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イザヤ6:1~13 「私をお遣わしください」

1.主を見て、自分の罪を知り、赦される(1~7節)
 イザヤは、イエス様が生まれになる700年以上前の預言者です。すでに預言者として活動し、神様の御言葉を語っていました。再召命にあたり、イザヤはきよい主を見て、自分がいかに汚れた罪びとであるかを思い知らされました。しかし、主は御使いを通して、燃えさかる炭をイザヤの唇に触れさせることで、その罪を赦されたのです。私たちも主を仰ぎ見て、自分の罪があるなら、イエス様の十字架の血によって、その罪を赦していただくことが何より大切です。

2.主に献身し、御言葉を語ること(8~13節)
 イザヤが自分の罪を認め、主がその罪を赦された後、主はイザヤに『だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。』と問われました。すると、イザヤは『ここに私がおります。私を遣わしてください。』と応答しました。しかし、主はあえてイザヤに民の心をかたくなにする言葉を語るように命じられました(9~13b)。それは、『切り株』、『聖なる裔』であるイエス様が来られて、御言葉が成就するためでした(ヨハネの福音書12章37~41節)。イザヤは主が語れと言われた御言葉を大胆に語りました。  

 私たちも『ここに私がおります。私を遣わしてください。』と主に応答し、主の御言葉をまっすぐに語る者として遣わされていきましょう。

ヨハネの黙示録22:16~21「主イエスよ、来てください」

2022年2月27日、ヨハネの黙示録22:16~21「主イエスよ、来てください」
イエスは「ダビデの根(新共同訳「ひこばえ」)、また子孫」と言われました。幹が切り倒されても根が生きていれば、やがてその切り株や根元から若芽が生えてきます。切り倒されて当然のイスラエルの罪の歴史の中から「ダビデの…子孫」として降誕し、十字架と復活による人類の救いを完成されたイエスは、まさに「ダビデの根(ひこばえ)」です。「輝く明けの明星(金星)」は、暗い夜が去って光の朝が来ることの象徴です。イエスの初臨によって到来した神の国は、再臨によって完成します。イエスはそのことを予告する「輝く明けの明星」なのです。
教会はローマ帝国の迫害によって風前の灯でしたが、このイエスの宣言にどれほど慰められたことでしょうか。右肩下がりの教勢にとどめを刺すかのようなコロナ禍にある教会にとってもそうです。暗黒の度合いが増しているような今だからこそ、もっともっと「ダビデの根…子孫、輝く明けの明星」イエスを信じ仰ぎ、期待すべきです。
イエスが完全に勝利される再臨の日を「アーメン。主イエスよ、来てください」と私たちは待ち望み、イエスも「しかり、わたしはすぐに来る(来つつある、の意)」と言われますが、再臨までなおしばらく忍耐の時が必要です。今直面している迫害、試練や問題が大きければ大きいほど、御言葉に何かを「つけ加え」たり「取り除」いたりして都合よく解釈する誘惑に陥る恐れがあります。神の御言葉を真っ直ぐ信じて立ち続けましょう(詩篇119:130)。主日礼拝こそ、御言葉と「いのちの水」によって渇きを癒やされ、「アーメン。主イエスよ、来てください」と救いの完成を待ち望む時です。礼拝を大切にしましょう。

ヘブル人への手紙11:13~16「天の故郷に憧れて生きる」

2022年2月20日、ヘブル人への手紙11:13~16「天の故郷に憧れて生きる」
「信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました」(8節)が、山あり谷ありで、妻の亡骸を葬る墓地以外に所有地はなく、「旅人であり、寄留者」のような生涯でした。それでも不平不満を漏らさず神に従い続けることができたのは、「もっと良い故郷…天の故郷」、「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです」(10節)。やがて憧れの天の故郷に迎え入れられて永住するという栄光のゴールをしっかり見つめていたからです。そんな「アブラハムは幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ」(創世記25:8)、悔いのない充実した信仰生涯でした。
「人間はどこから来て、どこへ去るのか。誰でも少なくとも一生に一度はこの疑問の解答を求める。しかし残念ながら、たいていの人はその答えを得ないままで、その生涯を終える」(カール・ヒルティ)。これでは人生あまりにも悲しすぎます。しかし、罪と死に勝利して復活されたイエスを信じる者の内には天国の希望がみなぎってくるので、限りある地上生涯を有意義に生きることができるのです。「飛行機は飛び立つときより着地が難しい。人生も同じだよ」(本田宗一郎氏)。さっそうと離陸して快調に飛行していても、着陸に失敗すれば一巻の終わりです。あなたはどのような人生の着地をしようとしていますか。アブラハムのように天の故郷、勝利のゴールをしっかり見据えながら「幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ」という神と共なる信仰生涯こそ目指すべき着地ではないでしょうか。

マタイの福音書8:18~27「どうして怖がるのか」

2022年2月6日、マタイの福音書8:18~27「どうして怖がるのか」
イエスと弟子たちがガリラヤ湖の「向こう岸に渡」ろうとすると、経験したことのないような「大荒れ…大波」に遭遇しましたが、「イエスは眠っておられた」。人となられた御子イエスは、連日の働きで疲れ果てておられたからでしょうが、それ以上に父なる神に全く信頼しておられたからでしょう。さらには、弟子たちは漁に関しては自分たちで何とかできると考え、イエスに頼らず自力で頑張っていたからかもしれません。しかし遂に行き詰まって助けを求めると、イエスは「風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった」。
そもそも「向こう岸に渡るように命じられた」のは、弟子たちではなくイエスご自身です。イエスのご命令で出発した舟ですから、最後までイエスが責任をもってくださるはずです。しかも舟にはイエスご自身も乗っておられました。それなのに「どうしてそんなにこわがるのですか。まだわたしが信じられないのですか」(リビングバイブル)。
思わぬ人生の大嵐に見舞われたとき、悲観主義に陥って神を疑い、神に文句を言ってはいませんか。そんなあなたに「どうしてそんなにこわがるのですか。まだわたしが信じられないのですか」と言われます。「イエス様が一緒にいるのなら、なぜ暴風が起こるのか…私たちの心は疑いで満たされてしまいます。そんな時、思い出しましょう。私たちの舟にはイエス様が乗っておられることを。木の葉のように荒波に翻弄される舟の中で不安と恐怖に包まれ、イエス様に忘れられていると感じるような時があっても、あなたの舟は決して沈みません。イエス様があなたの舟に乗っておられるからです」(岩本遠億師)。

マラキ書3:13~18「わたしの宝となる」

2022年1月23日、マラキ書3:13~18「わたしの宝となる」
神殿が再建されたとはいうものの、目に見える祝福は乏しく、多くのユダヤ人は依然として貧困状態にありました。それに対して、異邦の「悪を行う者」たちは繁栄していました。そのためユダヤ人は「神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても…何の得になろう」と神に幻滅していました(2:11、3:8)。そんなユダヤ人に対して神は「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る…天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ…すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる」(3:7、10、12)と語りかけられました。
「この国には何でもある。だが、希望だけがない」(村上龍)。コロナ禍でこの言葉が一層リアルに響いている今、私たちは真の希望を持っています。その私たちが希望を失ってうつむいていたら、日本はまさに絶望です。今こそ神の語りかけを真剣に受け止めるべきではありませんか。聖書の希望にしっかり立つべきではありませんか。
アブラハムは約束実現の可能性を信じたのではありません。約束してくださったお方を信じたのです。モルトマンは「楽観主義と希望は全くの別物で、その時々の状況に基づくものが楽観主義、状況に左右されない神のご真実に根差すものが希望だ」と語りました。私たちがまず聖書の希望に堅く立ち、神を愛し喜んで生きるならば、目先の数字や現象に一喜一憂することなく、自分の責任を果たすことに集中できるようになり、周囲にもその恵みが伝染していくでしょう。そうすると「すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる…喜びの地となる…わたしのものとなる…わたしの宝となる」。

創世記43:11~15「失うときには失うのだ」

2022年1月16日、創世記43:11~15「失うときには失うのだ」
ヤコブは息子たちを再びエジプトに送り出すにあたり、息子たちの上に「全能の神」の御守りを祈りました。かつて兄エサウから長子の権利を騙し取ったことで憎まれ、家を離れざるを得なかったヤコブに、父イサクは「全能の神がおまえを祝福し…」(28:3)と全能の神によって祝福して送り出し、全能の神はベテルで「わたしはあなたとともにいて…あなたを守り…決してあなたを捨てない」(28:15)と語りかけられました。約束どおり全能の神に守り支えられて今の自分があることを思い起こしたはずです。そして全能の神は、きっとエジプトの総理大臣にも働きかけて息子たちを「あわれんでくださる」に違いないが、「私も、息子を失うときには失うのだ」と全能の神に信頼して委ねました。エステルは自分自身を投げ出すことでユダヤ人を虐殺から救い(エステル記4:16)、ヤコブはベニヤミンを手放すことで最愛の息子ヨセフと再会し、イスラエル民族を飢饉から救いました。
「失うときには失うの」は、いのちや家族、所有物もそうです。大震災がこの地を襲うと誰が予想したでしょう。目に見えるものはいつか必ず過ぎ去りますが、「わたしのことばは決して消え去ることがありません」(マタイ24:35)、「神のみこころを行う者は永遠に生き続けます」(Ⅰヨハネ2:17)。神の御言葉とイエスを信じる者は永遠に残ります。それゆえ、「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」(Ⅱコリント4:18)。いずれ失うものに心を支配されることなく、永遠に続くものにしっかり焦点を合わせて歩み続けましょう。

ローマ人への手紙3:1~8「神の真実」

2022年1月9日、ローマ人への手紙3:1~8「神の真実」
①赦罪における神の真実(Ⅰヨハネ1:9)
この世では謝罪に行っても門前払いされることがありますが、神は違います。罪を悔い改めてイエスの十字架を信じるなら、どんな罪でも赦すと「真実で正しい」神ご自身が約束されているとおりです。
②交わりにおける神の真実(Ⅰコリント1:9)
この世では表面的には和解しても、心の中では憎み続け、以前のような関係には戻りにくいことがありますが、神は違います。放蕩息子を大喜びで迎え入れた父親のように(ルカ15:11~24)、神は私たちを赦し、何事もなかったかのように交わりの中に入れてくださるのです。
③試練における神の真実(Ⅰコリント10:13)
私たちの人生に試練は付き物ですが、神の真実は私たちの力を越えた試練を与えるようなことは決してなさらないばかりか、試練の中にいる私たちを支え、その試練を耐え忍び、乗り越えられるよう強めてくださいます。私たちが今あるのは、この神の真実のゆえです。
④完成における神の真実(Ⅰテサロニケ5:23~24)
私たちの救いの完成の日である「主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして」、いつでも恐れなく神の前に立つことができるよう、天国に迎え入れていただけるよう、神の真実は私たちの「霊、たましい、からだのすべて」を守ってくださいます。
アブラハムは「約束実現の可能性を信じたのでなく、約束してくださったお方を信じた」(リジョイス)。「その時々の状況に基づくものが楽観主義、状況に左右されない神のご真実に根差すものが希望」(デイリーブレッド)。

詩篇138:1~8「あなたに感謝します」

2022年1月2日、詩篇138:1~8「あなたに感謝します」
詩人が「感謝…感謝…感謝」と三度も繰り返すのは、「御名のゆえに…みことばを高く上げられ」、「神様は、御自身の名誉にかけても、お約束は守られる」(リビングバイブル)ことを体験したからです。神が一度約束なさったことは、必ず実現成就するのです(イザヤ書55:11)。
「私が呼んだその日に あなたは私に答え 私のたましいに力を与えて強くされ」たからです。試練や困難の尽きない私たちに最も必要なことは、祈れば答えてくださる神とつながっていることです。確かに神は「高くあられ」るお方ですが、同時に「低い者を顧みてくださ」るお方。天の栄光を捨てて地に降誕された御子イエスは、罪人や病人の友となられ、神が「低い者を顧み」られるお方であることを実際にお見せになりました。パウロが弱さに打ちひしがれて祈り続けていると、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(Ⅱコリント12:9)との答えがあり、以来パウロは、自分の弱さを受け入れ、神の全能の力に依り頼むようになり、その働きはこれまで以上に豊かに実を結んでいきました。
「主は私のためにすべてを成し遂げてくださ(完成する、の意)」」るからです。神は、神を信じて生きるあなたのために最善のご計画を持っておられます。神が始められた救いのご計画は、中途半端のまま放置されるようなことなど絶対にありません。それなのに、思い通りにならないと、すぐ「~してくれない」とつぶやく「くれない族」になっていないでしょうか。「主は私のためにすべてを成し遂げてくださ」ることを信じて、神に感謝しながら約束実現を待ち望みましょう。

サムエル記第一7:5~12「ここまで主が助けてくださった」

2021年12月26日、サムエル記第一7:5~12「ここまで主が助けてくださった」
ペリシテに大敗して奪われた神の箱が「キルヤテ・エアリム」に返されて「二十年…イスラエルの全家は主を慕い求め」、サムエルの呼びかけに応えてミツパに集まって罪を悔い改めました。イスラエルの大集合を聞いたペリシテが、戦争の決起集会と誤解して攻撃してきました。以前は主の契約の箱を担ぎ出しさえすれば何とかなると安易に考えていた民が(4:3)、今回はサムエルに「私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください」と祈りを要請し、祈りによる勝利を確信し、主もその祈りに答えてペリシテを「打ち負かされ」ました。その勝利を記念して「サムエルは一つの石を取り…エベン・エゼルという名をつけ、『ここまで主が私たちを助けてくださった』と言った」。
私たちの生涯にも、このような記念碑が節目節目に立てられてきたことでしょう。「アドナイ・イルエ…主の山には備えがある」(創世記22:14)。主は最善の「備え」をして私たちの人生を導いてきてくださいました。「インマヌエル…神が私たちとともにおられる」(イザヤ書7:14、マタイ1:23)。「水の中…川…火の中」を行くような試練の真っ只中でも(イザヤ書43:2)、天地万物を創造し支配しておられる神は「世の終わりまで、いつも…ともに」いてくださいました(マタイ28:20)。「エベン・エゼル…ここまで主が私たちを助けてくださった」。共にいてくださる神は、私たちを実際に助けてくださいました。苦境に立つとき、私たちは決してひとりではありません。神が味方となって具体的に助けてくださいます(イザヤ書41:10~14、詩篇46:1)。「ここまで…助けてくださった」主は、これからも助けてくださいますから、心配無用です。

マタイの福音書2:1~12「新しい道が開かれるクリスマス」

2021年12月19日、マタイの福音書2:1~12「新しい道が開かれるクリスマス」
今までにない星が夜空に輝くのを見た「博士たち(新共同訳「占星術の学者たち」)」は、救い主誕生のしるしと確信し、千㎞以上もの長旅の末にユダヤに到着し、救い主を「見、ひれ伏して礼拝し」、商売道具の「黄金、乳香、没薬を贈り物として献げ…別の道から自分の国に帰って行」きました。地理的に別の道を通ったというだけでなく、救い主を礼拝することで新しい人生が開かれたこと、神を人生の第一価値として生きる新しい価値観に転換したことを暗示しているのでしょう。
人が真に幸いな人生を送ることができない最大の原因は、「はじめに神が天と地を創造された」(創世記1:1)、創造主なる神を第一としない的外れの罪にあり、この罪の問題を解決するために御子イエスが降誕され、十字架と復活によって救いを完成されたのです。このイエスを救い主と信じ受け入れるなら、聖書に記されている神の約束が自分のものとなります。たとえば、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザヤ書41:10)。万事休すと思えるようなときにも、神は「あなたとともにい」て、「あなたを強くし…助け…守」ってくださいます。また、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となる」(ローマ8:28)。すべての背後には神の愛のご計画があり、マイナスと思える体験も感謝と喜びに変えてくださいます。「なぜ私だけが」という思いに沈んでいるあなたにも、神による新しい「別の道」が備えられています。

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