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マルコによる福音書6:6b~13「十二弟子の派遣」

2020年3月22日、マルコによる福音書6:6b~13「十二弟子の派遣」
イエスは「十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことに」されました。「十二人をお立てになった」目的は、「彼らを自分のそばに置くためであり」、「つかわす」ためでした(3:14~15)。イエスは「彼らを自分のそばに置」いて訓練した上で、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝え」(16:15)る「宣教」のため、「悪霊を追い出す権威を持たせるため」に「つかわす」のです。その際、持参してよいものといけないものとの注意も与えられました。必要最小限の旅支度で、あとは全面的に神に信頼せよ、ということです。旅人をもてなす習慣があった当時だからできたことですが(ヘブル13:2)、神に真剣により頼んで期待することが薄らいではいないか、と問う必要もあるでしょう。「これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」(ゼカリヤ書4:6)、今こそ当教団の原点に立つべきです。人間的な「権勢」や「能力」に寄り頼まず、聖霊に寄り頼みましょう。
十二弟子は、厳しい条件付きで遣わされることで、主に寄り頼まなければ到底全うできないことを日々痛感したことでしょう。と同時に、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と言われたとおり、イエスが共にいて助けてくださることを何度も体験したことでしょう。「彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした」結果、「イエスの名が知れわたって、ヘロデ王の耳にはいった」「多くの人々は…一せいに駆けつけ…パンを食べた者は男五千人であった」となったのです(6:14、33~44)。

マルコによる福音書1:1~6a「イエスは不信仰に驚かれた」

2020年3月15日、マルコによる福音書1:1~6a「イエスは不信仰に驚かれた」
マルコによる福音書1:1~6a「イエスは不信仰に驚かれた」
イエスが生まれ育った郷里ナザレの人々は、イエスはもちろんのこと、その両親や兄弟たちとも旧知の間柄なので、自分たちが昔からよく知っている「この人」のままでした。すばらしい説教や奇跡を見聞きしても、「イエスのことを、自分たちと同じ、ただの田舎者だと思って」(リビングバイブル)いました。というのも、当時のユダヤ人は、約束の救い主はエルサレム神殿に突如現れると信じていたからです。
これまでイエスは、病を癒したり悪霊を追い出したり嵐を静めたりと、「力あるわざ」を度々行ってこられたのに、ナザレでは「ただ少数の病人に手をおいていやされた」だけでした。全能のイエスであっても、信じようとも期待しようともしない不信仰の中では、その全能の力も働きも大幅に制限されてしまうということです。不信仰は、全能の主から溢れ流れる恵みを妨げる絶縁体のようなものなのです。
今のあなたをご覧になってイエスはどう思われるでしょうか。「不信仰を驚き怪しまれ」、「そこでは力あるわざを一つもすることができず」でしょうか。それとも「イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」(マタイ8:10)と、その信仰に驚かれるでしょうか。
パウロ(サウロ)も「かつてはキリストを肉によって」(Ⅱコリント5:16)、自己流に判断して、約束の救い主であることを否定していました。自分の頭で納得できる範囲内でイエスを見つめている限り、イエスを真に知ることも救いを得ることもできず、何の変革も起こらないでしょう。人間的な常識の範囲を飛び超えて、「人にはできないが、神にはできる」(10:27)とイエスに期待し、信仰の手を伸ばしましょう。

マルコによる福音書5:21~24、35~43「ただ信じていなさい」

2020年3月1日、マルコによる福音書5:21~24・35~43「ただ信じていなさい」
「会堂司のひとりであるヤイロ」が「死にかかってい」る娘のために「おいでになって、手をおいてやってください」とイエスにしきりに懇願すると、その信仰に答えて「イエスは彼と一緒に出かけられ」ました。ヤイロのように必死に祈り求めることを主は待っておられます。ハンナも「主の前に心を注ぎ出して」祈り抜き、やがて「その顔は、もはや悲しげではなくなった」のは、祈りが聞かれたと確信したからです。サムエルが与えられたのは、それからほどなくしてのことです(サムエル記上 第1章)。適当なところで立ち上がるから、いつまでたっても真の勝利が来ないのです。徹底的に祈り抜くことが大切です。
ヤイロの懇願に答えてすぐ出発したものの、「大ぜいの群衆」や長血の女に時間を取られているうちに、娘の死の知らせが届きました。ところが「イエスは…聞き流して(傍らで聞く、無視する、の意)…『恐れることはない(恐れているのを止めなさい、の意)。ただ信じなさい(信じ続けなさい、の意)』」と言われました。イエスは私たちの声をすぐ傍らで聞いておられますが、聞いても益にならない声は無視して聞き流されます。少年ダビデも巨人ゴリアテと戦うとき、人々は「無謀だ」と決めつけましたが、ダビデは「この戦いは主の戦いで」、主が勝利させてくださると確信していました(サムエル記上 第17章)。私たちも日々、世の声に翻弄され、神の御言葉よりも世の常識を優先してしまいそうになります。現実だけを見て、神を見失いそうになります。イエスはそんな弱い私たちに対して、周りの声など無視して聞き流しなさい、「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけておられるのです。

マルコによる福音書5:21~34「信仰のタッチ」

2020年2月23日、マルコによる福音書5:21~34「信仰のタッチ」
①長血の女の苦痛(25~26節)
「十二年間も長血をわずらっている女が…多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費やしてしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方で」、しかも律法によって「汚れた者」とみなされ、社会からも阻害されていました(レビ記15:25~30)。肉体的・経済的・社会的に苦しみ続けた女性でした。
②長血の女の信仰(27~34節)
イエスの評判(3:10)を聞いた彼女は、「せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていた(直訳「言い続けていた」)」、毎日毎日自分に言い聞かせていました。遂に念願のチャンスが到来すると、勇気を振り絞って「群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわ」りました。すると彼女は即刻癒され、「イエスは…自分の内から力が出て行ったことに気づかれ」ました。そして「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」と癒しと赦しの宣言をされました。
群衆は「四方八方から押し迫って…取り巻いて」(詳訳)いる状態で、イエスに触ったのは彼女だけではなかったでしょうが、イエスの「内から力が出て行」くような触り方をしたのは彼女だけでした。群衆の場合は単なる物理的タッチに過ぎなかったのに対して(6:5~6)、彼女の場合は明確な願いに基づく信仰のタッチであったからです(詩篇50:15)。イエスの周りをウロウロするだけでは何の変革も起こりません。明確な願いをもってイエスに近づき、イエスが「さわられた」と感じるような信仰のタッチをしましょう。これこそ信仰者必携の武器です。

マルコによる福音書5:1~20「あなたの家族のもとに帰って」

2020年2月16日、マルコによる福音書5:1~20「あなたの家族のもとに帰って」
「悪霊につかれた人」が回復されると、「お供をしたいと願い出」ました。「しかし、イエスはお許しにならないで」、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」とお命じになりました。それは、異邦の町ゆえ誤ったメシヤ観が広まる恐れがなかったため(⇔1:44)、長年心配かけた家族に責任を果たさせるためでしょう。彼は「ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ」ました。
この私を愛し、十字架上で死んで復活された御子イエスを信じて救われているならば、「主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか」、喜びと感謝にあふれて人々に証しするはずではないでしょうか。しかし今のあなたを神がご覧になったとき、「あなたは初めの愛から離れてしまった…冷たくもなく、熱くもない」(黙示録2:4、3:15)と言われないでしょうか。「どこから落ちたかを思い起し」(黙示録2:5)、「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみ」(イザヤ書51:1)るべきではありませんか。「伝道の本質は、伝えたいと願っているその人への愛です。あなたが伝えたい人が、あなたの大切な家族であったり、恋人であったり、友達であったりするならば、その人が福音を知らないまま、生きていくことを『まあ、いいか』と終わらせたりできないでしょう…愛するとは、諦めないことです…大切なことは、信じていることにあなたがまず感動をしていることです。そのためにはあなたが口にした福音そのものを、しっかり味わうことです」(大嶋重徳師)。

マルコによる福音書5:1~20「墓場の人生からの回復」

2020年2月9日、マルコによる福音書5:1~20「墓場の人生からの回復」
「激しい突風」のガリラヤ湖を渡り(4:35~41)、「向こう岸、ゲラサ人の地に着」くと、「けがれた霊につかれた人が墓場から出てき」ました。「墓場をすみかと」する、孤独で希望のない人。「もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けな」い、凶暴な人。「夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけ」る、自制心を失った人。「石で自分のからだを傷つけ」る、自分自身を受け入れ愛することができずに憎む人。これは、神のもとを離れ、自己中心に生きている罪人の姿でもあります。
地元カペナウムでは「大ぜいの群衆」がイエスを捜し求めていましたが(21節)、「けがれた霊につかれた人」を回復するために、1匹の迷子の羊を捜し出して救うためだけに(ルカ15:4~7)、イエスは大嵐のガリラヤ湖を渡られたのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43:4)、私たち一人ひとりも神にとってかけがえのない大切な存在です。神に造られ生かされていながら、神から迷い出てしまい、本来持っている価値を失い、力を十分発揮できずにいる私たち人間を、悪魔の支配から解放し、本来の姿に回復するために、イエスは来臨され、十字架と復活による救いを成し遂げてくださったのです。
「けがれた霊につかれた人」が救われるために、豚2千匹が犠牲になりました。私たち罪人を救うために神の御子イエスは、「がけから海へなだれを打って駆け下」ったどころか、十字架上で死んで黄泉にまで下られました。御子イエスを犠牲にしてでも少しも惜しくない、それほどあなたは「高価で尊い」存在なのです。だから神はあなたをも何とか回復したい、健全になってほしいと願っておられるのです。

マルコによる福音書4:35~41「向こう岸へ渡ろう」

2019年11月24日、マルコによる福音書4:35~41「向こう岸へ渡ろう」
イエスと弟子たちがガリラヤ湖の「向こう岸へ渡ろう」としたところ、今まで経験したことのないような「激しい突風」に遭遇しました(ガリラヤ湖は地中海の海面より210㍍も低く、500~600㍍の山々に囲まれている、すり鉢状の地形の底にあるため、突然の嵐がしばしば発生)。「舳の方でまくらをして、眠っておられた」イエスに弟子たちは、「わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と不満をぶつけ、イエスが「『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎにな」りました。イエスは、病を癒したり悪霊を追い出したりするだけでなく、自然界をも支配する全宇宙の王であることが証明された瞬間です。
そもそも「向こう岸へ渡ろう」と言ったのは、弟子たちではなくイエスご自身でした。イエスのご命令で出発した舟ですから、最後までイエスが責任をもってくださるはずです。しかも舟にはイエスご自身も乗っておられました。それなのに「どうしてそんなにこわがるのですか。まだわたしが信じられないのですか」(リビングバイブル)。
思わぬ人生の嵐に見舞われたとき、私たちも弟子たちのように悲観主義に陥って神を疑い、「どこにおられるのですか。何をしておられるのですか」と文句を言いがちです。そんな私たちに「どうしてそんなにこわがるのですか。まだわたしが信じられないのですか」「わたしはあなたと共にいる。わたしに信頼しなさい。わたしがあなたの人生の大嵐を鎮めてあげよう」と語りかけておられます。神への信頼で満たされて一日を始めるのと、不安と恐れに支配されて始めるのとでは大違いです。朝の御言葉と祈りの時間を大切にしましょう。

マルコによる福音書4:30~34「大きく成長する神の国」

2019年11月17日、マルコによる福音書4:30~34「大きく成長する神の国」
26~32節の二つの譬え話には、小さな始まりが大きな結果になるという共通点があり、26~29節は神の国は「おのずから」成長する点を強調し、30~32節は「からし種のように」成長する点を強調しています。「からし種」は「地上のどんな種よりも小さい」と当時考えられていましたが(100粒で約1㌘)、「成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほど」(3~4㍍)にもなります。小さく始まった神の国が次第に成長・発展し、世界のどの国よりも大きくなり、今や全世界がその中に宿るほど拡大・成長しています。
イエスの弟子たちは当時、世の人々の目にはからし種のような存在だったでしょう(ヨハネ1:46)。私たちも同様です(Ⅰコリント1:26~28)。小さいということは劣等感の原因にもなりますが、神は小さいものや「無きに等しい者を、あえて選ばれ」(Ⅰコリント1:26~28)、その小さいものを用いて神の栄光を現そうとされるお方です。御子イエスが降誕されたのは、大きな都エルサレムではなく、小さな町ベツレヘムでした(マタイ2:6)。イエスは五つのパンと二匹の魚だけで五千人以上の空腹を満たされました(マタイ14:15~21)。小さな少年ダビデは巨人ゴリアテをたった一発の小石で打ち倒しました(サムエル記上 第17章)。
「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう」(マタイ17:20、ピリピ4:13)。小さな始まりに気落ちしてはなりません。やがて大きな結果になる、これが聖書の約束です。私個人としても教会としても、この神の国の爆発的な生命力を信じて待ち望み、体験させていただきましょう。

マルコによる福音書4:26~29「おのずから実を結ぶ神の国」

2019年11月10日、マルコによる福音書4:26~29「おのずから実を結ぶ神の国」
①おのずから成長する神の国
大地にまかれた種が知らないうちに芽を出し、「おのずから(新改訳2017「ひとりでに」)実を結」ぶように、神の国(神の恵みによる支配)も人間の思いや力の及ばないところで「おのずから」成長していきます。「成長させて下さるのは、神で」(Ⅰコリント3:6~7)、しかもただ成長するだけでなく、「かまを入れる…刈入れ時」、神の国完成の時が必ず来ます。
②心の中で成長する神の国
イエスを信じる者の心の中に到来した神の国も(ルカ17:21)、「おのずから」成長し、実を結びます。御言葉の種にはいのちがあるからです。
③世の中で成長する神の国
イエスはこの譬え話を、熱心党の誤り(武力によってローマ帝国を倒し、神の国を建設する)を正すために語られたのかもしれません。私たちにも、神を押し退けて自力で神のわざをなそうとする熱心党的傾向がないでしょうか。確かに人間の側にも、祈ることや良い証詞を立てること等、なすべき責任があります。しかしたとえそれらがなくても、悪条件下であっても、神の国は「おのずから」成長していくもので、私たちには計り知れない神の領域です。また、当時イエスの弟子たちはごく少数で、神の国がなかなか成長しないように見える中、弟子たちを励ますための譬え話でもあったでしょう。ただひたすら信じて待つ他ない夜のような時もあります。しかし「おのずから」「ひとりでに」夜も昼も着実に進展していく神の国の生命力を信じて、なすべきことをなしたなら、あとは忍耐して神の時を待ち望むことです。

マルコによる福音書4:24~25「さらに与えられる人、取り上げられる人」

2019年10月27日、マルコによる福音書4:24~25「さらに与えられる人、取り上げられる人」
イエスは「神の国の奥義」を説教や奇跡によって明示され、それらが弟子たちによって記録されて聖書になり、誰でも「熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さっ」(使徒行伝17:27)ています。問題は、私たちの側の御言葉を聞く心の「はかり」です。「はかり」が小さく狭ければ、御言葉の恵みも小さく狭いものになり、「はかり」が大きく広ければ、御言葉の恵みも大きく広いものになります。「イエス様さすが、すごい、そうだね」とサ行で相槌を打ちながら聖書を読み説教を聞くならば、続いて出てくる言葉は「そうだ、信じて従おう」等の肯定的・積極的なものになるはずです。ところが「だって、でも、どうせ」とダ行で相槌を打つならば、続いて出てくる言葉は「どうせ自分は駄目だ」等の否定的・消極的なものになることでしょう。
「あなたの天幕の場所を広くし、あなたのすまいの幕を張りひろげ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ」(イザヤ書54:2~3)、「あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう」(詩篇81:10)。「広くせよ、期待せよ」という命令は聖書中多数出てきますが、「小さくせよ、期待するな」という命令はどこにもありません。それなのに私たちは神を常識の範囲内に小さく押し込め、大して期待もせず、諦めムードになっていないでしょうか。神の恵みの福音は、私たちが考える以上にずっと大きく広く豊かなものです。ほんの一部分だけ知って満足しているのはもったいない限りです。神を知る「はかり」を大きく広げていただいて、「わたしの杯はあふれます」(詩篇23:5)、神の恵みを満喫させていただこうではありませんか。

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