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詩篇100:1~5「私たちは牧場の羊」

2020年7月5日、詩篇100:1~5「私たちは牧場の羊」
詩人は「全地」に向かって「喜びをもって…歌いつつ…感謝しつつ…ほめたたえつつ」神を礼拝するよう招いています。それはなぜか。
①主は神であるから(1~3節)
神に造られながら、「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)私たち人間に、真の神を教え、神のもとに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。この私を愛し、罪を贖うために死なれた十字架のイエスを仰ぎ見るとき、「われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」と告白し、心から喜んで礼拝することでしょう。
②主は恵み深いから(4~5節)
「恵み…いつくしみ…まこと」は、契約における神の姿勢を表す重要語です。本篇は、バビロン捕囚から帰還後、神殿を再建・奉献した際に歌われた詩であろうと言われています。そのときイスラエルはきっと思ったことでしょう。主はよくぞこんな強情な羊をも見捨てず、「恵み…いつくしみ…まこと」の限りを尽くして導き続けてくださったものよ、と。そうして喜びと感謝に満ちて礼拝したことでしょう。
イスラエル同様、何度も何度も主に背いてきた私たちが今なお礼拝の民とされているばかりか、これまで「耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さ」いました(Ⅰコリント10:13)。すべては主の「恵み…いつくしみ…まこと」以外の何ものでもありません。そのことを思えば、主を愛し、主を礼拝せずにはいられないはずです。

詩篇23:6「主は私の羊飼い、恵みが追って来る」

2020年6月28日、詩篇23:6「主は私の羊飼い、恵みが追って来る」
順境の日も逆境の日も、「わたしの生きているかぎりは(直訳「私の生涯のすべての日々」)必ず恵みといつくしみとが伴う(新改訳2017「追って来る」)でしょう」。「恵みといつくしみ」は、主の契約に対する真実な姿勢を表す重要語です。神の愛は、「もし~」という条件付きの愛でもなければ、「~だから」という状況次第の愛でもありません。「でも」の愛です。「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である」(Ⅱテモテ2:13)。イスラエルがいかに「不真実であっても」、実際、不真実だらけでしたが、それ「でも」主は契約のゆえに主の側の「真実」を変えようとせず、契約を守り通されました。その最大の証拠が、約束の救い主イエスの来臨、十字架と復活による救いでした。
以前は「必ず恵みといつくしみとが伴う」人生とは無縁の者で、「自分の罪過と罪とによって死んでいた者…生れながらの怒りの子」(エペソ2:1~3)でした。「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし」(エペソ2:4~6)、主ご自身と「恵みといつくしみ」とにサンドイッチされるようにして歩んでいます。だからこそ、「死の陰の谷」や「敵の前」を乗り越えることができたのです。
それゆえ、「主の宮」で主を礼拝することが何よりの喜びであり、「やがて、私は主の家に着き、いつまでもおそばで暮すこと」(リビングバイブル)を切望するのです(ピリピ1:23)。やがて死によって地上生涯を終えますが、イエスを信じて「永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47、新共同訳)者は、主と共に生きる場所が地上から天上に変わるだけなのです。

詩篇23:5「主は私の羊飼い、敵前でも杯はあふれる」

2020年6月21日、詩篇23:5「主は私の羊飼い、敵前でも杯はあふれる」
主と共に歩む「正しい道」であっても、いつも平坦な道ばかりではありません。ときに「死の陰の谷」もあれば「敵の前」もありますが、そのようなときにも「わたしの杯はあふれます」。しかしそのためにイエスは、苦い「杯」を飲み干してくださいました。ゲツセマネの園でイエスは、神の怒りの杯を飲むか飲まないか苦悶しながら祈られた末、全時代・全人類の罪を背負って十字架につけられ、神のさばきを一身に受けて死なれ、救いを完成してくださいました。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(Ⅱコリント5:21)。イエスの苦悶は、この私の罪のための苦悶であり、信じる者に「わたしの杯はあふれます」という恵みを与えるための苦悶だったのです。
私たちの人生にも様々な「敵」が次から次へと出現しますが、「これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」(ローマ8:37、新改訳2017)。イエスを信じて神と和解し、神を味方とするようになった人は、「敵の前で」「敵をよそに」(新改訳2017)、神の大切な友として豊かなもてなしを受け、慰め励まされます。目の前の戦いはすでに決着済み、勝利は確定済みなのです。私たちのために大切な御子イエスを惜しみなく十字架の死に渡されるほど私たちのことをこよなく愛しておられる神が、様々な戦いにも勝利させてくださる、しかも余裕しゃくしゃく「圧倒的な勝利者」とさせてくださるのです。共に戦ってくださる主がおられること、主は「敵」よりも偉大なお方であることを常に覚えていましょう。

詩篇23:4「主は私の羊飼い、死の陰の谷も恐れない」

2020年6月14日、詩篇23:4「主は私の羊飼い、死の陰の谷も恐れない」
荒野には危険な「死の陰の谷」がありますが、羊飼いは羊たちと常に「共に」いて、「むちと…つえ」を用いて敵から羊たちを守りました。
「死の陰の谷」や「わざわい」の全くない人生などあり得ません。詩人が「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません」と宣言するのは、「あなたがわたしと共におられるからです」。親や友もありがたい存在ではありますが、いつでもどんな場合でも頼りになるわけではありません。しかし「水の中…川の中…火の中」を行くようなときにも、天地万物の創造者・支配者なる主は、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ、…わたしはあなたと共におる」と言われます(イザヤ書43:1~3)。しかも、復活のイエスが「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言われたように、時々ではなく「世の終りまで、いつも…共に」いてくださるのです。
「聖書のどこを開いても聞こえてくる三つのメッセージがある。それは、『愛している』『共にいる』『恐れるな』の三つである」(岸本望師)。主はこの私を愛し、私と共にいてくださるから恐れる必要はない、という聖書の中心的な約束を自分のものとするために必要なものは、ただ信仰のみです。罪を悔い改め、イエスの十字架を信じるならば、神との間を隔てている罪が取り除かれ、「愛している」「共にいる」「恐れるな」という聖書の約束が真に自分のものとなります。そうすると「死の陰の谷を歩むとも」恐れる必要などありません。主は「死の陰の谷」も共に歩んで、無事乗り越えられるよう助けてくださるからです。

詩篇23:3「主は私の羊飼い、義の道に導かれる」

2020年6月7日、詩篇23:3「主は私の羊飼い、義の道に導かれる」
羊飼いは羊たちを「緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴」いますが、ふとしたはずみで迷い出やすい羊を、羊飼いは「いきかえらせ…正しい道に導」きます。羊と同じように自分勝手な道を歩みやすい私たちをも、主は「正しい道(新改訳2017「義の道」)に導かれる」お方です。
「わたしの歩みはあなたの道に堅く立ち、わたしの足はすべることがなかったのです」(17:5)。主の道は、「すべることがなかった」確かな道です。「あなたの道にはあぶらがしたたる」(65:11)。主の道には、祝福の「あぶら」がしたたり落ちています。このように祝福に満ちあふれる「正しい道」ですが、いつも平坦な道ばかりではありません。「死の陰の谷」のような道もあれば、「敵の前」のような道もあります。それは、自分の考えや計画にとって好都合の道ではなく、あくまでも主の「み名のために(新改訳2017「御名のゆえに」)…正しい道」だからです。
ヤコブの生涯がまさにそうでした。兄弟たちに憎まれ、エジプトに奴隷として売られたヨセフは、主人ポテパルに信頼されたかと思うと、ポテパルの妻の誘惑を拒んで牢獄に入れられました。今度は獄屋番に信頼され、パロの高官たちの夢を解き明かし、今度こそ出獄できると思いきや、高官に忘れられました。しかしそれにより今度はパロ王の夢を解き明かすことになり、エジプトの総理大臣にまで引き上げられたのです(創世記 第37~50章)。神の民イスラエルを救うため、神にとっては「み名のために…正しい道」だったのです。自分の思い通りに生きる人生ではなく、私のことを一番よくご存じの主の「み名のために…正しい道に導かれる」人生こそ真に幸いなのです。

ローマ人への手紙8:26~30「弱い私たちを助ける御霊」

2020年5月31日、ローマ人への手紙8:26~30「弱い私たちを助ける御霊」
イエスを信じて神の子とされても、私たちにはなお様々な弱さがあります。御霊はそんな「弱いわたしたち(直訳「私たちの弱さ(複数形)」)を助けて(「共に」「代わって、反対側で」「取る」の三語の複合語)下さる」お方です。自分ひとりで大きな丸太棒を担いでうめいていると、誰かが来てその一端を担ぎ、共に重荷を負う、というイメージです。そのように御霊は、私たちの弱さの片側を担って、助けてくださるお方です。
私たちは、明日どうなるかもわからず、何が最善なのかもわからないので、何を「どう祈ったらよいかわからない」ことがあります。また、いくら祈っても答えられないと、祈り続ける気力を失ったり、投げやりになったりします。私たちの弱さの中でも特に祈りにおける弱さを、御霊は助けてくださるのです。地上では「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さ」り、天上では「キリスト・イエスは…神の右に坐し…わたしたちのためにとりなして下さ」っています(34節、ヘブル7:25、Ⅰヨハネ2:1)。私たちは、御霊と御子とにサンドイッチされるようにしてとりなし祈られているということです。何と心丈夫なことでしょうか。そして父なる神は、「ご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となる」ようにしてくださいます。それは、私たちを「更に御子のかたちに似たものと」するためなのです。
私たちの人生は山あり谷あり、戦いの連続です。しかしあなたはひとりぼっちではありません。あなたの弱さの片側を担いで助けてくださる御霊が、あなたの味方ですから、大丈夫、何とかなります。

詩篇23:3「主は私の羊飼い、魂をいきかえらせる」

2020年5月24日、詩篇23:3「主は私の羊飼い、魂をいきかえらせる」
羊飼いは、迷い出た羊を連れ戻したり、傷つき病んだ羊を介抱したりして「いきかえらせ」ます。神のもとから「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)私たちも、自分の力だけを頼りに頑張り、傷つき悩んでいましたが、恵みによってイエスを信じて神のもとに立ち返り、「いきかえらせ」ていただきました。
イエスは「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう(休耕田とする、の意)」(マタイ11:28)と言われました。この招きに応えた人の人生は変わりました(マタイもその一人。マタイ9:9~13)。作物を収穫し続けて弱った田畑の地力を回復させるため、耕作を一時中止して休耕田とします。私たちの人生にも、罪や人生の重荷のため疲れを覚え、魂がやせ衰え、実を結ぶ力を失ってしまうことがあります。そのようにやせ衰えた魂が休耕田となってエネルギーを蓄えると、再び実を結ぶようになります。
「主のおしえは完全で たましいを生き返らせ 主の証しは確かで 浅はかな者を賢くする」(詩篇19:7、新改訳2017)。「主のおしえ」、御言葉こそ、私たちの「たましいを生き返らせ」る原動力です。すぐにはそうならないことがあるかもしれませんが、「不信仰だからだ。神から見離されたからだ」などと考えてはなりません。回復には時間がかかる場合がありますが、時が来れば、御言葉の約束どおり「主はわたしの魂をいきかえらせ」てくださると信じ続けましょう。この世の何かを頼り追い求めるのではなく、主ご自身のもとに行き、主の御言葉を聞き続けることにより、魂をリフレッシュしていただきましょう。

詩篇23:2「主は私の羊飼い、牧場と汀に憩う」

2020年5月17日、詩篇23:2「主は私の羊飼い、牧場と汀に憩う」
羊飼いは羊たちを「緑の牧場」や「いこいのみぎわ」に導いて養い育てます。「牧場」という語には、神の住まい、喜びの場所、という意味もあります(詩篇83:13「神の住まいを我らのものにしよう」新共同訳)。神に造られ、神に生かされている私たち人間にとって、神が共におられる場所こそ「緑の牧場」、喜びの場所だ、ということを示しています。
主は「緑の牧場に伏させ」られます。「人はパンだけでは生きず…主の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記8:3)。神のかたちに造られた私たち人間は、パンだけでは真に人間らしく生きることができません。霊的いのちを養う神のパン、主の御言葉がどうしても必要です。「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」(ヨハネ6:35)。主は「いこいのみぎわに伴われ」ます。主を信じる者に与えられる聖霊は、渇いた魂を潤し、喜びと希望に満たしてくださいます。
サマリヤの女性は、罪を認めてイエスを信じたとき、心の空洞が埋められ、「その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがる」ようになりました(ヨハネ第4章)。喜びの泉(ローマ14:17)、希望の泉(ローマ15:13)、愛の泉(ローマ5:5)が絶えず湧き出るようになりました。
本篇は、私たち人間が果たすべき責任については全く言及せず、最初から最後まで一方的な主の恵みで貫かれています。私たちがなすべきことは、ただ主を信じ、主に信頼して歩むことだけです。毎週の礼拝こそ、最大最高の「緑の牧場…いこいのみぎわ」です。御言葉と御霊の中に伏し憩い、健全に成長する羊とされたいものです。

詩篇23:1「主は私の羊飼い、乏しいことなし」

2020年5月10日、詩篇23:1「主は私の羊飼い、乏しいことなし」
弱く愚かで迷いやすい羊が、羊飼いなしには生きていけないように、神に造られた私たち人間も、神なしには到底生きていけない存在です。ところが神のもとから「羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(イザヤ書53:6)私たちに、真の神を教え、本来あるべきところに連れ戻すために来臨されたのが御子イエスです。イエスは、十字架上で身代わりの死を遂げることにとって、神のもとに立ち帰る救いの一本道を開いてくださいました(ヨハネ10:10~11)。
イエスを救い主と信じて「主はわたしの牧者」と告白できるようになると、すべてのものがしかるべき位置にしっくり収まるようになり、「乏しいことがない」生涯となります。ちょうど親のもとで安心しきっている子どものようです。親が一緒だから大丈夫、必要なものを与えて養ってくれるという信頼と安心感がいつも信仰者にはあります。このように神に造られた人間は、真の羊飼いである主のもとに身を寄せてはじめて真の心の満足を得ることができるのです。
ヤコブには多くの失敗があり、後悔することも悔し涙を流すことも山ほど味わいました。しかしそれでもなお自分の人生を思い返すときに込み上げてくるのは、「今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」(創世記48:15、新改訳2017)ということでした。羊飼いなる主が私の生涯を支え導き守ってくださっていたからこそ、今の私がある、わが人生に悔いなし、という思いが込められた呼びかけです。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」「ずっと私の羊飼いであられた神」と感謝にあふれる羊でありたいものです。

詩篇84:1~12「なんと幸いなことでしょう」

2020年5月3日、詩篇84:1~12「なんと幸いなことでしょう」
①主を恋い慕う幸い(1~4節)
詩人は、神殿に臨在される主を「わが魂…わが心…わが身」、全身全霊をもって「恋い慕って絶え入るばかりです」(新改訳2017)。神殿に巣を作る「すずめ…つばめ」、「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる」レビ人を羨ましがりました。私たちを罪と滅びから救うために十字架上で死んでくださったイエスに片思いばかりさせてはいないでしょうか。「初めの愛から離れて」はいないでしょうか(黙示録2:4)。
②主を力とする幸い(5~9節)
ときに私たちは「バカの谷(新改訳2017「涙の谷」、新共同訳「嘆きの谷」)」を通されることがありますが、主を力としている人は、「われらの避け所また力…悩める時のいと近き助けである」(詩篇46:1)主のもとに逃げ込むことができます。そうすると「涙の谷」の真っ只中であっても、そこが「泉のある所」へと変わるのです。「神様から力をいただき、神様に従って歩むことを最優先したいと願う人は幸いです。そんな人には、涙の谷も、祝福のわき出る泉となるでしょう」(リビングバイブル)。
③主と共にいる幸い(10~12節)
主の「大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさる」充実したものとなります。なぜなら、人生に立ちはだかる試練や困難の氷山を、主は「日(新改訳2017「太陽」)」のように溶かし、実を結ばせてくださるからです。また主は「盾」となって守り抜き(創世記15:1、ローマ8:31)、「恵みと誉」を与え続けてくださるからです(詩篇23:6)。「主の大庭の一日は、大庭の外で過ごした千日をやり直すことができる」(L.B.カウマン)。

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