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エズラ記9:1~2「神の恵みを受けた者は」

2018年9月9日、エズラ記9:1~2「神の恵みを受けた者は」
エズラたちの帰国から約4か月、指導者たちが「先だって」異民族と結婚したので、民もそれに倣っていることが明らかになりました。 イスラエルは、全世界に真の神を証しし、神の祝福をもたらすという尊い使命のために選ばれた「宝の民」でした(創世記12:2~3、申命記7:6)。異民族と結婚して悪影響を受けると、それどころではなくなるので、イスラエルは異民族と結婚することを固く禁じられたのです(申命記7:1~5)。バビロン捕囚となったのは、異民族から悪影響を受け、その生き方に倣ったからでした。あわれみ深い神によって回復され、神殿を再建することさえできたのに、またもや同じような罪を犯していることを知らされたエズラは、嘆き悲しみ断食して祈りました。
私たちも同様です。主に選ばれるような価値のない「無きに等しい者(直訳「無い者」)」(Ⅰコリント1:26~29)であるのに、「天地の造られる前から、キリストにあって…選び」(エペソ1:4)、十字架の救いにあずからせて下さいました。にもかかわらず私たちもイスラエル同様、何度も何度も神に背き、御心を傷つけてきました。それでもなお神は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43:4)と言っておられます。他人が何と言おうと、またあなた自身がどう思おうと、神は「あなたはわたしの大切な宝物」と言っておられるのです。「私は神の宝物」と自分自身に何度も言い、隣人にも「あなたは神の宝物」と言ってみましょう。あなたの生き方は変わるはずです。神にこよなく愛され、大切にされていることが真にわかれば、神を悲しませるような生き方はできなくなるはず、何とか神に喜ばれる生き方をして、神を証ししていきたいと願うはずです。

エズラ記8:24~36「神の御手に守られた旅路」

2018年8月19日、エズラ記8:24~36「神の御手に守られた旅路」
エズラ一行が断食して道中の無事を「神に願い求めたところ、神はその願いを聞きいれられた」(21~23節)とは言うものの、まだ一歩も前進していません。「神はその願いを聞きいれられた」との確信が与えられ、平安に満たされて出発することができたということです。そのようにして出発したエズラ一行は、断食して祈ったので神に守られ、何事もなく平穏無事であったということではなかったでしょう。約4か月の長旅の間(7:9)、様々な危険や困難に出くわしたはずです。しかしご真実な神が彼らの信頼と祈りに答えて、「敵の手および道に待ち伏せする者の手から…救われた」ので、無事帰国できたのです。
アブラハムは「望み得ないのに、なおも望みつつ信じ」(ローマ4:18)、高齢夫婦の間に約束の子イサクが誕生しました(創世記第17~21章)。契約の箱をかく祭司たちが濁流渦巻くヨルダン川に足を一歩踏み入れたその瞬間、水はせき止められて乾いた地を渡ることができるという約束を信じて従ったところ、そのとおりになりました(ヨシュア記 第3章)。いくら御言葉の約束を得ても、前進しようとせず、ただ待っているだけでは、約束はいつまで経っても絵に描いた餅に過ぎません。「信仰は冒険である」と言います。御言葉の約束を信じて一歩踏み出すならば、必ず御言葉の約束どおりになっていきます(イザヤ書55:11)。
「神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さる」(Ⅰコリント10:13)。ご真実な神は、私たちが試練の中で意気消沈したり絶望したりしないよう、「それ(試練)に耐え」忍ぶ力を「備えて下さ」います。エズラ一行がまさにそうでした。

エズラ記8:1~23「道中の無事を神に願い求めた」

2018年8月12日、エズラ記8:1~23「道中の無事を神に願い求めた」
エズラは、男性だけで約1,500人(女性や子どもも入れると3~4千人)、数十トンの「金銀…器物」と共に帰国しようとしています。当時の旅行は強盗や野獣に襲われる危険性大でしたが、エズラはペルシャ王に護衛を要請しないで、帰国予定者に「神の前でへりくだり…道中の無事を神に願い求めるため」(新改訳)断食して神に祈るよう促しました。
大きな問題や試練に直面したとき、あなたはこれまでどうしてきましたか。神に真剣に祈り求めるよりも、自分の浅薄な知恵や経験、身近な人に頼ってきませんでしたか。全能の神を信じていながら信仰生活が鳴かず飛ばずなのは、「神の前で身をひくくし…神に求め」ることをしていないからではありませんか。だから不安や恐れに満たされ、人間的な知恵や方策を模索せずにはいられなくなるのです。
アッスリヤの大軍に包囲されたとき、ヒゼキヤ王は何をするよりもまず神殿に行って祈りました。するとその夜、アッスリヤ軍は疫病によって全滅しました(列王紀下第18~19章)。「静まって(新改訳「やめよ」)、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)。「我らの戦闘力は第一に我らの無能、第二に主の大能である」(笹尾鉄三郎師)。試練や困難に直面したとき、人間的な知恵や小細工を一切放棄して、自らの無能に徹し、「わたしこそ神である」と言われる神の前に座り込み、祈り抜くことです。そうするなら神もその信頼に答えて、「驚くべきことを…行われ」ます(詩篇46:8)。人間の手に負えないことは多々あっても、神の手に負えないことなど一つもありません。「どんな問題も、問題そのものが問題でなく、それをどう見るか、それとどう関わるか、あるいはその問題をどう捉えるか、それが問題なのです」(ある牧師)。

エズラ記7:1~28「律法を調べ、行い、教えた」

2018年8月5日、エズラ記7:1~28「律法を調べ、行い、教えた」
神殿再建工事完了から60年弱、「天の神の律法の学者である祭司エズラ」がエルサレム帰還を決意します。目に見える部分は確かに整いましたが、問題は目に見えない部分、一人ひとりが律法に従って生きているか否かです。この神の民としての大原則を忘れ、目に見えない神ではなく目に見える偶像の神に頼り、罪に罪を重ねたために、神にさばかれてバビロン捕囚となったのです。しかし神のあわれみのゆえに捕囚から解放されて帰国し、神殿再建工事を成し遂げた今こそ、神の民の大原則が民の中に真に回復されなければ、いくら神殿が再建されて礼拝をささげていても無意味です。それゆえ「エズラは心をこめて主の律法を調べ、これを行い、かつイスラエルのうちに定めとおきてとを教え」るために帰国するのです(申命記6:4~15)。
私たちも神の不思議なご計画によって救いに導かれ、教会の一員とされました。しかしそれはゴールではなくスタートです。神の国完成と自分自身の救いの完成を目指して走り出した私たちも、御言葉を魂に蓄え(詩篇119:11)、絶えず思い起こし、御言葉によって警告されたり矯正されたりしながら歩むことが不可欠です。神も真理も希望も見失った時代だからこそ、私たちはなおさら確信をもって人々に、特に愛する家族に、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と言われるイエスを指し示す責任があります。これこそ真理だと確信しているなら、子や孫の進学・就職・結婚等に血眼になる以上に、信仰継承により情熱を注ぐはずではないでしょうか。皆、私に倣って、私のような生き方をしてほしい。これがエズラやパウロ(ピリピ3:17)の切なる願いであり、私たちの願い・目標でもあります。

エズラ記6:1~22「神の命令により完成した」

2018年7月22日、エズラ記6:1~22「神の命令により完成した」
州知事からの問い合わせに対してダリヨス王は、早速部下に「古文書をおさめてある書庫を調べさせたところ」、ユダヤ人の主張が事実であることが判明したので、神殿再建工事を妨害してはならないこと等を命じました。ユダヤ人は神とその言葉を信じて帰国し、神殿再建工事に立ち上がったものの、試練と困難の連続でしたが、遂に神殿を建て上げました。「イスラエルの神の命令」があったからです。
創世記後半に登場するヨセフは、若き日に見た神の約束は一体どうなってしまったのかと疑いたくなるような波乱万丈の生涯でした。しかしヨセフに対する神の約束は、時満ちてことごとく実現しました(創世記 第37章以下)。「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:11)。神が一度語られた言葉は空しく地に落ちることはありません。神が語られた以上は間違いなく成就するのです。
ユダヤ人同様、神とその言葉に従って一歩踏み出しても、約束の実現までには山あり谷あり、紆余曲折がつきものです。家族の救いにしても伝道の前進にしても思いどおりにいかないことの連続で、失望の種は尽きません。しかし失望落胆していたユダヤ人が預言者と神の言葉、神の目によって再び立ち上がったように、私たちも失望落胆、意気消沈して下ばかり向いていないで、その何倍も神とその言葉に信頼し期待しようではありませんか。神の言葉が共にあり、神の目が注がれている限り、いつか必ず祝福され、豊かに実を結ぶ日を迎えるはずだからです(詩篇1:1~3)。「もう少しの祈り、もう少しの信仰、もう少しの忍耐、そうすれば答えは必ず来る」(ジョージ・ミュラー)。

エズラ記5:3~17「神の目が注がれていたので」

2018年6月24日、エズラ記5:3~17「神の目が注がれていたので」
神殿再建工事を中断して16年になるユダヤ人を再び立ち上がらせたのは、預言者と神の言葉(5:1~2)、それから「神の目」でした。工事を知った州知事たちは、ユダヤ人から聞き取り調査を行った上でダリヨス王に報告して指示を仰ぎ、それまで結論を出さずに工事を続けさせました。サマリヤ人の態度が敵意と悪意に満ちていたのに対して、知事たちの態度は公明正大でした。それについて著者は、「ユダヤ人の長老たちの上には、神の目が注がれていたので(神の守り・保護を意味する慣用句)、彼らはこれをやめさせることができず」と記します。
「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる」(歴代志下16:9)。主は全地を見渡し、すべてを見て聞いて知っておられるだけでなく、必要なら被造物を総動員してでも「力をあらわされる」お方です。この主の力を体験するためには条件があります。「自分に向かって心を全うする者のために」とあるように、主に従うことです(マタイ13:58)。また、「その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある」(申命記11:12)。「年の始めから年の終りまで」絶えずイスラエルに目を留めておられた主は、天国というゴール目指して地上を旅する私たちをも、「年の始めから年の終りまで」絶えず目を留め顧みていて下さいます。御子イエスの十字架の血潮によって神の子とされた者を、この世のすべてが束になってかかってきても打ち負かすことはできません。神の目が注がれているからです。人間の手に負えないことはあっても、神の手に負えないことなど一つもありません(ローマ8:31、37)。神に信頼しましょう。

エズラ記5:1~2「御言葉により再び立ち上がる」

2018年4月29日、エズラ記5:1~2「御言葉により再び立ち上がる」
16年間も中断していた神殿再建工事を再開させた二つの要因とは
①預言者の派遣
エレミヤの預言活動から約60年ぶりに預言者ハガイとゼカリヤがエルサレムに現れ、「ゼルバベル(総督、政治的指導者)および…エシュア(大祭司、宗教的指導者)は立ちあがって、エルサレムにある神の宮を(再び)建て始め」ました。かつて神は、エジプトの奴隷であった民の「うめき…叫び」を「聞き…覚え…顧み」、モーセを指導者としてエジプトを脱出させられました。その後も神は士師や預言者を遣わして民を導いてこられました。「神は天使(良い協力者)をお送り下さる」(鄭弼祷師)。私たちは一人孤独で戦っているのではありません。神が共に戦っていて下さいます。そればかりか、「神の預言者たちも、彼らと共にいて彼らを助けた」、良い協力者・理解者を送って助けて下さるのです。
②御言葉の激励
神殿再建を半ば諦め失望していた民を再び立ち上がらせたのは、預言者であり、預言者によって語られた神の言葉でした。バアルの神との戦いの後、燃え尽き症候群のような状態に陥ったエリヤを再び立ち上がらせたのは、休息と食事、そして神の「静かな細い声」でした(列王紀下 第19章)。イエスが処刑されて絶望するエマオ途上の弟子たちを再び立ち上がらせたのは、復活のイエスによる御言葉の解き明かしでした(ルカ 第24章)。人の慰めの言葉等も確かに重要ですが、それらに勝って神の言葉ほど私たちを力づけ励ますものはありません。しかし何と私たちは、御言葉とは真逆のメッセージを世から受け取っていることでしょうか。神の御言葉にこそ耳を傾けましょう。

エズラ記4:1~24「親切そうに見えて実は」

2018年4月22日、エズラ記4:1~24「親切そうに見えて実は」
「ユダとベニヤミンの敵(サマリヤ人)」が「われわれも、あなたがたと一緒にこれを建てさせてください。われわれはあなたがたと同じく、あなたがたの神を礼拝します…」と神殿再建工事への協力を申し出ました。猫の手も借りたいのが実情でしたが、断固拒絶しました。先祖たちが犯した偶像崇拝の道に再び陥る危険性が大であったからです。すると敵は本性を現し、脅迫や嫌がらせ、役人買収によって妨害したため、16年間も工事を中断せざるを得なくなりました。
このときの敵の手口は、悪魔がよく使う手口でもあります。「光の天使に擬装」して忍び寄り、言葉巧みにささやくかと思えば、「ほえたけるししのように」牙をむいて襲いかかることもあります(Ⅱコリント11:14、Ⅰペテロ5:8)。この悪魔の餌食にならないためにも、イエスにつながり続け、御言葉を聞き続けることにより、正しく判別する力を与えられる必要があります(ヨハネ10:2~5)。また私たちは、真に頼り得る神に頼らないで、目先の人間的な知恵や方策に飛びつきやすく、せっかくの神の出番を奪ってしまいやすいのではないでしょうか。「あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ」(イザヤ2:22)。さらに悪魔は、私たちに失望の火矢を打ち込んできます。今の時代、目の前の現実だけ見つめると、それこそ失望の連続です。しかしだからこそ、神に期待し、諦めないで祈り続けたいものです。
私たちは常に選択と決断を迫られています。自分の欲や一時の感情に従って選択すると、やがて問題が生じるものです。このときのユダヤ人のように、神とその御言葉に堅く立った選択をしたいものです。たとえ遠回りしたように見えても、それが祝福の道なのです。

エズラ記3:8~13「喜ぶ声と泣く声と」

2018年3月18日、エズラ記3:8~13「喜ぶ声と泣く声と」
帰還した民は「七月(太陽暦の9~10月)に…祭壇を築」き、半年後の「二月(4~5月)に…工事を始め…主の宮の基礎をすえ」ました。そのとき、「喜びのために声をあげて叫ぶ者も多かった」半面、「大声をあげて泣いた」者もいました。「もとの宮を見た老人たち」です。栄光に輝くソロモン神殿と、これから建て上げる神殿とを比較して泣いたのです。しかしそうなったのは、他でもない自分たちの罪のためであることを悟り、過去の罪を嘆き悔いる心から出た涙でもありました。と同時に、そんな者であるにもかかわらず、70年間の捕囚の中にも帰還の旅の中にも、神の助けと守りが随所にあったこと、神は約束の御言葉どおり祖国帰還を実現させて下さったこと、それは神殿奉献時のソロモンの祈り(列王紀上9:46~50)の成就でもあったことを発見しました。すべては「主はめぐみ深く、そのいつくしみはとこしえに…絶えることがない」ゆえであることを思い起こし、感激する心から出た涙でもありました。一方の「喜びのために声をあげて叫ぶ者」は、辛く苦しい過去にではなく、明るい未来に目を向ける心から出た喜びの叫びでした。事実、神は「主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きい…わたしはこの所に繁栄を与える」(ハガイ書2:9)と言われました。
どんなに後悔しても過去は変えられませんが、過去の失敗から教訓を学び、現在と未来を変える力にすることはできます。過去は人生を力強く前進させる「帆」にもなり得ますし、いつまでも過去に縛り付ける「錨」にもなり得ます。要はあなたの決断次第です。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント5:17)。いつからでもやり直し可能なのがキリストにある人生です。

エズラ記3:1~7「まず祭壇を築いた」

2018年3月11日、エズラ記3:1~7「まず祭壇を築いた」
祖国に帰還した民は、「七月(太陽暦の9~10月)になって、民はひとりのようにエルサレムに集ま」り、「祭壇を築い」て「燔祭をささげ…仮庵の祭を行い」ました。城壁も破壊されたままの無防備な状況での礼拝は危険で、事実、神殿再建工事を始めると敵の妨害に遭います(次章)。しかしそのような危険や恐れがあったからこそ、民は何よりも礼拝して神の守りを祈り求めずにはいられなかったのです。神の民としての再出発を意義あるものとするためにも、礼拝を渇望し、礼拝する神殿の再建を必要としたのです。ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ他もまず祭壇を築きました(創世記8:20、12:7、13:4、26:25、33:20)。
このように何よりもまず神を礼拝して再出発した民でしたが、かつてはそうではありませんでした。安息日を形式的に守るだけで、頭の中にあるのは「神」ではなく「金」でした。真心からなる礼拝を失い、罪に罪を重ねた刈り取りがバビロン捕囚であり、その捕囚から解放された民が真っ先に回復したものが礼拝でした。
「人がなし得る最高の行為は礼拝である」(バックストン師)。礼拝という最高の行為をしている今、喜びと感謝にあふれているでしょうか。聖書中、神の民はしばしば羊にたとえられ、中でも特に迷い出た羊として描かれています。「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)人間に真の神を教え、神のもとに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。この私を愛し、罪を贖うために死なれた十字架のイエスを仰ぐとき、「われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」(詩篇100:3)と告白し、心から喜んで礼拝するはずです。

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