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ヨハネの第一の手紙1:8~10「罪を告白するならば」

2016年5月22日、ヨハネの第一の手紙1:8~10「罪を告白するならば」
①罪がないと言うなら(8、10節)
「神と交わりをしていると言いながら…やみの中を歩いているなら…偽っているのであって、真理を行っているのではない」と指摘されると、自分たちには「罪がない…罪を犯したことがない」と彼らは反論したのでしょう。しかし神の診断は「義人はいない、ひとりもいない…すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」(ローマ3:10、23)です。「罪がない…罪を犯したことがない」と主張するのは、「自分を欺くこと…神を偽り者とする」ことで、これ以上の神冒瀆はなく、彼らの内に「真理…神の言は…ない」のは当然です。
②罪を告白するなら(9節)
「自分の罪を告白する(同じことを言う、の意)」とは、罪をただ漠然と総括的に認めるのではなく、神に示された罪を具体的に一つ一つ同意し、認め、告白することです。イエスの十字架は私の罪のためと信じるなら、「神は真実で正しいかたであるから、その罪(複数形⇒具体的な罪の数々)をゆるし」て下さいます。「悔い改めと…信仰」(使徒行伝20:21)によって赦されない罪など一つもないばかりか、醜い自分の姿に心底泣いて十字架を仰ぐなら、十字架は犯した罪を赦すだけでなく、罪の性質をも潔める十字架であることを見出します。旧約時代、動物のいけにえに手を置いて一体となったように、私たちも十字架に寄りかかるなら、すなわち信仰と服従をもって十字架による潔めを信じるなら、「すべての不義(単数形⇒罪の性質)からわたしたちをきよめて下さ」います。罪を隠していると、罪に留まり続けることになりますが、正直に罪を告白すると、十字架の主に出会うことになるのです。