記事一覧

ヨハネによる福音書2:1~11「水をぶどう酒に変えるキリスト」

3月25日、ヨハネによる福音書2:1~11「水をぶどう酒に変えるキリスト」
人生最大の喜びである婚礼において、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。これは、私たちの人生にも思いがけない問題や悩みが生じ、喜びや楽しみが尽き果てる時がくることを意味しています。この世の有限なものに人生の基盤を置いている限り、真の平安や満足がなく、絶えず恐れや不安が付きまとうのも至極当然のことです。
婚礼の最中の大ピンチ、母マリヤは真っ先にイエスのもとへ行って窮状を報告して助けを求めました。行き詰まりは決して絶望ではありません。「人のピンチは神のチャンス」。行き詰まったならば、慌てふためいたり、肉の知恵を働かせたりせず、「ぶどう酒がなくなってしまいました。神の助けなしではもう駄目です」と自らの欠乏を素直に認め、イエスの前に出ることが、恵みにあずかる秘訣です。
マリヤは僕たちに、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」と言い置き、僕たちはイエスに命じられたとおり、「四、五斗(80~120㍑)もはいる石の水がめ…六つ」に、水を「口のところまでいっぱいに入れ…料理がしらのところに持って行き」ました。すると、ただの水がぶどう酒に、しかもより上等なぶどう酒に変わっていたのです。私たちの罪のために十字架上で死んで復活されたイエスを信じ、イエスに100%従っていくならば、私たちの人生にも同じ奇跡が起こります。水のように味気なく、やがて腐敗していく人生が、ぶどう酒のように喜びに満ち、年を重ねるほどに芳香を放つ人生へと変えられるのです。そしてそのゴールは天国です

コリント人への第二の手紙12:1~10「弱い時にこそ強い」

3月18日、コリント人への第二の手紙12:1~10「弱い時にこそ強い」
コリント教会に忍び込んできた偽使徒たちは、自分たちのことを誇ることにより異なった福音を広めようと企んでいました(11:12~13)。そこでパウロは、自分を誇るのは「無益ではあろうが」、教会の尊敬を得て正しい信仰に引き戻すために、「主のまぼろしと啓示」、すなわち「第三の天」=「パラダイス」に引き上げられた経験を誇りました。この体験は、苦難の連続(11:23~28)のパウロに大きな慰めを与えた一方で(ローマ8:18)、「高慢にならないように…肉体に一つのとげ」=「わたしを打つ(打ち続ける、の意で、絶えず続く肉体的疾患を指している。マラリヤ、眼病、癲癇他、諸説あり)サタンの使」が与えられることにもなりました。
このとげさえなければと考えたパウロは、とげの除去を「三度も主に祈った」、すなわち以前は主に絶えず祈っていたのに、今はこの問題について全く祈っていないと言うのです。それは、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」という主からの答えがあったからです。以来、「キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう…わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」と言うようにさえなりました。
長島幸雄師が早朝、自らの弱さに失望して祈っていると、「長島よ、お前の弱さはわたしの邪魔にはならない」との御声が臨みました。自らの弱さを認めて主により頼むとき、弱さのままでは決して終わりません。かえって弱さの中に神の力が現され、強さの中では決して完成しなかったものが、弱さの中で恵みによって完成されるのです。

ヘブル人への手紙11:17~22「信仰によって、ヨセフは」

3月4日、ヘブル人への手紙11:17~22「信仰によって、ヨセフは」
エジプトの総理大臣になるまでのヨセフの人生は、高められたかと思うと下げられ、下げられたかと思うと再び高められという具合に実に波乱万丈でした(創世記第37~50章)。「彼の言葉の成る時まで、主のみ言葉が彼を試みた」(詩篇105:19)とあるように、神のご計画実現のためにヨセフは砕かれる必要があり、そのための神による試みでした。神を信じる者の人生は、なるようにしかならない人生でもなければ、偶然の連続のような人生でもありません。すべてのことの背後には神の愛のご計画があるのです。それゆえ、「測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た」(詩篇16:6)と神の摂理を信じ受け入れ、試練を耐え忍びたいものです。
試みによって練り潔められたヨセフの後半生は、子や孫に囲まれて心穏やかに過ごす、実に幸福に満ちたものでした。ヨセフは死を前にして生涯を振り返り、神が苦難の中にあっても常に自分を覚え続け、度々訪ね、慰め励まして下さったことを感謝をもって思い起こしました。そして、自分の遺骨を約束の地カナンに携え上るよう兄弟たちに命じました(創世記50:22~26)。ヨセフにとってエジプトは寄留の地に過ぎないこと、約束の地、さらには「もっと良い、天にあるふるさと」こそ永住の地であることを認識していたからです。約400年後、「モーセはヨセフの遺骸を携えて」エジプトを脱出しました(出エジプト13:19)。ヨセフは、御言葉の約束のゆえに「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認」していたのです(ヘブル11:1)。

ヘブル人への手紙11:17~22「信仰によって、ヤコブは」

2月25日、ヘブル人への手紙11:17~22「信仰によって、ヤコブは」
ヤコブは死を前にして「床のかしらで拝んだ…努めて床の上にすわった」。ヤコブは最後の力を振り絞るようにして神を礼拝し、子や孫を祝福しようとしました(創世記47:29~48:4)。そしてヤコブが息子ヨセフに真っ先に語ったのは、「ルズ」(=ベテル)で神と個人的に出会った体験でした(創世記48:3~4、28:13~15、35:9~12)。私たちも神を礼拝し、祝福を次世代に渡していくことにおいて、これほど真剣でしょうか。
ヨセフは二人の息子にヤコブから祝福を受けさせるため、長男マナセをヤコブの右手側に、次男エフライムを左手側に座らせましたが、ヤコブは右手を次男の頭に、左手を長男の頭にと、手を交差して置きました。その結果、長子の特権は次男のものとなりました。ヨセフは高齢のヤコブが間違えたものと思い、ヤコブの手を移し替えようとすると、「わかっている」とのヤコブの返事。ヤコブの肉眼はかすんでいても、霊眼は少しも衰えていませんでした。神の選びの不思議さを認め、神の御心に従順に従ったのです(創世記48:8~20)。
そしてヤコブは財産よりも何よりも、「生れてからきょうまでわたしを養われた神…すべての災からわたしをあがなわれ…共におられ」る神信仰を子や孫に遺しました。また、今いかに恵まれた生活をしていても、所詮エジプトは寄留の地に過ぎないこと、やがて約束の地イスラエルに戻ることを信仰の目をもって確かに見て信じ、子や孫に伝えました(創世記48:15~16、21~22)。これこそ親としての一大事業です。私たちも老いてますます輝く信仰者でありたいものです。

ヘブル人への手紙11:17~22「信仰によって、イサクは」

2月18日、ヘブル人への手紙11:17~22「信仰によって、イサクは」
イサクの妻リベカの胎内で双子が激しく押し合うので、不安を感じたリベカが主に尋ねると、二人は二つの民族となって争うようになり、兄エサウではなく弟ヤコブがアブラハムの祝福を継承することを告げられました(創世記25:19~26)。ある日、ヤコブが夕食の準備をしていると、狩猟から帰ってきたエサウは空腹と疲労のあまり、一杯の煮物と交換に長子の特権をヤコブに渡しました(創世記25:27~34)。
以上のことをイサクは妻から聞いて知っていたはずです。ところが、「イサクは年老い、目がかすんで見えなくなった時」とあります。イサクの肉眼が高齢のため曇っていたと同時に、エサウへの偏愛のため霊眼も曇っていたのでしょう。イサクは人間的な思いを押し通して長子エサウを祝福しようとしました。若き日のイサクの従順は微塵もありません(創世記22:9)。結局、リベカの策略によってヤコブを祝福するのですが、事の真相を知ったイサクは、神の御心に逆らうことをしようとしていたこと、しかし神の介入によってそれが妨げられ、取り返しのつかない過ちを犯さずにすんだことを悟り、「激しくふるえ」ました。信仰者イサクの偉大なる覚醒です(創世記27:1~40)。
私たちの霊眼も、罪や不信仰、不従順のため曇っていないでしょうか。見るべきものをしっかり見ているでしょうか(詩篇119:18)。信仰の遺産を次世代に継承していくことは、信仰生涯における一大事業で、特に晩年の信仰姿勢は言わば人生の総仕上げです。「信仰によって…きたるべきことについて…祝福」することができれば幸いです。

ヘブル人への手紙11:17~19「信仰によって、アブラハムは」

2月11日、ヘブル人への手紙11:17~19「信仰によって、アブラハムは」
神はアブラハムに、イサクを燔祭(全焼のいけにえ)として献げよとお命じになりました(創世記22:1~2)。これは、どんな神の御心にも無条件で従えるか否かが問われる、実に厳しく高度な試練でした。サタンの試みは悪を引き出すためのものですが、神の試みは「わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるため」(ヘブル12:10)のものです。
アブラハムは御言葉に従い、「朝はやく起きて…立って神が示された所に出かけ…そこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せ…刃物を執ってその子を殺そうとした」、アブラハムの全き献身と服従を確認したまさにその時、神の中止命令が下りました。アブラハムは何ものにもまさって「神を恐れる者であること」が認められ、神の試練に合格したのです(創世記22:3~12)。
アブラハムが若者たちに「わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し…(わたしたちは)あなたがたの所に帰ってきます(一人称複数形動詞)」(創世記22:5)と言い、ヘブル書が「彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていた」(ヘブル11:19)と記すように、アブラハムは復活信仰を抱いていたのです。そしてこれは、私たちの罪のために神の小羊イエスが十字架上で神のさばきを受けて死んで三日目に復活されたことの雛型です。アブラハムの場合は直前で「待った」がかかりましたが、神の場合はありませんでした。私たち罪人のための「待ったなし」でした。私たちも「神を恐れる者であることを…今知った」と神に認められる全き献身と服従の者でありたいものです。

詩篇8:1~9「人は何者なので」

2月4日、詩篇8:1~9「人は何者なので」
①主の栄光(1~3節)
主の御名は全地に響き渡り、主の栄光は天に満ちていますが、主は「みどりごと、ちのみご」に喜んでご自身を啓示されます(マタイ18:3)。彼らの賛美は、「敵と恨みを晴らす者」、すなわち主に敵対する不信仰者たちを「静める」ための「とりで」となり、主が創造者、統治者であることを実感させるようになる、と歌います(マタイ11:25~27、21:12~17)。詩人は夜空の「月と星とを見て」黙想していたのでしょう。天を仰ぐと、主に対する信仰が湧いてきます(創世記15:1~6、詩篇19:1)。
②人の光栄(4~9節)
人は「神のかたちに」、すなわち神のような霊的・人格的存在として、交わりを持つ者として創造され、全地を御心に従って管理するという使命を授けられました(創世記1:27~28)。神のかたちに造られたのは全被造物の中で人間のみで、ここに人間の尊厳があります。「ただ少しく人を神よりも低く(欠乏する、の意。詩篇23:1「乏しいことがない」と同語)造って」とあるように、人はその欠乏したところに神が満ちることによってはじめて真の人間となるよう造られているのに、神以外のもので満たそうとしています。この的外れの罪のためにイエスは十字架につけられて死なれ、このイエスを信じるならば、罪によって破壊された神のかたちが回復されるのです(Ⅱコリント5:17)。弱く脆い、やがて土のちりに帰っていく私たちを、主は絶えず「み心にとめられ…顧みられる」とは何と心丈夫なことでしょうか(ルカ12:6、Ⅰペテロ5:7)。

詩篇7:1~17「主よ、立ち上がって下さい」

1月21日、詩篇7:1~17「主よ、立ち上がって下さい」
本篇は、ダビデがサウル王の妬みを買って命を狙われていた時の詩でしょう(サムエル上21~26章)。ダビデには「よこしまな事」も「友に悪をもって報いたこと」もなく、「敵のものを略奪したこと」もありませんでした(3~4節)。ところが今、身に覚えのない不当な仕打ちを受け、「彼らは、ししのように、わたしをかき裂き、助ける者の来ないうちに、引いて行くでしょう」という身の危険にさらされています(2節)。
ダビデは真の避け所である神に寄り頼み(1節、46:1)、「主よ、怒りをもって立ち、わたしの敵の憤りにむかって立ちあがり、わたしのために目をさましてください」と祈りました(6節)。それは、神こそ「もろもろの民を」正しくさばく真の裁判官、「義なるさばきびと、日ごとに憤りを起される神」だからです(7、11節)。またこの神は、「わたしを守る盾…心の直き者を救われる」からです(10節)。さらに、「もし人が悔い改めないならば、神はそのつるぎをとぎ、その弓を張って構え、また死に至らせる武器を備え、その矢を火矢とされる」からです(12~13節)。アカンは、悔い改めを拒んで滅びた典型です(ヨシュア7章)。
「邪悪をはらみ、害毒をやどし、偽りを生む」悪しき者は、必ず墓穴を掘り、自滅します(14~16節、ガラテヤ6:7、ローマ12:19~21)。それゆえダビデは、今自分が受けている不当な仕打ちも、やがては神の義が現れるために用いられることを確信して、感謝と賛美を献げました(17節)。いわれのない非難中傷を受けても、神の御手に委ねていれば、「時が来れば神はあなたがたを高くして下さる」のです(Ⅰペテロ5:6)。

詩篇93:1~5「主は王である」

1月14日、詩篇93:1~5「主は王である」
世の王が立派な衣をまとい、権力の象徴の剣を腰に帯びているように、全宇宙の王である主は「威光の衣をまとわれ」、全能の「力をもって帯とされ」ています。この偉大な主の主権は、天地創造以前の「いにしえより堅く立ち」、永遠の未来まで確立され続けます。この主の主権の下に「世界は堅く立って、動かされることはありません」(1~2節)。
人間はこの主によって造られ、生かされていながら、主を人生から締め出し、自分が王となっています。この的外れの罪のために御子イエスは十字架上で死なれたのです。このイエスを救い主、王として心の中に迎え入れ、人生を統べ治めていただくならば、世がどんなに揺れ動こうとも心配無用、決して揺るぎません(イザヤ43:1~2)。
イスラエルがバビロン捕囚を経験したように、私たちの人生においても「大水…海の大波」のような試練や困難に襲われ、人生が転覆するような窮地に陥ることがあります。主が全宇宙を統べ治めておられるのに、なぜ大震災や理不尽なことがあるのか。しかし天を仰ぐならば、「主は高き所にいらせられて、その勢いは多くの水のとどろきにまさり、海の大波にまさって盛ん」なことを知ります(3~4節)。
主は「あなたのあかし」=御言葉を通して私たちに語りかけ、「あなたの家」=神殿、さらには神の宮である私たちの内に宿って、共に歩んで下さいます(5節、Ⅰコリント6:19)。主の御言葉は永遠に不変で、必ず実現成就します(イザヤ40:8、55:11)。この主と御言葉に信頼している限り、私たちの人生も「堅く立って、動かされることはありません」。

申命記11:8~12「主が顧みられる年」

1月7日、申命記11:8~12「主が顧みられる年」
約束の地カナン入国後、律法を守り行うならば、幸いな生活を送ることができると約束されました(8~9節)。エジプトでは足踏みポンプでナイル川から水を汲み上げ、苦労して収穫していました。ところが約束の地は、ナイル川のような大河がない代わりに「山と谷の多い」起伏に富んだ地で、「天から降る雨で潤って」います(10~11節)。主に信頼して律法に従い、主の助けをいただきながら労苦するならば、主は天から雨を注ぎ、豊かな収穫をもたらして下さるというのです。
新しい2007年、「山と谷の多い」年かもしれません。喜びの山や悲しみの谷がきっとあることでしょう。「しかし…天から降る雨で潤っている」。たとい思いがけない試練や悲しみの涙に暮れるようなことがあったとしても、主に信頼し、主に従っている限り、「涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所と」することができるのです(詩篇84:6)。
エジプト脱出後から荒野放浪の間ずっとイスラエルを顧み続けられた主は、約束の地入国後も「顧みられる」ばかりか、「年の始めから年の終りまで」、絶えず目を留めておられるというのです(12節)。そして今、天国というゴールを目指して地上を旅する私たちをも、主は「年の始めから年の終りまで」絶えず目を留めていて下さいます。
しかし注意しなければならないのは、約束の地で豊かな祝福を得ると恵みに慣れ、主から「心が迷い、離れ去って」しまうことです(13~17節)。そうならないよう、「無きに等しい者を、あえて選ばれた」恵みを忘れることなく(Ⅰコリント1:28)、御言葉と祈りに生きましょう。

ページ移動