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ルカによる福音書22:39~46「神の怒りの杯」

2021年3月28日、ルカによる福音書22:39~46「神の怒りの杯」
①苦悶の祈り
「杯」は神の怒りの象徴で、十字架上で神の怒りを受けて死ぬことを意味しています。このときイエスは、崩れ落ちるように「ひざまずいて」祈られました。それは、十字架上の死はただ単なる死ではなく、全人類の罪に対する神の刑罰としての死であったからです(Ⅱコリント5:21)。イエスの苦悶は、他でもないこの私の罪のための苦悶でした。
②服従の祈り
もし十字架以外に罪を贖う方法があるなら「この杯をわたしから取りのけてください」というのがイエスの本音でした。「しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」と、何よりも神の御心が実現することを願われました。油搾りという意味の「ゲツセマネ」、それは十字架刑を前にしたイエスが血の汗を流しながら祈る場所にふさわしい名前です。イエスはちょうどオリブの実のように、神の御心という上石と人類に対する愛という石うすとの間で砕かれ、すりつぶされ、十字架刑を受け入れられたのです。御心は、私たちを祝福しようとする神の愛のご計画ですから、神の御心に従って歩むとき、最も深い満足と喜びを見出すことができるのです。
③勝利の祈り
御心に服従する決意をされたイエスは、「祈を終えて立ちあがり」、十字架上で神の怒りの杯を最後の一滴まで飲み干し、十字架を信じるだけで救われるという救いを完成されました。あなたは、「キリストが代わりに死んでくださった、そのような人」(ローマ14:15)なのです。

マルコによる福音書8:14~21「パン種警戒警報②」

2021年3月21日、マルコによる福音書8:14~21「パン種警戒警報②」
四千人の給食で「残ったパンくずを集めると、七かごになった」のに(1~10節)、「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ…舟の中にはパン一つしか持ち合わせがなかった」ので、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」とイエスに言われると、「パンを持っていないため」叱られたと考え、「互に論じ合っ」ていました。弟子たちはパンの奇跡を二度も目撃していながらイエスの力を忘れ、思い煩いのパン種が心の中で膨らみ、争いにまで発展したのです。
五千人の給食では(6:33~44)、弟子たちは環境の悪さ・時間の遅れ・問題の大きさ・能力の不足ばかりに目を奪われ、天地万物を創造された全能の神を見失っていました。しかしイエスは、問題の大きさに目を奪われたり振り回されたりはなさいませんでした。今手元にあるものに目を留め、そして何よりも「天を仰いで」神に信頼されました。
全能の神を度外視して、自分の力だけを頼りに生きるなら、思い煩いが生じてこないはずがありません。マイナス思考に陥って心がカサカサになり、周りに当たり散らすようになるのが関の山です。イエスはそんな弟子たちや私たちに、これまであなたの人生の上にも神の恵みのみわざが何度もなされてきたではないか、そうした神の恵みを「思い出さないのか」と語りかけておられます。神に信頼しきることのできない「パン種」、自分の力で何とかしようと頑張る「パン種」を早く取り除いていただかないと、心は思い煩いに占領されてしまいます。「風邪をこじらせると長引きます。心が重症になる前にも、芯から温めてくれる『こころのごはん』が必要です」(宮葉子師)。

マタイによる福音書14:22~33「イエスはすぐに手を伸ばし」

2021年3月14日、マタイによる福音書14:22~33「イエスはすぐに手を伸ばし」
弟子たちは逆風のため舟をこぎあぐね、半日経っても向こう岸に到着できずにいました。精も根も尽き果てた夜明け、山で祈っておられたイエスが海上を歩いて近づき、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と語りかけられました。イエスは「天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」(28:18)全宇宙の支配者で、事実「ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった」。私たちにも試練や困難という人生の逆風が吹き荒れることがありますが、どんなに激しい逆風に見舞われようとも、イエスは私たちの味方であり、同様に語りかけ祈っておられることを信じましょう。
イエスの言葉に力を得たペテロは、「水の上を歩いてイエスのところに行」こうとしました。イエスに目を留めているうちは歩けましたが、「風を見て恐ろしくなり…おぼれかけ」ました。イエスから目を離して試練や困難に目を留めるなら、信仰が動揺して世の波風に飲み込まれてしまうということです(ヘブル12:2)。とは言え、些細なことで恐れ惑い、不信仰に陥り、「風を見て恐ろしくなり…おぼれかけ」ることもあるでしょう。そんなときこそペテロのように「主よ、お助けください」と即座に祈りましょう。すると「イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえ」られました。ペテロはこの後もいろいろな失敗をしますが、イエスに手をつかまれて助けられた感触は、ペテロの人生を変わらず支える宝であったことでしょう。これまで自分を支えてきた何ものも頼りにならない、打つ手がないようなときに、「お助けください」と叫んで信頼できるお方を持っている人は幸いです。

マルコによる福音書8:14~21「パン種警戒警報①」

2021年3月7日、マルコによる福音書8:14~21「パン種警戒警報①」
四千人の給食で「残ったパンくずを集めると、七かごになった」のに(1~10節)、「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ…舟の中にはパン一つしか持ち合わせがなかった」ので、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」とイエスに言われると、「パンを持っていないため」叱られたと考え、「互に論じ合っ」ていました。
ほんの少量であってもパン生地全体に浸透して膨らませる「パン種」は、聖書では多くの場合、悪影響の象徴として用いられています(マタイ13:33「天国は、パン種のようなものである」は例外)。パリサイ人は、律法を具体的に規定した口伝律法を人一倍忠実に守ることで神を敬っている気になっていましたが、それは「口さき」だけのことで、「その心はわたし(神)から遠く離れている」、仮面をかぶって義人を演じる「偽善者(俳優、通訳、の意)」でした(7:6~7)。ヘロデは「兄弟ピリポの妻ヘロデヤ」と略奪結婚したことをバプテスマのヨハネに糾弾されながらも、「その教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いて」いました。しかし残念ながら、ただ聞くだけで、自分の生活に当てはめて悔い改めようとまではしませんでした。その結果、王としての地位や面子を優先してヨハネを処刑しました。パリサイ人の律法主義、ヘロデの世俗主義・優柔不断を警戒せよ、とイエスは言われたのです。
わずかの「パン種」であっても、放置しておくといつの間にか悪影響を受け、深刻な問題になりかねません。悪いパン種に気づいたら即刻取り除くことです。良いパン種である神の言葉が魂の隅々にまで浸透するなら、大きく膨らんで神の恵みを指し示すことでしょう。

詩篇92:1~15「年老いてなお実を結び」

2021年2月28日、詩篇92:1~15「年老いてなお実を結び」
「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである(真っ直ぐに歩む、の意)」(1:1)。私たちを造られた神に対して真っ直ぐに歩むことこそ、人として真に「さいわい」なことですが、人は生まれながらに神とその御言葉に背を向けて歩む「悪しき者」です。そのことを素直に認めてイエスの十字架を信じるなら、罪赦されて「正しい者」と認められ、罪の世界から「主の家に植えられ(移植される、の意)…神の大庭に栄え」る者とされます。私たちは、神ご自身の御手で「主の家…神の大庭」なる教会に大切に移植された存在なのです。朝に夕に「主に感謝し、み名をほめたたえるのは」、神に造られた人間として本来あるべき姿であり、最高の喜びです。そのような人は「角(力と栄光の象徴)を…高くあげ、新しい油(喜びの象徴)を…注がれ」、「なつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏(杉)のように育ち」ます。「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」(Ⅱコリント4:16)。年齢と共に「外なる人(肉体)」は確実に衰えていきますが、「内なる人」、イエスによって救われた魂は、「日ごとに新しくされ」、「年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、主の正しいことを示」します。
アブラハムは試練や戦いの連続のような人生を歩みましたが、それでもなお神に信頼して従い抜いた「アブラハムは幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ」(創世記25:8、新改訳2017)。私たちも「主の家…神の大庭」なる教会に留まって養い育てられ、美しい花を咲かせ、豊かな実を結ぶ生涯を送らせていただきましょう。

詩篇91:1~16「全能者の陰に宿る幸い」

2021年2月21日、詩篇91:1~16「全能者の陰に宿る幸い」
私たちの人生には、「かりゅうどのわなと、恐ろしい疫病」他、様々な困難が襲いかかってきますが、そのとき主のもとに「住む…やどる」人は幸いです。主は、親鳥が雛を守るように「その羽をもって…おおわれ」、「大盾…小盾(新改訳2017「砦」)」のように私たちを取り囲んで守ってくださいます。さらに主は「あなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられ」ます(ルカ22:43、イザヤ63:9)。「あなたのために」ピッタリの、オーダーメイドの守りです。主は常に「共にいて」「呼ぶとき…答え」、「救い」出してくださいます。「彼の悩みのときに」とあるように、主を信じていれば災難に全くあわないということではありませんが、立ち上がれないほど打ち倒されることがないよう主が守り支えてくださるということです。
私たちの日常生活のほとんどは、目に見えない電気によって支えられています。しかし実は電気以上にもっと大きく、もっと根本的な便宜によって、すなわち目に見えない神によって私たちは守り支えられているのです。ときとして突発的な出来事が私たちの人生に襲いかかりますが、大切なことは、そうした事態に直面しても揺り動かされることのない確かな備えがあることです。「いと高き者のもとにある隠れ場に住む…全能者の陰にやどる」、すなわちイエスを信じて生きることこそ、一生涯保障が続く究極の保険です。「神に信頼するとは…第一に、神を『愛する』ことです。第二に、神の『名を知る』、つまりどんな時も信じることです。第三に、神を『呼び求める』こと、つまり、いつも祈り、神と対話することです」(羽鳥明師)。

詩篇90:1~17「残りの日々を数えるすべを教えてください」

2021年2月14日、詩篇90:1~17「残りの日々を数えるすべを教えてください」
主は永遠の昔から永遠の未来まで存在されるお方、「地と世界とを造られ」た創造者です。しかし私たち人間は、「人の子よ、帰れ」と主に命じられると死んで、ちりに帰るべき有限な存在です。しかもその生涯は「夜の間のひと時…ひと夜の夢のごとく」実にはかないものです。しかもただはかないだけでなく、「不義…隠れた罪」のため、神の「怒りによって消えうせ…憤りによって滅び去る」べき存在です。人生の最後が悲惨なだけでなく、人生の途上も「その一生はただ、ほねおりと悩み」の連続です。これが神から離れた人間の現実です。
しかし神と人間について正しく認識する詩人は、「われらにおのが日を数えることを教えて…ください(聖書協会共同訳「残りの日々を数えるすべを教え…てください」)」と祈ります。人生から神を締め出すなら、あるのは人生の無常と自分の罪深さのみですが、「主よ、み心を変えてください(新改訳2017「帰って来てください。主よ」)」、人生に主をお迎えしさえすれば、一切は好転するのです。イエスの十字架を信じるなら、朝には主の恵みで満ち足り、希望にあふれて一日を始めることができ(14節)、これまでの苦悩を補って余りある喜びで満ち足らせ(15節)、平凡な日常生活も「確かなものに(新改訳2017)」されるのです(17節)。
もしかしたら今年のスケジュール帳に、自分の召天・葬儀の日が割り込んでくるかもしれません。「残りの日々を数え」つつ、これが地上最後の礼拝になるかもしれないという真剣な思いで毎週の礼拝に臨みましょう。死を避けるのでなく死を見つめながら、「今」という時を無駄にすることなく、一日一日を神と共に全力で歩みましょう。

創世記12:1~4「あなたは祝福となりなさい」

2021年2月7日、創世記12:1~4「あなたは祝福となりなさい」
主はアブラ(ハ)ムに「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と命じられました。文化の中心地から未知の土地に75歳で移住するのには恐れや不安があったでしょうが、「信仰によって、アブラハムは…それに従い、行く先を知らないで出て行った」(ヘブル11:8)。ヘブル語で「聞く」という語と「従う」という語は同じです。ただ単に聞くだけで従わなければ真に聞いたことにはならない、聞いて従って初めて真に聞いたことになるということです。
主は痩せ馬に鞭打つようにして盲従させる非情なお方ではありません。命令には必ず約束が伴います。「(妻)サライはうまずめで、子がなかった」(11:30)のに、やがて子が生まれ、「大いなる国民」になるという約束です。「あなたは祝福の基となる…地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」、アブラムから始まるイスラエル民族によって、全世界に祝福が及ぶようになるという約束です。これは究極的にはアブラムの家系から降誕された御子イエスによって成就しました。さらにイエスを信じる私たちも「アブラハムの子」(ガラテヤ3:7)、「祝福の基」とされていますので、その私たちの存在によって家庭も学校も職場も地域も神の祝福が及ぶところとなっているのです。
アブラムは主に信頼して「はじめの一歩」を踏み出しました。その結果、豊かに祝福され、「幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ」(25:8、新改訳2017)。様々な試練や戦いがありましたが、主のご真実を体験し続ける生涯でした。「あなたは祝福となりなさい」と言われる主に信頼して従うこと、これこそが祝福の鍵なのです。

申命記32:10~14「瞳のように守られている私たち」

2021年1月31日、申命記32:10~14「瞳のように守られている私たち」
主がイスラエルをいかに保護されたか、2つの譬えで語ります。
①「目のひとみ」の譬え(10節)
荒野の40年間、イスラエルの側から神に助けを求めたというよりも、神の側からイスラエルを「見いだし…会い…巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られ」ました(ヨハネ15:16)。「目のひとみ」は絶えず保護されていて、直接触れることなどまずできません。ましてや誰が主の「目のひとみ」に触れることなどできましょうか。イスラエルは主によってそれほど常に瞬間瞬間、絶えず継続的に、確実に守られ保護されてきた、そしてこれからもそうだ、ということです。一羽のすずめさえも「神のみまえで忘れられてはいない」(ルカ12:6~7、マタイ10:29)ように、私たち一人ひとりも神に片時も忘れられることなく覚えられているだけでなく、絶えず「巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られ」ているとは、何と心丈夫なことでしょうか。
②「わし…ひな」の譬え(11~12節)
親「わし」は、「ひな」がいよいよ巣立つというとき、早く飛び立つように「その巣のひなを呼び起し」、突き飛ばして飛び立たせますが、放ったらかしにはせず、「その子の上に舞いかけ」、まだまだ飛ぶ力が弱くて落ちていくのを見ると、「その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負」って支えます。イスラエルに対する神の導きも、まさに親わしのようであったことをモーセは思い起こさせました。「『どんどん落ちていく』と感じるとき、主が鷲のように翼を広げて私たちを受け止め、安心させてくださいます」(デイリーブレッド)。

ヨブ記2:7~10「幸いを神から受けるのだから」

2021年1月24日、ヨブ記2:7~10「幸いを神から受けるのだから」
再びサタンが来て、今度は「ヨブを撃ち…いやな腫物をもって彼を悩まし」ました。信仰を持つがゆえに苦悩する、悲惨な夫の姿を間近に見ていた妻が「神をのろって死になさい」と言うと、ヨブは「神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」と言いました。わが子をすべて失い、信仰につまずいた妻に、これまでどんなに「幸をうけ」てきたか思い起こさせ、優しく説得しようとした言葉です。
しかし前回の悲劇の際(1:22)にはなかった、気になる表現があります。「そのくちびるをもって罪を犯さなかった(直訳「彼の唇では罪を犯さなかった」)」。口にこそ出さないが、心の中ではそうではない、つぶやきがヨブの心の中で渦巻いていたことを示唆しています。流行語大賞にも選ばれた「なんでだろ~」、このときのヨブの心境もまさにそうだったでしょう。「神を畏れて生きてきた私がなんでだろ~」。しかしヨブ以上に「なんでだろ~」と苦悩された方がおられます。イエス・キリストです。イエスは罪の全くない神の御子でしたが、全人類の罪の身代わりとして十字架につけられ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(マタイ27:46)。
希望がまるで見えない状況で、ヨブはますますその苦悩を深めていきますが、それでもなお忍耐を働かせ続けました。ヨブには苦難の理由は最後まで明らかにされませんでしたが、霊の目で神を見るという体験によって納得し、祝福も回復されました(第42章)。御子イエスを犠牲にしてでも罪人を救おうとする愛なる神は、「すべての悩みのとき、主も悩まれ…救い」出してくださるお方です(イザヤ書63:9)。

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