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ルカによる福音書13:1~9「私のために切り倒された主」

3月28日、ルカによる福音書13:1~9「私のために切り倒された主」
①父なる神の忍耐
このいちじくは三年も実を結ばないばかりか、「土地をむだにふさ」いで他の収穫を妨げています。人は神を愛し、神に従って歩むとき、真に人間らしく生きられるよう造られていながら、アダムの堕罪以来、全人類は神に背を向け、的外れの歩みをしています。その結果、実を結ばないばかりか、神の御名を汚してさえいます(ローマ2:24)。そんな私たちに対して神はじっと待ち続け、忍耐してこられたのです。
②御子イエスのとりなし
実を結ばないいちじく(=全人類)を切り倒すよう命じる主人(=父なる神)に対して園丁(=御子イエス)は、「ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください(文語訳「主よ、今年も容(ゆる)したまへ」)…もしそれでもだめでしたら、切り倒してください」となおも期待し、主人にとりなしました。「切り倒します」ではなく「切り倒してください」ですから、たとい来年も実を結ばなくても、園丁には切り倒す気などまるでなく、なおもとりなし続けるつもりだということです。このように全人類をかばうイエスは、やがて全人類の罪の身代わりとして十字架上で切り倒され、「父よ、彼らをおゆるしください」と祈られました(ルカ23:34)。切り倒されて当然の者が今まで切り倒されずにきたのは、父なる神の忍耐と御子イエスのとりなしのゆえです。このイエスを信じて生きる人生は、いつでもやり直し可能な人生です。「そのまわりを掘って(御言葉と御霊の光によって自己の真相を深く掘り下げられる)」、「肥料をやって見ます(御言葉によって日々養われる)」。この二つが、「来年実がなりましたら」という主のご期待にお応えするための処方箋です。

エステル記3:1~15「人を恐れず、神を畏れる」

3月21日、エステル記3:1~15「人を恐れず、神を畏れる」
王はハマンを昇進させた上、「皆ひざまずいてハマンに敬礼」するよう命じました。そのような中、モルデカイだけは「ひざまずかず、また敬礼し」ませんでした。偶像崇拝につながることと考えたからか、あるいはアマレクの王アガグの子孫(サムエル上15:8)であるハマンに敬礼するのは、「主は世々アマレクと戦われる」(出エジプト17:16)、「罪びとなるアマレクびとを滅ぼし尽せ」(サムエル上15:18)との御言葉に反することと考えたからでしょうか。いずれにせよ、「ユダヤ人である」ゆえ、王の命令に従うよりも主の命令に従うほうを優先したのです。
怒り狂ったハマンは、「モルデカイだけを殺す」のでは満足せず、彼の属するユダヤ民族を絶滅させようと考え、実行日時を占うくじを引くと、「十二月…十三日」と出ました。くじを引いたのが正月ですから、一年の猶予があり、ここにも神の摂理の御手があります。
天国市民であると同時に良き市民であるべきキリスト者は、法律・校則・社則等、「すべて人の立てた制度に、主のゆえに従」うべきです(Ⅰペテロ2:13)。しかしそれが御言葉に反する場合は、「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れ」ず、「むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れ」て(マタイ10:28)、「人間に従うよりは、神に従うべき」です(使徒行伝4:19~20、5:29)。「なんでもあり」の世の中で、御言葉に照らして「ここだけは譲れない」という原則を貫きたいものです。それによって正直者が馬鹿を見るような結果を一時的に招いたとしても、神は私たちの味方です(ローマ8:31)。最終的には神が必ず勝利をとって下さり、豊かな祝福を注いで下さいます。

エステル記2:1~23「王妃とされたエステル」

3月14日、エステル記2:1~23「王妃とされたエステル」
アハシュエロス王は、ギリシャ遠征前の酒宴で王妃ワシテを軽率にも失った上、その戦争にも敗れました。失意の中で「彼女のしたこと、また彼女に対して定めたことを思い起し」、後悔の念を募らせる王に、侍臣たちが新しい王妃を選ぶよう進言すると、王の心にかなったので、国中から「美しい若い処女たち」が集められてきました。
その一人エステルは、養父モルデカイの言葉に従う従順な女性(10、20節)、「侍従ヘガイが勧めた物のほか何をも求めなかった」慎み深い女性でした(15節)。ヘガイをはじめ「すべて彼女を見る者に喜ばれた」エステルは(9、15節)、遂に新しい王妃に選ばれました。エステルは常に主を目の前に置き、信仰によって歩んでいたのでしょう(詩篇16:8)。それはモルデカイの信仰そのものでした。王暗殺計画を察知したモルデカイはそれをエステルに告げ、事なきを得ました。モルデカイは寄留者です。傍観者を決め込んでも少しも不思議でありませんが、彼は決して傍観者にならず、国家と王のため全力を注いで仕えたのです。ところが「この事は王の前で日誌の書にかきしるされた」だけで、モルデカイには何の報いもありませんでした(19~23節)。これらは実に巧みな神の布石であったことが、第6章で明らかになります。
「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え…あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:3、5、新改訳)。今日なすべき自分の使命を忠実に果たし、あとは摂理の神に委ねる。ヨセフもそうでした(創世記 第39~40章)。神は、置かれた所で使命に励む信仰者を巧みに組合わせて、ご計画を実現されるのです。

エステル記1:1~22「人の愚かさを超えて」

3月7日、エステル記1:1~22「人の愚かさを超えて」
ペルシャのアハシュエロス王は、ギリシャ遠征を前にした軍事会議である酒宴を「百八十日」、続いてその慰労会を「七日の間」行いました。その七日間の最後、「酒のために心が楽しくな」った王は、「王妃ワシテに王妃の冠をかぶらせて王の前にこさせよ」と命じましたが、ワシテは王の命令に背きました。そこで七人の大臣を集めて相談した結果、ワシテは王妃の位から追い落とされてしまいました。
王が酒宴を設けたこと、酔いに任せて王妃に命令したこと、それを王妃が拒んだこと、一大臣の提案に一同賛成したこと等、これらすべてが巧みに織り成されて、ワシテは王妃から追われ、エステルが代わって王妃に選ばれます。神は人の争いや思惑をも摂理の御手のうちに統べ治め、エステルを王妃とし、ユダヤ人虐殺計画阻止のためお用いになったのです。神は、人間の罪や弱さ、失敗さえも用いて、ご自身のご計画を実現なさることがあります。ヨセフ物語もそうです。ヨセフは兄弟たちから憎まれ、奴隷として売られたエジプトで総理大臣となり、イスラエルを救いました(創世記 第37~50章)。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ8:28)。私たちの側には弱さや愚かさ、罪や失敗が少なくありませんが、神はそれらを乗り越えて働き、着々とご計画を推進されます。失望したり萎縮したりしないで、すべての出来事の背後には神の愛の御手があることを信じて、大胆に悔い改め、大胆に主を仰ぎ、主に従っていきましょう(ヨハネ13:7、詩篇16:6)。

ダニエル書12:5~13「あなたの道を行きなさい」

2月28日、ダニエル書12:5~13「あなたの道を行きなさい」
幻の中で「ふたりの者(御使)」がチグリス川の両岸に、「かの亜麻布を着て…いる人(受肉降誕前のキリスト)」が水の上に立っているのを見たダニエルは、「この異常なできごと(11:36~12:4)は、いつになって終るでしょうか…結末はどんなでしょうか」と尋ねました。「ひと時とふた時と半時(三年半)」、反キリストが「聖なる民を打ち砕く」が、迫害を通して神の民は「自分を清め、自分を白くし、かつ練られ」、救いの完成まで迫害を耐え忍ぶ者は「さいわいです」との答えがありました。
弟子たちが復活のイエスに「イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」と尋ねると、救いの完成の「時」は神の領域で、「あなたがたの知る限りではない(新改訳「あなたがたは知らなくてもよいのです」)」、弟子の第一使命は「時」を知ることではなく、キリストの証人となることだ、と語られました(使徒1:4~8)。「自分の手をのばす(十字架につけられる)ことに」なるが、「わたしに従ってきなさい」とイエスに命じられたペテロは、「イエスの愛しておられた弟子(著者ヨハネ)がついて来るのを見」、「この人はどうなのですか」と尋ねると、「あなたは、わたしに従ってきなさい」といさめられました(ヨハネ21:18~22)。
「いつになって…どんなでしょうか」と問うのはやめ、「終りまであなたの道を行きなさい」。そうすれば「あなたの分を受けるでしょう」、天国で永遠の安息に入る、と主はダニエルに言われました(マタイ24:13、ヨハネ14:1~3)。エノクは終りまで神と共に歩みました(創世記5:21~24、ヘブル11:5)。「再び迫害時代が来た時のために、どのような心備えが必要でしょうか」「今、恵みの中に生きていればよいのです」(蔦田二雄師)。

創世記26:1~5、12~25「祝福を継承する」

2月21日、創世記26:1~5、12~25「祝福を継承する」
主がイサクを祝福されたのは、アブラハムと主との誓いのゆえ(3節)、アブラハムの信仰のゆえでした(5節)。だからと言ってイサクはその祝福を楽々と手に入れたわけではありません。様々な戦いに遭遇しながらも勝利し、祝福を継承したことが本章に記されています。
イサクは飢饉を避けてエジプトに下ろうとしましたが、主に禁じられて断念し、ゲラルに留まりました。すると、「百倍の収穫を得…富み、またますます栄えて非常に裕福になり」ました(1~3、6、12~14節)。主に従うなら、決して行き詰まることはありません(詩篇37:5)。御言葉と御心を押し退け、自分の思いを押し通すから行き詰まるのです。
その後、富み栄えるイサクは人々の妬みを買い、次々と井戸をふさがれました。そのたびにイサクは少しも争わずに立ち退き、そこで再び井戸を掘りました。それは、祝福の約束(2~5節)を信じ抜き、不信仰に陥りそうになると、その御言葉に立ち返ったからでしょう。
遂に争いが終わり、イサクが「いま主がわれわれの場所を広げられた」と感謝すると、主はその夜イサクに顕現され、契約を更新されました。そこでイサクは「祭壇を築いて、主の名を呼び」(信仰生活)、「天幕を張」り(家庭生活)、「井戸を掘」りました(社会生活)。「祭壇、天幕、井戸」、「信仰、家庭、社会」、この順序が狂うと必ず家庭も社会も混乱します。主の御言葉に従い、優先順位を重んじて生きるイサクは、追い出した人々から「われわれは主があなたと共におられるのを、はっきり見ました…まことにあなたは主に祝福されたかたです」と証しされるほどでした(28~29節)。イサクの信仰による勝利と祝福です。

ダニエル書11:2~12:4「終わりの時には」

2月14日、ダニエル書11:2~12:4「終わりの時には」
①歴史を支配される主(11:2~35)
ペルシャとギリシャとの戦い他、これらの幻は歴史上すべて成就しました。主こそ全宇宙の主権者、歴史の真の支配者だということです。神殿で捕えられ、今後説教することを禁じられた上で釈放されたペテロとヨハネは、「仲間の者たちのところに帰」ると、「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主(奴隷に対する絶対的権力をもった主人、の意)よ」と祈りました(使徒行伝4:23~31)。私たちの主は全宇宙の主権者であるという信仰による呼びかけです。この主は、「御子の血であがない取られた」(20:28)私たちを決して見捨てず、どんな問題であっても最終的には必ず勝利を取って下さいます(ローマ8:37)。
②救いを完成される主(11:36~12:4)
世の終わりの戦い(11:36~45)と救いの完成(12:1~4)についての幻です。「この王(反キリスト)」は、自らを神のように高くし、思いのまま傲慢に振舞います。しかしキリストが再臨されると、「彼はついにその終りにいたり」、完全に滅ぼされます。その後、神のさばきを受けるために「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさま」します(ヘブル9:27)。キリストの救いを拒絶した者は、「恥と、限りなき恥辱をうける」ことになりますが(ローマ6:23)、キリストの十字架を信じて罪赦され、「あの書(いのちの書)に名をしるされた者は皆救われ」、「大空の輝きのように輝き…星のようになって永遠にいたる」のです。「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と信仰告白するたび、主に会う備えができているかどうか点検しましょう。

ダニエル書10:1~11:1「大いに愛せられる人よ」

2月7日、ダニエル書10:1~11:1「大いに愛せられる人よ」
バビロンは「ペルシャの王クロス」に滅ぼされ、捕囚から解放されたイスラエルの第一陣は祖国に帰還しましたが、ダニエルたちはなお捕囚地に留まっていました。帰還した民から祖国の荒廃ぶりを聞かされたためか、ダニエルは悲しみ、三週間断食祈祷していました。
ダニエルは幻のうちにチグリス川のほとりに導かれ、そこに「ひとりの人(受肉降誕前のキリスト、黙示録1:13~17)」が立っているのを見ました。「力が抜け去り…深い眠りに陥った」ダニエルに主が優しく触れられると(10、16、18節)、彼は意識を回復し、主は彼に「大いに愛せられる人ダニエルよ」と優しく呼びかけられました(11、19節)。今も主は私たち一人一人をこよなく愛し、同様に呼びかけていて下さいます。そして、「恐れるには及ばない。安心しなさい。心を強くし、勇気を出しなさい」(12、19節)と言われました。全宇宙の支配者である主が私たちにも同様に語りかけていて下さるとは、何と心丈夫なことでしょう(マタイ14:27)。「あなたが悟ろうと心をこめ、あなたの神の前に身を悩ましたその初めの日から、あなたの言葉は、すでに聞かれた」、ダニエルの祈りはすべて聞かれていることを告げられました。私たちが御前にささげる祈りは、一つとして空しく地に落ちることなく、最善の時と最善の方法をもって答えられるのです。天では主が祈っておられ、地では私たちが祈ります。そうして私たちも霊の戦いに参戦するのです(エペソ6:12、Ⅱコリント10:4)。救いの完成の時までなお戦いは続きますが、共に祈り、共に戦うことができるよう、主は私たちにも優しく触れて立ち上がらせ、力づけ、励まして下さるのです。

ダニエル書9:1~27「主よ、赦し給え」

1月31日、ダニエル書9:1~27「主よ、赦し給え」
前章で幻を見たダニエルは、「幻にあらわれたことは、いつまでだろうか」(8:13)と苦悩しました。御使ガブリエルによる解き明かし後も、「疲れはてて、数日の間病みわずらった…幻の事を思って驚いた…悟ることができなかった」(8:27)ダニエルは、「主が預言者エレミヤに臨んで告げられたその言葉…文書」、すなわちエレミヤ書の写本を苦悩の中で読んだのです。苦悩や試練の中にあるときこそ御言葉を慕い求めましょう。やがて必ず信仰によって立ち上がらせて下さいます。
ダニエルが開いたエレミヤ書には、「エルサレムの荒廃の終るまでに経ねばならぬ年の数は七十年であること」が記されていました(25:11~14、29:10~14)。バビロン捕囚もやがて終わることを悟ったダニエルはまず、イスラエルは律法や預言者たちに聞き従わず、罪を犯してきたことを告白しました(4~14節)。しかも、「彼らは」ではなく「われわれは」と言い、まるで自分が罪を犯したかのようにです。次に、ひとえに民の不従順のゆえにさばかれるのであって、主の側には何の落ち度もないことを認めました。その上で、御名の栄光のためにも、最後の砦である主の「大いなるあわれみ」が注がれるよう求めました(15~19節)。すると再びガブリエルが現れ、やがてメシヤによって「とがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたら」す救いが完成されるという70週の幻を告げられました(20~27節)。
私たちも自分の罪深さに泣き、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と砕かれて祈るとき(ルカ18:9~14)、主は罪から救い、さらには罪の性質までも潔めて、内なる宮を再建して下さるのです。

ダニエル書8:1~27「世の終わりの幻」

1月24日、ダニエル書8:1~27「世の終わりの幻」
「雄羊」にある「一つの角(ペルシャ)」が「他の角(メデア)」を倒します(1~4、20節)。次に「一匹の雄やぎ(ギリシャ)」にある「著しい一つの角(アレクサンドロス大王)」がペルシャを倒しますが、絶頂期に「あの大きな角」は折れ、「四つの著しい角(ギリシャの四将軍)」に分割統治されます(5~8、21~22節)。「その一つから、一つの小さい角(セレウコス朝)が出て…麗しい地(イスラエル)」に侵攻して神殿を荒らしますが(9~14、23~25節)、やがて回復されます(13~14節)。以上の幻はすでに実現しましたが、ただ単に過去のことではなく、「その心のままにふるまい、みずから高ぶ」(4節)る者の間で今も繰り広げられている現実でもあります。しかし、「ついに…人手によらずに」神によって「滅ぼされ」、争いに終止符が打たれる世の終わり、救いの完成の時が来ます(マタイ26:52、ヤコブ4:6)。
幻の解き明かしをした御使ガブリエルは(15~16節)、後にザカリヤと母マリヤにも現れました(ルカ1:8~38)。ザカリヤにバプテスマのヨハネが誕生した後、「わたしたちのために救の角(御子イエス)を僕ダビデの家にお立てになった」と「ザカリヤは…預言して言」いました(67~69節)。イエスは、力を誇示して上へ上へと上る角ではなく、「わたしたちを敵から…憎む者の手から、救い出すため」(71節)、天の栄光を捨てて世に降り、十字架上で死ぬという、下へ下へと下る角でした。「救の角」イエスの十字架と復活によって、さらに再臨によって完全な勝利、救いがもたらされます。幻の後、「ダニエルは…王の事務を執った」ように(27節)、いつものように「つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ」(Ⅰテサロニケ4:11~12)、再臨を待ち望みましょう。

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