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ヨハネによる福音書3:16~21「神の愛の贈り物」

2019年12月22日、ヨハネによる福音書3:16~21「神の愛の贈り物」
①神の愛の事実…「神は…この世を愛して下さった」
最初に「神は」とあり、聖書の冒頭にも「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)とあるように、永遠の初めから存在される唯一真の神が天と地とその中に満ちるすべてのもの、もちろん私たち人間も創造されました。この神は、背く者や愛するに値しない者をも「高価で尊い」存在として愛さずにはいられない愛なる神です(イザヤ書43:4)。
②神の愛の程度…「そのひとり子を賜わったほどに」
神と共に永遠の初めからおられた「ひとり子(イエス・キリスト)」は、約2000年前、天の栄光をかなぐり捨てて罪と汚れに満ちた地上に人の子として降誕された上、その最期は十字架刑でした。神は、大切な「ひとり子」が地上でどんな目に遭うかを重々承知の上で、惜しみなく与え尽くすほどに「この世(私たち一人ひとり)を愛して下さった」のです。
③神の愛の目的…「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」
「ひとりも滅びないで」とは、裏を返せば、人は皆そのままでは滅びるべき存在だということです。創造主なる神に背いて生きてきた罪人だからです。罪は罪としてさばかずにはいられない義なる神は、罪人が永遠に滅びるのを看過できない愛なる神でもあります。そこで神は、御子に全人類の罪を負わせて十字架につけ、罪人をさばく代わりに御子をさばくことで、「永遠の命を得る」道を開かれました。この救いを得るのに必要なのは、罪の悔い改めと「御子を信じる」信仰のみです(使徒行伝20:21)。神の愛をこれ以上拒絶し、御心を悲しませてはなりません。神の愛の贈り物イエスを信じ受け入れましょう。

詩篇96:1~13「主は再び来られる」

2019年12月15日、詩篇96:1~13「主は再び来られる」
①主は創造主であるから賛美せよ
天地万物は偶然にできたのではなく、「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)。唯一真の神が造られ、私たち人間もこの神に造られ生かされています。「主はもろもろの天を造られた」「もろもろの神(偶像の神々)にまさって恐るべき者である」から、ほめたたえるのです。
②主は王であるから賛美せよ
天地万物を創造された主は、それらを統治する全宇宙の王でもあります。この王なる主を度外視する罪こそ不幸の最大原因で、この罪を解決するために神の御子イエスは降誕され、十字架と復活による救いを完成されたのです。このイエスを信じ受け入れるなら、世がいかに激しく揺れ動こうとも決して「動かされることはない」のです。
③主は再臨されるから賛美せよ
全人類を罪と滅びから救うために来臨されたイエスは、もう一度この世に「来られる」、今度は「地をさばくために来られ」ます。イエスの救いを拒んだ者は永遠の滅びを刈り取りますが、イエスを信じた者は天国に迎え入れられます(ローマ6:23)。神が私たちを愛するがゆえに御子イエスを惜しみなくプレゼントしてくださった日、それがクリスマスです。想像を絶する神の愛を拒み、神を悲しませることのないようイエスを信じましょう。さらに「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」(哀歌3:22)ことを感謝し、「新しい歌を主にむかってうた」うとともに、「日ごとにその救を宣べ伝えよ」うではありませんか。

マタイによる福音書2:1~12「喜びにあふれるクリスマス」

2019年12月8日、マタイによる福音書2:1~12「喜びにあふれるクリスマス」
①ヘロデ王の礼拝
東方の博士たちが、降誕された救い主を「ユダヤ人の王」と呼んだため、ヘロデ王は「不安を感じ」、「その幼な子のことを詳しく調べ…知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」と言うものの、実は憎きライバルの抹殺を企んでいました。権力や目に見えるものを人生の第一の価値として礼拝するヘロデは、世の多くの人々の姿でもあります。
②博士たちの礼拝
今までにない星が夜空に輝くのを見た「博士たち(新共同訳「占星術の学者たち」)」は、救い主誕生のしるしと確信し、千㎞以上もの長旅を経て、遂に救い主にお会いしました。博士たちは救い主を「ひれ伏して拝み」、非常に高価な「黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげ」ました。
人が真に幸いな人生を送ることができない最大原因は、創造主なる神を神としない的外れの罪にあります。御子イエスはこの罪を解決するために降誕され、十字架と復活によって救いを完成されました。「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」(イザヤ書41:10)。イエスを救い主と信じるなら、神は「あなたと共にい」て、「あなたを強くし…助け…ささえ」てくださいます。マイナスと思えるようなことでも、御子を十字架の死にまで渡された愛なる神は「共に働いて、万事を益となるようにして下さ」います(ローマ8:28)。イエスを信じて、「非常な喜びにあふれ」る人生に入れていただきましょう。

詩篇113:1~9「身を低くしてご覧になる主」

2019年12月1日、詩篇113:1~9「身を低くしてご覧になる主」
詩人は「主のしもべたち」に、「今より、とこしえに至るまで」永遠に、「日のいずるところから日の入るところまで」全世界で、「主をほめたたえよ」と呼びかけます。その理由が4節以下に記されています。主は「天よりも高い」ところに座しておられ、「くらぶべき者はだれ」もない超越したお方だからです。ソロモンは「神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです」と祈りました(列王紀上8:27)。そのような主が「遠く天と地とを見わたされる(新改訳「身を低くして天と地をご覧になる」)」。「天よりも高い」ところに座しておられる主は、徹底的に「身を低くして」被造物と関わってくださるお方だからです。主は、「ちり…あくた」の中で苦悩する「貧しい者…乏しい者」や「子を産まぬ女」を、腕組みして天から眺めるだけの傍観者ではなく、実際に親身になって関わってくださるお方です。
このことが文字通り成就したのがクリスマスの出来事です。私たち罪人を救うために、御子イエスはまさに「身を低くして」地上に人の子として降誕されました。人生のあらゆる苦悩を味わわれたイエスは、病に苦しむ者や罪に悩む者等に寄り添われました(ヘブル4:15)。姦淫の現場を押さえられ、恥ずかしさと死の恐怖に打ち震える女性に、イエスは「身をかがめて」寄り添い、罪の赦しを宣告されました(ヨハネ8:1~11)。イエスは今も、人生に悩み苦しむ者や罪に苦悶する者に寄り添い、共に生きようとしておられます。そして再び引き上げ、勝利を与え、喜びを回復したいと願っておられる救い主なのです。

ヨハネによる福音書1:9~13「光は闇の中に輝いている」

2018年12月16日、ヨハネによる福音書1:9~13「光は闇の中に輝いている」
偽りの光で満ちてはいますが、実は罪のため真っ暗闇である世に、キリストは「すべての人を照らすまことの光」として来臨されました。
「光」の働きの第一は、闇を照らし出すことです。「光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる」(エペソ5:13)。御言葉に真に耳を傾け、心の奥底に光を当てられるならば、自分の心の闇、罪深さが見えてくるはずです。人は皆、神に造られ、生かされているにもかかわらず、神を無視して自分勝手に歩んでいます。そのような状態を聖書は「罪」と呼び、そこから様々な悪い行い(不品行、盗み、殺人、姦淫等)や悪い考え(憎しみ、嫉妬、怒り、愚痴等)が出てくるのです(マルコ7:20~23)。
しかし光は罪を照らし出しておしまいではありません。闇は、箒で掃き出すことも、掃除機で吸い取ることもできませんが、たとい一本の蝋燭のような光であっても、光が来れば闇はたちまち追い出されてしまいます。そのように「光」の働きの第二は、闇を一掃することです。罪に汚れ果てた私たち人間の側から聖なる神に近づくすべは全くないので、神の側から私たちに近づいて来て下さいました。それがクリスマスの出来事です。私たち人間と同じ姿をとって降誕されたキリストは、全人類の罪の身代わりとして十字架につけられ、神にさばかれて死なれ、それにより救いを完成されました。キリストは実に死ぬために降誕されたのです。このキリストを「受けいれ…信じ」るなら、心の闇の根源は一掃されて「神の子」とされ、喜びと光にあふれる人生に変えられます。試練や困難に襲われても、キリストが重荷を負って下さるので、雄々しく乗り越えることができます。

ルカによる福音書2:1~7「飼葉おけのキリスト」

2018年12月9日、ルカによる福音書2:1~7「飼葉おけのキリスト」
①客間はいっぱい
生まれ故郷で住民登録するため、ヨセフは身重の妻マリヤを連れてベツレヘムまで行くことになりました。ようやくたどり着いたベツレヘムの宿屋はどこも満員で、彼らは仕方なく家畜小屋で一夜を明かすことにしたその晩、神の御子イエス・キリストが誕生されたのです。神の御子が最もふわさしくない降誕をされたのは、「客間には彼らのいる余地がなかったから」です。これは、イエスの生涯と人間の心を暗示しています。昔も今も人々はイエスを拒絶し、その心の中はこの世の様々な先客で満員状態、イエスの「いる余地」などありません。それでいて心の中はいつも満たされず、様々な行き詰まりがあり、暗い家庭や社会、孤独があります。それらの真の原因は、イエスに「いる余地」を与えない的外れの罪にあります。そんな私たちを救い出すために、イエスはこの世に降誕され、私たちの罪を背負って十字架につけられ、神の怒りとさばきを一身に受けて死ぬことによって、ただ信じるだけで救われる道を開いて下さったのです。
②ベッドは飼葉おけ
「飼葉おけの中に寝かせた」とは、臭く汚れた私たちの心の真っ只中にもイエスは来て下さることのしるしです。また、私たちがどんなに低く弱く惨めに思うときにも、イエスは同じ所まで下って来て、慰め励まして下さることのしるしです。このイエスを信じるなら、家畜小屋以上に汚れた心もきよめられ、その心の中にイエスが宿って、悩み多い人生を共に歩んで下さるのです(マタイ28:20、ヘブル13:5)。

イザヤ書11:1~5「根株から新芽が生え」

2018年12月2日、イザヤ書11:1~5「根株から新芽が生え」
「エッサイの株から…若枝が生えて…主の霊がとどまる」。ダビデの子孫としてキリストが降誕、御霊によって働かれることの預言です。
①知恵と悟りの霊
「知恵」とは、蓄えた知識を実際生活に生かしていく能力のこと、「悟り」とは、物事の本質を見抜く能力のことです。これらに満たされたキリストは、過去も現在も未来もすべて計算に入れた上で、ご計画を着々と進められるお方です。しかもそれは常に最高・最善です。近視眼的にならず、順境の時も逆境の時もキリストに信頼しましょう。
②深慮と才能の霊=新改訳2017「思慮と力の霊」
「深慮(9:6「議士」=新改訳「助言者」と同語源)」とは、物事の本質を深く考えて的確な助言を与えること、「才能」とは、能力、力のことです。これらに満たされたキリストは、私たちに的確な助言を与え、最善の計画を立て、大能の力をもって実行に移されるお方です。それゆえ、「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)。キリストの助言に従って歩むなら間違いありません。
③主を知る知識と主を恐れる霊
「主を知る知識」とは、人格的な交わりによって主を知ること、「主を恐れる霊」とは、神を神として崇めることです。これらに満たされたキリストは、「主を恐れることを楽しみとし(匂いを嗅ぎ分ける、看破する、の意)」、御心かどうか敏感に嗅ぎ分け、常に御心を選び取られました。その頂点がゲツセマネ、十字架です(マタイ26:39、ピリピ2:8)。キリストに王座を明け渡し、「みこころを行うことを喜びま」しょう(詩篇40:8)。


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マタイによる福音書2:1~12「喜びあふれるクリスマス」

2017年12月24日、マタイによる福音書2:1~12「喜びあふれるクリスマス」
今までにない星が夜空に輝くのを見た「博士たち(新共同訳「占星術の学者たち」)」は、救い主誕生のしるしと確信し、千㎞以上もの長旅を続けてユダヤに到着し、遂に救い主に「会い、ひれ伏して拝み…黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげ」ました。神はやがて救い主が到来するということを度々約束してこられ、博士たちは神の約束は時が来ると必ず実現するということを今回まざまざと体験し、神とその御言葉に従っていけば間違いないと確信したので「非常な喜びにあふれ」、高価な贈物を惜しみなく献げずにはいられなかったのです。
人が真に幸いな人生を送ることができない最大の原因は、「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)、この造り主なる神を第一としない的外れの罪にあり、この罪の問題を解決するために御子イエスは降誕され、十字架と復活によって救いを完成されたのです。イエスを救い主と信じ受け入れるなら、聖書に記されている神の約束が自分のものとなります。たとえば、「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」(イザヤ書41:10)。万事休すと思えるようなときにも、神は「あなたと共にい」て、「あなたを強くし…助け…ささえ」て下さいます。また、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」(ローマ8:28)。すべてのことの背後には神の愛のご計画があり、マイナスと思える体験も必ず感謝と喜びに変えて下さいます。イエスを信じて「非常な喜びにあふれ」る人生に入れていただきましょう。

ルカによる福音書15:11~24「走り寄る神」

2017年12月17日、ルカによる福音書15:11~24「走り寄る神」
弟息子は父親から財産を分与されると、早速父親の目の届かない遠い所へ行って自由奔放な生活をした挙句、破局を迎えました。幸いにも弟息子が「本心に立ちかえ」ると、見えてきたものがありました。それは、自分の自由を束縛する監視人のように父親を認識していましたが、父親がいたからこその恵まれた生活であったことです。弟息子は父親に謝ろうと家に帰るのですが、「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻し」ました。この父親こそ父なる神の姿であり、弟息子こそ神に背を向けて歩む人間の姿です。私たちが持っているいのちも健康も才能も、実はすべて神から与えられたものであるのに、神に感謝することもなく自分勝手に歩んでいます。この的外れの罪から救い出し、神のもとに立ち帰る道を開くために、約2000年前、神は御子イエスを人の子として遣わされたのです。クリスマスの出来事です。罪を悔い改めてイエスを信じ、神に一歩踏み出すとき、神はそれ以上に走り寄り、罪を赦し、神の家族に迎え入れて下さるのです(ヤコブ4:8)。
神を抜きにして自己実現をひたすら追求し、上を上を目指す生き方には、必ず限界、行き詰まりがあります。あなたも弟息子のように自分の力だけを頼りに歯を食いしばって頑張り、ボロボロに疲れ果てていませんか。愛なる神は、そんなあなたを抱きしめたい、真の安息を与えたい、真に充実した人生を送ってほしいと願い、あなたが方向転換するのを今か今かと待ち構えておられます。「自分一人で頑張って生きるのはもうやめてはどうか。これからはこのわたしと共に生きてみないか」と神はあなたに呼びかけておられるのです。

マタイによる福音書25:1~13「目をさましていなさい」

2017年12月10日、マタイによる福音書25:1~13「目をさましていなさい」
花婿を迎えるためにあかりを持って待機していた十人のおとめは、「花婿の来るのがおくれたので…みな居眠りをして、寝てしま」い、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」ときには、「あかりが消えかかっていました」。予備の油を用意していなかった五人は「買いに出ているうちに、花婿が着い」て締め出され、用意していた五人だけが「花婿と一緒に婚宴のへやにはいり」ました。
この譬え話は、天国の扉は一度閉じられると、もう二度と開かれないので、扉が開いているうちに入らなければならないことを教えています。では、いつまで開いているのか、キリスト再臨までです。いつキリストは再臨されるのか、父なる神だけがご存じです(24:36)。どうしたら天国に入れるのか、罪の悔い改めとイエスの十字架を信じる信仰によってのみです(使徒行伝20:21)。そうでなければ「罪の支払う報酬は死」(ローマ6:23)、永遠の滅びを刈り取ることになります。
また、キリスト再臨に対して常に目を覚まして用意をしていなければならないことをも教えています。何から何までほとんど同じ両者の間に、ただ一つ決定的な相違点がありました。予備の油を用意していたか否かです。「油」とは、常に備えのできた信仰のことでしょう。そのためには聖霊の助けが不可欠です。思慮深い五人の眠りはいつでも備えのできているゆえの安心した眠りであり、思慮の浅い五人の眠りは油断した眠りなのでしょう。あなたは、キリストがいつ再臨されても恥ずかしくない歩みをしているでしょうか。「わたしはすぐに来る」と言われるイエスに対して、「アァメン、主イエスよ、きたりませ」と胸を張って言えるでしょうか(黙示録22:7、12、17、20)。

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