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ローマ人への手紙8:26~30「私たちの弱さを助ける御霊」

2017年6月4日、ローマ人への手紙8:26~30「私たちの弱さを助ける御霊」
「弱いわたしたち(直訳「私たちの弱さ(複数形)」)」とあるように、イエスを信じて神の子とされ、栄光の望みが与えられていても(8:18~25)、私たちにはなお様々な弱さがあります。特に「どう祈ったらよいかわからない」、祈りにおける弱さがあります。そのような私たちを「御霊もまた同じように…助けて下さる(共に代わって取る、の意)」、御霊は私たちと共にいて、私たちに代わって、私たちの弱さ・重荷・うめきを引き受けて下さるのです。このように地上では御霊がとりなし、天上ではイエスがとりなしていて下さいます(34節、ヘブル7:25、Ⅰヨハネ2:1)。しかも「人の心を探り知るかた(父なる神)は、御霊の思うところがなんであるかを知っておられ」、一方の「御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さる」がゆえに、私たちの言葉にならないうめきや、不十分極まりない祈りも神に聞き届けられるのです。
かつて神に敵対していた者が(5:10)、信仰によって「神を愛する者」とされたのは、単なる偶然ではなく、「天地の造られる前から」(エペソ1:4)、「ご計画に従って召された」結果です。そのような私たちのために、「神は…万事を益となるように」、すべて神の御心にかなうものとなるように、神は私たちと「共に働いて」下さいます。それはひとえに、私たちを「更に御子のかたちに似たものと」するため、「御子を多くの兄弟の中で長子とならせるため」です。御子が私たちを神に誇らしげに紹介できるように、神は様々なことを総動員して私たちを練り潔めていて下さるのです。御子と御霊は私たちの弱さを助けとりなし、神は私たちが御子に似る者となるよう万事を益となるようにして下さいます。この三位一体の神が栄光のゴールまで一緒です。

ゼカリヤ書12:1~14「恵みと祈りの霊を注ぐ」

2016年5月15日、ゼカリヤ書12:1~14「恵みと祈りの霊を注ぐ」
周辺諸国に攻撃されるイスラエルを主が「よろめかす杯…重い石…たきぎの中の火皿…麦束の中のたいまつのようにする」ので、イスラエルは敵に勝利し、主が「恵みと祈の霊とを注ぐ」と、主の救いを経験したイスラエルは、かつて主を拒んで従わなかった罪を思い返して「嘆き…悲しむ」ようになる、という預言です。それは、「国じゅう」に及ぶ国家的な悔い改めであると同時に、「別れて嘆き」(12節に5回、13節に4回、14節に2回)とあるように個人的な悔い改めでもあります。
この預言は、イエスの十字架において(ヨハネ19:37)、ペンテコステにおいて成就しました。ペテロが説教の最後に、「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」と迫ると、「人々はこれを聞いて、強く心を刺され」、「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と問わずにはいられませんでした。そこでまずペテロは「悔い改めなさい(方向転換しなさい)…イエス・キリストの名によって(イエスを信じて)、バプテスマを受けなさい」と語りました。この悔い改めと信仰によって、「罪のゆるしを得…聖霊の賜物を受ける(新改訳「賜物として聖霊を受ける」)」のです。初代教会は、明確な救いにあずかった人々で構成されていたゆえ、主を愛し、主に従い、宣教に熱心な教会であり得たのです(使徒行伝2:36~42)。
「わたしは…恵みと祈の霊とを注ぐ」、これこそが閉塞感打開の鍵です。この約束がまず自分自身に実現するように、明確な救いと潔め、御霊の満たしが与えられるように祈るべきではないでしょうか。聖霊は、祈り求める者に(ルカ11:13)、悔い改める者に(使徒行伝2:38)、従う者に(使徒行伝5:32)、信じる者に(使徒行伝15:9)必ず与えられます。

ヨハネによる福音書7:37~39「聖霊の大河」

2015年5月24日、ヨハネによる福音書7:37~39「聖霊の大河」
仮庵の「祭の終りの大事な日に」、イエスは「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は…その腹から生ける水が川(複数形)となって流れ出るであろう」と叫ばれました。これは「イエスを信じる人々が受けようとしている御霊」のことです。
聖霊は天地創造の時から働いておられますが(創世記1:2)、旧約時代の働きは限定的でした。しかしイエスの十字架、復活、昇天の後、約束の聖霊が降り、イエスを信じる者は誰でも聖霊を内に宿すことができるようになりました。多くの人々は「生ける水の源」である神から遠く離れ、代わりに「自分で水ためを掘」り、人生の目的を見失っています(エレミヤ2:13)。魂に真の潤いを与え得るのは「生ける水」、聖霊のみです。ではどうしたらこの恵みにあずかれるのでしょうか。
まず「だれでもかわく(現在時制→かわいている)者は」とあるように、自分の不甲斐なさ、罪深さに泣き、恵みを渇き求めることです。次に「わたしのところにきて飲むがよい(現在時制→来続け、飲み続けなさい)。わたしを信じる(現在時制→信じ続ける)者は」とあるように、イエスを信じ従い続けることです。そのような者であれば「だれでも」、「天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」(ルカ11:13)。
まだ救われていない人は、「生ける水の源である」神を捨て、「自分で水ためを掘っ」て的外れな生き方をしてきた罪を悔い改め、イエスの十字架を信じ受け入れましょう。すでに救われている人は、聖霊が心の王座に君臨し、そのご支配に服従する者となるよう渇いて求めましょう。その時、聖霊は魂の奥底から溢れ出し、自らを潤すだけでなく、周囲をも潤す祝福の川々となっていくに違いありません。

使徒行伝2:37~47「最初の教会」

6月8日、使徒行伝2:37~47「最初の教会」
①教会の誕生(37~41節)
ペテロの説教を聞いた人々は「強く心を刺され」、「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と罪からの救いを求めました(ヨハネ16:8)。それに対してペテロは、自己中心の生き方から神中心の生き方へと方向転換する「悔い改め」と、イエスの十字架は私の罪のためであったと信じて「バプテスマを受け」ることを勧めました。この悔い改めと信仰によって「罪のゆるしを得」、「聖霊の賜物を受ける(=新改訳「賜物として聖霊を受ける」)」のです。そのようにして「その日、仲間に加わったものが三千人ほどあ」り、最初の教会が誕生しました。初代教会は、明確に救われた人々で構成されていたからこそ、生き生きと主を愛し、主に従い、宣教に熱心な教会であり得たのです。
②教会の歩み(42~47節)
初代教会は、使徒たちによって伝えられたイエスの「教を守り」、神の家族として麗しい「信徒の交わりをなし」ていました。また、同じ「パンをさき」、一つのからだであることを自覚し、熱心に「祈をしてい」ました。このような教会の歩みに接した人々は、教会の主である神に対する「おそれの念」と、教会員に対する「好意」をもつようになり、その結果、「主は、救われる者を日々仲間に加えて下さった」のです。「初代教会は、人をかき集めなくても、人がかけ集まってきた」(足立幹夫師)。初代教会が驚異的な成長を遂げたのは、何か特別なことをしたからではなく、基本に忠実であったからです。一人一人が明確な救いと潔め、御霊の満たしにあずかり、神を畏れ、互いに愛し合いながら生きる、これこそ教会のトレードマークです。

エゼキエル書37:1~14「枯れた骨を生かす御霊」

5月19日、エゼキエル書37:1~14「枯れた骨を生かす御霊」
エゼキエルは、「谷の中に…骨が満ちていた」が、それは「はなはだ多くの骨」で、「皆いたく枯れていた」という幻を見ました。「これらの骨はイスラエルの全家」のことです。神殿を破壊されてバビロン捕囚となったイスラエルは「望みは尽き…絶え果て」、まさに枯れた骨同然、もはや回復不可能と誰もが思うような絶望状態にありました。
この枯れた骨は、捕囚のイスラエルだけでなく、アダム伝来の罪に汚染された人間の姿でもあります。放蕩息子が我に返って父のもとに帰ったとき、父は「このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(ルカ15:24)と言い、パウロは「あなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって」(エペソ2:1)と記します。神に造られた人間が、造り主なる神を無視して自分勝手に生きるのは、実は罪の奴隷、欲望の奴隷に過ぎないのです。
主は「これらの骨に預言して、言え…主の言葉を聞け」と言われました。絶望的な状態にあるからこそ、神の生ける御言葉が必要なのです(申命記8:3、ローマ10:17)。次に「あなたがたのうちに息(霊)を与えて生かす」と言われました。最初の人アダムは「土」で造られ、「命の息(神の霊)をその鼻に吹きいれられ」て、真に「生きた者となった」ように(創世記2:7)、エゼキエルが「命じられたように預言し」、息が吹き込まれると、枯れた骨は生き返り、「はなはだ大いなる群衆とな」りました。
枯れた骨を生かすものは、神の御言葉と神の御霊です。御言葉が語られ、御霊が働かれると、罪の悔い改めと十字架信仰へと導かれます。御霊による回復のわざを期待して祈りましょう。また私たち自身、御霊に満たされ、大胆に福音を宣べ伝える者とされましょう。

エペソ人への手紙5:15~21「むしろ聖霊に満たされて」

5月27日、エペソ人への手紙5:15~21「むしろ聖霊に満たされて」
酒に支配されるのでなく、「むしろ御霊に満たされて…いなさい」と命じます。「満たされて」は受動態ですから、肉の頑張りで満たすのではなく、恵みによって満たされるということです。現在時制ですから、御霊に満たされ続けなさいということです。命令形ですから、満たされても満たされなくてもよいのでもなく、ある特定の人だけ満たされればよいのでもなく、全キリスト者に対する命令です。
神に造られ生かされている私たち人間は、神に的を合わせ、御言葉に従って生きるとき、真に充実した人生を送ることができるのですが、私たちはこの神を知らず、神を無視して生きてきました。このような的外れの生き方を「罪」と呼び、そこから様々な具体的な罪が生じてきます(マルコ7:20~23)。しかし罪を悔い改めて、イエスの十字架を信じるならば、すべての罪が赦されて救われます。さらに醜い自我に泣き、砕かれて十字架を仰ぐならば、御霊は私たちを潔め満たし占領して下さいます。そしてその後も御言葉と御霊に従い続けることによって、「御霊に満たされ」続けることができるのです。
「むしろ御霊に満たされて…いなさい」という命令の後、妻と夫(5:22~33)、子と親(6:1~4)、僕と主人(6:5~9)のあり方が記されていますが、これは、地が出やすい家庭や職場でこそ御霊に満たされていなければ、良い妻や良い夫、良い子や良い親、良い従業員や良い経営者・上司にはなれないということです。「神の御名は、あなたがたのゆえに…汚されている」(ローマ2:24)と言われるような信仰生活では困ります。御霊に満たされ続けることによって、「あなたの神はわたしの神です」(ルツ記1:16)と証詞されるような信仰者とされましょう。

ピリピ人への手紙3:1~3「御霊による礼拝」

6月12日、ピリピ人への手紙3:1~3「御霊による礼拝」
パウロは再び「主にあって喜びなさい」と勧めますが、ピリピ教会からその喜びを奪い去ろうとする存在がありました。「あの犬ども…悪い働き人たち…肉に割礼の傷をつけている人たち」と呼ばれる律法主義者たちです。彼らは、十字架を信じるだけでは不十分で、律法を厳守し、割礼を受けなければ救われないと主張していました。ユダヤ人は当時、犬は全被造物の中でも最も惨めな生き物と考え、割礼を受けていない異邦人たちをも「犬」と呼んで軽蔑していました。しかし彼らこそ、律法主義という危険な伝染病を撒き散らす、まさに「犬」のような「悪い働き人たち」でした。また彼らの「割礼(3節「割礼」とは別語)」は、実質の伴わない、単なる肉体の傷に過ぎませんでした。
それに対して真の「割礼の者」は、「神の霊によって」時々刻々神に仕えるようになります。「主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損…ふん土のように思」い(4~8節)、「キリスト・イエスを誇と」するようになります(ガラテヤ6:14)。しかしそのためには、「肉を頼みとしない」ということが不可欠です。肉(自我)は、アダム伝来の生まれながらの神への反逆性のことで、この肉の解決も十字架にあります。自己の醜い真相が暴露され、神の前に全く砕かれて十字架を仰ぐとき、あの十字架は私の犯した諸々の罪の身代わりであるとともに、自分ではどうすることもできない醜い肉が共につけられて死んだ十字架であることをも見出すのです。「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである」(ガラテヤ5:24)。肉に死んで全くキリストの所有となり、御霊に支配されながら歩む者こそ、真の「割礼の者」です。

エゼキエル書36:22~32「清い水を注ぐ」

5月23日、エゼキエル書36:22~32「清い水を注ぐ」
神は、「聖なる名を汚し」てバビロン捕囚となった民を祖国に帰そうとされましたが(10節)、その前に民は霊的に回復される必要がありました(25~38節)。これはペンテコステに真に成就したと言えましょう。
①潔めの約束(25~27節)
「清い水」とは、聖霊の象徴です。聖霊は、内に潜む「すべての汚れから清め」、真の神を第二、第三にする「すべての偶像から清め」、神を第一に愛する者に造り変えて下さいます(ローマ15:16)。また、頑固で傲慢な「石の心」、神と人を愛する心の冷たい「石の心を除いて」、御言葉に素直に聴従し、神と人を愛して生きる、柔らかく温かい「肉の心を与え」て下さいます。このように取り扱われ、砕かれた後、「わが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ」ます。聖霊の内住は、「みこころを行うことを喜」ぶ者に造り変えるのです(詩篇40:8)。
②潔めの結果(28~38節)
潔めは、「わが民となり、わたしはあなたがたの神となる」、より深い神との交わりへと導きます(コロサイ1:27)。また潔めは、神との交わりを妨げる不純物を除去しますから、神から養分を十分吸収できるようになり、品性の実を豊かに結ぶ枝に造り変えて下さいます(ヨハネ15:5、ガラテヤ5:22~23)。また、「行って実をむすび、その実がいつまでも残る」(ヨハネ15:16)という救霊の実も豊かに結ばせて下さいます。その結果、「荒れた町々は人の群れで満ちる」、リバイバルの訪れです。
「主なるわたしがこれを言い、これをなすのである…わたしに求めるべきである」と言われます。私たちを聖霊によって潔め、満たし、真の神の民らしく整えることは、神の約束であり、期待なのです。

使徒行伝1:6~11「キリストの証人となる」

5月31日、使徒行伝1:6~11「キリストの証人となる」
復活のイエスが「エルサレムから離れないで…父の約束を待っているがよい…」(4~5節)と言われるのを聞いた弟子たちは、「イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」と思わず質問しました。十字架と復活の福音をまだ十分に理解していなかった弟子たちは、イスラエルがローマ帝国の支配下から解放されることによって、目に見える神の国が実現し、自分たちはイエスと共に権威の座に就くという願望を依然として抱いていたようです(マルコ10:37)。
それに対してイエスは、神の国完成の「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない(=新改訳「あなたがたは知らなくてもよいのです」)」。それよりも、「地のはてまで、わたしの証人となる」べきことを提示されました。
弟子たちのように霊の目が開かれず、以前と同様の価値観に縛られ、霊と肉との葛藤の中に生きていないでしょうか。そのままではキリストの証人になれないどころか、下手をするとキリストの顔に泥を塗ることにもなりかねません。大失敗した場所で名誉挽回することも、家庭や職場で良い証詞を立てることも、罪の性質を生まれながらに持つ私たちには非常に困難です。だからこそ、「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて」とあるように、真のキリストの証人となるためには聖霊の満たしが必要なのです。
「エルサレムから離れないで」、自らの醜い内面・本質から逃げないで、それと向き合い、砕かれて十字架を仰ぐとき、聖霊は豊かに臨み、すべてのすべてとなって下さるのです(詩篇51:17、ガラテヤ2:19~20)。

ローマ人への手紙8:1~4「内に宿る御霊」

5月11日、ローマ人への手紙8:1~4「内に宿る御霊」
①救いの事実(1~2節)
私たち人間は、いつか必ず死にます。それと同じ確率で、死後、神のさばきを受けなければなりません(ヘブル9:27)。そこですべての罪が暴露され、その結果は「罪の支払う報酬は死」(6:23)、永遠の滅びです。しかしその時、「キリスト・イエスにある者」、すなわちイエスこそ救い主と信じる者だけは「(決して)罪に定められることがない」のです。
②救いの方法(3節)
律法は本来、人を「いのちに導くべき」ものですが(7:10、12、14)、生まれながらアダム伝来の罪に汚染されている人間は律法を守ることができず、律法によっては誰も神に義と認められることはできません。しかし、「律法が…なし得なかった事を、神はなし遂げて下さ」いました。「御子を、罪の肉の様で」、すなわち人間の姿をとって来臨させ(ヘブル4:15)、私たちの罪を御子に負わせ、私たちを罰する代わりに十字架上の御子を罰せられました(Ⅱコリント5:21)。それにより、御子を信じるだけで神に義と認められるという救いが完成されたのです。
③救いの目的(4節)
律法は私たちに、神を愛し、人を愛して生きるよう要求します(マルコ12:28~34)。この要求を満たすことは、「肉」によっては到底不可能です(7:7~25)。しかし神に反逆する「肉」「古き人」がキリストと共に十字架につけられて死に(6:6)、「霊によって」、すなわち御霊に満たされ、導かれながら歩むならば、御言葉に従うことが喜びとなります(詩篇40:8)。

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