10月12日、ヨナ書3:1~10「思い返される神」
①ヨナに対する思い返し
宣教命令に背いて主のご期待を裏切ったヨナに対して、主は「再び」同じ使命を託されました(1~2節)。主は何度裏切られても、簡単に人を見限るようなお方ではありません。イエスを三度も否んだペテロをイエスは一言もお責めにならず、「わたしの羊を養いなさい…わたしに従ってきなさい」と「再び」使命をお与えになりました(マタイ26:69~75、ヨハネ21:15~19)。逃亡奴隷オネシモは救われ、「以前は…無益な者であったが、今は…有益な者に」変えられました(ピレモン11節)。主は、失敗して落ち込んでいる者を慰め励まし、「再び」チャンスを与えて、なおもその人の可能性に期待されるお方です。十字架のもとに行くならば、赦されない罪も挽回できない失敗もないのです。
②ニネベに対する思い返し
ヨナの宣教によって、ニネベ中の人々は罪を悔い改めて神を信じました。神の言葉には力があるからです(ローマ1:16)。そこで主はさばきを下すのを思い返されました。イエスは「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう」と言われました(マタイ5:4)。自分の罪深さを心底認めて悲しみ、十字架を仰ぐ人は罪赦され、真の「慰め」を見出します。「すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(Ⅰテモテ2:4)神は、ヨナが「非常に不快として、激しく怒」(4:1)るほど忍耐とあわれみに富むお方だからです。ヨナやニネベ同様、主は何度私のために忍耐され、思い返されたことでしょう。今あるは主の忍耐とあわれみのゆえ、感謝しましょう(哀歌3:22)。