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ハバクク書3:1~2「リバイバルの祈り」

3月29日、ハバクク書3:1~2「リバイバルの祈り」
南王国ユダの末期、滅亡に向かって突き進む暗黒時代に活動した預言者ハバククが「いつまであなたは聞きいれて下さらないのか…助けて下さらないのか」と神に訴えたところ(1:2~4)、神からの答えは「カルデヤびと(バビロン)を興」してイスラエルを罰するという驚くべきものでした(1:5~6)。「あなたがたはとうてい信じまい」と言われたとおり自分の耳を疑ったハバククが「わが聖者よ…何ゆえ不真実な者(バビロン)に目をとめていられるのですか」と反論すると(1:12~13)、神は「この幻(2:5~20)は…必ず臨む」、罪深いバビロンもやがて必ず滅びると言われました(2:2~3)。これらの後ハバククは「この年のうちに(複数形ゆえ、近いうちに、の意)これを新たにし、この年のうちにこれを知らせてください。怒る時にもあわれみを思いおこしてください」と祈りました(3:2)。早く何とかして下さいと神のあわれみを請い願う祈りです。
ハバクク(抱く、の意)はその名のとおり、神に抱きつくようにして祈った預言者でしたが、現実はハバククの祈りとは正反対、ユダは堕落する一方でした。それでもハバククは、「もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない」(2:3)との約束を信じて祈り続けたことでしょう。それゆえ私たちが第一に求めるべきリバイバルは、諦めずに祈り続ける、祈りのリバイバルです(Ⅰペテロ4:7)。第二は、私自身のリバイバルです。不従順・不徹底な信仰者から、純粋無垢に神を愛し人を愛して生きる信仰者に覚醒されたいものです。第三に、宣教のリバイバルです。滅び行く同胞のために「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」と献身しましょう(イザヤ書6:1~8)。

ルカによる福音書15:1~10「天での大きな喜び」

3月22日、ルカによる福音書15:1~10「天での大きな喜び」
①失われた存在
百匹の羊のうちの一匹も、十枚の銀貨のうちの一枚も、所有者にとってはどちらもかけがえのないものです。同様に、神に創造された私たち人間も、神にとっては「高価で尊い」愛の対象です(イザヤ書43:1~4)。羊や銀貨が失われ、本来あるべきところにない状態では何の価値もないように、創造主なる神から離れた人間も、本来もっている価値を大きく失い、「無益なものになって」います(ローマ3:12)。しかも羊や銀貨が自分からは所有者のもとに帰れないように、人間も神から迷い出た結果、どの神が真の神なのか、どこに真理があるのかまるでわからず、神のもとに帰ろうにも帰れない状態にあるのです。
②熱心な捜索
所有者はあらゆる手段を駆使して一匹の羊、一枚の銀貨を熱心に捜索した結果、遂に発見して大喜びしました。同様に、神は「あなたはどこにいるにか」と優しく呼びかけ(創世記3:9)、罪人が悔い改める先に自ら捜しに出かけ、自分から帰ろうにも帰れない罪人を連れ戻すまで決して諦めないお方です。この神の愛を教え、実際に見せるために遣わされたのが御子イエスでした。イエスは取税人や罪人の友となり、十字架と復活によって罪を赦し、神のもとに帰る道を開いて下さいました(ヨハネ14:6)。この神の一方的な愛の捜索劇に気づき、悔い改めと信仰によって神のもとに帰るとき、天では大きな喜びの声が上がるのです。あなたは神のもとに立ち帰り、憩いを得ていますか。パリサイ人のようにいつの間にか神から迷い出てはいませんか。

ローマ人への手紙14:13~23「義と平和と聖霊による喜び」

3月15日、ローマ人への手紙14:13~23「義と平和と聖霊による喜び」
イエスご自身「どんな食物でもきよいものとされ」(マルコ7:19)、パウロ自身も「それ自体、汚れているものは一つもない」と「主イエスにあって知りかつ確信して」いましたが、「妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい」と命じました。
それは第一に、「キリストは彼のためにも、死なれた」からです。信仰の弱い者にとって、偶像に供えた肉を平気で食べる強い者は「妨げ…つまずき…苦しみ…そしりの種」となっていました。さらに、強い者が弱い者に肉を食べるよう勧め、弱い者は不本意ながらも肉を食べ、信仰まで失いかねない状況にあったようです(15b節、Ⅰコリント8:9~11)。「あなたの食物によって」、御子イエスがいのちまで捨てて贖い出された「兄弟を滅ぼしてはならない」のです。いくら正しいことであっても、それが誰かをつまずかせるなら、その誰かのために配慮して、当然の自由をも放棄すべきです(Ⅰコリント8:13、ガラテヤ5:6)。
第二に、「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである」からです。飲食の問題は、「神の国(神の恵みによる支配)」において本質的なことではありません。神の恵みに支配されるならば、「義」に生き、他者と「平和」を築き、そこには「聖霊における喜び」があります。「こうしてキリストに仕える者は」、当然「神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられる」はずです。確信を「自分自身に持」ちつつも、何が「神に喜ばれ」ることであるか、何が「人にも受けいれられる」ことであるかという二つの視点から同時に判断し、常に「平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求め」て歩みたいものです。

ローマ人への手紙14:1~12「主のために生き、主のために死ぬ」

3月8日、ローマ人への手紙14:1~12「主のために生き、主のために死ぬ」
当時の市場では、偶像に供えた肉を混ぜて売っていました。そのため、肉を食べると間接的ではあっても偶像礼拝に参与することになると考え、「野菜だけを食べる」人たちがいました。その一方で、「偶像なるものは実際は世に存在しない…唯一の神のほかには神がない」のだから(Ⅰコリント8:4)、偶像に供えられた肉であろうとなかろうと全く問題ないと考え、平気で肉を食べる人たちがいました(Ⅰコリント8:1~13)。また、宗教上の祭の日や断食日等の「この日」についても、同様の考え方の違いがありました(ガラテヤ4:9~11、コロサイ2:16~22)。
イエスご自身「どんな食物でもきよいものとされ」(マルコ7:19)、「それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れている」ので(14節、Ⅰテモテ4:4)、もはや食物や日の規定に縛られる必要など全くありません。しかしなお規定に縛られている者を、規定に縛られない強い者は「信仰の弱い者」と「軽んじ」、逆に弱い者は強い者を滅ぶべき信仰者と「さばいて」いました。
そこでパウロは、「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない」と命じました。それは、「神は彼を受けいれて下さった…から」で、「他人の僕をさばく」のと同様、キリストの僕とされた兄弟をさばくのは非常識な越権行為です。具体的判断が多少異なっても、食べるのも「主のため」、食べないのも「主のため」、結局「生きるにしても死ぬにしても…主のもの」とされているお互いです。「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみ」等の罪については厳格、枝葉の問題については寛容でありましょう。

ローマ人への手紙13:8~14「夜は更け、日が近づく」

3月1日、ローマ人への手紙13:8~14「夜は更け、日が近づく」
①隣人に対する愛(8~10節)
とかく人に貸したものはよく覚えていても、人から借りたものは忘れがちですが、貸したものよりも借りたものに心を用い、借りっ放しであってはなりません。しかし唯一の例外が「互に愛し合うこと」です。私たちは愛を受けることによって、自分一人で生きているのではないことを思い知り、謙遜にされます。この愛の借りだけは、借りたままでよいのです。むしろ無理矢理返済して、十分返したと思い込む満足感こそ問題です。愛は一生かかっても返しきれない永遠の借りであり、人間関係を完成させるものです。それゆえ、「人を愛する者は、律法を全うする…愛は律法を完成する」のです(8、10節)。
②自分に対する聖(11~14節)
権威に従い(1~7節)、互いに愛し合うのは(8~10節)、「わたしたちの救」の完成であるキリスト再臨の「時」が「初め信じた時よりも、もっと近づいているから」です。それゆえ、「あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている」とパウロは警告します。まず、「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみ」等の「やみのわざを捨て」なければなりません。優柔不断の生活をこれ以上繰り返してはなりません。「このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない」からです(ガラテヤ5:19~21)。「やみのわざを捨て」た上で、「光の武具」(=エペソ6:12~18「神の武具」)を身につけ、「主イエス・キリストを着」る、信仰によってキリストと一つになるのです(ガラテヤ2:19~20)。そうすれば、普段通りの生活をしながら恐れなく再臨を迎えることができるようになります。

ローマ人への手紙13:1~7「上に立つ権威に従う」

2月22日、ローマ人への手紙13:1~7「上に立つ権威に従う」
「すべての人は」、税金制度をはじめとする「上に立つ権威(国家の諸々の権威)に従うべきである」とパウロは言います。事実、御子イエスでさえ権威に反旗を翻したり、反政府運動を扇動したりなさらず、むしろそのような運動をいさめ、納税の義務を果たされました。それは、「おおよそ存在している権威は」、全宇宙の王である神の秩序と許しの下に「立てられたものだから」です。神を畏れるキリスト者が権威に従うのは当然のことであるばかりか、「権威に逆らう者は、神の定めにそむく者で…自分の身にさばきを招くことになる」、為政者に罰せられるだけでなく、神にもさばかれるのです。それゆえ、「ただ怒りをのがれるためだけではなく、良心のためにも」、嫌々ながらでなく喜んで従うべきです。また、「彼らすべてに対して、義務(負債、の意)を果しなさい」、ちょうど借金を返済するように義務を果たすべきです(Ⅰペテロ2:13~15)。天国市民であると同時に良き市民であるべきキリスト者として、法律、校則、社則等に従っているでしょうか。
しかし、もし国家の権威が御言葉に反する場合は、「良心のためにも」という句に暗示されているように、「人間に従うよりは、神に従うべき」です(使徒行伝5:29、4:19~20、出エジプト記1:17、ダニエル書3:18他)。
結局、「上に立つ権威に従う」のも、神の御言葉に従うのも、神を神として畏れ、愛することに他なりません。いかなる状況・時代にあろうとも、終始一貫この原則を貫きたいものです。私を愛し、私のために御子イエスをも惜しみなく十字架に渡された神が私の味方でいて下さるのですから、神に全く信頼して従いましょう(マタイ10:28)。

ローマ人への手紙12:9~21「偽りのない愛に生きる」

2月15日、ローマ人への手紙12:9~21「偽りのない愛に生きる」
①兄弟への愛(9~16節)
真実の愛に生きる人は、「悪は憎み退け(ひどく憎む、の意)、善には親しみ結び(接着剤で付ける、の意)」ます。イエスを信じて神の子とされた者の集まりである教会は神の家族ですから、よそよそしい他人のようにでなく、「兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい(直訳「尊敬においては互いに先に立ちなさい」)」。相手にだけ要求するのでなく「互に」、まず自ら率先して相手を尊重する、“敬意の競争”です。このような競争なら大歓迎です。人間的な熱心は何かの拍子にすぐ冷めますが、真実の愛に基づく熱心は、常に「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え」、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣き」ます(Ⅰコリント12:26)。しかしこれらは自力では実践不可能です。
②敵への愛(17~21節)
悪をもって悪に報いるのは、生まれながらの人間に共通の性質です。「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図」ることのできない自分であることを素直に認めて十字架を仰ぐならば、「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれ」(5:5)、内側から実践する力が与えられます。たとい相手がどうであろうとも、「あなたがたは、できる限り」、まず私自身が最善を尽くして愛するのです。「平和」は積極的につくり出し、追い求めるべきものです(マタイ5:9、24、Ⅰペテロ3:11)。「自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せ(直訳「神の怒りに場所を与える」)」るならば、神ご自身が最善の時に最善の方法をもって勝利を取って下さるのです(詩篇37:8、Ⅰペテロ2:23)。

ローマ人への手紙12:3~8「信仰の量りに応じて」

2月8日、ローマ人への手紙12:3~8「信仰の量りに応じて」
「慎み深く思う(健全な思いを持つ、の意)」とは、消極的で引っ込み思案な態度を取ることではなく、信仰的な考え方を持つことです。御子イエスは十字架にまで、否、陰府にまで降られました。このイエスの贖いのゆえに今の私たちがあることをまるで忘れ、自分を高き所に置き、「思うべき限度を越えて思いあが」ってはいないでしょうか。
「一つのからだに」、手足他「たくさんの肢体がある」ように、教会はキリストの「からだ」であり、各自はその「肢体」です。どの肢体にも役割があり、あってもなくてもよい肢体など一つもありません。「各自は互に肢体(直訳「互いのための器官」)だから」です。様々な違いを持つ者たちがキリストをかしらとして共に集まり、互いに補い合い、互いに支え合っているのが教会です。私たち一人一人は、お互いのために必要な存在なのです。そのことを真に理解するならば、他人を妬んだり羨んだり、侮ったり蔑んだりすることから解放されることでしょう。「すずと、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい」(金子みすゞ)、「みんなちがって、みんな」必要なのです。
「預言…奉仕…教え…勧め…寄附…指導…慈善」他、「わたしたちは…それぞれ異なった賜物を持って」いますが、それはあくまでも「恵みによって」与えられたものです。このことを真に悟るならば、謙遜になることはあっても、高慢になることなどないはずです。自分に与えられた賜物を精一杯活用して主と教会に仕え、互いに仕え合っていく。そして天において、「良い忠実な僕よ、よくやった」と神から称賛されたら、それでもう十分ではないでしょうか(マタイ25:14~30)。

ローマ人への手紙12:1~2「神に喜ばれる供え物」

2月1日、ローマ人への手紙12:1~2「神に喜ばれる供え物」
①からだを献げよ(1節)
以前の私たちのからだは「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物」などではなく、神に忌み嫌われる、罪に汚染されて悪臭を放つからだでした。しかし神は、「わたしたちがまだ弱かったころ…不信心な者たち…まだ罪人であった時…わたしたちが敵であった時」、神に向かって唾を吐くような私たちのために、「キリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示された」のです(5:6~10)。「そういうわけで(第1~11章を受けて)、神のあわれみ(複数形)」のゆえに、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい(献げきりなさい、の意)」とパウロは「勧め」ます(懇願する、の意)。御子イエスを惜しみなく十字架の死に渡して下さった神のあわれみが真にわかったならば、それにお応えして自分の全存在を惜しみなく献げきることは、「あなたがたのなすべき霊的な(合理的な、道理にかなった、の意)礼拝」、至極当然のこと、最高の喜びであるはずです。
②心を変貌されよ(2節)
自分自身を神に献げきったらそれでおしまいではなく、その後が大切です。常に「この世と妥協」せず、「心を新たにすることによって、造りかえられ(マルコ9:2「姿が変り」と同語)」続けるのです。もちろん自分の力によってではなく御霊によってです。そうしなければ、「何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知る」ことができません。そうするとますます世と妥協するようになり、神の御心から遠ざかっていくことになります。

使徒行伝17:22~31「知られない神ではなく」

1月25日、使徒行伝17:22~31「知られない神ではなく」
①万物を造った神(24~26節)
「この世界と、その中にある万物とを造った神」こそ真に拝むべきお方です。この神は、偶像のように人に造られ、人に支えられる必要がありません。永遠の初めから永遠の終わりまで、ただご自身のみによって存在され、「何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要も」ありません。むしろ「すべての人々に命と息と万物とを与え」、万物を保持し、歴史を支配しておられるお方です。
②人間と係わる神(27~29節)
このように偉大な「天地の主」ですが、被造物や歴史を通して、さらには聖書と御子イエスを通して、「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば…見いだせる」ほど近くにおられるお方です(ローマ1:20)。「知られない神」などではなく、知ろうと思えば十分に「知り得る神」なのです。そしてこの神は私たちと深く係わり、その顧みは一人の人間、一羽のすずめ、果ては一本の髪の毛にまで及んでいます(ルカ12:6~7)。
③世界をさばく神(30~31節)
「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされて」いましたが、聖書と御子イエスを通して決定的に啓示された以上、もはや弁解の余地はありません(ローマ1:19~20)。「みな悔い改めなければ」、「義をもってこの世界をさばく」神にさばかれ、永遠の滅びを迎えます(ヘブル9:27、ローマ6:23)。しかし愛なる神は、イエスの十字架と復活によって、「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰」によって救われる道を完成して下さったのです(使徒20:21)。

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