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マルコによる福音書7:14~23「人に入るもの、人から出るもの」

2020年9月20日、マルコによる福音書7:14~23「人に入るもの、人から出るもの」
「外から人の中にはいって来るもの(食物)」は、「腹の中にはいり…外に出て行くだけ」だから、「念入りに手を洗ってから」食事しないと汚れるという「昔の人の言伝え」など無意味で、「イエスは…どんな食物でもきよいものとされ」ました。「外から人の中にはいって来るもの」よりも、「人の中から出てくる…悪い思い」こそ大問題で、内から外に出て自分を汚し、他人を傷つけ、家庭や社会を破壊する恐るべき病原菌です。自分の目を外にではなく内に向けるようイエスは促しておられるのです。そのときどんなに逆立ちして頑張っても、自分ではどうすることもできないことがわかります。それほど罪に汚染された私たちは、もはやイエスに解決していただく他ないのです。
「妬み」や「誹り」から解放されたら、どんなに毎日が楽で幸せでしょうか。他にも心の中に様々な「悪い思い」を抱えているから、自分らしく生きることができないのです。すっきりした心と魂で生きることができないのです。そしてせっかく神から与えられている賜物や持ち味を十分発揮できないままくすぶり続けることになるのです。
私たち一人ひとりをかけがえのない最高傑作として愛していてくださる神は(イザヤ書43:4)、私たちが神の愛をいっぱい受け、神を愛し人を愛し、自分らしく最高の人生を歩むようにと願っておられます。それゆえ神は御子イエスをお遣わしになり、十字架の死に渡されたのです。まず自分も心の中に「悪い思い」がある「病人」(2:17)であることを素直に認めることがすべての始まりです。その上でイエスを信じ受け入れるなら、汚れた心も赦され、さらにきよめられるのです。

マルコによる福音書7:1~13「口先で敬うが、その心は」

2020年8月30日、マルコによる福音書7:1~13「口先で敬うが、その心は」
「パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった」際、「弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た」ので、ここぞとばかり非難しました。「ユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない」からです。
それに対してイエスは、掟を守ることで「わたし(神)を敬」っている気になっているようだが、それは「口さき」だけのことで、「その心はわたし(神)から遠く離れている」、仮面をかぶって義人を演じる「偽善者(俳優、通訳、の意)」だと彼らの本質を鋭く指摘されました。その証拠に、年老いた両親を援助したくない場合、「あなたに差上げるはずのこのものはコルバン…供え物ですと言えば…父母に対して、もう何もしないで済む」という「言伝え」を巧みに利用して、「あなたの父と母を敬え」(出エジプト記20:12)という「神のいましめを捨て」ていたからです。
すべてを見通しておられる神の前でも、私たちは格好をつけて良い子のふりをしたり、仮面をかぶって偽りの自分を演じたりしやすいものです。それは、本当の姿を見られたら愛されないかもしれない、受け入れられないかもしれないという恐れが心の奥底にあるからではありませんか。しかし心配無用です。イエスが私たちに代わって十字架上で捨てられてくださったので、私たちはもはや神に捨てられることなどないからです。ですから仮面をかぶった自分で生きるのをやめ、素の自分で生きようではありませんか。そこから神の愛を本当に知り、その愛に応えて生きる信仰生活が始まるのです。

マルコによる福音書6:53~56「信仰の手を伸ばそう」

2020年8月23日、マルコによる福音書6:53~56「信仰の手を伸ばそう」
ゲネサレの人々はイエスの来訪を知るや否や、「その地方をあまねく駆けめぐり…病人たちを…運びはじめ…せめてその上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたいと、お願いし…さわった者は皆いやされ」ました。「力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった」(1~6節)郷里ナザレとは対照的です。信じようとも期待しようともしない不信仰の中では、さすがのイエスもその力を発揮することができませんでした。ゲネサレの人々の信仰は、幼稚でご利益信仰的であったかもしれませんが、イエスに対するひたむきな心で信仰の手を伸ばしました。その素朴な信仰にイエスも深いあわれみをもって答えられたのです。
罪や病気や死は初めからあったものではなく、最初の人アダムとエバの堕罪によって生じた不自然なものです(創世記 第3章)。イエスは、私たち人間をこれらから救い出すためにこの世に来られ、神のかたちに造られた人間がこれらで苦しむのを見て、深くあわれまれました。癒しのみわざは、御言葉を語ることと同様、イエスにとっては重要な働きの一つだったのです。それほどイエスは、「あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと」願っておられるのです(Ⅲヨハネ2)。
しかし問題はその後です。この世的な祝福だけで満足して、イエスのもとを離れ去るのか。それとも永遠に失われることのない霊的祝福を求めて、イエスを信じ、イエスの愛に応えて生きるのか。「今は恵みの時…今は救の日」(Ⅱコリント6:2)、「今」こそ信仰決断の時です。

マルコによる福音書6:45~52「心安かれ、我なり、恐るな」

2020年8月16日、マルコによる福音書6:45~52「心安かれ、我なり、恐るな」
「イエスは…群集を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸…へ先におやりにな」りました。逆風が夕方から夜明けまで吹き続けたため、弟子たちは舟をこぎあぐねていました。でも、なぜイエスに助けを求めなかったのでしょうか。イエスの専門分野である神の世界に関してはイエスに信頼するが、自分たちの専門分野である漁の世界に関しては自分たちだけで何とかなると考えていたからかもしれません。私たちも、イエスはいつも共にいてくださると口先で言いながら、実生活ではイエスの臨在をまるで必要としていないかのような生き方をしてはいないでしょうか。
弟子たちが精も根も尽き果てた頃、イエスが「海の上を歩いて近づき」、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と語りかけられました。以前もガリラヤ湖で大嵐に見舞われたとき、わたしイエスが「静まれ、黙れ」と言うと、「風はやんで、大なぎになった」ではないか(4:35~41)。パンの奇跡を見たばかりではないか(6:35~44)。わたしの命令でこぎ出した舟ではないか。全宇宙の主権者がいるのに、なぜ恐れるのか、信頼できないのか、ということです(マタイ28:18)。
もはや打つ手がないような絶体絶命のとき、「主よ、お助けください」(マタイ14:30)と叫んで、イエスを自分の人生丸に迎え入れるならば、「舟に乗り込まれると、風はやんだ」、そして向こう岸へ無事到着させてくださいます。「イエスは波を踏みつけて来られた。そのようにイエスは、人生にわきあがって来るすべての混乱を、足の下に踏みつけられた。クリスチャンよ、どうして恐れるのか」(アウグスティヌス)。

マルコによる福音書6:33~44「天を見上げて神をほめたたえ」

2020年8月2日、マルコによる福音書6:33~44「天を見上げて神をほめたたえ」
説教に夢中になるうち「時もおそくなったので」、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに…行かせてください」と弟子たちが言うと、イエスは「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言われました。
「ここは寂しい所でもあり」という環境の悪さ、「もう時もおそくなりました」という時間の遅れ、「みんなを解散させ、めいめいで」という群衆(問題)の大きさ、「パン五つと魚二ひきしか」(マタイ14:17)という能力の不足に弟子たちは支配され、全能の神を見失っていました。
ところがイエスは、弟子たちが「パン五つと魚二ひきしか」とけなしたものに目を留め、それを「手に取り、天を仰いで…祝福し…弟子たちにわたして配らせ」たところ、一万人以上の空腹を満たしてなお余りあるほどの奇跡となりました。イエスの視点は、今手元にあるものに向けられ、そして何よりも全能の神に向けられていたのです。
私たちの人生も、目の付け所によって大きな違いが生じることになります。一つは、自分の持っていないものに目を留め、不平不満を言う人生です。これでは持っている能力さえ十分生かしきれずに終わりかねません。もう一つは、自分に与えられているものに目を留め、感謝して生かしきる人生、言わば天を仰ぐ人生です。弟子たち同様、今の私たちに不足しているのは、自分が今持っているものをイエスの前に差し出す献身と、「天を仰いで」主に信頼する信仰ではないでしょうか。あとはイエスがそれらを用いて、何倍・何十倍にも「祝福し」、驚くべき神のみわざをなしてくださることでしょう。

マルコによる福音書6:33~44「イエスは深くあわれまれた」

2020年7月26日、マルコによる福音書6:33~44「イエスは深くあわれまれた」
「飼う者のない羊のような…有様を深くあわれんで」なされたことは
①霊の食物による養い(34節)
パリサイ人や律法学者は本来、人々を養い導く羊飼い的存在であるはずでしたが、律法に細則を付加して無味乾燥な戒律に変え、逆に人々を縛り苦しめていました。そのため疲れ果てて「飼う者のない羊のような」状態の人々に、イエスは本来あるべき神の愛の御言葉として、愛と恵みに満ちあふれた御言葉として語り聞かせられたのです。
この世には、「あなたは駄目だ」と思い込ませる言葉や情報で満ちています。だからこそ、絶えず神の御言葉に耳を傾ける必要があるのです。この世の言葉ではなく神の御言葉を聞いて信じることです。
②肉の食物による養い(35~44節)
人々が時も忘れて御言葉に聞き入っていると、「はや時もおそくなっ」ていたので(マタイ14:15「夕方になったので」)、イエスは「五つのパンと二ひきの魚と」で人々の空腹を満たされました。イエスは、私たちの魂だけでなく肉体にも関心を持って心配しておられるお方です。私たちを「深くあわれんで」おられるイエスは、私たちの霊も心もからだも、社会生活も家庭生活も、すべてが健全であることを願っておられます(Ⅲヨハネ2)。イエスはらい病人を「深くあわれみ、手を伸ばして…さわり」癒されました(1:41)。ひとり息子を亡くしたやもめを「見て深い同情を寄せられ」、息子を生き返らせられました(ルカ7:13)。
それゆえ私たちも、幼児が人目も憚らず遠慮なく親に求めるように、あわれみ深い父なる神に遠慮せず格好つけず願い求めましょう。

マルコによる福音書6:30~32「しばらく休みなさい」

2020年7月19日、マルコによる福音書6:30~32「しばらく休みなさい」
二人一組の伝道旅行結果(7~13節)を「残らずイエスに報告した」弟子たちは、「人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」と言われました。これまでずっと「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかった」上、伝道旅行の緊張と不安、バプテスマのヨハネの死という悲しみが重なり、精神的にも肉体的にも疲れていたからです。
神も、天地創造の「すべての作業を終って第七日に休まれた」お方です(創世記1:31~2:2)。この神によって、神に似せて造られた私たち人間も、神のように休みを取る必要があります。そうすることによって、神と共に生きる恵みのリズムのようなものが生まれてくるのです。片手間でない神の祝福と聖別にあずかるために(創世記2:2~3)、イエスの十字架と復活を信じて罪の奴隷から救い出された恵みを覚えるために(申命記5:15)、主日ごとに教会に集って神を礼拝するのです。
「毎日の生活が卵の中のようにいっぱいつまっていたら、何も入れる余地はないし、神ですらそこに何も入れることができないでしょう。ですから、生活の中にすきまをつくることが大切になるんです」(ポール・トゥルニエ)。「静まって(新改訳2017「やめよ」)、わたしこそ神であることを知れ」。真に大切なものを「入れる余地」をつくるためには、何かをやめる必要があります。「時間がないから神の前で静思の時を持つことができないというのではなく、静思の時を持つことができないから時間に追われてしまうのだ」(大嶋重徳師)。多忙で騒がしい現代だからなおさら、少なくとも一日に一回は祈りの中で静まる時を持ち、週に一回は神を礼拝して静まる時を持つことが必要なのです。

マルコによる福音書6:14~29「永遠に後悔することがないように」

2020年7月12日、マルコによる福音書6:14~29「永遠に後悔することがないように」
「イエスの名が知れわたって、ヘロデ王(イエス降誕時のヘロデ大王の息子アンテパス)の耳にはい」ると、「わたしが首を切ったあのヨハネがよみがえったのだ」とヘロデは考えました。バプテスマの「ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って」いながら処刑していたからです。
「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と真っ正面から糾弾するヨハネに対してヘロデは、「恐れ…保護を加え…その教を聞いて非常に悩み続けながらも、なお喜んで聞いてい」ました。罪を自覚していながらも悔い改めを拒み続けていると、「ところが、よい機会がきた」。せっかくの悔い改めの「機会」を、ヨハネ処刑の「機会」に変えてしまったのです。後にイエスが捕えられ、自分の前に連れて来られたとき、「ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ」(ルカ23:8)ものの、もはやイエスはヘロデに何も語られませんでした。結局ヘロデは、バプテスマのヨハネとイエスの両方の死に手を貸すことになったのです。
ペリクスも「また、よい機会を得たら」と決断を先延ばしにした結果、二度と「よい機会」は訪れませんでした(使徒行伝24:24~27)。逆にダビデは、預言者ナタンの糾弾に「わたしは主に罪をおかしました」と悔いくずおれ、赦される「機会」となりました(サムエル記下第11~12章)。
心をかたくなにして御言葉の光に従うことを拒み続けていると、「良心に焼き印をおされて」(Ⅰテモテ4:2)麻痺してしまい、御言葉に心を刺され悔い改めることもなくなってしまいかねません。永遠に後悔することがないように、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4:7)と警告しているのです。

マルコによる福音書6:6b~13「十二弟子の派遣」

2020年3月22日、マルコによる福音書6:6b~13「十二弟子の派遣」
イエスは「十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことに」されました。「十二人をお立てになった」目的は、「彼らを自分のそばに置くためであり」、「つかわす」ためでした(3:14~15)。イエスは「彼らを自分のそばに置」いて訓練した上で、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝え」(16:15)る「宣教」のため、「悪霊を追い出す権威を持たせるため」に「つかわす」のです。その際、持参してよいものといけないものとの注意も与えられました。必要最小限の旅支度で、あとは全面的に神に信頼せよ、ということです。旅人をもてなす習慣があった当時だからできたことですが(ヘブル13:2)、神に真剣により頼んで期待することが薄らいではいないか、と問う必要もあるでしょう。「これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」(ゼカリヤ書4:6)、今こそ当教団の原点に立つべきです。人間的な「権勢」や「能力」に寄り頼まず、聖霊に寄り頼みましょう。
十二弟子は、厳しい条件付きで遣わされることで、主に寄り頼まなければ到底全うできないことを日々痛感したことでしょう。と同時に、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と言われたとおり、イエスが共にいて助けてくださることを何度も体験したことでしょう。「彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした」結果、「イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった」「多くの人々は…一せいに駆けつけ…パンを食べた者は男五千人であった」となったのです(6:14、33~44)。

マルコによる福音書1:1~6a「イエスは不信仰に驚かれた」

2020年3月15日、マルコによる福音書1:1~6a「イエスは不信仰に驚かれた」
マルコによる福音書1:1~6a「イエスは不信仰に驚かれた」
イエスが生まれ育った郷里ナザレの人々は、イエスはもちろんのこと、その両親や兄弟たちとも旧知の間柄なので、自分たちが昔からよく知っている「この人」のままでした。すばらしい説教や奇跡を見聞きしても、「イエスのことを、自分たちと同じ、ただの田舎者だと思って」(リビングバイブル)いました。というのも、当時のユダヤ人は、約束の救い主はエルサレム神殿に突如現れると信じていたからです。
これまでイエスは、病を癒したり悪霊を追い出したり嵐を静めたりと、「力あるわざ」を度々行ってこられたのに、ナザレでは「ただ少数の病人に手をおいていやされた」だけでした。全能のイエスであっても、信じようとも期待しようともしない不信仰の中では、その全能の力も働きも大幅に制限されてしまうということです。不信仰は、全能の主から溢れ流れる恵みを妨げる絶縁体のようなものなのです。
今のあなたをご覧になってイエスはどう思われるでしょうか。「不信仰を驚き怪しまれ」、「そこでは力あるわざを一つもすることができず」でしょうか。それとも「イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」(マタイ8:10)と、その信仰に驚かれるでしょうか。
パウロ(サウロ)も「かつてはキリストを肉によって」(Ⅱコリント5:16)、自己流に判断して、約束の救い主であることを否定していました。自分の頭で納得できる範囲内でイエスを見つめている限り、イエスを真に知ることも救いを得ることもできず、何の変革も起こらないでしょう。人間的な常識の範囲を飛び超えて、「人にはできないが、神にはできる」(10:27)とイエスに期待し、信仰の手を伸ばしましょう。

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