記事一覧

ヨハネによる福音書2:1~11「ぶどう酒がなくなりました」

2017年10月1日、ヨハネによる福音書2:1~11「ぶどう酒がなくなりました」
婚礼の最中に「ぶどう酒がなくなってしまいました」。これは、私たちの人生にも思いがけない問題や悩みが生じ、喜びや楽しみが尽き果てるときがくることを意味しています。この世の有限なものに人生の基盤を置いている限り、真の平安や満足がなく、絶えず恐れや不安が付きまとうのも至極当然のことです。そのとき母マリヤは、真っ先にイエスのもとに行き、窮状を報告して助けを求めました。「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」と言われてもマリヤは希望を捨てず、僕たちに「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」と言い置きました。遂にイエスが僕たちに命令されると、僕たちは命令どおり「四、五斗(80~120㍑)もはいる石の水がめ…六つ」に、水を「口のところまでいっぱいに入れ…料理がしらのところに持って行」ったところ、ただの水が上等なぶどう酒に変わっていました。
「人のピンチは神のチャンス」。行き詰まったなら、慌てふためいたり肉の知恵を働かせたりせず、「ぶどう酒がなくなってしまいました」と自らの欠乏を素直に認めて神に期待することが恵みにあずかる秘訣です。神のみわざが実現するには、それぞれ神の時と方法があります。神の時を待ちきれずに、人間的な知恵や小細工で切り抜けようとするから、神の出番がなくなり、圧倒的な神による解決が得られなくなるのです。「すべての悩みのとき、主も悩まれて」いることを覚え(イザヤ書63:9)、私たちの側でもなすべき責任を果たしながら神の時を待つことが大切です。そうして人生にも教会にも、水がぶどう酒に変えられる神の奇跡を見せていただこうでありませんか。

ヨハネによる福音書20:24~31「信じる者になりなさい」

2017年4月16日、ヨハネによる福音書20:24~31「信じる者になりなさい」
弟子たちが復活のイエスに出会った喜びにあふれ、「わたしたちは主にお目にかかった」と口々に語る中、その場にいなかったトマスは、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と仲間の興奮ぶりを嘲笑うかのように言いました。トマスの心中では、復活などとても信じられないという気持ちと、しかしそれがもし本当なら自分も復活のイエスにお会いしたいという気持ちとが相争っていたことでしょう。そんなトマスの胸の内を誰よりもよくご存じのイエスは、再び復活の御姿を現され、真っ先にトマスのところに行かれました。今回はトマスのためだけに現れたと言ってもよいほどでした。一週間前トマスが弟子たちに語った言葉を聞き、疑いも葛藤もすべてご存じのイエスは、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい」と優しく語りかけられました。するとトマスはイエスにさわるまでもなく、「わが主よ、わが神よ」とひざまずきました。
やがてイエスは昇天され、肉眼では見えなくなりましたが、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来る」 (ローマ10:17)、御言葉と御霊によってイエスを「見ないで信ずる」ことができるようにされています。疑いや迷い、悲しみや悔しさで霊の眼が曇りやすい私たちの心をイエスはよくご存じで、そんな私たちをも見捨てず、忍耐強く導き続けて下さいます。この後トマスはインドで福音を宣べ伝え、そこで殉教したと言われています。イエスの十字架と復活を確信した者には、もはや迷いも恐れもないのです。

ヨハネによる福音書1:35~42「あなたも変われる」

2016年5月8日、ヨハネによる福音書1:35~42「あなたも変われる」
イエスとの感動的な出会いを体験したアンデレは、兄弟「シモンをイエスのもとにつれてき」ました。彼の熱しやすく、せっかちで臆病、向こう見ず、でしゃばりな性格、自信家ゆえの大失敗もイエスは見抜かれた上で、「あなたはヨハネの子シモンである」と言われました。イエスは鋭い光で私たちの魂の病める部分を照らし出されます。このイエスの診断を正直に認めて十字架を仰ぐならば、罪赦され、さらにはきよめられるのです。すべては、イエスの診断を素直に受け入れ、イエスのメスに委ねるか否かにかかっています。そこを経た後、「あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする」という大変革が起こるのです。ペテロはやがて十二使徒のリーダー、初代教会の中心的存在となり、その名のとおり「岩」のような存在となりました。
ペテロにとっての重大な転機は、イエスとの初めての出会いであり、さらにはイエスを三度も否認した後のお取り扱いだったでしょう。ヤコブも同様、主と格闘して砕かれ、「あなたの名はなんと言いますか」と問われて、「ヤコブです(その名のとおり押し退ける者です)」と素直に認めたとき、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエル(神が支配して下さる、の意)と言いなさい」と言われました(創世記 第32章)。イエスは「めぐみとまこととに満ちていた」(14節)お方で、「まこと」は「あなたはヨハネの子シモンである」と私たちの真相を指摘し、「めぐみ」は「あなたをケパと呼ぶことにする」と新しく造り変えるのです。
神は、「あなたは~である。あなたを…と呼ぶことにする」という大変革をあなたの人生にも行いたいのです。あなたには輝かしい可能性があり、あなたにしか果たせない大切な使命があるからです。

ヨハネによる福音書5:1~9a「良くなりたいか」

2016年5月1日、ヨハネによる福音書5:1~9a「良くなりたいか」
「三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人」は、治りたい一心からベテスダの池に行き、藁をもつかむ思いで水が動くのを待っていました。しかし病人同士の戦いにも敗れ続け、希望は日ごとにしぼみ、逆に失望と諦めは日ごとに増し、気がつくと38年が経過していました。イエスから「なおりたいのか」と問いかけられても、「わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」と不平不満、妬みを口にしました。歳月とともに治りたいという意欲がいつしか薄れ、ただマンネリで水の動くのを待っているだけという無気力な日々を送っていたのです。
私たちも「もっと良くなりたい。もっと良い人生を送りたい」と願いながら、すぐその後に「でも、どうせ」という否定的な言葉が続いたり、願うだけで真剣に祈って努力しなかったり、信仰を働かせるよりも常識や経験を働かせたりしてはいないでしょうか。そして、「私はとても飛び込めない。自分の人生など所詮こんなもの」と諦め、良くなりたいという願望を捨ててしまいがちではないでしょうか。
「なおりたいのか」との言葉により、心の片隅で眠っていた願望を呼び覚まされた病人は、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と命じられるや否や、もはや否定的な返答をせず、信じて起き上がったところ即刻癒され、ベテスダの池から解放されました。
環境が変わるのを待っているだけでは何も始まりません。人生を縛り付けている最大の「床」は罪です。その罪や不信仰、劣等感、プライド等、私たちの人生を縛り付けている「床」を捨てて、「なおりたい」とイエスを見上げて立ち上がるとき、人生の変革が始まるのです。

ヨハネによる福音書21:20~25「わたしに従ってきなさい」

9月1日、ヨハネによる福音書21:20~25「わたしに従ってきなさい」
イエスはペテロに殉教を覚悟させた上で「わたしに従ってきなさい」とお命じになると、ペテロは従いました。ところがふと振り返ると、「イエスの愛しておられた弟子(=ヨハネ)」も従って来るのを見て、思わず「この人はどうなのですか」と尋ねました。ペテロはイエスの言葉だけを信じて従っていけばよかったのに、自分とヨハネを比べたのです。他の弟子たちも同様です(23a節)。それに対してイエスは「あなたは、わたしに従ってきなさい」とペテロをいさめられました。
同じように主を愛し、主に従っていても、人生は千差万別、「どうして私だけが」と言いたくなることもあるでしょう。しかし御子をも惜しまず十字架の死にまで渡された愛なる神は、各人に最善の人生を割り当てておられることだけは確かです(詩篇16:6)。それゆえ私たちがなすべきことは、「この人はどうなのですか」と他人と比べず、「あなたは、わたしに従ってきなさい」と言われる主から与えられた人生を感謝して受け入れることです。「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」(ヘブル11:8)結果は、実に豊かな祝福でしたが、御言葉に従わなかったときには必ず問題が生じました。
「自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわ」る、自分の生きたいように生きることが、何か最も人間らしい生き方のように錯覚する傾向がありはしないでしょうか。そうではなく、「行きたくない所へ連れて行」かれる、イエスに従い、導かれる人生は、一見不自由なように思えますが、その実、他者を生かし、自分自身を生かし、そして何よりも「神の栄光をあらわす」恵みの旅路となるのです(19節)。

ヨハネによる福音書21:15~19「わたしを愛するか」

8月18日、ヨハネによる福音書21:15~19「わたしを愛するか」
「あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」との問いかけは、ペテロに過去の傷を思い起こさせたことでしょう。最後の晩餐の席上、「あなたのためには、命も捨てます」(13:37)、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26:33)と大言壮語した舌の根も乾かぬうちに、イエスを三度も否認したペテロ。自らの不甲斐なさに苦悩するペテロは、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えるのが精一杯でした。するとイエスは「わたしの羊を飼いなさい」とペテロを教会の牧者として改めて召されました。同じやり取りが繰り返され、「『わたしを愛するか』とイエスが三度も言われたので」、ペテロは三度の否認を思い起こして「心をいため」ましたが、そんなペテロを赦し受け入れ、再び使命に立ち上がらせるため、イエスはあえて三度も「あなたは…わたしを愛するか」と問われたのです。
18節には、ペテロの若い時と老いた時との対比が二組語られていますが、その中で一つだけ対になっていない「自分の手をのばすことになろう」は、腕を伸ばして十字架にはりつけられることを意味しています。ペテロ殉教の予告です。イエスはペテロに殉教を覚悟させた上で「わたしに従ってきなさい」とお命じになると、ペテロは、裏切り者をも見捨てないで愛し抜くイエスの愛に感動して従いました。
大失敗によってペテロは深く悲しみましたが、その「悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き」ました。砕かれ赦されたペテロの内に、人間的な熱情ではなく本物の「熱情を…起させ」、ひたすら主の栄光のために生きる者へと造り変えたのです(Ⅱコリント7:10~11)。

ヨハネによる福音書21:9~14「さあ来て、朝の食事を」

8月11日、ヨハネによる福音書21:9~14「さあ来て、朝の食事を」
「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり」と言われたとおり(マルコ10:45)、十字架前夜に弟子たちの足を洗われたイエスは(13:1~20)、復活後も弟子たちの朝食の給仕をされ、さらに天国でも私たちの涙を拭おうと待ち構えておられます(黙示録21:1~4)。
ペテロは大祭司の中庭でイエスの弟子であることを否認して、大祭司の僕たちと一緒に炭火にあたっていました(18:15~18)。そして今、復活のイエスと共に赤く燃える炭火を囲んでいます。ペテロは、大祭司の中庭でのあの心痛む炭火を思い起こしたに違いありません。十字架に釘付けられたときの傷跡が痛々しく残るイエスを拝し、ペテロも弟子たちも居たたまれなかったことでしょう。しかしイエスは一言もお責めにならず、彼らの心の傷を優しく包み込むかのように、「さあ来て、朝の食事をしなさい」(新改訳)と呼びかけられました。このとき弟子たちは、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい(「来て」と同語)。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)との御言葉を思い起こし、心に染み渡ったことでしょう。
自分自身を下手に取り繕ったりせず、罪の重荷や人生の重荷を背負って疲れきっているそのままの姿で、「さあ来て、朝の食事をしなさい」と招いておられるイエスの前に出ていきましょう。そうするならば、罪の重荷はイエスの十字架のゆえに取り除かれ、人生の重荷はイエスが共に負って下さるゆえに軽くなり、魂に真の安息が与えられます。イエスは、どんな失望の炭火であっても、希望の炭火に変えて下さるお方です。イエスを信じて生きる人生は、いつでもやり直し可能な人生、何度でも立ち上がることができる人生なのです。

ヨハネによる福音書21:1~8「夜明けの岸辺に立つ復活の主」

8月4日、ヨハネによる福音書21:1~8「夜明けの岸辺に立つ復活の主」
弟子たちはエルサレムからガリラヤに戻り、そこで復活のイエスに再会できるとの約束を信じて生活していました(マタイ26:32)。しかし十字架刑による精神的打撃が大きく、心がうつろの状態だったからでしょうか、捨てたはずの舟と網を取り出して漁に出ました。案の定、「その夜はなんの獲物もなかった」。ところが夜明けの岸辺に立つ方の助言に従って網を下ろすと、一転して大漁となり、その方は復活のイエスであると悟りました。実は以前にも似たような経験をしたことがあり(ルカ5:1~11)、大漁に恐れおののくペテロたちにイエスは「今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」と新しい使命を授けられました。そして今再び大漁の奇跡を経験した弟子たちは、あの時のことをまるで昨日のことのように思い出したことでしょう。「人間をとる漁師」としての召しを新たにして遣わすため、イエスは一足先にガリラヤへ行って待っておられ、この奇跡を行われたのです。
イエスは失望する者に「子たちよ、何か食べるものがあるか」と優しく語りかけ、行き詰まりの原因を悟らせようとされます。そのとき弟子たちのように素直に「ありません」と認めるならば、続いて「舟の右の方に網をおろして見なさい」との適切な助言があります。神を抜きにしていくら人生の網を打っても、徒労と永遠の滅びがあるのみです。そんな空しい人生から救い出すため、イエスは十字架上で死んで復活されたのです。イエスを信じ、その御言葉に従うならば、行き詰まりは必ず打開され、豊かな収穫がもたらされます(ヨハネ15:5、Ⅰコリント15:58)。復活のイエスは私たちの人生の岸辺にも立ち、徒労の人生から豊かな収穫の人生に導き入れようとしておられるのです。

ヨハネによる福音書20:24~31「信じる者になりなさい」

7月28日、ヨハネによる福音書20:24~31「信じる者になりなさい」
弟子たちが復活のイエスに出会った喜びにあふれて、「わたしたちは主にお目にかかった」と口々に語る中、その場にいなかったトマスは、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と弟子たちの興奮ぶりをあざ笑うかのように言い放ちました。しかしなぜトマスはそのような心の状態に陥ったのでしょうか。それは、「彼らと一緒にいなかった」ことにあります。イエスを信じる信仰は、一人一人が確立すべき個人的なものですが、同時に主にある兄弟姉妹との交わりという共同体的要素をも含んでいることを忘れてはなりません。この聖徒の交わりの最大の機会が主日礼拝です。礼拝において「彼らと一緒にいなかった」ということになると、御言葉による力も希望も慰めも得られず、代わりに不信仰と恐れに取り囲まれることになります。お互い気をつけましょう。
次の日曜日、イエスは再び復活の御姿を現され、真っ先にトマスのところへ行かれました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と優しく語りかけられると、トマスはイエスに触るまでもなく、「わが主よ、わが神よ」と信仰告白しました。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。やがてイエスは昇天され、肉眼では見えなくなりましたが、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのであ」り(ローマ10:17)、聖書の御言葉を通してイエスを信じることができるゆえに「さいわい」なのです。

ヨハネによる福音書20:19~23「平安があるように」

7月21日、ヨハネによる福音書20:19~23「平安があるように」
①平安を与える復活の主(19~20節)
十字架刑でイエスを失い、自分たちも同様に処刑されるかもしれないという絶望と不安から、「弟子たちはユダヤ人をおそれて」閉じこもっていました。この「戸」は、恐怖のために固く閉ざされた弟子たちの心の象徴でもあります。そのとき、「イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ(新改訳「平安があなたがたにあるように」)』と言われ」ました。そして、十字架刑の傷跡のある「手とわきとを…お見せに」なると、今目の前にいるお方は夢でも幻でもなく、確かに復活されたイエスだと確信し、ようやく「弟子たちは主を見て喜」びました(16:22の成就)。十字架と復活を信じて罪赦され、神と和解した者は、「安かれ」、もはや何も恐れる必要がありません。戸の鍵の強さが私たちの平安を保証するのではなく、復活されたイエスこそが様々な恐れや不安から解放し、平安を与えて下さるのです(14:27の成就)。イエスは十字架と復活によって人類最大の敵である罪と死に勝利された救い主だからです。このイエスを信じ、イエスにつながり続けている限り、私たちもイエスと共に世に勝つことができ(16:33、Ⅰヨハネ5:5)、いかなるときにも変わることのない平安を得ることができるのです。
②使命を与える復活の主(21~23節)
イエスは「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」と言われ、罪の赦しの福音を宣べ伝えるという使命を弟子たちに与えて遣わされました(マルコ16:15)。しかし罪の問題は、御言葉の光に照らされ、聖霊の助けをいただいて初めて自覚させられるものです。だからこそ「聖霊を受けよ」と言われたのです。

ページ移動