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エズラ記10:1~44「今なお望みがある」

2018年10月21日、エズラ記10:1~44「今なお望みがある」
民の罪を嘆き悲しむエズラの祈りは、やがて民全体に波及していきました。シカニヤは「われわれは神にむかって罪を犯し」と正直に認めた上で、異邦の「妻ならびにその子供たちを、ことごとく追い出す」なら、「今なお望みがあります」と主張しました。新約時代の今は、宗教が違うなら即離婚すべきだと解釈すべきではありません。ここで学び取るべき霊的真理は、罪を犯しても大失敗をしても、神の前に真実に悔い改めるなら「今なお望みがあります」ということです。
せっかくの「望み」をふいにしたのがサウル王でした(サムエル記上 第15章)。不従順の罪を指摘されても、責任転嫁したり言い訳したり面目を重んじたりで、悔い改めなかったために神に捨てられました。「神と人の前に真実に生きること」(鈴木一郎師)が何よりも大切です。
ペテロも大失敗しました。「みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26:33)と大言壮語した舌の根も乾かぬうちにイエスを三度否認すると、「主は振りむいてペテロを見つめられた…ペテロは…外へ出て、激しく泣いた」(ルカ22:61~62)。大失敗をも包み込んで赦す愛のまなざしに触れて号泣したペテロは、自分の弱さを正直に認めて悔い改めたので、回復されました(ヨハネ21:16)。四福音書すべてにペテロの大失敗が包み隠さず記されているのは、イエスを信じる人生はいつでもやり直し可能であるということを強調したいからです。「神の前でまことの悔い改めがなされるなら、神はそれを決して拒まれません。放蕩息子を迎えて抱きしめてくださる神は、いつでもやり直しの機会を備えてくださいます。どのような中にあっても、私たちにはなお希望があります」(リジョイス)。