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マタイによる福音書28:16~20「三位一体の神」

11月6日、マタイによる福音書28:16~20「三位一体の神」
①贖いにおける三位一体(エペソ1:3~14)
a.贖いの計画者である父なる神(3~6節)…「天地の造られる前から」人類の贖いを計画しておられた父なる神は、最初の人アダムの堕罪直後、十字架による救いの計画を打ち明けられました(創世記3:15=原始福音)。
b.贖いの実行者である子なる神(7~12節)…父なる神の贖いのご計画に基づいて、人の子として来臨された御子イエスは、ゲツセマネにおける祈りの格闘の末、御心に服従して十字架刑を受け入れられました(ルカ22:39~46)。全人類の罪のために十字架上で死んで三日目に復活された御子によって、罪による滅びから救われる道が開かれたのです。
c.贖いの適用者である聖霊なる神(13~14節)…聖霊は「罪と義とさばきとについて、世の人の目を開」き(ヨハネ16:8)、「神に対する悔い改めと…主イエスに対する信仰」へと導きます(使徒20:21)。そのようにして罪赦された者に、聖霊は御言葉による証印を押して救いを確信させます。
②交わりにおける三位一体(Ⅰヨハネ1:3)
三位の神は互いに愛し合い、支え合い、協力し合うという交わりをもっておられます。それゆえ「神は愛であ」り(4:8)、私たちの苦悩や喜びに共感できるのです。人間が「神のかたちに創造」されたということは(創世記1:27)、神のように交わりをもつ者として創造されたということです。神は、三位一体の親密な交わりの中に私たちをも招いておられます。「わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われる神のもとに重荷を下ろして、くつろぎましょう。

ヨハネによる福音書17:1~5「永遠の生命を信ず」

10月30日、ヨハネによる福音書17:1~5「永遠の生命を信ず」
①現在的な永遠の生命
「永遠の命(永遠の初めから終わりまで存在される神ご自身の終わりのない命)とは…イエス・キリストとを知ること」(3節)とあるように、イエスをキリスト、私の罪のための救い主と信じることにより永遠の生命が与えられます。これは、死んだ後はじめて与えられるのではなく、「信じる者は永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47新共同訳)とあるように、信じて救われたその瞬間にすでに与えられているのです。この永遠の生命にあずかっている者は、故意に平気で罪を犯し続けることはできません(Ⅰヨハネ3:9)。むしろ御言葉に従うことが喜びとなります。また、世(神に敵対し、悪魔が支配する領域)の攻撃を見破り、世に打ち勝つ力が与えられます(Ⅰヨハネ5:4~5、ヤコブ4:4)。そして神を愛し、神を第一にします。
②未来的な永遠の生命
永遠の生命にあずかった者は天国に迎え入れられ、ほふられた小羊キリストの前に立ち、御手と御足、わき腹と頭に残る傷跡を見ます。その時、私の罪のためにキリストがどんなに大きな犠牲を払われたかを思い起こし、声の限り賛美し続けることでしょう(黙示録4:8~11、5:11~14)。一方、福音を拒絶した者は永遠の滅びです(黙示録20:11~15)。ですから、先に永遠の生命にあずかった者には、「時が良くても悪くても」「御言を宣ベ伝え」る責任があるのです(Ⅱテモテ4:2)。使徒信条の最後で「アーメン」(ヘブル語。まことに、確かに、の意)と唱えるのは、「今まで告白してきた内容に心から同意し、そう信じ続けます」という信仰の表明です。

コリント人への第一の手紙15:35~49「身体のよみがえり」

10月2日、コリント人への第一の手紙15:35~49「身体のよみがえり」
①身体のよみがえり
十字架上で死んで墓に葬られたイエスが三日目に復活されたことは、イエスを信じる者もやがて復活することの「初穂」、前兆です(20~22節)。それは再臨後のことで、今のからだではなく霊のからだによみがえります(42~49節に今のからだと復活のからだとの五つの対比)。それは、「肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない」からです(50節)。復活のイエスが誰の目にもイエスと識別できたように、天国で互いに識別できるようなイエスと同じからだ、病気もしない、罪も犯さない栄光のからだを着せていただいて再会できるとは何という恵みでしょう (=栄化。ヨハネ20:19~20、ピリピ3:21)。
②身体の管理
栄化の希望を真に持っているならば、今のからだをしっかり管理するはずです。私たちのからだは内に主を宿す「キリストの肢体」ですから、この肢体を汚さないよう「不品行を避け」るのです(第一コリント6:15~18)。ヨセフのように誘惑に近づかず、誘惑から逃げることにより勝利しましょう(創世記39:7~18)。そして、からだを持たずに降臨された「聖霊の宮」として、「自分のからだをもって、神の栄光をあらわし」ていくのです(第一コリント6:19~20)。「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。わたしにとっては、生きることはキリスト…」と言ったパウロのように、全存在をもって神の栄光を現していくことこそ人生最大の目標です(ピリピ1:20~21)。

エペソ人への手紙1:3~14「罪の赦し」

9月11日、エペソ人への手紙1:3~14「罪の赦し」
①罪とその結果
最初の人アダムが神の命令に背いた結果(創世記第2~3章)、「罪がこの世にはいり、また罪によって死がはい」り、アダムの子孫である全人類は生まれながらに罪人であり(ローマ5:12)、「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが…定まってい」ます(ヘブル9:27)。そして、「罪の支払う報酬は死」、罪人の最後は永遠の滅びです(ローマ6:23)。
②罪の赦し
神は罪は罪としてさばかずにはいられない義なるお方ですが、それ以上に愛なるお方です。それゆえ神は、御子にアダムから始まる全時代、全人類の罪を背負わせて十字架につけ、罪人をさばく代わりに御子をさばくことにより、救いの道を開いて下さったのです。聖霊は「罪と義とさばきとについて…目を開」き(ヨハネ16:8~11)、「神に対する悔い改めと…主イエスに対する信仰」(使徒20:21)へと導き、御言葉によって救いの証印を押して下さいます(13節)。罪の赦しとは、「東が西から遠いように」罪が全く遠ざけられ(詩篇103:12)、主の後に捨てられ、主との間を邪魔するものは何一つない状態のことです(イザヤ38:17)。また、罪が雲や霧のように吹き消され(イザヤ43:25a、44:22)、神の記憶の中からも消去されることです(イザヤ43:25b)。さらに、足で踏みつけ、海の深みに投げ入れ、悪魔でさえも拾い上げることができないようにされることです(ミカ7:19)。悔い改めと信仰によって赦されない罪など全くないという完全な赦しが、十字架と復活によって完成されたのです。

使徒行伝2:37~47「聖徒の交わり」

9月4日、使徒行伝2:37~47「聖徒の交わり」
①聖徒の交わりの基礎
世から贖い出されたという事実において、キリスト者は皆「聖徒」ですが、倫理的にも「聖徒」と呼ばれるにふさわしく「内にキリストの形ができる」よう神は切望しておられます(ガラテヤ4:19)。十字架によって神との縦の関係が回復され、三位一体の神との交わりの中に入れられた者が集まると(Ⅰヨハネ1:3)、横の関係である「聖徒の交わり([ギ]コイノーニア=同じものを分け合う、一つのものにあずかる、の意)」が生まれます。
②聖徒の交わりの内容
⑴礼拝による交わり…初代教会には、すでに「祈…宮もうで(礼拝)…パンをさき(聖餐)…食事を共にし(愛餐)…さんび」による交わりがありました(使徒行伝2:42~47)。特に聖餐は、同じ「キリストの血にあずかること(コイノーニア)…キリストのからだにあずかること(コイノーニア)」により、一つのからだであることを自覚する時です(Ⅰコリント10:16~17)。
⑵奉仕による交わり…マケドニヤの諸教会は、「奉仕に加わる恵みにあずかりたい(コイノーニア)」と考え、飢饉に苦しむエルサレム教会のために「力に応じて、否、力以上に」献金を献げました(Ⅱコリント8:1~4)。
⑶愛による交わり…迫害者パウロが回心すると、「ヤコブとケパとヨハネとは…交わり(コイノーニア)の手を差し伸べ」、パウロを赦し、仲間に迎え入れました(ガラテヤ2:9)。互いに赦し合い、愛し合うことこそ教会のトレードマークです(ヨハネ13:34~35)。無条件でキリストにあって赦されたので、無条件で人をも赦し、受け入れるのです(エペソ4:32)。

エペソ人への手紙1:15~23「聖なる公同の教会」

8月21日、エペソ人への手紙1:15~23「聖なる公同の教会」
①教会
「教会」とは、神によって世から呼び出された者たちの集まりのことで、目に見える建物のことではありません。イエスが「わたしはこの岩の上に教会を建てよう」と言われたように、教会は「あなたこそ、生ける神の子キリストです」という信仰告白の上に立てられ、イエスが教会の真の設立者・所有者、かしらなのです(マタイ16:13~18、エペソ1:22~23)。
②聖(区別された、分離された、の意)なる教会
「神が御子の血であがない取られた神の教会」(使徒行伝20:28)という召された事実のゆえに教会は聖なるものですが、実質においても「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会」(エペソ5:25~27)、聖なる教会でなければ、誰が教会に救いを求めて来るでしょうか。「キリストの苦しみのなお足りないところ」(コロサイ1:24)とは、「教会はキリストのからだ」(エペソ1:23)、両者は一心同体で、キリストのからだなる教会の受ける苦難は、キリストご自身の苦難だということです。聖なる教会であるため、パウロのように教会の破れ口を「補っている(満たしていく、の意)」、繕う者が必要です。
③公同(普遍的、の意)の教会
「公同の教会」とは、時代と地域を越え、全宇宙に満ちているキリストのからだなる教会のことで、すでに召天した信仰者や今後救われる者も加わっています。私たちは、「公同の教会」の地上における代表として今ここに集まって礼拝をささげ、福音を宣べ伝えているのです。

ヨハネによる福音書16:1~11「我は聖霊を信ず」

8月14日、ヨハネによる福音書16:1~11「我は聖霊を信ず」
①義認(救い)における聖霊
「真理の御霊…はわたし(キリスト)についてあかしを」し、「あらゆる真理に導いてくれ」ますが(ヨハネ15:26、16:13)、真理の中でも特に重要なのが救いに関することです。聖霊は、これまで犯してきた「罪」について、特にキリストを信じないことこそ最大の罪であることに目を開きます。と同時に「義」、すなわちキリストの十字架と復活による救いについても目を開き、罪が未解決であれば永遠の滅びという「さばき」があることについても目を開きます(ヨハネ16:8~11)。そして聖霊は、悔い改めと信仰によって罪赦された者の内に宿り、試練や苦悩の尽きない人生を共に歩んで下さる「助け主」であり(ヨハネ14:16~17)、御言葉を開いて信仰の奥義を悟らせて下さる「真理の御霊」です(ヨハネ16:13)。
②聖化(潔め)における聖霊
救われてもなお、「欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」という魂の葛藤を覚えます(ローマ7:15~24)。その原因は「内に宿っている罪」(自我、肉、古き人)にあります。聖霊によって自己の醜い真相が暴露され、神の前に全く砕かれた魂で十字架を仰ぐとき、あの十字架は犯した罪を赦すだけでなく、内に宿る罪も共につけられて死んだ十字架であることを見出します(ガラテヤ2:19~20)。そして、罪を犯しては悔い改めるという中途半端な信仰生活に終止符を打ち、誘惑に勝利し続けることのできる信仰生活を送らせ、品性の実を結ばせ、日々キリストに似る者として下さるのです(ガラテヤ5:22~23、4:19)。

マタイによる福音書16:13~20「イエス・キリストを信ず」

7月31日、マタイによる福音書16:13~20「イエス・キリストを信ず」
①その独り子
イエスは永遠の初めから父なる神と共におられ、共に天地を創造され、私たちに神を見せた神の独り子です(ヨハネ1:2~3、14、18)。独り子を信じるならば「神の子」とされ、イエスは「彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない」とは何という恵みでしょうか(ヨハネ1:12、ヘブル2:11、ローマ8:29)。
②イエス・キリスト
ペテロは弟子たちを代表して、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」、イエスこそ約束のメシヤ=キリスト、救い主と信仰告白しました。御父と御霊は人の罪を指摘し、十字架はその罪のためであることを示し、悔い改めと信仰へと導いて下さいます(17節、Ⅰコリント12:3)。
③我らの主
「主」とは、全宇宙の主権者なる神を表す呼び名です(ピリピ2:10~11、黙示録17:14)。イエスを「我らの主」と告白するとは第一に、私のかしらはイエスだということです。イエスよりも自分をかしらとし、御言葉よりも自分の思いを優先してはいないでしょうか。第二に、私のすべてはイエスのものだということです。以前は悪魔に属する者でしたが、恵みによって神に属する者とされました。所有者が代わった者らしく不品行を避け、神の栄光を現しているでしょうか(Ⅰコリント6:15~20)。第三に、イエスはあの兄弟姉妹の主でもあり、私たちは「キリスト・イエスにあって一つ」、神の家族だということです(ガラテヤ3:28)。愛することができない人、赦すことができない人がいないでしょうか。

テサロニケ人への第一の手紙4:13~18「かしこより来りて」

7月24日、テサロニケ人への第一の手紙4:13~18「かしこより来りて」
①再臨とさばき
キリストが再臨されると、まず「キリストにあって(=キリストを信じて)死んだ人々」がよみがえり、次にその時「生き残っている」キリスト者たちが瞬間的に栄化され、「空中で主に会い…いつも主と共にい」ます。
千年王国後、サタンが「火と硫黄との池に投げ込まれ」て完全に滅ぼされ(黙示録20:1~10)、キリストを信じなかった人々は「そのしわざに応じて、さばきを受け…火の池に投げ込まれ」て滅びます。「いのちの書」に名前が記されているキリスト者たちは滅びを免れますが、「そのしわざに応じ…さばかれ」、報いが決まります(黙示録20:11~15、マタイ12:36)。
罪に汚れた天地が崩れ去ると(Ⅱペテロ3:10~13)、「新しい天と新しい地」が完成し、聖徒たちは永遠に神と共に住むのです(黙示録21:1~4)。
②再臨への備え
十字架を信じて罪赦され、純白の義の衣を着せられたのに、その衣が罪のため薄汚れていないでしょうか。汚れたものを慕い求める自我が十字架につけられて死に、御霊に支配されるならば、誘惑の多い世にあっても、きよい歩みが可能となります(3~8節、詩篇119:9、ガラテヤ5:16)。
再臨はある日突然臨みますので、普段から「つとめて落ち着いた生活」、御言葉に忠実に従った生活を送ることが再臨への最善の備えとなります。「信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された(翻訳する、の意)」(ヘブル11:5)。地上での時々刻々の歩みが、そのまま場所を天に移し替えても少しも違和感のないものでありますように。

使徒行伝1:6~11「天に昇り、神の右に座したまえり」

7月17日、使徒行伝1:6~11「天に昇り、神の右に座したまえり」
復活の主イエスは、四十日にわたって度々弟子たちに御姿を現された後、オリブ山から天に昇って行かれました。そして父なる神の右に着座され、全宇宙を支配する統治者、教会のかしらとなられました(エペソ1:20~23)。昇天、着座された主イエスが今しておられることは…
①贖いをなす(Ⅰヨハネ2:1~2)
イエスを信じて神の子とされても、不完全な私たちは罪を犯すことがあります。2000年前「わたしたちの罪のための、あがないの供え物」となられたイエスは、今も後も十字架の血潮を神の前に携え、罪の赦しを請う「助け主」(=新改訳「弁護してくださる方」)です。それゆえ、血潮を仰いで赦されない罪など一つもないのです(Ⅰヨハネ1:9、ローマ8:34)。
②祭司としてとりなす(ヘブル7:24~25)
イエスは永遠の大祭司として私たちのために日夜「とりなしておられる」ので、欠けだらけの祈り、呻きや涙であっても神のもとに届けられ、聞かれるのです。火のような試練の時には、イエスは身を乗り出すようにして祈って下さるのです(使徒行伝7:55「神の右に立っておられる」)。
③聖霊を注ぐ(使徒行伝2:33)
イエスは、神から「約束の聖霊を受けて」、信じる者に、教会に聖霊を注ぎ続けておられます。
④場所を用意する(ヨハネ14:1~3)
イエスは今、信仰者たちのために「すまい」を用意しておられます。用意ができたら迎えに来られ、新天新地で永遠に神と共に生きるのです。

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