2017年11月26日、ヨハネの第三の手紙 9~15「悪にならわないで、善にならいなさい」
「みんなのかしらになりたがっているデオテレペス」は、人々から敬愛されている使徒ヨハネの存在が目障りで、ヨハネたちを「受けいれ」ないで「口ぎたなく…ののしり」、さらには「受けいれようとする人たちを妨げて、教会から追い出してい」ました。一方、デメテリオは、「あらゆる人も…真理そのものも…わたし(ヨハネ)たちも」、この人なら間違いないと証しする、折り紙付きの信者でした。教会には、「善を行なう」良い模範だけでなく、「悪を行う」悪い模範もあります。
デオテレペスと正反対の歩みをしたのがバプテスマのヨハネでした(ヨハネ3:22~30)。イエスが公生涯にお立ち上がりになると、人々の人気はヨハネからイエスに移っていきましたが、ヨハネは少しも腐らず、「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言ってイエスに道を譲り、表舞台から静かに消えていきました。己の分・己の使命を正しく認識し、他人と比較したり競争したりする必要など全くないこと、自分に与えられた使命を果たすことこそ最上の喜びであることを知り、約束の救い主イエスがあがめられることだけを望んでいたからです。
「キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」私たちが「救われたのは、実に、恵みにより、信仰による」のです(エペソ2:11~13)。このことが真にわかっているなら、神の前にも人の前にも「かしらになりたが」ることなでできないはずです。特権や権利等を捨てて、神の僕として互いに仕え合うところ、それが教会です。「悪にならわないで、善にならい」、後に続く人たちのために良い模範・目標になってほしい、と神はあなたに期待しておられるのです。