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マタイによる福音書18:1~5「向きを変えて幼な子のようにならなければ」

2019年7月14日、マタイによる福音書18:1~5「向きを変えて幼な子のようにならなければ」
「天国ではだれがいちばん偉いのですか」とは、カペナウムに来る「途中で」すでに弟子たちの間で生じ(マルコ9:33)、「宮の納入金」の件で表面化した論争です。弟子たちに限らず、私たちは知らず知らず自分と他人とを比較して、ランク付けしながら生きているものです。
「イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて」、「心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである」と言われました。「自分を低くする」とは、自分は弱く小さい存在であることをありのまま認めることです。それができないから、いつも他人と比べて勝った負けたを繰り返すのです。
とは言え、自分の弱さ・小ささを認めることは、他人と比べて生きることが染みついている私たちにとって至難の業です。そこで必要になるのが、「心をいれかえて(新改訳2017「向きを変えて」)」ということです。幼な子は、一人で生きられない小さく弱い存在ゆえ、いつも親に頼りきって生きています。そのように横を見ないで神を見上げ、ひたすら神により頼んで生きる生き方へと方向転換することです。
あなたも、つまらないプライドを捨てて、駄目な自分を正直に認めるべきではないでしょうか。神はあなたのすべてをご存じなのですから、下手に隠したり言い訳したりしないで、正直に神の前に出て十字架を仰ぎましょう。十字架の愛を真に体験するならば、「自分は自分でいいんだ。あの人と同じようになる必要はないんだ」と納得することができ、他人と比べる生き方から解放されることでしょう。

ヨシュア記6:1~21「信仰によってエリコの城壁は」

2019年7月7日、ヨシュア記6:1~21「信仰によってエリコの城壁は」
エリコはイスラエルを恐れて城壁を一層「かたく閉ざして」いましたが、主は「わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている(完了時制)」と言われました。実際にはまだエリコを占領していませんが、主の摂理の中ではすでに完了しているからです。そうした約束の後、エリコ攻略の方法が授けられました。祭司たちがラッパを吹き鳴らしながら先頭を進み、その後に契約の箱と武装した兵士たちが黙々と続き、城壁を一周する。これを六日間行い、七日目は同様に城壁を七回回り、七回目に祭司たちが長くラッパを吹いたら一斉にときの声を上げるとエリコの城壁は崩落するというものです。突飛な方法でしたが、従い続けて七日目、見事に城壁は崩れました。難攻不落のエリコを占領できたのは、イスラエルが強かったからではありません。「信仰によって…くずれおちた」(ヘブル11:30)のです。主の約束を自分のものとして受け取る方法が信仰であり、実際に一歩一歩前進することによって約束が現実となるのです。
ペテロも、漁の常識からかけ離れたイエスの命令に対して、「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言って「そのとおりにしたところ」、予想外の大漁となりました(ルカ5:1~11)。御言葉を聞いてそのとおりにするならば、やがて必ず御言葉のとおりになるのです(イザヤ書55:11)。「必ず7日目は来ます。何も進んでいないように見えても、神の時は必ず来るのです…途中で投げ出さない。希望を放棄しない。主の御業を見るまでは。やがて、その時が満ちます。人生の困難なあの城壁が崩れ落ちる時が必ず来るのです」(リジョイス)。

マルコによる福音書2:13~17「病人に必要なのは医者、罪人に必要なのは?」

2019年6月30日、マルコによる福音書2:13~17「病人に必要なのは医者、罪人に必要なのは?」
イエスは、「アルパヨの子レビ(マタイ9:9「マタイ」)が収税所にすわっているのをごらんになって、『わたしに従ってきなさい』と言われた」。マタイは、人々の突き刺すような冷たい視線とはまるで違う、慈愛に満ちあふれたイエスの視線に釘付けになったことでしょう。その上、取税人の自分に声をかけてくださったことにどれほど感動したことでしょうか。マタイは取税人の仕事も富も皆かなぐり捨てて、イエスに従っていきました。あなたもこの世の何かにいつまでもしがみついていないで、「わたしに従ってきなさい」とお招きくださるイエスと共に歩む確かな人生へと方向転換すべきではありませんか。
新たな使命を与えられたマタイは感謝と喜びにあふれ、「多くの取税人や罪人たち…イエスや弟子たち」を招いて盛大な宴会を催しました。「罪人や取税人たちと食事を共にし」なかった「パリサイ派の律法学者たち」が「なぜ…食事を共にするのか」と問うと、イエスは「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と答えられました。神の前に「病人…罪人」であることを素直に認めてイエスを信じるか、それとも「義人」と考えて自己満足するか。「人は神の手術室に入ろうとしません。ましてや、手術台に上がろうとしません。たとえ手術台に上がっても、素っ裸になろうとしません。それどころか、言い訳をしたり、弁解したり、医者の腕を心配したり、疑ったりします…自分が病気であることを認め、素直な気持ちで素っ裸になり、神の手術台に上がる人こそ神のいやしを得る人です」(榊原寛師)。

マルコによる福音書2:1~12「あなたの罪は赦された」

2019年6月23日、マルコによる福音書2:1~12「あなたの罪は赦された」
「イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき…多くの人々が集まってきて…御言葉を…語っておられた」とき、四人の友人が「屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろし」ました。「群衆のために近寄ることができない」という困難にもめげず、イエスなら中風を癒してくださると信じて強行突破したのです。「イエスは彼らの信仰を見て」とあります。今イエスは、あなたの信仰も見ておられます。本気で信じ、本気で願っているでしょうか。
中風の癒しを求めてきたのに、イエスは「子よ、あなたの罪はゆるされた」と宣言されました。彼には病の癒し以上に罪の赦しこそ必要であることを知っておられたからです。「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」という律法学者の心中を見抜かれたイエスは、今度は中風を癒され、それによって罪の赦しが確かにあり、自分はその権威を持っていることを明らかにされたのです。
病気やけがのため肉体が半身不随であることは人間にとって大きな悩みですが、魂が罪のために半身不随になっていることは、それ以上に大きな問題です(ローマ7:15)。創造主なる神を無視していて、どうして祝福があるでしょうか。神との関係を断絶させている罪の赦しこそ最も偉大な奇跡であり、永遠に続く恵みです。あなたはイエスを救い主として信じ受け入れるか、それとも「神をけがす」者として断罪するか、イエスを知らない人々のために今度はあなたが祈り、実際に行動を起こす番ではないか、とこの記事は決断を迫るのです。

マルコによる福音書1:40~45「イエスは深くあわれんで」

2019年6月16日、マルコによる福音書1:40~45「イエスは深くあわれんで」
当時「らい病人」は、神に呪われ罰せられた者と考えられ、人々から隔絶されていました(レビ記13:45~46)。そんな病人が、イエスの行く手を遮るようにしてひれ伏し、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と懇願したのです。病人は、イエスはこの病をきよめる力をお持ちだと確信していましたが、果たしてその力を自分のような者に用いていただけるかどうか不安でした。そんな病人を「イエスは深くあわれみ(内臓が揺さぶられる、の意)」ました。イエスは触って病を癒されることもありましたが、ただ言葉を発するだけで癒されることもありました。それなのに、よりによってらい病人に、何と「手を伸ばして彼にさわ」られました。実に衝撃的な光景で、人々は大変驚いたでしょうが、誰よりも驚いたのは当のらい病人だったはずです。イエスの手の温もりは、人々から忌み嫌われていた病人に、「私はイエスに愛され受け入れられている」と実感させたことでしょう。
私たちが神の前にも人の前にも真に健全であるようにとイエスは願っておられ、そのため深く同情し、親身になって関わってくださいます(イザヤ書53:3、ヘブル4:15)。健全な歩みを妨げているのが私たちの罪であり自我ですが、十字架はそれらを赦し潔めることができます。この恵みを受け取って、神の前にも人の前にも健全であってほしいと願っておられます。救いの必要、潔めの必要を認めて、明確に願い出ることをイエスは待っておられます。イエスは、あなたが抱えて苦悩している問題に「手をのばして…さわり」解決したい、「そうしてあげよう、きよくなれ」と宣言したいと願っておられるのです。

エペソ人への手紙5:15~21「むしろ御霊に満たされていなさい」

2019年6月9日、エペソ人への手紙5:15~21「むしろ御霊に満たされていなさい」
酒に支配されるのでなく、「むしろ御霊に満たされて…いなさい」と命じます。「満たされて」は受動態ですから、肉の頑張りで満たすのではなく、恵みによって満たされるということです。現在時制ですから、御霊に満たされ続けなさいということです。命令形ですから、満たされても満たされなくてもよいのではなく、ある特定の人だけ満たされればよいのでもなく、全キリスト者に対する命令です。
神に造られ生かされている私たち人間は、神に的を合わせ、御言葉に従って生きるとき、真に充実した人生を送ることができるのですが、私たちはこの神を知らず、神を無視して生きてきました。このような的外れの生き方を「罪」と呼び、そこから様々な具体的な罪が生じてきます(マルコ7:20~23)。しかし罪を悔い改めて、イエスの十字架を信じるならば、すべての罪が赦されて救われます。さらに醜い自我に泣き、砕かれて十字架を仰ぐならば、御霊は私たちを潔め満たし占領してくださいます。そしてその後も御言葉と御霊に従い続けることによって、「御霊に満たされ」続けることができるのです。
「むしろ御霊に満たされて…いなさい」という命令の後、妻と夫(5:22~33)、子と親(6:1~4)、僕と主人(6:5~9)のあり方が記されていますが、これは、地が出やすい家庭や職場でこそ御霊に満たされていなければ、良い妻や良い夫、良い子や良い親、良い従業員や良い経営者・上司にはなれないということです。「神の御名は、あなたがたのゆえに…汚されている」(ローマ2:24)ような信仰者ではなく、「あなたの神はわたしの神です」(ルツ記1:16)と証詞されるような信仰者とされましょう。

エレミヤ書29:10~14「平安と将来と希望を与えるご計画」

2019年6月2日、エレミヤ書29:10~14「平安と将来と希望を与えるご計画」
バビロン捕囚となって絶望するイスラエルにエレミヤは、捕囚の地で腰を落ち着けて生活するよう勧めました。それは「バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る」からです。人の目には「災」と思えても、神はさらに深いご計画をもって導いておられるのです。
なぜイスラエルにバビロン捕囚という悲劇が襲ったのでしょうか。それは、イスラエルが神の民として本来あるべき姿を回復し、再出発するためでした。イスラエルは律法に背いて偶像崇拝に陥っていったため、神はエレミヤ他の預言者を次々とお遣わしになり、悔い改めのチャンスをお与えになりましたが、イスラエルは悔い改めようとせず、罪に罪を重ねていきました。そのため神はバビロン捕囚というさばきを下されたのですが、それは「災を与えようというのではなく、平安を…将来を…希望を与えようとするもの」だったのです。
「測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た」(詩篇16:6)。詩人は自分の生涯を振り返って、神は私のために最も良い人生を備えてくださった、と感謝しています。私を造られた神は、この私のことを誰よりもよく知っておられ、しかも御子イエスを十字架の死に渡されるほど、この私を愛しておられるお方です。この神が私のために最高の人生を割当ててくださらないはずがありません。「何か大きな問題や困難に出合った時…『なぜ?』という問いかけから、神さまの御業、ご計画に期待して、この出来事を通して『何を?』と祈り求めていきましょう」(松本雅弘師)。

マルコによる福音書1:35~39「朝早く寂しい所で」

2019年5月26日、マルコによる福音書1:35~39「朝早く寂しい所で」
神であると同時に人間であったイエスは、私たちと同様、弱さを覚えられましたし(ヨハネ4:6)、説教や癒しや悪霊追放のときには全精力を注いでおられたことでしょう(5:29~30)。そのように朝から晩まで休む暇なく働かれたイエスがお疲れにならなかったはずはありませんが、「朝はやく、夜の明けるよほど前に…起きて…祈っておられた」。
なぜそうされたのでしょうか。第一に、父なる神と交わるためでした。イエスは毎朝の祈りの中で、今日も神の愛と真実に支えられていることを感謝して一日を始められたのでしょう。「朝、神の前に静まって、神の愛が自分の心に注ぎ込まれ、満ち満ちてくるのを感ずるまでは、決してその場から立ち上がってはならない」(F.B.マイヤー)。
第二に、神から新しい力を得るためでした(イザヤ書40:31、ピリピ4:13)。イエスは毎朝の祈りの中で疲れを癒され、新たな力を注がれていたからこそ、激務に戻って行くことができたのでしょう。「神を離れては、どんなに些細な試練でも私たちの手に負えなくなる」(F.B.マイヤー)。
第三に、自分の使命を確認するためでした。本書には、イエスの祈りの場面が計3回記されています(1:35、6:46、14:32~42)。いずれも十字架抜きの救いへと誘う危機的な状況でした。だからこそ祈りの中で、「教を宣べ伝え」るため、十字架と復活による救いを完成するために来臨したことを再確認し、使命に堅く立つ必要があったのです。
「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」(ウエストミンスター小教理問答 第1問)。私たちも毎朝、このことのために今日も生かされていることを感謝し、一日をスタートしましょう。

マルコによる福音書1:29~34「イエスの家庭訪問」

2019年5月19日、マルコによる福音書1:29~34「イエスの家庭訪問」
第一に、「シモンのしゅうとめが熱病で床についていたので、人々はさっそく、そのことをイエスに知らせ」ました。「さっそく…イエスに知らせ」て祈ることこそ、問題解決の早道です(詩篇46:10、50:15)。
第二に、「イエスは近寄り、その手をとって起されると、熱が引き」ました。弟子たちが逆風のため舟をこぎあぐねていたとき、イエスが「舟に乗り込まれると、風はや」みました(6:45~52)。パウロの場合は、肉体的弱さが除去されるよう祈り続けましたが、結局癒されませんでした。代わりに「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」との答えを受け入れ、神により頼んで超人的な働きをしました。イエスを迎え入れることで、願いどおり解決されることもあれば、解決されないこともあります。しかしいずれにせよ、好循環へと変わっていくことだけは確かです。
第三に、熱病を癒された姑は、感謝にあふれて「彼らをもてなし」ました。ドルカスは十字架の愛に何とか応えようと、裁縫の賜物を用いて、困窮する女性たちのために服を作りました(使徒行伝9:36~43)。水が流れ込むだけで出口がなく、塩分濃度が高くて(普通の海の6倍)生物の住めない死海(塩の海)のようであってはなりません(使徒行伝20:35)。
イエスを信じ迎え入れることによって好循環が生まれ、十字架の愛に応えて神と人に仕えることによって好循環が維持されます。あなたの人生にもこの好循環があるでしょうか。信仰を働かせるよりも常識を働かせて、イエスを迎え入れるところが詰まっていませんか。喜んで神と人のために奉仕するところが詰まっていませんか。

マルコによる福音書1:21~28「人々はイエスに驚いた」

2019年5月12日、マルコによる福音書1:21~28「人々はイエスに驚いた」
イエスは、説教と御業(癒しや奇跡等)によって、父なる神がどういうお方であるかを人々に教えようとされました。律法学者たちは「やたらに他人のことばを引用」(リビングバイブル)して自らの教えを権威づけようとしましたが、永遠に神と共におられるイエスは、「神は言われる。わたしは言う」と確信をもって語ることができました。律法学者たちの説教は人々に重荷を負わせて苦しめるものでしたが、イエスの説教は重荷を下ろさせ(マタイ11:28)、恵みに生かすものでした。律法学者たちは語るだけで実行しませんでしたが、イエスは自ら語ったことを率先して実行されました(ルカ23:34)。「けがれた霊につかれた者が会堂にいて」、イエスが「黙れ、この人から出て行け」と言われると、悪霊は出て行きました(ルカ11:20)。人々は、イエスの説教や御業の中に、律法学者たちにはない天来の権威を見出して驚いたのです。
私たちは彼らのようにイエスを直接見ることはできませんが、聖書66巻によってより正確に知ることができます。問題は、イエスをどのようなお方と考え、どのような態度をとっているかです。自分のわずかな知識や経験で神を推し量ったり、常識の範囲内の御言葉しか聞こうとしなかったり、心をかたくなにして批判や偏見に凝り固まったりしていると、御言葉をいくら聞いても正しく理解できないでしょう。まず自分の知識や経験を横に置いて、神が言わんとすることを謙虚に聞き取る姿勢を持つところから始めるなら、イエスは私を罪と滅びから救い出してくださる救い主であり、私の生涯を全責任をもって導いてくださる主権者であることがわかるでしょう。

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