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エズラ記9:3~15「天に達する罪であっても」

2018年10月14日、エズラ記9:3~15「天に達する罪であっても」
指導者も民も律法に反して異民族と結婚していることを知ったエズラは、民の罪を自分の罪と捉えて心を痛め、断食して祈りました。先祖の時代から今日まで、律法破りの罪は「頭よりも高く」積もり、今や「天に達し」ています。エズラにできることは、「正しくいらせられ」る神の前に心底嘆き悲しみ、あわれみにすがることだけでした。
これこそ神のあわれみや赦しを願い求める際に必要不可欠な態度です。パリサイ人と取税人の譬え(ルカ18:9~14)の中で、パリサイ人は祈りの中で他人を見下し、自分の義しさを誇りました。取税人は自分の罪を心底悲しみ、砕けきった心で「神様、罪人のわたしをおゆるしください(=新改訳「こんな罪人の私をあわれんでください」)」と祈りました。神に受け入れられたのは、丸裸になって神の前に出た取税人でした。
エズラ同様、パウロも「大きな悲しみ…絶えざる痛み」に襲われました。同胞ユダヤ人がイエスを信じようとしないからです(ローマ9:1~3)。かつてのパウロもそうでしたが、ダマスコ途上で復活のイエスと出会い、迫害者から伝道者へと造り変えられました(使徒行伝 第9章)。そのようなパウロだからこそ、自分だけ救われて喜ぶことなどとてもできませんでした。「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(8:39)と言ったパウロが、「同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」と叫び、滅びの破れ口に仁王立ちになって同胞のために祈るのです。このようにとりなし祈る人が求められています(イザヤ書59:16)。「同胞に対するあわれみに欠けているなら、私たちの正統信仰は堅苦しいだけで終わってしまいます」(F.A.シェーファー)。