3月25日、ヨハネによる福音書11:45~57「民に代わる死」
これまでもそうですが、ラザロ復活の奇跡を見聞きした人たちは、イエスを信じる者と、一層心をかたくなにする者との二つに分かれました。「金持ちとラザロの譬え」(ルカ16:19~31)において、黄泉に落ちた金持ちが「わたしの父の家へラザロ(譬え話上の架空人物。本書のラザロとは別人)をつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです」と懇願しますが、その答えは「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」というものでした。罪を示され、心が軟らかくなっているうちに、イエスを信じ、御言葉に従って歩む決断をすることが大切です。先延ばしにしていると、取り返しのつかないほどかたくなな心になりかねません(ヘブル4:7)。
「全国民が滅びないように」イエスを殺害したほうが「得だ」という大祭司カヤパの提案をユダヤ議会は承認し、「この日からイエスを殺そうと相談し」始めました。著者ヨハネは、このカヤパの言葉の中に特別な意味を見出しました。カヤパは神の御心を伺って民に告げる「その年の大祭司であったので」、イエスの十字架の死は「ただ国民のためだけではなく…散在している神の子らを一つに集めるため」、すなわちユダヤ人のためだけでなく、全人類のための身代わりの死であることを無意識のうちに語っていたと理解したのです。最初の人アダムが不従順の罪を犯したため全人類に罪が入り込み、その刑罰として死がもたらされましたが、御子イエスは十字架上で死んで三日目に復活することによって救いを完成されたのです(ローマ5:12~21)。