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ルカによる福音書1:5~24「あなたの願いが聞かれたのです」

2021年1月3日、ルカによる福音書1:5~24「あなたの願いが聞かれたのです」
祭司ザカリヤと妻エリサベツは「神のみまえに正しい人で」したが、「子がなく…すでに年老いてい」ました。そんなある日、ザカリヤが神殿の聖所で香をたいていると御使が現れ、「あなたの祈が聞きいれられたのだ」と言われました。その言葉通り、「そののち、妻エリサベツはみごもり…月が満ちて、男の子を産んだ」のです。この子こそバプテスマのヨハネで、イエスの前に現れて道備えをする人物です。
ザカリヤ夫妻は「子どもを与えてください」と祈り続けていたでしょうが、ある年齢を境に諦め、そう祈るのを止めてしまっていたと思われます。しかし神は彼らの祈りを覚えておられました。神が祈りにお答えになるのは、神の「時」が満ちたときです。それは私たちが期待する「時」とは違うかもしれませんが、すべてを見通しておられる神にとっては、その「時」こそ最高最善のタイミングなのです。ザカリヤ夫妻の場合も、イエスのご降誕に合わせて、神は夫妻に子どもを与える「ちょうど良い時」を待っておられたのです。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11)、「神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます」(Ⅰペテロ5:6、新改訳2017)。すべての背後には神がおられ、最善の時に最善の方法で実現するよう、万物を総動員して絶えず働いておられるのです。
常識を超えて信仰を働かせ、神の御言葉を信じるのが信仰です。信仰は「超」常識です。御言葉は「時が来れば成就する」ことを信じて祈り続けましょう(イザヤ書55:11)。「恐れるな、○○よ、わたしはあなたの祈りを確かに聞いている」と神は私たちにも語っておられます。

ピリピ人への手紙2:6~8「クリスマスの心」

2020年12月20日、ピリピ人への手紙2:6~8「クリスマスの心」
最初の人アダムは「神のように善悪を知る者」になりたいと考えて不従順の罪に陥りましたが(創世記3:5~6)、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを」惜しみなく捨て、「おのれをむなしうして」私たちと同じ人となられました。人から礼拝され仕えられるべきキリストですが、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり」と言われたとおり(マルコ10:45)、人に仕える「僕のかたちをと」られました(ヨハネ13:1~5)。キリストは、罪の性質を除いては完全に「人間の姿になられ」、人間が味わうべき疲労や空腹、試練や苦悩を体験されました(ヨハネ4:6~7他)。このように「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができる」のです(ヘブル2:17~18)。以上より、「その有様は人と異ならず」、約束の救い主とはとても思えない存在でしたが、「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられ」ました。キリストは全人類の罪の身代わりとして十字架上で死なれましたが、神はキリストを復活させ、キリストを信じるだけですべての罪が赦される救いを完成されたのです。
人は皆、神から遠く離れて人生の意義も目的も見失い、滅びるべき存在ですが、キリストの十字架によって、本来私たちに降りかかるべき刑罰が、もはや信じる者には及ばなくなりました。私たちにとってはこの上なく「喜ばしい交換」(ルター)ですが、キリストはこの交換のために莫大な犠牲を払われました。それはひとえに私たちを愛するがゆえの降誕であり、想像を絶するへりくだりだったのです。

ヨハネによる福音書14:1~7「準備ができたら、迎えに来ます」

2020年12月13日、ヨハネによる福音書14:1~7「準備ができたら、迎えに来ます」
イエスが世を去る日が近いこと等を聞いて「心を騒がせ」ていた弟子たちに、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい…わたしは道であり、真理であり、命である」とイエスは言われました。人は皆、神に造られ生かされているにもかかわらず、「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)。この的外れの罪のために神との交わりが断絶されています。イエスはこの断絶を解消するために来臨されたのです。私たちの罪を赦して神との交わりを回復し、天のすまいに迎え入れるために、イエスは人々に踏みつけられることを覚悟の上で来臨され(ヘブル語の「道」という語は、「踏みつける」という意味の動詞の派生語)、十字架の苦しみを味わい尽くされました。あの十字架のイエスは、私たちの罪のために踏みつけられた姿そのものです。イエスこそ、信じる者を天のすまいへと導き入れる救いの「道であり、真理であり」、永遠の「命」を与えるお方で、「この人による以外に救はない」(使徒行伝4:12)のです。私たちの魂の港とも言うべき天のすまいを持っている人は、究極の希望・永遠の祝福を持っているので、大きな試練や困難が襲いかかってきても、「心を騒がせない」で耐え忍ぶことができるのです。
約2000年前、十字架と復活による救いを成し遂げるために初臨されたキリストは、「またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう」との約束どおり、いつか必ず再臨され、救いを完成されます(黙示録21:1~4)。私たちが帰るべき最も安心できる場所は「父のみもと」です。そこに迎え入れられる「最高の日」を目指して歩み続けたいものです。

ヨハネによる福音書1:14~18「クリスマスの冒険」

2020年12月6日、ヨハネによる福音書1:14~18「クリスマスの冒険」
「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った(天幕・幕屋を張って住む、の意)」とは、約2000年前、神の御子キリストが人の子として罪と汚れに満ちた地上に来臨された受肉降誕を指しています。出エジプト後、約束の地を目指して荒野を旅するイスラエルにとって、天幕は移動式の住居、幕屋は移動式の礼拝堂でした。「雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ち」(出エジプト記40:34)、神が幕屋に宿り、神が民と共におられる臨在が実現したのです。そして時満ちてキリストは、人々が見たり聞いたり触ったりできる肉体をとってこの地上に宿り、歩まれました(Ⅰヨハネ1:1)。神でありながら人となられ、「わたしたちと同じように試錬に会われた」からこそ、キリストは「わたしたちの弱さを思いやることのでき」るお方なのです(ヘブル4:15)。
しかしなぜキリストは受肉降誕されたのでしょうか。それは、人に「神をあらわ」すためであり、罪による滅びから救い出すためでした。父なる神の「ふところに」おられたキリストだからこそ、目に見えない神がどのようなお方であるか「あらわ」すことができるのです。キリストは、その生涯と人格、言葉とわざを通して神を「あらわし」(ヨハネ14:9、ヘブル1:1)、遂には十字架と復活によって救いのご計画を完成されました。神が人となるだけでも冒険ですが、死ぬために来臨するとは大冒険も大冒険。このキリストを信じるなら、キリストがその人の内に宿り、試練や苦悩の尽きない冒険人生を共に歩む同行者・道案内になってくださいます。それゆえどんなことがあっても大丈夫、「これらすべての事において勝ち得て余りがある」のです(ローマ8:37)。

ホセア書11:8~9「どうして見捨てられようか」

2020年11月29日、ホセア書11:8~9「どうして見捨てられようか」
「イスラエルの幼い時」、すなわち神の選民として歩み始めた当初から、神はイスラエルを愛し、奴隷状態にあった「エジプトから呼び出し」、約束の地カナンに導き入れられました(1節)。ところがイスラエルは神の愛を忘れて「遠ざかり」、偶像礼拝に傾いていきました(2節)。それでも神は、父が「わが子」を愛するように振る舞ってこられましたが、イスラエルはますます自分勝手な道に突き進むので、さすがの神もアッスリヤを用いてさばこうとされました(5~7節)。しかしいざさばきを下そうとしたとき、神は愛する民をさばくには忍びなくなり、「どうして…捨てることができようか…渡すことができようか…」と繰返し叫ばれました。罪は罪として罰せずにはいられない神の義と、それでもなお愛さずにはいられない神の愛。相矛盾する二つの間に板挟みとなった神の自己分裂の末、「神であって、人ではなく…聖なる者だから」、遂に神の義よりも神の愛が勝利したのです。
「どうして」と叫ばれた神は、時満ちて御子イエスを降誕させ、イエスに全人類の罪を背負わせ、十字架上で「どうして…お見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばせることで神の義は満足させられ、その御子を信じる者を赦すということで神の愛も満足させられました。十字架はまさに「神の義と愛の会えるところ」(新聖歌230番)、神の「どうして」という自己分裂を解消する唯一の手段だったのです。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵み…あわれみ」のゆえです(哀歌3:22)。どんなに不従順な者であっても愛さずにはいられない神は、どこまでも捜し求め、抱き抱え、天国に招き入れようとされるのです。

ヨハネによる福音書3:16~21「神の愛の贈り物」

2019年12月22日、ヨハネによる福音書3:16~21「神の愛の贈り物」
①神の愛の事実…「神は…この世を愛して下さった」
最初に「神は」とあり、聖書の冒頭にも「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)とあるように、永遠の初めから存在される唯一真の神が天と地とその中に満ちるすべてのもの、もちろん私たち人間も創造されました。この神は、背く者や愛するに値しない者をも「高価で尊い」存在として愛さずにはいられない愛なる神です(イザヤ書43:4)。
②神の愛の程度…「そのひとり子を賜わったほどに」
神と共に永遠の初めからおられた「ひとり子(イエス・キリスト)」は、約2000年前、天の栄光をかなぐり捨てて罪と汚れに満ちた地上に人の子として降誕された上、その最期は十字架刑でした。神は、大切な「ひとり子」が地上でどんな目に遭うかを重々承知の上で、惜しみなく与え尽くすほどに「この世(私たち一人ひとり)を愛して下さった」のです。
③神の愛の目的…「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」
「ひとりも滅びないで」とは、裏を返せば、人は皆そのままでは滅びるべき存在だということです。創造主なる神に背いて生きてきた罪人だからです。罪は罪としてさばかずにはいられない義なる神は、罪人が永遠に滅びるのを看過できない愛なる神でもあります。そこで神は、御子に全人類の罪を負わせて十字架につけ、罪人をさばく代わりに御子をさばくことで、「永遠の命を得る」道を開かれました。この救いを得るのに必要なのは、罪の悔い改めと「御子を信じる」信仰のみです(使徒行伝20:21)。神の愛をこれ以上拒絶し、御心を悲しませてはなりません。神の愛の贈り物イエスを信じ受け入れましょう。

詩篇96:1~13「主は再び来られる」

2019年12月15日、詩篇96:1~13「主は再び来られる」
①主は創造主であるから賛美せよ
天地万物は偶然にできたのではなく、「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)。唯一真の神が造られ、私たち人間もこの神に造られ生かされています。「主はもろもろの天を造られた」「もろもろの神(偶像の神々)にまさって恐るべき者である」から、ほめたたえるのです。
②主は王であるから賛美せよ
天地万物を創造された主は、それらを統治する全宇宙の王でもあります。この王なる主を度外視する罪こそ不幸の最大原因で、この罪を解決するために神の御子イエスは降誕され、十字架と復活による救いを完成されたのです。このイエスを信じ受け入れるなら、世がいかに激しく揺れ動こうとも決して「動かされることはない」のです。
③主は再臨されるから賛美せよ
全人類を罪と滅びから救うために来臨されたイエスは、もう一度この世に「来られる」、今度は「地をさばくために来られ」ます。イエスの救いを拒んだ者は永遠の滅びを刈り取りますが、イエスを信じた者は天国に迎え入れられます(ローマ6:23)。神が私たちを愛するがゆえに御子イエスを惜しみなくプレゼントしてくださった日、それがクリスマスです。想像を絶する神の愛を拒み、神を悲しませることのないようイエスを信じましょう。さらに「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」(哀歌3:22)ことを感謝し、「新しい歌を主にむかってうた」うとともに、「日ごとにその救を宣べ伝えよ」うではありませんか。

マタイによる福音書2:1~12「喜びにあふれるクリスマス」

2019年12月8日、マタイによる福音書2:1~12「喜びにあふれるクリスマス」
①ヘロデ王の礼拝
東方の博士たちが、降誕された救い主を「ユダヤ人の王」と呼んだため、ヘロデ王は「不安を感じ」、「その幼な子のことを詳しく調べ…知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」と言うものの、実は憎きライバルの抹殺を企んでいました。権力や目に見えるものを人生の第一の価値として礼拝するヘロデは、世の多くの人々の姿でもあります。
②博士たちの礼拝
今までにない星が夜空に輝くのを見た「博士たち(新共同訳「占星術の学者たち」)」は、救い主誕生のしるしと確信し、千㎞以上もの長旅を経て、遂に救い主にお会いしました。博士たちは救い主を「ひれ伏して拝み」、非常に高価な「黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげ」ました。
人が真に幸いな人生を送ることができない最大原因は、創造主なる神を神としない的外れの罪にあります。御子イエスはこの罪を解決するために降誕され、十字架と復活によって救いを完成されました。「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」(イザヤ書41:10)。イエスを救い主と信じるなら、神は「あなたと共にい」て、「あなたを強くし…助け…ささえ」てくださいます。マイナスと思えるようなことでも、御子を十字架の死にまで渡された愛なる神は「共に働いて、万事を益となるようにして下さ」います(ローマ8:28)。イエスを信じて、「非常な喜びにあふれ」る人生に入れていただきましょう。

詩篇113:1~9「身を低くしてご覧になる主」

2019年12月1日、詩篇113:1~9「身を低くしてご覧になる主」
詩人は「主のしもべたち」に、「今より、とこしえに至るまで」永遠に、「日のいずるところから日の入るところまで」全世界で、「主をほめたたえよ」と呼びかけます。その理由が4節以下に記されています。主は「天よりも高い」ところに座しておられ、「くらぶべき者はだれ」もない超越したお方だからです。ソロモンは「神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです」と祈りました(列王紀上8:27)。そのような主が「遠く天と地とを見わたされる(新改訳「身を低くして天と地をご覧になる」)」。「天よりも高い」ところに座しておられる主は、徹底的に「身を低くして」被造物と関わってくださるお方だからです。主は、「ちり…あくた」の中で苦悩する「貧しい者…乏しい者」や「子を産まぬ女」を、腕組みして天から眺めるだけの傍観者ではなく、実際に親身になって関わってくださるお方です。
このことが文字通り成就したのがクリスマスの出来事です。私たち罪人を救うために、御子イエスはまさに「身を低くして」地上に人の子として降誕されました。人生のあらゆる苦悩を味わわれたイエスは、病に苦しむ者や罪に悩む者等に寄り添われました(ヘブル4:15)。姦淫の現場を押さえられ、恥ずかしさと死の恐怖に打ち震える女性に、イエスは「身をかがめて」寄り添い、罪の赦しを宣告されました(ヨハネ8:1~11)。イエスは今も、人生に悩み苦しむ者や罪に苦悶する者に寄り添い、共に生きようとしておられます。そして再び引き上げ、勝利を与え、喜びを回復したいと願っておられる救い主なのです。

ヨハネによる福音書1:9~13「光は闇の中に輝いている」

2018年12月16日、ヨハネによる福音書1:9~13「光は闇の中に輝いている」
偽りの光で満ちてはいますが、実は罪のため真っ暗闇である世に、キリストは「すべての人を照らすまことの光」として来臨されました。
「光」の働きの第一は、闇を照らし出すことです。「光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる」(エペソ5:13)。御言葉に真に耳を傾け、心の奥底に光を当てられるならば、自分の心の闇、罪深さが見えてくるはずです。人は皆、神に造られ、生かされているにもかかわらず、神を無視して自分勝手に歩んでいます。そのような状態を聖書は「罪」と呼び、そこから様々な悪い行い(不品行、盗み、殺人、姦淫等)や悪い考え(憎しみ、嫉妬、怒り、愚痴等)が出てくるのです(マルコ7:20~23)。
しかし光は罪を照らし出しておしまいではありません。闇は、箒で掃き出すことも、掃除機で吸い取ることもできませんが、たとい一本の蝋燭のような光であっても、光が来れば闇はたちまち追い出されてしまいます。そのように「光」の働きの第二は、闇を一掃することです。罪に汚れ果てた私たち人間の側から聖なる神に近づくすべは全くないので、神の側から私たちに近づいて来て下さいました。それがクリスマスの出来事です。私たち人間と同じ姿をとって降誕されたキリストは、全人類の罪の身代わりとして十字架につけられ、神にさばかれて死なれ、それにより救いを完成されました。キリストは実に死ぬために降誕されたのです。このキリストを「受けいれ…信じ」るなら、心の闇の根源は一掃されて「神の子」とされ、喜びと光にあふれる人生に変えられます。試練や困難に襲われても、キリストが重荷を負って下さるので、雄々しく乗り越えることができます。

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