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ヨハネによる福音書19:28~30「わたしは、かわく」

3月16日、ヨハネによる福音書19:28~30「わたしは、かわく」
①肉体的な渇き
神の御子でありながら人間の姿をとって降誕されたイエスは、私たちと同様に弱さを覚え(4:6~7)、十字架上でも「わたしは、かわく」と喉の渇きを訴えられました。「民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようになら」れたイエスは、「罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われ」ました(ヘブル2:17、4:15、讃美歌532番2節「主の受けぬ試みも 主の知らぬ悲しみも うつし世にあらじかし いずこにも御跡見ゆ」)。人生のあらゆる試錬を体験され、十字架の苦悩をも忍ばれたイエスは、「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」のです(ヘブル4:15)。
②霊的な渇き
イエスは人となられたものの神の御子ですから、私たちと違って「罪は犯され」ませんでした(ヘブル4:15)。罪の全くないイエスが極悪犯罪人を処刑する十字架につけられ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです(マルコ15:34)。父なる神と親しい交わりの中にあるときには「父よ」と呼んでおられたイエスですが、全人類の罪を背負って十字架につけられ、神に完全に捨てられた今、「わが神、わが神」と叫ぶ他ありませんでした。その後語られたのが、「わたしは、かわく」です。それゆえこれは、神との交わりが断絶されたことから生じる霊的な渇きであり、全人類が罪と滅びから救われるようにとの霊的な渇きでもあったことでしょう。