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エズラ記5:3~17「神の目が注がれていたので」

2018年6月24日、エズラ記5:3~17「神の目が注がれていたので」
神殿再建工事を中断して16年になるユダヤ人を再び立ち上がらせたのは、預言者と神の言葉(5:1~2)、それから「神の目」でした。工事を知った州知事たちは、ユダヤ人から聞き取り調査を行った上でダリヨス王に報告して指示を仰ぎ、それまで結論を出さずに工事を続けさせました。サマリヤ人の態度が敵意と悪意に満ちていたのに対して、知事たちの態度は公明正大でした。それについて著者は、「ユダヤ人の長老たちの上には、神の目が注がれていたので(神の守り・保護を意味する慣用句)、彼らはこれをやめさせることができず」と記します。
「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる」(歴代志下16:9)。主は全地を見渡し、すべてを見て聞いて知っておられるだけでなく、必要なら被造物を総動員してでも「力をあらわされる」お方です。この主の力を体験するためには条件があります。「自分に向かって心を全うする者のために」とあるように、主に従うことです(マタイ13:58)。また、「その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある」(申命記11:12)。「年の始めから年の終りまで」絶えずイスラエルに目を留めておられた主は、天国というゴール目指して地上を旅する私たちをも、「年の始めから年の終りまで」絶えず目を留め顧みていて下さいます。御子イエスの十字架の血潮によって神の子とされた者を、この世のすべてが束になってかかってきても打ち負かすことはできません。神の目が注がれているからです。人間の手に負えないことはあっても、神の手に負えないことなど一つもありません(ローマ8:31、37)。神に信頼しましょう。

エズラ記5:1~2「御言葉により再び立ち上がる」

2018年4月29日、エズラ記5:1~2「御言葉により再び立ち上がる」
16年間も中断していた神殿再建工事を再開させた二つの要因とは
①預言者の派遣
エレミヤの預言活動から約60年ぶりに預言者ハガイとゼカリヤがエルサレムに現れ、「ゼルバベル(総督、政治的指導者)および…エシュア(大祭司、宗教的指導者)は立ちあがって、エルサレムにある神の宮を(再び)建て始め」ました。かつて神は、エジプトの奴隷であった民の「うめき…叫び」を「聞き…覚え…顧み」、モーセを指導者としてエジプトを脱出させられました。その後も神は士師や預言者を遣わして民を導いてこられました。「神は天使(良い協力者)をお送り下さる」(鄭弼祷師)。私たちは一人孤独で戦っているのではありません。神が共に戦っていて下さいます。そればかりか、「神の預言者たちも、彼らと共にいて彼らを助けた」、良い協力者・理解者を送って助けて下さるのです。
②御言葉の激励
神殿再建を半ば諦め失望していた民を再び立ち上がらせたのは、預言者であり、預言者によって語られた神の言葉でした。バアルの神との戦いの後、燃え尽き症候群のような状態に陥ったエリヤを再び立ち上がらせたのは、休息と食事、そして神の「静かな細い声」でした(列王紀下 第19章)。イエスが処刑されて絶望するエマオ途上の弟子たちを再び立ち上がらせたのは、復活のイエスによる御言葉の解き明かしでした(ルカ 第24章)。人の慰めの言葉等も確かに重要ですが、それらに勝って神の言葉ほど私たちを力づけ励ますものはありません。しかし何と私たちは、御言葉とは真逆のメッセージを世から受け取っていることでしょうか。神の御言葉にこそ耳を傾けましょう。

エズラ記4:1~24「親切そうに見えて実は」

2018年4月22日、エズラ記4:1~24「親切そうに見えて実は」
「ユダとベニヤミンの敵(サマリヤ人)」が「われわれも、あなたがたと一緒にこれを建てさせてください。われわれはあなたがたと同じく、あなたがたの神を礼拝します…」と神殿再建工事への協力を申し出ました。猫の手も借りたいのが実情でしたが、断固拒絶しました。先祖たちが犯した偶像崇拝の道に再び陥る危険性が大であったからです。すると敵は本性を現し、脅迫や嫌がらせ、役人買収によって妨害したため、16年間も工事を中断せざるを得なくなりました。
このときの敵の手口は、悪魔がよく使う手口でもあります。「光の天使に擬装」して忍び寄り、言葉巧みにささやくかと思えば、「ほえたけるししのように」牙をむいて襲いかかることもあります(Ⅱコリント11:14、Ⅰペテロ5:8)。この悪魔の餌食にならないためにも、イエスにつながり続け、御言葉を聞き続けることにより、正しく判別する力を与えられる必要があります(ヨハネ10:2~5)。また私たちは、真に頼り得る神に頼らないで、目先の人間的な知恵や方策に飛びつきやすく、せっかくの神の出番を奪ってしまいやすいのではないでしょうか。「あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ」(イザヤ2:22)。さらに悪魔は、私たちに失望の火矢を打ち込んできます。今の時代、目の前の現実だけ見つめると、それこそ失望の連続です。しかしだからこそ、神に期待し、諦めないで祈り続けたいものです。
私たちは常に選択と決断を迫られています。自分の欲や一時の感情に従って選択すると、やがて問題が生じるものです。このときのユダヤ人のように、神とその御言葉に堅く立った選択をしたいものです。たとえ遠回りしたように見えても、それが祝福の道なのです。

エズラ記3:8~13「喜ぶ声と泣く声と」

2018年3月18日、エズラ記3:8~13「喜ぶ声と泣く声と」
帰還した民は「七月(太陽暦の9~10月)に…祭壇を築」き、半年後の「二月(4~5月)に…工事を始め…主の宮の基礎をすえ」ました。そのとき、「喜びのために声をあげて叫ぶ者も多かった」半面、「大声をあげて泣いた」者もいました。「もとの宮を見た老人たち」です。栄光に輝くソロモン神殿と、これから建て上げる神殿とを比較して泣いたのです。しかしそうなったのは、他でもない自分たちの罪のためであることを悟り、過去の罪を嘆き悔いる心から出た涙でもありました。と同時に、そんな者であるにもかかわらず、70年間の捕囚の中にも帰還の旅の中にも、神の助けと守りが随所にあったこと、神は約束の御言葉どおり祖国帰還を実現させて下さったこと、それは神殿奉献時のソロモンの祈り(列王紀上9:46~50)の成就でもあったことを発見しました。すべては「主はめぐみ深く、そのいつくしみはとこしえに…絶えることがない」ゆえであることを思い起こし、感激する心から出た涙でもありました。一方の「喜びのために声をあげて叫ぶ者」は、辛く苦しい過去にではなく、明るい未来に目を向ける心から出た喜びの叫びでした。事実、神は「主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きい…わたしはこの所に繁栄を与える」(ハガイ書2:9)と言われました。
どんなに後悔しても過去は変えられませんが、過去の失敗から教訓を学び、現在と未来を変える力にすることはできます。過去は人生を力強く前進させる「帆」にもなり得ますし、いつまでも過去に縛り付ける「錨」にもなり得ます。要はあなたの決断次第です。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(Ⅱコリント5:17)。いつからでもやり直し可能なのがキリストにある人生です。

エズラ記3:1~7「まず祭壇を築いた」

2018年3月11日、エズラ記3:1~7「まず祭壇を築いた」
祖国に帰還した民は、「七月(太陽暦の9~10月)になって、民はひとりのようにエルサレムに集ま」り、「祭壇を築い」て「燔祭をささげ…仮庵の祭を行い」ました。城壁も破壊されたままの無防備な状況での礼拝は危険で、事実、神殿再建工事を始めると敵の妨害に遭います(次章)。しかしそのような危険や恐れがあったからこそ、民は何よりも礼拝して神の守りを祈り求めずにはいられなかったのです。神の民としての再出発を意義あるものとするためにも、礼拝を渇望し、礼拝する神殿の再建を必要としたのです。ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ他もまず祭壇を築きました(創世記8:20、12:7、13:4、26:25、33:20)。
このように何よりもまず神を礼拝して再出発した民でしたが、かつてはそうではありませんでした。安息日を形式的に守るだけで、頭の中にあるのは「神」ではなく「金」でした。真心からなる礼拝を失い、罪に罪を重ねた刈り取りがバビロン捕囚であり、その捕囚から解放された民が真っ先に回復したものが礼拝でした。
「人がなし得る最高の行為は礼拝である」(バックストン師)。礼拝という最高の行為をしている今、喜びと感謝にあふれているでしょうか。聖書中、神の民はしばしば羊にたとえられ、中でも特に迷い出た羊として描かれています。「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)人間に真の神を教え、神のもとに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。この私を愛し、罪を贖うために死なれた十字架のイエスを仰ぐとき、「われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」(詩篇100:3)と告白し、心から喜んで礼拝するはずです。

エズラ記2:59~70「血統の証明」

2018年2月25日、エズラ記2:59~70「血統の証明」
帰還民の中に、先祖の系図を紛失したためか、「その氏族とその血統とを示」すことができず、「祭司の職から除かれた」人がいました。
私たちが神の民であることを証明するものは、「血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れた」(ヨハネ1:13)という事実です。キリストは「すべての人を照らすまことの光」として来臨されました。「光」の働きの第一は、心の闇、罪深さを照らし出すことです(エペソ5:13)。第二は、闇を一掃することです。キリストは、全人類の罪を背負って十字架につけられ、身代わりの死を遂げることによって救いを完成されました。このキリストを「受けいれ…信じ」るなら、闇の根源であるすべての罪が赦され、「神の子」とされ、神の家族の一員として迎え入れられます。「血すじ」を誇ることなどできない異邦人の私たちが、今や「ただ神によって生れ」、神の血筋につながる者とされているとは、何と驚くべき恵みでしょうか。「実に、恵みにより、信仰による…神の賜物」です(エペソ2:8)。
こうした恵みにあずかったのは、「それぞれ生ける石となって、霊の家(教会)に築き上げられ」るためです(Ⅰペテロ2:5)。祭司の性質は、「聖なる(区別された、の意)」ということ、何でもありの世の中で神を畏れ、御言葉に従って歩むということです。祭司の働きは、自分自身を「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげ」ることであり(Ⅰペテロ2:5、ローマ12:1)、「暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを…語り伝える」ことです(Ⅰペテロ2:9)。今日という大切な一日を漫然と過ごしたり世の風潮に流されたりしないよう、神の民として生かされている意味と目的をしっかり自覚したいものです。

エズラ記2:1~58「捕囚からの帰還」

2018年2月18日、エズラ記2:1~58「捕囚からの帰還」
第一回帰還者数の記録です。彼らは祖国再興に燃えて長旅をものともせず帰還しました。モーセに率いられてエジプトの奴隷から解放されたのが「第一の出エジプト」なら、vetements スーパーコピー今回は「第二の出エジプト」とも言うべき神の救出劇でした。「わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」(イザヤ書43:19)と言われた神が、約束どおり帰還への道を開かれました。紅海渡渉(出エジプト記 第14章)以上の奇跡でした。
そのときの様子を歌ったのが詩篇 第126篇です。「われらは夢みる者のようであった…われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた…われらは喜んだ」と喜びに沸き返る民ですが、目の前には、荒廃した土地を耕して「種まく」作業、破壊された神殿や城壁、自宅の再建等、「涙をもって種まく」ような仕事が山積していました。しかし民は、やがて来る「喜びの声をもって刈り取る」日を夢見つつ、困難な使命に勇ましく立ち上がり、励んだのです。
バビロン捕囚からの解放を「第二の出エジプト」とするなら、ハリウッド映画 腕時計イエスの十字架と復活による罪からの解放は「第三の出エジプト」です。私の罪のためにイエスが十字架上で身代わりの死を遂げて下さったことを信じ受け入れるとき、私たちの人生にも「荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる」ような救いのみわざが起こります。罪によって荒れ果てていた人生の道もイエスによってきれいに舗装され、渇ききっていた心も聖霊によって満たされ、あふれるようになります。
神が働かれると、絶望的状況にも希望が与えられ、道が開かれます。人には計画倒れということがありますが、神には全くありません。ご計画を着々と進めて実現される神を信じて待ち望みましょう。

エズラ記1:5~11「主は民の心を感動されたので」

2018年2月11日、エズラ記1:5~11「主は民の心を感動されたので」
主はクロス王の心を感動されましたが、同時にイスラエルの心をも感動されたからこそ、バレンシアガ 財布コピー祖国帰還の約束が実現したのです。繁栄を謳歌していたときには、イスラエルは心をかたくなにして、預言者たちの声に耳を傾けようともしませんでした。しかし頼みとしていた城壁や神殿がなくなり、もはや頼るべきものは主の御言葉以外になくなったそのとき、民の間で生じたのが悔い改めであり、捕囚から解放される日が来るという御言葉の約束実現を待ち望む信仰でした(詩篇 第137篇他)。神は民の側の応答を待っておられるのです。「時が来れば成就する」(ルカ1:20)約束の御言葉を信じて待ち望む信仰を。
捕囚の地から祖国までは3~5か月の長旅であり、祖国の現状が不明のまま帰還するには、大変な勇気と決断、信仰と犠牲を必要としました。様々な事情からペルシャに留まる者もいましたが、彼らもやはり「神にその心を感動され…銀の器、金、貨財、家畜および宝物…もろもろの物を惜しげなくささげ」て協力しました。民の悔い改めと協同があったからこそ、バレンシアガ コート スーパーコピー神殿再建の大事業が現実となったのです。
イエスを三度否んだペテロも回復されました(ルカ22:54~62)。あなたが過去どんな失敗をしたとしても、イスラエルやペテロ同様、神はあなたにも挽回のチャンス、再出発のチャンスを与えて下さいます。イエスを信じて生きる人生は、いつでもやり直し可能な人生です(Ⅱコリント5:17)。失敗のない人生などありません。問題は、失敗した後どうするかです。ユダのように自分に絶望して投げ出してしまうか、それともペテロのように神のあわれみにすがるか。神のあわれみに感動して立ち上がり、「惜しげなくささげ」る心を神は喜ばれます。

エズラ記1:1~4「主はクロスの心を感動されたので」

2018年2月4日、エズラ記1:1~4「主はクロスの心を感動されたので」
罪に罪を重ねたイスラエルはバビロン捕囚となりましたが(歴代志下36:15~16)、バビロンは「ペルシャ王クロス」に滅ぼされ、イスラエル帰還を許されます。ここでの主語は「クロス」ではなく「主」です。万物の創造者・支配者なる主こそ、バビロン捕囚からの解放の真の主人公なのです。捕囚の地で民が「主はもはや私たちを見捨てられたのではないか」と絶望していたとき、主は「バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る」(エレミヤ書25:11~12、29:10)という「エレミヤの口によって伝えられた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの心を感動された」のです。「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:11)、主は約束の御言葉を必ず実現されます。
バプテスマのヨハネ誕生を告知されザカリヤは、「時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたは口がきけなくなり」と宣告され、イエスの処女降誕を告知されたマリヤは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と主に信頼し、「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」とその信仰を称賛されました(ルカ1:5~45)。
サタンは、私たちが御言葉を信じて待ち望むことを阻止するため、あらゆる方法を駆使して御言葉を疑わせ、失望させ、悲観させます。厳しい現実と約束の御言葉と、あなたはどちらを重視していますか。「やがて、イエス・キリストが再び来られるその日まで、判断をいつも留保しながら、しかし期待しながら歩んでいくのです」(大嶋重徳師)。

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