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マルコの福音書9:9~13「聖書に書かれているとおり」

2021年11月21日、マルコの福音書9:9~13「聖書に書かれているとおり」
イエスの変貌を目撃した「ペテロとヤコブとヨハネ」が「山を下りながら」イエスと交わした問答です。イエスが本当に約束の救い主であるなら、その前に「まずエリヤが来るはず」(マラキ書4:5)なのに、エリヤはまだ来ていないから、イエスが救い主であるはずがない、と律法学者たちは考えていました。そうした疑問に対してイエスは「エリヤはもう来ています…」と言われ、「弟子たちは…バプテスマのヨハネのことだと気づ」(マタイ17:13)きました。「人々は…彼に好き勝手なことをし…た」のであれば、「多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてある」とおり、救い主に対してはもっとひどいことをするはずだ、十字架で死ぬために来臨した受難の僕なのだから、と言われました。
人がこう「言っている」ことよりも、聖書がこう「書いてある」ことのほうを信じるべきです。しかし実は、イエスを弟子たちに紹介したヨハネ自身も、「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか」と揺らいだことがありました。それに対してイエスは、「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き…」、聖書に「書いてある」とおりのことが実現しているではないか、と諭されました(マタイ11:2~6)。「互いに論じ合」うのもそれなりに有意義でしょうが、限界や間違いがあります。真の答えは聖書の中にこそあります。謙虚に「イエスに尋ね」、聖書に「書いてある」御言葉に信じ従うなら、間違いのない確かな人生を歩むことができます。試練や苦難に襲われることがあっても、栄光に続く道であることはこれまでも体験済みでしょう。正しい判断・選択をしたいものです。

マルコの福音書9:2~8「私たちの変貌」

2021年11月14日、マルコの福音書9:2~8「私たちの変貌」
信仰者にとって「山」は重要な場所でした。イエスは山で説教し、祈り、大宣教命令をなさいました(マタイ5:1、14:23、28:16)。モーセはシナイ山で十戒を付与され(出エジプト記19:3~)、燃え尽きたエリヤはホレブ山で神に出会って再起しました(Ⅰ列王記19:8~)。多忙な毎日の私たちだからこそ、ひとり神の前に静まる場所・時間を持つことが大切です。御子イエスも人となられた以上、神に祈らなければ使命を遂行することができなかったのですから、私たちはなおさらそうです。
御言葉と祈りによって神と交わっていると、神をより深く人格的・体験的に知るようになり、同時に自分の罪深さ・弱さ・貧しさ等も知るようになります。イエスによる大漁の奇跡を目の当たりにしたペテロが、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」(ルカ5:8)と言わずにはいられなかったように、自分の惨めな真相に気づかされておののくはずです。問題はその後どういう態度をとるかです。イエスの愛の中に憩うことができないのは、自分の真の姿がわかっていないから、否、裸で惨めな自分の姿を認めようとしないから、認めたがらないからでしょう。それがまさに律法学者やパリサイ人の生き方でした。しかし神の前に自分の真相を正直に認めて砕かれるとき、聖化の恵みにあずかります。続いて「覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていき」(Ⅱコリント3:18)、成長・成熟していきます。そして「キリストが現れたときに(再臨)、キリストに似た者になる」(Ⅰヨハネ3:2)、救いが完成される栄化の恵みにあずかるのです。

マルコの福音書9:2~8「愛するイエスの言うことを聞け」

2021年10月31日、マルコの福音書9:2~8「愛するイエスの言うことを聞け」
イエスの変貌を目撃したペテロが「恐怖に打たれて」発した言葉には、二つの誤りがありました。第一は、神の御子イエスをモーセやエリヤと同列に置いたことです。その誤りを正すため神はモーセとエリヤを隠し、「イエスだけで、もはやだれも見えな」いようにされました。イエス受洗時に「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(1:11)と言われた神は、「あなたはキリストです」との信仰告白直後の受難予告に戸惑い、理解できない弟子たちに(8:27~38)、イエスこそ神の御子、救い主であることを示すため、「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け」とペテロたちに語りかけられました。
「私たちは、ペテロと同じ過ちにしばしば陥ります。イエスという存在をほかの存在と並べて、またさまざまな情報を集め、いったいだれの声が自分に最善なのだろうと考え、イエスにだけ向き合うことをなかなかしません」(藤本満師)。しかし今後は、深呼吸して心を静め、「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け」との御言葉を思い起こし、「イエスから、目を離さないで」(ヘブル12:2)、イエスを十字架の死にまで渡された神の愛と御言葉に信頼し聴従しましょう。
第二の誤りは、「幕屋を三つ造」って栄光を保存しようとしたことです。彼らが山上でイエスの変貌を目撃したのは、そこにいつまでも留まって自分たちだけいい気分に浸るためではありません。山麓には罪や重荷で苦しむ人々がいます。山上の栄光を味わった者には、山麓で苦悩する人々のもとに行ってイエスを証しする使命があります(16:15)。私たちは「集められて祈り、散らされて宣べ伝える」のです。

マルコの福音書9:2~8「御姿が変わったイエスは何者か」

2021年10月10日、マルコの福音書9:2~8「御姿が変わったイエスは何者か」
受難予告に動揺する弟子たちの目が開かれるよう「イエスは…祈るために山に登られ」(ルカ9:28)、「彼らの目の前でその御姿が変わ」りました。「世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光」(ヨハネ17:5)が一時的に回復されたもので、イエスは子なる神であることを示す変貌ですが、実は受肉降誕こそが最大最高の変貌です(ピリピ2:6~7)。
そこに「エリヤ(預言者の代表)がモーセ(律法の代表)とともに…現れ、イエスと語り合っていた」のは、イエスは旧約の律法と預言を成就するために来られた約束の救い主であることを示しています(マタイ5:17)。
三人が語り合っていたのは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(直訳「成就しようとしている出発」)について」(ルカ9:31)でした。イエスは、過越の小羊の血によってイスラエルがエジプトの奴隷から解放されたように、十字架の血によって全人類を罪の奴隷から救うために来臨された受難の救い主であることを示しています。
「彼らの目の前でその御姿が変わった」主が特に臨在されるところが主日礼拝です。礼拝での御言葉や賛美を通して、主はご自身を鮮やかに現されます。何かあるとすぐに思い煩ったり、変に白けたり諦めたりするのは、結局この栄光の主を見る目が曇っているからではないでしょうか。主は、全世界・全宇宙の王として今も天地万物を統べ治め、歴史を支配しておられます。そんな超越した主が、信じる私たちといつも共にいて味方となり、折にかなった助けを与えてくださり、やがて再臨して私たちの救いを完成してくださいます。この栄光の主をはっきり認める信仰の目を開いていただきましょう。

マルコの福音書9:1「神の国の力ある到来」

2021年9月12日、マルコの福音書9:1「神の国の力ある到来」
①神の国の到来
「神の国」とは、神の恵みによる支配、ということです。エゴとエゴとがぶつかり合う世界、家庭や職場、学校は悲惨です。イエスは、そんな地上に神の国を実現するために来られました。イエスが「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:20~21)と言われたように、神の国はイエス来臨によってすでに地上に到来しているのです。
②神の国の力ある到来
「神の国が力をもって到来しているのを見る」とは、すでに到来している神の国が、これまで以上に力強く現れるということで、十字架を指しているのでしょう。暗黒の支配者サタンは、御子イエスを抹殺しさえすれば自分の思い通りになると考え、サタンの国の総力をあげて神の国に戦いを挑んできたのが、あの十字架です。「彼(キリスト)はおまえ(サタン)の頭を打ち、おまえ(サタン)は彼(キリスト)のかかとを打つ」(創世記3:15)とあるように、キリストの死によってサタンが勝利したかに見えましたが、キリストは三日目に復活してサタンの「頭を打ち」、救いを完成されました。以前は神に背いて歩む「悪魔の子ども」(Ⅰヨハネ3:103)、「御怒りを受けるべき子ら」(エペソ2:3)でしたが、十字架を信じて救われた私たちの心の「ただ中に」も神の国が実現しています。そして完全な神の国が再臨後に実現します(黙示録21:1~4)。そのときまで「自分を捨て、自分の十字架を負って」イエスに従い続けましょう。「生涯が終わり、天国で兄弟姉妹たちと一緒に記念撮影をするとしたら、あなたはどんな姿で写りたいですか?」(チェイ師)。

マルコの福音書8:34~38節「たとえ全世界を手に入れても」

2021年8月29日、マルコの福音書8:34~38節「たとえ全世界を手に入れても」
35節以下は、「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われた理由です。「いのち」は私たちの存在の根源です。「自分のいのちを救おうと思う者」、神を抜きにして成功や繁栄を追い求める者は、逆に「いのち」を失い、神もその人を「恥じます」。「たとえ全世界を手に入れ」るほど成功しても、「自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか」、取り返しのつかない大損失です。
「私は全世界を手に入れたいとは思わない」と言うかもしれませんが、「全世界」を「自分の理想や宝」に置き換えることもできるでしょう。それらを手に入れたとしても、失ってしまっては元も子もない、もっと大切なもの、「全世界」に匹敵する、否それ以上に価値あるもの、それが「いのち」、あなた自身なのです。その「いのち」を救うか失うかは、結局イエスとの関係にかかっているのです。イエスを信じて従う弟子となる決断をすることは人生の大事業です。昔、「どっちが得か、よーく考えてみよう」と言うCMがありました。イエスの弟子として生きるか、イエスを拒絶して生きるか、二つに一つであって、中間などあり得ません。イエスはその選択を迫られたのです。
神に敵対する「姦淫と罪の時代にあって」、イエスに従って生きようとする私たちに対して、世は恐るべき力と巧妙さをもって妥協を迫ってきます。その際、「イエスならどうされるだろうか(WWJD?…What would Jesus do?の略)」を行動の判断基準としましょう。イエスの弟子として生きる道は、ときに犠牲を強いられることがあっても、間違いなく祝福の道です。パウロや世々のキリスト者たちが証人です。

マルコの福音書8:34「十字架を負ってイエスに従う」

2021年8月22日、マルコの福音書8:34「十字架を負ってイエスに従う」
「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われたとき、十字架刑を何度も目撃してきた弟子たちは大きな衝撃を受けたことでしょう。イエスにとって「十字架を負」うことは、全人類を罪と滅びから救い出そうとする神の御心でした。そのイエスを信じて生きる者も、神の御心を受け入れて歩むよう招かれているのです。
私たちは他人の十字架がどの程度重いかよく知らないで、「あの人の十字架のほうがよい」などと軽はずみに言いがちですが、神は私たち一人ひとりにぴったり合った十字架、この私にしか負えない十字架を備えておられます。だからこそ、「自分の十字架を負って…従って来なさい」と言われたのです。それなのに私たちは何としばしば「変えることのできるもの」を変えずに放置してきたことでしょうか。逆に「変えることのできないもの」を変えようとして絶望したことでしょうか。自分の十字架を他人の十字架と交換することなどできないし、無意味なことです。それよりむしろ、愛なる神が私にとって一番良いと思って割当ててくださった十字架として感謝して受け入れ、「自分の十字架を負って」イエスに従って行くことです。それこそが最も自分らしく最高の人生を送ることができる生き方なのです。
それでも「自分の十字架を負」うことに納得できない場合、どれほど豊かな神の恵みがあったか思い返してみましょう。納得できないことをはるかに上回る神の恵みがあったはずです。今はわからなくても、辛く悲しくても、「自分の十字架を負って」イエスに従うことをやめないでください。きっとイエスや兄弟姉妹の助けがあります。

マルコの福音書8:34「自分を捨ててイエスに従う」

2021年8月15日、マルコの福音書8:34「自分を捨ててイエスに従う」
イエスに従って行くためには、その前に「自分を捨て」ということがどうしても必要になります。「自分を捨て」るとは、人格や個性を否定することでもなければ、夢や財産を投げ出すことでもありません。「何が何でも。自分が、自分が」という自分勝手な思いを捨てて、神の御心に的を合わせて生きることです。「額には神の御名が記されている」(黙示録22:4)私たちの言動によって、かえって「神の御名」が汚されていないでしょうか。真に「自分を捨て」てイエスに従っているなら、真に毎週神を礼拝して御言葉を聞いているなら、そのような状態を放置したままにしないはず、否できないはずです。それができていること自体、真に「自分を捨て」て従おうとしていない証拠でしょう。神の御言葉は、何も私たちを苦しめたり困らせたりするためにあるのではありません。私たちが真に人間らしく歩めるようにと願われる神の愛の語りかけです。その御言葉によって叱られたとき、「自分を捨て」て神中心の生き方に方向転換する人は幸いです。
並行箇所には「自分を捨て、日々自分の十字架を負って」(ルカ9:23)とあります。「時々」ではなく「日々」です。「自分を捨て、自分の十字架を負って」イエスに従うのは、特別な日のためだけのものでもなければ、牧師や宣教師になる人だけのものでもありません。ごく平凡な日常生活の繰り返しの中でこそ実践すべき生き方なのです。イエスの生涯は、まさに「自分を捨て、自分の十字架を負って」神の御心に従って生きることが、どんなに自分自身にとっても周囲の人々にとっても祝福であるか、身をもってお示しくださった生涯でした。

マルコの福音書8:34「自分を捨て、十字架を負われたイエス」

2021年8月8日、マルコの福音書8:34「自分を捨て、十字架を負われたイエス」
「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と弟子たちや群衆に言われたイエスは、口先だけでなく、ご自身がまずこの言葉を実践されました。
最初の人アダムは「神のようになって善悪を知る者とな」りたいと考えて不従順の罪に陥りましたが(創世記3:5~6)、「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を」惜しみなく捨てて、「ご自分を空しくして」私たちと同じ人となられました。人から礼拝され仕えられるべきキリストなのに、「仕えられるためではなく仕えるために…来た」と言われたとおり(10:45)、徹底的に人に仕える「しもべの姿をと」られました(ヨハネ13:1~5)。罪を除いては完全に「人間と同じようになられ」、まさしく「人としての姿をもって現れ(フランシスコ会訳「その姿はまさしく人間であり」)、「すべての点で兄弟たちと同じようになら」れ、「自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです」(ヘブル2:17~18)。そして「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」。キリストは全人類の罪の身代わりとして十字架上で死なれましたが、神はキリストを復活させることにより、キリストを信じるだけですべての罪が赦される救いを完成されたのです(ピリピ2:6~8)。
キリストが莫大な犠牲を払われたのは、私たちを愛するがゆえです。「わたし(主)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」からです(イザヤ書43:4)。このキリストに「自分を捨て、自分の十字架を負って…従って」いくことは、大きな喜びであり光栄です。

マルコの福音書8:31~33「キリストの後ろに下がる」

2021年7月25日、マルコの福音書8:31~33「キリストの後ろに下がる」
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」「あなたはキリストです」というやり取り直後の受難予告でしたから、弟子たちは耳を疑いました。ペテロがイエスの身を案じて「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」(マタイ16:22)と「いさめ始めた」ところ、「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とイエスに厳しく叱責されました。十字架の道を進む決意を邪魔する発言だったからです。同様の誘惑の1回目が「御霊に導かれて荒野に上って行かれ…四十日四十夜、断食を」されたとき(マタイ4:1~11)、2回目が今回、3回目が十字架前夜のゲツセマネでの祈りのときでした(マタイ26:36~46)。いずれも、十字架による救いを何とか阻止しようとするサタンの巧妙な誘惑でした。ペテロがサタンだというのではありません。「神のことを思わないで、人のことを思っている」ペテロの発言をサタンが利用したのです。イエスはそのことを見抜かれたので、厳しくお叱りになったのです。
「下がれ、サタン」を直訳すると、「下がりなさい、わたしの後ろに、サタンよ」となります。「後ろに」という語は、「だれでもわたし(の後ろ)に従って来たければ」(34節)にも使われています。私たちはついついでしゃばりがちです。神の御心よりも自分の思いを押し通したり、神に逆提案したりしがちです。しかしイエスを信じて生きるとは、いつもイエスの後ろにいるということです。イエスの慈愛に満ちた背中を見つめているなら、私たちの日々の歩みや言動は変わってくるはずです。今のあなたの立ち位置はイエスの前ですか、後ですか。

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