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マルコによる福音書2:13~17「病人に必要なのは医者、罪人に必要なのは?」

2019年6月30日、マルコによる福音書2:13~17「病人に必要なのは医者、罪人に必要なのは?」
イエスは、「アルパヨの子レビ(マタイ9:9「マタイ」)が収税所にすわっているのをごらんになって、『わたしに従ってきなさい』と言われた」。マタイは、人々の突き刺すような冷たい視線とはまるで違う、慈愛に満ちあふれたイエスの視線に釘付けになったことでしょう。その上、取税人の自分に声をかけてくださったことにどれほど感動したことでしょうか。マタイは取税人の仕事も富も皆かなぐり捨てて、イエスに従っていきました。あなたもこの世の何かにいつまでもしがみついていないで、「わたしに従ってきなさい」とお招きくださるイエスと共に歩む確かな人生へと方向転換すべきではありませんか。
新たな使命を与えられたマタイは感謝と喜びにあふれ、「多くの取税人や罪人たち…イエスや弟子たち」を招いて盛大な宴会を催しました。「罪人や取税人たちと食事を共にし」なかった「パリサイ派の律法学者たち」が「なぜ…食事を共にするのか」と問うと、イエスは「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と答えられました。神の前に「病人…罪人」であることを素直に認めてイエスを信じるか、それとも「義人」と考えて自己満足するか。「人は神の手術室に入ろうとしません。ましてや、手術台に上がろうとしません。たとえ手術台に上がっても、素っ裸になろうとしません。それどころか、言い訳をしたり、弁解したり、医者の腕を心配したり、疑ったりします…自分が病気であることを認め、素直な気持ちで素っ裸になり、神の手術台に上がる人こそ神のいやしを得る人です」(榊原寛師)。

マルコによる福音書2:1~12「あなたの罪は赦された」

2019年6月23日、マルコによる福音書2:1~12「あなたの罪は赦された」
「イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき…多くの人々が集まってきて…御言葉を…語っておられた」とき、四人の友人が「屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろし」ました。「群衆のために近寄ることができない」という困難にもめげず、イエスなら中風を癒してくださると信じて強行突破したのです。「イエスは彼らの信仰を見て」とあります。今イエスは、あなたの信仰も見ておられます。本気で信じ、本気で願っているでしょうか。
中風の癒しを求めてきたのに、イエスは「子よ、あなたの罪はゆるされた」と宣言されました。彼には病の癒し以上に罪の赦しこそ必要であることを知っておられたからです。「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」という律法学者の心中を見抜かれたイエスは、今度は中風を癒され、それによって罪の赦しが確かにあり、自分はその権威を持っていることを明らかにされたのです。
病気やけがのため肉体が半身不随であることは人間にとって大きな悩みですが、魂が罪のために半身不随になっていることは、それ以上に大きな問題です(ローマ7:15)。創造主なる神を無視していて、どうして祝福があるでしょうか。神との関係を断絶させている罪の赦しこそ最も偉大な奇跡であり、永遠に続く恵みです。あなたはイエスを救い主として信じ受け入れるか、それとも「神をけがす」者として断罪するか、イエスを知らない人々のために今度はあなたが祈り、実際に行動を起こす番ではないか、とこの記事は決断を迫るのです。

マルコによる福音書1:40~45「イエスは深くあわれんで」

2019年6月16日、マルコによる福音書1:40~45「イエスは深くあわれんで」
当時「らい病人」は、神に呪われ罰せられた者と考えられ、人々から隔絶されていました(レビ記13:45~46)。そんな病人が、イエスの行く手を遮るようにしてひれ伏し、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と懇願したのです。病人は、イエスはこの病をきよめる力をお持ちだと確信していましたが、果たしてその力を自分のような者に用いていただけるかどうか不安でした。そんな病人を「イエスは深くあわれみ(内臓が揺さぶられる、の意)」ました。イエスは触って病を癒されることもありましたが、ただ言葉を発するだけで癒されることもありました。それなのに、よりによってらい病人に、何と「手を伸ばして彼にさわ」られました。実に衝撃的な光景で、人々は大変驚いたでしょうが、誰よりも驚いたのは当のらい病人だったはずです。イエスの手の温もりは、人々から忌み嫌われていた病人に、「私はイエスに愛され受け入れられている」と実感させたことでしょう。
私たちが神の前にも人の前にも真に健全であるようにとイエスは願っておられ、そのため深く同情し、親身になって関わってくださいます(イザヤ書53:3、ヘブル4:15)。健全な歩みを妨げているのが私たちの罪であり自我ですが、十字架はそれらを赦し潔めることができます。この恵みを受け取って、神の前にも人の前にも健全であってほしいと願っておられます。救いの必要、潔めの必要を認めて、明確に願い出ることをイエスは待っておられます。イエスは、あなたが抱えて苦悩している問題に「手をのばして…さわり」解決したい、「そうしてあげよう、きよくなれ」と宣言したいと願っておられるのです。

マルコによる福音書1:35~39「朝早く寂しい所で」

2019年5月26日、マルコによる福音書1:35~39「朝早く寂しい所で」
神であると同時に人間であったイエスは、私たちと同様、弱さを覚えられましたし(ヨハネ4:6)、説教や癒しや悪霊追放のときには全精力を注いでおられたことでしょう(5:29~30)。そのように朝から晩まで休む暇なく働かれたイエスがお疲れにならなかったはずはありませんが、「朝はやく、夜の明けるよほど前に…起きて…祈っておられた」。
なぜそうされたのでしょうか。第一に、父なる神と交わるためでした。イエスは毎朝の祈りの中で、今日も神の愛と真実に支えられていることを感謝して一日を始められたのでしょう。「朝、神の前に静まって、神の愛が自分の心に注ぎ込まれ、満ち満ちてくるのを感ずるまでは、決してその場から立ち上がってはならない」(F.B.マイヤー)。
第二に、神から新しい力を得るためでした(イザヤ書40:31、ピリピ4:13)。イエスは毎朝の祈りの中で疲れを癒され、新たな力を注がれていたからこそ、激務に戻って行くことができたのでしょう。「神を離れては、どんなに些細な試練でも私たちの手に負えなくなる」(F.B.マイヤー)。
第三に、自分の使命を確認するためでした。本書には、イエスの祈りの場面が計3回記されています(1:35、6:46、14:32~42)。いずれも十字架抜きの救いへと誘う危機的な状況でした。だからこそ祈りの中で、「教を宣べ伝え」るため、十字架と復活による救いを完成するために来臨したことを再確認し、使命に堅く立つ必要があったのです。
「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」(ウエストミンスター小教理問答 第1問)。私たちも毎朝、このことのために今日も生かされていることを感謝し、一日をスタートしましょう。

マルコによる福音書1:29~34「イエスの家庭訪問」

2019年5月19日、マルコによる福音書1:29~34「イエスの家庭訪問」
第一に、「シモンのしゅうとめが熱病で床についていたので、人々はさっそく、そのことをイエスに知らせ」ました。「さっそく…イエスに知らせ」て祈ることこそ、問題解決の早道です(詩篇46:10、50:15)。
第二に、「イエスは近寄り、その手をとって起されると、熱が引き」ました。弟子たちが逆風のため舟をこぎあぐねていたとき、イエスが「舟に乗り込まれると、風はや」みました(6:45~52)。パウロの場合は、肉体的弱さが除去されるよう祈り続けましたが、結局癒されませんでした。代わりに「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」との答えを受け入れ、神により頼んで超人的な働きをしました。イエスを迎え入れることで、願いどおり解決されることもあれば、解決されないこともあります。しかしいずれにせよ、好循環へと変わっていくことだけは確かです。
第三に、熱病を癒された姑は、感謝にあふれて「彼らをもてなし」ました。ドルカスは十字架の愛に何とか応えようと、裁縫の賜物を用いて、困窮する女性たちのために服を作りました(使徒行伝9:36~43)。水が流れ込むだけで出口がなく、塩分濃度が高くて(普通の海の6倍)生物の住めない死海(塩の海)のようであってはなりません(使徒行伝20:35)。
イエスを信じ迎え入れることによって好循環が生まれ、十字架の愛に応えて神と人に仕えることによって好循環が維持されます。あなたの人生にもこの好循環があるでしょうか。信仰を働かせるよりも常識を働かせて、イエスを迎え入れるところが詰まっていませんか。喜んで神と人のために奉仕するところが詰まっていませんか。

マルコによる福音書1:21~28「人々はイエスに驚いた」

2019年5月12日、マルコによる福音書1:21~28「人々はイエスに驚いた」
イエスは、説教と御業(癒しや奇跡等)によって、父なる神がどういうお方であるかを人々に教えようとされました。律法学者たちは「やたらに他人のことばを引用」(リビングバイブル)して自らの教えを権威づけようとしましたが、永遠に神と共におられるイエスは、「神は言われる。わたしは言う」と確信をもって語ることができました。律法学者たちの説教は人々に重荷を負わせて苦しめるものでしたが、イエスの説教は重荷を下ろさせ(マタイ11:28)、恵みに生かすものでした。律法学者たちは語るだけで実行しませんでしたが、イエスは自ら語ったことを率先して実行されました(ルカ23:34)。「けがれた霊につかれた者が会堂にいて」、イエスが「黙れ、この人から出て行け」と言われると、悪霊は出て行きました(ルカ11:20)。人々は、イエスの説教や御業の中に、律法学者たちにはない天来の権威を見出して驚いたのです。
私たちは彼らのようにイエスを直接見ることはできませんが、聖書66巻によってより正確に知ることができます。問題は、イエスをどのようなお方と考え、どのような態度をとっているかです。自分のわずかな知識や経験で神を推し量ったり、常識の範囲内の御言葉しか聞こうとしなかったり、心をかたくなにして批判や偏見に凝り固まったりしていると、御言葉をいくら聞いても正しく理解できないでしょう。まず自分の知識や経験を横に置いて、神が言わんとすることを謙虚に聞き取る姿勢を持つところから始めるなら、イエスは私を罪と滅びから救い出してくださる救い主であり、私の生涯を全責任をもって導いてくださる主権者であることがわかるでしょう。

マルコによる福音書10:13~16「幼な子を祝福されるイエス」

2019年4月7日、マルコによる福音書10:13~16「幼な子を祝福されるイエス」
「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに(次から次へと)連れてきた」ので、「弟子たちは彼らをたしなめた」ところ、「イエスは憤り」、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい…神の国はこのような者の国(だから)である」と言われました。幼な子は教えられたことを素直に信じ受け入れますが、大人になると偏見等がしばしば邪魔をします。幼な子はひたすら親に頼りますが、大人になると自力で頑張ることが賞賛されます。幼な子のように自分の罪や弱さ・頼りなさを認めてへりくだり、イエスの十字架を信じ、神により頼んで生きる人こそ、神の国に迎え入れられる人なのです。
「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい」とは、イエスの御心であり、子ども伝道に対する命令、召しです。マタイ18:2では「イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた」とあります。幼な子たちこそ教会の中心だということです。教会の閉塞感と高齢化、教会学校の閉鎖等、多くの教会が行き詰まっていますが、実は、教会の閉塞感と教会から子どもたちがいなくなったこととは同時に起こっていることなのです。教会の中心であるべき子どもたちの存在こそ教会の力であり、教会から子どもたちがいなくなれば、教会に閉塞感がやってくるのは至極当然のことなのです。逆に韓国では1970年代に大リバイバルがありましたが、実はその10~20年前に子どもたちのリバイバルがあり、その子どもたちが成長して大リバイバルを迎えたのです。鍵は「次世代」にあります。「今こそ、次世代への宣教と信仰継承」実現のため祈り働きましょう。

マルコによる福音書1:16~20「わたしについてきなさい」

2019年3月24日、マルコによる福音書1:16~20「わたしについてきなさい」
シモン(ペテロ)とアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟は、「わたしについてきなさい…人間をとる漁師にしてあげよう」とイエスに招かれました。彼らは漁師で、専門教育を受けていない「無学な、ただの人たち」(使徒行伝4:13)でしたが、今後は罪の海に溺れている人間を救い出す「人間をとる漁師」へと召されたのです。「すると、彼らはすぐに網を捨てて…父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟において」、イエスに従いました。即刻の服従、無条件の服従、全生涯かけた服従でした。
ペテロの姑はイエスによって癒され、感謝に満ちてイエスたちをもてなしました(29~31節)。パウロとシラスが「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒行伝16:31)と確信をもって語ることができたのは、弟子たちの家族の救いの実例が多くあったからでしょう。イエスとその御言葉に従うことを勇気を出して優先するなら、あとはイエスが責任をもって下さるのです。
この世の頼りない「網」にいつまでもしがみついていないで、自分中心の生き方から神中心の生き方へと方向転換すべきではないでしょうか。自らの欲を満たそうと自分勝手に支配する世にあって、私たちは全地とその中に満ちるものを神の御心に従って正しく治めるよう選ばれ召されたのです(創世記1:28)。今置かれている職場・学校・家庭・教会等で、キリスト者だからこそできること、なすべきことがあるはずです。あなたの日々の歩みは、「わたしについてきなさい」との招きに真に応えたもの、「私の関係する仕事は、すべて神の仕事です」(ブラザー・ローレンス)と認識したものとなっているでしょうか。

マルコによる福音書1:14~15「悔い改めて福音を信ぜよ」

2019年3月3日、マルコによる福音書1:14~15「悔い改めて福音を信ぜよ」
「時は満ち…神の国は近づいた」今、神の国に入るための条件は、「悔い改めて(心の向きを変える、の意)福音を信」じることです。生まれながらの人間は皆、神に背を向けて生きている罪人です。罪を犯すから罪人なのではなく、生まれながらの罪人だから罪を犯してしまうのです。神に背を向けたまま歩き続けると、神から遠ざかる一方です(マルコ7:21~22)。そうした歩みがいかに人を傷つけ、自分を汚し、神を悲しませてきたかに気づいて、今後は自分中心から神中心に生きようと心の向きを180度変えるのが「悔い改め」です。そのように神に向かって歩み続けると、神にますます近づき、神と共に歩むようになります。これこそ神に造られた人間の本来あるべき姿ですが、実は悔い改めだけでは救われません。罪を悔い改めた上で、「福音」そのものであるイエスを信じるから救われるのです(使徒行伝20:21)。
これは、救われるために必ずしなければならないことですが、その後は必要ないということではありません。地上的な価値観や生き方に支配され、引き戻されてしまいがちな私たちは、神の国完成の時が近いことを覚え、その意識を神の国に合わせて軌道修正する悔い改めの時がどうしても必要なのです。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(Ⅱコリント6:2)。「また、よい機会を得たら」(使徒行伝24:25)と言って、「今」という恵みの「時」を無駄にしてはなりません。「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4:7)、「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」(イザヤ書55:6)。

マルコによる福音書1:14~15「神の国は近づいた」

2019年2月24日、マルコによる福音書1:14~15「神の国は近づいた」
①神の国の到来と完成
「神の国」とは、神の恵みによる支配、という意味です(「御国」「天国」も同意)。エゴとエゴとがぶつかり合う世界、家庭や職場、学校は悲惨です。イエスは、そんな地上に神の国を実現するために来られました。イエスが「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:20~21)、「神の国が力をもって来る(=十字架)」(マルコ9:1)と言われたように、神の国はイエス来臨によって、さらには十字架と復活によって地上に実現し、特にイエスの説教や奇跡、愛と謙遜の中に現れています。またイエスを信じる者の心の「ただ中に」、信仰者の集まりである教会の「ただ中に」も実現しています。しかしいまだ不完全で、その完成はキリスト再臨後のことです(黙示録20:1~21:4)。私たちは、この「すでに」と「いまだ」の間の緊張状態に生かされているのです。
②神の国の完成のために
神の国は信じる者の心の内にすでに実現してはいますが、神の恵みによる支配を心から喜べない自己中心・自我がしばしばトラブルの一因となっています。主の祈りの中の「御国を来たらせたまえ」という祈りは、まず祈る者自身の醜い自我がキリストと共に十字架につけられて死に、キリストが内住されることにより(ガラテヤ2:19~20)、喜んで神に服従できるように、という祈りです。また、福音が全世界に宣べ伝えられた後に再臨があるということは、私たちの怠慢が再臨を遅らせているとも言えます(マタイ24:14)。それゆえ、福音を宣ベ伝えようと決意し、そのために自らを献げる祈りでもあるのです。

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