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ヨハネによる福音書1:9~13「光は闇の中に輝いている」

2018年12月16日、ヨハネによる福音書1:9~13「光は闇の中に輝いている」
偽りの光で満ちてはいますが、実は罪のため真っ暗闇である世に、キリストは「すべての人を照らすまことの光」として来臨されました。
「光」の働きの第一は、闇を照らし出すことです。「光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる」(エペソ5:13)。御言葉に真に耳を傾け、心の奥底に光を当てられるならば、自分の心の闇、罪深さが見えてくるはずです。人は皆、神に造られ、生かされているにもかかわらず、神を無視して自分勝手に歩んでいます。そのような状態を聖書は「罪」と呼び、そこから様々な悪い行い(不品行、盗み、殺人、姦淫等)や悪い考え(憎しみ、嫉妬、怒り、愚痴等)が出てくるのです(マルコ7:20~23)。
しかし光は罪を照らし出しておしまいではありません。闇は、箒で掃き出すことも、掃除機で吸い取ることもできませんが、たとい一本の蝋燭のような光であっても、光が来れば闇はたちまち追い出されてしまいます。そのように「光」の働きの第二は、闇を一掃することです。罪に汚れ果てた私たち人間の側から聖なる神に近づくすべは全くないので、神の側から私たちに近づいて来て下さいました。それがクリスマスの出来事です。私たち人間と同じ姿をとって降誕されたキリストは、全人類の罪の身代わりとして十字架につけられ、神にさばかれて死なれ、それにより救いを完成されました。キリストは実に死ぬために降誕されたのです。このキリストを「受けいれ…信じ」るなら、心の闇の根源は一掃されて「神の子」とされ、喜びと光にあふれる人生に変えられます。試練や困難に襲われても、キリストが重荷を負って下さるので、雄々しく乗り越えることができます。

ルカによる福音書2:1~7「飼葉おけのキリスト」

2018年12月9日、ルカによる福音書2:1~7「飼葉おけのキリスト」
①客間はいっぱい
生まれ故郷で住民登録するため、ヨセフは身重の妻マリヤを連れてベツレヘムまで行くことになりました。ようやくたどり着いたベツレヘムの宿屋はどこも満員で、彼らは仕方なく家畜小屋で一夜を明かすことにしたその晩、神の御子イエス・キリストが誕生されたのです。神の御子が最もふわさしくない降誕をされたのは、「客間には彼らのいる余地がなかったから」です。これは、イエスの生涯と人間の心を暗示しています。昔も今も人々はイエスを拒絶し、その心の中はこの世の様々な先客で満員状態、イエスの「いる余地」などありません。それでいて心の中はいつも満たされず、様々な行き詰まりがあり、暗い家庭や社会、孤独があります。それらの真の原因は、イエスに「いる余地」を与えない的外れの罪にあります。そんな私たちを救い出すために、イエスはこの世に降誕され、私たちの罪を背負って十字架につけられ、神の怒りとさばきを一身に受けて死ぬことによって、ただ信じるだけで救われる道を開いて下さったのです。
②ベッドは飼葉おけ
「飼葉おけの中に寝かせた」とは、臭く汚れた私たちの心の真っ只中にもイエスは来て下さることのしるしです。また、私たちがどんなに低く弱く惨めに思うときにも、イエスは同じ所まで下って来て、慰め励まして下さることのしるしです。このイエスを信じるなら、家畜小屋以上に汚れた心もきよめられ、その心の中にイエスが宿って、悩み多い人生を共に歩んで下さるのです(マタイ28:20、ヘブル13:5)。

イザヤ書11:1~5「根株から新芽が生え」

2018年12月2日、イザヤ書11:1~5「根株から新芽が生え」
「エッサイの株から…若枝が生えて…主の霊がとどまる」。ダビデの子孫としてキリストが降誕、御霊によって働かれることの預言です。
①知恵と悟りの霊
「知恵」とは、蓄えた知識を実際生活に生かしていく能力のこと、「悟り」とは、物事の本質を見抜く能力のことです。これらに満たされたキリストは、過去も現在も未来もすべて計算に入れた上で、ご計画を着々と進められるお方です。しかもそれは常に最高・最善です。近視眼的にならず、順境の時も逆境の時もキリストに信頼しましょう。
②深慮と才能の霊=新改訳2017「思慮と力の霊」
「深慮(9:6「議士」=新改訳「助言者」と同語源)」とは、物事の本質を深く考えて的確な助言を与えること、「才能」とは、能力、力のことです。これらに満たされたキリストは、私たちに的確な助言を与え、最善の計画を立て、大能の力をもって実行に移されるお方です。それゆえ、「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)。キリストの助言に従って歩むなら間違いありません。
③主を知る知識と主を恐れる霊
「主を知る知識」とは、人格的な交わりによって主を知ること、「主を恐れる霊」とは、神を神として崇めることです。これらに満たされたキリストは、「主を恐れることを楽しみとし(匂いを嗅ぎ分ける、看破する、の意)」、御心かどうか敏感に嗅ぎ分け、常に御心を選び取られました。その頂点がゲツセマネ、十字架です(マタイ26:39、ピリピ2:8)。キリストに王座を明け渡し、「みこころを行うことを喜びま」しょう(詩篇40:8)。


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マタイによる福音書2:1~12「喜びあふれるクリスマス」

2017年12月24日、マタイによる福音書2:1~12「喜びあふれるクリスマス」
今までにない星が夜空に輝くのを見た「博士たち(新共同訳「占星術の学者たち」)」は、救い主誕生のしるしと確信し、千㎞以上もの長旅を続けてユダヤに到着し、遂に救い主に「会い、ひれ伏して拝み…黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげ」ました。神はやがて救い主が到来するということを度々約束してこられ、博士たちは神の約束は時が来ると必ず実現するということを今回まざまざと体験し、神とその御言葉に従っていけば間違いないと確信したので「非常な喜びにあふれ」、高価な贈物を惜しみなく献げずにはいられなかったのです。
人が真に幸いな人生を送ることができない最大の原因は、「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)、この造り主なる神を第一としない的外れの罪にあり、この罪の問題を解決するために御子イエスは降誕され、十字架と復活によって救いを完成されたのです。イエスを救い主と信じ受け入れるなら、聖書に記されている神の約束が自分のものとなります。たとえば、「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」(イザヤ書41:10)。万事休すと思えるようなときにも、神は「あなたと共にい」て、「あなたを強くし…助け…ささえ」て下さいます。また、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」(ローマ8:28)。すべてのことの背後には神の愛のご計画があり、マイナスと思える体験も必ず感謝と喜びに変えて下さいます。イエスを信じて「非常な喜びにあふれ」る人生に入れていただきましょう。

ルカによる福音書15:11~24「走り寄る神」

2017年12月17日、ルカによる福音書15:11~24「走り寄る神」
弟息子は父親から財産を分与されると、早速父親の目の届かない遠い所へ行って自由奔放な生活をした挙句、破局を迎えました。幸いにも弟息子が「本心に立ちかえ」ると、見えてきたものがありました。それは、自分の自由を束縛する監視人のように父親を認識していましたが、父親がいたからこその恵まれた生活であったことです。弟息子は父親に謝ろうと家に帰るのですが、「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻し」ました。この父親こそ父なる神の姿であり、弟息子こそ神に背を向けて歩む人間の姿です。私たちが持っているいのちも健康も才能も、実はすべて神から与えられたものであるのに、神に感謝することもなく自分勝手に歩んでいます。この的外れの罪から救い出し、神のもとに立ち帰る道を開くために、約2000年前、神は御子イエスを人の子として遣わされたのです。クリスマスの出来事です。罪を悔い改めてイエスを信じ、神に一歩踏み出すとき、神はそれ以上に走り寄り、罪を赦し、神の家族に迎え入れて下さるのです(ヤコブ4:8)。
神を抜きにして自己実現をひたすら追求し、上を上を目指す生き方には、必ず限界、行き詰まりがあります。あなたも弟息子のように自分の力だけを頼りに歯を食いしばって頑張り、ボロボロに疲れ果てていませんか。愛なる神は、そんなあなたを抱きしめたい、真の安息を与えたい、真に充実した人生を送ってほしいと願い、あなたが方向転換するのを今か今かと待ち構えておられます。「自分一人で頑張って生きるのはもうやめてはどうか。これからはこのわたしと共に生きてみないか」と神はあなたに呼びかけておられるのです。

マタイによる福音書25:1~13「目をさましていなさい」

2017年12月10日、マタイによる福音書25:1~13「目をさましていなさい」
花婿を迎えるためにあかりを持って待機していた十人のおとめは、「花婿の来るのがおくれたので…みな居眠りをして、寝てしま」い、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」ときには、「あかりが消えかかっていました」。予備の油を用意していなかった五人は「買いに出ているうちに、花婿が着い」て締め出され、用意していた五人だけが「花婿と一緒に婚宴のへやにはいり」ました。
この譬え話は、天国の扉は一度閉じられると、もう二度と開かれないので、扉が開いているうちに入らなければならないことを教えています。では、いつまで開いているのか、キリスト再臨までです。いつキリストは再臨されるのか、父なる神だけがご存じです(24:36)。どうしたら天国に入れるのか、罪の悔い改めとイエスの十字架を信じる信仰によってのみです(使徒行伝20:21)。そうでなければ「罪の支払う報酬は死」(ローマ6:23)、永遠の滅びを刈り取ることになります。
また、キリスト再臨に対して常に目を覚まして用意をしていなければならないことをも教えています。何から何までほとんど同じ両者の間に、ただ一つ決定的な相違点がありました。予備の油を用意していたか否かです。「油」とは、常に備えのできた信仰のことでしょう。そのためには聖霊の助けが不可欠です。思慮深い五人の眠りはいつでも備えのできているゆえの安心した眠りであり、思慮の浅い五人の眠りは油断した眠りなのでしょう。あなたは、キリストがいつ再臨されても恥ずかしくない歩みをしているでしょうか。「わたしはすぐに来る」と言われるイエスに対して、「アァメン、主イエスよ、きたりませ」と胸を張って言えるでしょうか(黙示録22:7、12、17、20)。

ヨブ記19:21~27「私を贖う者は生きておられる」

2017年12月3日、ヨブ記19:21~27「私を贖う者は生きておられる」
「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」ヨブでしたが、一瞬のうちに子や僕、家畜等を失い、自分は悪性の皮膚病に苦しむという試練に次々襲われました。妻からは「神をのろって死になさい」と罵られ(1:1~2:10)、友人たちからは「不義を耕し、害悪をまく」(4:8)から試練に遭うのだ、と因果応報論で責め立てられます。義人がなぜ試練に遭わねばならぬのか、とますます苦悩する中、「わたしをあがなう者(ゴ-エ-ル、買戻しの権利のある親戚)は生きておられる」、親戚以上に親身になって自分のことを心配し、弁護して下さる方が天におられることに目が開かれました。このときヨブは、来たるべき真のゴ-エ-ル、イエス・キリストを指し示していたのです。
時満ちて降誕されたイエスは、十字架と復活によって、信じる者の罪を赦し、永遠のいのちを与える救いを完成されました。さらに天の父なる神の右に座し、私たちの弁護者として神にとりなし祈っておられます(Ⅰヨハネ2:1)。また、人となられたイエスは様々な試練や苦悩をなめ尽くされたので(讃美歌532番2節「主の受けぬ試みも 主の知らぬ悲しみも うつし世にあらじかし いずこにも御跡見ゆ」)、私たちの弱さや苦悩に共感し、助けることがおできになります(ヘブル2:17~18、4:15)。ヨブには苦難の理由は最後まで知らされませんでした。私たちを襲う試練や苦難の理由も、この地上では完全に理解することはできませんが、御子イエスを十字架の死に渡すほど私たちを愛しておられる神が、意味もなく私たちを苦しめるようなことなど絶対なさいません。試練に遭っても、自分を責めたり神を恨んだりせず、「わたしをあがなう者は生きておられる」、イエスを仰ぎ信頼しましょう。

ヨハネによる福音書3:16「最上の贈り物」

2016年12月25日、ヨハネによる福音書3:16「最上の贈り物」
①神の愛の事実…「神は…この世を愛して下さった」
最初に「神は」とあり、聖書の冒頭でも「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)と宣言するように、永遠の昔から存在される唯一真の神が天と地とその中に満ちるすべてのもの、そして私たち人間も創造されました。この神は、背く者や愛するに値しない者をも「高価で尊い」存在として愛さずにはいられない愛なる神です(イザヤ書43:4)。
②神の愛の程度…「そのひとり子を賜わったほどに」
神と共に永遠の昔からおられる「ひとり子(イエス・キリスト)」は、今から約2000年前、天の栄光をかなぐり捨てて罪と汚れに満ちた地上に人の子として降誕された上、その最期は十字架刑でした。神は、大切な「ひとり子」が地上でどんな目に遭うかを重々承知の上で、惜しみなく与え尽くすほど「この世(私たち一人一人)を愛して下さった」のです。
③神の愛の目的…「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」
「ひとりも滅びないで」とは、裏を返せば、人は皆そのままでは滅びるべき存在だということです。人は皆、創造主なる神とその御言葉に背いて自分勝手に生きてきた罪人だからです。神は、罪は罪としてさばかずにはいられない義なるお方ですが、罪人がさばかれて永遠に滅びるのを看過できない愛なるお方でもあります。そこで神は、御子に全人類の罪を背負わせて十字架につけ、罪人をさばく代わりに御子をさばくことにより、「永遠の命を得る」道を開かれました。この救いを得るのに必要な条件は、罪の悔い改めと「御子を信じる」信仰のみです(使徒20:21)。神の愛をこれ以上拒絶し、御心を悲しませてはなりません。神の愛の贈り物イエスを信じ受け入れましょう。

マタイによる福音書1:1~17「イエス・キリストの系図」

2016年12月18日、マタイによる福音書1:1~17「イエス・キリストの系図」
①来臨の事実
有名な王(ダビデやソロモン他)が登場する系図がキリストにあるということは、キリストが神話や昔話の類に出てくるような想像上の人物ではなく、歴史上確かに実在したお方であることを示しています。
②来臨の実現
ダビデの子孫からキリストが降誕されることを、神はダビデや預言者たちに約束されていました(サムエル記下7:12、イザヤ書9:6~7他)。「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」という書き出しは、キリストの来臨は偶発的な出来事ではなく、旧約聖書に度々約束されていた神の救いのご計画の成就であることを示しています。
③来臨の目的
この系図には、悪王(マナセ他)や、異邦人・遊女等の4人の女性タマル(創世記 第38章)、ラハブ(ヨシュア記 第2章)、ルツ(ルツ記)、ウリヤの妻(バテシバ。サムエル記下 第11章)が登場します。キリストの系図は、人間の罪の匂いがその間から立ち込めてくるような系図です。「このマリヤからキリストといわれるイエスがお生まれになった」とは、キリストが罪に汚れた全人類の真っ只中に人の子として来られたことを示しています。キリストは実に全時代・全人類の罪の連帯責任を負い、ご自分の罪として引き受けて十字架につけられ、身代わりの死を遂げるために来臨されたのです。どんなに罪と汚れと失敗に満ちた過去があろうと、このキリストを信じるならば、愛と祝福に満ちた全く新しい生涯に造り変えられる、人生をやり直すことができるばかりか、「祝福の基」とされるのです(ローマ3:23、Ⅱコリント5:17、創世記12:2)。

マタイによる福音書1:18~25「インマヌエル、神われらと共にいます」

2016年12月11日、マタイによる福音書1:18~25「インマヌエル、神われらと共にいます」
①イエス(主は救い、の意)
婚約者マリヤのお腹が日に日に大きくなるのを見て、「ひそかに離縁しようと決心した」ヨセフの夢に現れた御使は、「心配しないで(新改訳「恐れないで」)」と語りかけました。私たちは些細なことでもすぐに恐れやすい存在です。「はじめに神は天と地とを創造され…自分のかたちに人を創造された」ゆえ(創世記1:1、27)、神を人生のはじめに置いて、神に的を合わせて生きるとき、最も幸福な人生を送ることができるよう造られています。一人ひとりのために最善のご計画をお持ちの神を締め出して生きているから、迷信や占いに頼り、将来に対して不安になるのです。私たちをこよなく愛しておられる神を締め出しているから、絶えず人と比べ、人の目を恐れるのです。また死後、神のさばきがあることを本能的に知っているからこそ、死を恐れるのです。様々な恐れの原因は、神を締め出して生きる的外れの罪にあり、この罪と滅びから私たちを救うためにイエスは人の子として降誕され、全人類の罪を背負って十字架上で死んで下さったのです。
②インマヌエル(神われらと共にいます、の意)
イエスが聖霊によって母マリヤの胎に宿られたように、イエスを信じて罪赦された者の内にイエスはお宿り下さいます(28:20)。私たちと同じ人となり、人が経験する苦悩をなめ尽くされたイエスは、私たちに心底同情することができるお方です(ヘブル3:17~18、4:15)。イエスを信じる前は、人生の重荷のすべてを自分で背負い込み、自分の力で何とかしなければなりませんでしたが、イエスを信じた後は、イエスが共に重荷を負って歩み、荒波を乗り越えさせて下さるのです。

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