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マルコによる福音書1:21~28「人々はイエスに驚いた」

2019年5月12日、マルコによる福音書1:21~28「人々はイエスに驚いた」
イエスは、説教と御業(癒しや奇跡等)によって、父なる神がどういうお方であるかを人々に教えようとされました。律法学者たちは「やたらに他人のことばを引用」(リビングバイブル)して自らの教えを権威づけようとしましたが、永遠に神と共におられるイエスは、「神は言われる。わたしは言う」と確信をもって語ることができました。律法学者たちの説教は人々に重荷を負わせて苦しめるものでしたが、イエスの説教は重荷を下ろさせ(マタイ11:28)、恵みに生かすものでした。律法学者たちは語るだけで実行しませんでしたが、イエスは自ら語ったことを率先して実行されました(ルカ23:34)。「けがれた霊につかれた者が会堂にいて」、イエスが「黙れ、この人から出て行け」と言われると、悪霊は出て行きました(ルカ11:20)。人々は、イエスの説教や御業の中に、律法学者たちにはない天来の権威を見出して驚いたのです。
私たちは彼らのようにイエスを直接見ることはできませんが、聖書66巻によってより正確に知ることができます。問題は、イエスをどのようなお方と考え、どのような態度をとっているかです。自分のわずかな知識や経験で神を推し量ったり、常識の範囲内の御言葉しか聞こうとしなかったり、心をかたくなにして批判や偏見に凝り固まったりしていると、御言葉をいくら聞いても正しく理解できないでしょう。まず自分の知識や経験を横に置いて、神が言わんとすることを謙虚に聞き取る姿勢を持つところから始めるなら、イエスは私を罪と滅びから救い出してくださる救い主であり、私の生涯を全責任をもって導いてくださる主権者であることがわかるでしょう。

ルカによる福音書24:44~53「十字架と復活の証人」

2019年5月5日、ルカによる福音書24:44~53「十字架と復活の証人」
本書は、「成就された」(1:1)で始まり、「成就する」(24:44)で終わり、神の約束は「必ずことごとく成就する」という確信で貫かれています。「キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる」ことにより、「その名によって罪のゆるしを得させる悔改め」、救いの道が完成されました。この福音は「エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」ために、弟子たちが「これらの事の証人」として遣わされようとしています。しかし彼らは、弱さや欠けを人一倍持つ者たちです。そんな彼らのために「わたしの父が約束されたもの(聖霊)を、あなたがたに贈る」と言われました。そして約束どおり聖霊が注がれると、臆病な弟子たちがいのちがけで福音を宣べ伝えるようになり、麗しい生活で福音を証しするようになったのです。
あなたにもそのような証人の一人になってほしい。これが、あなたのために御子イエスを犠牲にされた神の何よりの期待です。自分の性格や能力、努力や頑張りではとても証人にはなれないことを正直に認め、「私にも聖霊の恵みが必要です」と祈り求めることです。弟子たちもこの時点では私たちと大差ない存在でした。しかし弟子たちは造り変えられ、大きく飛躍しました。それは、「わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る」という約束を信じて、祈り待ち望み、その約束を実際にいただいたからです。大失敗した「都にとどまって」祈るということは、自分自身の醜い内面・本質から逃げないで、それに向き合うということです。砕かれて十字架を仰ぐとき、あなたも聖霊によって潔められ満たされた、力ある証人とされます。

ルカによる福音書24:13~32「復活のキリストは今も」

2019年4月28日、ルカによる福音書24:13~32「復活のキリストは今も」
①復活のキリストは今も一緒に歩まれる
エマオ途上の弟子たちが「このいっさいの出来事について…語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれ」ました。私たちの人生にも、「悲しそうな顔をして立ちどま」らざるを得ないことが少なくありませんが、そのとき十字架と復活のイエスが「近づいてきて…一緒に歩いて」くださる上、「その話は、なんのことなのか」と相談に乗り、慰め励ましてくださいます。
②復活のキリストは今も聖書を説き明かされる
「わざにも言葉にも力ある預言者でした…望みをかけていました」とすっかり過去のこととして語るほど、また空っぽの墓を見ても復活を信じられないほど絶望していた弟子たちに、イエスは旧約聖書全体から復活の事実を説き明かされました。すると「心が内に燃え」、一度は消え失せていた希望の火が再び燃え始めました。御言葉から離れて目先の現象だけに捕われると、間違いなく失望落胆します。しかし御言葉に聞き入るならば、「心が内に燃え」ることでしょう。
③復活のキリストは今も一緒に宿られる
エマオに近づくと弟子たちは立ち止まりましたが、イエスは「なお先へ進み行かれる様子で」した。そこで弟子たちはイエスを「しいて引き止めて」、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい」と願い、共に食卓を囲むうちに霊の眼が開かれ、このお方こそ復活のイエスであると悟りました。私たちもイエスを心の宿にお迎えして、日々イエスを拝して交わり、イエスをより深く知り、愛し従う者とされましょう。

ルカによる福音書24:1~12「イエス・キリストの復活」

2019年4月21日、ルカによる福音書24:1~12「イエス・キリストの復活」
十字架上に死んで墓に葬られたイエスの御体に香料を塗り、丁重に葬って差し上げようと、女性たちは「週の初めの日、夜明け前に…墓に行った」のですが、彼女たちの前には大問題がありました。墓の入口をふさぐ大石です。彼女たちはこの大石についてずっと話し合いながら墓まで来ましたが(マルコ16:3「話し合っていた」=話し合い続けていた)、それは全く不要な心配でした。すでに「石が墓からころがして」ありました。約束どおりイエスは死を打ち破って復活されたのです。
墓の大石どころではない人類共通の最大の大石、それは罪と死の大石です。この大石を取り除くために罪の全くない神の御子イエスが来臨され、私たちの罪を背負って十字架につけられ、私たちに代わって神のさばきを一身に受けて死なれましたが、三日目に復活されました。十字架がなくては復活の意味はなく、復活がなくては十字架は完成しません(ローマ4:25)。空っぽの墓は、イエスが罪と死に勝利され、今も生きておられる救い主であること、ただイエスを信じるだけで罪赦されるという救いが完成されたことの証明なのです。
十字架と復活によって、神と私たちとを隔てる途方もない罪と死の大石を「ころがして」下さったイエスは、私たちの人生に立ちはだかる大石をも同様に「ころがして」下さるお方です。「ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった」(マルコ16:4)。うつむいて困難ばかりを見つめるのではなく、十字架と復活のイエスに心の目を上げましょう。「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(Ⅱテモテ2:8)。

ルカによる福音書22:54~62「イエスのまなざし」

2019年4月14日、ルカによる福音書22:54~62「イエスのまなざし」
ゲツセマネの園に行く前、イエスが「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう」(マルコ14:27)と言われると、ペテロは「わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」と言い、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と予告されていました(22:33~34)。園で捕縛されたイエスを心配して「ペテロは遠くからついて行った」のですが、それが限界でした。イエスの仲間ではないかと指摘されるたびに否認を重ねて三回目、「たちまち、鶏が鳴いた…主は振りむいてペテロを見つめられた…そして外へ出て、激しく泣いた」。なぜ「激しく泣いた」のでしょうか。
取り返しのつかない大失敗をも包み込んで赦す愛のまなざしに触れて、ペテロは号泣したのでしょう(新聖歌221番)。ペテロ同様イエスを裏切ったユダは、自分の行為をただ後悔しただけで悔い改めることなく、「首をつって死んだ」(マタイ27:5)。しかしペテロは、自分の弱さを正直に認めて悔い改め、再び使命を授けられました(ヨハネ21:16)。「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」(Ⅱコリント7:10)。四福音書すべてがペテロの大失敗を包み隠さず記しているのは、イエスを信じる人生はいつでもやり直し可能であること、イエスの愛と赦しととりなしによって何度でも立ち上がり得ることを私たちに強調したいからでしょう。「私たちが、神の前に自らの罪の責めを感じ、身を低くして立ち帰ってくるとき、そこには怒りの御顔があると思ったのに、意外にも、そこには赦しの御顔があるのです」(ジョン・バニヤン)。

マルコによる福音書10:13~16「幼な子を祝福されるイエス」

2019年4月7日、マルコによる福音書10:13~16「幼な子を祝福されるイエス」
「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに(次から次へと)連れてきた」ので、「弟子たちは彼らをたしなめた」ところ、「イエスは憤り」、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい…神の国はこのような者の国(だから)である」と言われました。幼な子は教えられたことを素直に信じ受け入れますが、大人になると偏見等がしばしば邪魔をします。幼な子はひたすら親に頼りますが、大人になると自力で頑張ることが賞賛されます。幼な子のように自分の罪や弱さ・頼りなさを認めてへりくだり、イエスの十字架を信じ、神により頼んで生きる人こそ、神の国に迎え入れられる人なのです。
「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい」とは、イエスの御心であり、子ども伝道に対する命令、召しです。マタイ18:2では「イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた」とあります。幼な子たちこそ教会の中心だということです。教会の閉塞感と高齢化、教会学校の閉鎖等、多くの教会が行き詰まっていますが、実は、教会の閉塞感と教会から子どもたちがいなくなったこととは同時に起こっていることなのです。教会の中心であるべき子どもたちの存在こそ教会の力であり、教会から子どもたちがいなくなれば、教会に閉塞感がやってくるのは至極当然のことなのです。逆に韓国では1970年代に大リバイバルがありましたが、実はその10~20年前に子どもたちのリバイバルがあり、その子どもたちが成長して大リバイバルを迎えたのです。鍵は「次世代」にあります。「今こそ、次世代への宣教と信仰継承」実現のため祈り働きましょう。


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