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マタイによる福音書25:31~46「御国を受け継ぐ信仰」

12月17日、マタイによる福音書25:31~46「御国を受け継ぐ信仰」
世の終わりに私たちは皆、生前の言葉や行い、思いの一切についてさばきを受けます。今は、イエスの真の弟子(羊)とそうでない者(やぎ)とが混在していますが、最後の審判の時には明確に分けられ、本物には祝福が、偽物には滅びが宣告されます(31~34、41節)。隣人に対してどのような態度を取ったかがその分かれ道です(35~36、42~43節)。
両者とも「主よ、いつ」と言っているように、いつ隣人に親切にしたか否か、まるで記憶していません。無意識の内に出てくる言動こそ、その人の本質を如実に表すものであり、イエスはその本質を問われるのです。真実の愛を損得勘定抜きにごく自然に行うのは、生まれながらの人間には到底不可能なことですが、真の神に背を向けてきた罪を悔い改め、イエスの十字架を信じるならば、罪赦されて神の愛が注がれ、真実な愛の実践者とされていくのです(ローマ5:5)。
愛のわざは、天国に入るための条件では決してありません。救いの条件は、悔い改めと信仰のみです。しかし、本物の信仰には必ず愛のわざが伴うものです。行いの伴わない信仰など天国に入れない偽物だ、とヤコブは厳しく指摘します(ヤコブ2:14~26)。要するに愛のわざは、その人の救いが確かであることの目に見える証拠なのです。無関心、傍観者であることも立派な罪です(ヤコブ4:17)。最後の審判で問われるのは、結局その人の信仰なのです。真実の愛がごく自然ににじみ出る、救いの確かな本物の信仰か、それとも口先だけの偽物の信仰かによって永遠が決まるのです。あなたはどちらでしょうか。