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マルコによる福音書3:13~19a「そばに置いて遣わすため」

2019年9月8日、マルコによる福音書3:13~19a「そばに置いて遣わすため」
イエスは「夜を徹して神に祈られ」(ルカ6:12)、「みこころにかなった者たち(新共同訳「これと思う人々」)」12名を使徒として選ばれました。その目的は「彼らを自分のそばに置くためであり」、「つかわす」ためです。この二つの目的は、私たちが選ばれ救われた目的でもあります。
第一は「自分のそばに置くため」。イエスは寝食を共にして生き方を見せることで、彼らをご自分に倣う者へと造り変えようとされたのです。イエスのそばで御言葉に養われ(ルカ10:39)、イエスの教育・訓練・感化を受け続けるなら、次第にイエスに似てくることでしょう。
第二は「つかわす」ため。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝え」(16:15)る「宣教」のため、「悪霊を追い出す権威を持たせるため」に「つかわす」のです。私たちが先に救われたのは、「救わんがための救い」(ブース大将)、私たちを通して誰かが救われるためです。普段はおしゃべりなのに、「この人による以外に救はない」(使徒行伝4:12)ほどすばらしい福音の宣教となると、どうして途端に無口になってしまうのでしょうか。「今の時を生かして」(エペソ5:16)、「時が良くても悪くても」(Ⅱテモテ4:2)、イエスを証ししたいものです。
12使徒の名簿は、イエスを否認した「ペテロ」に始まり、イエスを裏切った「ユダ」で終わっています。最初から出来上がった人が選ばれたのではないということです。しかしやがてペテロは教会の柱に造り変えられ、「雷の子」ヨハネは愛の人に造り変えられました。ユダを除く使徒の生涯は、イエスのそばで学び、取り扱われ、造り変えられる恵みがいかにすばらしいものであるかを証明しています。

マルコによる福音書3:7~12「あなたこそ神の子です」

2019年8月18日、マルコによる福音書3:7~12「あなたこそ神の子です」
イエスが安息日に片手のなえた人を癒されたことで、パリサイ派とヘロデ党が「イエスを殺そうと相談しはじめた」一方(1~6節)、各地から「イエスにさわろうとして、押し寄せてきた」人々もいました。真実に救いを求める人もいたでしょうが、多くはご利益目当ての人でした。イエスを正しく認識していたのは、皮肉にも「けがれた霊ども」で、「あなたこそ神の子です」と認めていました(ヤコブ書2:19)。
あなたも、群衆のようにただイエスの周りを取り囲むだけで、本気で信じようとも従おうともしない人でしょうか。悪魔のようにただイエスについて頭でよく知っているだけの人でしょうか。どんなにイエスについてよく知っていても、どんなにイエスの周りをうろうろしていても、悔い改めと信仰によってイエスにつながることがなければ、いつまでたっても何の変化もあり得ません。「十二年間も長血をわずらっている女が…せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思って」、「群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった」ところ、たちどころに癒されました(5:25~34)。彼女のように明確な願いをもってイエスに近づいて触れることが大切です。そのときイエスも私たちに対して全能の御腕を伸ばして、最善の時に最善の方法でその祈りに答えてくださることでしょう。
「あなたこそ神の子です」と本物の信仰告白をして、イエスと共に歩む信仰生涯に入る決断をすべきではないでしょうか。いつまでも同じところに留まっていないで、「どうせ自分は駄目だ」と諦めていないで、明確な願いをもって一歩踏み出すべきではないでしょうか。

マルコによる福音書3:1~6「あなたの手を伸ばしなさい」

2019年8月11日、マルコによる福音書3:1~6「あなたの手を伸ばしなさい」
安息日の会堂に「右手のなえた人」(ルカ6:6)がいました。パリサイ人が「イエスを訴えようと思って…うかがってい」ると、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」とイエスに質問されましたが、「彼らは黙ってい」ました。「イエスは怒り…その心のかたくななのを嘆いて」、「手を伸ばしなさい」と言って癒されると、それを機に分離主義の「パリサイ人」と世俗主義の「ヘロデ党」がイエス憎しで一致、「イエスを殺そうと相談しはじめ」ました。
取税人や罪人に対しては怒られなかったイエスですが、自称義人のパリサイ人や律法学者に対しては、その心のかたくなさを嘆き怒られました(11:15~18、マタイ第23章「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである」計8回)。「律法的な信仰が問題なのは…周りの人々を批判することです」(丸屋真也師)。律法的な信仰から恵みに生きる信仰に変わるためにはどうしたらよいのでしょうか。それは、強がるのをやめること、裸の恥を覆い隠す鎧を脱ぎ捨てることです。自分の弱さを正直に認めてへりくだり、神の助けを求めるならば、頑固で傲慢で冷たい「石の心を除いて」、教えられやすく従いやすい、柔らかく温かい「肉の心を与え」られます(エゼキエル書36:26)。「雷の子」(3:17)とあだ名された怒りっぽいヨハネも、愛の使徒に造り変えられました。「『わたしとしたことが、こんなはずじゃなかった』と思うようなことをしてしまったときこそ、自分がどんな人間かを知るチャンス。『わたしはこんな人間だ』と素直に認められたなら、そこから成長が始まるでしょう」(片柳弘史師)。さあ、「手を伸ばしなさい」。

マルコによる福音書2:23~28「安息日は人のためにある」

2019年7月28日、マルコによる福音書2:23~28「安息日は人のためにある」
「空腹であったため」(マタイ12:1)「弟子たちが穂をつみ、手でもみながら食べていた」(ルカ6:1)のを見たパリサイ人たちは、「なぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」と非難しました。貧しい人や旅人は他人の畑の収穫物で空腹を満たすことが許されていたので(申命記23:24~25)、行為自体に問題はありません。それを安息日に行ったことが問題で、労働行為に該当するので律法違反だと考えたのです。
それに対してイエスは第一に、人が危機的状況にあるときには律法よりも人の必要が優先する、とダビデの実例を挙げて反論されました(サムエル記上21:1~6)。第二に、神が人を造った後に安息日を定められ、「安息日は人のためにあるもの」なのに、口伝律法ではまるで逆になっている、という反論です。一日で獣と人を創造された神が、人を祝福し聖別するためだけに第七日を用いられたのは(創世記2:2~3)、片手間の祝福と聖別ではないということです。この祝福と聖別にあずかるために、イエスの復活以後は日曜日に共に集まって礼拝するようになりました。第三に、わたしイエスは、律法を制定された神より遣わされた御子で、安息日の上に立つ主だ、という反論です。
肉体の疲れは休息で解消されるかもしれませんが、魂の疲れはそうはいきません。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われるイエスのもとに行くしか手はありません。毎週の礼拝において、安息日の主イエスの祝福と聖別にあずかり、魂の疲れも癒されリフレッシュされ、再び社会や学校、家庭に遣わされていきましょう。

マルコによる福音書2:18~22「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」

2019年7月21日、マルコによる福音書2:18~22「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」
レビ(マタイ)が「多くの取税人や罪人たち…イエスや弟子たち」を招いて食事していたとき、「ヨハネの弟子とパリサイ人」が来て「あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」とイエスに質問しました。それに対してイエスは、三つの譬え話を用いて教え諭されました。「花婿」イエスが共にいる今は宴たけなわ、イエスと共にいることを大いに喜ぶべきです。「真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当て」ると、さらしていない「真新しい布ぎれ」だけ縮んで、「着物を引き破り…破れがもっとひどく」なります。発酵しきっていない「新しいぶどう酒」を、弾力性に乏しい「古い皮袋」に入れると、発酵に伴う圧力で古い「皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだに」なります。
私たちもイエスを信じて新しいぶどう酒を味わったはずですが(エペソ2:11~12)、いつの間にか窮屈で喜びのない信仰生活になっていないでしょうか。その原因の一つに「諦め」があります。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント5:17)。どうせ自分は駄目だと諦めない限り、「だれでも」常に可能性があります。もう一つの原因に「繕い」があります。ほころびや弱さをパリサイ人のように努力や修養で繕おうとする「律法的な信仰が問題なのは…どんなに熱心に主に仕えても成長しない…周りの人々を批判することです」(丸屋真也師)。努力や頑張りでは到底間に合わない惨めな自分であることを正直に認めて、「古き人を脱ぎ捨て…新しき人を着る」(エペソ4:22~24)のです。すると時々刻々イエスのいのちに満ちあふれ、やがてその恵みは周囲にあふれ出るほどになることでしょう。

マルコによる福音書2:13~17「病人に必要なのは医者、罪人に必要なのは?」

2019年6月30日、マルコによる福音書2:13~17「病人に必要なのは医者、罪人に必要なのは?」
イエスは、「アルパヨの子レビ(マタイ9:9「マタイ」)が収税所にすわっているのをごらんになって、『わたしに従ってきなさい』と言われた」。マタイは、人々の突き刺すような冷たい視線とはまるで違う、慈愛に満ちあふれたイエスの視線に釘付けになったことでしょう。その上、取税人の自分に声をかけてくださったことにどれほど感動したことでしょうか。マタイは取税人の仕事も富も皆かなぐり捨てて、イエスに従っていきました。あなたもこの世の何かにいつまでもしがみついていないで、「わたしに従ってきなさい」とお招きくださるイエスと共に歩む確かな人生へと方向転換すべきではありませんか。
新たな使命を与えられたマタイは感謝と喜びにあふれ、「多くの取税人や罪人たち…イエスや弟子たち」を招いて盛大な宴会を催しました。「罪人や取税人たちと食事を共にし」なかった「パリサイ派の律法学者たち」が「なぜ…食事を共にするのか」と問うと、イエスは「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と答えられました。神の前に「病人…罪人」であることを素直に認めてイエスを信じるか、それとも「義人」と考えて自己満足するか。「人は神の手術室に入ろうとしません。ましてや、手術台に上がろうとしません。たとえ手術台に上がっても、素っ裸になろうとしません。それどころか、言い訳をしたり、弁解したり、医者の腕を心配したり、疑ったりします…自分が病気であることを認め、素直な気持ちで素っ裸になり、神の手術台に上がる人こそ神のいやしを得る人です」(榊原寛師)。

マルコによる福音書2:1~12「あなたの罪は赦された」

2019年6月23日、マルコによる福音書2:1~12「あなたの罪は赦された」
「イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき…多くの人々が集まってきて…御言葉を…語っておられた」とき、四人の友人が「屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろし」ました。「群衆のために近寄ることができない」という困難にもめげず、イエスなら中風を癒してくださると信じて強行突破したのです。「イエスは彼らの信仰を見て」とあります。今イエスは、あなたの信仰も見ておられます。本気で信じ、本気で願っているでしょうか。
中風の癒しを求めてきたのに、イエスは「子よ、あなたの罪はゆるされた」と宣言されました。彼には病の癒し以上に罪の赦しこそ必要であることを知っておられたからです。「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」という律法学者の心中を見抜かれたイエスは、今度は中風を癒され、それによって罪の赦しが確かにあり、自分はその権威を持っていることを明らかにされたのです。
病気やけがのため肉体が半身不随であることは人間にとって大きな悩みですが、魂が罪のために半身不随になっていることは、それ以上に大きな問題です(ローマ7:15)。創造主なる神を無視していて、どうして祝福があるでしょうか。神との関係を断絶させている罪の赦しこそ最も偉大な奇跡であり、永遠に続く恵みです。あなたはイエスを救い主として信じ受け入れるか、それとも「神をけがす」者として断罪するか、イエスを知らない人々のために今度はあなたが祈り、実際に行動を起こす番ではないか、とこの記事は決断を迫るのです。

マルコによる福音書1:40~45「イエスは深くあわれんで」

2019年6月16日、マルコによる福音書1:40~45「イエスは深くあわれんで」
当時「らい病人」は、神に呪われ罰せられた者と考えられ、人々から隔絶されていました(レビ記13:45~46)。そんな病人が、イエスの行く手を遮るようにしてひれ伏し、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と懇願したのです。病人は、イエスはこの病をきよめる力をお持ちだと確信していましたが、果たしてその力を自分のような者に用いていただけるかどうか不安でした。そんな病人を「イエスは深くあわれみ(内臓が揺さぶられる、の意)」ました。イエスは触って病を癒されることもありましたが、ただ言葉を発するだけで癒されることもありました。それなのに、よりによってらい病人に、何と「手を伸ばして彼にさわ」られました。実に衝撃的な光景で、人々は大変驚いたでしょうが、誰よりも驚いたのは当のらい病人だったはずです。イエスの手の温もりは、人々から忌み嫌われていた病人に、「私はイエスに愛され受け入れられている」と実感させたことでしょう。
私たちが神の前にも人の前にも真に健全であるようにとイエスは願っておられ、そのため深く同情し、親身になって関わってくださいます(イザヤ書53:3、ヘブル4:15)。健全な歩みを妨げているのが私たちの罪であり自我ですが、十字架はそれらを赦し潔めることができます。この恵みを受け取って、神の前にも人の前にも健全であってほしいと願っておられます。救いの必要、潔めの必要を認めて、明確に願い出ることをイエスは待っておられます。イエスは、あなたが抱えて苦悩している問題に「手をのばして…さわり」解決したい、「そうしてあげよう、きよくなれ」と宣言したいと願っておられるのです。

マルコによる福音書1:35~39「朝早く寂しい所で」

2019年5月26日、マルコによる福音書1:35~39「朝早く寂しい所で」
神であると同時に人間であったイエスは、私たちと同様、弱さを覚えられましたし(ヨハネ4:6)、説教や癒しや悪霊追放のときには全精力を注いでおられたことでしょう(5:29~30)。そのように朝から晩まで休む暇なく働かれたイエスがお疲れにならなかったはずはありませんが、「朝はやく、夜の明けるよほど前に…起きて…祈っておられた」。
なぜそうされたのでしょうか。第一に、父なる神と交わるためでした。イエスは毎朝の祈りの中で、今日も神の愛と真実に支えられていることを感謝して一日を始められたのでしょう。「朝、神の前に静まって、神の愛が自分の心に注ぎ込まれ、満ち満ちてくるのを感ずるまでは、決してその場から立ち上がってはならない」(F.B.マイヤー)。
第二に、神から新しい力を得るためでした(イザヤ書40:31、ピリピ4:13)。イエスは毎朝の祈りの中で疲れを癒され、新たな力を注がれていたからこそ、激務に戻って行くことができたのでしょう。「神を離れては、どんなに些細な試練でも私たちの手に負えなくなる」(F.B.マイヤー)。
第三に、自分の使命を確認するためでした。本書には、イエスの祈りの場面が計3回記されています(1:35、6:46、14:32~42)。いずれも十字架抜きの救いへと誘う危機的な状況でした。だからこそ祈りの中で、「教を宣べ伝え」るため、十字架と復活による救いを完成するために来臨したことを再確認し、使命に堅く立つ必要があったのです。
「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」(ウエストミンスター小教理問答 第1問)。私たちも毎朝、このことのために今日も生かされていることを感謝し、一日をスタートしましょう。

マルコによる福音書1:29~34「イエスの家庭訪問」

2019年5月19日、マルコによる福音書1:29~34「イエスの家庭訪問」
第一に、「シモンのしゅうとめが熱病で床についていたので、人々はさっそく、そのことをイエスに知らせ」ました。「さっそく…イエスに知らせ」て祈ることこそ、問題解決の早道です(詩篇46:10、50:15)。
第二に、「イエスは近寄り、その手をとって起されると、熱が引き」ました。弟子たちが逆風のため舟をこぎあぐねていたとき、イエスが「舟に乗り込まれると、風はや」みました(6:45~52)。パウロの場合は、肉体的弱さが除去されるよう祈り続けましたが、結局癒されませんでした。代わりに「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」との答えを受け入れ、神により頼んで超人的な働きをしました。イエスを迎え入れることで、願いどおり解決されることもあれば、解決されないこともあります。しかしいずれにせよ、好循環へと変わっていくことだけは確かです。
第三に、熱病を癒された姑は、感謝にあふれて「彼らをもてなし」ました。ドルカスは十字架の愛に何とか応えようと、裁縫の賜物を用いて、困窮する女性たちのために服を作りました(使徒行伝9:36~43)。水が流れ込むだけで出口がなく、塩分濃度が高くて(普通の海の6倍)生物の住めない死海(塩の海)のようであってはなりません(使徒行伝20:35)。
イエスを信じ迎え入れることによって好循環が生まれ、十字架の愛に応えて神と人に仕えることによって好循環が維持されます。あなたの人生にもこの好循環があるでしょうか。信仰を働かせるよりも常識を働かせて、イエスを迎え入れるところが詰まっていませんか。喜んで神と人のために奉仕するところが詰まっていませんか。

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