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出エジプト記33:12~16「わたしの臨在が同行する」

2021年4月11日、出エジプト記33:12~16「わたしの臨在が同行する」
モーセが「四十日四十夜、(シナイ)山にい」て十戒を授与されている間、不安になった民は偶像を造って約束の地を目指そうとしました(31:18~32:1)。下山して目を疑うような光景を見たモーセは、罪の赦しと主の臨在の同行を切願しました(32:11~14、30~34)。そうして与えられた御言葉が、「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」です。
「わたし(イエス)にとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」(ヨハネ15:4)が、「私を強くしてくださる方によって…どんなことでもできる」(ピリピ4:13)、「キリストなしには片時たりとも生きていけない者」「宙ぶらりんではなく、神ぶらりん」なのがキリスト者です。
「どんな問題も、問題そのものが問題でなく、それをどう見るか、それとどう関わるか、あるいはその問題をどう捉えるか、それが問題なのです。この世には、本来問題というものはありません。あるのは問題との取り組み方だけです」(ある牧師)。人間の手に負えないことが山ほどあっても、主の手に負えないことなど皆無です。それなのに自分の力を頼りに下手に頑張るから、かえって事態が紛糾し、時間と労力を浪費することになるのです。主の出番を横取りするから、主の全能の力を体験する絶好の機会を逃すことになるのです。臨在の主に対する信仰を働かせるよりも常識を働かせ、主に頼るよりも人に頼っていないでしょうか。コロナ禍で閉塞感がますます募る今こそ、主の助けなくしては何もできないと自己絶望し、「やめよ。知れ。わたしこそ神」(詩篇46:10)、「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」と言われる主にひたすら信頼して歩みたいものです。

ルカの福音書23:50~24:7「墓にはおられない、よみがえられた」

2021年4月4日、ルカの福音書23:50~24:7「墓にはおられない、よみがえられた」
アリマタヤのヨセフは「ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出」、十字架から「イエスのからだを降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られていない、岩に掘った墓に納め」ました。死ぬはずのない永遠なる神の御子イエスが、本当に死なれたのです。
イエスを慕う女性たちは「明け方早く」、遺体に香料を塗ろうと墓に急ぎましたが、彼女たちの前には大問題がありました。墓の入口をふさぐ大石です。彼女たちはこの大石についてずっと話し合いながら墓まで来ましたが、それは全く不要な思い煩いでした。すでに「石が墓からわきに転がされていた」。イエスは復活されたのです。
墓の大石どころではない人類共通の最大の大石、それは罪と死の大石です。この大石を取り除くために罪の全くない神の御子イエスが来臨され、私たちの罪を背負って十字架につけられ、私たちに代わって神のさばきを一身に受けて死なれましたが、三日目に復活されました。十字架がなくては復活の意味はなく、復活がなくては十字架は完成しません(ローマ4:25)。空っぽの墓こそ、イエスが罪と死に勝利され、今も生きておられる救い主であること、ただイエスを信じるだけで罪赦されるという救いが完成されたことの証明なのです。
十字架と復活によって、神と私たちとを隔てる途方もない罪と死の大石を「転が」してくださったイエスは、私たちの人生に立ちはだかる大石をも同様に「転が」してくださるお方です。それゆえ困難の大石ばかり見つめて失望しないで、復活のイエスを仰ぎ見るなら(詩篇121:1~2)、すでに「石が…転がされていた」のを見ることでしょう。

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