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マルコによる福音書4:1~12「神の国の奥義」

2019年10月6日、マルコによる福音書4:1~12「神の国の奥義」
①神の国とは何か
「神の国」とは、神の恵みによる支配ということです(「御国」「天国」も同意)。「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(ルカ17:20~21)、「神の国が力をもって来る(=十字架)」(マルコ9:1)とイエスが言われたように、神の国はイエス来臨により、さらに十字架と復活により、すでにこの地上に実現しています。またイエスを信じる者の心の「ただ中に」、信仰者の集まりである教会の「ただ中に」も実現していますが、いまだ不完全で、完成はキリスト再臨後のことです(黙示録 第20~21章)。
②神の国を譬え話で語るのは
「神の国の奥義」を教える際、イエスはしばしば譬え話を用いられました。その第一の理由は、真理をわかりやすくするためです。「多くの預言者や義人は…見ようと熱心に願ったが、見ることができず…聞こうとしたが、聞けなかった」(マタイ13:17)神の国の奥義を、イエスは譬え話という形式で私たちにわかりやすく一般公開してくださったのです。第二の理由は、逆に真理を隠すためです。いくらイエスの説教や奇跡によって神の国を提示されても、律法学者やパリサイ人のように「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず」という頑なな姿勢を変えようとしなければ、ますます神の国から遠くなり、「悔い改めてゆるされることがない」という結果を招くことになります。結局どのように御言葉を聞いているか、その姿勢が問われているのです。あなたの御言葉受信機のダイヤルは正常でしょうか。都合の悪い御言葉は受信しない等ということはないでしょうか。

マルコによる福音書4:1~12「神の国の奥義」

2019年10月6日、マルコによる福音書4:1~12「神の国の奥義」
①神の国とは何か
「神の国」とは、神の恵みによる支配ということです(「御国」「天国」も同意)。「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(ルカ17:20~21)、「神の国が力をもって来る(=十字架)」(マルコ9:1)とイエスが言われたように、神の国はイエス来臨により、さらに十字架と復活により、すでにこの地上に実現しています。またイエスを信じる者の心の「ただ中に」、信仰者の集まりである教会の「ただ中に」も実現していますが、いまだ不完全で、完成はキリスト再臨後のことです(黙示録 第20~21章)。
②神の国を譬え話で語るのは
「神の国の奥義」を教える際、イエスはしばしば譬え話を用いられました。その第一の理由は、真理をわかりやすくするためです。「多くの預言者や義人は…見ようと熱心に願ったが、見ることができず…聞こうとしたが、聞けなかった」(マタイ13:17)神の国の奥義を、イエスは譬え話という形式で私たちにわかりやすく一般公開してくださったのです。第二の理由は、逆に真理を隠すためです。いくらイエスの説教や奇跡によって神の国を提示されても、律法学者やパリサイ人のように「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず」という頑なな姿勢を変えようとしなければ、ますます神の国から遠くなり、「悔い改めてゆるされることがない」という結果を招くことになります。結局どのように御言葉を聞いているか、その姿勢が問われているのです。あなたの御言葉受信機のダイヤルは正常でしょうか。都合の悪い御言葉は受信しない等ということはないでしょうか。

マルコによる福音書3:31~35「血は水よりも濃し、霊は血よりも濃し」

2019年9月29日、マルコによる福音書3:31~35「血は水よりも濃し、霊は血よりも濃し」
イエスの噂を聞きつけて母と兄弟たちが訪ねて来ると、イエスは「弟子たちの方に手をさし伸べて」(マタイ12:49)、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」と言われました。イエスを信じて「神のみこころを行う者はだれでも」神の家族だ、ということです。
そう言われたイエスご自身、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタイ6:10)と祈るよう教えられました。ゲツセマネの園では「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(14:36)と神と格闘の末、御心に従って十字架上で死なれました。
「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(Ⅰテモテ2:4)。イエスを信じて救われることこそ、神が何よりも「望んでおられる」ことで、「わたしの兄弟、また姉妹」という神の家族とされる出発点です。それは、悔い改めと信仰によって「だれでも」得られる恵みです。その上で神を愛し人を愛して生きていくのですが(12:30~31)、たとえば私たちが「清くなること」は「神のみこころ」です(Ⅰテサロニケ4:3)。「今日もイエスが一緒に行ってくださらないような所に行くことがありませんように。イエスに覗かれて困るようなことを心に描きませんように」(ベイリー)。「いつも喜んで…絶えず祈り…すべての事について、感謝」するのは、「神があなたがたに求めておられること」です(Ⅰテサロニケ5:16~18)。あなたの今の歩みは、十字架の血によって神の家族とされた者にふさわしい歩みでしょうか。

マルコによる福音書3:31~35「血は水よりも濃し、霊は血よりも濃し」

2019年9月29日、マルコによる福音書3:31~35「血は水よりも濃し、霊は血よりも濃し」
イエスの噂を聞きつけて母と兄弟たちが訪ねて来ると、イエスは「弟子たちの方に手をさし伸べて」(マタイ12:49)、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」と言われました。イエスを信じて「神のみこころを行う者はだれでも」神の家族だ、ということです。
そう言われたイエスご自身、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタイ6:10)と祈るよう教えられました。ゲツセマネの園では「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(14:36)と神と格闘の末、御心に従って十字架上で死なれました。
「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(Ⅰテモテ2:4)。イエスを信じて救われることこそ、神が何よりも「望んでおられる」ことで、「わたしの兄弟、また姉妹」という神の家族とされる出発点です。それは、悔い改めと信仰によって「だれでも」得られる恵みです。その上で神を愛し人を愛して生きていくのですが(12:30~31)、たとえば私たちが「清くなること」は「神のみこころ」です(Ⅰテサロニケ4:3)。「今日もイエスが一緒に行ってくださらないような所に行くことがありませんように。イエスに覗かれて困るようなことを心に描きませんように」(ベイリー)。「いつも喜んで…絶えず祈り…すべての事について、感謝」するのは、「神があなたがたに求めておられること」です(Ⅰテサロニケ5:16~18)。あなたの今の歩みは、十字架の血によって神の家族とされた者にふさわしい歩みでしょうか。

ヘブル人への手紙11:13~16「天の故郷に憧れて」

2019年9月22日、ヘブル人への手紙11:13~16「天の故郷に憧れて」
信仰によって生き、「信仰をいだいて死んだ」、これが旧約の聖徒たちの生涯の共通点でした。判で押したように「…年生きて…そして死んだ」と記される中、エノクだけは「神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」と特筆されています(創世記5:24)。彼は後世に残るような大事業はしませんでしたが、神と共に歩むという大事業を完成し、神によって永遠に評価される信仰者となりました(5節)。「アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時」、「信仰によって…それに従い、行く先を知らないで出て行った」(8節)ものの、山あり谷あり、妻の亡骸を葬る墓地以外に所有地はなく、「旅人であり寄留者」のような生涯でした。それでも不平不満を漏らさず神に従い続けることができたのは、「もっと良い、天にあるふるさと」、「ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいた」(10節)からです。やがて憧れの天の故郷に迎え入れられ永住するというゴールをしっかり見つめていたからです。そんな「アブラハムは幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ」(創世記25:8、新改訳2017)、悔いのない充実した信仰生涯を全うした人でした。
「飛行機は飛び立つときより着地が難しい。人生も同じだよ」(本田宗一郎氏)。さっそうと離陸して快調に飛行しても、着陸に失敗すれば一巻の終わりです。あなたはどのような人生の着地をしようとしていますか。エノクやアブラハムのように天の故郷をしっかりと見据えながら、「幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶えて死んだ」という神と共なる信仰生涯こそ目指すべき着地ではないでしょうか。

マルコによる福音書3:19b~30「赦される罪、赦されない罪」

2019年9月15日、マルコによる福音書3:19b~30「赦される罪、赦されない罪」
イエスは「ベルゼブルにとりつかれている…悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と律法学者たちが非難すると、イエスは譬えによってその論理の誤りを指摘された上で、人が「犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる」が、「聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」と言われました。悔い改めと信仰によって赦されない罪などこの地上に一つもありません。誰でもいつでもやり直し可能、それがイエスの福音です。イエスが説教や奇跡によって神の愛や力を現しておられるのに、律法学者たちのように受け入れようとしない人こそ「聖霊をけがす者」で、「いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」のです。罪の大小・多少ではなく、悔い改めと信仰の有無が問われているのです。一度限りの行為というよりも、継続した心の姿勢が問われているのです。
神がその人の人生から手を引いて「なすに任せられ」ることほど恐ろしいさばきはありません(ローマ1:24~32)。その恐ろしさを知らないから平気で罪を犯せるのです。罪から離れ、神の愛の中に飛び込むべきだと示されていながら、「また、よい機会を得たら」(使徒行伝24:25)と言い訳して、悔い改めと信仰の決断を先延ばしにしていると、永遠に後悔することになりかねません。それゆえ聖書は、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4:7)、「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」(イザヤ書55:6)と語りかけているのです。御言葉と御霊の光に即刻忠実に従って歩み続けましょう。

マルコによる福音書3:19b~30「赦される罪、赦されない罪」

2019年9月15日、マルコによる福音書3:19b~30「赦される罪、赦されない罪」
イエスは「ベルゼブルにとりつかれている…悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と律法学者たちが非難すると、イエスは譬えによってその論理の誤りを指摘された上で、人が「犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる」が、「聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」と言われました。悔い改めと信仰によって赦されない罪などこの地上に一つもありません。誰でもいつでもやり直し可能、それがイエスの福音です。イエスが説教や奇跡によって神の愛や力を現しておられるのに、律法学者たちのように受け入れようとしない人こそ「聖霊をけがす者」で、「いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」のです。罪の大小・多少ではなく、悔い改めと信仰の有無が問われているのです。一度限りの行為というよりも、継続した心の姿勢が問われているのです。
神がその人の人生から手を引いて「なすに任せられ」ることほど恐ろしいさばきはありません(ローマ1:24~32)。その恐ろしさを知らないから平気で罪を犯せるのです。罪から離れ、神の愛の中に飛び込むべきだと示されていながら、「また、よい機会を得たら」(使徒行伝24:25)と言い訳して、悔い改めと信仰の決断を先延ばしにしていると、永遠に後悔することになりかねません。それゆえ聖書は、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4:7)、「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」(イザヤ書55:6)と語りかけているのです。御言葉と御霊の光に即刻忠実に従って歩み続けましょう。

マルコによる福音書3:13~19a「そばに置いて遣わすため」

2019年9月8日、マルコによる福音書3:13~19a「そばに置いて遣わすため」
イエスは「夜を徹して神に祈られ」(ルカ6:12)、「みこころにかなった者たち(新共同訳「これと思う人々」)」12名を使徒として選ばれました。その目的は「彼らを自分のそばに置くためであり」、「つかわす」ためです。この二つの目的は、私たちが選ばれ救われた目的でもあります。
第一は「自分のそばに置くため」。イエスは寝食を共にして生き方を見せることで、彼らをご自分に倣う者へと造り変えようとされたのです。イエスのそばで御言葉に養われ(ルカ10:39)、イエスの教育・訓練・感化を受け続けるなら、次第にイエスに似てくることでしょう。
第二は「つかわす」ため。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝え」(16:15)る「宣教」のため、「悪霊を追い出す権威を持たせるため」に「つかわす」のです。私たちが先に救われたのは、「救わんがための救い」(ブース大将)、私たちを通して誰かが救われるためです。普段はおしゃべりなのに、「この人による以外に救はない」(使徒行伝4:12)ほどすばらしい福音の宣教となると、どうして途端に無口になってしまうのでしょうか。「今の時を生かして」(エペソ5:16)、「時が良くても悪くても」(Ⅱテモテ4:2)、イエスを証ししたいものです。
12使徒の名簿は、イエスを否認した「ペテロ」に始まり、イエスを裏切った「ユダ」で終わっています。最初から出来上がった人が選ばれたのではないということです。しかしやがてペテロは教会の柱に造り変えられ、「雷の子」ヨハネは愛の人に造り変えられました。ユダを除く使徒の生涯は、イエスのそばで学び、取り扱われ、造り変えられる恵みがいかにすばらしいものであるかを証明しています。

マルコによる福音書3:13~19a「そばに置いて遣わすため」

2019年9月8日、マルコによる福音書3:13~19a「そばに置いて遣わすため」
イエスは「夜を徹して神に祈られ」(ルカ6:12)、「みこころにかなった者たち(新共同訳「これと思う人々」)」12名を使徒として選ばれました。その目的は「彼らを自分のそばに置くためであり」、「つかわす」ためです。この二つの目的は、私たちが選ばれ救われた目的でもあります。
第一は「自分のそばに置くため」。イエスは寝食を共にして生き方を見せることで、彼らをご自分に倣う者へと造り変えようとされたのです。イエスのそばで御言葉に養われ(ルカ10:39)、イエスの教育・訓練・感化を受け続けるなら、次第にイエスに似てくることでしょう。
第二は「つかわす」ため。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝え」(16:15)る「宣教」のため、「悪霊を追い出す権威を持たせるため」に「つかわす」のです。私たちが先に救われたのは、「救わんがための救い」(ブース大将)、私たちを通して誰かが救われるためです。普段はおしゃべりなのに、「この人による以外に救はない」(使徒行伝4:12)ほどすばらしい福音の宣教となると、どうして途端に無口になってしまうのでしょうか。「今の時を生かして」(エペソ5:16)、「時が良くても悪くても」(Ⅱテモテ4:2)、イエスを証ししたいものです。
12使徒の名簿は、イエスを否認した「ペテロ」に始まり、イエスを裏切った「ユダ」で終わっています。最初から出来上がった人が選ばれたのではないということです。しかしやがてペテロは教会の柱に造り変えられ、「雷の子」ヨハネは愛の人に造り変えられました。ユダを除く使徒の生涯は、イエスのそばで学び、取り扱われ、造り変えられる恵みがいかにすばらしいものであるかを証明しています。

マルコによる福音書3:7~12「あなたこそ神の子です」

2019年8月18日、マルコによる福音書3:7~12「あなたこそ神の子です」
イエスが安息日に片手のなえた人を癒されたことで、パリサイ派とヘロデ党が「イエスを殺そうと相談しはじめた」一方(1~6節)、各地から「イエスにさわろうとして、押し寄せてきた」人々もいました。真実に救いを求める人もいたでしょうが、多くはご利益目当ての人でした。イエスを正しく認識していたのは、皮肉にも「けがれた霊ども」で、「あなたこそ神の子です」と認めていました(ヤコブ書2:19)。
あなたも、群衆のようにただイエスの周りを取り囲むだけで、本気で信じようとも従おうともしない人でしょうか。悪魔のようにただイエスについて頭でよく知っているだけの人でしょうか。どんなにイエスについてよく知っていても、どんなにイエスの周りをうろうろしていても、悔い改めと信仰によってイエスにつながることがなければ、いつまでたっても何の変化もあり得ません。「十二年間も長血をわずらっている女が…せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思って」、「群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった」ところ、たちどころに癒されました(5:25~34)。彼女のように明確な願いをもってイエスに近づいて触れることが大切です。そのときイエスも私たちに対して全能の御腕を伸ばして、最善の時に最善の方法でその祈りに答えてくださることでしょう。
「あなたこそ神の子です」と本物の信仰告白をして、イエスと共に歩む信仰生涯に入る決断をすべきではないでしょうか。いつまでも同じところに留まっていないで、「どうせ自分は駄目だ」と諦めていないで、明確な願いをもって一歩踏み出すべきではないでしょうか。

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