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詩篇100:1~5「喜びをもって御前に来たれ」

2017年9月17日、詩篇100:1~5「喜びをもって御前に来たれ」
詩人は「全地」に向かって「喜びをもって…歌いつつ…感謝しつつ…ほめたたえつつ」神を礼拝するよう招いています。それはなぜか。
①主は神であるから(1~3節)
聖書中、神の民はしばしば「羊」にたとえられ、中でも特に迷い出た羊として描かれています。「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)人間に真の神を教え、神のもとに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。この私を愛し、罪を贖うために死なれた十字架のイエスを仰ぎ見るとき、「われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」と告白し、心から喜んで礼拝することでしょう。
②主は恵み深いから(4~5節)
「恵み…いつくしみ…まこと」は、契約における神の姿勢を表す重要語です。本篇は、バビロン捕囚から帰還後、神殿を再建・奉献したときに歌われた詩であろうと言われています。そのときイスラエルはきっと思ったことでしょう。主はよくぞこんな羊をも見捨てず、「恵み…いつくしみ…まこと」の限りを尽くして導き続けて下さった、と。すると自ずから喜びと感謝にあふれて礼拝したに違いありません。
イスラエル同様、主に度々背いてきた私たちが今なお礼拝の民とされており、これまで「耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さ」いました(Ⅱテモテ2:13、Ⅰコリント10:13)。すべては主の「恵み…いつくしみ…まこと」以外の何ものでもないことを思うとき、毎週毎日、喜びに満たされて主を礼拝せずにはいられないはずです。

詩篇121:1~8「わが助けはどこから来る」

2017年1月8日、詩篇121:1~8「わが助けはどこから来る」
巡礼者が目指すエルサレム神殿の方角を望むと、その旅路の困難さを暗示するかのように山々がそびえていました。思わず「わが助けは、どこから来るであろうか」と自問しますが、山々を見る目を少し上げて大空を仰ぐと、創造主への信仰がみなぎり、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」から大丈夫と確信しました(「守る」が6回)。
①眠ることなく守られる主から(3~4節)
真っ暗闇の中、野宿するのは心細い限りですが、主は「まどろむこともなく、眠ることもな」く見張りして、野獣や強盗から守って下さると確信しました。今も主は片時もまどろむことなく、私たちの手を握り締め、足がよろめかないよう守っていて下さいます(新聖歌474番)。
②右にいて守られる主から(5~6節)
主は常に右(保護者の位置)にいて、太陽(熱射病の原因)や月(てんかんや熱病の原因と当時考えられていた)から守って下さると確信しました。十字架信仰によってキリストの花嫁とされた私たちを、ちょうど親鳥が翼を広げて雛を守るように、常に全責任をもって守っていて下さいます。
③とこしえに守られる主から(7~8節)
主は出発から帰郷までのすべてを守って下さると確信しました。罪の奴隷から贖い出された私たちが無事天国にゴールインするまで、信仰の旅路を「今からとこしえに至るまで」守り続けて下さいます。
主日礼拝ごとに、心を高く上げて天を仰ぎ、過ぎた一週間の旅路を絶えず主が守って下さったことを感謝し、この主に信頼して新しい一週間を踏み出すのです。困難の山々に直面することがあっても、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」と信じて進みましょう。

詩篇46:1~11「神はわれらの避け所」

2016年7月3日、詩篇46:1~11「神はわれらの避け所」
天地万物は偶然にできたのではなく、「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)。永遠の昔からおられる唯一真の神によって造られ保持されており、私たち人間もこの神によって造られ生かされています。「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」(伝道の書12:13)。神のかたちに造られた「すべての人の本分」は、「神を恐れ、その命令を守」って生きることです。「神は人を神のかたちに造られた。それゆえ、人の心は神の中に憩うまでは本当の安らぎを得ることができない」(アウグスティヌス)と言うように、神に造られた人間が神に背を向けて生きている限り、真の満足や生きがいを得られないのも当然のことです。この的外れの状態を聖書は「罪」と言い、人生から祝福を奪い去り、家庭や社会を混乱させる元凶なのです。
そんな罪人であっても見捨てることができないのが愛なる神です。罪を解決するために神は御子イエスを降誕させ、全人類の罪を背負わせて十字架につけ、身代わりの死を遂げさせられました。十字架を信じて罪赦されると、神が共に歩み、人生の味方となって下さるという幸いな人生が始まります。もちろん神が共におられても、「地は変り、山は海の真中に移る…その水は鳴りとどろき、あわだつ…そのさわぎによって山は震え動く」ような試練や困難に直面することがあります。しかし神に重心を置く家庭・個人は、どんなに激しい困難が襲いかかってきても、恐れる必要もなく、揺らぐこともありません。「神はわれらの避け所また力…悩める時のいと近き助け…神がその中におられるので、都はゆるがない」からです。人間の手に負えないことはあっても、神の手に負えないことは一つもないのです。

詩篇126:1~6「繁栄の回復のために」

2015年8月23日、詩篇126:1~6「繁栄の回復のために」
①救いを喜ぶ(1~3節)
バビロン捕囚から解放されて祖国に帰還したイスラエルは、「われらは夢みる者のようであった…われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた…われらは喜んだ」と喜びに沸き返りました。十字架信仰により罪の奴隷から解放され、神の子とされた救いを喜び、感謝して生きるとき(Ⅰヨハネ3:1)、世の人々も「主は彼らのために大いなる事をなされた」と主を崇めるようになるでしょう。
②回復を祈る(4節)
「ネゲブの川」は、乾期には水が枯れますが、雨期には洪水のようになります。祖国は今、乾期のネゲブのように荒廃していますが、やがて捕囚民が雨期の洪水のように帰還し、かつての繁栄が回復されることを期待して祈りました。私たちも、自分が救われただけで満足することなく、依然として罪の中にある人々のために祈る責任があります。神の時が満ちるまで諦めないで祈り続けるならば、「ところが突然」という驚くべきみわざを拝することでしょう(使徒16:25~26)。
③種をまく(5~6節)
帰還した民には、土地を耕して「種まく」農作業や神殿・城壁の再建等、「涙をもって種まく」ような仕事が山ほどありました。しかし彼らは、喜びの刈り取りの日を夢見つつ、困難な使命に勇ましく立ち上がりました。日本では、福音宣教の困難や収穫の乏しさゆえに空しさを覚えることが少なくありません。しかし、涙の祈りで濡れた御言葉の種まきに「時が良くても悪くても」励むならば(Ⅱテモテ4:2)、いつかきっと「喜びの声をもって刈り取る」日が訪れることを信じましょう。

詩篇46:1~11「神はわれらの避け所」

1月18日、詩篇46:1~11「神はわれらの避け所」
詩人は「地は変り、山は海の真中に移る…その水は鳴りとどろき、あわだつ…そのさわぎによって山は震え動く」ような激しい試練を体験しました(ヒゼキヤ王治世中、南王国はアッスリヤ軍に包囲されて滅亡寸前でしたが、神によってアッスリヤ軍が一夜のうちに滅ぼされた一件か。列王紀下 第18~19章)。その中で詩人が確信したことは、「神はわれらの避け所また力…悩める時のいと近き助け…神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる…万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所」ということでした。
イエスの十字架を信じて罪赦されると、この神が共に歩み、人生の味方となって下さるという幸いな人生が始まります。もちろん神が共におられても、ときに試練や困難に直面することがあります。しかしそのような中でも神は、手を伸ばせばすぐに届くほどの「いと近き助け(=新改訳「そこにある助け」)」です。そして「神がその中におられるので、都はゆるがない」、私たちの教会、家庭、人生の真ん中に神の臨在があるという事実を信じ抜くとき(ローマ3:4)、「われらは恐れない」、恐れる必要などないのです。「我らの戦闘力は第一に我らの無能、第二に主の大能である」(笹尾鉄三郎師)。人間の手に負えないことはあっても、神の手に負えないことなど一つもありません。いかなるときにも「静まって(=新共同訳「力を捨てよ」)」、人間的な知恵や小細工を捨てて自らの無能に徹し、「わたしこそ神である」と言われる大能の神に重心を置きましょう。そうするなら、「主は驚くべきことを地に行われた。主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる」という勝利が与えられることでしょう。

詩篇96:1~13「主は来られる」

12月7日、詩篇96:1~13「主は来られる」
①主は創造主であるから賛美せよ
天地万物は偶然にできたのではなく、「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)、唯一真の神が造られました。人間もこの神に造られ生かされています。「主はもろもろの天を造られた」「もろもろの神(偶像の神々)にまさって恐るべき者である」から、ほめたたえるのです。
②主は王であるから賛美せよ
天地万物を創造された主は、それらを統治しておられる王でもあるので、「世界は堅く立って、動かされることはない」のです。社会や家庭の混乱、崩壊の根本原因は、この王なる主を度外視している罪にあります。この罪を解決するために、神の御子イエスが人の子として降誕され、全人類の罪を背負って十字架につけられ、神にさばかれて死なれたのです。このイエスを信じ受け入れるなら、世がいかに激しく揺れ動こうとも、決して「動かされることはない」のです。
③主は再臨されるから賛美せよ
約2000年前、全人類を罪と滅びから救うために来臨されたイエスは、もう一度この世に「来られる、地をさばくために来られる」。イエスの救いを拒んだ者は永遠の滅びを刈り取りますが、イエスを信じて生きた者は天国に迎え入れられます。クリスマス、それは神が私たちを愛するがゆえに、御子イエスを惜しみなくプレゼントして下さった日です。せっかくの贈り物を受取拒否されたら、贈り主はひどく傷つきます。これ以上、神の愛を拒絶し、神の心を悲しませてはなりません。私の罪のために降誕され、十字架につけられて死んで復活されたイエスを、真の救い主、王として信じ受け入れましょう。

詩篇42:1~43:5「神を待ち望め」

7月27日、詩篇42:1~43:5「神を待ち望め」
イスラエルには、雨季には流れが洪水のようになりますが、乾季には水が干上がってしまう「ワディ」と呼ばれる川があります。そのからからの川のほとりで、水を求めても得られずにあえぐ鹿のように(新共同訳「涸れた谷に鹿が水を求めるように」)、詩人は霊的な渇きを覚え、その渇きが癒されないために「うなだれ…思いみだれ」ています。神殿から遠く離れた北方に住み、神殿礼拝しようにもできない状況にあったからです。さらに「おまえの神はどこにいるのか」と「骨も砕けるばかりに」敵から罵られ、「涙は昼も夜も」あふれていたからです。
肉体の渇きは水を飲めば解消しますが、魂の渇きは真の神以外には解決不能です。「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:13~14)。魂の渇きや落ち込みを経験するとき、サマリヤの女のように、手っ取り早く渇きを癒してくれる便利な水を求めて、さ迷ってはいないでしょうか。
「うなだれ…思いみだれる」ようなときこそ、神が臨在される礼拝に集い、神を慕い求めましょう。「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め」と自分自身に語りかけ、言い聞かせましょう。「もう少しの祈り、もう少しの信仰、もう少しの忍耐、そうすれば答えは必ず来る」(ジョージ・ミュラー)。このように神を待ち望むなら、「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」(Ⅰペテロ2:6、新改訳)。やがて落ち込みから解放され、「わが助け、わが神なる主をほめたたえる」日が来ることでしょう。

詩篇100:1~5「喜びをもって御前に来たれ」

4月6日、詩篇100:1~5「喜びをもって御前に来たれ」
詩人は「全地」に向かって「喜びをもって…歌いつつ…感謝しつつ…ほめたたえつつ」神を礼拝するよう招いています。それはなぜか。
①主は神であるから(1~3節)
聖書中、神の民はしばしば「羊」にたとえられ、中でも特に迷い出た羊として描かれています。「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)人間に真の神を教え、神のもとに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。この私を愛し、罪を贖うために死なれた十字架のイエスを仰ぎ見るとき、「われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」と告白し、心から喜んで礼拝することでしょう。
②主は恵み深いから(4~5節)
「恵み…いつくしみ…まこと」は、契約における神の姿勢を表す重要語です。本篇は、バビロン捕囚から帰還後、神殿を再建・奉献したときに歌われた詩であろうと言われています。そのときイスラエルはきっと思ったことでしょう。主はよくぞこんな羊をも見捨てず、「恵み…いつくしみ…まこと」の限りを尽くして導き続けて下さった、と。すると自ずから喜びと感謝にあふれて礼拝したに違いありません。
イスラエル同様、何度も主に背いてきた私たちが、今なお礼拝の民とされています。また、神の真実は「耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さ」いました(Ⅰコリント10:13)。すべては主の「恵み…いつくしみ…まこと」以外の何ものでもないことを思うとき、毎週、毎日、喜びに満たされて主を礼拝せずにはいられません。

詩篇40:1~17「人生の泥沼から引き上げる主」

2月23日、詩篇40:1~17「人生の泥沼から引き上げる主」
①泥沼
詩人は以前「滅びの穴…泥の沼」に落ち込んだようです。ダビデには、バテシバとの姦淫の罪を隠すため夫ウリヤを謀殺した泥沼、サウルや息子アブサロムに命を狙われた泥沼があり、ヨセフには、兄弟たちの妬みを買ってエジプトに奴隷として売られ、主人の好意を得て高められたかと思うと投獄され、忘れ去られた泥沼がありました。
②待望
詩人は「耐え忍んで主を待ち望んだ(待ちに待った、の意)」、徹底的に「主を待ち望」み、主に「叫」ぶように祈りました。不妊の女ハンナも、苦悩に満ちた心のまま主の前に出、「心を注ぎ出して」主に祈りました。
③救出
詩人は主に「滅びの穴から、泥の沼から」引き上げられたのみか、堅固で揺るがぬ「岩の上」に移され、その「歩みをたしかにされ」ました。
④感謝
そのような詩人から出てきたもの、それは感謝でした。感謝は、主への賛美となって(3節)、主への従順となって現れました(8節)。その結果、周囲の人々も主を「恐れ、かつ主に信頼する」ようになります。
私たちの生涯にも「滅びの穴…泥の沼」がありますが、最大の泥沼は罪の泥沼です。しかしイエスの十字架に救い出せない罪はありません。十字架を信じましょう。また試練の泥沼で苦悩しているなら、徹底的に主に信頼して祈りましょう。やがて必ず主が「滅びの穴から、泥の沼から引きあげて」下さいます。「もう少しの祈り、もう少しの信仰、もう少しの忍耐、そうすれば答えは必ず来る」(ジョージ・ミュラー)。

詩篇93:1~5「主は王である」

1月19日、詩篇93:1~5「主は王である」
①主の支配(1~4節)
世の王が立派な衣をまとい、権力の象徴である剣を腰に帯びているように、全宇宙の王である主は「威光の衣をまとわれ」、全能の「力をもって帯とされ」ています。この偉大な主の主権は、天地創造以前の「いにしえより堅く立ち」、永遠の未来まで確立され続けています。
人間はこの主によって造られ、生かされていながら、主を人生から締め出し、自分が王となっています。この的外れの罪のために御子イエスは十字架上で死なれたのです。このイエスを救い主、王として心に信じ迎え入れ、人生を統べ治めていただくならば、世がどんなに揺れ動こうとも心配無用、決して揺るぎません(イザヤ書43:1~2)。
とは言え、イスラエルがバビロン捕囚を経験したように、私たちの人生も「大水…海の大波」のような試練に襲われ、人生が転覆するような窮地に陥ることがあります。しかし天を仰ぐなら、「主は高き所にいらせられて、その勢いは多くの水のとどろきにまさり、海の大波にまさって盛ん」なこと、「世界は堅く立って、動かされることは」ないことを知り、やがて主を賛美するに至るでしょう(ヨハネ16:33)。
②主の言葉(5節)
主は「あかし(御言葉)」を通して語りかけ、「あなたの家(神殿)」、さらには神の宮である私たちの内に宿って、共に歩んで下さいます(Ⅰコリント6:19)。主の御言葉は不変で、必ず成就します(ヨシュア記21:45、イザヤ書55:11)。主は一言で天地を創造され(創世記1:3他)、嵐を静め(マルコ4:39)、大漁をもたらされました(ルカ5:4)。この主と御言葉に信頼している限り、私たちの人生も「堅く立って、動かされることはありません」。

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