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コリント人への第一の手紙15:1~11「キリストの復活」

3月23日、コリント人への第一の手紙15:1~11「キリストの復活」
①復活は罪に対する勝利(1~19節)
キリストが十字架につけられて死なれたのは「わたしたちの罪のため」であり、「そして葬られたこと」とわざわざ記すのは、仮死ではなく完全な死であったことを強調するためです。しかしキリストは「三日目によみがえ」られ、今も生きておられます(3~4節)。もし十字架の死だけで復活がなかったならば、救いは未完成であり、その結果、「信仰は空虚なものとなり…いまなお罪の中にいることにな」り、「すべての人の中で最もあわれむべき存在とな」ります(12~19節)。しかし「三日目によみがえったこと」により、罪に対する勝利と救いの完成が証明されたのです。このように十字架と復活は表裏一体、福音の中心です。この福音を信じる者は誰でも義と認められるのです(ローマ4:25)。
②復活は死に対する勝利(20~58節)
キリストは、人類最大の敵である死を復活によって打ち破られ、死は一切の終わりではなくなりました(55~57節)。キリストの復活は、キリストを信じる者も同様に復活することの「初穂」、前兆です(20節)。死からいのちへの大逆転をもたらした復活を信じるならば、その人自身の人生にも大逆転がもたらされ、すべてが意味あるものへと変えられていくのです。「主にあっては」、無駄なこと、無意味なことなど何一つとしてありません。また、様々な問題に直面するとき、死をも打ち破られたキリストの御力に真により頼むならば、試練や困難を耐え忍んで乗り越えることができるようにされるのです(58節)。

ヨハネによる福音書19:28~30「わたしは、かわく」

3月16日、ヨハネによる福音書19:28~30「わたしは、かわく」
①肉体的な渇き
神の御子でありながら人間の姿をとって降誕されたイエスは、私たちと同様に弱さを覚え(4:6~7)、十字架上でも「わたしは、かわく」と喉の渇きを訴えられました。「民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようになら」れたイエスは、「罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われ」ました(ヘブル2:17、4:15、讃美歌532番2節「主の受けぬ試みも 主の知らぬ悲しみも うつし世にあらじかし いずこにも御跡見ゆ」)。人生のあらゆる試錬を体験され、十字架の苦悩をも忍ばれたイエスは、「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」のです(ヘブル4:15)。
②霊的な渇き
イエスは人となられたものの神の御子ですから、私たちと違って「罪は犯され」ませんでした(ヘブル4:15)。罪の全くないイエスが極悪犯罪人を処刑する十字架につけられ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです(マルコ15:34)。父なる神と親しい交わりの中にあるときには「父よ」と呼んでおられたイエスですが、全人類の罪を背負って十字架につけられ、神に完全に捨てられた今、「わが神、わが神」と叫ぶ他ありませんでした。その後語られたのが、「わたしは、かわく」です。それゆえこれは、神との交わりが断絶されたことから生じる霊的な渇きであり、全人類が罪と滅びから救われるようにとの霊的な渇きでもあったことでしょう。

マルコによる福音書5:25~34「信仰のタッチ」

3月2日、マルコによる福音書5:25~34「信仰のタッチ」
①長血の女の苦痛(25~26節)
彼女は長血を患って12年、しかもますます悪化する一方でした。その上、治療のため全財産を失い、汚れた者として社会から阻害されてきました(レビ記15:25~30)。まさに肉体的にも経済的にも社会的にも苦しみ続けた12年間でした。しかしイエスはこれらの問題に真の解決を与え得るお方です。罪を赦し、病を癒し(出エジプト記15:22~27の「一本の木」は十字架を暗示)、永遠の命で生かして下さいます。また神第一に歩むならば、必ず経済的な必要も満たして下さいます(マタイ6:33)。
②長血の女の信仰(27~34節)
イエスの評判(3:10)を聞いた彼女は、「せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていた(直訳「言い続けていた」)」、自分に言い聞かせていました。そして念願のチャンスが到来すると、「群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった」結果、即刻癒されました。群衆は四方八方から押し迫ってイエスを取り巻いている状態で、イエスにさわったのは彼女だけではなかったはずですが、イエスの内から力が出ていくようなさわり方をしたのは彼女だけでした。それは、群衆のさわり方が単なる物理的タッチに過ぎなかったのに比べ(6:5~6)、彼女のさわり方は明確な願いに基づく信仰のタッチであったからです(詩篇50:15)。イエスの周囲をウロウロするだけでは何の変革も起こりません。祈りの中で、イエスが「さわられた」と感じるような信仰のタッチをしましょう。これぞ最高の武器です。

ルカによる福音書13:22~30「狭い戸口から入れ」

2月24日、ルカによる福音書13:22~30「狭い戸口から入れ」
「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねられたイエスは、「狭い戸口からはいるように努めなさい(奮闘せよ、の意)」と言われました(23~24節)。「狭い」と言っても、物理的な狭さのことではありません。
①「この人(十字架と復活のイエス)による以外に救はない」という狭さです(使徒4:12)。アダムが罪を犯したため、「罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきた」(ローマ5:12)、「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)。この永遠の滅びから救い得るのはイエスのみです。
②いつまでも戸口が開いているわけではないという狭さです(25節、ヨハネ9:4、12:35~36)。戸口が完全に閉ざされる時がくるので、戸口が開いている間に救いの家の中に入る決断をしなければなりません。
③「はいろうとしても、はいれない人が多い」という狭さです(24b節)。その代表が、パリサイ人や律法学者をはじめとするユダヤ教指導者たちで、自己義認に凝り固まる彼らは、イエスの説教や奇跡に接しても無頓着でした。現代も、せっかく福音を聞きながら心を閉ざす人、決断を先延ばしにする人が少なくありません。しかしそのように先延ばししているうちに、戸口が完全に閉ざされてしまい、その後、「どうぞあけてください…わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました」(26節)といくら叫んでも後の祭り、永遠の滅びです(28節)。天の門限が一層間近に迫っている今、「狭い戸口からはいるように努めなさい」、奮闘しなさい、と言われるのです(イザヤ55:6、ヘブル4:7)。

ルカによる福音書19:11~27「主が帰って来られる日まで」

2月17日、ルカによる福音書19:11~27「主が帰って来られる日まで」
「ある身分の高い人が、王位を受けて帰ってくる」、すなわちイエスがやがて神の国を完成されるのですが、それは「たちまち現れる」のではなく、その前に「遠い所へ旅立つ」必要があります。すなわち十字架と復活、昇天、聖霊降臨、そして全世界に福音が宣べ伝えられた後に神の国が完成するのです(12節)。私たち人間は皆、神に造られながら、神に背を向け、まるで自分が王であるかのように自分勝手に生きています。神を真の王と認めない的はずれの生き方こそ最大の罪であり、その最後は永遠の滅びです(27節)。しかしイエスの十字架を信じるならば、すべての罪は赦され、神の子としての歩みが始まります。そのように方向転換したはずなのに、いつの間にか「王の王、主の主」なる神を拒絶してはいないでしょうか(14節、黙示録19:16)。
主人は十人の僕に一ミナずつ託し、それで商売するよう命じました。一人目は「十ミナをもうけ」、二人目は「五ミナをつくりました」が、三人目は「ふくさに包んで、しまって」おいたので一ミナのままでした(13~21節)。「一ミナ」は、全キリスト者が共通して持つ救いの恵み、あるいは委ねられた福音を指しています。救いは、悔い改めと信仰によって誰でも得られる、皆に公平に与えられている恵みです(ローマ1:16)。この福音に対してどういう態度を取るかによって永遠が決まります。「わたしたちすべての者のために死に渡された」神の愛(ローマ8:32)、十字架の恵みが本当にわかれば、神を愛し喜び、福音にふさわしく歩み、福音を証詞せずにはいられなくなることでしょう。

マタイによる福音書21:28~32「神の望みどおりにしたのは」

2月10日、マタイによる福音書21:28~32「神の望みどおりにしたのは」
父は兄にぶどう園での労働を命じたところ、兄は「『おとうさん、参ります(直訳「主よ、私が」)』と答えたが、行かなかった」。父に対して最高の敬意を払った返答ですが、実際は行かず、全く父を侮っています。「父」は父なる神を、「兄」は「祭司長たちや民の長老たち」(23節)を指しています。「口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」(イザヤ29:13)彼らは、バプテスマのヨハネやイエスの説教を聞いてもまるで他人事、悔い改めようとしませんでした(32節)。
一方の弟は「『いやです』と答えたが、あとから心を変えて(新改訳「悪かったと思って」)、出かけた」。「弟」は「取税人や遊女」を指しています(32節)。彼らの人生の前半は、まさに「いやです」と神に背き、神の御心を痛める罪深いものでしたが、人生の後半、「悪かったと思って」悔い改め、幼な子のようにイエスを信じて続々と救われていきました。
「父の望みどおりにした」とある「父の望み」とは何でしょうか。造り主なる神を無視した人には永遠の滅びが待っているのみですが、そのような悲惨から私たちを救い出すためにイエスは来臨され、十字架と復活によって救いを完成して下さいました。罪を悔い改めて、イエスの十字架を信じること、これこそ最大最高の「父の望み」です。
人生の前半がいかに良くても、後半が悪ければ実に惨めであり、台無しです(サウルはその典型)。そうならないよう、常に「父の望みどおりに」する、すなわち神の御言葉と御心に従って歩み続けること、教えられやすく、砕かれやすく、従いやすい魂であることが大切です。

ルカによる福音書18:9~14「神よ、罪人なる我をあわれみたまえ」

2月3日、ルカによる福音書18:9~14「神よ、罪人なる我をあわれみたまえ」
①パリサイ人の祈り(11~12節)
「神よ…を感謝します」と形式的には立派な祈りですが、自分自身の美徳に対する感謝ばかりで、神の恵みに対する感謝は微塵もありません。それもそのはず、「ひとりでこう祈った(=直訳「自分自身に対して繰り返しこう祈った」)」、神への祈りではなく自画自賛、人に聞かせる自慢話だったからです。また、「ほかの人たちのような…この取税人のような」と他人を見下し、自分の義しさを誇る祈りだったからです。
②取税人の祈り(13節)
自分はとても神に近づけるような者ではないと自覚する取税人は、神殿から「遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら」、すなわち自分の罪を心から悲しみ、砕けきった心で祈りました。「神様、罪人のわたしをおゆるしください(=新改訳「こんな罪人の私をあわれんでください」)」。他人と比べてどうこうではなく、神の前に自らの罪深さを知る彼は神のあわれみにすがる他なかったのです。
③祈りの結果(14節)
取税人は神に受け入れられ赦されましたが、パリサイ人は拒絶され捨てられました。不従順を指摘されたサウルは、人目を恐れて悔い改めなかったため捨てられ(サムエル上 第15章)、バテシバとの一件を指摘されたダビデは、人目も憚らず悔い改めたため赦されました(サムエル下 第11~12章)。神は、取税人やダビデ、幼な子(16~17節)のように丸裸になって神の前に出る人を喜んで受け入れられお方なのです。

マタイによる福音書13:44~46「神の国の絶大な価値」

1月27日、マタイによる福音書13:44~46「神の国の絶大な価値」
①神の国(神の恵みによる支配、の意。ここでは「救い」とほぼ同義)の発見
農夫は畑で作業中に偶然宝を掘り当て、商人は良い真珠を長年捜し求めた末やっと見つけました。人は各々違った道を通って神の国を発見することを暗示しています。前者の代表例・マタイは、収税所で働いていると、予期せずイエスに出会いました(マタイ9:9)。後者の代表例・パウロは、律法による義を長年求めていましたが、復活のイエスに出会い、信仰による義を得ました(使徒9:1~19)。神の国は、自然(詩篇19:1)と歴史、聖書とイエスを通して啓示しておられますから、「熱心に追い求めて捜しさえすれば…神を見いだせる」のです(使徒17:27)。
②神の国の獲得
農夫も商人も「行って持ち物をみな売りはらい」、見つけたものを獲得しました。神の国は、全財産をはたいてでも獲得したくなる、否、是非とも獲得すべき絶大な価値を持つものだということです。エリート中のエリートであるパウロには、誇りとするものが人一倍ありましたが、「主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに…ふん土のように思」うに至りました(ピリピ3:4~8)。「行って持ち物をみな売りはらい」の直前に「喜びのあまり」とあります。神の国を獲得するのは、犠牲ではなく「喜びのあまり」することです。「私は決して犠牲を払ったのではありません。天にある神の栄光の御座を捨てて、ご自身を私たちのために与えて下さった主の大きな犠牲を思い起こすならば、私の払った犠牲など語るべきではありません」(リビングストン)。

マタイによる福音書21:33~46「何の権威によって」

1月20日、マタイによる福音書21:33~46「何の権威によって」
ぶどう園の主人が、収穫の分け前を受け取るために僕たちをぶどう園に遣わすと、農夫たちは僕たちを袋叩きにしたり、殺したりしました。二度目も同じでした。そこで主人は「わたしの子は敬ってくれるだろうと思って」息子を遣わしますが、虐殺されてしまいます。
この譬え話の中の「ぶどう園」は神の国を指し、「主人」は父なる神、「農夫たち」は神の民イスラエル(特に宗教的指導者)、「僕たち」は預言者たち、主人の「子」は御子イエスを指しています。神に背いたイスラエルを悔い改めに導くために神は預言者を次々と遣わされましたが、悔い改めないどころか迫害しました。そこで最後に神が遣わされたのが御子イエスです。イエスは「家造りらの捨てた石」のように人々から捨てられ、十字架上で死なれましたが、復活、昇天、着座により「隅のかしら石」となり、救いを完成されました(42節、詩篇118:22~23)。
神に造られ、生かされている人間は、神のぶどう園の農夫、小作人であり、私たちが持っているものは皆、神から与えられたものです。にもかかわらず、まるで自分が主人=神であるかのように振舞い、自分の権威ばかり主張して生きています。このように神の権威を認めようとしないことこそ罪の本質であり、この罪を赦し潔めるのが十字架です。信仰とは、神の権威の前に無条件降伏することに他なりません。そしてこれは神に造られた人間として至極当然のことです。すでにイエスを信じている、神の権威を認めていると言いつつも、実際は神を畏れず、御言葉を軽視してはいないでしょうか。

詩篇46:1~11「神はわれらの避け所」

1月13日、詩篇46:1~11「神はわれらの避け所」
南王国はアッスリヤ軍に包囲されましたが、神によってアッスリヤ軍は一夜のうちに全滅しました(列王紀下 第18~19章)。この奇跡的な勝利を体験した民が感極まって歌ったのが本篇ではないかと言われています。もしそうでなかったとしても、絶体絶命の窮地から神によって救出された体験に基づく詩であることは間違いないでしょう。
「地は変り、山は海の真中に移る…その水は鳴りとどろき、あわだつ…そのさわぎによって山は震え動く」(2~3節)ような試練の中で詩人が確信したことは、「神はわれらの避け所また力…悩める時のいと近き助け…神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる…万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所」ということでした(1、5、7、11節)。十字架信仰によって罪赦されると、この神が共に歩み、人生の味方となって下さるという幸いな人生が始まります。もちろん神が共におられても、時に試練や困難に直面します。しかしそのような時にも神は、手を伸ばせばすぐに届くほどの「いと近き助け(=新改訳「そこにある助け」)」です。そして、「神がその中におられるので、都はゆるがない」、私たちの教会、家庭、人生の真ん中に神の臨在があるという事実を信じ抜くとき(ローマ3:4)、「われらは恐れない」(2~3節)、恐れる必要などないのです。神とその御言葉に重心を置く限り、揺らぐことはありません。いかなる時にも「静まって(=新共同訳「力を捨てよ」)」、人間的な知恵や小細工を一切捨てて神に重心を置くならば、必ず勝利です(8~9節)。

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