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ルカによる福音書19:41~48「イエスの涙」

2018年3月25日、ルカによる福音書19:41~48「イエスの涙」
イエスがエルサレムに入城されると聞いた人々は、遂にイスラエルがローマの支配下から解放される時が来たと考えて大歓迎しました(37~38節)。それと対照的にイエスは「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣」かれました。エルサレムは神との「平和をもたらす道を知」らないから、否、知ろうとしないからです。生まれながらの人間は皆、罪のため神と敵対関係にあり、「神の怒りを、自分の身に積んでいる」存在です(ローマ2:5)。「キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで」(ローマ5:6)、救いの道を開くためにエルサレムに入城されたのです。イエスは、神との「平和をもたらす道」そのものであるのに(ヨハネ14:6)、人々は誤解したり拒絶したりしました。そんなかたくなな心に対してイエスは涙されたのです。
さらにイエスは、エルサレムが包囲攻撃されて徹底的に破壊されることを予告されました(70年のローマ軍侵攻により実現)。エルサレムに臨もうとしている悲惨な未来のゆえにイエスは涙されたのです。「自業自得、自己責任」と切り捨てられても仕方ないエルサレムでしたが、イエスはエルサレムのために涙されました。否、そのようなエルサレムだからこそ、「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた」のです。パウロも「キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いから…涙を流して語」りました(ピリピ3:18)。
あなたの日々の歩みは、イエスの喜びの対象でしょうか、それとも涙の対象でしょうか。イエスの涙を無にして永遠に後悔することのないよう、信仰の決断を今しましょう。人々のために泣くイエスやパウロの涙を与えていただいて福音を証しする者とされましょう。

エズラ記3:8~13「喜ぶ声と泣く声と」

2018年3月18日、エズラ記3:8~13「喜ぶ声と泣く声と」
帰還した民は「七月(太陽暦の9~10月)に…祭壇を築」き、半年後の「二月(4~5月)に…工事を始め…主の宮の基礎をすえ」ました。そのとき、「喜びのために声をあげて叫ぶ者も多かった」半面、「大声をあげて泣いた」者もいました。「もとの宮を見た老人たち」です。栄光に輝くソロモン神殿と、これから建て上げる神殿とを比較して泣いたのです。しかしそうなったのは、他でもない自分たちの罪のためであることを悟り、過去の罪を嘆き悔いる心から出た涙でもありました。と同時に、そんな者であるにもかかわらず、70年間の捕囚の中にも帰還の旅の中にも、神の助けと守りが随所にあったこと、神は約束の御言葉どおり祖国帰還を実現させて下さったこと、それは神殿奉献時のソロモンの祈り(列王紀上9:46~50)の成就でもあったことを発見しました。すべては「主はめぐみ深く、そのいつくしみはとこしえに…絶えることがない」ゆえであることを思い起こし、感激する心から出た涙でもありました。一方の「喜びのために声をあげて叫ぶ者」は、辛く苦しい過去にではなく、明るい未来に目を向ける心から出た喜びの叫びでした。事実、神は「主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きい…わたしはこの所に繁栄を与える」(ハガイ書2:9)と言われました。
どんなに後悔しても過去は変えられませんが、過去の失敗から教訓を学び、現在と未来を変える力にすることはできます。過去は人生を力強く前進させる「帆」にもなり得ますし、いつまでも過去に縛り付ける「錨」にもなり得ます。要はあなたの決断次第です。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント5:17)。いつからでもやり直し可能なのがキリストにある人生です。

エズラ記3:1~7「まず祭壇を築いた」

2018年3月11日、エズラ記3:1~7「まず祭壇を築いた」
祖国に帰還した民は、「七月(太陽暦の9~10月)になって、民はひとりのようにエルサレムに集ま」り、「祭壇を築い」て「燔祭をささげ…仮庵の祭を行い」ました。城壁も破壊されたままの無防備な状況での礼拝は危険で、事実、神殿再建工事を始めると敵の妨害に遭います(次章)。しかしそのような危険や恐れがあったからこそ、民は何よりも礼拝して神の守りを祈り求めずにはいられなかったのです。神の民としての再出発を意義あるものとするためにも、礼拝を渇望し、supreme 激安礼拝する神殿の再建を必要としたのです。ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ他もまず祭壇を築きました(創世記8:20、12:7、13:4、26:25、33:20)。
このように何よりもまず神を礼拝して再出発した民でしたが、かつてはそうではありませんでした。安息日を形式的に守るだけで、頭の中にあるのは「神」ではなく「金」でした。真心からなる礼拝を失い、罪に罪を重ねた刈り取りがバビロン捕囚であり、その捕囚から解放された民が真っ先に回復したものが礼拝でした。
「人がなし得る最高の行為は礼拝である」(バックストン師)。礼拝という最高の行為をしている今、喜びと感謝にあふれているでしょうか。聖書中、神の民はしばしば羊にたとえられ、中でも特に迷い出た羊として描かれています。「羊のように迷って、sanndaru激安おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)人間に真の神を教え、神のもとに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。この私を愛し、罪を贖うために死なれた十字架のイエスを仰ぐとき、「われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」(詩篇100:3)と告白し、心から喜んで礼拝するはずです。

詩篇57:1~11「わが魂よ、さめよ」

2018年3月4日、詩篇57:1~11「わが魂よ、さめよ」
①洞穴から祈祷へ(1~2節)
雛鳥は危険が迫ると親鳥の翼の下に隠れるように、ダビデは神の「翼の陰を…避け所とし」ました。最も確かな避け所です。そして暗い洞穴の中を至聖所として神に近づき、「いと高き神…わたしのためにすべての事をなしとげられる神」に繰り返し祈りました(ローマ8:31~32)。
②祈祷から信仰へ(3~5節)
祈り続けるうちに、神は「いつくしみとまこと」という両翼を広げて私を必ず守って下さるという信仰が湧き上がり、いのちの危険の中でも「横たわって」熟睡しました。御翼の陰を避け所として祈るなら、「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守る」のです(ピリピ4:7)。
③信仰から確信へ(6~8節)
神への信仰は、「わたしの心は定まりました(確かである、の意)」という確信を生み出しました。ダビデを取り巻く状況は依然として真っ暗闇ですが、「わたしはしののめを呼びさまします」、すでに暗夜が過ぎ去ったかのように神の約束を信じ、勝利の夜明けを先取りしました。
④確信から賛美へ(9~11節)
ダビデの確信は、「あなたに感謝し…あなたをほめたたえます」という感謝と賛美を生み出しました。獄中のパウロとシラスも「神に祈り、さんびを歌いつづけ」ていると、「ところが突然」という奇跡が起こりました(使徒16:25~26)。しかし目の付け所が揺らぐと、確信や賛美ではなく、恐れや思いわずらいが生じてきます(マタイ14:22~33)。「わたしのためにすべての事をなしとげられる神に」、「わが魂よ、さめよ」。

エズラ記2:59~70「血統の証明」

2018年2月25日、エズラ記2:59~70「血統の証明」
帰還民の中に、先祖の系図を紛失したためか、「その氏族とその血統とを示」すことができず、sanndaru激安「祭司の職から除かれた」人がいました。
私たちが神の民であることを証明するものは、「血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れた」(ヨハネ1:13)という事実です。キリストは「すべての人を照らすまことの光」として来臨されました。「光」の働きの第一は、心の闇、罪深さを照らし出すことです(エペソ5:13)。第二は、闇を一掃することです。キリストは、全人類の罪を背負って十字架につけられ、身代わりの死を遂げることによって救いを完成されました。このキリストを「受けいれ…信じ」るなら、闇の根源であるすべての罪が赦され、「神の子」とされ、神の家族の一員として迎え入れられます。「血すじ」を誇ることなどできない異邦人の私たちが、今や「ただ神によって生れ」、supreme 激安神の血筋につながる者とされているとは、何と驚くべき恵みでしょうか。「実に、恵みにより、信仰による…神の賜物」です(エペソ2:8)。
こうした恵みにあずかったのは、「それぞれ生ける石となって、霊の家(教会)に築き上げられ」るためです(Ⅰペテロ2:5)。祭司の性質は、「聖なる(区別された、の意)」ということ、何でもありの世の中で神を畏れ、御言葉に従って歩むということです。祭司の働きは、自分自身を「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげ」ることであり(Ⅰペテロ2:5、ローマ12:1)、「暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを…語り伝える」ことです(Ⅰペテロ2:9)。今日という大切な一日を漫然と過ごしたり世の風潮に流されたりしないよう、神の民として生かされている意味と目的をしっかり自覚したいものです。

エズラ記2:1~58「捕囚からの帰還」

2018年2月18日、エズラ記2:1~58「捕囚からの帰還」
第一回帰還者数の記録です。彼らは祖国再興に燃えて長旅をものともせず帰還しました。モーセに率いられてエジプトの奴隷から解放されたのが「第一の出エジプト」なら、今回は「第二の出エジプト」とも言うべき神の救出劇でした。「わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」(イザヤ書43:19)と言われた神が、約束どおり帰還への道を開かれました。紅海渡渉(出エジプト記 第14章)以上の奇跡でした。
そのときの様子を歌ったのが詩篇 第126篇です。「われらは夢みる者のようであった…われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた…われらは喜んだ」と喜びに沸き返る民ですが、目の前には、荒廃した土地を耕して「種まく」作業、破壊された神殿や城壁、自宅の再建等、「涙をもって種まく」ような仕事が山積していました。しかし民は、やがて来る「喜びの声をもって刈り取る」日を夢見つつ、困難な使命に勇ましく立ち上がり、励んだのです。
バビロン捕囚からの解放を「第二の出エジプト」とするなら、イエスの十字架と復活による罪からの解放は「第三の出エジプト」です。私の罪のためにイエスが十字架上で身代わりの死を遂げて下さったことを信じ受け入れるとき、私たちの人生にも「荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」ような救いのみわざが起こります。罪によって荒れ果てていた人生の道もイエスによってきれいに舗装され、渇ききっていた心も聖霊によって満たされ、あふれるようになります。
神が働かれると、絶望的状況にも希望が与えられ、道が開かれます。人には計画倒れということがありますが、神には全くありません。ご計画を着々と進めて実現される神を信じて待ち望みましょう。

エズラ記1:5~11「主は民の心を感動されたので」

2018年2月11日、エズラ記1:5~11「主は民の心を感動されたので」
主はクロス王の心を感動されましたが、同時にイスラエルの心をも感動されたからこそ、祖国帰還の約束が実現したのです。繁栄を謳歌していたときには、イスラエルは心をかたくなにして、預言者たちの声に耳を傾けようともしませんでした。しかし頼みとしていた城壁や神殿がなくなり、もはや頼るべきものは主の御言葉以外になくなったそのとき、民の間で生じたのが悔い改めであり、捕囚から解放される日が来るという御言葉の約束実現を待ち望む信仰でした(詩篇 第137篇他)。神は民の側の応答を待っておられるのです。「時が来れば成就する」(ルカ1:20)約束の御言葉を信じて待ち望む信仰を。
捕囚の地から祖国までは3~5か月の長旅であり、祖国の現状が不明のまま帰還するには、大変な勇気と決断、信仰と犠牲を必要としました。様々な事情からペルシャに留まる者もいましたが、彼らもやはり「神にその心を感動され…銀の器、金、貨財、家畜および宝物…もろもろの物を惜しげなくささげ」て協力しました。民の悔い改めと協同があったからこそ、神殿再建の大事業が現実となったのです。
イエスを三度否んだペテロも回復されました(ルカ22:54~62)。あなたが過去どんな失敗をしたとしても、イスラエルやペテロ同様、神はあなたにも挽回のチャンス、再出発のチャンスを与えて下さいます。イエスを信じて生きる人生は、いつでもやり直し可能な人生です(Ⅱコリント5:17)。失敗のない人生などありません。問題は、失敗した後どうするかです。ユダのように自分に絶望して投げ出してしまうか、それともペテロのように神のあわれみにすがるか。神のあわれみに感動して立ち上がり、「惜しげなくささげ」る心を神は喜ばれます。

エズラ記1:1~4「主はクロスの心を感動されたので」

2018年2月4日、エズラ記1:1~4「主はクロスの心を感動されたので」
罪に罪を重ねたイスラエルはバビロン捕囚となりましたが(歴代志下36:15~16)、バビロンは「ペルシャ王クロス」に滅ぼされ、イスラエル帰還を許されます。ここでの主語は「クロス」ではなく「主」です。スーパーコピー万物の創造者・支配者なる主こそ、バビロン捕囚からの解放の真の主人公なのです。捕囚の地で民が「主はもはや私たちを見捨てられたのではないか」と絶望していたとき、主は「バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る」(エレミヤ書25:11~12、29:10)という「エレミヤの口によって伝えられた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの心を感動された」のです。「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:11)、主は約束の御言葉を必ず実現されます。
バプテスマのヨハネ誕生を告知されザカリヤは、「時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたは口がきけなくなり」と宣告され、イエスの処女降誕を告知されたマリヤは、「わたしは主のはしためです。ウブロ スーパーコピーお言葉どおりこの身に成りますように」と主に信頼し、「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」とその信仰を称賛されました(ルカ1:5~45)。
サタンは、私たちが御言葉を信じて待ち望むことを阻止するため、あらゆる方法を駆使して御言葉を疑わせ、失望させ、悲観させます。厳しい現実と約束の御言葉と、あなたはどちらを重視していますか。「やがて、イエス・キリストが再び来られるその日まで、判断をいつも留保しながら、しかし期待しながら歩んでいくのです」(大嶋重徳師)。

ローマ人への手紙8:18~25「共にうめき、共に苦しみ」

2018年1月14日、ローマ人への手紙8:18~25「共にうめき、共に苦しみ」
最初の人アダムの堕罪により、全人類に罪が入り込んで死ぬべき存在となっただけでなく(5:12)、「地は…いばらとあざみとを生じ」(創世記3:18)、天地創造当初の栄光を失い、「虚無に服し」ました。それは、「自分の意思によるのではなく」人間の罪のためであり、「服従させたかた(神)」によるさばきの結果です。被造物は罪に汚染されてから「今に至るまで」、「実に、切なる思いで神の子たちの出現」、すなわちキリスト者が神の子として完全な栄光を受ける日、「滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る」キリスト再臨の日を待ち望みながら、「共にうめき共に産みの苦しみを続けている」のです。
うめいているのは自然界だけではありません。私たち人間もうめいています。現在の肉体は疲れや弱さを覚えたり、病気をしたり、罪を犯したりする不完全な肉体ですが、再臨後には「子たる身分を授けられる…からだのあがなわれる」、すなわちキリストと同じ栄光のからだに変えられ、天国で永遠に神と共に生きます。「御霊の最初の実(新改訳「御霊の初穂」)を持っている」私たちは、この救いの完成を「心の内でうめきながら…待ち望んでいる」のです。初穂を収穫したということは、それに続く豊かな収穫があることを示しているように、キリストを信じて内に御霊を宿したということは、やがて完全な救いが実現するということの保証なのです(エペソ1:14、Ⅰコリント15:20)。 「今のこの時の苦しみ」は、「やがてわたしたちに現されようとする栄光」と比べるなら「言うに足りない(新改訳「取るに足りない」)」のですから、「今のこの時の苦しみ」に押しつぶされそうになっているなら、十字架を仰ぎ、「やがて…現されようとする栄光」に目を注ぎましょう。

コリント人への第二の手紙5:16~21「見よ、すべてが新しく」

2018年1月7日、コリント人への第二の手紙5:16~21「見よ、すべてが新しく」
本書の著者パウロは以前、律法を守り行うことによって神に義と認められようと考え、「かつてはキリストを肉によって(新改訳「人間的な標準で」)知っていた」だけでした。イエスは罪の全くない神の御子でありながら、全人類の罪を背負って十字架につけられ、神にさばかれて死なれたこと、しかし三日目に復活されたこと、このイエスこそ約束の救い主で、イエスを信じるだけで義と認められることを宣ベ伝えるイエスの弟子たちに我慢ならず、教会を迫害していました。
そんなパウロがダマスコにある教会を迫害しようと道を急いでいると、突然天からの光に打ちのめされ、復活のキリストに出会いました。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」ことに目が開かれ、罪を悔い改めてイエスを信じたパウロは、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」という救いを明確に体験し、キリストの弟子となったのです(使徒9:1~22)。
これはパウロだけのことではありません。「だれでもキリストにあるならば」、「だれでもキリストに」信頼しさえするならば、部分的な修理や補修、改造などではなく、全面的な新創造、全く新しく造り変えられるのです。「まず心の一新が必要です。新年に一新すべきはカレンダーや手帳ばかりではなく、まさに『心の一新』です。どんなに外側を変えてみても、中身が変わらなければ真の新年とはなりません」(吉持章師)。いつからでもやり直し可能なのがキリストにある人生です。そしてそのような人生には手後れなど絶対にないのです。

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