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ヨハネによる福音書9:1~12「神のみわざが現れるため」

10月2日、ヨハネによる福音書9:1~12「神のみわざが現れるため」
道端に座る「生れつきの盲人」を前に、弟子たちはイエスに「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と尋ねました。病気や災難は罪の罰であるというのが当時のユダヤ人の伝統的な考え方でしたが、イエスの答えは「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」という画期的なものでした。弟子たちは盲目の理由を詮索していましたが、イエスは盲人にこれからなされる神のみわざに注目しておられたのです。
イエスは盲人の信仰を導き出すため「地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って」、「シロアムの池に行って洗いなさい」とお命じになり、盲人がそのとおり行うと、「見えるようになって、帰って行」きました。天地創造の際、神が「光あれ」とお命じになると光ができたように(創世記1:3)、神の御言葉には力があるので、御言葉を信じ、それに従っていくとき、御言葉は私たちの内に働いて、人知では計り知れない神のみわざが始まるのです。
「シロアム」とは「つかわされた者、の意」と注釈するのは、「つかわされた者」とはイエスご自身のことであり(13:16)、盲人は神から遣わされたイエスによって癒されたことを強調するためです。さらに私たち人間は皆、生まれつきの罪人で、霊的に盲目であること、しかし神から遣わされたイエスの十字架の血潮によって一切の罪が洗いきよめられ、霊の目が開かれることをも示しています。神は苦難を用いて栄光を現し、希望に満ち溢れる未来を切り開いて下さるお方、最善以下のことはなさらない愛なる神であることを信じましょう。