が必要なのです。男女は、その働きと体力において、それぞれの特性と役割を担いながら、互いに補い合い助け合う存在なのです。「人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となる(膠[ニカワ]で接着する、の意)べきである…だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マタイ19:5、マラキ2:16)。一度神が結び合わされた結婚を、人間が勝手に引き裂く離婚は、神の創造の秩序に反する不自然なものであり、夫婦にも子どもにも大きな痛みや傷を残します。
それゆえ結婚に際しては、自分の思いを押し通すのではなく、神の御心に従って決断したいものです。神の御心にかなった結婚生活は、家庭をエデンの園のように麗しい場所とします。現代社会の混乱の最大原因は、家庭の混乱にあると言っても過言ではありません。今こそ神を中心とした幸いな家庭をまず私たち自身が築きましょう。

マタイによる福音書5:27~30「心の姦淫」

2月22日、マタイによる福音書5:27~30「心の姦淫」
「姦淫」は、男女が神によって「結び合い、一体となる」(創世記2:24)結婚を破壊する行為で、石打ち死刑に当たる大罪でした(レビ記20:10~)。律法学者たちは、「姦淫するな」(出エジプト記20:14)との律法を実際の姦淫行為のみに限定していましたが、イエスは「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」と言われました。姦淫の罪は心の中で情欲をもて遊ぶことから始まるからです。
性欲は、食欲同様神に与えられたもので、それ自体罪でも何でもなく、神の恵みです(創世記1:28、2:25、箴言5:19)。しかしアダム堕罪後の人間は、それらを正しく管理できなくなり、本来神の恵みである性欲が歪められ、「情欲」に変質する危険に陥るようになりました。情欲は、神のかたちに造られ、イエスが十字架上でいのちを捨てるほど愛しておられる存在を、自分の欲望を満たすためだけの肉体・道具としてしか見ないことであり、言わば人間の値引き・ディスカウントです。実際の姦淫の罪でも心の姦淫の罪でも、清さが失われ、神との交わりが疎遠となり、神の前に平安と喜びをもって歩めなくなります。また祈りが聞かれるという確信もなくなります(イザヤ書59:1~2)。
それゆえイエスは「右の目…を抜き出して捨てなさい…右の手…を切って捨てなさい」と罪に誘うものは断固取り除くようお命じになりました。「誘惑は、最初は訪問者として現われ、それを許すと次には客となり、遂には主人となってしまう」。誘惑を最初の段階で退けないと、いつのまにか追い出せなくなり、罪の虜、悪習慣の虜となりかねません。神の前に今すぐ立てない何かがあるなら、永遠に後悔することのないよう、断固決断・実行すべきです(ガラテヤ2:19~20)。

マタイによる福音書5:23~26「和解は今すぐに」

2月8日、マタイによる福音書5:23~26「和解は今すぐに」
怒りや憎悪、敵意や悪口等も殺人と本質的に同じで、間違いなく神のさばきの対象ですから、「まず…兄弟と和解し…早く仲直りをしなさい」とイエスは言われました。「その供え物を祭壇の前に残しておき、まず…」とは、和解の重要性・緊急性を強調する誇張法です。
対人関係の問題は、神の前に悔い改めて赦されたらそれで十分なのではなく、その人との間で「和解し…仲直りをし」ということが不可欠です。和解しないままでいると、永久にそのチャンスを失ってしまうことにもなりかねません。お互い明日も明後日も必ず生きている保証はどこにもないからです。「審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう」(12:36)、「すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない」(Ⅰヨハネ3:15)と言われる神の前に今すぐ恐れなく立つことができるでしょうか。夫婦の関係、親子の関係、嫁姑の関係、職場の人間関係、教会の人間関係は良好ですか。
神の御子イエスは、私たちに代わって十字架上で「最後の一コドラント」まで償って下さいました。心の殺人罪をはじめとする諸々の罪を悔い改め、十字架はこの私の罪のためであったと信じ受け入れるとき、一切の罪は赦され、神と和解して神の子とされます。「和解の福音」によって救われた者が(Ⅱコリント5:18~19)、憎んだり罵り合ったりするのを神は悲しまれます。「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ」と言われるイエスは、今のままの関係で良いはずがない、あなたはもっとすばらしい生き方ができるはずだ、と語りかけておられます。まず自分自身から実践しましょう。

マタイによる福音書5:21~22「心の殺人」

2月1日、マタイによる福音書5:21~22「心の殺人」
「神が自分のかたちに人を造られたゆえ」(創世記9:6)、人のいのちは世界で最も価値があるので、神は「殺すな」とお命じになったのです(出エジプト記20:13)。しかし律法学者たちは、「殺す者は裁判を受けねばならない」という規定を付加することにより、この律法を実際の殺人行為だけの問題、人間の裁判だけの問題に限定してしまいました。
しかしイエスは、「裁判を受けねばならない」のは実際に人を殺した者だけでなく、「兄弟に対して怒る者(新改訳「腹を立てる者」)…兄弟にむかって愚か者(新改訳「能なし」)と言う者…ばか者と言う者」もだ、と言われました。怒りも、心の中で抱く憎悪や敵意、悪口、軽蔑、罵り等も殺人と本質的に同じで、神のさばきの対象なのです。ヨハネも「すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない」と記します(Ⅰヨハネ3:15)。あなたはこれまで何人の人を心の中で、また言葉で殺してきたでしょうか。
神のかたちに造られた人を殺す者には必ず報復があるのであれば、神のかたちそのもの、神ご自身である御子イエスの血を流した者は一体どうされるのでしょうか。永遠の滅びです。私たちは心の中で多くの人を殺し、神に背いてきました。間違いなく極刑に処せられて当然の罪人です。そんな罪人を赦すため、イエスは十字架上で血を流し、身代わりの死を遂げて下さったのです。それは私のためだけでなく、憎らしく思っているあの人、軽蔑しているこの人のためでもありました。この私を罪と滅びから救い出して下さった十字架の愛を真に知り、十字架によって醜い自我が砕かれて御霊に満たされ、その人をも愛し敬うことができる者に変えていただきましょう。

マタイによる福音書5:17~20「もっとまさる義」

1月25日、マタイによる福音書5:17~20「もっとまさる義」
律法を守り行うことによって義と認められようとした律法学者やパリサイ人には、イエスが安息日に病人を癒したり、取税人や遊女、罪人と食事を共にしたりするのは(12:9~21、9:9~13)、「律法を廃する」行為に見えました。しかし実際に律法を廃棄していたのは彼らの方で、表面的には熱心に律法を守っていましたが、その心は律法の精神や神の愛から遠く離れ、独りよがりの形式主義に陥っていたのです。
生来の罪人である人間には、律法を完全に守り行うことなど絶対不可能です。だからこそ御子イエスが人の子として降誕されなければならなかったのです。しかしイエスは罪だけは犯さず、常に神の御言葉に従うことにより、全人類に代わって律法を全うされました。神の怒りとさばきを受けて永遠の滅びを刈り取る他ない私たちの罪を、イエスはまるでご自分が犯したかのように引き受けて十字架につけられ、神のさばきを一身に受けて死に、しかし三日目に復活することにより、旧約聖書に預言されていた救いを成就されたのです。
律法を守れない罪人であることを素直に認め、イエスの十字架はこの私の罪のためであったと信じ受け入れるなら、律法を完全に守り通されたイエスの義を着せられ、一度も罪を犯したことのない者と認められます。そうすると「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない」(Ⅰヨハネ5:3)、「~しなければならない」という律法的な生き方から解放され、私のためにいのちまで捨てて下さったイエスの愛に応えて、喜んで御言葉に従う者へと変えられていきます。これこそ「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさってい」るということです。

詩篇46:1~11「神はわれらの避け所」

1月18日、詩篇46:1~11「神はわれらの避け所」
詩人は「地は変り、山は海の真中に移る…その水は鳴りとどろき、あわだつ…そのさわぎによって山は震え動く」ような激しい試練を体験しました(ヒゼキヤ王治世中、南王国はアッスリヤ軍に包囲されて滅亡寸前でしたが、神によってアッスリヤ軍が一夜のうちに滅ぼされた一件か。列王紀下 第18~19章)。その中で詩人が確信したことは、「神はわれらの避け所また力…悩める時のいと近き助け…神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる…万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所」ということでした。
イエスの十字架を信じて罪赦されると、この神が共に歩み、人生の味方となって下さるという幸いな人生が始まります。もちろん神が共におられても、ときに試練や困難に直面することがあります。しかしそのような中でも神は、手を伸ばせばすぐに届くほどの「いと近き助け(=新改訳「そこにある助け」)」です。そして「神がその中におられるので、都はゆるがない」、私たちの教会、家庭、人生の真ん中に神の臨在があるという事実を信じ抜くとき(ローマ3:4)、「われらは恐れない」、恐れる必要などないのです。「我らの戦闘力は第一に我らの無能、第二に主の大能である」(笹尾鉄三郎師)。人間の手に負えないことはあっても、神の手に負えないことなど一つもありません。いかなるときにも「静まって(=新共同訳「力を捨てよ」)」、人間的な知恵や小細工を捨てて自らの無能に徹し、「わたしこそ神である」と言われる大能の神に重心を置きましょう。そうするなら、「主は驚くべきことを地に行われた。主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる」という勝利が与えられることでしょう。

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