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ローマ人への手紙7:7~13「律法の限界」

4月27日、ローマ人への手紙7:7~13「律法の限界」
前段落で律法から解放されることを記したパウロは、次に当然出てくるであろう「律法は罪なのか」という疑問に対して、「断じてそうではない」と強く否定した上で、自分自身の体験について述べます。救われる前のパウロはパリサイ人で、律法を厳格に守ることによって神に義と認められようとしていましたが、第十戒の「むさぼるな」(出エジプト20:17)に真実に向き合ったとき、罪人であることがわかりました(7節)。私たち人間は、「~してはならない」と禁じられると、逆にしてみたくなるもので、アダムとエバがまさにそうでした(創世記2:15~3:7)。このように罪は律法によって私たちの内に「機会(軍事拠点、の意)を捕え」、罪の性質に攻撃を仕掛けて反応させ、罪を犯させるのです(8節)。「律法がなかったら、罪は死んでいる」のに、律法があるばかりに罪の性質が刺激され、むくむくと起き出してくるのです。「律法なしに生きていた」ときは、良心の痛みもさばきの恐れもまるでありませんが、「戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ」、以前から罪により死んでいたことを律法は悟らせます(9~10節)。
律法は本来「いのちに導くべき…聖なるもの…正しく、かつ善なるもの」です(10、12節)。「善なるものが、わたしにとって死となったのか」という疑問に対して、再び「断じてそうではない」と強く否定します(13節)。悪いのは律法ではなく罪です。その罪を律法は暴露しても、救うことはできません。「キリストに導く養育掛」に過ぎません(ガラテヤ3:24)。ここに律法の限界があり、だからこそ福音が必要なのです。