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マルコによる福音書4:24~25「さらに与えられる人、取り上げられる人」

2019年10月27日、マルコによる福音書4:24~25「さらに与えられる人、取り上げられる人」
イエスは「神の国の奥義」を説教や奇跡によって明示され、それらが弟子たちによって記録されて聖書になり、誰でも「熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さっ」(使徒行伝17:27)ています。問題は、私たちの側の御言葉を聞く心の「はかり」です。「はかり」が小さく狭ければ、御言葉の恵みも小さく狭いものになり、「はかり」が大きく広ければ、御言葉の恵みも大きく広いものになります。「イエス様さすが、すごい、そうだね」とサ行で相槌を打ちながら聖書を読み説教を聞くならば、続いて出てくる言葉は「そうだ、信じて従おう」等の肯定的・積極的なものになるはずです。ところが「だって、でも、どうせ」とダ行で相槌を打つならば、続いて出てくる言葉は「どうせ自分は駄目だ」等の否定的・消極的なものになることでしょう。
「あなたの天幕の場所を広くし、あなたのすまいの幕を張りひろげ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ」(イザヤ書54:2~3)、「あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう」(詩篇81:10)。「広くせよ、期待せよ」という命令は聖書中多数出てきますが、「小さくせよ、期待するな」という命令はどこにもありません。それなのに私たちは神を常識の範囲内に小さく押し込め、大して期待もせず、諦めムードになっていないでしょうか。神の恵みの福音は、私たちが考える以上にずっと大きく広く豊かなものです。ほんの一部分だけ知って満足しているのはもったいない限りです。神を知る「はかり」を大きく広げていただいて、「わたしの杯はあふれます」(詩篇23:5)、神の恵みを満喫させていただこうではありませんか。

マルコによる福音書4:21~23「聞く耳のある者は聞きなさい」

2019年10月20日、マルコによる福音書4:21~23「聞く耳のある者は聞きなさい」
「隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない」「あかり」とは、「神の国の奥義」(11節)のことでしょう。「神の国」とは、神の恵みによる支配ということですが、それはどのようにして実現し、現されているのでしょうか。
「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)、天地や私たち人間は偶然にできたのではなく、神の御心に従って造られました。このように神に造られた「すべての人の本分」は、神に的を合わせ、「神を恐れ、その命令を守」って生きることですから(伝道の書12:13)、神に背を向けて生きている限り、真の満足や生きがいを得られないのも当然ですし、エゴとエゴとがぶつかり合う世界、家庭や職場、学校になるのも当然でしょう。そうした的外れの生き方を聖書は「罪」と言い、この罪の問題を解決するために神から遣わされたのが御子イエスです。「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:20~21)、「神の国が力をもって来る(=十字架)」(マルコ9:1)とイエスが言われたように、神の国はイエス来臨によって、さらには十字架と復活によって実現しています。またイエスを信じる者の心の「ただ中に」、信仰者の集まりである教会の「ただ中に」も実現しています。
神は今、聖書によってご自身と神の国の奥義を明らかにしておられます。「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった」(使徒行伝17:27)とあるように、偏見等を捨てて虚心坦懐に聖書に聞くならば、必ず神の国の奥義を知ることができるようにしておられます。それゆえ、「聞く耳のある者は聞くがよい」。

マルコによる福音書4:13~20「実を結ぶ土地、結ばない土地」

2019年10月13日、マルコによる福音書4:13~20「実を結ぶ土地、結ばない土地」
①種は神の言葉
種と御言葉には共通点があります。⑴いのちがある…御言葉は罪を示し、イエスの十字架を悟らせ、信じる者を「新たに生れ」させるいのちがあります(Ⅰペテロ1:23)。⑵力がある…御言葉には信じる者を造り変え、試練や誘惑に打ち勝たせる力があります(ヘブル4:12)。⑶実を結ぶ…御言葉が心の内に宿ると、やがて悔い改めの実(マタイ3:8)、品性の実(ガラテヤ5:22~23)、救霊の実(ヨハネ15:16)を結ぶようになります。
②土地は聞く人の心
どの土地にも「種は…落ちた」とあり、種も蒔き方も皆同じですが、ただ落ちた土地(=御言を聞く人の心)が違うために結果が異なりました。⑴道ばた(4、15節)…人や家畜の行き来で踏み固められた畑の小道のことで、かたくなな心を表しています。せっかく御言葉を聞いても、心を閉ざしてはねつけるので、サタンに奪い取られてしまうのです(ヘブル4:7)。⑵土の薄い石地(5~6、16~17節)…岩の上に土が薄くかぶさっているだけで深く根を張れず、暑い日にはすぐ枯れてしまう地のことで、感情的・衝動的な心を表しています。御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れますが、「困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしま」います。⑶いばらの地(7、18~19節)…地中にいばらの根が残っていて、やがていばらに覆い尽くされる地のことで、世的な心を表しています。神を第二第三にしていると、心はいつの間にか世に占領されてしまいます。⑷良い地(8、20節)…絶えず砕かれ、教えられやすく従いやすい心は、豊かに実を結びます(エレミヤ4:3、詩篇51:17)。

マルコによる福音書4:1~12「神の国の奥義」

2019年10月6日、マルコによる福音書4:1~12「神の国の奥義」
①神の国とは何か
「神の国」とは、神の恵みによる支配ということです(「御国」「天国」も同意)。「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(ルカ17:20~21)、「神の国が力をもって来る(=十字架)」(マルコ9:1)とイエスが言われたように、神の国はイエス来臨により、さらに十字架と復活により、すでにこの地上に実現しています。またイエスを信じる者の心の「ただ中に」、信仰者の集まりである教会の「ただ中に」も実現していますが、いまだ不完全で、完成はキリスト再臨後のことです(黙示録 第20~21章)。
②神の国を譬え話で語るのは
「神の国の奥義」を教える際、イエスはしばしば譬え話を用いられました。その第一の理由は、真理をわかりやすくするためです。「多くの預言者や義人は…見ようと熱心に願ったが、見ることができず…聞こうとしたが、聞けなかった」(マタイ13:17)神の国の奥義を、イエスは譬え話という形式で私たちにわかりやすく一般公開してくださったのです。第二の理由は、逆に真理を隠すためです。いくらイエスの説教や奇跡によって神の国を提示されても、律法学者やパリサイ人のように「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず」という頑なな姿勢を変えようとしなければ、ますます神の国から遠くなり、「悔い改めてゆるされることがない」という結果を招くことになります。結局どのように御言葉を聞いているか、その姿勢が問われているのです。あなたの御言葉受信機のダイヤルは正常でしょうか。都合の悪い御言葉は受信しない等ということはないでしょうか。

マルコによる福音書3:31~35「血は水よりも濃し、霊は血よりも濃し」

2019年9月29日、マルコによる福音書3:31~35「血は水よりも濃し、霊は血よりも濃し」
イエスの噂を聞きつけて母と兄弟たちが訪ねて来ると、イエスは「弟子たちの方に手をさし伸べて」(マタイ12:49)、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」と言われました。イエスを信じて「神のみこころを行う者はだれでも」神の家族だ、ということです。
そう言われたイエスご自身、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタイ6:10)と祈るよう教えられました。ゲツセマネの園では「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(14:36)と神と格闘の末、御心に従って十字架上で死なれました。
「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(Ⅰテモテ2:4)。イエスを信じて救われることこそ、神が何よりも「望んでおられる」ことで、「わたしの兄弟、また姉妹」という神の家族とされる出発点です。それは、悔い改めと信仰によって「だれでも」得られる恵みです。その上で神を愛し人を愛して生きていくのですが(12:30~31)、たとえば私たちが「清くなること」は「神のみこころ」です(Ⅰテサロニケ4:3)。「今日もイエスが一緒に行ってくださらないような所に行くことがありませんように。イエスに覗かれて困るようなことを心に描きませんように」(ベイリー)。「いつも喜んで…絶えず祈り…すべての事について、感謝」するのは、「神があなたがたに求めておられること」です(Ⅰテサロニケ5:16~18)。あなたの今の歩みは、十字架の血によって神の家族とされた者にふさわしい歩みでしょうか。

ヘブル人への手紙11:13~16「天の故郷に憧れて」

2019年9月22日、ヘブル人への手紙11:13~16「天の故郷に憧れて」
信仰によって生き、「信仰をいだいて死んだ」、これが旧約の聖徒たちの生涯の共通点でした。判で押したように「…年生きて…そして死んだ」と記される中、エノクだけは「神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」と特筆されています(創世記5:24)。彼は後世に残るような大事業はしませんでしたが、神と共に歩むという大事業を完成し、神によって永遠に評価される信仰者となりました(5節)。「アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時」、「信仰によって…それに従い、行く先を知らないで出て行った」(8節)ものの、山あり谷あり、妻の亡骸を葬る墓地以外に所有地はなく、「旅人であり寄留者」のような生涯でした。それでも不平不満を漏らさず神に従い続けることができたのは、「もっと良い、天にあるふるさと」、「ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいた」(10節)からです。やがて憧れの天の故郷に迎え入れられ永住するというゴールをしっかり見つめていたからです。そんな「アブラハムは幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ」(創世記25:8、新改訳2017)、悔いのない充実した信仰生涯を全うした人でした。
「飛行機は飛び立つときより着地が難しい。人生も同じだよ」(本田宗一郎氏)。さっそうと離陸して快調に飛行しても、着陸に失敗すれば一巻の終わりです。あなたはどのような人生の着地をしようとしていますか。エノクやアブラハムのように天の故郷をしっかりと見据えながら、「幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ」という神と共なる信仰生涯こそ目指すべき着地ではないでしょうか。

マルコによる福音書3:19b~30「赦される罪、赦されない罪」

2019年9月15日、マルコによる福音書3:19b~30「赦される罪、赦されない罪」
イエスは「ベルゼブルにとりつかれている…悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と律法学者たちが非難すると、イエスは譬えによってその論理の誤りを指摘された上で、人が「犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる」が、「聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」と言われました。悔い改めと信仰によって赦されない罪などこの地上に一つもありません。誰でもいつでもやり直し可能、それがイエスの福音です。イエスが説教や奇跡によって神の愛や力を現しておられるのに、律法学者たちのように受け入れようとしない人こそ「聖霊をけがす者」で、「いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」のです。罪の大小・多少ではなく、悔い改めと信仰の有無が問われているのです。一度限りの行為というよりも、継続した心の姿勢が問われているのです。
神がその人の人生から手を引いて「なすに任せられ」ることほど恐ろしいさばきはありません(ローマ1:24~32)。その恐ろしさを知らないから平気で罪を犯せるのです。罪から離れ、神の愛の中に飛び込むべきだと示されていながら、「また、よい機会を得たら」(使徒行伝24:25)と言い訳して、悔い改めと信仰の決断を先延ばしにしていると、永遠に後悔することになりかねません。それゆえ聖書は、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4:7)、「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」(イザヤ書55:6)と語りかけているのです。御言葉と御霊の光に即刻忠実に従って歩み続けましょう。

マルコによる福音書3:13~19a「そばに置いて遣わすため」

2019年9月8日、マルコによる福音書3:13~19a「そばに置いて遣わすため」
イエスは「夜を徹して神に祈られ」(ルカ6:12)、「みこころにかなった者たち(新共同訳「これと思う人々」)」12名を使徒として選ばれました。その目的は「彼らを自分のそばに置くためであり」、「つかわす」ためです。この二つの目的は、私たちが選ばれ救われた目的でもあります。
第一は「自分のそばに置くため」。イエスは寝食を共にして生き方を見せることで、彼らをご自分に倣う者へと造り変えようとされたのです。イエスのそばで御言葉に養われ(ルカ10:39)、イエスの教育・訓練・感化を受け続けるなら、次第にイエスに似てくることでしょう。
第二は「つかわす」ため。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝え」(16:15)る「宣教」のため、「悪霊を追い出す権威を持たせるため」に「つかわす」のです。私たちが先に救われたのは、「救わんがための救い」(ブース大将)、私たちを通して誰かが救われるためです。普段はおしゃべりなのに、「この人による以外に救はない」(使徒行伝4:12)ほどすばらしい福音の宣教となると、どうして途端に無口になってしまうのでしょうか。「今の時を生かして」(エペソ5:16)、「時が良くても悪くても」(Ⅱテモテ4:2)、イエスを証ししたいものです。
12使徒の名簿は、イエスを否認した「ペテロ」に始まり、イエスを裏切った「ユダ」で終わっています。最初から出来上がった人が選ばれたのではないということです。しかしやがてペテロは教会の柱に造り変えられ、「雷の子」ヨハネは愛の人に造り変えられました。ユダを除く使徒の生涯は、イエスのそばで学び、取り扱われ、造り変えられる恵みがいかにすばらしいものであるかを証明しています。

マルコによる福音書3:7~12「あなたこそ神の子です」

2019年8月18日、マルコによる福音書3:7~12「あなたこそ神の子です」
イエスが安息日に片手のなえた人を癒されたことで、パリサイ派とヘロデ党が「イエスを殺そうと相談しはじめた」一方(1~6節)、各地から「イエスにさわろうとして、押し寄せてきた」人々もいました。真実に救いを求める人もいたでしょうが、多くはご利益目当ての人でした。イエスを正しく認識していたのは、皮肉にも「けがれた霊ども」で、「あなたこそ神の子です」と認めていました(ヤコブ書2:19)。
あなたも、群衆のようにただイエスの周りを取り囲むだけで、本気で信じようとも従おうともしない人でしょうか。悪魔のようにただイエスについて頭でよく知っているだけの人でしょうか。どんなにイエスについてよく知っていても、どんなにイエスの周りをうろうろしていても、悔い改めと信仰によってイエスにつながることがなければ、いつまでたっても何の変化もあり得ません。「十二年間も長血をわずらっている女が…せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思って」、「群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった」ところ、たちどころに癒されました(5:25~34)。彼女のように明確な願いをもってイエスに近づいて触れることが大切です。そのときイエスも私たちに対して全能の御腕を伸ばして、最善の時に最善の方法でその祈りに答えてくださることでしょう。
「あなたこそ神の子です」と本物の信仰告白をして、イエスと共に歩む信仰生涯に入る決断をすべきではないでしょうか。いつまでも同じところに留まっていないで、「どうせ自分は駄目だ」と諦めていないで、明確な願いをもって一歩踏み出すべきではないでしょうか。

マルコによる福音書3:1~6「あなたの手を伸ばしなさい」

2019年8月11日、マルコによる福音書3:1~6「あなたの手を伸ばしなさい」
安息日の会堂に「右手のなえた人」(ルカ6:6)がいました。パリサイ人が「イエスを訴えようと思って…うかがってい」ると、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」とイエスに質問されましたが、「彼らは黙ってい」ました。「イエスは怒り…その心のかたくななのを嘆いて」、「手を伸ばしなさい」と言って癒されると、それを機に分離主義の「パリサイ人」と世俗主義の「ヘロデ党」がイエス憎しで一致、「イエスを殺そうと相談しはじめ」ました。
取税人や罪人に対しては怒られなかったイエスですが、自称義人のパリサイ人や律法学者に対しては、その心のかたくなさを嘆き怒られました(11:15~18、マタイ第23章「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである」計8回)。「律法的な信仰が問題なのは…周りの人々を批判することです」(丸屋真也師)。律法的な信仰から恵みに生きる信仰に変わるためにはどうしたらよいのでしょうか。それは、強がるのをやめること、裸の恥を覆い隠す鎧を脱ぎ捨てることです。自分の弱さを正直に認めてへりくだり、神の助けを求めるならば、頑固で傲慢で冷たい「石の心を除いて」、教えられやすく従いやすい、柔らかく温かい「肉の心を与え」られます(エゼキエル書36:26)。「雷の子」(3:17)とあだ名された怒りっぽいヨハネも、愛の使徒に造り変えられました。「『わたしとしたことが、こんなはずじゃなかった』と思うようなことをしてしまったときこそ、自分がどんな人間かを知るチャンス。『わたしはこんな人間だ』と素直に認められたなら、そこから成長が始まるでしょう」(片柳弘史師)。さあ、「手を伸ばしなさい」。

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