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マルコの福音書9:1「神の国の力ある到来」

2021年9月12日、マルコの福音書9:1「神の国の力ある到来」
①神の国の到来
「神の国」とは、神の恵みによる支配、ということです。エゴとエゴとがぶつかり合う世界、家庭や職場、学校は悲惨です。イエスは、そんな地上に神の国を実現するために来られました。イエスが「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:20~21)と言われたように、神の国はイエス来臨によってすでに地上に到来しているのです。
②神の国の力ある到来
「神の国が力をもって到来しているのを見る」とは、すでに到来している神の国が、これまで以上に力強く現れるということで、十字架を指しているのでしょう。暗黒の支配者サタンは、御子イエスを抹殺しさえすれば自分の思い通りになると考え、サタンの国の総力をあげて神の国に戦いを挑んできたのが、あの十字架です。「彼(キリスト)はおまえ(サタン)の頭を打ち、おまえ(サタン)は彼(キリスト)のかかとを打つ」(創世記3:15)とあるように、キリストの死によってサタンが勝利したかに見えましたが、キリストは三日目に復活してサタンの「頭を打ち」、救いを完成されました。以前は神に背いて歩む「悪魔の子ども」(Ⅰヨハネ3:103)、「御怒りを受けるべき子ら」(エペソ2:3)でしたが、十字架を信じて救われた私たちの心の「ただ中に」も神の国が実現しています。そして完全な神の国が再臨後に実現します(黙示録21:1~4)。そのときまで「自分を捨て、自分の十字架を負って」イエスに従い続けましょう。「生涯が終わり、天国で兄弟姉妹たちと一緒に記念撮影をするとしたら、あなたはどんな姿で写りたいですか?」(チェイ師)。

マルコの福音書8:34~38節「たとえ全世界を手に入れても」

2021年8月29日、マルコの福音書8:34~38節「たとえ全世界を手に入れても」
35節以下は、「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われた理由です。「いのち」は私たちの存在の根源です。「自分のいのちを救おうと思う者」、神を抜きにして成功や繁栄を追い求める者は、逆に「いのち」を失い、神もその人を「恥じます」。「たとえ全世界を手に入れ」るほど成功しても、「自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか」、取り返しのつかない大損失です。
「私は全世界を手に入れたいとは思わない」と言うかもしれませんが、「全世界」を「自分の理想や宝」に置き換えることもできるでしょう。それらを手に入れたとしても、失ってしまっては元も子もない、もっと大切なもの、「全世界」に匹敵する、否それ以上に価値あるもの、それが「いのち」、あなた自身なのです。その「いのち」を救うか失うかは、結局イエスとの関係にかかっているのです。イエスを信じて従う弟子となる決断をすることは人生の大事業です。昔、「どっちが得か、よーく考えてみよう」と言うCMがありました。イエスの弟子として生きるか、イエスを拒絶して生きるか、二つに一つであって、中間などあり得ません。イエスはその選択を迫られたのです。
神に敵対する「姦淫と罪の時代にあって」、イエスに従って生きようとする私たちに対して、世は恐るべき力と巧妙さをもって妥協を迫ってきます。その際、「イエスならどうされるだろうか(WWJD?…What would Jesus do?の略)」を行動の判断基準としましょう。イエスの弟子として生きる道は、ときに犠牲を強いられることがあっても、間違いなく祝福の道です。パウロや世々のキリスト者たちが証人です。

マルコの福音書8:34「十字架を負ってイエスに従う」

2021年8月22日、マルコの福音書8:34「十字架を負ってイエスに従う」
「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われたとき、十字架刑を何度も目撃してきた弟子たちは大きな衝撃を受けたことでしょう。イエスにとって「十字架を負」うことは、全人類を罪と滅びから救い出そうとする神の御心でした。そのイエスを信じて生きる者も、神の御心を受け入れて歩むよう招かれているのです。
私たちは他人の十字架がどの程度重いかよく知らないで、「あの人の十字架のほうがよい」などと軽はずみに言いがちですが、神は私たち一人ひとりにぴったり合った十字架、この私にしか負えない十字架を備えておられます。だからこそ、「自分の十字架を負って…従って来なさい」と言われたのです。それなのに私たちは何としばしば「変えることのできるもの」を変えずに放置してきたことでしょうか。逆に「変えることのできないもの」を変えようとして絶望したことでしょうか。自分の十字架を他人の十字架と交換することなどできないし、無意味なことです。それよりむしろ、愛なる神が私にとって一番良いと思って割当ててくださった十字架として感謝して受け入れ、「自分の十字架を負って」イエスに従って行くことです。それこそが最も自分らしく最高の人生を送ることができる生き方なのです。
それでも「自分の十字架を負」うことに納得できない場合、どれほど豊かな神の恵みがあったか思い返してみましょう。納得できないことをはるかに上回る神の恵みがあったはずです。今はわからなくても、辛く悲しくても、「自分の十字架を負って」イエスに従うことをやめないでください。きっとイエスや兄弟姉妹の助けがあります。

マルコの福音書8:34「自分を捨ててイエスに従う」

2021年8月15日、マルコの福音書8:34「自分を捨ててイエスに従う」
イエスに従って行くためには、その前に「自分を捨て」ということがどうしても必要になります。「自分を捨て」るとは、人格や個性を否定することでもなければ、夢や財産を投げ出すことでもありません。「何が何でも。自分が、自分が」という自分勝手な思いを捨てて、神の御心に的を合わせて生きることです。「額には神の御名が記されている」(黙示録22:4)私たちの言動によって、かえって「神の御名」が汚されていないでしょうか。真に「自分を捨て」てイエスに従っているなら、真に毎週神を礼拝して御言葉を聞いているなら、そのような状態を放置したままにしないはず、否できないはずです。それができていること自体、真に「自分を捨て」て従おうとしていない証拠でしょう。神の御言葉は、何も私たちを苦しめたり困らせたりするためにあるのではありません。私たちが真に人間らしく歩めるようにと願われる神の愛の語りかけです。その御言葉によって叱られたとき、「自分を捨て」て神中心の生き方に方向転換する人は幸いです。
並行箇所には「自分を捨て、日々自分の十字架を負って」(ルカ9:23)とあります。「時々」ではなく「日々」です。「自分を捨て、自分の十字架を負って」イエスに従うのは、特別な日のためだけのものでもなければ、牧師や宣教師になる人だけのものでもありません。ごく平凡な日常生活の繰り返しの中でこそ実践すべき生き方なのです。イエスの生涯は、まさに「自分を捨て、自分の十字架を負って」神の御心に従って生きることが、どんなに自分自身にとっても周囲の人々にとっても祝福であるか、身をもってお示しくださった生涯でした。

マルコの福音書8:34「自分を捨て、十字架を負われたイエス」

2021年8月8日、マルコの福音書8:34「自分を捨て、十字架を負われたイエス」
「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と弟子たちや群衆に言われたイエスは、口先だけでなく、ご自身がまずこの言葉を実践されました。
最初の人アダムは「神のようになって善悪を知る者とな」りたいと考えて不従順の罪に陥りましたが(創世記3:5~6)、「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を」惜しみなく捨てて、「ご自分を空しくして」私たちと同じ人となられました。人から礼拝され仕えられるべきキリストなのに、「仕えられるためではなく仕えるために…来た」と言われたとおり(10:45)、徹底的に人に仕える「しもべの姿をと」られました(ヨハネ13:1~5)。罪を除いては完全に「人間と同じようになられ」、まさしく「人としての姿をもって現れ(フランシスコ会訳「その姿はまさしく人間であり」)、「すべての点で兄弟たちと同じようになら」れ、「自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです」(ヘブル2:17~18)。そして「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」。キリストは全人類の罪の身代わりとして十字架上で死なれましたが、神はキリストを復活させることにより、キリストを信じるだけですべての罪が赦される救いを完成されたのです(ピリピ2:6~8)。
キリストが莫大な犠牲を払われたのは、私たちを愛するがゆえです。「わたし(主)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」からです(イザヤ書43:4)。このキリストに「自分を捨て、自分の十字架を負って…従って」いくことは、大きな喜びであり光栄です。

マルコの福音書8:31~33「キリストの後ろに下がる」

2021年7月25日、マルコの福音書8:31~33「キリストの後ろに下がる」
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」「あなたはキリストです」というやり取り直後の受難予告でしたから、弟子たちは耳を疑いました。ペテロがイエスの身を案じて「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」(マタイ16:22)と「いさめ始めた」ところ、「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とイエスに厳しく叱責されました。十字架の道を進む決意を邪魔する発言だったからです。同様の誘惑の1回目が「御霊に導かれて荒野に上って行かれ…四十日四十夜、断食を」されたとき(マタイ4:1~11)、2回目が今回、3回目が十字架前夜のゲツセマネでの祈りのときでした(マタイ26:36~46)。いずれも、十字架による救いを何とか阻止しようとするサタンの巧妙な誘惑でした。ペテロがサタンだというのではありません。「神のことを思わないで、人のことを思っている」ペテロの発言をサタンが利用したのです。イエスはそのことを見抜かれたので、厳しくお叱りになったのです。
「下がれ、サタン」を直訳すると、「下がりなさい、わたしの後ろに、サタンよ」となります。「後ろに」という語は、「だれでもわたし(の後ろ)に従って来たければ」(34節)にも使われています。私たちはついついでしゃばりがちです。神の御心よりも自分の思いを押し通したり、神に逆提案したりしがちです。しかしイエスを信じて生きるとは、いつもイエスの後ろにいるということです。イエスの慈愛に満ちた背中を見つめているなら、私たちの日々の歩みや言動は変わってくるはずです。今のあなたの立ち位置はイエスの前ですか、後ですか。

マルコの福音書8:31~33「多くの苦しみを受けるキリスト」

2021年7月18日、マルコの福音書8:31~33「多くの苦しみを受けるキリスト」
イエスはご自分を指して「人の子」と呼ばれました。永遠の主権者としての「人の子」であり(ダニエル書7:13~14)、受難のしもべとしての「人の子」(イザヤ書第53章)でもあることを含んだ呼称です。「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならない」と受難の予告をされました(9:31、10:33~34)。イエスの受難は偶然ではなく、必然的な神の救いのご計画であることを強調した「なければならない」です。
イエスはユダヤ教指導者たちに「捨てられ(審査に通らない、の意)」、十字架につけられて「殺され、三日後によみがえらなければな」りません。「神は、罪を知らない方(イエス)を私たちのために罪とされ」(Ⅱコリント5:21)た以上、愛する御子であってもさばかずにはいられないのが義なる神ですから、神の怒りが容赦なく下りました。イエスはユダヤ教指導者たちの審査には通らず、「捨てられ」ましたが、神の審査には通ったので「三日後によみがえ」り、救いを成就されたのです。
人間にとっての最大の危険は、神の審査に合格できないことです。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まってい」(ヘブル9:27)て、その結果、「罪の報酬は死です」(ローマ6:23)。一生懸命努力して入学試験等に合格しても、最後の最後、神の試験に不合格になったら、これまでの努力や苦労は水泡に帰してしまうと思いませんか。イエスの十字架と復活は私の罪のためと信じるなら、すべての罪は赦され、神の審査に合格させてくださるのです。あなたは神の審査に合格できるでしょうか。合格したいと思いませんか。

マルコの福音書8:27~30「あなたはキリストです」

2021年7月11日、マルコの福音書8:27~30「あなたはキリストです」
イエスが辺鄙な「ピリポ・カイサリアの村々に出かけられた」のは、弟子たちに重大な質問をするためでした。まずは、「人々はわたしをだれだと言っていますか」という一般質問でした。次に、世間はともかくとして「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と鋭く切り込まれました。するとペテロが弟子たちを代表して、「あなたはキリストです」という百点満点の信仰告白をしました。しかし弟子たちの現時点でのキリスト理解が不十分であったことは、直後の出来事で明らかになります(31~33節)。だからこそ、真っ先に信仰告白したペテロが、十字架前夜、真っ先にイエスを否認することになるのです。
旧約時代、王や預言者や祭司が任職のとき油を注がれたように、キリストは、王・預言者・祭司の三つの権能を兼ね備えたお方です。キリストは全宇宙・全世界を統治し、最善のご計画をもって私たちを守り導いていてくださる真の王です。聖書の言葉をもって私たちに語りかけ、御心を示してくださる真の預言者です。父なる神の右に座して私たちのために贖いをし、とりなし祈っていてくださる真の祭司です。そして私たちに罪を示し、その罪のためにイエスが十字架上で死んで三日目に復活されたことを示し、イエスを救い主と信じることができるようにしてくださるのが聖霊です(Ⅰコリント12:3)。預言者エリヤはイスラエルの民に「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え」(Ⅰ列王記18:21)と決断を迫りました。「あなたはキリストです」と告白し、生涯従い続けましょう。

マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復②」

2021年6月27日、マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復②」
イエスは「目の見えない人」に対して、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」という見え方でよしとせず、「すべてのものがはっきりと見えるように」なるまで関わり続けられました。弟子たちも「あなたはキリストです」と信仰告白できるほど目が開かれていました。第一段階の癒しです。しかしその直後、「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱責されたように、まだまだ見えていませんでした(27~30節)。そのような状態の弟子たちでしたから、「だれが一番偉いか論じ合」い(9:34)、一つになれなかったのも当然です。しかしイエスの十字架・復活・昇天後に約束の聖霊が注がれると、弟子たちの「目がすっかり治り」、互いに愛し合い、いのちがけで福音を宣べ伝えるようになりました。第二段階の癒しで、弟子たちがイエスの前に留まって懇ろなお取り扱いを受け続けた結果です。大切なことは、私たちの側で簡単に諦めたり、中途半端に納得したりしないこと、「すべてのものがはっきりと見えるように」なるまでイエスの前に留まり続けることです。
「人は、自分自身の自己中心性や隠された動機に気がつかないかぎり、自分はキリストがわかっていると考えながら、まったくわかっていなかったり、キリストのために働いていると思いながら、実は自分の栄光のために奉仕したりしていることが多い」(坂野慧吉師)。自分の問題に何となく気づいているはずです。「私の心の目を開き、私の本当の姿を見せてください」と祈りましょう(黙示録3:18)。自分の問題の核心を正直に認め、イエスに触れて癒していただきましょう。

マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復①」

2021年6月13日、マルコの福音書8:22~26「霊の視力の回復①」
「ベツサイダに着いた」イエスのもとに「人々が目の見えない人を連れて来て、彼にさわってやってくださいと…懇願した」ので、「イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれ…彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当て」られました。まだぼんやりとしか見えなかったので、「再び両手を彼の両目に両手を当てられ」ると、「目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようにな」りました。
「見えるようになって(見上げて、の意)」という語は、五千人の給食(6:41)や「耳が聞こえず口のきけない人」の癒し(7:34)にも出てきます。預言者エリシャの召使いはアラムの大軍に包囲されて狼狽しますが、エリシャが「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください」と祈ると、「主がその若者の目を開かれたので…火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」のを見ました(Ⅱ列王記6:15~17)。
厳しい現実に直面すると、意気消沈したり、目に見える何かに依り頼んだりしがちです。しかし真に目が開かれるならば、私は「火の馬と戦車が…取り巻いて…満ちて」守られているというもう一つの現実が見えてくるはずです。私の霊の目が閉ざされているから、信仰の目を上げて見ることができずにいるから、神の恵みや守りがわからないのではありませんか。私も「目の見えない人」で、イエスに「すべてのものがはっきりと見えるように」されなければならない者であることを正直に認め、私にも「さわってくださいとイエスに懇願し」ましょう。「イエスは…手を取って」親身に寄り添い、「はっきりと見えるようにな」るまで、辛抱強く関わり続けてくださいます。

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