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マルコによる福音書8:11~13「天からのしるしがあっても」

2020年11月22日、マルコによる福音書8:11~13「天からのしるしがあっても」
パリサイ人たちはイエスに「天からのしるし(新改訳2017注「証拠としての奇跡」)を求め」ました。それ自体は罪でも何でもなくても、問題はその動機です。自分たちも信じたいから証拠を見せてほしいというのではなく、「イエスを試みようと」、貶めようとする挑戦的な求め方でした。もちろんイエスは拒絶されましたが、ただそれだけではありません。拒絶してもなおパリサイ人たちを切り捨てるこができず、あわれまずにはいられませんでした。だからこそ「イエスは、心の中で深く嘆息(新改訳2017「深くため息をついて」)」されたのです。確かにイエスは頑なな彼らに対して「しるしは今の時代には決して与えられない」と言われましたが、「救いは今の時代のあなた方には決して与えられない」とは言っておられません。あなた方にも是非気づいてほしい、そして信じてほしい、というイエスの熱い思いの表れです。
イエスは、目に見えない神がどのようなお方であるかを見せるために人の子として来臨されました(ヨハネ1:18)。わざわざしるしなど求めなくても、パリサイ人たちの目の前にはしるしに勝るイエスがおられました。そして今の私たちには十字架と復活という最高最大のしるしがあり、イエスについて記した聖書があります。素直な心さえあれば、イエスこそ真の救い主だとわかり、信じて救われることができます。しかし第三者の立場に立って眺めている限りは、何の変化もないでしょう。第三者の立場から当事者の立場に変わる勇気と決断が必要です。放蕩息子のように(ルカ15:11~32)、気づいたら躊躇しないですぐ方向転換する、思い切って飛び込んでみることです。

マルコによる福音書8:1~10「忘れっぽい私たち」

2020年11月15日、マルコによる福音書8:1~10「忘れっぽい私たち」
「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない」と言われるイエスに、「こんな荒野で、どこからパンを手に入れて、これらの人々にじゅうぶん食べさせることができましょうか」と弟子たちは答えました。前回同様(6:30~44)、手元にあるわずかなものだけに目を留めて無理だと考える、少しも成長していない弟子たちの姿を通して、あなたも過去の恵みをいとも簡単に忘れ去っているのではないか、と語りかけているのです。
出エジプト後の荒野放浪生活の終わり頃、モーセはイスラエルに「この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」(申命記8:4)、絶えず神の守りがあったことを語りました。御子イエスの十字架の血によって贖い取られた私たちに対しても、神は底抜けに気前の良いお方だったはずです(新聖歌18番2節「主は贖い 成し遂げて 御名に頼る 人びとの 罪はいかに 深くとも 赦し与え 助け給う」)。それゆえ、何かあるたびに思い煩ったり右往左往したりすることから、もうそろそろ卒業しようではありませんか。もし今度そうなりそうになったときには、これまで主がどんなに恵み祝福してくださったか、必要な助けを与えてくださったか、静かに思い起こすことです。そのためにも、毎週の礼拝や日毎の静思の時を大切にしましょう。
繰り返されることは恵みです。自分の弱さを克服して飛躍するチャンスです。あなたの「信仰が大いに成長し…互いに対する愛が増し加わっている」(Ⅱテサロニケ1:3、新改訳2017)ことが何よりの喜びだ、と神から言われるような信仰者に成長させていただきたいものです。

マルコによる福音書7:31~37「何もかも、すばらしい」

2020年11月1日、マルコによる福音書7:31~37「何もかも、すばらしい」
イエスが「ガリラヤの海べにこられ」ると、「人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いし」ました。するとイエスは、「彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し」ました。耳の聞こえない彼に、癒しを肌で感じさせるためです。神に依り頼んで「天を仰いで」、「ため息をつき(名詞形がローマ8:26「うめき」)」、彼の「うめき」に共感してご自分の「うめき」とされました。そして「『エパタ(開けよ、の意)』と言われ」ました。直接的には耳と口が開くようにということですが、さらに彼の人生が大きく開かれていくようにということでもあるでしょう。その結果、「彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった」のです。
耳があっても神の言葉を聞こうとしない人がいますし(4:12)、口があっても神に祈らない人や感謝しない人がいます。イエスはそんな私たちをも、まず神と心が通い合う者に、さらに人とも心が通い合う者にしたいと願っておられます。そのためにイエスは来臨され、十字架と復活による救いを完成されたのです。イエスは、あなた「ひとりを群衆の中から連れ出し」、心の奥深くを見つめ、心が通い合うのを妨げている根本原因に触れて癒そうとされます。「エパタ…開けよ」「あなたも心の扉を開いて、わたしのもとに来なさい」と呼びかけられます。それに応えてイエスを信じ、イエスに心の耳や口、人生を開いていただくなら、もっと自分らしく、もっと楽々と、もっと天高く、もっと自由に羽ばたく人生を歩めるようになるはずです。

マルコによる福音書7:24~30「食卓の下の子犬でも」

2020年10月18日、マルコによる福音書7:24~30「食卓の下の子犬でも」
①すぐ聞きつけてきて(25節)
「けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏し」ました。何としても癒していただきたいという真剣・切実な信仰がありました。長血の女性もそうでした(5:25~34)。「きょう」という日(ヘブル4:7)、「今」という時(Ⅱコリント6:2)は、神が与えてくださった絶好の機会、見逃してはなりません。
②ひれ伏し…願い続けた(26~29節)
彼女はイエスに相手にされなくても執拗に願い続けたため、弟子たちが「この女を追い払ってください」と困り果てるほどでした(マタイ15:22~23)。イエスが「まず子供たち(ユダヤ人)に十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬(異邦人)に投げてやるのは、よろしくない」と言われても、イエスの柔和な様子や「小犬」という表現から、拒絶の言葉とは捉えず、「でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」と迫ると、「あなたの願いどおりになるように」(マタイ15:28)とイエスは言われました。パリサイ人や律法学者との論争では負け知らずのイエスが、ここでは何か喜んで負けておられるように見えます。いくら祈っても答えがないのは、神が私たちの「信仰を見て」(2:5)、試しておられるのかもしれません(マタイ7:7)。
③家に帰ってみると(30節)
彼女は「お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」とのイエスの言葉を信じて、「家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまってい」ました。御言葉は必ず実現するのです(ヘブル11:1)。

マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス②」

2020年10月4日、マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス②」
「人の心の中」に「悪い思い」があるので、「欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴(いずれも単数形で、悪い態度を表す)」が出てきます。真っ赤な「欺き」はなくても、自分をよく見せるため、保身や弁解のためのピンク色の「欺き」がないでしょうか(マタイ12:36)。「好色」、性的放縦はないでしょうか。「妬み(直訳「邪悪な目」)」と「高慢」は正反対のように見えますが、実はその根っこは同じです。多くの場合、高慢は劣等感の裏返しです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43:4)、神は私たち一人ひとりをかけがえのない最高傑作として愛し、喜んでおられます。この神によって劣等感を埋めていただくことこそ、最高最善の対処法です。しかしそのためには、まず自分の惨めな姿を正直に認めることです。「あなたの名はなんと言いますか」と主から問いかけられたヤコブは、「ヤコブ(押し退けるもの、の意)です。名前のとおり神と人を押し退け、自我を突っ張って生きてきた者です」と正直に認めたところ、豊かな祝福が注がれました(創世記 第32章)。「誹り」とは、単なる悪口や中傷ではなく、聖なる神を冒瀆する罪のことです。「愚痴(新改訳2017「愚かさ」)」とは、罪を冗談半分に取り扱うこと、軽視することです。そのような生き方をしていると、「腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない」(詩篇14:1)ということになります。
正面切って聞かれたら、困り果て、途方に暮れるしかないことが、私たちにはたくさんあるはずです。心の中にある良い思いも「悪い思い」もすべてご存じの上で私たちを愛していてくださる神は、御子イエスによって「悪い思い」から救われる道を開いてくださったのです。

マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス①」

2020年9月27日、マルコによる福音書7:14~23「心を癒す主イエス①」
「人の心の中」に「悪い思い」があるので、「不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪(いずれも複数形で、悪い行為を表す)」が出てきます。「姦淫」は結婚関係がある中での性的不道徳、「不品行」は結婚関係の有無に関係なくすべての性的不道徳のことです。律法学者たちは、「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)との律法を、実際の姦淫行為のみの問題に限定しましたが、イエスは「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」と言われました(マタイ5:27~32)。万引や不正乗車だけが「盗み」ではありません。悪意に満ちた噂話や陰口等で他人の評判を落とすなら、人の信用を盗む罪であり、地位や権力を利用して他人を支配するなら、人の自由・権利を盗む罪です。律法学者たちは、「殺す者は裁判を受けねばならない」という規定を付加することで、「殺してはならない」(出エジプト記20:13)との律法を、実際の殺人行為のみの問題に限定しましたが、イエスは「兄弟に対して怒る…兄弟にむかって愚か者と言う…ばか者と言う」のも殺人と本質的に同じだ、と言われました(マタイ5:21~26)。神以外の何かで心の渇きを満たそうとするから、「もっと、もっと」という「貪欲」に陥るのです。「邪悪」とは、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)とは正反対の意地悪な心のことです。
「悪い思い」があるのを認めない限り、「口さきではわたし(神)を敬うが、その心はわたし(神)から遠く離れ」たままです。しかしサマリヤの女性(ヨハネ4:1~42)やザアカイ(ルカ19:1~10)他は、「悪い思い」があることを正直に認めてイエスを信じたので、その人生が一変しました。

マルコによる福音書7:14~23「人に入るもの、人から出るもの」

2020年9月20日、マルコによる福音書7:14~23「人に入るもの、人から出るもの」
「外から人の中にはいって来るもの(食物)」は、「腹の中にはいり…外に出て行くだけ」だから、「念入りに手を洗ってから」食事しないと汚れるという「昔の人の言伝え」など無意味で、「イエスは…どんな食物でもきよいものとされ」ました。「外から人の中にはいって来るもの」よりも、「人の中から出てくる…悪い思い」こそ大問題で、内から外に出て自分を汚し、他人を傷つけ、家庭や社会を破壊する恐るべき病原菌です。自分の目を外にではなく内に向けるようイエスは促しておられるのです。そのときどんなに逆立ちして頑張っても、自分ではどうすることもできないことがわかります。それほど罪に汚染された私たちは、もはやイエスに解決していただく他ないのです。
「妬み」や「誹り」から解放されたら、どんなに毎日が楽で幸せでしょうか。他にも心の中に様々な「悪い思い」を抱えているから、自分らしく生きることができないのです。すっきりした心と魂で生きることができないのです。そしてせっかく神から与えられている賜物や持ち味を十分発揮できないままくすぶり続けることになるのです。
私たち一人ひとりをかけがえのない最高傑作として愛していてくださる神は(イザヤ書43:4)、私たちが神の愛をいっぱい受け、神を愛し人を愛し、自分らしく最高の人生を歩むようにと願っておられます。それゆえ神は御子イエスをお遣わしになり、十字架の死に渡されたのです。まず自分も心の中に「悪い思い」がある「病人」(2:17)であることを素直に認めることがすべての始まりです。その上でイエスを信じ受け入れるなら、汚れた心も赦され、さらにきよめられるのです。

マルコによる福音書7:1~13「口先で敬うが、その心は」

2020年8月30日、マルコによる福音書7:1~13「口先で敬うが、その心は」
「パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった」際、「弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た」ので、ここぞとばかり非難しました。「ユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない」からです。
それに対してイエスは、掟を守ることで「わたし(神)を敬」っている気になっているようだが、それは「口さき」だけのことで、「その心はわたし(神)から遠く離れている」、仮面をかぶって義人を演じる「偽善者(俳優、通訳、の意)」だと彼らの本質を鋭く指摘されました。その証拠に、年老いた両親を援助したくない場合、「あなたに差上げるはずのこのものはコルバン…供え物ですと言えば…父母に対して、もう何もしないで済む」という「言伝え」を巧みに利用して、「あなたの父と母を敬え」(出エジプト記20:12)という「神のいましめを捨て」ていたからです。
すべてを見通しておられる神の前でも、私たちは格好をつけて良い子のふりをしたり、仮面をかぶって偽りの自分を演じたりしやすいものです。それは、本当の姿を見られたら愛されないかもしれない、受け入れられないかもしれないという恐れが心の奥底にあるからではありませんか。しかし心配無用です。イエスが私たちに代わって十字架上で捨てられてくださったので、私たちはもはや神に捨てられることなどないからです。ですから仮面をかぶった自分で生きるのをやめ、素の自分で生きようではありませんか。そこから神の愛を本当に知り、その愛に応えて生きる信仰生活が始まるのです。

マルコによる福音書6:53~56「信仰の手を伸ばそう」

2020年8月23日、マルコによる福音書6:53~56「信仰の手を伸ばそう」
ゲネサレの人々はイエスの来訪を知るや否や、「その地方をあまねく駆けめぐり…病人たちを…運びはじめ…せめてその上着のふさにでも、さわらせてやっていただきたいと、お願いし…さわった者は皆いやされ」ました。「力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった」(1~6節)郷里ナザレとは対照的です。信じようとも期待しようともしない不信仰の中では、さすがのイエスもその力を発揮することができませんでした。ゲネサレの人々の信仰は、幼稚でご利益信仰的であったかもしれませんが、イエスに対するひたむきな心で信仰の手を伸ばしました。その素朴な信仰にイエスも深いあわれみをもって答えられたのです。
罪や病気や死は初めからあったものではなく、最初の人アダムとエバの堕罪によって生じた不自然なものです(創世記 第3章)。イエスは、私たち人間をこれらから救い出すためにこの世に来られ、神のかたちに造られた人間がこれらで苦しむのを見て、深くあわれまれました。癒しのみわざは、御言葉を語ることと同様、イエスにとっては重要な働きの一つだったのです。それほどイエスは、「あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと」願っておられるのです(Ⅲヨハネ2)。
しかし問題はその後です。この世的な祝福だけで満足して、イエスのもとを離れ去るのか。それとも永遠に失われることのない霊的祝福を求めて、イエスを信じ、イエスの愛に応えて生きるのか。「今は恵みの時…今は救の日」(Ⅱコリント6:2)、「今」こそ信仰決断の時です。

マルコによる福音書6:45~52「心安かれ、我なり、恐るな」

2020年8月16日、マルコによる福音書6:45~52「心安かれ、我なり、恐るな」
「イエスは…群集を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸…へ先におやりにな」りました。逆風が夕方から夜明けまで吹き続けたため、弟子たちは舟をこぎあぐねていました。でも、なぜイエスに助けを求めなかったのでしょうか。イエスの専門分野である神の世界に関してはイエスに信頼するが、自分たちの専門分野である漁の世界に関しては自分たちだけで何とかなると考えていたからかもしれません。私たちも、イエスはいつも共にいてくださると口先で言いながら、実生活ではイエスの臨在をまるで必要としていないかのような生き方をしてはいないでしょうか。
弟子たちが精も根も尽き果てた頃、イエスが「海の上を歩いて近づき」、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と語りかけられました。以前もガリラヤ湖で大嵐に見舞われたとき、わたしイエスが「静まれ、黙れ」と言うと、「風はやんで、大なぎになった」ではないか(4:35~41)。パンの奇跡を見たばかりではないか(6:35~44)。わたしの命令でこぎ出した舟ではないか。全宇宙の主権者がいるのに、なぜ恐れるのか、信頼できないのか、ということです(マタイ28:18)。
もはや打つ手がないような絶体絶命のとき、「主よ、お助けください」(マタイ14:30)と叫んで、イエスを自分の人生丸に迎え入れるならば、「舟に乗り込まれると、風はやんだ」、そして向こう岸へ無事到着させてくださいます。「イエスは波を踏みつけて来られた。そのようにイエスは、人生にわきあがって来るすべての混乱を、足の下に踏みつけられた。クリスチャンよ、どうして恐れるのか」(アウグスティヌス)。

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