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サムエル記上17:31~49「神による自信と勝利」

2019年1月19日、サムエル記上17:31~49「神による自信と勝利」
①生ける神への信仰
巨人ゴリアテがペリシテ軍の代表として戦いを挑んでくると、サウル王をはじめイスラエル軍は「避けて逃げ、ひじょうに恐れた」のに対して、少年ダビデ(15歳前後)は聖なる憤りを覚え、サウルに「しもべが…戦いましょう」と申し出ました。するとサウルは無謀だと決めつけますが、ダビデはあくまでも勝利を確信してやみませんでした。
サウルもイスラエル軍も神を信じていたはずですが、現実に巨人ゴリアテを目の当たりにすると、信仰を働かせるよりも世の常識を働かせて、勝ち目なしと決め込んだのです。一方のダビデは自分の無力さを認識しつつも、世の常識を働かせるよりも「生ける神」「万軍の主…イスラエルの軍の神」への信仰を働かせました。羊飼いとして羊を猛獣から守るために戦った際、主は共にいて勝たせてくださったように、「この戦いは主の戦いであって」、ゴリアテとの戦いにおいても主は勝利させてくださるに違いないと確信していたのです。
②使い慣れた武器
ゴリアテと戦うためにダビデはサウルの武具を着せられましたが、大き過ぎた上に不慣れでした。そこで武具を脱ぎ捨て、使い慣れた石投げと石を手に戦いに臨み、見事一発でゴリアテを倒しました。
私たちも自分の手にある「武器」・賜物を活用しましょう。賜物は様々ですが、共通の「武器」があります。御言葉と祈りです(エペソ6:17~18)。普段の御言葉と祈りの積み重ねによって使い慣れた武器となっているならば、いざという時の底力となること間違いなしです。

ルツ記1:1~22「なぜなら全能者が私を」

2020年1月12日、ルツ記1:1~22「なぜなら全能者が私を」
飢饉のため、ナオミは夫と二人の息子と共にベツレヘムからモアブに移住しました。しばらくして夫は死に、息子たちはモアブの女性オルパとルツと結婚しますが、やがて息子たちも死にました。飢饉の終わりを耳にして帰郷するナオミは、嫁たちをモアブに留まらせようとしますが、ルツだけは聞き入れませんでした。モアブの偶像に囲まれ育ったルツですが、ナオミ一家が信じている真の神信仰へと導かれていたからです。もしナオミが度重なる試練の中で神を呪い、不平不満でいっぱいの毎日を送っていたなら、ルツがナオミと行動を共にしたかどうかはなはだ疑問です。ナオミの日々の信仰生活は、異邦の嫁ルツに「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です」と証しされるほど麗しいものだったのでしょう。「あなたの神はわたしの神です」と証しされていますか、それとも「神の御名は、あなたがたのゆえに…汚されている」(ローマ2:24)でしょうか。
「全能者がわたしをひどく苦しめられた」とナオミは言いましたが、これは神を恨んだ言葉などではなく、神の主権を認めた言葉です。全能者の前に「アブラムは、ひれ伏した」(創世記17:3)結果、「アブラム」から「アブラハム」に改名され、約束の子イサクが与えられました。「ナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください」と言うナオミは、それでもなお神の主権を認め、神の愛を信じたのです。そのナオミの家系からダビデが生まれ、さらに御子イエスが降誕するという驚くべき祝福にあずかることになります。試練や苦難の中でこそ、「全能者がわたしを」という視点を忘れないようにしましょう。

出エジプト記12:1~14「小羊の血による救い」

2020年1月5日、出エジプト記12:1~14「小羊の血による救い」
モーセはエジプト王にイスラエルを去らせるよう言いますが、王は心を頑なにして拒み、エジプトに災いが下るということが9回も繰り返された後、遂に第十の災いがエジプトに臨みます。「エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打」つというものですが、神の命令どおり小羊の血を「家の入口の二つの柱と、かもいに」塗った家は、「血は…しるしとなり…血を見て…過ぎ越す」ので、災いから守られました。血が塗られていない家にだけ災いが臨みました。
それから約1,500年後、人の子として降誕された御子イエスは、十字架上で血を流して死なれました。このイエスこそ「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)、私たちを罪と滅びから贖う救い主です。クリスチャンホームに生まれたから、毎週礼拝しているから自動的に救われるわけではありません。人は皆、生まれながらに罪人です。罪を持ったままでは、永遠の滅びを刈り取ることになります。だからこそイエスが代わりに十字架につけられて死んでくださったのです。十字架はこの私の罪の身代わりであったと信じる信仰によって罪赦され、「血は…しるしとなり…血を見て…過ぎ越す」のです。
神は「その父の家ごとに…一家族に小羊一頭を」と言われました。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒行伝16:31)とあるように、神は家族の救いを願っておられます。あなたの家族は今どこで何をしていますか。「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」(マルコ5:19)。

イザヤ書41:8~16「恐れてはならない」

2020年1月1日、イザヤ書41:8~16「恐れてはならない」
①神の選びのゆえに恐れるな(8~9節)
アブラハムを選ばれた神は、「天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び」(エペソ1:4、ヨハネ15:16)、十字架と復活によって罪と滅びから救い出し、「高価で尊い」「宝の民」としてくださいました(43:1、4、申命記7:4)。アブラハムを「選んで捨てなかった」神は、私たちをも「選んで捨て」ず、最後の一息まで責任を持って導かれます。
②神の臨在のゆえに恐れるな(10ab節)
人生には「水の中…川の中…火の中」を行くような試練に遭うことがあります(43:2~3)。しかしその試練の真っ只中でも、天地万物の創造者・統治者である神は、「決してあなたを離れず、あなたを捨て」ず(ヘブル13:5~6)、「世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」のです(マタイ28:20)。いざというとき真に頼り得るのはこの臨在の神のみです。
③神の助けのゆえに恐れるな(10c~16節)
神は私たちを「強くし…助け」てくださる、「悩める時のいと近き助け」(詩篇46:1)です。「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)。神により頼むとき不可能が可能となり、不思議と道が開かれていきます。かつて「勝利の右の手をもって」紅海の水をせき止められた神は、「勝利の右の手をもって、あなたをささえ」てくださいます(出エジプト15:6、12、申命記33:27)。「虫にひとしい」私たちを、神は「鋭い歯のある新しい打穀機」に造り変え、試練や困難の「山を打って、これを粉々にし、丘をもみがらのように」し、乗り越えさせてくださいます。それゆえ恐れる必要などないのです。

詩篇103:1~22「主の恵みを忘れるな」

2019年12月29日、詩篇103:1~22「主の恵みを忘れるな」
ここで詩人は嘆願等を一切せず、「そのすべてのめぐみを心にとめよ(新改訳「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」)」と言います。主の恵みを想起しつつ、ただひたすら主に感謝し、主を賛美しています。
詩人が体験した主の恵みの第一は、「あなたのすべての病をいやし」。アダムの不従順によって全人類に罪が入り込み、人は病気になり、死ぬべき存在となりました(創世記 第3章)。しかしイエスの十字架と復活は、罪を赦し、病を癒し、永遠のいのちで生かしてくださいます。病の癒しも確かに感謝ですが、実は主の癒しの御手が時々刻々働いて癒され続けているからこそ健康でいられるのです(出エジプト記15:26、詩篇41:3)。そのことをもっともっと感謝すべきでしょう。
第二は、「あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる」。主に信頼する私たちを、主は今年も御言葉の約束通り守り支えてくださいました(詩篇23:1、マタイ6:33)。それは決して当たり前のことではないことを再確認し、深く感謝しましょう。
第三は、「主はあなたのすべての不義をゆるし」。罪の赦しは、あらゆる主の恵みの中でも最大最高の恵みですから、詩人は真っ先に数え挙げています。「主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる…常に責めることをせず、また、とこしえに怒りをいだかれない…われらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられない」お方だからこそ、イエスを信じる者を「東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる」、完全に罪を赦してくださるのです。

ヨハネによる福音書3:16~21「神の愛の贈り物」

2019年12月22日、ヨハネによる福音書3:16~21「神の愛の贈り物」
①神の愛の事実…「神は…この世を愛して下さった」
最初に「神は」とあり、聖書の冒頭にも「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)とあるように、永遠の初めから存在される唯一真の神が天と地とその中に満ちるすべてのもの、もちろん私たち人間も創造されました。この神は、背く者や愛するに値しない者をも「高価で尊い」存在として愛さずにはいられない愛なる神です(イザヤ書43:4)。
②神の愛の程度…「そのひとり子を賜わったほどに」
神と共に永遠の初めからおられた「ひとり子(イエス・キリスト)」は、約2000年前、天の栄光をかなぐり捨てて罪と汚れに満ちた地上に人の子として降誕された上、その最期は十字架刑でした。神は、大切な「ひとり子」が地上でどんな目に遭うかを重々承知の上で、惜しみなく与え尽くすほどに「この世(私たち一人ひとり)を愛して下さった」のです。
③神の愛の目的…「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」
「ひとりも滅びないで」とは、裏を返せば、人は皆そのままでは滅びるべき存在だということです。創造主なる神に背いて生きてきた罪人だからです。罪は罪としてさばかずにはいられない義なる神は、罪人が永遠に滅びるのを看過できない愛なる神でもあります。そこで神は、御子に全人類の罪を負わせて十字架につけ、罪人をさばく代わりに御子をさばくことで、「永遠の命を得る」道を開かれました。この救いを得るのに必要なのは、罪の悔い改めと「御子を信じる」信仰のみです(使徒行伝20:21)。神の愛をこれ以上拒絶し、御心を悲しませてはなりません。神の愛の贈り物イエスを信じ受け入れましょう。

詩篇96:1~13「主は再び来られる」

2019年12月15日、詩篇96:1~13「主は再び来られる」
①主は創造主であるから賛美せよ
天地万物は偶然にできたのではなく、「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)。唯一真の神が造られ、私たち人間もこの神に造られ生かされています。「主はもろもろの天を造られた」「もろもろの神(偶像の神々)にまさって恐るべき者である」から、ほめたたえるのです。
②主は王であるから賛美せよ
天地万物を創造された主は、それらを統治する全宇宙の王でもあります。この王なる主を度外視する罪こそ不幸の最大原因で、この罪を解決するために神の御子イエスは降誕され、十字架と復活による救いを完成されたのです。このイエスを信じ受け入れるなら、世がいかに激しく揺れ動こうとも決して「動かされることはない」のです。
③主は再臨されるから賛美せよ
全人類を罪と滅びから救うために来臨されたイエスは、もう一度この世に「来られる」、今度は「地をさばくために来られ」ます。イエスの救いを拒んだ者は永遠の滅びを刈り取りますが、イエスを信じた者は天国に迎え入れられます(ローマ6:23)。神が私たちを愛するがゆえに御子イエスを惜しみなくプレゼントしてくださった日、それがクリスマスです。想像を絶する神の愛を拒み、神を悲しませることのないようイエスを信じましょう。さらに「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」(哀歌3:22)ことを感謝し、「新しい歌を主にむかってうた」うとともに、「日ごとにその救を宣べ伝えよ」うではありませんか。

マタイによる福音書2:1~12「喜びにあふれるクリスマス」

2019年12月8日、マタイによる福音書2:1~12「喜びにあふれるクリスマス」
①ヘロデ王の礼拝
東方の博士たちが、降誕された救い主を「ユダヤ人の王」と呼んだため、ヘロデ王は「不安を感じ」、「その幼な子のことを詳しく調べ…知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」と言うものの、実は憎きライバルの抹殺を企んでいました。権力や目に見えるものを人生の第一の価値として礼拝するヘロデは、世の多くの人々の姿でもあります。
②博士たちの礼拝
今までにない星が夜空に輝くのを見た「博士たち(新共同訳「占星術の学者たち」)」は、救い主誕生のしるしと確信し、千㎞以上もの長旅を経て、遂に救い主にお会いしました。博士たちは救い主を「ひれ伏して拝み」、非常に高価な「黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげ」ました。
人が真に幸いな人生を送ることができない最大原因は、創造主なる神を神としない的外れの罪にあります。御子イエスはこの罪を解決するために降誕され、十字架と復活によって救いを完成されました。「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」(イザヤ書41:10)。イエスを救い主と信じるなら、神は「あなたと共にい」て、「あなたを強くし…助け…ささえ」てくださいます。マイナスと思えるようなことでも、御子を十字架の死にまで渡された愛なる神は「共に働いて、万事を益となるようにして下さ」います(ローマ8:28)。イエスを信じて、「非常な喜びにあふれ」る人生に入れていただきましょう。

詩篇113:1~9「身を低くしてご覧になる主」

2019年12月1日、詩篇113:1~9「身を低くしてご覧になる主」
詩人は「主のしもべたち」に、「今より、とこしえに至るまで」永遠に、「日のいずるところから日の入るところまで」全世界で、「主をほめたたえよ」と呼びかけます。その理由が4節以下に記されています。主は「天よりも高い」ところに座しておられ、「くらぶべき者はだれ」もない超越したお方だからです。ソロモンは「神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです」と祈りました(列王紀上8:27)。そのような主が「遠く天と地とを見わたされる(新改訳「身を低くして天と地をご覧になる」)」。「天よりも高い」ところに座しておられる主は、徹底的に「身を低くして」被造物と関わってくださるお方だからです。主は、「ちり…あくた」の中で苦悩する「貧しい者…乏しい者」や「子を産まぬ女」を、腕組みして天から眺めるだけの傍観者ではなく、実際に親身になって関わってくださるお方です。
このことが文字通り成就したのがクリスマスの出来事です。私たち罪人を救うために、御子イエスはまさに「身を低くして」地上に人の子として降誕されました。人生のあらゆる苦悩を味わわれたイエスは、病に苦しむ者や罪に悩む者等に寄り添われました(ヘブル4:15)。姦淫の現場を押さえられ、恥ずかしさと死の恐怖に打ち震える女性に、イエスは「身をかがめて」寄り添い、罪の赦しを宣告されました(ヨハネ8:1~11)。イエスは今も、人生に悩み苦しむ者や罪に苦悶する者に寄り添い、共に生きようとしておられます。そして再び引き上げ、勝利を与え、喜びを回復したいと願っておられる救い主なのです。

マルコによる福音書4:35~41「向こう岸へ渡ろう」

2019年11月24日、マルコによる福音書4:35~41「向こう岸へ渡ろう」
イエスと弟子たちがガリラヤ湖の「向こう岸へ渡ろう」としたところ、今まで経験したことのないような「激しい突風」に遭遇しました(ガリラヤ湖は地中海の海面より210㍍も低く、500~600㍍の山々に囲まれている、すり鉢状の地形の底にあるため、突然の嵐がしばしば発生)。「舳の方でまくらをして、眠っておられた」イエスに弟子たちは、「わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と不満をぶつけ、イエスが「『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎにな」りました。イエスは、病を癒したり悪霊を追い出したりするだけでなく、自然界をも支配する全宇宙の王であることが証明された瞬間です。
そもそも「向こう岸へ渡ろう」と言ったのは、弟子たちではなくイエスご自身でした。イエスのご命令で出発した舟ですから、最後までイエスが責任をもってくださるはずです。しかも舟にはイエスご自身も乗っておられました。それなのに「どうしてそんなにこわがるのですか。まだわたしが信じられないのですか」(リビングバイブル)。
思わぬ人生の嵐に見舞われたとき、私たちも弟子たちのように悲観主義に陥って神を疑い、「どこにおられるのですか。何をしておられるのですか」と文句を言いがちです。そんな私たちに「どうしてそんなにこわがるのですか。まだわたしが信じられないのですか」「わたしはあなたと共にいる。わたしに信頼しなさい。わたしがあなたの人生の大嵐を鎮めてあげよう」と語りかけておられます。神への信頼で満たされて一日を始めるのと、不安と恐れに支配されて始めるのとでは大違いです。朝の御言葉と祈りの時間を大切にしましょう。

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