2016年11月6日、ダニエル書3:1~30「たといそうでなくても」
ネブカデネザル王は金の像を造り、それを「ひれ伏して拝まない者は…火の燃える炉の中に投げ込まれる」と命じました。しかし、シャデラク、メシャク、アベデネゴは、律法に従って偶像崇拝をしませんでした(出エジプト20:3~5)。王は怒り狂って三人を呼び出して最後のチャンスを与えましたが、三人は「わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます」と神の全能を堅く信じていることを宣言しました。続いて「たといそうでなくても」、たとい救い出されなかったとしても、自分たちの神信仰は変わらず、「あなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」と宣言しました。人の願いと神の思い、人の時と神の時、人の方法と神の方法は、必ずしも同じではないため、「たといそうでなくても」ということがしばしば生じます。しかしそれでも愛なる神の思いは、人の願いをはるかに超えて最善なのです。三人は、神の全能を信じて生きると同時に、神の最善に委ねて生きていたのです。
王は火の燃える炉に三人を投げ込ませましたが、何と三人は何の害も受けずに火の中を歩いています。しかも三人ではなく四人です。かつてイスラエルの民と共にエジプトに下り、民と共に荒野を旅された神は、ここでは火の燃える炉の中に共に身を置いて三人を守られたのです(イザヤ43:1~2)。「奇蹟の時代はすでに過ぎ去ったと言ってはならない。ダニエルの神は昔も今も変わられない。ただ変わったのは人である。今の時代の人は奇蹟の必要なところまで神に信頼する大胆さがない。いいかげんなところで小知恵をめぐらして自分を助ける。だから神が奇蹟を行われる余地がないのである」(澤村五郎師)。