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詩篇121:1~8「うつむかないで目を上げよう」

2019年2月3日、詩篇121:1~8「うつむかないで目を上げよう」
巡礼者が目指すエルサレム神殿の方角を望むと、その旅路の困難さを暗示するかのように山々がそびえていました。思わず「わが助けは、どこから来るであろうか」と自問しますが、山々を見る目を少し上げて大空を仰ぐと、創造主への信仰がみなぎり、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」から大丈夫と確信しました(「守る」が6回)。
①主は眠ることなく守られるから(3~4節)
真っ暗闇の中、野宿するのは心細い限りですが、主は「まどろむこともなく、眠ることもな」く見張りして、野獣や強盗から守って下さると確信しました。今も主は片時もまどろむことなく、私たちの手を握り締め、足がよろめかないよう守っていて下さいます(新聖歌474番)。
②主は右にいて守られるから(5~6節)
主は常に右(保護者の位置)にいて、太陽(熱射病の原因)や月(てんかんや熱病の原因と当時考えられていた)から守って下さると確信しました。信仰によってキリストの花嫁とされた私たちを、親鳥が翼を広げて雛を守るように、全責任と細心の注意をもって守っていて下さいます(詩篇17:8)。
③主はとこしえに守られるから(7~8節)
主は出発から帰郷までのすべてを守って下さると確信しました。罪の奴隷から贖い出された私たちが無事天国にゴールインするまで、信仰の旅路を「今からとこしえに至るまで」守り続けて下さいます。
主日礼拝ごとに心を高く上げて天を仰ぎ、過ぎた一週間の旅路を絶えず主が守って下さったことを感謝しつつ、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」と信じて、新しい一週間を踏み出しましょう。

詩篇119:9~16「御言葉に思いを潜める」

2019年1月1日、詩篇119:9~16「御言葉に思いを潜める」
「心のうちに」何を「たくわえ(宝物や高価なものを隠すように大切に保存する、の意)」るかで、その人の人生が決まってきます。詩人は、神の「み言葉」こそ最も大切に「たくわえ」るべきものと認識していました。神を愛し、神の御言葉に従って生きていくことこそ、神に似せて造られた私たち人間の本分です(伝道の書12:13)。そのことを確認するためにも、毎週の礼拝・祈祷会、日々の御言葉と祈りの時が重要です。そこで語りかけられる御言葉を「心のうちに…たくわえ」ていくのです。
その上で「さとしを思い(黙想する、の意。新改訳「戒めに思いを潜め」)」、牛のように御言葉を反芻し、黙想することが大切です。御言葉をお茶漬けのようにさらさら流し込んでおしまいにするのではなく、祈り心をもってよく噛みしめ、何度も何度も味わいましょう。夜寝る前、今朝読んだ御言葉は何であったか思い出せないのは、朝の御言葉を一度限りのものにしてしまうからです。そうではなく、朝の御言葉を一日のうちに何度も何度も思い起こして口ずさむならば、その御言葉が魂にしっかり刻み付けられ、血となり肉となっていきます。
もし信仰の軌道をはずれかけていれば、御言葉によって軌道修正していただき、自分の不信仰によって神とその力を小さくしていれば、御言葉のレンズによって元通りの偉大な神を見せていただくのです。そうするなら、「罪を犯すことのないように」なるでしょう。「あなたの定めを喜び、あなたのみ言葉を忘れ」ないようになるでしょう。勝利ある信仰生活は、「心のうちにみ言葉をたくわえ」、黙想し、御言葉に信頼するという地道な一歩一歩の積み重ねによるのです。

詩篇3:1~8「しかし主よ」

2018年7月29日、詩篇3:1~8「しかし主よ」
「敵する者…逆らって立つ者が多く」、絶望的状況にあったダビデですが、「しかし主よ」と群がる敵から目を離して主を仰ぎました。四面楚歌における「しかし主よ」という信仰こそ、本篇のいのちであり、困難を打開する鍵です。そして「あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかた」と主への信頼を告白しました。主は敵の攻撃から私を囲むようにして守って下さる「盾」、私の「栄え」を守って下さるお方、私の名誉を回復して下さるお方だ、とダビデは信じていました。さらに「わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は…わたしに答えられる」、祈りに答えて下さるお方だ、と信じていました。東西南北を完全に封鎖されたような四面楚歌の中でも、上だけは常に開いていて、主に祈ることができます。祈りこそ最大最高の武器です。ダビデは想像を絶する試練の中でも、夜はすっかり安心して「ふして眠り」、朝はさわやかに「目をさます」ことができました。まさに偉大なる熟睡です。それはひとえに、ダビデが主に全く信頼し、そのダビデを「主が…ささえられるから」でした。
「悪魔はいつも二つのレンズを持っています。一つは凸レンズ、もう一つは凹レンズです。凸レンズをあてるとものが大きく見えます。反対に凹レンズをあてるとものが小さく見えます。悪魔は神さまのほうに凹レンズをあて、神さまを小さく見せます。そして現実の苦しみに凸レンズをあて、それを実際よりも大きく見せます。そしてささやくのです。『お前が信じている神は小さいぞ。今直面している困難はこんなに大きいぞ』と言い、わたしたちの勇気も信仰も砕いてしまいます」(蓮見和男師)。悪魔の策略に引っかかっていませんか。

詩篇13:1~6「主よ、いつまで」

2018年7月1日、詩篇13:1~6「主よ、いつまで」
①苦悩(1~2節)
「主よ、いつまでなのですか」とは、希望と疑いとが激しくぶつかり合っている言葉です。詩人は、いくら祈っても「いつまで」も主から答えがないので、主に見捨てられたのではないかと感じ、絶えず「魂に痛み…心に悲しみ」を抱えて苦悩しています。逆に神を畏れない敵はますます我が物顔に振る舞い、詩人の苦悩を増幅させています。
②嘆願(3~4節)
詩人はまず「みそなわして(=新改訳「私に目を注ぎ」)」と祈ります。全能の主が「目を注」がれること自体、すでに問題が解決したのも同然で、やがて必ず神の勝利を見ることになります(出エジプト記3:7~10、エズラ記5:5、使徒行伝4:13~31)。それゆえ、この主に対して「わたしの目を明らかにしてください(=新改訳「私の目を輝かせてください」)」と祈るのです。
③信頼(5~6節)
イスラエルが何度背いても、契約のゆえに見捨てず、愛さずにはいられないのが主の愛、主の真実です(エレミヤ書31:3)。詩人は、この主の愛と真実を根拠にして、どこまでも主に信頼しました。救いのみわざをまだ体験していないのに、恵みを先取りして喜び歌いました。
絶望して当然のような状況にあっても、主を信じる私たちにはなお希望があります(申命記33:27、詩篇30:5、ローマ5:5)。祈りに答えることは、全能の主にとっては実に簡単なことでしょうが、すぐに答えていると、私たちはいつまでたっても霊的幼な子のままです。それゆえ主は計り知れないご配慮をもって私たちの祈りを聞いておられ、最善の時に最善の方法で答えられるのです。主に信頼しましょう。

詩篇57:1~11「わが魂よ、さめよ」

2018年3月4日、詩篇57:1~11「わが魂よ、さめよ」
①洞穴から祈祷へ(1~2節)
雛鳥は危険が迫ると親鳥の翼の下に隠れるように、ダビデは神の「翼の陰を…避け所とし」ました。最も確かな避け所です。そして暗い洞穴の中を至聖所として神に近づき、「いと高き神…わたしのためにすべての事をなしとげられる神」に繰り返し祈りました(ローマ8:31~32)。
②祈祷から信仰へ(3~5節)
祈り続けるうちに、神は「いつくしみとまこと」という両翼を広げて私を必ず守って下さるという信仰が湧き上がり、いのちの危険の中でも「横たわって」熟睡しました。御翼の陰を避け所として祈るなら、「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守る」のです(ピリピ4:7)。
③信仰から確信へ(6~8節)
神への信仰は、「わたしの心は定まりました(確かである、の意)」という確信を生み出しました。ダビデを取り巻く状況は依然として真っ暗闇ですが、「わたしはしののめを呼びさまします」、すでに暗夜が過ぎ去ったかのように神の約束を信じ、勝利の夜明けを先取りしました。
④確信から賛美へ(9~11節)
ダビデの確信は、「あなたに感謝し…あなたをほめたたえます」という感謝と賛美を生み出しました。獄中のパウロとシラスも「神に祈り、さんびを歌いつづけ」ていると、「ところが突然」という奇跡が起こりました(使徒16:25~26)。しかし目の付け所が揺らぐと、確信や賛美ではなく、恐れや思いわずらいが生じてきます(マタイ14:22~33)。「わたしのためにすべての事をなしとげられる神に」、「わが魂よ、さめよ」。

詩篇100:1~5「喜びをもって御前に来たれ」

2017年9月17日、詩篇100:1~5「喜びをもって御前に来たれ」
詩人は「全地」に向かって「喜びをもって…歌いつつ…感謝しつつ…ほめたたえつつ」神を礼拝するよう招いています。それはなぜか。
①主は神であるから(1~3節)
聖書中、神の民はしばしば「羊」にたとえられ、中でも特に迷い出た羊として描かれています。「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)人間に真の神を教え、神のもとに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。この私を愛し、罪を贖うために死なれた十字架のイエスを仰ぎ見るとき、「われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」と告白し、心から喜んで礼拝することでしょう。
②主は恵み深いから(4~5節)
「恵み…いつくしみ…まこと」は、契約における神の姿勢を表す重要語です。本篇は、バビロン捕囚から帰還後、神殿を再建・奉献したときに歌われた詩であろうと言われています。そのときイスラエルはきっと思ったことでしょう。主はよくぞこんな羊をも見捨てず、「恵み…いつくしみ…まこと」の限りを尽くして導き続けて下さった、と。すると自ずから喜びと感謝にあふれて礼拝したに違いありません。
イスラエル同様、主に度々背いてきた私たちが今なお礼拝の民とされており、これまで「耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さ」いました(Ⅱテモテ2:13、Ⅰコリント10:13)。すべては主の「恵み…いつくしみ…まこと」以外の何ものでもないことを思うとき、毎週毎日、喜びに満たされて主を礼拝せずにはいられないはずです。

詩篇121:1~8「わが助けはどこから来る」

2017年1月8日、詩篇121:1~8「わが助けはどこから来る」
巡礼者が目指すエルサレム神殿の方角を望むと、その旅路の困難さを暗示するかのように山々がそびえていました。思わず「わが助けは、どこから来るであろうか」と自問しますが、山々を見る目を少し上げて大空を仰ぐと、創造主への信仰がみなぎり、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」から大丈夫と確信しました(「守る」が6回)。
①眠ることなく守られる主から(3~4節)
真っ暗闇の中、野宿するのは心細い限りですが、主は「まどろむこともなく、眠ることもな」く見張りして、野獣や強盗から守って下さると確信しました。今も主は片時もまどろむことなく、私たちの手を握り締め、足がよろめかないよう守っていて下さいます(新聖歌474番)。
②右にいて守られる主から(5~6節)
主は常に右(保護者の位置)にいて、太陽(熱射病の原因)や月(てんかんや熱病の原因と当時考えられていた)から守って下さると確信しました。十字架信仰によってキリストの花嫁とされた私たちを、ちょうど親鳥が翼を広げて雛を守るように、常に全責任をもって守っていて下さいます。
③とこしえに守られる主から(7~8節)
主は出発から帰郷までのすべてを守って下さると確信しました。罪の奴隷から贖い出された私たちが無事天国にゴールインするまで、信仰の旅路を「今からとこしえに至るまで」守り続けて下さいます。
主日礼拝ごとに、心を高く上げて天を仰ぎ、過ぎた一週間の旅路を絶えず主が守って下さったことを感謝し、この主に信頼して新しい一週間を踏み出すのです。困難の山々に直面することがあっても、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」と信じて進みましょう。

詩篇46:1~11「神はわれらの避け所」

2016年7月3日、詩篇46:1~11「神はわれらの避け所」
天地万物は偶然にできたのではなく、「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)。永遠の昔からおられる唯一真の神によって造られ保持されており、私たち人間もこの神によって造られ生かされています。「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」(伝道の書12:13)。神のかたちに造られた「すべての人の本分」は、「神を恐れ、その命令を守」って生きることです。「神は人を神のかたちに造られた。それゆえ、人の心は神の中に憩うまでは本当の安らぎを得ることができない」(アウグスティヌス)と言うように、神に造られた人間が神に背を向けて生きている限り、真の満足や生きがいを得られないのも当然のことです。この的外れの状態を聖書は「罪」と言い、人生から祝福を奪い去り、家庭や社会を混乱させる元凶なのです。
そんな罪人であっても見捨てることができないのが愛なる神です。罪を解決するために神は御子イエスを降誕させ、全人類の罪を背負わせて十字架につけ、身代わりの死を遂げさせられました。十字架を信じて罪赦されると、神が共に歩み、人生の味方となって下さるという幸いな人生が始まります。もちろん神が共におられても、「地は変り、山は海の真中に移る…その水は鳴りとどろき、あわだつ…そのさわぎによって山は震え動く」ような試練や困難に直面することがあります。しかし神に重心を置く家庭・個人は、どんなに激しい困難が襲いかかってきても、恐れる必要もなく、揺らぐこともありません。「神はわれらの避け所また力…悩める時のいと近き助け…神がその中におられるので、都はゆるがない」からです。人間の手に負えないことはあっても、神の手に負えないことは一つもないのです。

詩篇126:1~6「繁栄の回復のために」

2015年8月23日、詩篇126:1~6「繁栄の回復のために」
①救いを喜ぶ(1~3節)
バビロン捕囚から解放されて祖国に帰還したイスラエルは、「われらは夢みる者のようであった…われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた…われらは喜んだ」と喜びに沸き返りました。十字架信仰により罪の奴隷から解放され、神の子とされた救いを喜び、感謝して生きるとき(Ⅰヨハネ3:1)、世の人々も「主は彼らのために大いなる事をなされた」と主を崇めるようになるでしょう。
②回復を祈る(4節)
「ネゲブの川」は、乾期には水が枯れますが、雨期には洪水のようになります。祖国は今、乾期のネゲブのように荒廃していますが、やがて捕囚民が雨期の洪水のように帰還し、かつての繁栄が回復されることを期待して祈りました。私たちも、自分が救われただけで満足することなく、依然として罪の中にある人々のために祈る責任があります。神の時が満ちるまで諦めないで祈り続けるならば、「ところが突然」という驚くべきみわざを拝することでしょう(使徒16:25~26)。
③種をまく(5~6節)
帰還した民には、土地を耕して「種まく」農作業や神殿・城壁の再建等、「涙をもって種まく」ような仕事が山ほどありました。しかし彼らは、喜びの刈り取りの日を夢見つつ、困難な使命に勇ましく立ち上がりました。日本では、福音宣教の困難や収穫の乏しさゆえに空しさを覚えることが少なくありません。しかし、涙の祈りで濡れた御言葉の種まきに「時が良くても悪くても」励むならば(Ⅱテモテ4:2)、いつかきっと「喜びの声をもって刈り取る」日が訪れることを信じましょう。

詩篇46:1~11「神はわれらの避け所」

1月18日、詩篇46:1~11「神はわれらの避け所」
詩人は「地は変り、山は海の真中に移る…その水は鳴りとどろき、あわだつ…そのさわぎによって山は震え動く」ような激しい試練を体験しました(ヒゼキヤ王治世中、南王国はアッスリヤ軍に包囲されて滅亡寸前でしたが、神によってアッスリヤ軍が一夜のうちに滅ぼされた一件か。列王紀下 第18~19章)。その中で詩人が確信したことは、「神はわれらの避け所また力…悩める時のいと近き助け…神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる…万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所」ということでした。
イエスの十字架を信じて罪赦されると、この神が共に歩み、人生の味方となって下さるという幸いな人生が始まります。もちろん神が共におられても、ときに試練や困難に直面することがあります。しかしそのような中でも神は、手を伸ばせばすぐに届くほどの「いと近き助け(=新改訳「そこにある助け」)」です。そして「神がその中におられるので、都はゆるがない」、私たちの教会、家庭、人生の真ん中に神の臨在があるという事実を信じ抜くとき(ローマ3:4)、「われらは恐れない」、恐れる必要などないのです。「我らの戦闘力は第一に我らの無能、第二に主の大能である」(笹尾鉄三郎師)。人間の手に負えないことはあっても、神の手に負えないことなど一つもありません。いかなるときにも「静まって(=新共同訳「力を捨てよ」)」、人間的な知恵や小細工を捨てて自らの無能に徹し、「わたしこそ神である」と言われる大能の神に重心を置きましょう。そうするなら、「主は驚くべきことを地に行われた。主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる」という勝利が与えられることでしょう。

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