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申命記34:1~8「主のしもべの死」

2018年1月13日、申命記34:1~8「主のしもべの死」
モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルは、不従順のために荒野を40年も放浪しましたが、遂に約束の地の手前まで到達しました。主はピスガの頂からモーセに約束の地を見せられた上で、「あなたはそこへ渡って行くことはできない」と改めて言われました。荒野放浪中、飲み水がないことで民がつぶやくと、「岩に命じて水を出させなさい」と主が言われたのに、「モーセは…つえで岩を二度打」って水を出したため、モーセは約束の地に入れないことを宣告されていました(民数記20:2~13)。考え直して下さるようモーセが主に懇願すると、主は「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない」(新改訳)と言われました(申命記3:23~28)。「もう二度と聞きたくない」というよりも、「お前はかたくなな民を導くことでこれまで苦労してきたのだから、もう十分だ。ゆっくり休むがよい」という意味なのではないでしょうか。モーセが約束の地に入れなかったのは、さばきというよりも、主のあわれみによるのでしょう。
「主のしもべモーセは主の言葉のとおりに(新改訳「主の命令によって」)モアブの地で死んだ」。モーセの地上での使命が終わったから、「主の命令によって」召されたのであり、それが約束の地の手前であったということです。「主の命令によって」を直訳すると、「主の口によって」となり、ラビは「主の口づけによって」と訳しました。大震災で召された兄弟姉妹たちも、計り知れない主の深い御旨によって地上の使命を終えたので、主は身をかがめて兄弟姉妹に口づけし、ご自分のもとに迎え入れられたと信じ、主の愛の御手にお委ねしましょう。

ヨシュア記1:1~9「強く、また雄々しくあれ」

2019年1月6日、ヨシュア記1:1~9「強く、また雄々しくあれ」
「主のしもべモーセが死んだ後」、後継者として選ばれたヨシュアは、恐れと不安でいっぱいだったでしょう。実は出エジプトの指導者として召されたときのモーセも同じで、様々な理由をつけて拒んでいました。「与えられた仕事が重く感じられる時、私たちは、心配になったり、緊張したり、不安にかられたりします。『モーセ症候群』にかかってしまい、目の前に立ちはだかるチャレンジを克服するなんてとてもできないと思ってしまいます。このことの間違いは、自分自身を低く評価しているということではありません。むしろ、神様を低く評価していることにあります」(『平安を得るためのヒント100』)。
恐れおののくヨシュアに対して主は、「強く、また雄々しくあれ」と三度も励まされました。それは単なる気休めではなく、確かな保証があっての励ましでした。それは、「モーセと共にいたように、あなたと共におる…あなたを見放すことも、見捨てることもしない…あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ」です。
「神はわれらの避け所また力…悩める時のいと近き助け」(詩篇46:1)と言われる主が「わたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)。主の臨在こそ何ものにも勝る力です。「自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだね」(Ⅰペテロ5:7)、臨在の主を信じ、御言葉に従って歩むなら、「強く、また雄々しくあ」ることができます。試練や困難に直面しても、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)、「あなたは、わたしに従ってきなさい」(ヨハネ21:22)と言われる主に信頼しましょう。

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詩篇119:9~16「御言葉に思いを潜める」

2019年1月1日、詩篇119:9~16「御言葉に思いを潜める」
「心のうちに」何を「たくわえ(宝物や高価なものを隠すように大切に保存する、の意)」るかで、その人の人生が決まってきます。詩人は、神の「み言葉」こそ最も大切に「たくわえ」るべきものと認識していました。神を愛し、神の御言葉に従って生きていくことこそ、神に似せて造られた私たち人間の本分です(伝道の書12:13)。そのことを確認するためにも、毎週の礼拝・祈祷会、日々の御言葉と祈りの時が重要です。そこで語りかけられる御言葉を「心のうちに…たくわえ」ていくのです。
その上で「さとしを思い(黙想する、の意。新改訳「戒めに思いを潜め」)」、牛のように御言葉を反芻し、黙想することが大切です。御言葉をお茶漬けのようにさらさら流し込んでおしまいにするのではなく、祈り心をもってよく噛みしめ、何度も何度も味わいましょう。夜寝る前、今朝読んだ御言葉は何であったか思い出せないのは、朝の御言葉を一度限りのものにしてしまうからです。そうではなく、朝の御言葉を一日のうちに何度も何度も思い起こして口ずさむならば、その御言葉が魂にしっかり刻み付けられ、血となり肉となっていきます。
もし信仰の軌道をはずれかけていれば、御言葉によって軌道修正していただき、自分の不信仰によって神とその力を小さくしていれば、御言葉のレンズによって元通りの偉大な神を見せていただくのです。そうするなら、「罪を犯すことのないように」なるでしょう。「あなたの定めを喜び、あなたのみ言葉を忘れ」ないようになるでしょう。勝利ある信仰生活は、「心のうちにみ言葉をたくわえ」、黙想し、御言葉に信頼するという地道な一歩一歩の積み重ねによるのです。

テサロニケ人への第一の手紙5:16~18「常時喜悦・不断祈祷・万事感謝」

2018年12月30日、テサロニケ人への第一の手紙5:16~18「常時喜悦・不断祈祷・万事感謝」
①常時喜悦(16節)
一般的に、良いことがあったり事態が好転したりすると喜びますが、逆に悪いことがあったり事態が悪化したりすると喜べないものです。それは、喜びの原因が外部にあり、外部の状況に左右される喜びだからです。しかしキリスト者の喜びは違います。私のために御子イエスを惜しみなく十字架の死に渡された神は、私をこよなく愛し、常に私の味方で、「永遠の腕」をもって支え(申命記33:27)、最善以下のことは決してなさらないという聖なる楽観主義ゆえ、とても喜べるような状況でないときにも、主にあって喜ぶことができるのです。
②不断祈祷(17節)
「絶えず(ひっきりなしに、熱心に、諦めないで、の意)祈」るとは、時々刻々、最善をなされる神と心通わせつつ、神に委ねて生きていることです。神は必ず祈りを聞かれるという神への信頼と確信があるので、諦めないで祈り続けることができます。「もう少しの祈り、もう少しの信仰、もう少しの忍耐、そうすれば答えは必ず来る」(ジョージ・ミュラー)。
③万事感謝(18節)
「すべての事について(直訳「すべての事の中で」)、感謝しなさい」とは、今の辛い出来事の中でも、あらゆる環境の中でも、すべては神の恵みと受け止めて感謝していることです。神のご計画は、私たちの考えや計画と一致しないことが時にありますが、私たちが「更に御子のかたちに似たものと」なるように、すべて「神は…万事を益となるようにして下さ」います(ローマ8:28)。この神に信頼し、感謝しましょう。

ヨハネによる福音書1:9~13「光は闇の中に輝いている」

2018年12月16日、ヨハネによる福音書1:9~13「光は闇の中に輝いている」
偽りの光で満ちてはいますが、実は罪のため真っ暗闇である世に、キリストは「すべての人を照らすまことの光」として来臨されました。
「光」の働きの第一は、闇を照らし出すことです。「光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる」(エペソ5:13)。御言葉に真に耳を傾け、心の奥底に光を当てられるならば、自分の心の闇、罪深さが見えてくるはずです。人は皆、神に造られ、生かされているにもかかわらず、神を無視して自分勝手に歩んでいます。そのような状態を聖書は「罪」と呼び、そこから様々な悪い行い(不品行、盗み、殺人、姦淫等)や悪い考え(憎しみ、嫉妬、怒り、愚痴等)が出てくるのです(マルコ7:20~23)。
しかし光は罪を照らし出しておしまいではありません。闇は、箒で掃き出すことも、掃除機で吸い取ることもできませんが、たとい一本の蝋燭のような光であっても、光が来れば闇はたちまち追い出されてしまいます。そのように「光」の働きの第二は、闇を一掃することです。罪に汚れ果てた私たち人間の側から聖なる神に近づくすべは全くないので、神の側から私たちに近づいて来て下さいました。それがクリスマスの出来事です。私たち人間と同じ姿をとって降誕されたキリストは、全人類の罪の身代わりとして十字架につけられ、神にさばかれて死なれ、それにより救いを完成されました。キリストは実に死ぬために降誕されたのです。このキリストを「受けいれ…信じ」るなら、心の闇の根源は一掃されて「神の子」とされ、喜びと光にあふれる人生に変えられます。試練や困難に襲われても、キリストが重荷を負って下さるので、雄々しく乗り越えることができます。

ルカによる福音書2:1~7「飼葉おけのキリスト」

2018年12月9日、ルカによる福音書2:1~7「飼葉おけのキリスト」
①客間はいっぱい
生まれ故郷で住民登録するため、ヨセフは身重の妻マリヤを連れてベツレヘムまで行くことになりました。ようやくたどり着いたベツレヘムの宿屋はどこも満員で、彼らは仕方なく家畜小屋で一夜を明かすことにしたその晩、神の御子イエス・キリストが誕生されたのです。神の御子が最もふわさしくない降誕をされたのは、「客間には彼らのいる余地がなかったから」です。これは、イエスの生涯と人間の心を暗示しています。昔も今も人々はイエスを拒絶し、その心の中はこの世の様々な先客で満員状態、イエスの「いる余地」などありません。それでいて心の中はいつも満たされず、様々な行き詰まりがあり、暗い家庭や社会、孤独があります。それらの真の原因は、イエスに「いる余地」を与えない的外れの罪にあります。そんな私たちを救い出すために、イエスはこの世に降誕され、私たちの罪を背負って十字架につけられ、神の怒りとさばきを一身に受けて死ぬことによって、ただ信じるだけで救われる道を開いて下さったのです。
②ベッドは飼葉おけ
「飼葉おけの中に寝かせた」とは、臭く汚れた私たちの心の真っ只中にもイエスは来て下さることのしるしです。また、私たちがどんなに低く弱く惨めに思うときにも、イエスは同じ所まで下って来て、慰め励まして下さることのしるしです。このイエスを信じるなら、家畜小屋以上に汚れた心もきよめられ、その心の中にイエスが宿って、悩み多い人生を共に歩んで下さるのです(マタイ28:20、ヘブル13:5)。

イザヤ書11:1~5「根株から新芽が生え」

2018年12月2日、イザヤ書11:1~5「根株から新芽が生え」
「エッサイの株から…若枝が生えて…主の霊がとどまる」。ダビデの子孫としてキリストが降誕、御霊によって働かれることの預言です。
①知恵と悟りの霊
「知恵」とは、蓄えた知識を実際生活に生かしていく能力のこと、「悟り」とは、物事の本質を見抜く能力のことです。これらに満たされたキリストは、過去も現在も未来もすべて計算に入れた上で、ご計画を着々と進められるお方です。しかもそれは常に最高・最善です。近視眼的にならず、順境の時も逆境の時もキリストに信頼しましょう。
②深慮と才能の霊=新改訳2017「思慮と力の霊」
「深慮(9:6「議士」=新改訳「助言者」と同語源)」とは、物事の本質を深く考えて的確な助言を与えること、「才能」とは、能力、力のことです。これらに満たされたキリストは、私たちに的確な助言を与え、最善の計画を立て、大能の力をもって実行に移されるお方です。それゆえ、「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)。キリストの助言に従って歩むなら間違いありません。
③主を知る知識と主を恐れる霊
「主を知る知識」とは、人格的な交わりによって主を知ること、「主を恐れる霊」とは、神を神として崇めることです。これらに満たされたキリストは、「主を恐れることを楽しみとし(匂いを嗅ぎ分ける、看破する、の意)」、御心かどうか敏感に嗅ぎ分け、常に御心を選び取られました。その頂点がゲツセマネ、十字架です(マタイ26:39、ピリピ2:8)。キリストに王座を明け渡し、「みこころを行うことを喜びま」しょう(詩篇40:8)。


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マルコによる福音書1:6~8「私よりもさらに力のある方」

2018年11月25日、マルコによる福音書1:6~8「私よりもさらに力のある方」
バプテスマのヨハネの使命は、人々をキリストに導く道備えをすることで、「水でバプテスマをさずけ」ていました。それは、「聖霊によってバプテスマをお授けになる(聖霊の中に浸す、沈める、の意)」キリストを信じて聖霊なる神の中にどっぷり浸され、聖霊色に染まり、神に似せられていくというキリストによる救いの予備的なものでした。
ヨハネ自身、「荒野で呼ばわる者の声」に過ぎないこと、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる」こと、「わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない」ことを謙虚に自覚していました。「声」というものは、言葉を運ぶ器に過ぎないと同時に、瞬間的に消え去っていくものです。ヨハネは「彼(キリスト)は必ず栄え、わたしは衰える」(ヨハネ3:30)と言いました。「花婿の友人」は「花婿」のため心砕いて婚宴を整え、婚宴後は自分の責任を果たした喜びと満足に満たされて静かに立ち去ります。ヨハネは、ちょうど「花婿の友人」のような思いでキリストのために道備えをしてきたこと、そして今や表舞台から消え去る日が来ていることを自覚していました。キリストの登場によって自分の影が薄れても少しも腐りません。それは、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない」(ヨハネ3:27)ということを悟り、己の分を正しく認識していたからです。
パウロの切願も「わたしの身によってキリストがあがめられる(拡大される、の意)こと」(ピリピ1:20)でした。私によってキリストが拡大されているでしょうか。逆に縮小されていないでしょうか。キリストを知らない人々のために、今こそ「荒野で呼ばわる者の声」が必要です。

マルコによる福音書1:2~5「荒野で叫ぶ者の声」

2018年11月18日、マルコによる福音書1:2~5「荒野で叫ぶ者の声」
「預言者イザヤの書に…と書いてある」とは、「神の子イエス・キリストの福音」は、旧約聖書の預言の成就だということです。最初の人アダムが罪を犯したときから計画されていた救いで(創世記3:15)、イザヤ他の預言者たちに度々打ち明けられてきました。そうした入念な準備の後にキリストが登場するのですが、その前にバプテスマのヨハネが遣わされ、人々がキリストを信じ受入れる道備えをしました。
ヨハネの中心メッセージは「悔改め(心の方向転換、の意)」でした。心の向きを180度変え、自分中心から神中心に方向転換することです。生まれながらの人間は皆、神に背を向けて生きている罪人です。罪を犯すから罪人なのではなく、生まれながらの罪人だから罪を犯してしまうのです。神に背を向けたまま歩き続けると、神から遠ざかる一方です(マルコ7:21~22)。そのような歩みがいかに人を傷つけ、自分を汚し、神を悲しませてきたかに気づいて、今後は自分中心から神中心に生きていこうと心の向きを180度変えるのが「悔改め」です。そのように神に向かって歩み続けると、神にますます近づき、神と共に歩むようになります。これこそ神に造られた人間の本来あるべき姿です。とは言え、悔い改めだけでは救われません。罪を悔い改めた上でイエスの十字架を信じるから救われるのです(使徒行伝20:21)。
当時、救い主が来られたら、神の選民ユダヤ人は自動的に救われると信じていました。ヨハネはそうした浅薄な期待を打ち砕き、真に心の方向転換をしたなら、「悔改めにふさわしい実を結」ぶはずだ、と語りました(ルカ3:8)。悔い改めの徹底こそ、救いの鍵だからです。

マルコによる福音書1:1「イエス・キリストの福音」

2018年11月11日、マルコによる福音書1:1「イエス・キリストの福音」
「神の子イエス・キリスト(について)の福音」こそ、全人類が最も必要としていた勝利の知らせ、喜びのおとずれです。人類共通の究極の問題である罪と死に、真の解決を与え得るものだからです。世のニュースは、どんな大事件や大発見であっても、しばらくすると忘れられてしまいますが、福音は永遠に変わらないグッドニュースです。
「神の子イエス・キリスト」とは、イエスはキリスト(油注がれた者、の意)であり神の子である、ということです。ペテロは弟子たちを代表して「あなたこそ、生ける神の子キリストです」、イエスこそ約束のメシヤ=キリスト、救い主と信仰告白しました(マタイ16:13~16)。御霊は罪を指摘し、十字架はその罪を赦すためであることを示し、悔い改めと信仰へと導きます(マタイ16:17、Ⅰコリント12:3)。「神の子イエス」と言っても、イエスは神の被造物ではなく、永遠の初めから父なる神と共にいて天地を創造され、人々に神を見せ、十字架と復活による救いを完成するために来臨された「神の子」です(ヨハネ1:2~3、14、18)。
パウロとバルナバの伝道旅行に同行しながら途中で逃げ帰ってしまったマルコ自身(使徒行伝13:5、13)、「彼(マルコ)はわたしの務のために役に立つから」とパウロに高く評価されるほど、福音によって造り変えられました(Ⅱテモテ4:11)。イエスを裏切ったペテロも、「弟子たちとペテロとの所へ行って」(マルコ16:7)という御使の言葉を聞き、裏切者の名をもう一度呼んで下さるイエスの愛に触れ、再び立ち上がることができました。「神の子イエス・キリストの福音」は、信じる者の人生を造り変え、新しく出直す力、立ち上がる力を与えるのです。

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