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マルコによる福音書1:14~15「悔い改めて福音を信ぜよ」

2019年3月3日、マルコによる福音書1:14~15「悔い改めて福音を信ぜよ」
「時は満ち…神の国は近づいた」今、神の国に入るための条件は、「悔い改めて(心の向きを変える、の意)福音を信」じることです。生まれながらの人間は皆、神に背を向けて生きている罪人です。罪を犯すから罪人なのではなく、生まれながらの罪人だから罪を犯してしまうのです。神に背を向けたまま歩き続けると、神から遠ざかる一方です(マルコ7:21~22)。そうした歩みがいかに人を傷つけ、自分を汚し、神を悲しませてきたかに気づいて、今後は自分中心から神中心に生きようと心の向きを180度変えるのが「悔い改め」です。そのように神に向かって歩み続けると、神にますます近づき、神と共に歩むようになります。これこそ神に造られた人間の本来あるべき姿ですが、実は悔い改めだけでは救われません。罪を悔い改めた上で、「福音」そのものであるイエスを信じるから救われるのです(使徒行伝20:21)。
これは、救われるために必ずしなければならないことですが、その後は必要ないということではありません。地上的な価値観や生き方に支配され、引き戻されてしまいがちな私たちは、神の国完成の時が近いことを覚え、その意識を神の国に合わせて軌道修正する悔い改めの時がどうしても必要なのです。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(Ⅱコリント6:2)。「また、よい機会を得たら」(使徒行伝24:25)と言って、「今」という恵みの「時」を無駄にしてはなりません。「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4:7)、「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」(イザヤ書55:6)。

マルコによる福音書1:14~15「神の国は近づいた」

2019年2月24日、マルコによる福音書1:14~15「神の国は近づいた」
①神の国の到来と完成
「神の国」とは、神の恵みによる支配、という意味です(「御国」「天国」も同意)。エゴとエゴとがぶつかり合う世界、家庭や職場、学校は悲惨です。イエスは、そんな地上に神の国を実現するために来られました。イエスが「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:20~21)、「神の国が力をもって来る(=十字架)」(マルコ9:1)と言われたように、神の国はイエス来臨によって、さらには十字架と復活によって地上に実現し、特にイエスの説教や奇跡、愛と謙遜の中に現れています。またイエスを信じる者の心の「ただ中に」、信仰者の集まりである教会の「ただ中に」も実現しています。しかしいまだ不完全で、その完成はキリスト再臨後のことです(黙示録20:1~21:4)。私たちは、この「すでに」と「いまだ」の間の緊張状態に生かされているのです。
②神の国の完成のために
神の国は信じる者の心の内にすでに実現してはいますが、神の恵みによる支配を心から喜べない自己中心・自我がしばしばトラブルの一因となっています。主の祈りの中の「御国を来たらせたまえ」という祈りは、まず祈る者自身の醜い自我がキリストと共に十字架につけられて死に、キリストが内住されることにより(ガラテヤ2:19~20)、喜んで神に服従できるように、という祈りです。また、福音が全世界に宣べ伝えられた後に再臨があるということは、私たちの怠慢が再臨を遅らせているとも言えます(マタイ24:14)。それゆえ、福音を宣ベ伝えようと決意し、そのために自らを献げる祈りでもあるのです。

マルコによる福音書1:14~15「時は満ちた」

2019年2月17日、マルコによる福音書1:14~15「時は満ちた」
ヘロデ王によってバプテスマの「ヨハネが捕えられた後」(6:14~29)、遂にイエスによる新しい時代が始まりました。14・15節は、イエスの働き・説教の総括です。「時(ちょうどよい時、の意)は満ちた」とは、最初の人アダム堕罪時から計画され(創世記3:15)、度々預言されてきた神の救いは、それを待ち望む期間が終わり、イエスによってちょうどよい時に実現した、ということです。パウロは「時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった」(ガラテヤ4:4)と表現しました。さらにイエスご自身にとっても準備の「時は満ちた」と言えるでしょう。公生涯に立ち上がられるまでの30年間、家計を支えるために大工として朝から晩まで働かれる中で、生きる苦しみや悩みをまざまざと味わわれたイエスにとって(ヘブル2:18、4:15)、私たち罪人に寄り添い、罪や苦しみを引き受ける救い主となるために必要不可欠な準備の「時は満ちた」と言えましょう。
「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」(哀歌3:22)、「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない」(ルカ21:33)。神の愛も御言葉も永遠に変わらないばかりか、「わが口から出る言葉(事件、出来事、の意)も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:11)。神の「言葉」は、私たちの不信仰を突き破って、時が来れば必ず「出来事」になります。絶望と思えるような状況下でも希望が与えられ、道が開かれるのです。聖書はそうした実例で満ちています。神の時はまさにちょうどよい時なのです。

マルコによる福音書1:12~13「イエスも誘惑にあわれた」

2019年2月10日、マルコによる福音書1:12~13「イエスも誘惑にあわれた」
①誘惑の時期
イエスの受洗のときに注がれた御霊が、今度は強制的に「イエスを荒野に追いや」りました。するとそこにサタンの誘惑が待っていました。天から聖霊が下り、神の御声が臨んだ直後、いわば霊的に高められ引き上げられた直後のことでした。順境のときこそ要注意です。
②誘惑の本質
十字架による救いを何とか阻止しようと、サタンはイエスを三度誘惑しました。本質は同じで、自分を第一に考えて、神を隅っこに追いやることです(マタイ4:1~11)。そして今もサタンは、イエスを信じて生きようとする者に対して、あの手この手を使って戦いを挑み、御言葉の約束を疑わせ、神を隅っこに追いやらせようとしています。
③誘惑の撃退
イエスは、サタンの誘惑を神の御言葉によって退けられましたが(申命記8:3、6:16、13)、ただ一人で戦われたのではありません。「天使たち」と父なる神の守りがあったからこそ、獣に襲われることなく「四十日のあいだ荒野にいて」、誘惑に勝利できたのです。サタンは一時的に離れ去りましたが、十字架による救いを台無しにしようと、最後の最後まで執拗に誘惑してきました。このサタンの手ごわさを誰よりもよくご存じのイエスは、「わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい」(ヨハネ17:11)と今も祈っておられます。誘惑にあわれ、誘惑に勝利されたイエスだからこそ、私たちの弱さや苦悩に共感でき、的確な助けの手を差し伸べることができるのです(ヘブル4:15、2:18)。

マルコによる福音書1:9~11「あなたはわたしの愛する子」

2019年1月20日、マルコによる福音書1:9~11「あなたはわたしの愛する子」
イエスが「宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時で」(ルカ3:23)、その前に「ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けにな」りました。なぜ罪のない神の御子イエスが「罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ」(4節)を受けられたのでしょうか。それは罪人の私たちと同じ立場に立って連帯責任を負うためでした(ヘブル4:15、2:17)。
イエスがバプテスマを受けて「水の中から上がられると」、三つのことが伴いました。「天が裂けて(イエスによって神の国が開かれた)」、「聖霊がはとのように…下って来(イエスに聖霊の力が注がれた。イザヤ書61:1~3)」、「天から声があった(イエスが神ご自身によって証言された)」。「あなたはわたしの愛する子」とは、イエスは神の御子、王なるメシヤだということ(詩篇2:7)、「わたしの心にかなう者である(新改訳「わたしはあなたを喜ぶ」)」とは、イエスは人の罪を背負う受難の僕だということです(イザヤ書42:1)。王なるメシヤでありながら、僕として苦難を受けるという相矛盾する二つが、イエスにおいて成就するということです。
「天から声があった」のは、イエスが救い主としてまだ何もしておられなかったときのことで、神は、何かをしたからではなく、イエスの存在そのものを喜ばれたのです。イエスが救い主として使命を果たせたのは、この無条件の愛に支えられていたからでもあります。他人がどう言おうと「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43:4)、神は私を受け入れ喜んでいて下さいます。「自己受容とは、自分の弱さや欠点を直視し、弱くて欠点だらけの自分を、それでもかけがえのない自分として受け入れるということです」(片柳弘史師)。

マルコによる福音書1:6~8「私よりもさらに力のある方」

2018年11月25日、マルコによる福音書1:6~8「私よりもさらに力のある方」
バプテスマのヨハネの使命は、人々をキリストに導く道備えをすることで、「水でバプテスマをさずけ」ていました。それは、「聖霊によってバプテスマをお授けになる(聖霊の中に浸す、沈める、の意)」キリストを信じて聖霊なる神の中にどっぷり浸され、聖霊色に染まり、神に似せられていくというキリストによる救いの予備的なものでした。
ヨハネ自身、「荒野で呼ばわる者の声」に過ぎないこと、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる」こと、「わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない」ことを謙虚に自覚していました。「声」というものは、言葉を運ぶ器に過ぎないと同時に、瞬間的に消え去っていくものです。ヨハネは「彼(キリスト)は必ず栄え、わたしは衰える」(ヨハネ3:30)と言いました。「花婿の友人」は「花婿」のため心砕いて婚宴を整え、婚宴後は自分の責任を果たした喜びと満足に満たされて静かに立ち去ります。ヨハネは、ちょうど「花婿の友人」のような思いでキリストのために道備えをしてきたこと、そして今や表舞台から消え去る日が来ていることを自覚していました。キリストの登場によって自分の影が薄れても少しも腐りません。それは、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない」(ヨハネ3:27)ということを悟り、己の分を正しく認識していたからです。
パウロの切願も「わたしの身によってキリストがあがめられる(拡大される、の意)こと」(ピリピ1:20)でした。私によってキリストが拡大されているでしょうか。逆に縮小されていないでしょうか。キリストを知らない人々のために、今こそ「荒野で呼ばわる者の声」が必要です。

マルコによる福音書1:2~5「荒野で叫ぶ者の声」

2018年11月18日、マルコによる福音書1:2~5「荒野で叫ぶ者の声」
「預言者イザヤの書に…と書いてある」とは、「神の子イエス・キリストの福音」は、旧約聖書の預言の成就だということです。最初の人アダムが罪を犯したときから計画されていた救いで(創世記3:15)、イザヤ他の預言者たちに度々打ち明けられてきました。そうした入念な準備の後にキリストが登場するのですが、その前にバプテスマのヨハネが遣わされ、人々がキリストを信じ受入れる道備えをしました。
ヨハネの中心メッセージは「悔改め(心の方向転換、の意)」でした。心の向きを180度変え、自分中心から神中心に方向転換することです。生まれながらの人間は皆、神に背を向けて生きている罪人です。罪を犯すから罪人なのではなく、生まれながらの罪人だから罪を犯してしまうのです。神に背を向けたまま歩き続けると、神から遠ざかる一方です(マルコ7:21~22)。そのような歩みがいかに人を傷つけ、自分を汚し、神を悲しませてきたかに気づいて、今後は自分中心から神中心に生きていこうと心の向きを180度変えるのが「悔改め」です。そのように神に向かって歩み続けると、神にますます近づき、神と共に歩むようになります。これこそ神に造られた人間の本来あるべき姿です。とは言え、悔い改めだけでは救われません。罪を悔い改めた上でイエスの十字架を信じるから救われるのです(使徒行伝20:21)。
当時、救い主が来られたら、神の選民ユダヤ人は自動的に救われると信じていました。ヨハネはそうした浅薄な期待を打ち砕き、真に心の方向転換をしたなら、「悔改めにふさわしい実を結」ぶはずだ、と語りました(ルカ3:8)。悔い改めの徹底こそ、救いの鍵だからです。

マルコによる福音書1:1「イエス・キリストの福音」

2018年11月11日、マルコによる福音書1:1「イエス・キリストの福音」
「神の子イエス・キリスト(について)の福音」こそ、全人類が最も必要としていた勝利の知らせ、喜びのおとずれです。人類共通の究極の問題である罪と死に、真の解決を与え得るものだからです。世のニュースは、どんな大事件や大発見であっても、しばらくすると忘れられてしまいますが、福音は永遠に変わらないグッドニュースです。
「神の子イエス・キリスト」とは、イエスはキリスト(油注がれた者、の意)であり神の子である、ということです。ペテロは弟子たちを代表して「あなたこそ、生ける神の子キリストです」、イエスこそ約束のメシヤ=キリスト、救い主と信仰告白しました(マタイ16:13~16)。御霊は罪を指摘し、十字架はその罪を赦すためであることを示し、悔い改めと信仰へと導きます(マタイ16:17、Ⅰコリント12:3)。「神の子イエス」と言っても、イエスは神の被造物ではなく、永遠の初めから父なる神と共にいて天地を創造され、人々に神を見せ、十字架と復活による救いを完成するために来臨された「神の子」です(ヨハネ1:2~3、14、18)。
パウロとバルナバの伝道旅行に同行しながら途中で逃げ帰ってしまったマルコ自身(使徒行伝13:5、13)、「彼(マルコ)はわたしの務のために役に立つから」とパウロに高く評価されるほど、福音によって造り変えられました(Ⅱテモテ4:11)。イエスを裏切ったペテロも、「弟子たちとペテロとの所へ行って」(マルコ16:7)という御使の言葉を聞き、裏切者の名をもう一度呼んで下さるイエスの愛に触れ、再び立ち上がることができました。「神の子イエス・キリストの福音」は、信じる者の人生を造り変え、新しく出直す力、立ち上がる力を与えるのです。

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