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ヨブ記1:20~22「主は与え、主は取られる」

2021年1月17日、ヨブ記1:20~22「主は与え、主は取られる」
「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」ヨブでしたが、一日のうちに子や僕、家畜等を失いました。それでもヨブは信仰によって再び「起き上がり…地に伏して拝し」、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と言いました。人は神に全面的に依存しなければ生きていけない無力な存在であることを認め、ただ神が神であるがゆえに、神を信じ畏れることを止めませんでした。このヨブの姿は私たちに、「あなたにとって神を信じるとは、神を礼拝するとはどういうことか」と問いかけます。また、私たちは所有者ではなく管理者に過ぎないことを謙虚に認めるよう迫ります。
義人がなぜ試練にあって苦しまなければならないのか、これが本書の中心主題です。ヨブには苦難の理由が最後まで知らされなかったように、私たちを襲う試練や苦難の意味や理由も、この地上では完全には理解できないでしょう。それゆえ理由のわからない苦難に直面しても、自分を責めたり神を恨んだりしてはなりません。御子イエスを十字架の死に渡すほど私たちを愛しておられる神が、どうして意味もなく私たちを苦しめたりなさるでしょうか。どんなに辛く苦しいときでも、常に神は私たちの味方です。この神にどこまでも信頼するよう本書は私たちに語りかけているのです。「わたしの愛する子よ。あの阪神・淡路大震災を、またあの試練をよくぞ耐え忍んで信仰を守り通してくれた。わたしの誇りだ、喜びだ。これからもその信仰を貫き通してほしい」と主は称賛されていることでしょう。

ルカによる福音書1:5~24「あなたの願いが大きくされたのです」

2021年1月10日、ルカによる福音書1:5~24「あなたの願いが大きくされたのです」
子どもの誕生をひたすら祈っていたザカリヤ夫妻ですが、「有名になる子どもを…」などとは祈らなかったでしょう。そんなザカリヤに御使は「あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう」と告げたばかりか、その子は人々が約束の救い主を信じ受け入れるための道備えをする者になる、というのです。
無名で平凡な祭司ザカリヤ夫妻にとって、日々の祈りのほとんどはごくごく個人的なものに過ぎなかったでしょう。しかし神は、神の民イスラエルの祝福のために、全人類の祝福のために、夫妻の祈りをはるかに超えて答えられたのです。サムエルの母ハンナもそうでした。ハンナは子どもが欲しい一心で祈っていたのであって、歴史を動かすような偉大な人物の母になりたいなどと考えていたわけではありません。しかしこのハンナの祈りがサムエルの誕生につながり、サムエルは最暗黒時代のイスラエルに希望をもたらす存在となったのです(サムエル記上 第1章)。当教会の地区会もそうです。願いにはるかに勝ることを、神は地区会を通して行ってくださいました。
コロナ禍によって「すべての教会活動が休止を余儀なくされたことを、強制終了ではなく、神がリセットボタンを押されたと受け止めたい…もう以前には戻れないし、単純に戻ろうとしてはならない。神様は何を変えようとされているのか」、「元の状態に戻るよりも、新しい変化が必要である」(『クリスチャン新聞』『時報』)。神は最も良い時に最も良い方法で、しかも驚くような広がりをもって祈りに答えてくださることを信じて、神に大いに期待して祈り続けましょう。

ルカによる福音書1:5~24「あなたの願いが聞かれたのです」

2021年1月3日、ルカによる福音書1:5~24「あなたの願いが聞かれたのです」
祭司ザカリヤと妻エリサベツは「神のみまえに正しい人で」したが、「子がなく…すでに年老いてい」ました。そんなある日、ザカリヤが神殿の聖所で香をたいていると御使が現れ、「あなたの祈が聞きいれられたのだ」と言われました。その言葉通り、「そののち、妻エリサベツはみごもり…月が満ちて、男の子を産んだ」のです。この子こそバプテスマのヨハネで、イエスの前に現れて道備えをする人物です。
ザカリヤ夫妻は「子どもを与えてください」と祈り続けていたでしょうが、ある年齢を境に諦め、そう祈るのを止めてしまっていたと思われます。しかし神は彼らの祈りを覚えておられました。神が祈りにお答えになるのは、神の「時」が満ちたときです。それは私たちが期待する「時」とは違うかもしれませんが、すべてを見通しておられる神にとっては、その「時」こそ最高最善のタイミングなのです。ザカリヤ夫妻の場合も、イエスのご降誕に合わせて、神は夫妻に子どもを与える「ちょうど良い時」を待っておられたのです。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11)、「神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます」(Ⅰペテロ5:6、新改訳2017)。すべての背後には神がおられ、最善の時に最善の方法で実現するよう、万物を総動員して絶えず働いておられるのです。
常識を超えて信仰を働かせ、神の御言葉を信じるのが信仰です。信仰は「超」常識です。御言葉は「時が来れば成就する」ことを信じて祈り続けましょう(イザヤ書55:11)。「恐れるな、○○よ、わたしはあなたの祈りを確かに聞いている」と神は私たちにも語っておられます。

エレミヤ書29:10~14「平安と将来と希望を与えるご計画」

2020年12月27日、エレミヤ書29:10~14「平安と将来と希望を与えるご計画」
バビロン捕囚となって絶望するイスラエルにエレミヤは、捕囚の地で腰を落ち着けて生活するよう勧めました。「バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る」からです。でもなぜイスラエルにバビロン捕囚という悲劇が襲ったのでしょうか。それは、イスラエルが神の民として本来あるべき姿を回復するためでした。律法に背き偶像崇拝に堕していたイスラエルに、神はエレミヤ他の預言者を遣わして悔い改めのチャンスを与えられましたが、イスラエルは心をかたくなにして背き続けため、神はバビロン捕囚というさばきを下されたのです。しかしそれは「災を与えようというのではなく、平安を…将来を…希望を与えようとするもの」でした。具体的には、「あなたがたの祈を聞く」、祈りの回復です。「あなたがたに会う」、礼拝の回復です。「あなたがたの繁栄を回復し」、祖国の回復です。人の目には「災」と思えることであっても、神はさらに深いご計画をもって導いておられるのです。今のコロナ禍も例外ではないでしょう。
私の人生にご計画を持っておられる神は、決して失敗なさいません。私を造られた神は、この私のことを誰よりもよくご存じで、しかも御子イエスを十字架の死に渡されるほど、この私を愛しておられるお方です。万事の背後には神の愛のご計画があり、意味があることを信じましょう。「何か大きな問題や困難に出合った時…『なぜ?』という問いかけから、神さまの御業、ご計画に期待して、この出来事を通して『何を?』と祈り求めていきましょう」(松本雅弘師)。

ピリピ人への手紙2:6~8「クリスマスの心」

2020年12月20日、ピリピ人への手紙2:6~8「クリスマスの心」
最初の人アダムは「神のように善悪を知る者」になりたいと考えて不従順の罪に陥りましたが(創世記3:5~6)、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを」惜しみなく捨て、「おのれをむなしうして」私たちと同じ人となられました。人から礼拝され仕えられるべきキリストですが、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり」と言われたとおり(マルコ10:45)、人に仕える「僕のかたちをと」られました(ヨハネ13:1~5)。キリストは、罪の性質を除いては完全に「人間の姿になられ」、人間が味わうべき疲労や空腹、試練や苦悩を体験されました(ヨハネ4:6~7他)。このように「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができる」のです(ヘブル2:17~18)。以上より、「その有様は人と異ならず」、約束の救い主とはとても思えない存在でしたが、「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられ」ました。キリストは全人類の罪の身代わりとして十字架上で死なれましたが、神はキリストを復活させ、キリストを信じるだけですべての罪が赦される救いを完成されたのです。
人は皆、神から遠く離れて人生の意義も目的も見失い、滅びるべき存在ですが、キリストの十字架によって、本来私たちに降りかかるべき刑罰が、もはや信じる者には及ばなくなりました。私たちにとってはこの上なく「喜ばしい交換」(ルター)ですが、キリストはこの交換のために莫大な犠牲を払われました。それはひとえに私たちを愛するがゆえの降誕であり、想像を絶するへりくだりだったのです。

ヨハネによる福音書14:1~7「準備ができたら、迎えに来ます」

2020年12月13日、ヨハネによる福音書14:1~7「準備ができたら、迎えに来ます」
イエスが世を去る日が近いこと等を聞いて「心を騒がせ」ていた弟子たちに、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい…わたしは道であり、真理であり、命である」とイエスは言われました。人は皆、神に造られ生かされているにもかかわらず、「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)。この的外れの罪のために神との交わりが断絶されています。イエスはこの断絶を解消するために来臨されたのです。私たちの罪を赦して神との交わりを回復し、天のすまいに迎え入れるために、イエスは人々に踏みつけられることを覚悟の上で来臨され(ヘブル語の「道」という語は、「踏みつける」という意味の動詞の派生語)、十字架の苦しみを味わい尽くされました。あの十字架のイエスは、私たちの罪のために踏みつけられた姿そのものです。イエスこそ、信じる者を天のすまいへと導き入れる救いの「道であり、真理であり」、永遠の「命」を与えるお方で、「この人による以外に救はない」(使徒行伝4:12)のです。私たちの魂の港とも言うべき天のすまいを持っている人は、究極の希望・永遠の祝福を持っているので、大きな試練や困難が襲いかかってきても、「心を騒がせない」で耐え忍ぶことができるのです。
約2000年前、十字架と復活による救いを成し遂げるために初臨されたキリストは、「またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう」との約束どおり、いつか必ず再臨され、救いを完成されます(黙示録21:1~4)。私たちが帰るべき最も安心できる場所は「父のみもと」です。そこに迎え入れられる「最高の日」を目指して歩み続けたいものです。

ヨハネによる福音書1:14~18「クリスマスの冒険」

2020年12月6日、ヨハネによる福音書1:14~18「クリスマスの冒険」
「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った(天幕・幕屋を張って住む、の意)」とは、約2000年前、神の御子キリストが人の子として罪と汚れに満ちた地上に来臨された受肉降誕を指しています。出エジプト後、約束の地を目指して荒野を旅するイスラエルにとって、天幕は移動式の住居、幕屋は移動式の礼拝堂でした。「雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ち」(出エジプト記40:34)、神が幕屋に宿り、神が民と共におられる臨在が実現したのです。そして時満ちてキリストは、人々が見たり聞いたり触ったりできる肉体をとってこの地上に宿り、歩まれました(Ⅰヨハネ1:1)。神でありながら人となられ、「わたしたちと同じように試錬に会われた」からこそ、キリストは「わたしたちの弱さを思いやることのでき」るお方なのです(ヘブル4:15)。
しかしなぜキリストは受肉降誕されたのでしょうか。それは、人に「神をあらわ」すためであり、罪による滅びから救い出すためでした。父なる神の「ふところに」おられたキリストだからこそ、目に見えない神がどのようなお方であるか「あらわ」すことができるのです。キリストは、その生涯と人格、言葉とわざを通して神を「あらわし」(ヨハネ14:9、ヘブル1:1)、遂には十字架と復活によって救いのご計画を完成されました。神が人となるだけでも冒険ですが、死ぬために来臨するとは大冒険も大冒険。このキリストを信じるなら、キリストがその人の内に宿り、試練や苦悩の尽きない冒険人生を共に歩む同行者・道案内になってくださいます。それゆえどんなことがあっても大丈夫、「これらすべての事において勝ち得て余りがある」のです(ローマ8:37)。

ホセア書11:8~9「どうして見捨てられようか」

2020年11月29日、ホセア書11:8~9「どうして見捨てられようか」
「イスラエルの幼い時」、すなわち神の選民として歩み始めた当初から、神はイスラエルを愛し、奴隷状態にあった「エジプトから呼び出し」、約束の地カナンに導き入れられました(1節)。ところがイスラエルは神の愛を忘れて「遠ざかり」、偶像礼拝に傾いていきました(2節)。それでも神は、父が「わが子」を愛するように振る舞ってこられましたが、イスラエルはますます自分勝手な道に突き進むので、さすがの神もアッスリヤを用いてさばこうとされました(5~7節)。しかしいざさばきを下そうとしたとき、神は愛する民をさばくには忍びなくなり、「どうして…捨てることができようか…渡すことができようか…」と繰返し叫ばれました。罪は罪として罰せずにはいられない神の義と、それでもなお愛さずにはいられない神の愛。相矛盾する二つの間に板挟みとなった神の自己分裂の末、「神であって、人ではなく…聖なる者だから」、遂に神の義よりも神の愛が勝利したのです。
「どうして」と叫ばれた神は、時満ちて御子イエスを降誕させ、イエスに全人類の罪を背負わせ、十字架上で「どうして…お見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばせることで神の義は満足させられ、その御子を信じる者を赦すということで神の愛も満足させられました。十字架はまさに「神の義と愛の会えるところ」(新聖歌230番)、神の「どうして」という自己分裂を解消する唯一の手段だったのです。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵み…あわれみ」のゆえです(哀歌3:22)。どんなに不従順な者であっても愛さずにはいられない神は、どこまでも捜し求め、抱き抱え、天国に招き入れようとされるのです。

マルコによる福音書8:11~13「天からのしるしがあっても」

2020年11月22日、マルコによる福音書8:11~13「天からのしるしがあっても」
パリサイ人たちはイエスに「天からのしるし(新改訳2017注「証拠としての奇跡」)を求め」ました。それ自体は罪でも何でもなくても、問題はその動機です。自分たちも信じたいから証拠を見せてほしいというのではなく、「イエスを試みようと」、貶めようとする挑戦的な求め方でした。もちろんイエスは拒絶されましたが、ただそれだけではありません。拒絶してもなおパリサイ人たちを切り捨てるこができず、あわれまずにはいられませんでした。だからこそ「イエスは、心の中で深く嘆息(新改訳2017「深くため息をついて」)」されたのです。確かにイエスは頑なな彼らに対して「しるしは今の時代には決して与えられない」と言われましたが、「救いは今の時代のあなた方には決して与えられない」とは言っておられません。あなた方にも是非気づいてほしい、そして信じてほしい、というイエスの熱い思いの表れです。
イエスは、目に見えない神がどのようなお方であるかを見せるために人の子として来臨されました(ヨハネ1:18)。わざわざしるしなど求めなくても、パリサイ人たちの目の前にはしるしに勝るイエスがおられました。そして今の私たちには十字架と復活という最高最大のしるしがあり、イエスについて記した聖書があります。素直な心さえあれば、イエスこそ真の救い主だとわかり、信じて救われることができます。しかし第三者の立場に立って眺めている限りは、何の変化もないでしょう。第三者の立場から当事者の立場に変わる勇気と決断が必要です。放蕩息子のように(ルカ15:11~32)、気づいたら躊躇しないですぐ方向転換する、思い切って飛び込んでみることです。

マルコによる福音書8:1~10「忘れっぽい私たち」

2020年11月15日、マルコによる福音書8:1~10「忘れっぽい私たち」
「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない」と言われるイエスに、「こんな荒野で、どこからパンを手に入れて、これらの人々にじゅうぶん食べさせることができましょうか」と弟子たちは答えました。前回同様(6:30~44)、手元にあるわずかなものだけに目を留めて無理だと考える、少しも成長していない弟子たちの姿を通して、あなたも過去の恵みをいとも簡単に忘れ去っているのではないか、と語りかけているのです。
出エジプト後の荒野放浪生活の終わり頃、モーセはイスラエルに「この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」(申命記8:4)、絶えず神の守りがあったことを語りました。御子イエスの十字架の血によって贖い取られた私たちに対しても、神は底抜けに気前の良いお方だったはずです(新聖歌18番2節「主は贖い 成し遂げて 御名に頼る 人びとの 罪はいかに 深くとも 赦し与え 助け給う」)。それゆえ、何かあるたびに思い煩ったり右往左往したりすることから、もうそろそろ卒業しようではありませんか。もし今度そうなりそうになったときには、これまで主がどんなに恵み祝福してくださったか、必要な助けを与えてくださったか、静かに思い起こすことです。そのためにも、毎週の礼拝や日毎の静思の時を大切にしましょう。
繰り返されることは恵みです。自分の弱さを克服して飛躍するチャンスです。あなたの「信仰が大いに成長し…互いに対する愛が増し加わっている」(Ⅱテサロニケ1:3、新改訳2017)ことが何よりの喜びだ、と神から言われるような信仰者に成長させていただきたいものです。

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