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ヘブル人への手紙11:7「信仰によって、ノアは」

2018年7月8日、ヘブル人への手紙11:7「信仰によって、ノアは」
①信仰による従順
暴虐が地に満ちる「時代の人々の中で正しく、かつ全き人で…神とともに歩んだ」(創世記6:5、11~12、9)ノアは、洪水によって地を滅ぼすから箱舟を造るよう神に命じられると、神の言葉を微塵も疑わないで「すべて神の命じられたようにし」ました(6:13~14、22、7:5、9、16)。「信仰と服従とは、神の人の生涯の軌道をつくる二本のレールである。服従は信仰から生じ、生ける信仰はまた必ず絶対の服従に現れる」(澤村五郎師)。箱舟同様、十字架も「滅び行く者には愚か」に見えますが、罪と滅びから救い得るのはこの十字架のみです(Ⅰコリント1:18、23)。十字架信仰によって救いの箱舟に入れられた私たちは、七日ごとに箱舟に戻ってきます。主日礼拝をささげるためです。これからも御言葉に服従し、主の愛の中に留まり続けましょう(ヨハネ15:9、マタイ11:29)。
②信仰による宣教
洪水から救われたのはノア一家だけでしたが、ノアは「義の宣伝者」として、やがて洪水で滅びること、しかし箱舟に入れば救われることを乗船前まで人々に語ったことでしょう(Ⅱペテロ2:5)。「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい」とあるように、主は個人の救いとともに家族の救いを願っておられます(創世記7:1、使徒16:31)。世の人々に福音を語るとともに、愛する家族に語る責任があります。ノア一家によって始められた新しい地でしたが、再び罪が蔓延し、今度は洪水ではなく火によって滅ぼされ、その後「新しい天と新しい地」が完成します(Ⅱペテロ3:5~13)。それまでの間、私たちも「義の宣伝者」としていのちの限り東奔西走しましょう(使徒18:9~10、ヨハネ9:4、Ⅱテモテ4:2)。

ヘブル人への手紙9:23~28「キリストによる完全な救い」

8月23日、ヘブル人への手紙9:23~28「キリストによる完全な救い」
旧約時代、「大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはい」り、まず自分と自分の家族、次にイスラエル全体の罪の贖いをしました。しかしこれは、贖罪の日(レビ記 第16章、宗教暦の7月10日、太陽暦の9~10月)を迎えるたびに、毎年毎年繰り返さなければならない、「罪を除き去ることができない」(10:4)不完全な贖いでした。
それに対して永遠の大祭司キリストは、「たびたびご自身をささげられるのではな」く、十字架上に「一度だけご自身をささげられ」、「やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって…永遠のあがないを全うされ」ました(12節)。二度と繰り返す必要のない、一度にして完全な贖いでした。しかも、「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は」、犯した罪を赦すだけではなく、「わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者と」する、罪の性質までも潔め得る全き贖いで巣(14節)。
キリストは「二度目に現れ」られます。再臨です。それは、十字架上で再び「罪を負うためではなしに」、「彼を待ち望んでいる人々に…救を与え」るためです。キリストの初臨、十字架と復活によって神の国(神の恵みによる支配)はすでに到来していますが、悪魔が働き、罪悪がはびこる不完全な状態で、いまだ完成していません。しかしキリストの再臨によって、悪魔と罪が全く滅ぼされて神の国が完成し、神の民はそこで永遠に神と共に住むのです。私たちはこの「すでに」と「いまだ」の間の緊張状態の中に生かされているのですから、常に心の目を覚まし、再臨のキリストを待ち望みましょう(マタイ25:1~13)。

ヘブル人への手紙9:11~15「十字架の血による永遠の贖い」

8月16日、ヘブル人への手紙9:11~15「十字架の血による永遠の贖い」
旧約時代、イスラエルには国を挙げて罪を贖う「贖罪の日」がありました。大祭司はまず自分自身と家族のため、次に全会衆のため、贖罪所(契約の箱のふた)に子牛の血を注ぎました。それは、「一度だけ」でなく、毎年繰り返さなければならない贖いでした(レビ記 第16章)。
それに対してキリストは、「やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって」、すなわち「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)として十字架上にご自身を献げ、血潮を注ぎ出すことによって全人類の罪の贖いを成し遂げられました。それは、「一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされた」、毎年毎年繰り返す必要のない、一度にして完全な、永遠に効力を発揮し続ける贖いです。
「やぎや雄牛の血(贖罪の日に流される血)や雌牛の灰(民数記 第19章)」は、確かに死体に触れて「汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別」しましたが、それは外面的な汚れを除去するだけでした。
しかし罪の全くない御子の十字架の血は(4:15、7:26)、罪を悔い改めて十字架を信じる者の罪を完全に赦し(詩篇103:12、イザヤ書38:17、43:25、44:22、ミカ書7:19、エペソ1:7、Ⅰペテロ1:18~19)、聖なる神に恐れなく近づき、親しく交わることを可能にして下さいます(10:19)。さらに醜い自分の姿に心底泣いて十字架を仰ぐとき、十字架は犯した罪を赦すだけでなく罪の性質をも潔める十字架であることを見出し、信仰によって「わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者」とされるのです(ガラテヤ2:19~20)。「力ある主イエスの血 受けよ受けよ 力ある主イエスの血 受けよ今受けよ」(新聖歌235番)。

ヘブル人への手紙13:7~25「永遠の都目指して」

8月9日、ヘブル人への手紙13:7~25「永遠の都目指して」
「神の言を…語った指導者たち」は、永遠に生きて教会を直接導き続けることはできませんが、その指導者たちが信じ、従ってきた「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」真の救い主、指導者であり、私たちの信仰の究極的な土台です(1:8~12)。
また「食物」に関する「違った教」がありましたが、「きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」イエスによって「どんな食物でもきよいものとされた」ので(マルコ7:19、ヘブル9:10)、「違った教」に惑わされることなく、「恵みによって、心を強くするがよい」と勧めます。
そして「わたしたちには一つの祭壇がある」、御子イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)として献げられた十字架があると宣言します。旧約時代、知らずに罪を犯した場合、牛等を罪祭として献げ、その血は幕屋の垂幕他に注ぎ、脂肪他は祭壇で焼き、残りは宿営の外の灰捨場で焼き捨てました(レビ記 第4章)。時満ちて、イエスは真の罪祭となられ、「門の外で」、エルサレムの城壁の外のゴルゴタの丘で「苦難を受けられ」、犠牲の血を流し、罪祭の汚物のように捨てられました。それは他でもない、この私の罪のためでした。悔い改めと信仰によって救いにあずかった「わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか」。迫害を恐れて世と妥協したり歩調を合わせたりせず、私のために死んで復活されたイエスと共に十字架を負い、「狭い門からはいれ」(マタイ7:13~14)と励まします。なぜなら、「この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているもの」だからです。

ヘブル人への手紙13:1~6「サヨナラを言わない神」

8月2日、ヘブル人への手紙13:1~6「サヨナラを言わない神」
①兄弟愛の勧め(1~3節)
迫害が次第に激しくなる中、兄弟愛の交わりから離れていく人々がいたようです(10:24)。また宿の少なかった当時、キリスト者が旅行する場合(時には迫害を逃れて)には同信の友として自宅に泊め(創世記18:1~8)、「獄につながれている人たちを…思いやり…心にとめ」て祈る等、「兄弟愛を続けなさい」と命じます。教会はこの兄弟愛のゆえに様々な迫害や困難を耐え忍び、今日まで存続してきました。「神第一、あなた第二、そして私は最後」の心で兄弟愛を互いに実践しましょう。
②貪欲の戒め(4~6節)
兄弟愛を実践するためにも、「結婚を重ん」じ、「不品行…や姦淫」を避けなければなりません。これらの罪は家庭を破壊するばかりか、厳しいさばきが下ります(黙示録21:8)。次に、「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい」と命じます。なぜなら、「わたしは、決して決してあなたを離れず、あなたを決して決して決して捨てない」と主が約束されているからです。天地に満ちるすべては主のもので(詩篇24:1)、主とその御言葉に従って歩む者には、主はこれらを総動員してでも御言葉の約束通り必ず必要を満たして下さいます。そのように信じる人は、「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」(詩篇118:6)と力強く告白することができます。ある人は「貪欲は懐疑より生まれ、満足は信仰の子である」と言いました。主に信頼していないから満足や平安がなく、御言葉に従わないから御言葉通りにならないのです。

ヘブル人への手紙12:12~17「きよくならなければ」

7月19日、ヘブル人への手紙12:12~17「きよくならなければ」
①手とひざを強くせよ(12~13節)
主は私たちを愛し期待するがゆえに、あえて私たちを訓練されますが(6節)、「それだから…なえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい」と激励されます。「手と…ひざ」は祈りを暗示しています。主の訓練に耐えかね、時に失望落胆、意気消沈して祈れなくなってしまうことがあります。歩かなければ足腰が弱るのと同様、祈らなければ信仰全体が弱ってしまい、その結果、ますます祈れなくなり、負の連鎖に陥ります。それゆえ、祈れない時にこそ祈る必要があるのです。そしてこれこそ訓練を乗り越える秘訣であり、信仰回復のための最短距離です。お互い弱い者であることを自覚して、祈り合い支え合いながら、天国のゴールを目指したいものです(13節)。
②平和と聖を追い求めよ(14~17節)
主が私たちを訓練されるのは、「きよさにあずからせるため…平安な義の実を結ばせる」ためですが(10~11節)、ここでも「すべての人と相和し(=直訳「平和」)、また、自らきよくなるように(=直訳「聖なること」)努めなさい」と命じます。「聖」とは、世から区別されて主のものになりきることです。「努めなさい(=直訳「追い求め続けなさい」)」ということは、平和や聖は放っておけば自然に生じるものではなく、絶えざる努力と訓練によって生み出されてくるものだということです。「一杯の食のために」「長子の特権を軽んじた」エサウはそれらを怠った失敗例です(創世記25:29~34)。常に平和と聖を追い求め続けている人は、主と親しく交わることができ、再臨の「主を見ることができ」るのです。

ヘブル人への手紙12:4~11「主の訓練を喜び忍べ」

7月12日、ヘブル人への手紙12:4~11「主の訓練を喜び忍べ」
①主の愛による訓練(4~8節)
当時は迫害がそれほどひどくなく、「まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない」が、今後は厳しい迫害が予想されるので、試練の意義について語ります。主は、十字架を信じて救われた者を愛するがゆえ、期待するがゆえ、あえて「訓練し(エペソ6:4「薫陶」と同語)…むち打たれる」のです。それゆえ、「あなたがたは訓練として耐え忍びなさい」と励まし勧めます。愛するがゆえの訓練ですから、私たちの限度以上の訓練を課して、必要以上に苦しめるようなことは決してなさいません(Ⅰコリント10:13)。「キリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」(ピリピ1:29)私たちが、もし主の訓練を受けないとすれば、「私生子」、実の神の子ではない偽キリスト者だからではないかと疑ってみる必要があります。
②義の実を結ばせる訓練(9~11節)
「肉親の父」の訓練は、子どもが成人するまでの「しばらくの間」だけであり、時に誤った「自分の考えに従って訓練を与える」こともあります。しかし「たましいの父」の訓練は、私たちが天国にゴールインするまでの地上生涯すべての期間に及び、「わたしたちの益のため」常に完全・最善です。特に、主の「きよさにあずからせるために」訓練され、私たちの内から不純物やカスを取り除かれます。訓練は「当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われ」ますが、「しかし後になれば…平安な義の実を結ばせ」、あそこを通されたからこそ今の私があると感謝できる日が必ず来るのです(詩篇119:67、71)。

ヘブル人への手紙12:1~3「イエスを仰ぎ見つつ」

7月5日、ヘブル人への手紙12:1~3「イエスを仰ぎ見つつ」
①証人を見る(1節)
信仰のレース真っ最中の私たちは、すでに完走した「多くの証人に雲のように囲まれて」います。彼らも私たちと同じ人間で、傷つき倒れ、失敗したこともありましたが、「自分たちも完走できたのだから、あなたも完走できる。もうひと頑張りだ」と声援を送っていてくれます。
②自分を見る(1節)
当時の選手は、服を「かなぐり捨てて」裸同然の姿で走りました。私たちがかなぐり捨てるべきものの第一は「いっさいの重荷」です。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」(マタイ11:28)と言われる主のもとに思い煩い等すべての重荷を下ろしましょう。第二は「からみつく罪」です。信仰のレースの足を引っ張る不信仰の罪、悪習慣等があれば、十字架に磔殺しましょう(ガラテヤ5:24)。
③イエスを見る(2~3節)
私たちが真に「仰ぎ見(他のものから目を離して、ある一点に焦点を合わせる、の意)」るべきお方はイエスのみです。イエスは、全人類の救いの完成という「自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び」、十字架の道を完走され、「信仰の導き手(新改訳「創始者」)…その完成者」となられました(ピリピ1:6)。そのようなイエスだからこそ、私たちの苦悩を心底理解して共に苦しみ、助けの手を差し伸べて下さるのです(讃美歌532番2節)。試練や困難によって「弱り果てて意気そそうし」そうなこともあるでしょうが、十字架をも忍ばれたイエスの忍耐を深く「思いみ」、天国のゴール目指して走り抜きましょう。

ヘブル人への手紙11:32~40「信仰によって、あかしされた」

6月28日、ヘブル人への手紙11:32~40「信仰によって、あかしされた」
約束の地占領以後の信仰者についてごく簡単に記します。「ししの口をふさぎ」とはダニエル、「火の勢いを消し」とはシャデラク、メシャク、アベデネゴのことでしょう(ダニエル書6:6~24、3:1~30)。「たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」との三青年の言葉と救いの奇跡は、迫害のため信仰を捨てようとしている読者たちに大きな励ましとなったことでしょう。「弱いものは強くされ」とは臆病者ギデオンのことでしょうか(士師記 第6章)。エリヤやエリシャによって「女たちは、その死者(息子)たちをよみがえらさせてもら」いました(列王紀上17:8~24、列王紀下4:11~37)。これらは信仰によって祝福を受けた人々ですが、35b節以下は信仰によって迫害された人々の記録です。伝説によると、イザヤは「のこぎりで引かれ」殉教しました。
神を畏れる信仰者は「この世のものではない。だから、この世はあなたがたを憎む」のであり(ヨハネ15:19)、「この世は彼らの住む所ではなかった」のです。信仰者たちは「もっと良い、天にあるふるさと」(16節)を望みつつ、「更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった」のです。イエス来臨以前の彼らは、神の奥義のごく一部しか知らされず、「約束のもの(救いの完成、天国)は受けなかった」にもかかわらず、信仰によって苦難を耐え忍び、戦い抜きました。そうであるならば、私たちはもっと「名が天にしるされていることを喜び」(ルカ10:20)、「わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか」(12:1)と励ますのです。

ヘブル人への手紙11:31「信仰によって、遊女ラハブは」

6月21日、ヘブル人への手紙11:31「信仰によって、遊女ラハブは」
エリコを占領するために、ヨシュアはヨルダン東岸から「ひそかにふたりの斥候をつかわして」偵察させました。斥候たちが遊女ラハブの家に入ると、そのことを王に密告する者がいたので、王の手下は早速ラハブの家に捜索に来ましたが、ラハブは命懸けで斥候たちをかくまいました。エリコの住民は、出エジプトと紅海渡渉、ヨルダン東岸占領等について伝え聞いて恐れていましたが、ラハブは、イスラエルの神こそ真の神であり、罪深いエリコはこの神によって滅ぼされることを信じるようになったのでしょう。この「信仰によって、遊女ラハブは」斥候を命懸けでかくまったのです(ヨシュア記2:1~14)。このように信仰はまず聞くことから始まりますが(ローマ10:17)、次に聞いた者に決断を迫ります。ラハブ以外は聞いても信じませんでしたが、聞いて信じたラハブは、命懸けで斥候たちをかくまうという行動に出ました。真の信仰には必ず行いが伴うものです(ヤコブ2:20~26)。
イスラエルがエリコを攻撃したとき、斥候に言われたとおり赤い紐(イエスの十字架の血潮を暗示)を窓から垂らして家の中にいたラハブ一家は滅びを免れました(ヨシュア記2:17~21、6:22~25)。それだけでなく、ラハブはユダ部族のサルモンと結婚し、その家系からダビデ、さらには御子イエスが誕生するという光栄に浴したのです(マタイ1:5)。ラハブ同様、「契約に縁がなく…希望もなく神もない者であった」私たちも、イエスの十字架を信じる信仰により神の民の一員とされました(エペソ2:11~13)。十字架上で命までも捨てて下さった主のご愛にお応えして、私たちも命懸けで主を愛し、主に従う者でありましょう。

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