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マタイによる福音書12:9~14「手を伸ばしなさい」

2019年3月10日、マタイによる福音書12:9~14「手を伸ばしなさい」
安息日の会堂にイエスが入られると、そこに「右手のなえた人」(ルカ6:6)がいました。「イエスはその人に、『手を伸ばしなさい』と言われ」ると、彼の手は完全に萎えていて伸ばそうにも伸ばせない状態であったはずですが、イエスの言葉に応えて恐る恐る手を伸ばしてみると、何と伸ばすことができ、「ほかの手のように良く」なりました。
「わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる」(イザヤ書46:10)。神の言葉は真実で必ず実現するという確かな保証があるので、目に見える現実がどうであろうとも信じることができるのです(ヘブル11:1)。環境が整ってから等とイエスを信じ受け入れることを先延ばしにしていないでしょうか。治ったから信じたのではなく、まず信じたから治ったのです。祈りの手が萎えて、失望の黒雲に覆われていないでしょうか(Ⅰテモテ2:8「きよい手をあげて祈ってほしい」)。神のために奉仕や財を献げる手が萎えていないでしょうか(14:16「あなたがたの手で食物をやりなさい」)。率先して愛する交わりの手が萎えていないでしょうか(ガラテヤ2:9「交わりの手を差し伸べた」)。そんなあなたに、信仰の「手を伸ばしなさい」とイエスは呼びかけておられます。
いつまでも堂々巡りしていないで、勇気を出して前進すべきではないでしょうか。「どうせ自分は駄目だ」と諦めていないで、イエスに大いに期待して信仰の手を伸ばすべきではないでしょうか。「このわたしを信じて、あなたの萎えた○○の手を伸ばしなさい」と語りかけられているのではありませんか。イエスを信じて信仰の手を伸ばすなら、あなたにも驚くべき神のみわざが始まるに違いありません。

マルコによる福音書1:14~15「悔い改めて福音を信ぜよ」

2019年3月3日、マルコによる福音書1:14~15「悔い改めて福音を信ぜよ」
「時は満ち…神の国は近づいた」今、神の国に入るための条件は、「悔い改めて(心の向きを変える、の意)福音を信」じることです。生まれながらの人間は皆、神に背を向けて生きている罪人です。罪を犯すから罪人なのではなく、生まれながらの罪人だから罪を犯してしまうのです。神に背を向けたまま歩き続けると、神から遠ざかる一方です(マルコ7:21~22)。そうした歩みがいかに人を傷つけ、自分を汚し、神を悲しませてきたかに気づいて、今後は自分中心から神中心に生きようと心の向きを180度変えるのが「悔い改め」です。そのように神に向かって歩み続けると、神にますます近づき、神と共に歩むようになります。これこそ神に造られた人間の本来あるべき姿ですが、実は悔い改めだけでは救われません。罪を悔い改めた上で、「福音」そのものであるイエスを信じるから救われるのです(使徒行伝20:21)。
これは、救われるために必ずしなければならないことですが、その後は必要ないということではありません。地上的な価値観や生き方に支配され、引き戻されてしまいがちな私たちは、神の国完成の時が近いことを覚え、その意識を神の国に合わせて軌道修正する悔い改めの時がどうしても必要なのです。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(Ⅱコリント6:2)。「また、よい機会を得たら」(使徒行伝24:25)と言って、「今」という恵みの「時」を無駄にしてはなりません。「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4:7)、「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」(イザヤ書55:6)。

マルコによる福音書1:14~15「神の国は近づいた」

2019年2月24日、マルコによる福音書1:14~15「神の国は近づいた」
①神の国の到来と完成
「神の国」とは、神の恵みによる支配、という意味です(「御国」「天国」も同意)。エゴとエゴとがぶつかり合う世界、家庭や職場、学校は悲惨です。イエスは、そんな地上に神の国を実現するために来られました。イエスが「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:20~21)、「神の国が力をもって来る(=十字架)」(マルコ9:1)と言われたように、神の国はイエス来臨によって、さらには十字架と復活によって地上に実現し、特にイエスの説教や奇跡、愛と謙遜の中に現れています。またイエスを信じる者の心の「ただ中に」、信仰者の集まりである教会の「ただ中に」も実現しています。しかしいまだ不完全で、その完成はキリスト再臨後のことです(黙示録20:1~21:4)。私たちは、この「すでに」と「いまだ」の間の緊張状態に生かされているのです。
②神の国の完成のために
神の国は信じる者の心の内にすでに実現してはいますが、神の恵みによる支配を心から喜べない自己中心・自我がしばしばトラブルの一因となっています。主の祈りの中の「御国を来たらせたまえ」という祈りは、まず祈る者自身の醜い自我がキリストと共に十字架につけられて死に、キリストが内住されることにより(ガラテヤ2:19~20)、喜んで神に服従できるように、という祈りです。また、福音が全世界に宣べ伝えられた後に再臨があるということは、私たちの怠慢が再臨を遅らせているとも言えます(マタイ24:14)。それゆえ、福音を宣ベ伝えようと決意し、そのために自らを献げる祈りでもあるのです。

マルコによる福音書1:14~15「時は満ちた」

2019年2月17日、マルコによる福音書1:14~15「時は満ちた」
ヘロデ王によってバプテスマの「ヨハネが捕えられた後」(6:14~29)、遂にイエスによる新しい時代が始まりました。14・15節は、イエスの働き・説教の総括です。「時(ちょうどよい時、の意)は満ちた」とは、最初の人アダム堕罪時から計画され(創世記3:15)、度々預言されてきた神の救いは、それを待ち望む期間が終わり、イエスによってちょうどよい時に実現した、ということです。パウロは「時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった」(ガラテヤ4:4)と表現しました。さらにイエスご自身にとっても準備の「時は満ちた」と言えるでしょう。公生涯に立ち上がられるまでの30年間、家計を支えるために大工として朝から晩まで働かれる中で、生きる苦しみや悩みをまざまざと味わわれたイエスにとって(ヘブル2:18、4:15)、私たち罪人に寄り添い、罪や苦しみを引き受ける救い主となるために必要不可欠な準備の「時は満ちた」と言えましょう。
「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」(哀歌3:22)、「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない」(ルカ21:33)。神の愛も御言葉も永遠に変わらないばかりか、「わが口から出る言葉(事件、出来事、の意)も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:11)。神の「言葉」は、私たちの不信仰を突き破って、時が来れば必ず「出来事」になります。絶望と思えるような状況下でも希望が与えられ、道が開かれるのです。聖書はそうした実例で満ちています。神の時はまさにちょうどよい時なのです。

マルコによる福音書1:12~13「イエスも誘惑にあわれた」

2019年2月10日、マルコによる福音書1:12~13「イエスも誘惑にあわれた」
①誘惑の時期
イエスの受洗のときに注がれた御霊が、今度は強制的に「イエスを荒野に追いや」りました。するとそこにサタンの誘惑が待っていました。天から聖霊が下り、神の御声が臨んだ直後、いわば霊的に高められ引き上げられた直後のことでした。順境のときこそ要注意です。
②誘惑の本質
十字架による救いを何とか阻止しようと、サタンはイエスを三度誘惑しました。本質は同じで、自分を第一に考えて、神を隅っこに追いやることです(マタイ4:1~11)。そして今もサタンは、イエスを信じて生きようとする者に対して、あの手この手を使って戦いを挑み、御言葉の約束を疑わせ、神を隅っこに追いやらせようとしています。
③誘惑の撃退
イエスは、サタンの誘惑を神の御言葉によって退けられましたが(申命記8:3、6:16、13)、ただ一人で戦われたのではありません。「天使たち」と父なる神の守りがあったからこそ、獣に襲われることなく「四十日のあいだ荒野にいて」、誘惑に勝利できたのです。サタンは一時的に離れ去りましたが、十字架による救いを台無しにしようと、最後の最後まで執拗に誘惑してきました。このサタンの手ごわさを誰よりもよくご存じのイエスは、「わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい」(ヨハネ17:11)と今も祈っておられます。誘惑にあわれ、誘惑に勝利されたイエスだからこそ、私たちの弱さや苦悩に共感でき、的確な助けの手を差し伸べることができるのです(ヘブル4:15、2:18)。

詩篇121:1~8「うつむかないで目を上げよう」

2019年2月3日、詩篇121:1~8「うつむかないで目を上げよう」
巡礼者が目指すエルサレム神殿の方角を望むと、その旅路の困難さを暗示するかのように山々がそびえていました。思わず「わが助けは、どこから来るであろうか」と自問しますが、山々を見る目を少し上げて大空を仰ぐと、創造主への信仰がみなぎり、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」から大丈夫と確信しました(「守る」が6回)。
①主は眠ることなく守られるから(3~4節)
真っ暗闇の中、野宿するのは心細い限りですが、主は「まどろむこともなく、眠ることもな」く見張りして、野獣や強盗から守って下さると確信しました。今も主は片時もまどろむことなく、私たちの手を握り締め、足がよろめかないよう守っていて下さいます(新聖歌474番)。
②主は右にいて守られるから(5~6節)
主は常に右(保護者の位置)にいて、太陽(熱射病の原因)や月(てんかんや熱病の原因と当時考えられていた)から守って下さると確信しました。信仰によってキリストの花嫁とされた私たちを、親鳥が翼を広げて雛を守るように、全責任と細心の注意をもって守っていて下さいます(詩篇17:8)。
③主はとこしえに守られるから(7~8節)
主は出発から帰郷までのすべてを守って下さると確信しました。罪の奴隷から贖い出された私たちが無事天国にゴールインするまで、信仰の旅路を「今からとこしえに至るまで」守り続けて下さいます。
主日礼拝ごとに心を高く上げて天を仰ぎ、過ぎた一週間の旅路を絶えず主が守って下さったことを感謝しつつ、「わが助けは、天と地を造られた主から来る」と信じて、新しい一週間を踏み出しましょう。

マルコによる福音書1:9~11「あなたはわたしの愛する子」

2019年1月20日、マルコによる福音書1:9~11「あなたはわたしの愛する子」
イエスが「宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時で」(ルカ3:23)、その前に「ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けにな」りました。なぜ罪のない神の御子イエスが「罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ」(4節)を受けられたのでしょうか。それは罪人の私たちと同じ立場に立って連帯責任を負うためでした(ヘブル4:15、2:17)。
イエスがバプテスマを受けて「水の中から上がられると」、三つのことが伴いました。「天が裂けて(イエスによって神の国が開かれた)」、「聖霊がはとのように…下って来(イエスに聖霊の力が注がれた。イザヤ書61:1~3)」、「天から声があった(イエスが神ご自身によって証言された)」。「あなたはわたしの愛する子」とは、イエスは神の御子、王なるメシヤだということ(詩篇2:7)、「わたしの心にかなう者である(新改訳「わたしはあなたを喜ぶ」)」とは、イエスは人の罪を背負う受難の僕だということです(イザヤ書42:1)。王なるメシヤでありながら、僕として苦難を受けるという相矛盾する二つが、イエスにおいて成就するということです。
「天から声があった」のは、イエスが救い主としてまだ何もしておられなかったときのことで、神は、何かをしたからではなく、イエスの存在そのものを喜ばれたのです。イエスが救い主として使命を果たせたのは、この無条件の愛に支えられていたからでもあります。他人がどう言おうと「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43:4)、神は私を受け入れ喜んでいて下さいます。「自己受容とは、自分の弱さや欠点を直視し、弱くて欠点だらけの自分を、それでもかけがえのない自分として受け入れるということです」(片柳弘史師)。

申命記34:1~8「主のしもべの死」

2018年1月13日、申命記34:1~8「主のしもべの死」
モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルは、不従順のために荒野を40年も放浪しましたが、遂に約束の地の手前まで到達しました。主はピスガの頂からモーセに約束の地を見せられた上で、「あなたはそこへ渡って行くことはできない」と改めて言われました。荒野放浪中、飲み水がないことで民がつぶやくと、「岩に命じて水を出させなさい」と主が言われたのに、「モーセは…つえで岩を二度打」って水を出したため、モーセは約束の地に入れないことを宣告されていました(民数記20:2~13)。考え直して下さるようモーセが主に懇願すると、主は「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない」(新改訳)と言われました(申命記3:23~28)。「もう二度と聞きたくない」というよりも、「お前はかたくなな民を導くことでこれまで苦労してきたのだから、もう十分だ。ゆっくり休むがよい」という意味なのではないでしょうか。モーセが約束の地に入れなかったのは、さばきというよりも、主のあわれみによるのでしょう。
「主のしもべモーセは主の言葉のとおりに(新改訳「主の命令によって」)モアブの地で死んだ」。モーセの地上での使命が終わったから、「主の命令によって」召されたのであり、それが約束の地の手前であったということです。「主の命令によって」を直訳すると、「主の口によって」となり、ラビは「主の口づけによって」と訳しました。大震災で召された兄弟姉妹たちも、計り知れない主の深い御旨によって地上の使命を終えたので、主は身をかがめて兄弟姉妹に口づけし、ご自分のもとに迎え入れられたと信じ、主の愛の御手にお委ねしましょう。

ヨシュア記1:1~9「強く、また雄々しくあれ」

2019年1月6日、ヨシュア記1:1~9「強く、また雄々しくあれ」
「主のしもべモーセが死んだ後」、後継者として選ばれたヨシュアは、恐れと不安でいっぱいだったでしょう。実は出エジプトの指導者として召されたときのモーセも同じで、様々な理由をつけて拒んでいました。「与えられた仕事が重く感じられる時、私たちは、心配になったり、緊張したり、不安にかられたりします。『モーセ症候群』にかかってしまい、目の前に立ちはだかるチャレンジを克服するなんてとてもできないと思ってしまいます。このことの間違いは、自分自身を低く評価しているということではありません。むしろ、神様を低く評価していることにあります」(『平安を得るためのヒント100』)。
恐れおののくヨシュアに対して主は、「強く、また雄々しくあれ」と三度も励まされました。それは単なる気休めではなく、確かな保証があっての励ましでした。それは、「モーセと共にいたように、あなたと共におる…あなたを見放すことも、見捨てることもしない…あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ」です。
「神はわれらの避け所また力…悩める時のいと近き助け」(詩篇46:1)と言われる主が「わたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)。主の臨在こそ何ものにも勝る力です。「自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだね」(Ⅰペテロ5:7)、臨在の主を信じ、御言葉に従って歩むなら、「強く、また雄々しくあ」ることができます。試練や困難に直面しても、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)、「あなたは、わたしに従ってきなさい」(ヨハネ21:22)と言われる主に信頼しましょう。

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詩篇119:9~16「御言葉に思いを潜める」

2019年1月1日、詩篇119:9~16「御言葉に思いを潜める」
「心のうちに」何を「たくわえ(宝物や高価なものを隠すように大切に保存する、の意)」るかで、その人の人生が決まってきます。詩人は、神の「み言葉」こそ最も大切に「たくわえ」るべきものと認識していました。神を愛し、神の御言葉に従って生きていくことこそ、神に似せて造られた私たち人間の本分です(伝道の書12:13)。そのことを確認するためにも、毎週の礼拝・祈祷会、日々の御言葉と祈りの時が重要です。そこで語りかけられる御言葉を「心のうちに…たくわえ」ていくのです。
その上で「さとしを思い(黙想する、の意。新改訳「戒めに思いを潜め」)」、牛のように御言葉を反芻し、黙想することが大切です。御言葉をお茶漬けのようにさらさら流し込んでおしまいにするのではなく、祈り心をもってよく噛みしめ、何度も何度も味わいましょう。夜寝る前、今朝読んだ御言葉は何であったか思い出せないのは、朝の御言葉を一度限りのものにしてしまうからです。そうではなく、朝の御言葉を一日のうちに何度も何度も思い起こして口ずさむならば、その御言葉が魂にしっかり刻み付けられ、血となり肉となっていきます。
もし信仰の軌道をはずれかけていれば、御言葉によって軌道修正していただき、自分の不信仰によって神とその力を小さくしていれば、御言葉のレンズによって元通りの偉大な神を見せていただくのです。そうするなら、「罪を犯すことのないように」なるでしょう。「あなたの定めを喜び、あなたのみ言葉を忘れ」ないようになるでしょう。勝利ある信仰生活は、「心のうちにみ言葉をたくわえ」、黙想し、御言葉に信頼するという地道な一歩一歩の積み重ねによるのです。

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