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ヨハネによる福音書1:19~28「荒野で呼ばわる者の声」

9月12日、ヨハネによる福音書1:19~28「荒野で呼ばわる者の声」
ユダヤ教指導者たちはバプテスマのヨハネのもとに人を遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせました。「民衆は救主を待ち望んでいたので、みな心の中でヨハネのことを、もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていた」(ルカ3:15)ことを知っていたヨハネは、「キリストではない」と明確に否定しました。次の問いは「あなたはエリヤですか」。救い主来臨前には預言者エリヤが先駆者として遣わされると人々は理解していました(マラキ4:5、マタイ27:46~47)。それに対してヨハネは「いや、そうではない」と否定しました(もっともイエスはヨハネを霊的な意味でエリヤとみなされました。マルコ9:11~13)。さらに彼らが「あの預言者(申命記18:15、ヨハネ7:40、使徒3:22、7:37)ですか」と尋ねると、ヨハネは「いいえ」と否定した上で、「『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」(イザヤ40:3)と証言しました。「声」は「言葉」を運ぶ器に過ぎません。荒野のように荒廃した人々を、救い主のもとに導く道備えをしているに過ぎない、との自己証言です。
それなら「なぜバプテスマを授けるのですか」という非難に対して、救い主がすでに来て「あなたがたの中に立っておられ」、自分が授けるバプテスマは救い主による赦しの予備的なものに過ぎないこと、「わたしはその人のくつのひもを解く(奴隷の仕事)値うちもない」ことを謙虚に認めました(3:29~30)。パウロの切願も「わたしの身によってキリストがあがめられる(拡大される、の意)こと」(ピリピ1:20)でした。苦難の中にも、失意のどん底にも、キリストは「立っておられ」ますが、多くの人々はこのキリストを知らず、異端もはびこっています。今こそ「主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声」が必要です。