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詩篇92:1~15「年老いてなお実を結び」

2021年2月28日、詩篇92:1~15「年老いてなお実を結び」
「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである(真っ直ぐに歩む、の意)」(1:1)。私たちを造られた神に対して真っ直ぐに歩むことこそ、人として真に「さいわい」なことですが、人は生まれながらに神とその御言葉に背を向けて歩む「悪しき者」です。そのことを素直に認めてイエスの十字架を信じるなら、罪赦されて「正しい者」と認められ、罪の世界から「主の家に植えられ(移植される、の意)…神の大庭に栄え」る者とされます。私たちは、神ご自身の御手で「主の家…神の大庭」なる教会に大切に移植された存在なのです。朝に夕に「主に感謝し、み名をほめたたえるのは」、神に造られた人間として本来あるべき姿であり、最高の喜びです。そのような人は「角(力と栄光の象徴)を…高くあげ、新しい油(喜びの象徴)を…注がれ」、「なつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏(杉)のように育ち」ます。「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」(Ⅱコリント4:16)。年齢と共に「外なる人(肉体)」は確実に衰えていきますが、「内なる人」、イエスによって救われた魂は、「日ごとに新しくされ」、「年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、主の正しいことを示」します。
アブラハムは試練や戦いの連続のような人生を歩みましたが、それでもなお神に信頼して従い抜いた「アブラハムは幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ」(創世記25:8、新改訳2017)。私たちも「主の家…神の大庭」なる教会に留まって養い育てられ、美しい花を咲かせ、豊かな実を結ぶ生涯を送らせていただきましょう。

詩篇91:1~16「全能者の陰に宿る幸い」

2021年2月21日、詩篇91:1~16「全能者の陰に宿る幸い」
私たちの人生には、「かりゅうどのわなと、恐ろしい疫病」他、様々な困難が襲いかかってきますが、そのとき主のもとに「住む…やどる」人は幸いです。主は、親鳥が雛を守るように「その羽をもって…おおわれ」、「大盾…小盾(新改訳2017「砦」)」のように私たちを取り囲んで守ってくださいます。さらに主は「あなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられ」ます(ルカ22:43、イザヤ63:9)。「あなたのために」ピッタリの、オーダーメイドの守りです。主は常に「共にいて」「呼ぶとき…答え」、「救い」出してくださいます。「彼の悩みのときに」とあるように、主を信じていれば災難に全くあわないということではありませんが、立ち上がれないほど打ち倒されることがないよう主が守り支えてくださるということです。
私たちの日常生活のほとんどは、目に見えない電気によって支えられています。しかし実は電気以上にもっと大きく、もっと根本的な便宜によって、すなわち目に見えない神によって私たちは守り支えられているのです。ときとして突発的な出来事が私たちの人生に襲いかかりますが、大切なことは、そうした事態に直面しても揺り動かされることのない確かな備えがあることです。「いと高き者のもとにある隠れ場に住む…全能者の陰にやどる」、すなわちイエスを信じて生きることこそ、一生涯保障が続く究極の保険です。「神に信頼するとは…第一に、神を『愛する』ことです。第二に、神の『名を知る』、つまりどんな時も信じることです。第三に、神を『呼び求める』こと、つまり、いつも祈り、神と対話することです」(羽鳥明師)。

詩篇90:1~17「残りの日々を数えるすべを教えてください」

2021年2月14日、詩篇90:1~17「残りの日々を数えるすべを教えてください」
主は永遠の昔から永遠の未来まで存在されるお方、「地と世界とを造られ」た創造者です。しかし私たち人間は、「人の子よ、帰れ」と主に命じられると死んで、ちりに帰るべき有限な存在です。しかもその生涯は「夜の間のひと時…ひと夜の夢のごとく」実にはかないものです。しかもただはかないだけでなく、「不義…隠れた罪」のため、神の「怒りによって消えうせ…憤りによって滅び去る」べき存在です。人生の最後が悲惨なだけでなく、人生の途上も「その一生はただ、ほねおりと悩み」の連続です。これが神から離れた人間の現実です。
しかし神と人間について正しく認識する詩人は、「われらにおのが日を数えることを教えて…ください(聖書協会共同訳「残りの日々を数えるすべを教え…てください」)」と祈ります。人生から神を締め出すなら、あるのは人生の無常と自分の罪深さのみですが、「主よ、み心を変えてください(新改訳2017「帰って来てください。主よ」)」、人生に主をお迎えしさえすれば、一切は好転するのです。イエスの十字架を信じるなら、朝には主の恵みで満ち足り、希望にあふれて一日を始めることができ(14節)、これまでの苦悩を補って余りある喜びで満ち足らせ(15節)、平凡な日常生活も「確かなものに(新改訳2017)」されるのです(17節)。
もしかしたら今年のスケジュール帳に、自分の召天・葬儀の日が割り込んでくるかもしれません。「残りの日々を数え」つつ、これが地上最後の礼拝になるかもしれないという真剣な思いで毎週の礼拝に臨みましょう。死を避けるのでなく死を見つめながら、「今」という時を無駄にすることなく、一日一日を神と共に全力で歩みましょう。

詩篇121:1~8「主はあなたを守る方」

2020年11月8日、詩篇121:1~8「主はあなたを守る方」
巡礼者が目指すエルサレム神殿の方角を望むと、その旅路の困難さを暗示するかのように山々がそびえていました。思わず「わが助けは、どこから来るであろうか」と自問しますが、山々を見る目を少し上げて大空を仰ぐと、創造主への信仰がみなぎり、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」から大丈夫と確信しました(「守る」が6回)。
①主は眠ることなく守られる(3~4節)
真っ暗闇の中、野宿するのは心細い限りですが、主は「まどろむこともなく、眠ることもな」く見張り、野獣や強盗から守ってくださると確信しました。今も主は片時もまどろむことなく、私たちの手を握り締め、足がよろめかないよう守っていてくださいます(新聖歌474番)。
②主は右にいて守られる(5~6節)
主は常に右(保護者の位置)にいて、太陽(熱射病の原因)や月(てんかんや熱病の原因と考えられていた)から守ってくださると確信しました。信仰によってキリストの花嫁とされた私たちは、親鳥が翼で雛を「おおう」ように(新聖歌311番)、「ひとみのように」(詩篇17:8)、主に守られています。
③主はとこしえに守られる(7~8節)
主は出発から帰郷までのすべてを守ってくださると確信しました。罪の奴隷から贖い出された私たちが無事天国にゴールインするまで、信仰の旅路を「今からとこしえに至るまで」守り続けてくださいます。
主日礼拝ごとに心を高く上げて創造主を仰ぎ、過ぎた一週の旅路を主が守ってくださったことを感謝しつつ、新しい一週も必ず「わが助けは、天と地を造られた主から来る」と信じて踏み出しましょう。

詩篇19:1~14「大空と御言葉と良心」

2020年10月11日、詩篇19:1~14「大空と御言葉と良心」
①自然による啓示(1~6節)
「もろもろの天…大空」も、「この日」をもたらす太陽も、「この夜」を照らす月・星も、ある日偶然にできたのではなく、永遠のはじめから永遠の終わりまでおられる唯一絶対の神が創造されました(創世記1:1)。これら被造物は「話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに」、その存在自体が「神の栄光をあらわし…み手のわざをしめ」しています。それゆえ魂を研ぎ澄まして素直な心で自然界を見るならば、天地万物は神によって創造されたことがわかるのです(ローマ1:20)。
②言葉による啓示(7~11節)
自然による啓示だけでは不十分なので、神は御言葉によってご自身を啓示されました。御言葉は、創造主なる神がいかなるお方であるかを明らかにし、私たちの「魂を生きかえらせ」ます。人間の有限な知恵や力など所詮知れていますが、御言葉は「無学な者を賢く」し、人生の荒波を力強く乗り越えさせます。私たちの心に喜びと希望を与え、「心を喜ばせ…眼を明らかに(新改訳「人の目を明るくする」)」します。
③良心への啓示(12~14節)
このように「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった」(使徒行伝17:27)神は、私たちの良心を照らして罪を示すだけでなく、十字架と復活による救いを示し、「わが岩、わがあがないぬしなる主よ」という信仰告白へと導きます。さらに、「どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように」と、常に主に喜ばれる者でありたいという願いを起こさせます。

詩篇100:1~5「私たちは牧場の羊」

2020年7月5日、詩篇100:1~5「私たちは牧場の羊」
詩人は「全地」に向かって「喜びをもって…歌いつつ…感謝しつつ…ほめたたえつつ」神を礼拝するよう招いています。それはなぜか。
①主は神であるから(1~3節)
神に造られながら、「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)私たち人間に、真の神を教え、神のもとに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。この私を愛し、罪を贖うために死なれた十字架のイエスを仰ぎ見るとき、「われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」と告白し、心から喜んで礼拝することでしょう。
②主は恵み深いから(4~5節)
「恵み…いつくしみ…まこと」は、契約における神の姿勢を表す重要語です。本篇は、バビロン捕囚から帰還後、神殿を再建・奉献した際に歌われた詩であろうと言われています。そのときイスラエルはきっと思ったことでしょう。主はよくぞこんな強情な羊をも見捨てず、「恵み…いつくしみ…まこと」の限りを尽くして導き続けてくださったものよ、と。そうして喜びと感謝に満ちて礼拝したことでしょう。
イスラエル同様、何度も何度も主に背いてきた私たちが今なお礼拝の民とされているばかりか、これまで「耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さ」いました(Ⅰコリント10:13)。すべては主の「恵み…いつくしみ…まこと」以外の何ものでもありません。そのことを思えば、主を愛し、主を礼拝せずにはいられないはずです。

詩篇23:6「主は私の羊飼い、恵みが追って来る」

2020年6月28日、詩篇23:6「主は私の羊飼い、恵みが追って来る」
順境の日も逆境の日も、「わたしの生きているかぎりは(直訳「私の生涯のすべての日々」)必ず恵みといつくしみとが伴う(新改訳2017「追って来る」)でしょう」。「恵みといつくしみ」は、主の契約に対する真実な姿勢を表す重要語です。神の愛は、「もし~」という条件付きの愛でもなければ、「~だから」という状況次第の愛でもありません。「でも」の愛です。「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である」(Ⅱテモテ2:13)。イスラエルがいかに「不真実であっても」、実際、不真実だらけでしたが、それ「でも」主は契約のゆえに主の側の「真実」を変えようとせず、契約を守り通されました。その最大の証拠が、約束の救い主イエスの来臨、十字架と復活による救いでした。
以前は「必ず恵みといつくしみとが伴う」人生とは無縁の者で、「自分の罪過と罪とによって死んでいた者…生れながらの怒りの子」(エペソ2:1~3)でした。「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし」(エペソ2:4~6)、主ご自身と「恵みといつくしみ」とにサンドイッチされるようにして歩んでいます。だからこそ、「死の陰の谷」や「敵の前」を乗り越えることができたのです。
それゆえ、「主の宮」で主を礼拝することが何よりの喜びであり、「やがて、私は主の家に着き、いつまでもおそばで暮すこと」(リビングバイブル)を切望するのです(ピリピ1:23)。やがて死によって地上生涯を終えますが、イエスを信じて「永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47、新共同訳)者は、主と共に生きる場所が地上から天上に変わるだけなのです。

詩篇23:5「主は私の羊飼い、敵前でも杯はあふれる」

2020年6月21日、詩篇23:5「主は私の羊飼い、敵前でも杯はあふれる」
主と共に歩む「正しい道」であっても、いつも平坦な道ばかりではありません。ときに「死の陰の谷」もあれば「敵の前」もありますが、そのようなときにも「わたしの杯はあふれます」。しかしそのためにイエスは、苦い「杯」を飲み干してくださいました。ゲツセマネの園でイエスは、神の怒りの杯を飲むか飲まないか苦悶しながら祈られた末、全時代・全人類の罪を背負って十字架につけられ、神のさばきを一身に受けて死なれ、救いを完成してくださいました。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(Ⅱコリント5:21)。イエスの苦悶は、この私の罪のための苦悶であり、信じる者に「わたしの杯はあふれます」という恵みを与えるための苦悶だったのです。
私たちの人生にも様々な「敵」が次から次へと出現しますが、「これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」(ローマ8:37、新改訳2017)。イエスを信じて神と和解し、神を味方とするようになった人は、「敵の前で」「敵をよそに」(新改訳2017)、神の大切な友として豊かなもてなしを受け、慰め励まされます。目の前の戦いはすでに決着済み、勝利は確定済みなのです。私たちのために大切な御子イエスを惜しみなく十字架の死に渡されるほど私たちのことをこよなく愛しておられる神が、様々な戦いにも勝利させてくださる、しかも余裕しゃくしゃく「圧倒的な勝利者」とさせてくださるのです。共に戦ってくださる主がおられること、主は「敵」よりも偉大なお方であることを常に覚えていましょう。

詩篇23:4「主は私の羊飼い、死の陰の谷も恐れない」

2020年6月14日、詩篇23:4「主は私の羊飼い、死の陰の谷も恐れない」
荒野には危険な「死の陰の谷」がありますが、羊飼いは羊たちと常に「共に」いて、「むちと…つえ」を用いて敵から羊たちを守りました。
「死の陰の谷」や「わざわい」の全くない人生などあり得ません。詩人が「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません」と宣言するのは、「あなたがわたしと共におられるからです」。親や友もありがたい存在ではありますが、いつでもどんな場合でも頼りになるわけではありません。しかし「水の中…川の中…火の中」を行くようなときにも、天地万物の創造者・支配者なる主は、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ、…わたしはあなたと共におる」と言われます(イザヤ書43:1~3)。しかも、復活のイエスが「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言われたように、時々ではなく「世の終りまで、いつも…共に」いてくださるのです。
「聖書のどこを開いても聞こえてくる三つのメッセージがある。それは、『愛している』『共にいる』『恐れるな』の三つである」(岸本望師)。主はこの私を愛し、私と共にいてくださるから恐れる必要はない、という聖書の中心的な約束を自分のものとするために必要なものは、ただ信仰のみです。罪を悔い改め、イエスの十字架を信じるならば、神との間を隔てている罪が取り除かれ、「愛している」「共にいる」「恐れるな」という聖書の約束が真に自分のものとなります。そうすると「死の陰の谷を歩むとも」恐れる必要などありません。主は「死の陰の谷」も共に歩んで、無事乗り越えられるよう助けてくださるからです。

詩篇23:3「主は私の羊飼い、義の道に導かれる」

2020年6月7日、詩篇23:3「主は私の羊飼い、義の道に導かれる」
羊飼いは羊たちを「緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴」いますが、ふとしたはずみで迷い出やすい羊を、羊飼いは「いきかえらせ…正しい道に導」きます。羊と同じように自分勝手な道を歩みやすい私たちをも、主は「正しい道(新改訳2017「義の道」)に導かれる」お方です。
「わたしの歩みはあなたの道に堅く立ち、わたしの足はすべることがなかったのです」(17:5)。主の道は、「すべることがなかった」確かな道です。「あなたの道にはあぶらがしたたる」(65:11)。主の道には、祝福の「あぶら」がしたたり落ちています。このように祝福に満ちあふれる「正しい道」ですが、いつも平坦な道ばかりではありません。「死の陰の谷」のような道もあれば、「敵の前」のような道もあります。それは、自分の考えや計画にとって好都合の道ではなく、あくまでも主の「み名のために(新改訳2017「御名のゆえに」)…正しい道」だからです。
ヤコブの生涯がまさにそうでした。兄弟たちに憎まれ、エジプトに奴隷として売られたヨセフは、主人ポテパルに信頼されたかと思うと、ポテパルの妻の誘惑を拒んで牢獄に入れられました。今度は獄屋番に信頼され、パロの高官たちの夢を解き明かし、今度こそ出獄できると思いきや、高官に忘れられました。しかしそれにより今度はパロ王の夢を解き明かすことになり、エジプトの総理大臣にまで引き上げられたのです(創世記 第37~50章)。神の民イスラエルを救うため、神にとっては「み名のために…正しい道」だったのです。自分の思い通りに生きる人生ではなく、私のことを一番よくご存じの主の「み名のために…正しい道に導かれる」人生こそ真に幸いなのです。

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