記事一覧

マルコの福音書8:34~38節「たとえ全世界を手に入れても」

2021年8月29日、マルコの福音書8:34~38節「たとえ全世界を手に入れても」
35節以下は、「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われた理由です。「いのち」は私たちの存在の根源です。「自分のいのちを救おうと思う者」、神を抜きにして成功や繁栄を追い求める者は、逆に「いのち」を失い、神もその人を「恥じます」。「たとえ全世界を手に入れ」るほど成功しても、「自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか」、取り返しのつかない大損失です。
「私は全世界を手に入れたいとは思わない」と言うかもしれませんが、「全世界」を「自分の理想や宝」に置き換えることもできるでしょう。それらを手に入れたとしても、失ってしまっては元も子もない、もっと大切なもの、「全世界」に匹敵する、否それ以上に価値あるもの、それが「いのち」、あなた自身なのです。その「いのち」を救うか失うかは、結局イエスとの関係にかかっているのです。イエスを信じて従う弟子となる決断をすることは人生の大事業です。昔、「どっちが得か、よーく考えてみよう」と言うCMがありました。イエスの弟子として生きるか、イエスを拒絶して生きるか、二つに一つであって、中間などあり得ません。イエスはその選択を迫られたのです。
神に敵対する「姦淫と罪の時代にあって」、イエスに従って生きようとする私たちに対して、世は恐るべき力と巧妙さをもって妥協を迫ってきます。その際、「イエスならどうされるだろうか(WWJD?…What would Jesus do?の略)」を行動の判断基準としましょう。イエスの弟子として生きる道は、ときに犠牲を強いられることがあっても、間違いなく祝福の道です。パウロや世々のキリスト者たちが証人です。